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2013年1月の5件の投稿

2013年1月28日 (月)

歌舞伎座

 2013年1月23日(水) 久しぶりに銀座4丁目付近を歩き、工事中の歌舞伎座を見る。

 

 この日は、建物を囲んでいた工事ネットがほとんどが取れた状態で、新しい白壁の歌舞伎座の姿を見ることができる。

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 12月末には、歌舞伎座の象徴ともいえる、劇場正面にある曲線の部分の「唐破風(からはふ)屋根」がお披露目になったそうだ。唐破風屋根の上には、重厚な「経の巻」と呼ばれる鬼瓦が設置されている。

 
 昨年12/19に見た時は、まだ全体の半分がシートに覆われていて、唐破風屋根も見えてなかった。

 

 

 松竹直営のこの「歌舞伎座」は、老朽化により2010年の4月興行までの「歌舞伎座さよなら公演」ののち休館、解体。現在、建替え工事中である。新しい歌舞伎座は、オフィスタワー(賃貸、7階~29階)を伴う複合施設として、今春竣工の予定。劇場は今年4月に再開場し、こけら落とし公演が始まるそうだ。

 
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 低層に構える劇場部分と高層のオフィスビル部分の中間には、誰でも気軽に入れる交流スペースと日本庭園を設けてあるそうだ。劇場正面は晴海通りに面しているが、オフィスビルは昭和通り側にエントランスがある。

 地上29階のオフィスビルは、高い建物が少ない銀座地区では、一番高い建物になるという。

2013年1月27日 (日)

深川界隈

 2013年1月19日(土)、江東区の深川界隈に行く。

 深川は、下町である東京都江東区にあたる。隅田川の河口の湿地にすぎなかったが、慶長年間(1596~1615)に深川八郎右衛門や砂村新左衛門らによって開拓された。

 1657年の明暦の大火後、幕府は本所や深川の開発を積極的に行う。日本橋にあった貯木場を深川に移転、材木センターである木場が創られ、社寺が移転、隅田川に新大橋や永代橋が架けられて、都市開発が進められた。以来、江戸の生活物資を集積する倉庫街と木場の材木、富岡八幡宮周辺にあった歓楽街など、深川は江戸の町として大きく発展した。深川は「水の街」で水運が盛んであったが、アサリなどが取れる漁師町でもあった。

 司馬遼太郎『街道をゆく』の「本所深川散歩」の巻では、「世界の首都で、江戸ほど火事の多かった都市はない。自然、材木問屋がもうかった。近代以前では材木問屋は巨大資本というべきものだったから、その根拠地である深川という土地の存在は大きかった。」と司馬流の文体ではじまる。そして、木場で働く男たちの気っぷ、色町や芸者、江戸っ子の気質文化にも触れている。

 

 ★ ★ ★

 地下鉄東西線の門前仲町駅で降り、1番出口から地上に上がると深川不動堂の参道。この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地として発展した。江戸情緒を残す深川の中心街である。

 10:30、参加者8名で、Yさん企画の深川界隈ウォーキングを開始。      
         
 最初の目的地は、「成田山東京別院深川不動堂」。通称は、「深川不動堂」または「深川不動尊」という。門前の参道は通称「人情深川ご利益通り」といい、毎月1、15、28日に縁日が開かれて賑わうそうだ。

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 10:35、不動堂に到着。

 江戸時代元禄年間には、町民を中心として不動尊信仰が急激に広まった。1703年(元禄16年)、はじめて「成田山」のご本尊不動明王の出張開帳が「永代寺」を会場に行なわれた。これが深川不動堂の始まり。その後出張開帳は、江戸時代に10回以上も続けられたという。

 永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となるが、不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続する。

 ここは「旧本堂」で、「本堂」や「内仏殿」の入り口となっている。

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 旧本堂に靴を脱いで上がるとすぐに、白木の不動明王坐像「おねがい不動尊」(写真下)を奉祀してある。

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 本堂は、旧本堂西側にある外壁に梵字(ぼんじ)を散りばめた近代的な建物。旧本堂から入り、左手にある。開創310年を期に、2011年(平成23年)に完成したそうだ。旧本堂から本尊不動明王を遷座し、毎日数回護摩供養が行われていて、参拝客で賑わっている。

