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2012年7月の8件の投稿

2012年7月24日 (火)

月島周辺の風景

 2012年7月21日(土)、下町情緒の月島周辺をめぐる。

 13:00前、有楽町線の月島駅で下車。
 13:15~「佃三公園」の周りの佃三丁目の路地を散策。古い木造の家屋も多く、裏通りの家々の玄関先には、草花が並ぶ。

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 14:30、佃小橋を渡ると、佃一丁目、ここは昔の佃島。

 佃島は、隅田川の河口にできた自然の島(砂洲)であった。徳川家康が関東下降の際、ゆかりのあった摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃町)の漁民33人を呼び寄せ、土砂を埋め立てて拡張、築島して住まわせた。

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 佃島の「住吉神社」に行く。

 移民した佃島の漁民たちは、大阪の住吉神社の分霊を迎えて、この地に新たに分祀(ぶんし)し、佃住吉神社を起こした。佃島は現在の佃一丁目で、佃二丁目、三丁目は、かつて新佃島という地名だった。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれた。住吉神社は、この地域の氏神として信仰されている。

 今年8月3日~8月6日には、「住吉神社大祭」が行われる。町にはポスターが貼られ、祭りの準備が進められていた。

 佃島の特産品は「佃煮」。現在でも佃煮を販売する小さい店がある。天保8年創業という、元祖佃煮の「天安本店」に入ってみる。佃煮三品詰合せ1,000円を購入。

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 15:45~隅田川を眺めながら勝どき橋に向かって、「隅田川テラス」を歩く。隅田川テラスは、隅田川両岸に沿って整備された親水テラスで、舗装や緑化が施されて散策路や公園として、また治水上の堤防の根固めの役割を果たす。

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 勝どき橋を渡って、16:30~築地七丁目で懇親会、19:00解散。

 帰り道の勝どき橋の上から、隅田川を行き交う屋形船を眺める。

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 勝どき橋のたもとのデニーズで2次会19:30~20:30、23:10帰宅。この日も、1万数千歩は歩いた。

2012年7月23日 (月)

東京スカイツリー

 2012年7月17日(火)、日帰りの研修旅行。JAL整備工場見学と皇居参観の後、夕方東京スカイツリーに行く。

 皇居参観後、バスは外苑を15:15に浅草寺に向かって出発。予約の都合で、東京スカイツリーの入場が18:30から。1時間半ほど浅草寺境内を散策したり、仲見世で買い物など時間をつぶす。

 

★ ★ ★ 

 浅草寺の雷門は、正式名称を「風雷神門」というそうだ。1960年、松下電器産業の創設者松下幸之助が、門と大提灯を寄進した。その大提灯を下から覗くと、龍の彫り物があるのに今まで気がつかなかった。瑞雲に乗って、宝珠をつかむ龍だそうだ。

 
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 雷門前のスクランブル交差点から、東京スカイツリーが良く見える。

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 浅草寺雷門と本堂までの間の宝蔵門に、山形県村山市奉賛会が「大わらじ」を奉納。東京スカイツリーを背景に撮影。

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★ ★ ★ 

 

 18:00前、予定より早めにスカイツリー1階の団体バス駐車場へ。ここから一旦4Fにエレベータで上がると、「天望デッキ」へ上がる出発ロビー(写真下)がある。

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 エレベータは、フロア350と呼ばれる「天望デッキ」へ。この高さから初めて見る東京の景色に、思わず息をのむ。

 隅田川手前は隅田公園。右の橋は言問橋。左は吾妻橋。

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 中央に東京タワー、隅田川の左手の緑の屋根は、両国国技館。

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 東京ゲートブリッジと東京湾を遠望。左手前の緑は猿江恩賜公園、右手の緑は木場公園。

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 さらにその上にある「天望回廊」までは自由行動で、入場券1,000円。30分待ちの行列に並び、フロア445行きのエレベーターに乗る。エレベータの天井からは、ガラス超しにツリーの鉄骨が見える。

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 天望回廊に到着。天望デッキに比べ、100mの高度差のある天望回廊からの俯瞰は、全然違う。ここまで上って来て、良かった。

 緑の部分は、上野公園。遠くは、サンシャインビルなど池袋方面。

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 隅田川河口と晴海方面。遠くにレインボーブリッジとお台場方面。

