長崎から江戸へ旅した象
享保年間に、ゾウが長崎街道を歩いて江戸の将軍に献上された。長崎街道の肥前大村に、郡川(こおりかわ)という川があり、当時は橋がなく「飛び石」が置かれていた。象は、その飛び石を大きな太い足で器用に渡った、という話を読んだことがある。
日光東照宮に、上神庫(かみじんこ)という建物がある。ここに狩野探幽の2頭の象が彫られているが、この象は耳や尻尾などが実際の象と違っている(写真下)。想像で描いたので、「想像の象」と呼ばれる。平安時代に白象に乗る普賢菩薩の仏画が渡来したが、江戸初期の頃迄に実際の象を見た日本人は、まだ一部の人達で、正確な絵や記録がなかったのだろうか。
日本に最初にやって来たのは、室町時代1408年、若狭の国(福井県小浜市あたり)にインド象を乗せた南蛮船(スマトラ島からと推測される)が到着した。象は、京都の将軍足利義持に献上されたという。その後、大友宗麟や豊臣秀吉、徳川家康へと、各国から象が送られたそうだ。
多くの日本人が見物して、象の大フィーバーを巻き起こしたのは、6代目の来日で長崎に到着した将軍吉宗に献上される象で、長崎街道から江戸へと長い旅をした。どういうルートを通ったのだろうか、海峡や川はどうやって渡ったのか、どのような旅だったのか、初めて見る沿道の庶民の反応はどうだったのか、飼育する上でどんな苦労があったのか、興味はつきない。
しばらくこの話にはまってしまって、いろいろ資料を調べてみた。書籍もいくつか出ているようだが、すでに古本になっている次の本(写真下)を手に入れて読んでみた。
石坂 昌三(著) 『象の旅―長崎から江戸へ』 新潮社 (発売1992/05) 単行本
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8代将軍吉宗が注文した象は、中国商人によって発注から2年後の享保13年(1728年) 6月、唐船に乗って長崎にやってきた。ベトナム生まれのオス(7歳)とメス(5歳)の2頭の仔象は、長崎に着くとしばらく、唐人屋敷の中で飼育された。
残念ながらメスの象は、まもなく死んでしまう。生き残ったオスの象は、春を待って、翌年3月13日に長崎を出発した。海路か陸路かという問題があったが、シケで遭難の恐れもあり、当時は長崎から江戸までの幹線はだいぶ整備されていたので、陸路を選ぶことになった。長崎奉行の役人、ベトナム人の象使いの総勢14名に守られ、長崎街道から、山陽道、東海道を通って、江戸城まで歩く。
街道沿いの藩や宿場には幕府から通達が出て大騒ぎだった。道の清掃、象の飲み水と大量の飼料の準備、拍子木や寺の鐘は鳴らさないこと、牛・馬や犬・猫は近づけないこと、街道には縄を張り見物で騒がないこと、など全国の街道沿いで一斉に行われたという。
浅い川は、そのまま象が歩いて渡り、橋は補強したりして、ゆっくり渡ったそうだ。自力で渡れない川は、イカダを組んだり、船を並べたりして渡河した。こういった費用は幕府が負担したわけでなく、街道の藩、町や村がほとんど負担したようだ。
3月24日に小倉城下の宝町に到着、このうわさを聞いて集まった人々でお祭りのように賑わった。翌日は、藩主小笠原忠基が訪れ見物した。関門海峡は、石船(石材を運搬する船)に載せ、遭難しかけながらも なんとか渡った。
4月20日に大阪に到着し4日滞在、26日には京都へ到着し3日滞在した。御所では、時の中御門(なかみかど)天皇や霊元法皇に前足を膝間づいて謁見。感激した天皇、法皇は、その和歌を残している。天皇と謁見するため、象はあらかじめ「広南従四位白象」という位を授かった。
揖斐川は水没しながらも歩いて渡り、長良川と木曽川では馬を運ぶ馬船を2隻つなぎ、その上に象小屋を作って運んだ。浜名湖の北側にある姫街道に迂回した時には、あまりの急坂に象が悲鳴をあげたという難所があり、ここを村人は「象鳴き坂」と名付けた。天竜川と大井川は、歩いて越えた。
長旅の疲れと箱根峠の急坂で、5月17日箱根宿に着くとダウンしてしまう。付き添ってきた役人たちは慌てふためき、江戸城へ早馬で知らせる一方、護摩を焚いて病気平癒を祈り、象の好きな竹の子なども取り寄せ、懸命に手当をした。こんな所で象を死なせたら、役人たちは切腹ものだ。幸い象は3日間で元気になった。