 旧本堂の先に4階建の「内仏殿」が続いている。1階には、「十二支守り本尊」、「政廣不動の間」、「智童大師の間」などがある。

 2階には、四国八十八箇所の巡拝所(写真下)がある。

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 内仏殿の3階は社務所になっているらしく、エスカレータで4階に上がると、宝蔵大日堂には天井画があり、大日如来が安置されていた。

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 不動堂の門前にあった小さい寺は、後で「永代寺」と気付く。

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 「永代寺」は、現在の深川不動尊を含む深川公園一帯の敷地を持った広大な寺院であった。明治初年の神仏分離により廃寺となり、その後1896年(明治29年)に再興されたのが現在の永代寺だそうだ。

 11:00、不動堂を出て、すぐ近くの「富岡八幡宮」へ行く。

 徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれ、勧進相撲や富くじでも賑わった。同じ地にあった「永代寺」は、八幡宮の別当寺院(神社を管理する寺)としても栄えていた。

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 江戸三大まつりの一つ「深川八幡祭り」で有名な日本一の大神輿が展示されている。、ダイヤモンドなどで飾られ、4トン半もある。ガラス越しに、金色の豪華で日本最大の神輿を覗く。大きすぎて、全体を撮影できない。

 祭礼は、毎年8月15日を中心に行われ、「深川祭り」とも呼ばれている。

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 これが「伊能忠敬」の銅像。

 伊能忠敬は、深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていた。2001年に境内に銅像が建立された。

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 富岡八幡は、江戸勧進相撲の発祥の地で、しばしば境内で本場所も開催された。現在も奉納土俵入りなどが執り行われる。

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 富岡八幡宮の本殿に参拝。

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 境内には他に「横綱力士碑」、「木場角乗碑」、八幡宮の東隣には日本最古の鉄橋である「旧弾正橋」(きゅうだんじょうばし、または八幡橋) の史跡があるが、残念ながらこれらは見逃してしまった。

 

 11:30~12:30、不動堂の門前にある小さな食堂「六衛門」で、「深川丼」を注文。

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 「深川めし(深川丼)」は、アサリのすまし汁を米飯に掛けたものである。気の短い江戸っ子漁師が、手軽に食べるためのファーストフードだった。

 この店の深川丼は、アサリを長葱、油揚げなどの具とともに醤油などで味付けし煮たものを、白いご飯にかけてある。みそ汁とシラスおろし、ひじき、お新香の小鉢がついて1,050円。

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 他の店や駅弁などでは、その煮汁を加えて飯を炊き、炊き上がったら具を戻してかきまぜる炊き込みご飯タイプもあるそうだ。

 

 12:44、大横川に架かる「黒船橋」を渡る。

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 橋を渡って左側の牡丹町住宅地の路地に、目的地の「黒船稲荷神社」があるらしい。地元に人に尋ねて探せど見つからず、スキップする。

 黒船稲荷神社には、江戸時代後期の『東海道四谷怪談』作者として有名な鶴屋南北が住んでおり、その終焉の地としても知られる。

 黒船の名前の由来は、①浅草黒船町一帯が火災で類焼、この代地として現在の牡丹町の地を与えられ、町とともに神社も移転してきた。②この付近にオランダ船が停泊した。③戦国時代、徳川 家康に勧誘された三浦按針(ウィリアム・アダムス)が黒船を係留していたとする説など、諸説があるそうだ。

 牡丹町は江戸時代、その名の通り牡丹の栽培が盛んだった。現在も牡丹町公園や古石場親水公園には、牡丹が多く植えられているそうだ。

   
 13:20、「古石場文化センター」着。図書館も併設されている江東区の施設。深川で生まれた映画監督の小津安二郎を紹介する展示コーナーが、設けられている。

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 小津安二郎コーナーでは、当時の映画ポスターが多数掲示されていて、昔若かったころの俳優・女優が登場していて、懐かしい。

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 この施設の2階大研修室では、毎月1回懐かしの名画を楽しむ「江東シネマプラザ」が開催されているそうだ。

