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2018年3月26日 (月)

映画「北の桜守」

 3月24日(土)、吉永小百合主演の映画『北の桜守』を観る。
 

 『北の桜守』は、2018年3月10日から全国東映系で公開された。戦前、樺太で幸せな生活を送っていた家族が、ソ連軍の侵攻で追われて、北海道へ逃げて来た。戦後、北の大地で過酷な自然と時代の荒波を懸命に生きた母と子が、長年にわたる別離を経て、失われた家族の記憶を巡る旅に出る。

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 映画『北の桜守』は、2005年の『北の零年』、2012年『北のカナリアたち』に続く吉永小百合主演の雄大な北海道を舞台にした人間ドラマ「北の三部作」の三作目・最終章。吉永小百合は、本作が120本目の映画出演作となるそうだ。今年2018年は、北海道命名150年を迎える。

 監督は、日本アカデミー賞と米国アカデミー賞を受賞した『おくりびと』(2008年、本木雅弘主演)の滝田洋二郎。この映画で納棺師という職業を初めて知ったが、本木雅弘が好演。

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 脚本は、多くの映画やテレビで脚本を手掛けている那須真知子。『北の零年』、『北のカナリアたち』も彼女の脚本。原作があるのは『北のカナリアたち』だけで、二つの作品には原作は見当たらない。
 

 ★ ★ ★

 太平洋戦争末期を迎えた1945年。日本領土だった南樺太で大きな製材所を営み、幸せに暮らしていた江連徳次郎(阿部寛)の家族。庭に一輪の桜が咲いた。徳次郎が本土から持ってきた種を妻・てつ(吉永小百合)が育て上げ、やっと咲いたその花は家族にとって希望の花だった。「満月の日、満開となる桜を、家族4人そろって見よう」と。

 しかし終戦直前、ソ連軍が突然南樺太に侵攻、出征する徳次郎と別れ、追われるようにてつと息子2人は、北海道の網走へと命からがら逃げる。そんな親子は戦後、厳しい自然環境や飢えに苦しむ貧困と戦いながら、食うためにヤミ米屋の菅原(佐藤浩市)の仕事を手伝い、夫の友人・山岡(岸部一徳)の助けを借りながら、懸命に生き抜く。

 そして、時は過ぎて札幌オリンピックを翌年に控えた1971年。母と離れてアメリカで暮らし、ビジネスに成功した次男の修二郎(堺雅人)が、日本初出店のホットドック店の日本社長として帰国。そして、15年ぶりに網走を訪れた。そこには兄の姿はなく、老いた母だけが、いまだ帰らぬ夫を待ち続けながら、あばら家でつつましく独り暮らしをしていた。

 てつを札幌に引取った修二郎夫婦は、面倒をみる。しかし都会の生活に馴染めず、徐々に不可解な行動が目立つようになる。年老いたてつは、あの戦争の傷を心に抱えたままだった。

 そんなある日、てつが突然姿を消す。日本初の出店に精を出す修二郎やその妻・真理(篠原涼子)に迷惑をかけたくないと思い、一人網走に戻ろうとしたのだ。だが、網走の家はすでに取り壊されていた。帰る場所を失ったてつのために、一緒に寄り添いたいと思う修二郎。二人は、北海道の大地で思い出を辿る旅に出る。北へ北へ、失われた記憶に向かって 二人は歩き続けた。やがてその旅路の果て、サハリン(樺太)を望む日本最北端の海辺で、親子が決して忘れられない衝撃の記憶が呼び戻されたのだった。
 

 
 吉永小百合は、さすが大女優。現在73歳とは思えないほど若々しく、昔の面影が残っていたのが印象的。終戦直前の30歳後半くらいの役柄には、全く違和感がない。しかし阿部寛と夫婦役というのは、実年齢の差がどことなく無理がある。阿部寛も名優だが、他に適当なはまり役はいなかったのだろうか。

 しかも映画の中に唐突に、たびたび舞台演劇のシーンを挟んでいるのはいただけない。心情や背景、ストーリーを分かり易くしているつもりだろうが、映画を観ているという雰囲気が壊された。、また細かい点は省略するが、修二郎がアメリカに行く理由、ホットドッグ店のビジネスのやり方、ヤミ米の運び屋になるストーリーなど、いくつかの点で不自然で稚拙な所があって気になる。

 笑福亭鶴瓶が居酒屋の親父として出てくるのは許せるが、堺雅人が母を探して回るシーンで、なぜ水商売風の高島礼子がチョイ役で出てくるのか。アメリカ育ちで日本の習慣に馴染めないという真理役の篠原涼子の所作も大げさで、どことなく無理がある。しかし、母子の隙間に入り込めない嫁の気持ちは、よく伝わってくる。

 沖縄のように民間人が戦闘に巻き込まれたり、地上戦が行われたり、過酷な引き揚げが行われた南樺太の歴史を、この映画で改めて知る。冬の厳しい積雪、吹雪、流氷、雄大な北海道の大地や大自然は、見どころ。冬のロケでは、キャストやスタッフは大変だったろう。

 ラストシーンで、小椋佳の作詞・作曲による主題歌「花、闌(たけなわ)の時」を、吉永小百合が舞台で豪華キャストたちと一緒に歌うのは良かった。

 

 ★ ★ ★

 1作目の『北の零年』、2作目『北のカナリアたち』は観ていない。ポスターと簡単なあらすじを掲載する。

 2005年公開の『北の零年』。

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 明治3年に実際に起こった「庚午事変」に絡む明治政府の処分を元にした物語。徳島藩の淡路島で暮らしていた稲田家と家臣たちは、政府より北海道移住を命じられる。北海道で厳しい大自然と闘う家臣たち、家臣の妻・志乃(吉永小百合)と娘・多恵の苦難の開拓と過酷な運命が展開される。

 2012年公開の『北のカナリアたち』。

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 北海道の離島の分校に赴任した教師・川島はる(吉永小百合)は、合唱を通じて6人の生徒を明るくし、島の人たちとの交流を深める。しかしある事故をきっかけに、はるは追われるように島を離れた。20年後、成人した教え子の1人が事件を起こしたことから、はるは北海道へ戻り、教え子1人1人と再会、そして意外な真実を知るサスペンス。

 湊かなえの短編集『往復書簡』(幻冬舎)の中の「二十年後の宿題」を原案として映画化されたそうだが、原作とはかなり違う作品になっているそうだ。

2018年3月22日 (木)

群馬三大梅林の梅まつり

 3月18日(日)、群馬県の三大梅林、秋間梅林(安中市)・榛名梅林(高崎市)・箕郷梅林(高崎市)の梅まつりをめぐる。 
 
 
 紀州(和歌山県)の梅が有名であるが、群馬県は和歌山県に次いで全国第2位の梅の生産量を誇る。安中市の秋間(あきま)梅林、高崎市の榛名(はるな)梅林と箕郷(みさと)梅林は、群馬県の三大梅林と呼ばれる梅の名所。

 朝8時、最寄駅前を車で出発。関越道から上信越道へ、松井田妙義ICで高速を降り、県道122号線を北上。松井田妙義ICから約10Km、15分ほどの場所から、案内板に従って左の細い山道に入り、丘陵の頂上へ。9時40分頃、頂上付近の梅林駐車場に到着。駐車料金500円。
 