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 左上は葛西臨海公園、荒川河口。中央は江東区方面。手前右の緑は、猿江恩賜公園。
 

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 18:50頃、雲を茜色に染めながら夕闇が迫る新宿ビル群。左手に富士山が見える。右手前の白いものは、東京ドーム。

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 19:30、雅(みやび)色にライティングされたスカイツリーをあとにし、21時半ごろ帰宅。

 

★ ★ ★

 

 東京スカイツリーは7月22日で、開業2カ月を迎えた。商業施設の「東京スカイツリータウン」を含む来場者は19日で約1,000万人を超え、予想を上回るペースだという。ツリーの展望台に上った人は、21日までに83万人、8月初旬には100万人に到達する見通しだそうだ。 展望台は当初完全予約制だったが、7月11日から天望デッキの当日券販売が始まっている。

 

 首都高速の渋滞でJAL整備工場への到着が遅れ、その後が時間に追われる強行スケジュールとなってしまった。熱中症が心配されるこの暑い中を歩き回ったが、有意義な旅行であった。

2012年7月22日 (日)

皇居参観

 2012年7月17日(火)、日帰りの研修旅行に参加。午前中JAL整備工場を見学、午後から皇居参観に行く。

 有明ワシントンホテルでのバイキングの昼食は、時間がなくて30分で済ませ、13:15バスは皇居に到着。
 桔梗門(ききょうもん)から入門する。この門は、皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」とも呼ばれている。「窓明館」という建物(休み所)に入り、紹介ビデオを見た後、参観コースを係員の案内で、約1時間15分、2.1Kmを歩く。

 元枢密院庁舎、桔梗門脇の石垣を見た後、三重櫓(やぐら)の富士見櫓(写真下)を見上げる。

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 宮内庁舎前を通り、宮殿の長和殿と宮殿東庭に向かう。

 この宮内庁舎(写真下)は昭和10年に建てられ、 庁舎3階は昭和27年改装され、 昭和43年の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。

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 宮殿は、昭和39年に起工、昭和43年完工したもので、外国の賓客と晩餐会などを開いたり、親任式(任命式)や歌会始など儀式・行事をしたりする所。正殿、豊明殿、長和殿などの7つの棟から構成されている。宮殿の中で一番長い建物が長和殿で、長さが160mある。新年と天皇誕生日の年2回、両陛下と皇族方が長和殿中央バルコニー(写真下)にお出ましになり、国民の祝賀を受ける。

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 その長和殿の前の大きな広場が宮殿東庭(写真下)。広さが約4500坪、約2万人が一度に参賀できるという。足元の石畳は、香川県産の安山岩、その下は駐車場になっており、約120台収容できるそうだ。

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 皇居前広場側から見たとき、石で造られた手前の正門石橋(めがね橋)があるが、その奥の鉄で作られた正門鉄橋(てつばし)が通称「二重橋」である。正門鉄橋を渡りながら、左手に正門石橋(写真下)と右手に伏見櫓(写真下)を見る。江戸城の西の丸大手門だった「正門」は、普段は閉じられており、天皇の特別な行事のある時や、国賓来訪の際以外は使われない。

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 正門鉄橋を渡った後Uターンして、長和殿の前の宮殿東庭に戻る。

 長和殿前には寒椿と山茶花の植え込みがあり、その脇にある11基の灯篭(照明塔)は有田焼。長和殿の左奥は「宮殿の南庭」で、樹木と芝生を配した広い地形を小川が流れているそうだ。東庭から見える二つの大きな刈込は、高さ6m、22種の樹木を合わせて小山のような「南庭の大刈込み」という。刈り込みは、職人が中に入り込んで、すべて手バサミで刈り込みをしているとのこと。

 葉と葉の間から光が灯すように作られた照明塔「松葉の塔」を左に入り、大きな玄関前を通る。この玄関は、「宮殿の表玄関南車寄せ」(写真下)と言い、各国の大統領や大使など外国の国賓など主賓の方が利用される。後方には豊明殿の一部が見える。

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 春秋には桜や紅葉が美しいという「山下通り」を下ると、蓮池濠(写真下)には蓮の花がちらほら咲いていた。

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 出発地点の窓明館の前へ戻り、参観は14:40終了。昼過ぎのちょうど一番暑い最中、ところどころに日陰があるものの、汗を流しながら参観だった。

