隅田川水上バスと浅草寺
2013年07月05日(金) NHKスタジオパーク、東京タワーの観光の後、水上バスで隅田川をめぐり、浅草寺に行く。
前のブログ記事「NHKスタジオパークと東京タワー」のつづき。
14:30日の出桟橋に行くと、東京湾をクルーズする「シンフォニー クラシカ」(写真下)と、御座船「安宅丸(あたけまる)」が停泊していた。
「はとバス」グループのシーライン東京は、1988年に設立された会社で、「シンフォニークラシカ」と「シンフォニーモデルナ」の2隻のレストラン船を所有、東京湾内の遊覧を運航している。
安宅丸(あたけまる)は、1632年(寛永9年)に徳川家光が将軍として威光を示すため新造した軍船形式の御座船の船名。1885年(明治18年)創業の東京都観光汽船が、御座船「安宅丸」の外観を再現し、観光船として東京湾を運航している。
●水上バスで隅田川めぐり(15:00~15:40)
東京都観光汽船が10隻近く所有する水上バスの一つで、隅田川を行き来する「竜馬」に14:55乗船する。
日の出桟橋から浅草まで、760円。隅田川に勝鬨橋、永代橋、清洲橋、吾妻橋など、様々な色や形の12の橋が架かる。川沿いの名所を紹介する船内アナウンスに耳を傾け、隅田川めぐりを楽しむ約40分の船の旅。
レインボウブリッジを背にして、日の出桟橋を15:00出港、隅田川をさかのぼる。
最初の橋の「勝鬨(かちどき)橋」は、晴海通りを通す橋。1905年(明治38年)、日露戦争における旅順陥落祝勝記念に、築地と月島を結ぶ渡し舟「勝鬨の渡し」が設置された。橋は、1940年(昭和15年)竣工、「東洋一の可動式の橋」だったが、交通量の変化で1970年(昭和45年)を最後に開閉が停止された。
「佃(つくだ)大橋」は、佃大橋通りを通す橋。隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた。1964年(昭和39年)に竣工、工事に伴い佃島と月島は地続きになった。川底の地下を地下鉄有楽町線が通る。
「中央大橋」は、八重洲通りを通す橋。1993年(平成5年)に架設された隅田川で一番新しい橋。
「永代橋」は、永代通りを通す橋。地下を地下鉄東西線が走る。現在の江東区佐賀町のあたりを、昔「永代島」と呼ばれていたことからその名がついたといわれ、 1698年(元禄11年)に将軍徳川綱吉の50歳を祝し、現在の位置よりも100m程上流(「深川の渡し」があった所)に架けられた。赤穂浪士が討ち入りの後、上野介の首をかかげて泉岳寺へ向う途中、この橋を渡ったことでも有名。
1897年(明治30年)に鉄橋として現在の場所に架けられ、関東大震災で破壊した後、1926年(大正15年)に現在の橋に架設された。
「隅田川大橋」は、高速道路の為に出来た橋で、首都高9号深川線が高架(水色)になっていて、下(緑色)が一般道路で葛西橋通り、水天宮通りを通す。
「清洲橋」は、清洲橋通りを通す橋。この橋は、両岸の清澄と日本橋中洲の地名から一字ずつ取って名付けられた。震災復興事業の一環として永代橋とともに計画、1928年(昭和3年)に竣工。2007年、勝鬨橋と永代橋と共に、国の重要文化財に指定された。
「新大橋」は、新大橋通りを通す橋。1694年(元禄6年)に架設され、当時この上流の「両国橋」を「大橋」と呼んでいたので、新しい大橋という名が付けられた。付近の川底を都営地下鉄新宿線が通る。1977年(昭和52年)に現在の橋に架け替えられた。
首都高6号向島線と首都高7号小松川線。高速道路専用の橋梁。
「両国橋」は、工事ネットが張られて、橋梁補修中とある。国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す橋。本来の名は「大橋」であったが、武蔵と下総の国を結ぶ橋という事から「両国橋」と呼ばれた。江戸時代最大の火災である「明暦の大火」(1657年、明暦3年)で多数の犠牲者がでた為、防災上と江戸市街拡張のため、1659年(万治2年)に架設。現在の橋は、震災復興事業として、1929年(昭和7年)に架けられた。両国にある「回向(えこう)院」は明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられた寺院。
JR総武線(御茶ノ水-千葉)の鉄橋。地下トンネルを総武線快速が走る。