秋間梅林 (安中市西上秋間) 9:40~11:00

 秋間梅林は、利根川水系の秋間川上流の広がる約50ヘクタールの広大な丘陵に約3万5千本の紅白梅が咲き誇る関東有数の梅林。

 2月中旬から3月下旬にかけて開かれる「梅林祭り」では、梅の花の下での餅つき大会、芋煮会、野点(のだて)、八木節、和太鼓、モデル撮影会などが行われ、梅の花と香りを楽しむ人々で賑わいをみせる。

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 一帯は民家がチラホラ、満開の梅林で埋め尽くされている。

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 この日のイベントは、モデル撮影会。10時頃から丘陵頂上付近の梅林で始まった。

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 11:00頃、秋間の「梅林祭り」をあとにする。

 県道212号から県道215号線を東へ向かい、秋間農村公園付近で県道211号線を北上。秋間梅林から約10Km、15分ほどで次の榛名梅林の梅祭り会場に着く。

 「榛名の梅祭り」会場の榛名文化会館(エコール)は山の麓にあり、駐車場を出入りする車で混雑。車の列に並び、やっとのことで駐車場の空を見つけて車を停める(駐車料は無料)。


榛名梅林 (高崎市上里見町) 11:50~13:20 

 榛名山を望む丘陵地の400ヘクタールの広大な土地に、白梅を中心に梅畑が広がっている。地域全体では、東日本一の12万本にもなるという梅の一大産地。

 車を駐車場に停め、11:50頃文化会館の前庭会場に入ると、群馬の観光大使でご当地アイドルグループ「あかぎ団」のライブショーが始まっていた。

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 テントでは、梅の赤飯、梅ジュース、甘酒、梅バイキング、梅うどんの無料サービス、梅干や梅ジャムなど梅の加工品の販売。豚丼や豚汁で、昼食をとる。

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 午後から広場では、梅の種飛ばし大会が行われていた。

 梅祭りのパンフレットによると、上州榛名太鼓の演奏、ジャンケン大会、ビンゴゲームなどのイベントや、周辺でトテ馬車(観光用の馬車)の運行が行われるという。

 梅林は、会場から山の斜面に向かって登って見に行くことになる。斜面から見る榛名文化会館と榛名山。

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 遠くに榛名山の峰々。

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 13:20、 「榛名の梅祭り」会場を出て、県道211号線、県道154号線を北上。

 車川に沿った県道126号線を南下し、右に折れて榛名フルーツラインを走ると、榛名の梅祭り会場から約10Km、15分ほどで箕郷梅林の善地会場。

 

箕郷梅林 (高崎市箕郷町富岡・善地地区) 13:55~15:00

 箕郷梅林は、関東平野を一望する丘陵300ヘクタールの敷地に約10万本の梅の木が植えられている梅の一大産地。観賞用ではなく加工用なので、殆ど白梅。

 「天空の梅祭り」は、みさと梅公園を中心とする「カニ沢会場」と善地梅林広場のある「善地会場」の2か所からなる。善地会場の駐車場に車を止める(駐車料金300円)。

 梅の切り枝・梅ジュース・梅まんじゅうなどを無料配布、梅の加工品販売、梅見茶会、日光猿軍団の大道芸などのイベントが行われている。

 善地会場では、約300本の河津桜と傾斜地一面の梅の花が楽しめる。

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 駐車場の一角にある展望見晴台からは、一面に広がる梅林と関東平野、榛名山の眺望。

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 丘陵地に沿うようにして白梅が咲く光景。展望見晴台から眺めると、まるで純白の雲海のように見える。
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 散策路のパノラマコースから、左手に展望見晴らし台と高崎市街地。

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 樹齢100年を越える老木もあるそうだ。

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 15:00頃、会場を出る。県道126号線を南下して、高崎市街地を経て高崎ICへ。

 帰り(上り)の関越道は、藤岡JCTを過ぎたあたりから事故渋滞、その後も日曜の夕方とあって自然渋滞。予定より1時間以上の遅れで、17:45頃自宅着。

 どこの梅林も満開、見頃を迎えていた。ただ、あいにくの曇り空で、白梅が青空に映えなかったのが残念。
 

 ★ ★ ★

 秋間梅林の辺りは明治の頃は、秋間村。1955年(昭和30年)他の町村との合併によって安中町、1958年(昭和33年)に市制施行して安中市となった。

 榛名町は、上毛三山の一つである榛名山南麓に広がっている町。2006年(平成18年)、 高崎市に編入された。

 箕郷町は、1955年(昭和30年)に箕輪町と車郷村が合併し発足。2006年(平成18年) 他の近隣の町村と共に高崎市に編入された。
 

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  「森林公園の観梅ウォーク」 2018年3月19日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-ff07.html

  「森林公園の早春の花」 2017年3月15日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-0609.html

2018年3月19日 (月)

森林公園の観梅ウォーク

 3月14日(水)、埼玉県滑川町の「国営武蔵丘陵森林公園」で観梅ウォーク。 

 

 昨年に引き続き、「国営武蔵丘陵森林公園」で早春の花見ウォーキング。この日の天気は朝から晴れ。20℃を越える5月上旬並み、今年一番の暖かさだ。

 東武東上線の森林公園駅北口に集合。昼の弁当が配られ代表者の挨拶の後、9時ウォーキングのスタート。

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 駅北口から森林公園の南口を結ぶ約2.9キロの遊歩道を歩く。

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 参加者は19名。10時に入門、梅林までは約1キロ、15分で到着。満開の梅の花に感嘆の声があがる。

 120品種、500本の梅の木が植えられ、白・ピンク・紅の梅の花が見頃を迎えている。

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 しばらく梅林の斜面をのんびり散策しながら、種々の品種の梅の花を観賞。

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 11時過ぎに「運動広場」へ移動。公園の陽だまりで木のテーブルを囲んで座り、早めの昼食。

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 休憩の後の12時頃、ここで解散。

 帰る途中に、「椿園」に寄ってみる。広い松林に、400品種の椿が植えられているそうだが、開花はわずか。咲いていても霜の影響なのか、花の状態は良くないようで写真は撮らなかった。見頃は、桜が咲く頃だという。

 公園の南口に戻り、再び森林公園駅までの遊歩道を帰る。この日の歩数は17,000歩。

 少し汗ばむくらいの暖かな日差しの中、上着を脱いで10キロ余りの早春ウォーキングだった。

 

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  「森林公園の早春の花」 2017年3月15日投稿

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2018年3月13日 (火)

奥武蔵・伊豆ヶ岳

 3月10日(土)、奥武蔵の伊豆ヶ岳(標高851m)に登る。
 
 

 伊豆ヶ岳(いずがたけ)は、奥武蔵を代表する山で埼玉県飯能市にある山。

 スタート地点の西武線秩父線の正丸(しょうまる)駅に10:17着。ここは標高302m。

 天気は朝から曇り、正丸駅に着く頃は晴れ、風はやや冷たいが暑くも寒くもないハイキング日和。

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 10:30、スタート。吾野方面へ急な石段を降りた先のT字路を右折し、線路をくぐる。

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 高麗川支流に沿った大蔵山集落(この辺りの住居表示は飯能市南川)の舗装道路を歩く。

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 花粉をまき散らす黄色い杉の実。

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 杉林の中を花粉症の症状に悩まされながら登る。

 11:00、馬頭尊の祠がある分岐を直進し正丸峠に向かう。山頂からの帰りは、左手の山道から下って来る。

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 やがて舗装道が途切れ、沢に沿って山道を登る。

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 11:10、お申講(おさるこう)の祠。

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 お申講は、節分以降の初申の日に行ない、山の神様に木を守り、山の仕事の安全を祈願をする。餅、お神酒、頭のついた魚、お赤飯などお供えするという。お申講は現在でも、飯能では広く行われているそうだ。