 皇居前広場で記念撮影、皇居外苑で待つバスに乗り、15:15浅草寺へ向かう。写真下は、皇居前広場から見た正門石橋(めがね橋)。

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 皇居外苑に楠正成の像(明治30年完成、写真下)があるのは、意外と知られていないようだ。正成は、南朝の後醍醐天皇のために戦い、湊川の戦いで足利尊氏の軍に破れて自害した。後年「忠臣」として尊敬され、その武勇伝は明治政府以後、国威発揚のために利用された。ただし現天皇は、南朝でなく北朝の血筋を受け継いでいる。

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2012年7月20日 (金)

JAL整備工場

 2012年7月17日(火)午前中、JAL整備工場見学

 3連休明けの7月17日(火)、列島の広い範囲を高気圧が覆った日の東京都心は、今年一番の暑さとなる最高気温34.4度を記録、5日連続で最高気温が30度を超える「真夏日」となった。この日気象庁では、関東甲信越地方の「梅雨明け」を発表した。

 日帰りの研修旅行に参加。62名の参加者を乗せた貸切りバスを2台は、午前8時ごろ出発、最初の見学地の羽田空港へ向かう。

 首都高の渋滞で、予定より遅れて10時15分にJAL整備工場に到着。3Fの見学者ホールには航空機に関する展示物やジェットエンジン、コックピットの模型がある。撮影用に制服、制帽を着用もできる。

 見学者ホールの航空教室で、「飛行機はなぜ飛ぶか」の分かりやすい説明を受けたあと、10:50から4グループに分かれて、天井の高い巨大な格納庫へ案内された。ジャンボ機が何機分か入ってしまいそうな、野球グランドより広い巨大な施設。高さは約40mで、10 階建ての建物くらい。

 M1格納庫の中から、A滑走路を見る。対岸は、川崎・浮島の工場地帯。東燃ゼネラル石油のLPガスターミナルが見える。

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 M1格納庫とM2格納庫へ移動する連絡通路の左手(北東方向)を見る。手前の道路(環八通り)は、首都高湾岸線と交差する。左方向に羽田空港第1、第2ターミナルがある。右手の塔は、空港監視用レーダー塔。

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 M1格納庫とM2格納庫へ移動する連絡通路の右手(南西方向)を見る。道路は環八通りで、A滑走路の下(羽田空港トンネル)を経て蒲田方面に通じる。

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 見学デッキから、次にヘルメットをかぶってフロアに下り、目の前の航空機が見学。ちょうど政府専用機が整備を受けていた。すぐ外にはA滑走路が間近見え、離陸する航空機が見える。普通では見られない機体整備の様子を見学し、11:30に整備工場を後にする。

 JAL航空教室のホームページで、「工場の中の写真やビデオ撮影は、個人で楽しむ場合に限り可能ですが、インターネットや雑誌などへの投稿、または掲載は固くお断りします。」により、整備工場内の写真の掲載は割愛。

2012年7月18日 (水)

長崎から江戸へ旅した象-その4

 ブログ記事 「長崎から江戸へ旅した象-その3」について、追記する。
 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/3-43a4.html

 
 杉本苑子の小説『ああ三百七十里』の中で主人公の象は、「天皇と対面する京都御所では、脱糞して護送役の役人たちをあわてさせた。役人はその上に羽織をかけ、事なきを得た。」といった内容がある。

 この話は石坂昌三著の『象の旅-長崎から江戸へ』の中に出て来ないと書いた。その後読み返したら、第4章「東海道を象が行く」の(7)節「東海道のど真ん中」で、袋井宿辺りを歩いているシーンで、2行ほど触れてあった。
 
 

 原文から以下に引用する。

 ”象が通りかかると百姓たちは手を休め、腰を伸ばして見送った。沿道では赤ん坊をおぶった子供たちが好奇の目を輝かせていた。
 象はこうした働く百姓に、道々贈り物をしていた。両手に納まらなくらい大きな糞である。大食漢の象は所構わず大量の糞をする。
 実は、京都御所に参内したときも、象が糞をし、「畏れ多いこと」と福井が来ていた羽織をさっと脱いで、糞に懸けて隠したのであった。
 一個分が牛や馬の糞の三倍もある象の糞は、百姓には肥料として有難かった。象が通過すると子供たちが奪い合い、道は掃除しなくてもたちまちきれいになった。”

