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2013年1月27日 (日)

深川界隈

 2013年1月19日(土)、江東区の深川界隈に行く。

 深川は、下町である東京都江東区にあたる。隅田川の河口の湿地にすぎなかったが、慶長年間(1596~1615)に深川八郎右衛門や砂村新左衛門らによって開拓された。

 1657年の明暦の大火後、幕府は本所や深川の開発を積極的に行う。日本橋にあった貯木場を深川に移転、材木センターである木場が創られ、社寺が移転、隅田川に新大橋や永代橋が架けられて、都市開発が進められた。以来、江戸の生活物資を集積する倉庫街と木場の材木、富岡八幡宮周辺にあった歓楽街など、深川は江戸の町として大きく発展した。深川は「水の街」で水運が盛んであったが、アサリなどが取れる漁師町でもあった。

 司馬遼太郎『街道をゆく』の「本所深川散歩」の巻では、「世界の首都で、江戸ほど火事の多かった都市はない。自然、材木問屋がもうかった。近代以前では材木問屋は巨大資本というべきものだったから、その根拠地である深川という土地の存在は大きかった。」と司馬流の文体ではじまる。そして、木場で働く男たちの気っぷ、色町や芸者、江戸っ子の気質文化にも触れている。

 

 ★ ★ ★

 地下鉄東西線の門前仲町駅で降り、1番出口から地上に上がると深川不動堂の参道。この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地として発展した。江戸情緒を残す深川の中心街である。

 10:30、参加者8名で、Yさん企画の深川界隈ウォーキングを開始。      
         
 最初の目的地は、「成田山東京別院深川不動堂」。通称は、「深川不動堂」または「深川不動尊」という。門前の参道は通称「人情深川ご利益通り」といい、毎月1、15、28日に縁日が開かれて賑わうそうだ。

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 10:35、不動堂に到着。

 江戸時代元禄年間には、町民を中心として不動尊信仰が急激に広まった。1703年(元禄16年)、はじめて「成田山」のご本尊不動明王の出張開帳が「永代寺」を会場に行なわれた。これが深川不動堂の始まり。その後出張開帳は、江戸時代に10回以上も続けられたという。

 永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となるが、不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続する。

 ここは「旧本堂」で、「本堂」や「内仏殿」の入り口となっている。

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 旧本堂に靴を脱いで上がるとすぐに、白木の不動明王坐像「おねがい不動尊」(写真下)を奉祀してある。

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 本堂は、旧本堂西側にある外壁に梵字(ぼんじ)を散りばめた近代的な建物。旧本堂から入り、左手にある。開創310年を期に、2011年(平成23年)に完成したそうだ。旧本堂から本尊不動明王を遷座し、毎日数回護摩供養が行われていて、参拝客で賑わっている。

 旧本堂の先に4階建の「内仏殿」が続いている。1階には、「十二支守り本尊」、「政廣不動の間」、「智童大師の間」などがある。

 2階には、四国八十八箇所の巡拝所(写真下)がある。

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 内仏殿の3階は社務所になっているらしく、エスカレータで4階に上がると、宝蔵大日堂には天井画があり、大日如来が安置されていた。

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 不動堂の門前にあった小さい寺は、後で「永代寺」と気付く。

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 「永代寺」は、現在の深川不動尊を含む深川公園一帯の敷地を持った広大な寺院であった。明治初年の神仏分離により廃寺となり、その後1896年(明治29年)に再興されたのが現在の永代寺だそうだ。

 11:00、不動堂を出て、すぐ近くの「富岡八幡宮」へ行く。

 徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれ、勧進相撲や富くじでも賑わった。同じ地にあった「永代寺」は、八幡宮の別当寺院(神社を管理する寺)としても栄えていた。

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 江戸三大まつりの一つ「深川八幡祭り」で有名な日本一の大神輿が展示されている。、ダイヤモンドなどで飾られ、4トン半もある。ガラス越しに、金色の豪華で日本最大の神輿を覗く。大きすぎて、全体を撮影できない。

 祭礼は、毎年8月15日を中心に行われ、「深川祭り」とも呼ばれている。

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 これが「伊能忠敬」の銅像。

 伊能忠敬は、深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていた。2001年に境内に銅像が建立された。

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 富岡八幡は、江戸勧進相撲の発祥の地で、しばしば境内で本場所も開催された。現在も奉納土俵入りなどが執り行われる。

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 富岡八幡宮の本殿に参拝。

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 境内には他に「横綱力士碑」、「木場角乗碑」、八幡宮の東隣には日本最古の鉄橋である「旧弾正橋」(きゅうだんじょうばし、または八幡橋) の史跡があるが、残念ながらこれらは見逃してしまった。

 

 11:30~12:30、不動堂の門前にある小さな食堂「六衛門」で、「深川丼」を注文。

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 「深川めし(深川丼)」は、アサリのすまし汁を米飯に掛けたものである。気の短い江戸っ子漁師が、手軽に食べるためのファーストフードだった。

 この店の深川丼は、アサリを長葱、油揚げなどの具とともに醤油などで味付けし煮たものを、白いご飯にかけてある。みそ汁とシラスおろし、ひじき、お新香の小鉢がついて1,050円。