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 11:45、舗装された林道に出る。ここから正丸峠の山頂にある「奥村茶屋」まで約1km。

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 12:00、正丸峠の「奥村茶屋」(標高630m)。15分ほど休憩。

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 茶屋の左手に「御展望記念碑 昭和天皇陛下行幸 明仁親王殿下 美智子妃殿下行啓」の石碑が建つ。

 スマホ写真では確認できないが、肉眼では西武ドームや都心の高層ビル群がかすかに見える。

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 茶屋の脇を左手の山道へ進み、杉林の中の緩やかな登り。

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 12:40、小高山(標高720m)に到着。数分休憩。

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 この辺りは「関東ふれあいの道」という総延長1665Kmの環境省の長距離自然歩道の一部である。(ただしこの自然歩道は、10km前後の日帰りコースに区切られていて、各コースは必ずしも連続していない。)

 うっすらと雪が残るきつい急坂。

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 13:05、五輪山(標高不明)で5分休憩。

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 五輪坂から少し下ると、山頂の直下に「男坂」と「女坂」の分岐がある。

 正面の「男坂」には鎖場があり、伊豆ヶ岳の名所だったそうだが、岩場が崩れ易く非常に危険。飯能観光協会の注意書きの看板が立っている。

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 近くに環境省・埼玉県の「チャートでできた山」の説明板がある。チャートとは、昔の死んだ生物がたくさん集まって岩石となったもの。浸食に強く堅いので、山がゴツゴツしているのだそうだ。県内では伊豆ヶ岳のほか両神山、城峰山、浦山渓谷に分布しているという。

 分岐を右へ行く「女坂」でも、2012年に崩落があり通行止めとなったという。山頂へは、「男坂」と「女坂」の間に設けられた迂回路を利用する。

 最後の急坂を登る。

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 山頂近くの大岩を過ぎると、 山頂が見えて来た。

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 13:25、三等三角点のある山頂に到着。35分ほど、昼食・休憩。

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 山頂に、山名由来の説明板があった。突峰状の山容からアイヌ語の「イズ」から来たものとされる。しかし、快晴の日に山頂に登ると伊豆まで見えるという「伊豆ヶ岳説」や、柚の木が多く生えていたからという「柚ヶ岳説」、山麓で温泉が湧き出ていたからという「湯津ヶ岳説」などが伝えられているそうだ。

 山頂からは西武ドーム、都心の高層ビル群や浅間山、男体山まで見渡すことができるそうだが、木の枝が邪魔している。

 14:00、下山開始。

 登山道が左右に分れるが、正丸駅へ行くには右の道を進む。

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 14:30、「ここは大蔵山」の分岐。伊豆ヶ岳から直進は「名栗げんきプラザ」へ、右折は「正丸駅」。

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 14:50、かめ岩(標高600m)という巨石がある。岩の右下が亀の頭か。

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 「かめ岩」からすぐに、「双子岩」という2つの大岩が並ぶ。

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 やがて川のせせらぎが聞こえ始める。

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 やがて往路で通り過ぎた馬頭尊の祠に着き(15:25)、舗装された正丸駅に向かって道を下る。

 大蔵山集落のお休み処「中丸屋」に寄る。

 田舎まんじゅうの2個入りパック240円をお土産に購入。

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 16:00、正丸駅に到着。紅梅が満開。

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 16:08、正丸駅発の池袋行きに乗車。17:22、川越駅で下車。

 17:30~19:40、東口から徒歩5分の居酒屋「甘太郎」。2時間飲み放題3,150円。

 

 ★ ★ ★

 今年になって初めての山歩き。1週間前のこの日は雨の予報だったが、良い天気に恵まれた。

 暖かくなった数日前から鼻水とクシャミの花粉症が始まって、おまけに喉も痛くて咳も出て、風邪か花粉症かわからない症状。熱もないので、ともかく山登りに出発。杉林の中では花粉を付け始めた杉の実を見かけた。よりによって杉の花粉の舞飛ぶ杉林の中に、行かなくても良さそうだが・・・・。花粉症の症状は、さらに悪化してしまった。

 残雪はわずかで、アイゼンは不要だった。ただし、いつも持って行くカメラをうっかり家に置き忘れ、今回掲載した写真はすべてスマホで撮影したもの。

 なお「伊豆ヶ岳」を中心とする「関東ふれあいの道」は、正丸駅(西武鉄道)から「正丸峠」、「伊豆ヶ岳」(851m)、「高畑山」(695m)、天台宗寺院「子の権現」(ねのごんげん、640m)を越え、吾野駅(西武鉄道)に至る全長14.5Kmの健脚向きのコース。今回の伊豆ヶ岳ハイキングは、正丸駅から正丸駅まで、休憩を入れてのんびり5時間半、歩程約8.6Kmだった。
 

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2018年3月12日 (月)

国立科学博物館の常設展「地球館」

 2018年2月11日(日)、東京・上野の国立科学博物館(以下「科博」の特別展「古代アンデス文明展」を観覧した後、常設展に行く。
 

 科博の常設展は「地球館」と「日本館」の2棟に分かれている。特別展を見終わった後12:00~13:00まで、「地球館」(地球生命史と人類)を観覧。特別展の入場券の提示で無料。

 「地球館」の地上1階から3階、地下1階から3階へと駆け足でめぐる。
 

●1F 地球ナビゲータ

 宇宙史、生命史、人間史の136億年の時間の旅。

 写真は、人間史についての頭骨のレプリカ。

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 生命史を代表する恐竜「アロサウルス」、右手に人間史を代表する人工衛星「ひまわり1号」。

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●1F 地球の多様な生き物たち

 多くの種に分かれて進化した生物が、さまざまな環境に適用して、お互いに関わり合いを持ちながら生きている姿を紹介。

 海洋生物の多様性の展示。

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 陸上生物の多様性の展示。

 熱帯雨林・・・ボルネオから運んできた締め殺しの木。熱帯に分布するイチジク属の木は宿主植物を絞め殺すように成長する。

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 四季の明瞭な温帯林の生物。

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 多様性の由来・・・アゲハチョウの多様性お展示。

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 自然を生き抜く工夫・・・サイズへの挑戦。キリン、アジアゾウ、マッコウクジラ、コマッコウの骨格。

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 系統広場・・・細菌からヒトに至るまで多様なすべての生物は親戚関係にあり、それを表わしたのが系統樹である。

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●2F 科学と技術の歩み

 江戸時代以降、外国の技術を取り入れ、日本固有の科学技術の発展を紹介。

 日本の航空技術を代表する「零式艦上戦闘機」。

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 国産量産車のさきがけとなった「オートモ号」。

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 レンズ設計のために開発され日本で初めて稼働した真空管式電子計算機。

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 世界初のマイクロプロセッサ「インテルi4040」を使用したマイコンキット「NEC TK-80」。

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 日本の宇宙開発。手前から、ペンシル型の後継機「ベビー型ロケット」、日本初の人工衛星「おおすみ」、「LE-5エンジン」。

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●3F 大地を駆ける生命

 力強く生きている哺乳類と鳥類のはく製を展示。

 進化の頂点・大型野生獣、動物たちが生きるための知恵、サバンナの哺乳類など。

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 鳥の多様な形。

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●B1F 地球環境の変動と生命の進化 -恐竜の謎を探る-

