谷中界隈
2013年1月12日(土) 2年ぶりに谷中(台東区)界隈に行く。
谷中は、上野と本郷の二つの台地の谷間にあることからそう呼ばれた。関東大震災や第二次大戦では比較的被害が少なかったため、昔の町並みや建物が残されている。
JR日暮里駅西口より徒歩約5分、いつのまにか車道が歩道に変わる階段がある。ここが作家・エッセイストの森まゆみが名付けた有名な「夕焼けだんだん」。
「夕焼けだんだん」から、「谷中銀座」のを見下ろす。
前回来た時は気が付かなかったが、こういった切りり絵の看板が、あちこちの店にある。
両側に下町風情の残る庶民的なお店が並ぶ。土曜の午後けっこう観光客で混雑している。意外と道幅は狭い。
人気のメンチカツの店には、行列ができていた。
谷中銀座を歩くと、やがて「よみせ通り」にぶつかる。よみせ通りから小道を抜け、「岡倉天心記念公園」に行く。
日本美術の発展に多大な貢献をした岡倉天心の邸宅と日本美術院があったところで、現在は住宅街の小さな公園になっている。六角堂が建っている。
六角堂の中をガラス戸を覗くと、金色の天心巫像が見える。
昔は蛍沢という蛍の名所だったという「蛍坂」(写真左)を上ると、「観音寺」の有名な築地塀(ついじべい、写真右)がある。
築地塀は、江戸時代に造られた土塀で、震災で一部崩壊したが、戦災は免れた。台東区まちなみ賞に選ばれている。
谷中銀座へもどる前の路地を入って行くと、「初音小路」と呼ばれる小さな飲食街がある。古い木製のアーケードが印象的なレトロな店が並ぶ。行き止まりに共同トイレがあった。
夕焼けだんだんの近くに戻り、「大黒山・経王寺」に入ってみる。
日蓮宗寺院の経王寺の本堂(写真下)の隣に、大黒堂がある。日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られているそうだが、気がつかなかった。
明治初年の上野戦争の際に、逃走した彰義隊の一部が経王寺に隠れたために新政府軍に包囲され、発砲した銃弾の痕が残っているという。
15:15、ゆうやけだんだんに集合、今度は文京区根津にある「根津神社」に向かう。
15:30、根津神社に裏門(千駄木側)から入る。
根津神社に参拝。日本武尊が東征の途中の1900年近く前に、創祀したと伝えられる。
本殿、幣殿、拝殿を一体に造る権現造りの傑作とされ、社殿など7棟が国重文に指定。近世の神社建築としては都内で最大規模で、境内はツツジの名所として知られる。近くには森鴎外(団子坂の近く)や夏目漱石(現在は日本医科大の敷地)といった文豪が近辺に住居を構えていた。
社殿は、1706年(宝永3年)の創建。1705年(宝永2年)、第5代将軍・徳川綱吉は、兄綱重の子・綱豊(甲府藩主、のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた。綱豊が江戸城に移ると、元の屋敷地は献納され、全国の諸大名に命じて社殿を大造営(天下普請という)させたという。
拝殿に「根津神社」の扁額を掲げる。S字状に湾曲した海老虹梁(えびこうりょう)という梁が連なる。
柱の上の彫り物は、空想の動物の獅子と獏(ばく)。金色に輝いていて、まばゆくて迫力がある。
立派な楼門(随身門)。左右には、衣冠束帯に剣と弓矢をもった武官神像(随身)が、安置されている。
根津神社の境内には、鳥居が連なったトンネルの先に乙女稲荷と駒込稲荷があった。
16:30、神社裏門に再び集合、17:00~本郷通り沿いの中華料理「玻璃家(ボーリージャー)」で、懇親会。
20:00~22:00 2次会、東大赤門前のカフェラウンジ「BON ART(ボンアート)」にて。
★ ★ ★
2年ほど前の2011年1月29日、友人が企画した谷中・根津・千駄木界隈の横丁や路地裏を歩、名所・旧跡を訪ねる新年ウォークに参加した。
この時は、10:30地下鉄千駄木駅を出発、森鴎外、夏目漱石、高村光太郎など文豪が暮らした千駄木、古い民家が残る根津、70もの寺が集まる谷中を巡り、上野恩賜公園から湯島天神へ、精力的に夕方の16:00まで歩いた。休憩を含めて約5時間半のウォーキングだった。
いわゆる「谷・根・千」は、東京の山の手の一部ではあるが、下町としての風情を残し、歴史と情緒が溢れる町だ。
今回「ものみ・ゆさん」は、写真撮影でその一角を再びめぐり、前回気がつかなかった新たな発見もあったが、作品つくりはなかなか納得できるまでには至らない。
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