 このあと、平久川に架かる橋を渡って首都高9号深川線下の三ツ目通りを歩き、イトーヨーカドーを左に見で永代通りに出ると、地下鉄木場駅。

 

 14:13、木場駅からすぐの都立「木場公園」に到着。

 江戸時代、材木関連の商人や職人が居住していた木場は、地盤沈下や交通渋滞などで、1976年(昭和51年)新しい埋立地の「新木場」に移転した。江東区の防災都市計画(住宅密集による火災や地震被害を食い止めるため)の一環として、木場公園を造った。

 総面積は24haで、緑のある場所である。木場の由来を残すべく、イベント池では毎年10月の江東区民祭りで、伝統芸である「木場の角乗り」が行われる。東京都現代美術館も木場公園内の施設である。公園の地下には、都営大江戸線の車両基地が設置されている。

 木場口から入場し、ふれあい広場、噴水広場、木場公園大橋(仙台堀川)、イベント広場へと向かう。

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 「噴水広場」の手前にある休憩・展示場の「木場ミドリアム」でしばし休憩。

 「木場公園大橋」は、美しい斜張橋で木場公園のシンボル。橋の向こうに東京スカイツリーの姿が見える。スカイツリーの展望台に上った時は、この公園と橋はすぐ見つけられた。   

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 14:58、東京都現代美術館前を通過。   

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 清澄庭園に行く途中の道路から、「紀伊国屋文左衛門の碑」を発見。材木商の文左衛門は、こここ成等寺に葬られているという。

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 紀州出身の元禄期の商人で、嵐の中命懸けで紀州みかんを舟で江戸へ運んだ、流行り病には塩鮭が一番と噂を流し塩鮭を売って富を築いた、それを元手で江戸に材木問屋を開き明暦の大火で大儲けした、などが伝えられている。江戸八丁堀へ住み、吉原における豪遊など数々の有名な逸話がある。柳沢吉保など幕府重鎮らに賄賂を贈り接近、幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失。晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、1734年(享保19年)に死去。享年66歳。

 

 15:20、「清澄庭園」に入園(150円)。

 享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の城主・久世家の下屋敷の庭園だった。またこの地の一部は、紀伊國屋文左衛門の屋敷跡とも言い伝えられている。
 泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」で、この造園手法は江戸時代の大名庭園に用いられたもの。岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、明治13年に「深川親睦園」として竣工、その後も手を加えられて現在に至る。

 先週の降雪で公園の日陰部分には雪が残っていて、池は凍結している。

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 園内に、芭蕉の有名な「古池や かわづ飛び込む 水の音」の句碑がある。元は隅田川の岸辺にあったそうだ。

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 池に飛来した水鳥は、寒そうにしている。

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 清澄庭園から10分ほど北に、芭蕉が住んだという「芭蕉庵跡」が「芭蕉稲荷神社」の境内に、その近くには「芭蕉記念館」があるそうだが、時間の都合でスキップ。またの機会にしたい。    
  

 15:54、 清澄白川駅へ行く途中、芭蕉ゆかりの寺「臨川寺」の前を通過する。芭蕉は、ここに度々参禅に通ったと伝えられ、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」などの石碑が残されているそうだ。
         
 15:56、徒歩の終点、地下鉄清澄白河駅に到着。

 ここから半蔵門線に乗って大手町駅で下車、地下通路を徒歩で東京駅に向かう。東京駅の地下で迷ってうろうろ、地上になかなか出られない。

    
 新しくなった東京駅の丸の内南口外観と、内側からドームを眺めた後、16:35山手線に乗車。

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 池袋駅着。17:10~19:15、「肴や池袋駅西口店」で打ち上げ。池袋駅で解散。

 

 歩数計によると、本日の歩程はおよそ約2万歩、約12Kmだった。

2013年1月21日 (月)

谷中界隈

 2013年1月12日(土) 2年ぶりに谷中(台東区)界隈に行く。

 谷中は、上野と本郷の二つの台地の谷間にあることからそう呼ばれた。関東大震災や第二次大戦では比較的被害が少なかったため、昔の町並みや建物が残されている。

 

