箭弓稲荷神社
2013年1月7日(月)、埼玉県東松山市にある「箭弓(やきゅう)稲荷神社」に行ってみる。
昨年2012/12/21(金)に箭弓稲荷神社を見学、ボランティアの観光ガイドの説明を聞いた。はじめて知った神社の由緒や、社殿の精緻な彫刻など記事にしておきたかったが、写真がうまく撮れなかったり、ガイドの話も聞き洩らした部分もあり、そのままになっていた。
今年になって改めて箭弓神社を調べ、その一部を記事にしておく。
●箭弓稲荷神社の由緒
箭弓稲荷神社の創建は、奈良時代の712年(和銅5年)と伝えられている。創建の頃は小さな祠だった。
平安時代の中頃1028年に下総国の平忠常が謀反を起こし安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国の川越まで侵攻した(平忠常の乱)。
朝廷は、源頼信を忠常追討の任に当たらせた。頼信は1030年、当地の野久(やきゅう)ヶ原に本陣を張り、「野久稲荷神社」に詣でて太刀一振と馬一頭を奉納、夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(弓に使う「矢」のこと)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭(矢)は敵を射るかのように敵陣の方向に飛んで行ったという。
これを目撃した頼信は、神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込み快勝した。帰陣した頼信は、野久稲荷に戦勝報告を済ませると、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で武門の守護神であると、「野久稲荷」を「箭弓稲荷」と改めて呼ぶよう里人に命じ、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。
以後、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主などの庇護を受け、多くの人達等の信仰を集めた。特に江戸時代には、江戸をはじめとして近隣・遠方からの多くの参拝者で、門前町をなした。
現在も、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めている。
日本三大稲荷の一つとされることもある。江戸時代7代目市川団十郎が石造りの祠を建立、芸道を願う守り神として、また箭弓(やきゅう)という名前から、プロ野球選手や野球関係者が多く参拝することでも有名。
昨年2012年で「箭弓稲荷神社ご鎮座1300年」の節目を迎え、いくつかの記念事業が進められているようだ。
●社殿
県の指定文化財になっている現在の社殿は、豪壮な権現造りで、江戸時代の天保6年(1835)に造営された。通常の御祈願は拝殿で執り行っており、宝物の絵馬は市の文化財でもあり、外からは見えないがこの拝殿内に掲げられているそうだ。
この絵馬八枚(東松山市指定文化財)は、「関羽と張飛」、「馬上の中国武人」、「武人と騎馬武者」、「予譲の仇討」、「牛若丸と弁慶」、「俵藤太秀郷」、「文人脇息に寄り」、「○二呉服店」だそうだ。
●三条小鍛冶
拝殿正面の鳳凰と龍の間に、「三条小鍛冶」の彫刻がある。平安時代の代表的な刀工、京都三条の鍛冶宗近(むねちか)は、三条小鍛冶(さんじょうのこかじ)と呼称された。稲荷山の神霊の加護により、一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられている。
また拝殿正面左に掲げられている絵馬の意味が、最初よくわからなかった。後で調べると、稲荷明神のご神体が白狐の精霊の姿で現れ、剣を鍛え上げている宗近の「相鎚」を勤めている図のようだ。
●仙人の烏鷺(うろ)
これまで気がつかなかったが、箭弓稲荷神社の本殿裏には、仙人が烏鷺で遊んでいる白木の囲碁彫刻がある。烏鷺とは、カラスとサギのことで、黒白の石を使う囲碁の異称である。
囲碁は、古代の文人や中世の武将のたしなみの一つであったようだ。日光東照宮の陽明門や熊谷市の妻沼聖天山には、彩色された囲碁彫刻が有名だが、こんなところにもあったのかと驚く。
●司馬温公の瓶割り
箭弓稲荷神社の元宮が、本殿の真後ろに鎮座している。ちょうど御神輿ぐらいの大きさの社殿には、彩色ある細やかな彫刻が施されている。周囲をアクリル板で被われ、高い所にあり全部を撮影できない。彫刻はかなり凝った細かい作品である。
この社殿に、興味深い「司馬温公の瓶割り」の彫刻がある。中国北宋時代の司馬温公の故事を題材としたものである。日光東照宮の陽明門のものが有名であるが、祭りの山車彫刻や絵画・陶器の図柄としてもよく取り上げられているそうだ。
司馬温公は本名を司馬光といい、儒学に長けた北宋の政治家であった。瓶割の故事は司馬光が七歳の時の話で、友人と遊んでいる時にその一人が飲み水を貯めていた大きな水瓶に誤って落ちてしまった。溺れそうになっているのを見て、温公は機転を利かして水瓶を割って、その子供を助け出したというものである。
下の方に、子供が割れた水瓶から流れ出るところが描かれている。人の命が、高価で貴重品であった水瓶であっても、いかに尊いかを説いている。
絵全体を撮影できないのが、残念。
●拝殿の脇障子
拝殿左の脇障子の前には、ちょうど御幣が置いてあり、残念ながら騎馬の中国武人の彫刻を隠している(写真左)。写真右はその脇障子の裏で、これも中国の武人と思われるが、何を題材にしているのか、よくわからない。
一方、拝殿右の脇障子は、有名な「黄石公と張良」の故事を題材にしている。
漢の高祖(劉邦)に仕えた若き日の張良の話である。老人(黄石公、こうせきこう)は、履(くつ)を橋の下に落として、橋のたもと歩いていた張良に「拾え」と命じ、張良は怒らずそれに従った(写真左、脇障子の表)。張良は、黄石公の数々の試練に耐え、やがて兵法の秘伝を伝授される(写真右、脇障子の裏)。
★ ★ ★
拝観料の問題などあるだろうが、箭弓稲荷神社は見えにくい彫刻や社殿内部にある文化財の絵馬など、もっと改善できないのだろうかと思う。
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