宝登山神社
2013年2月28日(木)、埼玉県秩父郡長瀞(ながとろ)町の宝登山(ほどさん)のふもとにある「宝登山神社」に行く。
先の「長瀞・宝登山のロウバイ園」のブログ記事の続き。
宝登山ロウバイ園で花見をした後下山、13:05ふもとの宝登山神社へ。参拝し、極彩色豊かで豪華な彫刻など、40分ほど眺めて回る。
「宝登山神社」は、「秩父神社」、「三峰神社」と並び秩父三社の一つ。宝登山山頂には、宝登山神社の奥宮が鎮座している。
秩父鉄道長瀞駅前には、明治の偉人・渋沢栄一が讃えた「長瀞は、天下の勝地」の石碑がある。宝登山神社の二之鳥居(写真下)の左には、同氏筆の「宝登山は、千古の霊場」の石碑が立っている。残念ながら両方の石碑を見逃した。
●宝登山神社の由緒
社伝によれば、今からおよそ1900年前の西暦110年、第12代景行天皇の皇子・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、勅命によって東北地方を平定した。その帰りに宝登山に登り、山頂にて三神(始祖の神武天皇、山の神、火の神)を祀ったのが、当神社のはじめと伝えられる。また登山の途中、山火事のため進退きわまったとき、多くの巨犬が現れ火を消し止め、尊(ミコト)を助けたという。尊は巨犬に大いに感謝したところ、忽然と姿を消した。このことから「火止(ほど)山」の名が起き、のちに「宝登山」となったという。
この巨犬は大口真神(おおくちまがみ、オオカミのこと)で、火災盗難よけ、諸難よけの守護神としての御神徳が高く、地元はもとより関東一円からの信仰されている。また、宝の山に登るという意味から、商売繁盛、諸願成就などの祈願も盛んだそうだ。
尊が登山に先立ち、みそぎをされた「玉の泉」は、今の社殿の後の方に残っていそうだが、気がつかなかった。
●社殿
現在の社殿は、江戸建築の技巧である「唐波風権現造り(からはふ・ごんげんつくり)」、江戸期末期から明治初期に建てられたそうなので、そんなには古くはない。拝殿正面や欄間には、すばらしい彫刻に鮮やかな色彩が施されている。
宝登山神社は、2011年(平成22年)にご鎮座1900年を迎え、136年ぶりに社殿の大改修を行って2010年(平成21年)12月竣功、彫刻に彩色を施すなど創建当時の姿に復興したという。
拝殿正面、向拝を飾る5頭の竜は、迫力があって見事だ。
拝殿の彫刻は、川原明戸村(現熊谷市大麻生)の彫刻師・飯田岩次郎の代表作。東松山市の箭弓稲荷神社の拝殿の彫刻師は、飯田仙之助だが、岩次郎はその子らしい。また、熊谷市の妻沼聖天山は、上州花輪村(現群馬県みどり市)の彫刻師であった石原吟八郎を中心に制作されたものだが、飯田仙之助はその石原流の門人だったようだ。
拝殿両側の「二十四孝」の一部が彫刻されていて、興味深く見入った。「二十四孝」は、儒教にかかわりの深い中国で昔から伝わる孝行話24話を集めたもので、いつのころか日本に伝わった。儒教の教えでは孝行が重要とされ、仏閣等や人物図などが描かれたり、御伽草子や寺子屋の教材にもされている。
4つの欄間に彫刻があり、8つの話が描かれている。
●拝殿の左側面(西側)の欄間
【剡子(えんし)】 ・・・写真下の右手
剡子には年老いた両親がおり、眼を患っていた。鹿の乳が眼の薬になると、剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入った。そこへ猟師が本物の鹿と間違えて射ようとしたが、孝行の志が篤いので射られずに帰ることができ、親孝行をすることが出来た。
【子路(しろ)】・・・写真下の左手
孔子の弟子の子路は、家が貧しくて遠い所まで米をかついでは賃金をもらって、母親の孝行していた。その孝行の恵み深いものがあって、母が死んでから楚の国の役所に務める事ができ、富みや地位を得た。子路は、今親があって仕える事ができれば、どれだけ喜こんでもらえるかと嘆いたと言う。
【楊香(ようこう)】・・・写真下の右手
ある時、楊香が父と山に行った際に、虎が出て来て2人を食べようとした。「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さい」と懸命に願ったところ、虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。
【孟宗(もうそう)】・・・写真下の左手
孟宗は、年老いた母親を養っていた。病気になった母は、ある冬に筍が食べたいと言った。冬に筍があるはずもなく、孟宗は天に祈りながら竹林の雪を掘った。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。母はたちまち病も癒え、天寿を全うした。
【郭巨(かくきょ)】・・・写真下の右手
郭巨の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。子供が産まれると母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。この子を埋めて母を養おうと地面を掘ると、黄金の釜が出てきた。子供と一緒に家に持ち帰って、さらに母に孝行を尽くした。