 JR日暮里駅西口より徒歩約5分、いつのまにか車道が歩道に変わる階段がある。ここが作家・エッセイストの森まゆみが名付けた有名な「夕焼けだんだん」。

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 「夕焼けだんだん」から、「谷中銀座」のを見下ろす。

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 前回来た時は気が付かなかったが、こういった切りり絵の看板が、あちこちの店にある。

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 両側に下町風情の残る庶民的なお店が並ぶ。土曜の午後けっこう観光客で混雑している。意外と道幅は狭い。

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 人気のメンチカツの店には、行列ができていた。

 

 谷中銀座を歩くと、やがて「よみせ通り」にぶつかる。よみせ通りから小道を抜け、「岡倉天心記念公園」に行く。

 日本美術の発展に多大な貢献をした岡倉天心の邸宅と日本美術院があったところで、現在は住宅街の小さな公園になっている。六角堂が建っている。 

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 六角堂の中をガラス戸を覗くと、金色の天心巫像が見える。

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 昔は蛍沢という蛍の名所だったという「蛍坂」(写真左)を上ると、「観音寺」の有名な築地塀(ついじべい、写真右)がある。

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 築地塀は、江戸時代に造られた土塀で、震災で一部崩壊したが、戦災は免れた。台東区まちなみ賞に選ばれている。

 

 谷中銀座へもどる前の路地を入って行くと、「初音小路」と呼ばれる小さな飲食街がある。古い木製のアーケードが印象的なレトロな店が並ぶ。行き止まりに共同トイレがあった。

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 夕焼けだんだんの近くに戻り、「大黒山・経王寺」に入ってみる。
 日蓮宗寺院の経王寺の本堂(写真下)の隣に、大黒堂がある。日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られているそうだが、気がつかなかった。

 明治初年の上野戦争の際に、逃走した彰義隊の一部が経王寺に隠れたために新政府軍に包囲され、発砲した銃弾の痕が残っているという。

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 15:15、ゆうやけだんだんに集合、今度は文京区根津にある「根津神社」に向かう。

 

 15:30、根津神社に裏門(千駄木側)から入る。

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 根津神社に参拝。日本武尊が東征の途中の1900年近く前に、創祀したと伝えられる。

 本殿、幣殿、拝殿を一体に造る権現造りの傑作とされ、社殿など7棟が国重文に指定。近世の神社建築としては都内で最大規模で、境内はツツジの名所として知られる。近くには森鴎外(団子坂の近く)や夏目漱石(現在は日本医科大の敷地)といった文豪が近辺に住居を構えていた。

 社殿は、1706年(宝永3年)の創建。1705年(宝永2年)、第5代将軍・徳川綱吉は、兄綱重の子・綱豊(甲府藩主、のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた。綱豊が江戸城に移ると、元の屋敷地は献納され、全国の諸大名に命じて社殿を大造営(天下普請という)させたという。

 拝殿に「根津神社」の扁額を掲げる。S字状に湾曲した海老虹梁(えびこうりょう)という梁が連なる。

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 柱の上の彫り物は、空想の動物の獅子と獏(ばく)。金色に輝いていて、まばゆくて迫力がある。

 
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 立派な楼門(随身門)。左右には、衣冠束帯に剣と弓矢をもった武官神像(随身)が、安置されている。

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 根津神社の境内には、鳥居が連なったトンネルの先に乙女稲荷と駒込稲荷があった。

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 16:30、神社裏門に再び集合、17:00~本郷通り沿いの中華料理「玻璃家(ボーリージャー)」で、懇親会。

 
 20:00~22:00 2次会、東大赤門前のカフェラウンジ「BON ART(ボンアート)」にて。

 

★ ★ ★

 2年ほど前の2011年1月29日、友人が企画した谷中・根津・千駄木界隈の横丁や路地裏を歩、名所・旧跡を訪ねる新年ウォークに参加した。

 この時は、10:30地下鉄千駄木駅を出発、森鴎外、夏目漱石、高村光太郎など文豪が暮らした千駄木、古い民家が残る根津、70もの寺が集まる谷中を巡り、上野恩賜公園から湯島天神へ、精力的に夕方の16:00まで歩いた。休憩を含めて約5時間半のウォーキングだった。