「蔵前橋」は、蔵前橋通りを通す橋。西岸は台東区蔵前、川沿いに幕府の米蔵が並んでいた事から名付けられた「蔵前通り」の地名が、橋名となった。東岸は墨田区横網、両国国技館や江戸東京博物館がある。関東大震災の復興計画により 1927年(昭和2年)、現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった。
「厩(うまや)橋」は春日通りを通す橋。米蔵とともに厩(うまや)が並んでいて、馬を対岸へ渡す為、「厩の渡し」があった。1874年(明治7年)に、現在よりも約100mほど下流に架橋、現在の橋は1929年(昭和4年)に架けられた。 川底に都営地下鉄大江戸線が通っている。
「駒形橋」は、浅草通りを通す橋。「駒形堂」から名付けられ、「駒形の渡し」があった。駒形堂は、雷門から250mほど離れた隅田川岸に建っているが、浅草寺の一部である。浅草寺の御本尊(聖観世音菩薩)が隅田川から上陸された(魚網にかかって引き揚げられた)浅草寺ゆかりの場所。橋は、1927年(昭和2年)に竣工。
「吾妻橋」は、最も浅草の中心街に近い橋で、雷門通りを通す橋。「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があったが、1774年(安永3年)に架設。当時武士以外は有料だった。地元では隅田川を「大川」と呼んでいたので、はじめ「大川橋」だった。しかし江戸の東にあるために、町民たちに「東(あずま)橋」と呼ばれて、後に「吾妻」とされたようだ。1931年(昭和6年)に、現在の橋に架け替えられた。
この赤い橋を渡ると、東詰(写真右手)から100mほどで浅草寺の雷門がある。東京都観光汽船の水上バス浅草乗船場が西詰に設けられている。近くには、有名なデザインのアサヒビール本社や桜の隅田公園がある。
吾妻橋の上流には、東武伊勢崎線の鉄橋と、その向こうに水色の「言問(こととい)橋」が見える。言問橋は、「伊勢物語」の在原業平の古歌に因んで名づけられた。
水上バスは、吾妻橋をくぐってUターンし、浅草水上バス乗船場に接岸。
対岸には、琥珀色のビールと白い泡をイメージしたアサヒビール本社ビル、墨田区役所ビル、東京スカイツリーが見える。
隅田川の橋を調べると、昔は「渡し」の渡船場があった位置に架橋され、川底の下を地下鉄が通るケースが多いのがわかる。一部しか見たことはないが、どの橋も夜はライトアップされていて、とてもきれいだそうだ。
●浅草寺(16:00~17:00)
再びバスで「浅草寺」へ移動。東側の「二天門」から入る。
境内には、多数の鉄パイプが立てられていた。ほおずき市の露店のためらしい。
浅草寺では、7月9日、10日の両日が「四万六千日(しまんろくせんにち)」の縁日。つまり126年分のご利益がある日だ。この両日には「ほおずき市」が、この縁日に因んで開かれる。昔ほうずきは、薬草として利用されていた。この日には、露店のほうずきを買い求めるの参拝者で、夜遅くまで賑わう。
浅草寺周辺は自由行動で、めいめい仲見世で買い物など、1時間ほど過ごす。浅草寺はいつ行っても混んでいる。東日本大震災のあと、一時減少した外人観光客も、元に戻ったようだ。
浅草寺の境内に、「浅草神社」があってびっくり。そうか、ここが「三社さま」として親しまれている浅草神社だと、後から気が付いた。
5月に行われる有名な「三社祭」は、この神社の大例祭。江戸時代には、浅草寺と一体となった祭りで、「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれていたそうだ。ここも明治の神仏分離令で神社とお寺が分けられたのだ。
社殿には、神獣が多数描かれていた。鳳凰や麒麟などのほかに、三峯神社で見た翼のある龍「飛龍(ひりゅう)」の彫り物と絵があった。
飛龍は、頭は龍、体が魚で翼をもち、胴が短く尾びれがある動物。水を司る霊獣だそうだ。これを見つけたのが、集合時間の17時少し前だったので、残念ながらゆっくり見れなかった。
17時、浅草寺をあとにし、バスは19時前に最寄り駅に帰着。蒸し暑い梅雨空の日、少し雨があったが、何とか持ちこたえた。1日中歩き回ったので、帰りのバスの中では寝てしまった。
今回の都内観光で、一度は観た所も少なくはなかった。しかし、少なくともブログ記事を書くことを意識して観てみると、新しい発見がいくつもあったのは収穫。
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