 石坂昌三は、この京都御所の脱糞の話をどの文献から引用したのだろうか。

★ ★ ★

 中野村から将軍の象が飼われていた浜御殿(現在の浜離宮)に、竹笹などの餌を運んでいた百姓の源助は、帰りに象の糞を持ち帰り、肥料として近所の百姓に売っていたそうだ。そのうちに源助は、当時流行っていた麻疹(はしか)や疱瘡(ほうそう、天然痘)に効く薬として売って儲けたという。あながちウソではあるまい。

 糞は、古来から漢方薬として用いられてきた。戦国時代には、馬糞に薬効があると信じられ、傷口に塗ったり、直接食べるか水でといて飲んだりしたらしい。白牛の糞が麻疹に効くともいわれていたこともあり、霊獣の象の糞ならもっと効くだろうとのことであった。
 なお一般的に、肉食獣に比べると、草食獣の糞の臭いは少ないらしい。インドやアフリカなどでは、牛や家畜の糞を医薬品以外に、いろいろな生活用品として利用している国もある。

★ ★ ★

 最近ネットで、享保時代に将軍吉宗に献上したゾウの旅について、挿絵とともに児童向けに書いた本を見つけた。
 小林清之介(著)『ゾウの大旅行』 小峰書店 1970  「動物ノンフィクション」シリーズ

 小林清之介は、動物文学者、俳人で、児童向けの昆虫の本が多い。この本は、すでに絶版になっており、中古でも入手困難らしい。40年以上も前に、このような児童向けの本が出版されていたことに驚く。

2012年7月 9日 (月)

珍獣?霊獣?象が来た!-その2

 2012年6月10日まで開催されていた長崎歴史文化博物館の『珍獣?霊獣?象が来た!』展覧会では、長い歴史の中で日本人が象とどう関わりを持ち、象に対していかなるイメージを持ったのかをテーマに、多くの作品が展示されていた。
 あらためて、『珍獣?霊獣?象が来た!』の展示図録を見る。

 

 普賢菩薩を背に乗せる霊獣としての白象の姿は、現代でもよく見かけることがある。しかし鼻の特徴はあるものの、また牙が6本あったり、顔つきは獅子に似ている。菩薩は、まるで子牛か子馬に乗っているようで、実際の象の大きさを実感することはできない。
 下の写真は、京都・相国寺蔵の「普賢菩薩像」で、展示品にはない。

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 涅槃図の中にも、釈迦の死に際に嘆く悲しむ菩薩、弟子たちや動物に交じって白象が描かれている。下の写真は、展示品にはないが、長谷川等伯の「巨大涅槃図」。左下に白象が他の動物と一緒に座り込んでいる。象を含め動物たちの様子は何やら漫画的だ。
 現在でも、お釈迦さまの命日2月15日の「涅槃会(ねはんえ)」には、仏教寺院では大きな「涅槃図」を本堂に掲げ、人々がお参りしている様子を目にする。また釈迦の誕生日4月8日の「花まつり」では、子どもたちにとっては甘茶をいただく日で、白象を引く稚児行列を出す寺も多いという。

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 儒教にかかわりの深い中国の孝行話24話を集めた「二十四孝」が、日本にも伝わった。初めて知ったことだが、その第1話に孝行息子を助けて畑を耕す白象が登場する。
 江戸幕府が儒教を広める文教政策もあり、「二十四孝」の版本や浮世絵などが大いに流行したそうだ。社殿の欄間彫刻のモチーフとしても、よく知られている。
 普賢菩薩と涅槃図が代表的な象の仏画だが、二十四孝の象も当時の庶民はよく目にしたに違いない。下の写真は、江戸時代の歌川国芳の浮世絵で、本展覧会にも展示されていた。象はかなりリアルである。

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 展示図録のこの絵の解説には、「孝行を助けるその尊い姿の根幹には、・・・ 霊獣という前提があったはず」と書かれている。

 

 根付(ねつけ)は、煙草入れ、矢立て、印籠や袋物などを、紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具で、材質は堅い木や象牙などが多かった。オランダ船を描いた絵に、象牙が積まれていたり、象牙を荷降ろしする様子が描かれているものがある。江戸時代には象牙を輸入し、象牙工芸が発展した。特に根付や印籠など、優れた工芸品が多い。