 恐竜の起源、大型化、多様性、絶滅の謎を化石を通して知る。

 板状の骨を持つ鳥盤類恐竜のスコロサウルス(前)とステゴサウルス(後ろ)。

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 3本の角を持つ鳥盤類恐竜のトリケラトプス(右)、後ろ足に比べ前足は短い竜盤類のティラノサウルス(左)。植物食で首と尾の長い竜盤類のアパトサウルス(後方)。

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 中空で丸い鶏冠をもつ鳥盤類恐竜のヒパクロサウルス。

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●B2F 地球環境の変動と生命の進化 -誕生と絶滅の不思議-

 恐竜が絶滅後に大発展した哺乳類の中から人類が生まれた進化の過程を探る。

 陸上に進出した生物-植物は陸上に進出し、やがてシダ植物、被子植物が森林を形成し、動物と新たな関係を築く。

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 陸上を支配した哺乳類。

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 人類の進化。左は猿人、右は原人。

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 マンモスの骨を利用した3万~1万年前の住居後の復元。

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 石器に見る人類の技術文化の発展。

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●B3F 自然のしくみを探る -私たちの世界はどのようにできているのか-

 宇宙を探る、物質を探る、そしてこれらを支配する法則を探るというテーマで、その探求の成果を展示。それに貢献した日本の科学者たちを紹介。

 アルフレッド・ノーベルと1901年に始まったノーベル賞。

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 日本の物理学を先導した長岡半太郎氏「原子構造の理論を発表」。

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 2002年ノーベル化学賞 田中耕一氏「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。

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 2012年ノーベル生理学・医学賞  山中伸弥氏「 様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製」

 2015年ノーベル生理学・医学賞   大村智氏「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」。

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 2015年ノーベル物理学賞「ニュートリノが質量を持つことを示すニュートリノ振動の発見」 梶田隆章氏。

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 科学の特別展「古代アンデス文明展」を観覧した後、残りの1時間で常設展をざっと回ったが、「日本館」は時間切れで観覧できず。

 日曜日で子供連れが多かった。当館は、かつては「教育博物館」と称されたように、小中学生の勉強の題材にちょうど良い。見られなかった「日本館」は、次に上野に来た時のために取っておきたい。

 13:00、「科博」を退出する。
 

 この後は、本ブログ記事「すみだ北斎美術館」
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-6944.html

 に続く。

 

 本ブログの「博物館」に関する記事

  国立科学博物館「古代アンデス文明展」 2018/02/15 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-cd4c.html

  国立歴史民俗博物館 2017/03/07 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

  大阪探訪の旅-その1 (国立民族学博物館) 2016/06/15 投稿
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2018年3月 9日 (金)

すみだ北斎美術館

 2018年2月11日(日)、すみだ北斎美術館(墨田区亀沢)に行く。
 

 この日、午前中から国立科学博物館(東京・上野)の特別展「古代アンデス文明展」と常設展を観覧の後、13:10~13:50上野駅ビルの「ぶんか亭」で昼食。せいろそば(600円)を注文。

 上野駅から総武線の両国駅に移動、そこから10分ほど歩いて、14:20「すみだ北斎美術館」に到着。

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 美術館は、北斎がこの亀沢界隈(昔は本所と呼んでいた)で生まれ、生涯を過ごしたので、この地に設置されたそうだ。

 アルミパネルを外壁に使用した異様なデザインな建物、これが下町に溶け込んでいるということらしい。後で調べたら、建築設計は妹島和世(せのうかずよ)という有名な女性建築家。

 入場料(常設展)は、一般400円、65歳以上300円。

 『須佐之男命厄神退治之図(すさのおのみこと やくじん たいじのず)』 弘化2年(1845年) 北斎晩年の最大級作品(約126×276cm)。

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 牛嶋神社(墨田区向島)に奉納され社殿に掲げられていたが、関東大震災で焼失した。展示品は、明治の美術書を元にした推定復元図。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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●読本(よみほん)挿絵の時代 45歳(1804年)~52歳(1811年)

 文化年間は、読本挿絵のイラストレータとして活躍。
 
 『飛騨匠物語(ひだのたくみものがたり)』 文化5年(1808)頃 読本

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●絵手本(えてほん)の時代 53歳(1812年)~70歳(1829年)

 『北斎漫画』として知られた絵手本の数々。門人や愛好家のための絵手本を版本とし、また工芸品の図案集としても利用された。

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 『潮干狩図』 文化10年(1813)頃 絹本 漢画や油彩画など様々な技法を取り入れているという。

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●錦絵の時代 71歳(1830年)~74歳(1833年)

 北斎の代表作『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおき なみうら)』 天保2年(1831年)頃 錦絵

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●肉筆画の時代 75歳(1834年)~90歳(1849年)

 北斎87歳の時の作品『朱描鍾馗図(しゅがき しょうきず)』 弘化3年(1846年) 絹本

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 最も絶筆に近い作品とされる『富士越龍図(ふじこし りゅうず)』 嘉永2年(1849年) 絹本

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 晩年の北斎と娘のお栄の蝋人形には、あまりにもリアルでびっくり。

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 3日後の2018年2月14日(水)から、4月8日(日)まで、企画展「Hokusai Beauty ~華やぐ江戸の女たち~」が 開催される。

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 当館所蔵の北斎と一門の描いた美人画、ポーラ文化研究所所蔵の結髪雛型や装身具、化粧道具といった江戸の女性風俗を伝える資料等を合わせて、130点ほどの作品や資料を展示。北斎の美人画の魅力と、華やかな江戸美人の世界を紹介するという。

 美術館は4階建てだが、常設展示は4階のフロアだけで、意外とこじんまり。展示作品も、長野県小布施町で見た「北斎館」よりも少なくて、ちょっと残念だった。1時間ほど、ゆっくり見て回る。

 15:15、退館。美術館に隣接する「緑町公園」。東京スカイツリーが見える。

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 「北斎通り」を歩いて、「江戸東京博物館」(昨年10月1日~本年3月30日まで休館中)と「両国国技館」の前を経て両国駅へ。

 「北斎通り」は、かつて「本所割下水」と呼ばれ、北斎はこの辺りの住人であった。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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 割下水(わりげすい)は、道路の真ん中を掘り割った下水路で、1650年代末以降の本所開拓で造られた。湿地帯に土を盛って造成された本所は、水はけが悪いので掘られた排水路で溝よりも大きい。生活用水を流さず、主に雨水の排水路だったので、さほど汚くはなく川魚、蟹や蛙などが棲んでいたという。
 

 16:10~18:10、池袋駅東口「一軒め酒場」に入店。

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2018年2月15日 (木)

国立科学博物館「古代アンデス文明展」

 2018年2月11日(日)、国立科学博物館(東京・上野)の特別展「古代アンデス文明展」を観覧に行く。
 

 主催は、国立科学博物館、TBS、朝日新聞社。会期は、昨年10月21日(土)~2018年2月18日(日)。特別展の入場料は、1,600円。

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 アンデス文明は、南米大陸のペルーを中心とするアンデス山脈西側沿岸と中央高地の南北4,000km、標高差4,500mに及ぶ広大な地域に存在した文明。先史時代から16世紀にスペイン人がインカ帝国を滅ぼすまで、約1万5千年間の歴史を有する。

 メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国黄河文明のいわゆる世界四大文明と異なり、文字を持たなかった。ナスカ、モチェ、ティワナクなど多種多様な文化が盛衰を繰り返した。貨幣や市場もなく、車(車輪)や鉄の製造も知らず、金・銀・青銅器の製造に留まったことも特徴。道具は、農耕では土を掘る棒、武器では棍棒(こんぼう)程度で、あまり発達しなかった。

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 特別展会場MAP (写真をクリックすると拡大)

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 本特別展は、祭礼や儀礼、神殿やピラミッドを造り上げる優れた技術、厳しい自然に適応した生活など、約200点の貴重な資料が展示されている。

 午前10時に入館。10時10分から音声ガイドを借り(500円)、「特別展」の観覧を開始。音声ガイドは、タッチパネル式のスマホタイプとタブレットタイプの2種類があって、画面を見ながら操作できるので、分かり易い。 
 

●序章 アンデスへの人類到達 紀元前13000年~前3000年頃

 1万数千年前に、アジアのモンゴロイド(黄色人種)が、ベーリング海峡を渡って南下し、アンデスまで移動してきた。アンデス特有な環境の中で、やがてリャマ(ラマ)やアルパカを飼育し、アンデス原産のトマトやトウガラシ、ジャガイモなどを栽培した。これらの作物は、スペイン人の征服後ヨーロッパに持ち帰り、世界の料理を変えたと言われている。

 アンデスのジャガイモとトウモロコシ・・・出典:ウィキベディア・コモンズ

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●第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり

 先土器時代後期(土器がまだつくられてない紀元前3000年~前1500年頃)には、アンデス高地では農業に基づき、太平洋側では農業や漁業により人々の定住が始まった。共同社会や政治は次第に複雑さを増し、他地域との交流が始まり、大規模な神殿が多数現れる。神殿は、人々を宗教的・社会的に統合する役割を持ち、この機能は何千年という後の時代まで保たれた。

・カラル文化(紀元前3000年頃~前2000年頃)

 ペルーの首都リマから北に200Kmほど離れた場所に世界遺産「カラル遺跡」がある。砂漠地帯であるカラルは、中央海岸のノルテ・チコ地方に25以上ある遺跡の一つ。住居跡や神殿と思われる円形広場、ピラミッドが並ぶ都市遺跡。人々が定住生活をし、祭祀が行われた始まりとされる。農業を基盤とせずイワシなどの海産物を食べ、漁網が作るために乾燥に強い綿を栽培したという。

 カラルの大神殿・・・出典:ウィキペディア・コモンズ

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 左から、《線刻装飾のある骨製の笛2本》、《焼かれてない粘土で出来ている男性の人形2体》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載。

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 ペリカンの骨で作ってある笛は、サル、トリ、ネコ科動物の絵が刻まれている。まだ土器はなかったが、神殿が存在したことが明らかになった。

●第2章 複雑な社会の始まり

・チャビン文化(紀元前1300年頃~前500年頃)

 ペルー北部のアンデス高地に栄えた「チャビン文化」では、石彫の神像や頭像などが見られる。石造りの壮大な建造物で知られる古代アンデスの石の文明や宗教、美術など、この時代から地域間の交流により、文化的、社会的統一が始まったとされる。

 「チャビン文化」の最も有名な考古遺跡は、名前の由来となったチャビン・デ・ワンタル(世界文化遺産)。紀元前900年頃に建設され、チャビン人の宗教、政治の中心であった。

 《人が神に変身するテノンヘッド》

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 チャビン・デ・ワンタル神殿の壁に差し込まれていた石の頭像。人(左)が幻覚の中でジャガー神(右)に変化していく様子を表現されているともいわれている。

 《自身の首を切る人物の形をした土器》

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 首が180度ねじれたありえない形だが、切られた自分の首を自分で持っている。こんな物を土器にするとは実用的なものでなく、生贄(いけにえ)の儀礼に関係あるのかもしれないという。
    

●第3章 さまざまな地方文化の始まり

 数百年に及んだチャビン文化は理由は明らかではないが廃れ、各地域の伝統が復活して行く。やがて同時代の異なる地域、ペルー北部海岸では独特な美的才能を見せた「モチェ文化」、南部海岸で地上絵で有名な「ナスカ文化」の華が開く。 

・モチェ文化(紀元200年頃~750/800年頃)

 大きな谷には開けた大平野があり、豊かな川が潤い、灌漑農業が経済を発展させた。洗練された写実的なユニークな土器と、華麗な黄金製品を生み出した。アンデス文明では文字がなかったため、土器のデザインで意思疎通を図ったとされる。「モチェ文化」では、土器を通して人々が神々、死者、自然、人間の4つの世界観を共有した。

 《象嵌のマスク》・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 牙が生えているのは、アンデス文明の神の特徴の一つ。

 《儀式用ケープをまとった人間型超自然的存在の像が付いた土器の壺》

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 《ネコ科動物の毛皮を模した儀式用ケープ》と、下 《ネコ科動物の足をかたどりメッキをほどこした爪を付けた土製品》。

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 ジャガー神のつもりだろうか、儀式の時に身に付けたと思われる。

 《二つの主神が描かれた土器》

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 土器の上の図にあるような、2人の神様の絵が描かれている。

 右から順に、《鹿を背負う死者の土器》、《この世の女性と仲良くしている死者を描いた土器》、《人間型の鹿の土器》、《裸の男性の背中にネコ科動物がおぶさった土器》。

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 《擬人化したネコ科動物》

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・ナスカ文化(紀元前200年頃~紀元650年頃)

 北部海岸と比べてナスカの農業環境は恵まれていなかった。極端に雨の恵みが少なく干ばつの影響を受けやすい。彼らは神に祈る為に、優れた芸術品を作った。巨大な地上絵もその一つ、土器や織物の見事な装飾が知られている。しかし紀元600年頃までには、急激な気候変動により社会的混乱が起こり、人口の大部分が高地に移住。「ナスカ文化」は、途絶えてしまう。 
 
 《リャマが描かれた土製の皿》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載。

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 適度に抽象化されているこの土器の絵は、「ナスカ文化」の比較的初期のもの。

 左手前は《8つの顔で装飾された砂時計型土器》、中央は《人間型神話的存在が描かれた双注口壺》、右は、《投槍器を持つ2人の男が描かれた背の高いコップ形土器》

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 《刺繍マント》

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 ナスカの前身のパラスカで美しい織物が作られた。そのほとんどはミイラを包んだものだったそうで、精霊を思わせる人物(鳥の翼を持った人間)が刺繍してある。 
 

●第4章 地域を超えた政治システムの始まり

  6世紀後半、干ばつ、洪水などの深刻な気候変動によって、アンデス中央の高地と海岸部で、人口集中という大きくな社会変化が起こる。

 7世紀、アンデス中央高地南部の地域では、人口が集中して新興のワリ国家となり武力で領土を拡大。都市的な建造物群が各地に造られ、「ワリ文化」が発達する。また同じ頃、現在のボリビア高原のティワナクの人々が、独自の宗教を掲げてチチカカ盆地から領土を拡張する。その後10世紀初めになると、ペルー北部海岸の地域では、高い生産力、進んだ技術と多くの人口を抱えた強力な「シカン国家」が成立し、北部海岸の広い範囲を支配する。