  いわゆる「谷・根・千」は、東京の山の手の一部ではあるが、下町としての風情を残し、歴史と情緒が溢れる町だ。

 今回「ものみ・ゆさん」は、写真撮影でその一角を再びめぐり、前回気がつかなかった新たな発見もあったが、作品つくりはなかなか納得できるまでには至らない。
 

2013年1月14日 (月)

箭弓稲荷神社-その2

 2013年1月7日(月)、埼玉県東松山市の「箭弓稲荷神社」についての記事の続き。

 

 
●めおと狐

 拝殿には、「めおと狐」の大絵馬が掲げられている。よく見ると一文銭を縦に並べて狐が造形されているが、左の狐は後ろ左足を除いてほとんど一文銭が落ちてしまい、白くなっている。

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 由来は、眼病にかかった江戸の大工が、武州松山の野久(箭弓)様が目にいいと聞き、夫婦で祈願を続けて見えるようになった。治ったお礼に、一文銭で作った「めおと狐」の大絵馬を奉納した伝えられている。
 仲のよい夫婦が、夫の眼病を信仰により乗り越える夫婦愛の話は、「箭弓稲荷神社」の公式ホームページに掲載されている。

 

●縁結びのキツネ

 
 箭弓稲荷神社の「ぼたん園」の前に、「松の木」と「栴檀(せんだん)の木」が寄り添うように生えている。その二本の木は、いつしか「箭弓稲荷神社の縁結び」の象徴として信仰されるようになったそうだ。平成24年春に縁結びキツネの石像が建てられているのを、はじめて知った。石像は、「やっくん&きゅうちゃん」と名付けられている。造形作家のいじま・ゆういち作だそうだ。神社には、ちょっと場違いな、やけに漫画チックで可愛らしい「ゆるキャラ」だ。

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  「やっくん&きゅうちゃん」の人形、お守りなどのグッズも神社で売られている。縁結びの信仰スポットは全国各地にあるが、先述の「めおと狐」と関連して、東松山市も「縁結びのまち」として町おこしをはじめたように思える。

 

●団十郎稲荷

 
 境内にある宇迦之御魂社は、通称「穴宮稲荷」、または「団十郎稲荷」と呼ばれている。江戸時代の文政年間、7代目市川団十郎は特に熱心に当社を崇敬しており、境内の旅籠にこもり芸道精進、大願成就を祈願した。江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において、「狐忠信」や「葛の葉」など狐の仕草が非常に難しいとされる芸題を披露したところ、毎日札止め、大盛況のうちに興行を終えることができたという。

 
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 団十郎は、大願成就のための名前入りの石祠一社を、1821年(文政4年)に奉納(写真下)している。

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 これは、お穴様と呼ばれる宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)を祀る穴宮稲荷で、以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、現在でも芸能や技術向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁盛の守り神として広く崇敬を集めているという。
 毎年春5月、秋10月には、芸道の向上を願う各芸能関係が集まり、「団十郎稲荷祭」を行い雅楽演奏や舞踊等を奉納している。

 
 

 
●林家三平

 
 箭弓稲荷は、林家三平(初代)やその子の林家正蔵(9代目)で有名な、海老名家が信奉している神社でもある。
 海老名家(林家)の先祖は、講談で有名な幡随院長兵衛に登場する旗本水野十郎左衛門の配下である海老名弾正の子孫とされ、箭弓稲荷は海老名家の守り神だそうだ。

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●野球の神様

 箭弓が「やきゅう」という音との縁で、プロ野球や高校球児、少年野球などの野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県所沢市に本拠地を置く西武ライオンズの選手が頻繁に訪れ、「野球の神様」と言われている。

 願い事を書いて奉納するユニークな絵馬として、野球絵馬と呼ばれる野球のバットの形や、ホームベースの五角形をしたものが頒布されている。

 

●前田敦子

 2011年5月30日、AKB48の前田敦子が、6月4日公開前の初主演映画『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(略して『もしドラ』)の共演者の瀬戸康史、川口春奈と共に大ヒット祈願を行った。祝詞、おはらいなどの儀式の後に、箭弓稲荷神社ならではのホームベース型の絵馬に、大ヒットへの願いを書き込んだそうだ。