 
 明治以降、象牙の輸入量が増えると、三味線のバチや箏の爪、糸巻の高級品に使用された。更に大正・昭和に入ると、喫煙パイプが主な象牙製工芸品となった。日本は最大の象牙輸入国であったが、ワシントン条約により、1989年より象牙の貿易は禁止されている。
 展示図録を見ると、江戸時代から明治にかけての多くの根付や象牙工芸品が展示されている。また象を描いた道具箱や、象を描いたり、かたどった陶磁器など美術品もある。   

 象が霊獣とするなら、霊獣の象牙に対してはどのようなイメージを持って加工や使用していたのだろうか、不思議である。
 

 

 象は、室町時代までは霊獣として仏画に描かれている。安土桃山時代から江戸時代には、実際の象が入ってきたりして、だんだんと絵もリアリティを増し、霊獣としてだけでなく、珍しい異国のけもの、つまり珍獣でもあった。日本人の心の中には、霊獣と珍獣の二つが併存していたのだろうか。

 そして展示図録には、更に象のイメージは拡散して、日本人の心には霊獣・珍獣を越えたユーモラスな象として、伊藤若冲や長沢芦雪などの絵師が描いた新たな作品が現れたとしてしている。下の写真は展示図録の表紙で、上段に長沢芦雪の「白象唐子図屏風」の一部、下段に伊藤若冲の「象と鯨図屏風」の一部が使われている。

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 日本人の象に対するイメージは、霊獣か珍獣とかの一元的なものでなく、多元的なものになっていったようだ。何にやら象のイメージは、日本人の持つ多神教の宗教観や、東洋哲学の多元論のような広がりをもつ存在に思えてくる。

浅草寺の風景

 2012年7月7日、1年ぶりに浅草寺を巡る。

●昼過ぎには雨になりそうな午前10時半過ぎ、浅草の「雷門」から見る「仲見世」。

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 土曜日で、相変わらず混雑している。震災の影響で一時減っていた外人観光客が、増えたようだ。雷門をくぐった外国人は、この仲見世通りの日本的情緒に大感激するらしい。

 浅草の顔としても有名な雷門は、松下電器創始者松下幸之助氏の寄進により、復興再建された。

 

●仲見世通りと交差する伝通院通りから見る東京スカイツリー。

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 突然この空間にスカイツリーが見えるので、観光客が喜んで写真を撮っている。この先の本堂の前からも良く見えるのだが。

 

●雷門の先にある「宝蔵門」。

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 この宝蔵門は、ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏の寄進により復興再建された。

 

●「弁天堂」の入り口の一対の狛犬。
 

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 宝蔵門手前の右側に、弁天山と呼ばれる小丘の上「弁天堂」と鐘楼がある。

 

 
 

●宝蔵門手前に、「母子地蔵」の赤いのぼりと石像が立つ。
 アニメ風な顔つきの地蔵だなと思ったら、やはり漫画家のちばてつや氏のデザインだそうだ。

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 旧満州で終戦の混乱の中で、日本に帰れなかった多くの母親と子供たちの霊をなぐさめるため、平成9年に建立された。

 

●宝蔵門の脇には休憩所があり、その前にポンプ式の井戸がある。
 

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 こんなに所になぜ突然ポンプがあるのか、よく分からない。この水は飲むことはできないので、主に手洗い用とのことだ。

 

●お水舎(みずや)の龍。

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 この龍の上には、高村光雲作の「龍神像」があり、また天井には東韻光画の「墨絵の龍」がある。龍神像は、以前本堂裏にあった噴水に安置されていた像である。龍や龍神は、水をつかさどる神。
 

 

 
●本堂前から見た東京スカイツリー。雨が降りそうな雲行きで、ツリーの第二展望台は雲に隠れている。

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●本堂の西側に、童謡「鳩ポッポ」(東くめ作詞、滝廉太郎作曲)の歌碑がある。
 この石碑の上に、銅造のあたかも生きているような鳩でがとまっていた。

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●浅草寺西側にある「花やしき通り」。仲見世通りとは、また違った雰囲気。

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 浅草「花屋敷」は、日本の遊園地の原型と言われていて、1853年(嘉永6年)にオープンしたそうだ。

2012年7月 3日 (火)

珍獣?霊獣?象が来た!