  「ティワナク文化」の「太陽の門」をはじめとする高度な石造の建築技術、同じ高地で共存していた「ワリ文化」の時代から築かれ始めた「インカ道」(道路網)。そして、黄金の装飾品を生み出した「シカン文化」の金属加工技術。アンデスの各地が生み出した政治、経済、文化は、後にアンデス最大にして最後の帝国となる「インカ帝国」に受け継がれていった。

・ティワナク文化(紀元500年頃~1100年頃)

 チチカカ湖の湖畔にある盆地で繁栄し、中心となったティワナク遺跡は、巨大な石造建築物や一枚岩から削り出された石彫などが有名で「石の文化」、「石の文明」と呼ばれている。7世紀頃からチチカカ盆地の外にも宗教的・経済的な影響力を持ち始め、太平洋岸にも飛び地(入植地)を築いたが、紀元1000年ごろに衰退しはじめた。

 ティワナク遺跡は、2000年に世界遺産に登録され一部復元されているが、破壊がすさまじく風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残っていないという。

 《カラササヤで出土した金の儀式用装身具》・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 ペルー北部海岸は黄金製品が潤沢なことで有名だったが、山の中のティワナクにもこのような黄金製品があった。トルコ石を象嵌。黄金は腐食しないため「永遠の生命」の象徴であった。

 《動物をかたどった土器の香炉》

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 ネコ科の動物が多い。どれも表情が豊かでかわいい。

 右は《台部が人頭の鉢》、中央の3体は男性や女性をかたどった土器など。

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・ワリ文化(紀元650年頃~1000年頃)

 「ワリ帝国」は、武力で広い範囲の領土を獲得し他民族を統治し、アンデスではじめての「帝国」だと言われる。計画的に設計された都市型の飛び地を海岸部に建設し、海岸と高地の覇権を握っていたと考えられている。

 《土製のリャマ像》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載

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 ラクダ科のリャマ(ラマ)は運搬、織物のための採毛、食肉などの用途があり、アンデスにはか欠かせない家畜。この香炉の高さは、約70センチもある。

 《杖を持つ神が描かれた鉢と壷》

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 杖を持つ神は、「ティアナク文化」の影響を受けているそうだ。

 《人間の顔が描かれた多彩色鉢》

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 種族の違う人の顔がたくさん描かれているが、政治的に重要な立場の人だったのではと考えられているそうだ。また舌を出しているのは、ワリが征服した敵を絞殺した姿ではないかとも考えれられている。

 《チュニック(上衣)の一部》

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 説明板には、「アンデスの織物伝統の中で、数はさほど多くないが際立った存在のうちのひとつで、 階段状のユニットをかがり合わせて作られている。この布は男性のチュニックとして作られたのだろう。」とある。どこか懐かしい模様で、こんなにも色が鮮やかに残っている。

 《つづれ織のチュニック》・・・写真なし

 アンデスは文字のない文明だったため、紙の代わりに織物がイメージを伝達するメデイアとして重要な役割を果した。また、織物は身分をあらわす重要な指標でもあった。

   
・シカン文化(紀元800年頃~1375年頃)

 「シカン文化」は紀元10世紀のペルー北部海岸で急速に頭角をあらわし、最盛期である中期シカン期(900年~1100年)には独自の文化を完成させた。「モチェ文化」の存在と「シカン文化」の台頭があったため、拡大を試みた「ワリ帝国」はこの地域では確固とした覇権を確立することができなかった。「シカン文化」は、在来の「モチェ文化」と外部から導入された「ワリ文化」の特徴を併せ持つ新しい様式を作り上げたという。 

 《ロロ神殿「西の墓」の中心被葬者の仮面》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載

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 アンデスの多神教の風土の中で、シカンではこの仮面のような「アーモンド・アイ」をした「一神教的な」神が頻出するという。仮面は、支配者階級が神に変身するために使われたのだろう。埋葬された高い身分の遺体にかぶせられていた。表面は朱が塗られている。

 左から《金の装飾品》、《鉢形の金の器》、《金のコップ》、《金の首飾り》

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 これらは、高純度の金の薄板を打ち出し加工したもの。優れた金属精錬・加工技術を有していた。

 上の写真《金の装飾品》の拡大・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 《人間型の土製小像3体》

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 左から、《2種類の超自然的存在の4つの顔が付いた壺》、《リャマの頭部をかたどった黒色壷》、《生まれたての仔犬をくわえた親犬をかたどった単注口土器》

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●第 5章 最後の帝国 ― チムー王国とインカ帝国

 「ワリ帝国」や「ティワナク文化」の体制が衰退・崩壊すると、各地に多数の地域国家が成立し、対立や衝突が生じた。その間、勢力を伸ばした「チムー王国」は北部沿岸の有力勢力になって14世紀末に「シカン文化」を吸収。しかし1470年頃、「インカ帝国」が「チムー王国」を滅ぼし、アンデス文明で最大規模の領土にまで成長する。

・チムー王国(紀元1100年頃~1470年頃)

 「チムー王国」は、「シカン文化」の金属精錬技術を受け継ぎ、高い農業生産性を持つ土地と技術、優れた職人を獲得した。

 《木製の葬送行列のミニチュア模型》

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 埋葬行列の模型。2人の男性が担いでいるのは、死者を織物でくるんだ「葬送包み」というもの。周りにいる12人は、地位や役割がバラバラだそうだ。
 

・インカ帝国(紀元15世紀早期~1572年)

 「インカ帝国」は、アンデスで発達した政治システムの中で、最後にして最大、最強の国家であった。様々な技術を利用して景観を変えるほどの大規模な開発や、軍事的な大遠征を繰り返して強大な帝国を作り上げた。「インカ道」と呼ばれる交通網は、全長4万kmに及んだという。

 しかしアンデスに南北4000Kmにも及ぶ大帝国を築きながら、わずか168名のスペイン人の侵略によってあっけなく崩壊した。

 《インカの象徴的なアリバロ壷》

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 《インカ帝国のチャチャポヤス地方で使われたキープ》

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 文字のないアンデス文明では、情報の記録・伝達手段という役割を担った「キープ」と呼ばれる紐。織物や家畜の数を、紐に結び目をつけて数字を10進法で表し、色や太さも意味を持っていたと考えられている。もっと複雑な情報が隠されているという説もあるが、まだ解読途上の遺物。

 《植民地期の多色コップ》

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 インカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」・・・出典:ウィキベディア・コモンズ

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 《アンデスの最後の晩餐》 次のコーナー(第6章)に向かう通路の壁に、油絵があった。 

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 有名なイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を元に、アンデス先住民にキリスト教を布教しやすいよう、17世紀に描かれたもの。卓上には、ジャガイモなどアンデスの人達に馴染みのある新大陸特有の食べ物が置かれている。キリスト教の布教には、征服者側も現地の文化や生活スタイルを取り入れる必要があった。

 次の章の部屋の入口には、「このコーナー 『第6章 身体から見たアンデス文明』 での写真・動画撮影はご遠慮ください。」という大きな看板が立っている。この看板だけを撮影しようとしたら、係員から制止された。 
 

●第 6章 身体から見たアンデス文明

 古代アンデス文明には、旧大陸には見られないミイラの文化が育った。インカの王は死後ミイラとなり、家臣にかしずかれながら生活していたという。南米の乾燥している地域では、死んだ人間をそのまま放っておいてもミイラ化する。死んだ人も、生きていたように傍に置き、生者と一緒に生活していたのだろう。

・チリバヤ文化(紀元900年頃から1440年頃)

