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2011年12月の3件の投稿

2011年12月 8日 (木)

エミー・ジャクソン

 最近、テレビの懐メロ番組を見てたら、安西マリアが1970年代の曲「涙の太陽」を歌っていた。すぐには名前が出てこなかったが、エミー・ジャクソンを思い出した。もうずーっと彼女をテレビで見たことがない。


 

 「涙の太陽」のオリジナルは、エミー・ジャクソンのデビュー作、代表作である。
 エミー・ジャクソンは、日本のアイドル歌手で、和製ポップスの元祖。1945年にイギリスで生まれ、父方の祖父がイギリス人という。1964年に、ラジオ関東のDJ番組のアシスタントを勤めていた時、湯川れい子に見いだされ、翌65年4月に日本コロムビアよりデビューした。

Emy_jackson1    Emy_jackson2_2

 

 同じ年の5月に、青山ミチによる日本語バージョン(作詞:湯川れい子)が発売され競作になったそうだが、あまり憶えていない。むしろ、不祥事を起こして復帰した時に歌った、「叱らないで」という曲が記憶にある。その後、1978年に覚せい剤で逮捕され、芸能界から追放された。

 8年後の1973年、安西マリアが青山ミチの日本語バージョン「ギラギラ太陽が燃えるように・・・」を歌い、ヒットした。

 「涙の太陽」と聞くと、安西マリアよりも自分の世代は、断然60年代のエミー・ジャクソンだ。エミーは、一度芸能界を引退したが、現在はライブハウスなどで歌っているらしい。懐メロ番組には、安西マリアしか出て来ないのは残念だ。

 

 
 あの60年代には、思い出に残る良い曲がたくさんあった。
 高校の友人が、洋楽ポップスのレコードを持っていて、よく聞かせてもらった。ラジオの深夜放送も良く聞いていた。

 中でも「涙の太陽」は、エレキギターのリズムにのせた迫力あるイントロで、ハーフの女の子の英語の発音が新鮮で、衝撃を受けた。歌詞も切なくて、彼女は少しボーイッシュで、チャーミングだった。
 当時、プレイヤーは持っていなかったのだが、初めて買ったのがこのレコードだった。

 

 「涙の太陽」 Crying in a storm

  歌手:エミー・ジャクソン Emy Jackson
  作詞:R.H.Rivers (「Reiko Hot Rivers」と名乗っている湯川れい子のこと)
  作曲:中島泰利

 Take me take me
 take my heart and all
 I was born to be yours

 Love me love me
 get me hold me tight
 Now I'm crying in a storm

 この先の歌詞は曲が早すぎて、何度もトライしても、歌えなかった。

 

 

2011年12月 4日 (日)

ものみ・ゆさん

 このブログ「ものみ・ゆさん」のサブタイトルは、

  物見遊山で終わらない-学ぶ「ものみ・ゆさん」 

です。

 

 広辞苑(第六版)によると、「物見遊山」は、「物見と遊山。見物して遊びまわること」とあります。

 また「物見」とは「物事を見ること」、「遊山」は「①山野に遊びに出かけること」です。

 江戸時代には、「遊山茶屋」、「遊山船」とか「遊山宿」などという言葉も登場し、山などの風景を楽しみにいく遊びという意味が定着したそうです。今では、あまり良い印象の言葉ではありません。

 

 しかし「遊山」は本来は仏教語で、広辞苑(第六版)にも、「②禅家で、すでに修行を終えた後、諸方に遊歴すること」ともあります。

Photo_7   Photo_11

        (写真は、広辞苑第二版補訂版。内容は六版とやや異なる。)

 

 「遊」は自由に歩きまわること、「山」は寺のことです。つまり、他山(他の寺)に修行遍歴の旅をすることとなります。
 
 それが次第に、寺院での修業を終えた僧侶が独自の悟りを開くため、山中へ籠もって更なる修行をすると言う意味に変化したということです。 


 転じて、山野の美しい景色を楽しみ、曇りのない心境になることを意味するようになったそうです。

 

 この平仮名の「ものみ・ゆさん」は、単なる「物見遊山」でなく、

   山野の自然を楽しみ、歴史と文化を旅し、真実を学ぶ

ことを意味しています。

2011年12月 1日 (木)

テレビ「蝶々さん」その2

 テレビ「蝶々さん」についての続きです。

 

 オペラ「蝶々夫人」の第1幕で、駐長崎領事シャープレスが、米海軍士官ピンカートンが結婚することになった15歳の少女蝶々さんに身の上を問います。

 彼女は、実家は「大村の没落士族」であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露します。

 

 一方、市川森一のNHKドラマでは、元「佐賀藩の士族」の娘として生まれた蝶々さんは、江藤新平の「佐賀の乱」に巻き込まれて父を亡くした、とあります。

 そして祖母と母は、彼女に熱心に学問をさせ、武家の娘としての心構えを教え込みます。佐賀藩の武士道の書「葉隠れ」の中に、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節が、良く知られていますが、彼女の最期を暗示しています。

 TVドラマの中では、出身地を「深堀」だと、蝶々が言う場面がありました。
 「深堀」はどこかというと、今は長崎市深堀町、昔は「西彼杵郡深堀村」で、戦後長崎市に編入されました。

 

 戦国時代、「深堀氏」という領主がいました。
 大村氏(純忠)とその重臣・長崎氏(甚左衛門)は、長崎を開港しキリスト教の布教と貿易を発展させます。長崎氏は、長崎の港の入口に領地を持つ「深堀氏」と、諫早の「西郷氏」と連合軍に挟まれており、佐賀の「竜造寺氏」の攻撃も受けていました。

 開港10年後には、純忠と甚左衛門は敵の攻撃から守るために、長崎をイエズス会に寄進します。

 その後深堀氏は、秀吉の九州(島津)征伐に従軍し、本領を安堵されます。西郷氏は、秀吉の九州征伐に従わなかったため、領地を没収され佐賀の竜造寺に与えられました。竜造寺氏は、執政の鍋島氏に実権を奪われ、佐賀鍋島藩に変わり、深堀氏は鍋島氏の重臣となって、佐賀藩の一部となります。

 

 つまり蝶々夫人の時はすでに明治ですが、深堀は長崎の近くにあるの飛び地である旧「佐賀藩深堀領」でした。現在の長崎市内にも、旧佐賀藩の領地に当たる部分がいくつかありました。

 

 架空の人物である蝶々さんの出身地が、大村藩か佐賀藩かどちらでも良いのですが、テレビで「深堀」という地名を聞いて大村純忠の時代へ、歴史をさかのぼってみました。

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