 『もしドラ』は、岩崎夏海のベストセラー小説(2009年12月4日ダイヤモンド社発行)。集英社発行の漫画雑誌『スーパージャンプ』で、2010年12月22日から漫画化作品も連載された。

 小説、映画、漫画では見てないが、NHK総合テレビで2011年4月25日~5月6日に『もしドラ』のテレビアニメ版が放送され、視聴した。主人公の高校野球の女子マネージャーが、ひょんなことから手にしたピーター・F・ドラッカーの著した有名なビジネス書「マネジメント」を参考に、弱小野球部を甲子園に導いていく姿を描いた青春物語。ドラッガーの組織管理論が、高校野球部の組織改革や意識改革に応用されて、次々と実践されていくのが、実に興味深くて面白かった。

 

●ぼたん園

 
 箭弓稲荷神社の境内にある「ぼたん園」は、大正12年(1923年)に東武東上線の坂戸-東松山間開通を記念して、東武鉄道株式会社の初代社長・根津嘉一郎氏が、牡丹と藤、松を奉納した。
 約3,500平方メートルの園内には、約1300株の牡丹が毎年4月中旬ごろより、つつじや藤の花と合わせて咲き誇る。
 
 なお、東松山市内には、30,700平方メートルの敷地に9,100株の牡丹がある「東松山ぼたん園」もある「牡丹のまち」である。

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 ぼたん園内にある根津嘉一郎氏が奉納した松。

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 同じく「ぼたん園」内にあるこの藤の樹は、江戸時代の終りに小金井村(現小金井市)より武州の人某が譲り受け、根津嘉一郎氏より奉納された由緒ある樹。推定250年以上といわれ、「延命(ながらへ)のフジ」と名付けられて毎年美しい紫の花が咲く。

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●道標

 
 東松山周辺の桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝する人のために、「従是(これより)箭弓いなり道」の道標が、あちこちに50余本あったという。

 写真の道標は、どこからか移設したのだろうか、境内の記念館前駐車場の分かりにくい隅に立っている。

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 箭弓神社には、昨年末観光ガイドから教わった話や、調べた多くの蘊蓄(うんちく)のある「お宝」がまだまだあるようだが、この続きはまた次の機会にしたい。

2013年1月12日 (土)

箭弓稲荷神社

 2013年1月7日(月)、埼玉県東松山市にある「箭弓(やきゅう)稲荷神社」に行ってみる。

 昨年2012/12/21(金)に箭弓稲荷神社を見学、ボランティアの観光ガイドの説明を聞いた。はじめて知った神社の由緒や、社殿の精緻な彫刻など記事にしておきたかったが、写真がうまく撮れなかったり、ガイドの話も聞き洩らした部分もあり、そのままになっていた。

 今年になって改めて箭弓神社を調べ、その一部を記事にしておく。

 

●箭弓稲荷神社の由緒

 箭弓稲荷神社の創建は、奈良時代の712年(和銅5年)と伝えられている。創建の頃は小さな祠だった。

 平安時代の中頃1028年に下総国の平忠常が謀反を起こし安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国の川越まで侵攻した(平忠常の乱)。
 朝廷は、源頼信を忠常追討の任に当たらせた。頼信は1030年、当地の野久(やきゅう)ヶ原に本陣を張り、「野久稲荷神社」に詣でて太刀一振と馬一頭を奉納、夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(弓に使う「矢」のこと)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭(矢)は敵を射るかのように敵陣の方向に飛んで行ったという。

 これを目撃した頼信は、神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込み快勝した。帰陣した頼信は、野久稲荷に戦勝報告を済ませると、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で武門の守護神であると、「野久稲荷」を「箭弓稲荷」と改めて呼ぶよう里人に命じ、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。

 以後、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主などの庇護を受け、多くの人達等の信仰を集めた。特に江戸時代には、江戸をはじめとして近隣・遠方からの多くの参拝者で、門前町をなした。

 現在も、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めている。

 日本三大稲荷の一つとされることもある。江戸時代7代目市川団十郎が石造りの祠を建立、芸道を願う守り神として、また箭弓(やきゅう)という名前から、プロ野球選手や野球関係者が多く参拝することでも有名。