 《変形された頭骨》・・・写真なし

 頭を特別視していたアンデスの人々は、「変形頭蓋」と呼ばれる形状の頭骨をしていた。子供の時から頭に板を当て縄や布できつく縛り、人工的に変形した頭蓋骨が展示。部族への帰属や宗教的な意味があったそうだ。

 《開頭術の跡のある男性頭骨》・・・写真なし

 開頭術は、黒曜石などのナイフで頭骨に孔を開ける外科手術で、「パラカス文化」(2500年程前ペルー南部海岸に栄えた文化)に始まり、インカの時代まで続いた。時代と共に生存率が上昇したことも分かっているという。頭に大きな負傷を負った者に対して、頭に穴を開けて治療したらしい。脳みそは痛覚器官がないから痛みを感じないそうだが、コカイン(コカの葉から抽出)で麻酔をしたのだろうか、酒などのアルコールで雑菌消毒はしたのだろうか。

 《少女のミイラとその副葬品》・・・「古代アンデス文明展」のチラシから転載。

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 他の男児のミイラと違って、顔が覆われていないが、理由はわかっていない。髪はきれいに編まれている。ミイラが3体が展示してあった中の一つ。

 「チリバヤ文化」では、人々は死後ミイラとなり共同体の一員として受け入れられていた。多数の副葬品と共に埋葬されたり、定期的に衣服を取り替えられたミイラもあるという。古代エジプトと違い、古代アンデスでは遺体を体育座りの格好で布で包み、生者と共存していたそうだ。我々が仏壇や居間に、亡くなった人の写真を掲げるのと同じことなのだろう。しかし布を外したもう一体は、乾燥して干からびた皮膚とか髪が、リアルで不気味だ。

 本展示にはないが、インカ時代に生贄(いけにえ)に火山の山頂に埋められ、凍結しているため保存状態の良い少女のミイラ3体が、20年ほど前に発見された。着飾って安らかな顔をした少女の毛髪を分析すると、生贄として捧げられる1年程前から、贅沢な食事のほか向精神作用成分(コカインやアルコールなど)を摂取していたという。 特に数週間前くらいからの大量摂取で、意識もうろうとして死を迎えたのであろう。

 こういったアンデスの風習を知ると、現代の我々は理解できないが、人間の生死について改めて考える。

 

 観覧を終え、ミュージアム・ショップへ行く。「古代アンデス文明展」の図録は、2,500円。オフィシャルガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」1,000円を購入する。

 12時頃「特別展」を退場、次に国立科学博物館の常設展を見学することに。
 

 ★ ★ ★

 特別展の「古代アンデス文明展」は、見ごたえがあった。日本の縄文・弥生の土器・埴輪・土偶などと較べても、模様のデザインが複雑で技術も高く、高度な文化に驚く。2時間かけて回ったが、日曜日で観覧者が多く、展示品や説明板を見るのに並んだり、良く見えなかったり。展示品は、ミイラのコーナーを除いて写真撮影出来たが、観覧者の体が邪魔してうまく撮れなかった。

 文字を持たなかったアンデスの人々の生き方、考え方は、長い年月をかけて発展してきた土器、装飾品、織物、土像、石像などの特有のデザインでしか知ることができない。それゆえ、ユニークな造形や図柄がとても面白く、精巧で素晴らしい。
 
 

 「インカ帝国」は、アンデス文明の系統を引く先住民が築いた最後の国家。首都はクスコ。世界遺産であるインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にある。クスコの市街地も世界遺産。

 記録がないのでインカ帝国の起源は定かではないが、1200年頃にケチュア族の中のインカ部族が、中央アンデスのクスコに地方小国家をつくったとされる。高度な農耕、金属器文化を有して、15世紀の中ごろ北方のチャンカ族と戦って勝利を収めると、インカ部族は急速に征服を開始した。

 第9代のパチャクチ皇帝は、在位33年間に帝国の版図を約1000倍に拡張、現在のペルー、エクアドル、ボリビア(チチカカ湖周辺)、チリ北部を支配し、最盛期を迎えた。「インカ帝国」は、被征服民族に比較的自由に自治を認めていたため、連邦のような国家だったという。第11代のワイナ=カパック皇帝は更に領土を100万平方Kmに拡張、南北の距離は4000Kmに及ぶ大帝国となった。ワイナ=カパックの死後、皇妃との間に生まれた皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが皇位継承をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となった。

 1533年、結局アタウワルパが勝利を収めて皇位を嗣いだが、同じころスペインのピサロが168人の部下を率いて進撃し、皇帝を欺して捕らえて処刑する。ピサロたちは、神殿や宮殿を徹底的に破壊し、金銀はすべて略奪した。金銀には、スペイン人にはお金という価値があるが、装飾品や美術品という感覚はなかったので、すべて溶かして本国に送った。

 征服戦争で華々しく戦ってきた「インカ帝国」は、なぜわずかな兵士のピサロ隊に敗れてしまったのか。インカは、高地に順応している利点はあったが、武器は投石機、吹き矢、弓矢、銅製の斧や投槍だった。一方ピサロたちは、ヨーロッパでの数々の豊富な戦術経験があり、鉄剣、鉄砲、大砲、騎馬と、インカ人が知らない武器を持っていた。

 戦いの勝負は、果たして武器の差だけだったのだろうかという疑問があった。最近の研究で、「インカ帝国」は別の理由で自滅したということを知る。スペイン人たちは、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの先住民の味方を獲得していた。また皇位をめぐる内戦で、帝国内は弱体化していた。そして、すでにヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病が、壊滅的な打撃を与えたのが一番大きい。おそらくは「インカ道」により伝染が容易に広まったのである。チフス、天然痘、インフルエンザなど、旧大陸と交流がないため抵抗力の無かった先住民にまん延。天然痘は、わずか数年間でインカ帝国の60%以上もの人々を死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こしたという。

 インカの後継者たちは、1536年には反乱を起こすが、1572年インカ最後の要塞がスペイン人に征服され、最後のインカ皇帝と称したトゥパック=アマルは捕らえられ処刑された。ここにインカ帝国のスペインによる征服への抵抗は終結。古代アンデス文明の「インカ帝国」は、完全に滅亡した。

2018年2月 1日 (木)

スーパー・ブルー・ブラッドムーン

 2018年1月31日(水)夜の皆既月食。

 

 「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」は、次の3つが同じタイミングで起こる。

 ・満月が、通常よりも大きく見える「スーパームーン」(Super Moon)。

 ・ひと月に2度目(今月は2日も満月)の満月となる「ブルームーン」(Blue Mon)。月が青く見えるわけではない。

 ・太陽-地球-月が一直線に並ぶ「皆既月食」により、月が赤く見える「ブラッドムーン」(Blood Moon)。

 

 日本では、南東から南の空にかけて、次の時刻で天体ショーを観察できる。

 ・「部分食」の始め は、1月31日20時48分。

 ・「皆既食」は21時51分に始まり、22時29分に食の最大。1時間17分間続き、23時08分に終わる。

 ・「部分食」の終わりは、2月1日0時11分。
 

 31日の関東甲信地方の天気予報では、気圧の谷の影響で午後から曇り空になるという。ちなみに翌日の2月1日は1日中曇りで、ところによって雨か雪の予報となっている。

 

 夕方のニュースでは、薄雲もり、ひょっとしたら晴れ間から見えるかも・・・。2階のベランダに上がって、21時くらいから三脚を立ててカメラを構える。

 21:06頃、月が欠け初めているが薄雲で、ボンヤリ。

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 21:18頃、上弦の月。雲が切れて来た?