【王祥(おうしょう)】・・・写真下の左手
王祥は継母からひどい扱いを受けたが、恨みに思わず大変孝行をした。冬の極寒の際に魚が食べたいと言われて王祥は河に行くが、氷に覆われ魚はどこにも見えない。衣服を脱ぎ、氷の上に伏して大漁を祈ると、氷が融けて魚が2匹出て来た。
【舜(しゅん)】・・・写真下の右手
舜は大変孝行な人だった。父は頑固者で母はひねくれ者、弟は能無しであったが、ひたすら孝行を続けた。皇帝は舜の孝行心に感心し、舜が田を耕しに行くと、皇帝が差し向けた白象が現れて田を耕し、鳥が来て草を取って助けた。皇帝をは舜に娘をとらせ、皇帝の座を舜に譲った。
この舜と白象の話は、本ブログ記事「珍獣?霊獣?象が来た!-その2」にも掲載した。
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/2-d14f.html
【唐夫人(とうふじん)】・・・写真下の左手
唐夫人は、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪をすいて、その他様々なことで仕えた。長孫夫人は死の床で、嫁の孝行を褒め讃え、その恩が報われるよう親族に頼んで死んだ。
以上、現代ではちょっと理解しがたい内容ではある。昔の庶民は、どう解釈していたのだろうか。明治になって、福澤諭吉は『学問のすすめ』で、孝行の勧めについて「二十四孝」を批判している。
●脇障子
社殿の四隅にある脇障子には、三国志などの中国古典の逸話を描いてある。
【長坂坡(ちょうはんは)に戦う趙雲(しょううん)】・・・拝殿左側面(西側)の手前の脇障子
趙雲は三国志に登場する好漢の一人で、愛馬「白龍」と長槍を持って活躍。劉備が曹操軍と戦う「赤壁の戦い」に先立つ「長坂坡の戦い」で、劉備の子「阿斗(あと)」を預かった趙雲はこれを守り奮戦し、諸葛孔明をして「蜀の柱石であった」と死後も多いに讃えられた。
右の写真はその裏面で、虎が描いてあるがガラスが反射していて、良く見えない。
【黄石公(こうせきこう)と張良(ちょうりょう)】・・・拝殿左側面(西側)の奥の脇障子
漢の高祖・劉邦に仕えた若き日の張良の話。老人・黄石公は、張良の器を見定めるため、履(くつ)を橋の下に何度も落として、張良に拾わせる試練を与える。張良は、数々の試練に耐え、やがて兵法の秘伝を伝授される。(写真は少しピンボケ)
この話は、東松山市の「箭弓稲荷神社」のもその彫刻があり、記事が書いた。
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fd05.html
右の写真はその裏で、唐獅子と牡丹を描いてある。
【西王母(せいおうぼ)の桃を盗む】・・・拝殿右側面(東側)の奥の脇障子
前漢の武帝は不老不死を願い、ついに仙人の西王母と会うことが叶い、不老不死の仙桃を授かることになった。武帝に知略知己を以って仕える東方朔は、三千年に一度しかならない仙桃を盗み食いし、雲に乗り逃げ出し、800歳の年を数えたという。
写真右はその裏で、全体が見えないため、よくわからない。
【赤兎馬(せきとば)を駆る関羽(かんう)】・・・拝殿右側面(東側)の手前の脇障子
関羽は劉備の臣だが、訳あって曹操に仕え、一日に千里を駆ける名馬「赤兎馬」を授かり、劉備に対する忠義の心を持ち活躍する。後に孫権によって処刑されるが、その才覚が霊験あらたかとして、「廟」に祀られ信仰を集めた。
その脇障子の裏側は、写真を撮り忘れたのか、撮れなかったのか、手元にない。
●その他、本殿妻の装飾
宝登山神社の境内は、 次の小社が祀られている。
●宝登稲荷神社
1822年(文政5年)に伏見稲荷神社から倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を勧請して祀った宮。
●天満天神社と日本武尊社
天満天神社(写真下・左)は、学問の神様である菅原道真公を祀ったお宮。日本武尊社(写真下・右)は、最もゆかりの深い日本武尊の御神霊を祀ったお宮。
そのほか、境内には藤谷淵神社、招魂社、水神社の小社がある。
★ ★ ★
2年前にこの神社に来た時は、すでに改修が終わっていて彫刻は彩色されていたから、インパクトがあったはずだ。しかし、あまり記憶がない。
その後、日光東照宮や妻沼聖天山の彫刻を見てからか、意識するようになった。技巧をこらした彫刻の一つ一つに物語があり、参拝者に何を伝えようとしたのか、当時の宮大工や絵師、彫師に思いをはせる時、彼らのプロとしての凄さが伝わってくる。
本ブログの参考記事
「日光東照宮」 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-adaa.html
「妻沼聖天山」 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-8470.html
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