テレビ「蝶々さん」その2
テレビ「蝶々さん」についての続きです。
オペラ「蝶々夫人」の第1幕で、駐長崎領事シャープレスが、米海軍士官ピンカートンが結婚することになった15歳の少女蝶々さんに身の上を問います。
彼女は、実家は「大村の没落士族」であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露します。
一方、市川森一のNHKドラマでは、元「佐賀藩の士族」の娘として生まれた蝶々さんは、江藤新平の「佐賀の乱」に巻き込まれて父を亡くした、とあります。
そして祖母と母は、彼女に熱心に学問をさせ、武家の娘としての心構えを教え込みます。佐賀藩の武士道の書「葉隠れ」の中に、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節が、良く知られていますが、彼女の最期を暗示しています。
TVドラマの中では、出身地を「深堀」だと、蝶々が言う場面がありました。
「深堀」はどこかというと、今は長崎市深堀町、昔は「西彼杵郡深堀村」で、戦後長崎市に編入されました。
戦国時代、「深堀氏」という領主がいました。
大村氏(純忠)とその重臣・長崎氏(甚左衛門)は、長崎を開港しキリスト教の布教と貿易を発展させます。長崎氏は、長崎の港の入口に領地を持つ「深堀氏」と、諫早の「西郷氏」と連合軍に挟まれており、佐賀の「竜造寺氏」の攻撃も受けていました。
開港10年後には、純忠と甚左衛門は敵の攻撃から守るために、長崎をイエズス会に寄進します。
その後深堀氏は、秀吉の九州(島津)征伐に従軍し、本領を安堵されます。西郷氏は、秀吉の九州征伐に従わなかったため、領地を没収され佐賀の竜造寺に与えられました。竜造寺氏は、執政の鍋島氏に実権を奪われ、佐賀鍋島藩に変わり、深堀氏は鍋島氏の重臣となって、佐賀藩の一部となります。
つまり蝶々夫人の時はすでに明治ですが、深堀は長崎の近くにあるの飛び地である旧「佐賀藩深堀領」でした。現在の長崎市内にも、旧佐賀藩の領地に当たる部分がいくつかありました。
架空の人物である蝶々さんの出身地が、大村藩か佐賀藩かどちらでも良いのですが、テレビで「深堀」という地名を聞いて大村純忠の時代へ、歴史をさかのぼってみました。
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