 昨年2012年で「箭弓稲荷神社ご鎮座1300年」の節目を迎え、いくつかの記念事業が進められているようだ。

 

●社殿

 県の指定文化財になっている現在の社殿は、豪壮な権現造りで、江戸時代の天保6年(1835)に造営された。通常の御祈願は拝殿で執り行っており、宝物の絵馬は市の文化財でもあり、外からは見えないがこの拝殿内に掲げられているそうだ。

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 この絵馬八枚(東松山市指定文化財)は、「関羽と張飛」、「馬上の中国武人」、「武人と騎馬武者」、「予譲の仇討」、「牛若丸と弁慶」、「俵藤太秀郷」、「文人脇息に寄り」、「○二呉服店」だそうだ。

 

●三条小鍛冶

 拝殿正面の鳳凰と龍の間に、「三条小鍛冶」の彫刻がある。平安時代の代表的な刀工、京都三条の鍛冶宗近(むねちか)は、三条小鍛冶(さんじょうのこかじ)と呼称された。稲荷山の神霊の加護により、一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられている。
 

 
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 また拝殿正面左に掲げられている絵馬の意味が、最初よくわからなかった。後で調べると、稲荷明神のご神体が白狐の精霊の姿で現れ、剣を鍛え上げている宗近の「相鎚」を勤めている図のようだ。

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●仙人の烏鷺(うろ)

 これまで気がつかなかったが、箭弓稲荷神社の本殿裏には、仙人が烏鷺で遊んでいる白木の囲碁彫刻がある。烏鷺とは、カラスとサギのことで、黒白の石を使う囲碁の異称である。

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 囲碁は、古代の文人や中世の武将のたしなみの一つであったようだ。日光東照宮の陽明門や熊谷市の妻沼聖天山には、彩色された囲碁彫刻が有名だが、こんなところにもあったのかと驚く。

 

●司馬温公の瓶割り

 箭弓稲荷神社の元宮が、本殿の真後ろに鎮座している。ちょうど御神輿ぐらいの大きさの社殿には、彩色ある細やかな彫刻が施されている。周囲をアクリル板で被われ、高い所にあり全部を撮影できない。彫刻はかなり凝った細かい作品である。

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 この社殿に、興味深い「司馬温公の瓶割り」の彫刻がある。中国北宋時代の司馬温公の故事を題材としたものである。日光東照宮の陽明門のものが有名であるが、祭りの山車彫刻や絵画・陶器の図柄としてもよく取り上げられているそうだ。

 司馬温公は本名を司馬光といい、儒学に長けた北宋の政治家であった。瓶割の故事は司馬光が七歳の時の話で、友人と遊んでいる時にその一人が飲み水を貯めていた大きな水瓶に誤って落ちてしまった。溺れそうになっているのを見て、温公は機転を利かして水瓶を割って、その子供を助け出したというものである。
 下の方に、子供が割れた水瓶から流れ出るところが描かれている。人の命が、高価で貴重品であった水瓶であっても、いかに尊いかを説いている。

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 絵全体を撮影できないのが、残念。 

 

●拝殿の脇障子

 拝殿左の脇障子の前には、ちょうど御幣が置いてあり、残念ながら騎馬の中国武人の彫刻を隠している(写真左)。写真右はその脇障子の裏で、これも中国の武人と思われるが、何を題材にしているのか、よくわからない。

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 一方、拝殿右の脇障子は、有名な「黄石公と張良」の故事を題材にしている。

 漢の高祖(劉邦)に仕えた若き日の張良の話である。老人(黄石公、こうせきこう)は、履(くつ)を橋の下に落として、橋のたもと歩いていた張良に「拾え」と命じ、張良は怒らずそれに従った(写真左、脇障子の表)。張良は、黄石公の数々の試練に耐え、やがて兵法の秘伝を伝授される(写真右、脇障子の裏)。

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 ★ ★ ★

 拝観料の問題などあるだろうが、箭弓稲荷神社は見えにくい彫刻や社殿内部にある文化財の絵馬など、もっと改善できないのだろうかと思う。

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