 長崎歴史文化博物館で、特別企画展『珍獣?霊獣?ゾウが来た!~ふしぎでめずらしい象の展覧会~』が、4月21日(土)~6月10日(日)開催された。
 江戸時代、長崎には2度象がやってきているが、日本人が象に対するイメージはどのようなものだったのか、象をテーマにした史料が展示され、講演もあったようだ。こんなチャンスはない、ぜひ観覧に行きたいと思っていたが、ついつい行きそびれてしまい、惜しいことをした。

 

 その展覧会に行った来たT氏から、先日(6/17)長崎歴史文化博物館で買ったという本を借りて見てみた。半分くらい目を通したところで、どうしても自分の物を欲しくなり、どこかで販売してないかネットで探して見たが、見つからない。
 この本は、『珍獣?霊獣?ゾウが来た!・・・・展覧会』の「展示図録」という本だ。

 博物館に直接電話してみたら、電話を受けた担当者が、親切に教えてくれた。この「展示図録」は、博物館内の「ミュージアムショップ」に置いてあるそうだ。ここの書籍コーナーには以前行ったことがあるが、他では手に入らない貴重な長崎関係の本が、たくさん置いてあった。

 現金書留で2,500円(本体2,000円+送料500円)を博物館ショップに送れば、レターパックで送付してくれるとのこと。現金書留料金が500円だったので、結局合計で3,000円かかったが、3日後には配達され、手に入れた(写真下)。

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 この「展示図録」を読むと、日本人の象に対するイメージについて、よくわかる。

 古代より、普賢菩薩を乗せた白象が仏画として描かれていて、象は龍や麒麟、獅子などのような架空の動物であり、「霊獣」であった。
 それが、室町時代以降に日本人が実際の象を見る機会があって、「珍獣」となった。この時の象は白象でなく、実際の灰色の象であったが、日本人は白象と灰色の象を、「霊獣」と「珍獣」とに区別て理解したのだろうか。

 

 2012年4月12日付「ものみ・ゆさん」のブログ「長崎から江戸へ旅した象」
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-845e.html

に書いたように、象が日本に最初にやって来たのは、室町時代1408年(応永15年)に若狭の国(福井県小浜市あたり)にインド象を乗せた南蛮船(スマトラ島からと推測される)が到着した。象は、京都の将軍足利義持に献上されたという。
 その後、大友宗麟(1575年、天正3年)や豊臣秀吉(1597年、慶長2年)、徳川家康(1602年、慶長7年)へと、各国から象が送られている。灰色の象は、博物館に展示の「南蛮屏風」にも行進する様子が描かれている。
 多くの日本人が見物して、象の大フィーバーを巻き起こしたのは、6回目の来日で長崎に到着(1728年、享保13年)した将軍吉宗献上の象で、長崎街道から江戸へと長い旅をした。

 

 江戸時代には、この「享保の献上象」の85年後の1813年(文化10年)、オランダ船に偽装したイギリス船が長崎に牝象1頭を持ち込んだ。長崎奉行所が検分し幕府に報告、幕府は受け取りを拒否、積み戻された。どういう理由で持ち込んだのか、この話も調べると面白そうだ。この時象を見たのは、積み戻されるまで滞留したの3ヶ月の間、長崎の人だけだった。
 幕末の1863年(文久3年)、アメリカ船が3歳の牝象を当時開港したばかりの横浜に持ち込んでいる。この象は、見世物で全国を興行して、14歳の1874年(明治7年)に奈良で死んだという。

 188年(明治21年)、上野動物園にタイ王国から牡牝2頭の象が寄贈された。明治以降の象は、「霊獣」や「珍獣」ではなく、動物園の「ゾウさん」として、特に子供たちに親しまれるようになったのだ。

 

 昔は、仏画に出てくる「普賢菩薩」に仕える神聖な象や「涅槃」に登場する象、空想上の象、権力者に献上される象、吉宗が考えた軍事用の「戦象」、そして「見世物」の象であった。現代では、動物園の人気者の象であり、空襲に備え餓死させた上野動物園の「かわいそうなぞう」、ネール首相から贈られた友好の象「インディラ」だったり、絵本に出てくるやさしくて力持ちの象、マホービンの象印、製薬会社のキャラクターの象、デズニーの「ダンボ」などなど多くの物語や作品に登場している。

 文字のない石器時代、日本列島が大陸と陸続きだった頃、我々の祖先たちは「ナウマンゾウ」を獲物しとしていたこともあったのだが・・・。

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