川崎で六郷川(多摩川)を渡る時は、象のために舟橋を作った。30隻の船を集めてつなぎ、浅瀬に杭を打ってそれに船をつないで固定し、舟橋を完成させ。延べ作業員約800名、工事期間は7日間だったが、このあと舟橋は直ちに解体された。舟橋は、大名の参勤交代の折りにも各地で架けられたが、使用後にはやはり解体されていたそうだ。
象の旅は350里(約1,400km)、およそ74日掛かって、5月25日に江戸に到着。27日江戸城に参上、将軍、諸大名の前で曲芸を披露した。そして、将軍の別邸である浜御殿(現在の浜離宮)で、飼われることになる。江戸城にも度々参内し、大名や江戸の町民たちが見物し、瓦版にも紹介された。
民衆のあいだで、「象さまブーム」が巻き起こった。象の絵が描かれた瓦版は瞬く間に売り切れ、双六などのおもちゃ、象のキャラクターグッズ、『象志』や『訓象俗談』といった象に関する雑誌も出版された。歌舞伎の演目の一つに、『象引(ぞうひき)』というのがあるそうだが、これもこの頃に創られたのではないかといわれている。(写真下は、『[享保十四年渡来]象之図』)
10年以上浜御殿で飼われていたが、飼育係が象に殺されるという事件があり、中野村の百姓・源助という人物に払い下げられた。源助は、見世物にして木戸銭を取ったり、土産の象饅頭を売ったりした。そのうち大量の飼料調達に耐えられなかったのか、1年以上経って寛保2年(1742年)12月、象は21歳で死んでしまった。死因は、餓死と凍死によるものだった。源助は、頭骨と牙を「宝仙寺」に納めて、供養した。牙の一部が、宝仙寺に今でも残っている。
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この本が出版されてもう20年も経つ。活字も小さく、難解な漢字も多く、ところどころに古文書が引用されていたりして、読解に苦しんだ。しかし、この享保の象の話は、我々の夢やロマンをかきたてる。長崎から江戸までの距離を、まだ成獣になっていない仔象を歩かせたことは、世界でも例のないことだったようだ。徳川中興の祖である吉宗は、何にでも興味を示す人でもあったが、二三度象を見たら興味を無くしまった。やがて象ブームが去り、幕府は倹約令の手前、象は厄介者になってしまう。異国から日本に連れてこられた将軍の象は、人間たちの勝手で哀れな最期であった。
著者の石坂昌三は、日刊スポーツ新聞社で映画担当記者をつとめ、退社後映画評論家として活躍、「巨匠たちの伝説―映画記者現場日記」、「小津安二郎と茅ケ崎館」などの著書もある。あるきっかけで、安南人の象使いに曳かれて歩く象の絵を見て、この「象の旅」に興味を持ったという。著者とって少し畑違いと思われるこのドキュメンタリーは、書き下ろすまでに大変な労力や苦労があったのだろう。資料や古文書のコピーを集め、また実際に象が通った街道の一部を歩いてみたりしている。読むと結構、関連する歴史や地理にも詳しく、学ぶことも多かった。この象の話を司馬遼太郎だったら、どのような歴史的な観点で書いたのだろうか、人間模様をどう描いたのだろうか、もっとこの話が有名になっていただろうか、など想像してみたりする。石坂昌三は、2003年4月、70歳で亡くなっている。
街道沿い各地には、まだまだ本書に書かれていない、象が通った時の記録や絵、言い伝えがたくさん残っているようだ。街道の菓子屋には由来の象まんじゅうが売られていたり、博物館や資料館には由来の象をかたどった装飾品や絵などあったりする。
先日「戦火の馬」というスピルバーグ監督映画を見た。これは奇跡の馬と人間との絆の話であるが、この象の話も、もっと小説とか映画、テレビドラマになっても、おかしくない。
長崎歴史文化博物館で、特別企画展「珍獣?霊獣?ゾウが来た!」が、20012年4月21日(土)~6月10日(日)で開催されるそうだ(写真下)。江戸時代、長崎には2度象がやって来たが、その当時の象をテーマにした史料が展示、講演もある。ぜひ観覧したいものだ。
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