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 他の店や駅弁などでは、その煮汁を加えて飯を炊き、炊き上がったら具を戻してかきまぜる炊き込みご飯タイプもあるそうだ。

 

 12:44、大横川に架かる「黒船橋」を渡る。

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 橋を渡って左側の牡丹町住宅地の路地に、目的地の「黒船稲荷神社」があるらしい。地元に人に尋ねて探せど見つからず、スキップする。

 黒船稲荷神社には、江戸時代後期の『東海道四谷怪談』作者として有名な鶴屋南北が住んでおり、その終焉の地としても知られる。

 黒船の名前の由来は、①浅草黒船町一帯が火災で類焼、この代地として現在の牡丹町の地を与えられ、町とともに神社も移転してきた。②この付近にオランダ船が停泊した。③戦国時代、徳川 家康に勧誘された三浦按針(ウィリアム・アダムス)が黒船を係留していたとする説など、諸説があるそうだ。

 牡丹町は江戸時代、その名の通り牡丹の栽培が盛んだった。現在も牡丹町公園や古石場親水公園には、牡丹が多く植えられているそうだ。

   
 13:20、「古石場文化センター」着。図書館も併設されている江東区の施設。深川で生まれた映画監督の小津安二郎を紹介する展示コーナーが、設けられている。

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 小津安二郎コーナーでは、当時の映画ポスターが多数掲示されていて、昔若かったころの俳優・女優が登場していて、懐かしい。

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 この施設の2階大研修室では、毎月1回懐かしの名画を楽しむ「江東シネマプラザ」が開催されているそうだ。

 このあと、平久川に架かる橋を渡って首都高9号深川線下の三ツ目通りを歩き、イトーヨーカドーを左に見で永代通りに出ると、地下鉄木場駅。

 

 14:13、木場駅からすぐの都立「木場公園」に到着。

 江戸時代、材木関連の商人や職人が居住していた木場は、地盤沈下や交通渋滞などで、1976年(昭和51年)新しい埋立地の「新木場」に移転した。江東区の防災都市計画(住宅密集による火災や地震被害を食い止めるため)の一環として、木場公園を造った。

 総面積は24haで、緑のある場所である。木場の由来を残すべく、イベント池では毎年10月の江東区民祭りで、伝統芸である「木場の角乗り」が行われる。東京都現代美術館も木場公園内の施設である。公園の地下には、都営大江戸線の車両基地が設置されている。

 木場口から入場し、ふれあい広場、噴水広場、木場公園大橋(仙台堀川)、イベント広場へと向かう。

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 「噴水広場」の手前にある休憩・展示場の「木場ミドリアム」でしばし休憩。

 「木場公園大橋」は、美しい斜張橋で木場公園のシンボル。橋の向こうに東京スカイツリーの姿が見える。スカイツリーの展望台に上った時は、この公園と橋はすぐ見つけられた。   

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 14:58、東京都現代美術館前を通過。   

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 清澄庭園に行く途中の道路から、「紀伊国屋文左衛門の碑」を発見。材木商の文左衛門は、こここ成等寺に葬られているという。

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 紀州出身の元禄期の商人で、嵐の中命懸けで紀州みかんを舟で江戸へ運んだ、流行り病には塩鮭が一番と噂を流し塩鮭を売って富を築いた、それを元手で江戸に材木問屋を開き明暦の大火で大儲けした、などが伝えられている。江戸八丁堀へ住み、吉原における豪遊など数々の有名な逸話がある。柳沢吉保など幕府重鎮らに賄賂を贈り接近、幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失。晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、1734年(享保19年)に死去。享年66歳。

 

 15:20、「清澄庭園」に入園(150円)。

 享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の城主・久世家の下屋敷の庭園だった。またこの地の一部は、紀伊國屋文左衛門の屋敷跡とも言い伝えられている。
 泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」で、この造園手法は江戸時代の大名庭園に用いられたもの。岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、明治13年に「深川親睦園」として竣工、その後も手を加えられて現在に至る。

 先週の降雪で公園の日陰部分には雪が残っていて、池は凍結している。

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 園内に、芭蕉の有名な「古池や かわづ飛び込む 水の音」の句碑がある。元は隅田川の岸辺にあったそうだ。

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 池に飛来した水鳥は、寒そうにしている。

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 清澄庭園から10分ほど北に、芭蕉が住んだという「芭蕉庵跡」が「芭蕉稲荷神社」の境内に、その近くには「芭蕉記念館」があるそうだが、時間の都合でスキップ。またの機会にしたい。    
  

 15:54、 清澄白川駅へ行く途中、芭蕉ゆかりの寺「臨川寺」の前を通過する。芭蕉は、ここに度々参禅に通ったと伝えられ、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」などの石碑が残されているそうだ。
         
 15:56、徒歩の終点、地下鉄清澄白河駅に到着。

 ここから半蔵門線に乗って大手町駅で下車、地下通路を徒歩で東京駅に向かう。東京駅の地下で迷ってうろうろ、地上になかなか出られない。

    
 新しくなった東京駅の丸の内南口外観と、内側からドームを眺めた後、16:35山手線に乗車。

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 池袋駅着。17:10~19:15、「肴や池袋駅西口店」で打ち上げ。池袋駅で解散。

 

 歩数計によると、本日の歩程はおよそ約2万歩、約12Kmだった。

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