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 21:42頃 影の部分が赤みを増してきた。10分後には皆既月食が始まる。

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 22:01頃、皆既月食が始まって10分後。

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 22:14頃の皆既月食。

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 22:31頃、食の最大。

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 月が天高く昇ってベランダからは、軒先が邪魔になって撮影しにくくなった。

 ともかく足元がとても寒い。気温は0℃前後だろうか。23:00頃、撮影終了。
 

 「スーパームーン」は通常の月と比べると14%大きく、30%明るく見えるそうだ。頻度としては、年に4~6回。「ブルームーン」は2年8ヶ月に1回、「皆既月食」は1~3年に1回、年に2回の年もあるらしい。

 わりと頻繁に起こっているようだが、これが3つが同時に起こるというのが、珍しいようだ。日本では、1982年12月30日にスーパー・ブルー・ブラッドムーンが起こっていたので、約36年ぶり。次の皆既月食(本州以西)は、2018年7月28日。なお次の「ブルームーン」×「皆既月食」は、2037年とのこと。

 

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2018年1月29日 (月)

早稲田界隈-その2

 2018年1月14日(日)、東京・早稲田界隈の名所・旧跡をめぐる新春ウォーク。

 「早稲田界隈-その1」からの続き。

 

 西早稲田三丁目の「甘泉園公園」を出た後、新目白通りとその通りを走る都電荒川線を横断。

 写真は、都内で数少なくなった路面電車の一つ、都電荒川線。ちょうど面影橋停留場を出た都電が走る。

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 神田川に架かる「面影橋(おもかげばし)」を渡る。この辺りから江戸川橋にかけての両岸から桜の木が川を覆い、春には花見の名所になる。

 「面影橋」から見る桜並木と神田川。

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山吹之里の碑 13:30 新宿区高田一丁目

 「面影橋」を渡ったすぐ、右側の道端に「山吹之里」の碑。小さいので、見逃しそうだ。

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 この「山吹之里」の碑は1686年(貞享3年)に建てられたもので、神田川の改修工事が行われる以前は、「面影橋」のたもとにあったそうだ。そばには、2004年(平成16年)に立てられた説明板がある。

 この場所から、南東1.5Km先に新宿区山吹町があり、そこからこの辺りの「面影橋」や「甘泉園」までの一帯を、通称「山吹の里」といったそうである。しかしこの太田道灌の「山吹の里」の所在については諸説ある。現在「山吹の里」の伝説(後述)に関する史跡は、都内にこの地以外にも荒川区町屋など複数あり、ほかにも横浜市金沢区六浦(むつうら)、埼玉県越生(おごせ)町などにもある。

 しばらく神田川に沿っって、桜並木の小道を東(下流)に向けて歩く。
 

●東京染ものがたり博物館 13:40 新宿区西早稲田三丁目

 神田川に沿って小道を歩き「三島橋」のたもとの先、北側にマンションや民家に挟まれて、創業140年余り(大正3年創業)の「富田染工芸」と「東京染ものがたり博物館」がある。江戸小紋や江戸更紗(さらさ)を中心とした染の現場を見学できる。江戸小紋の体験・染め道具の展示などもある。

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 この日は日曜。残念ながら休館日で門が閉まっており、スキップする。

 神田川流域の地場産業としての染物は、もともと神田や浅草周辺の染色業者が関東大震災前後に、この辺りの清流に目をつけて工場を開いたのが始まり。1976年(昭和51年)に「江戸小紋」が通産大臣認定の伝統工芸品に選定、「江戸更紗(さらさ)」「江戸刺繍」「無地染」などは東京都の伝統工芸品に指定されている。 

   少し歩くと「仲之橋(なかのはし) 」。この辺りの神田川右岸は新宿区、左岸は豊島区ある。
 

●豊島区立「山吹の里公園」 13:55 豊島区高田一丁目

 「仲之橋」のたもとから小道を離れ、住宅街を北東の方向に200mほど歩いた先(実際は、少し道を迷ってしまったが)、5階建てマンション「リレント早稲田」の隣に「山吹の里公園」があった。

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 豊島区立「山吹の里公園」は、豊島区、文京区、新宿区の区境付近にある児童公園で、住宅の密集する地域に、少し開けた空間のある公園。園内は、小さな広場と子ども向け遊具が配置されている。公園周辺が「山吹の里」として有力な地域とされ、「山吹の里公園」と命名されたそうだ。公園内に「山吹の里」の説明板が設置されている。

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 上の写真の右側の大石には、道灌の「山吹伝説」(後述)の和歌が刻まれている。

 公園に立つ「山吹の里」の説明板。(写真をクリックすると、拡大表示します)

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 再び神田川左岸の小道に戻り、400~500m歩くと文京区に入り、「肥後細川庭園」に着く。

 この辺りの区境が直線でなく凸凹しているのは、神田川が蛇行していた名残りであろう。
 

●文京区立「肥後細川庭園」 14:10 文京区目白台一丁目

 「新江戸川公園」から改称。旧熊本藩主・細川家下屋敷の庭園跡地を、そのまま公園にした。

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 目白台の台地が神田川に落ち込む傾斜の自然景観を活かし、広がりのある池、背後の山や湧水などを利用した回遊式泉水庭園。ここからも「永青文庫」(後述)に行ける。

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 庭園入口にある2階建ての建物(写真下)は「松聲閣(しょうせいかく)」と呼ばれ、明治時代に細川家の学問所として建築、大正時代に改修された。文京区が整備工事等を行い、2016年1月にリニューアルオープン。施設は集会室、休憩室、展望所として利用されている。

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 公園周辺は、江戸中期以降は旗本の邸宅地だったが、江戸末期は清水家や一橋家の下屋敷だった。幕末に熊本54万石の細川家下屋敷、明治には細川家の本邸となった。その後は東京都が買収、1961年(昭和36年)に「新江戸川公園」として開園し、1975年(昭和50年)に文京区に移管された。

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関口芭蕉庵 14:25 文京区関口二丁目

 「胸突坂(むなつきざか)」を上り始める右側にある。江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年(延宝5年)から4年間この地に住んだ。

 芭蕉庵の入口。

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 昔仕えていた藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれに携わっていて水番屋(役人の詰め所)に住んだといわれる。後に芭蕉を慕う人々により跡地に「龍隠庵」を建てたが、いつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。敷地内は芭蕉堂や庭園、池などから成っている。芭蕉堂は、第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し、現在の建物(写真なし)は戦後に復元されたものである。

 芭蕉庵の池。小さいが回遊式の庭園。

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 また芭蕉280回忌の際、園内に芭蕉の句碑がいくつか建立されている。

 現在では「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっているそうだ。芭蕉堂の建物には芭蕉に関する資料が展示され、また句会に利用されたりしているようだ。 
                
 「芭蕉庵」を出て「胸突坂」を上り、目白通りに向かう。

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 江戸時代からある「胸突坂」は、神田川から目白台の台地に上る胸が苦しくなるような急坂。現在は、中央に手すりのあるコンクリートの階段、自転車を引いて上れる斜面が両側に、途中に休憩のための椅子もある。

 昔は、今のような階段は無かったろうに、雨の日や雪の日は上り・下りが出来ただろうか。
 

永青文庫 14:45 文京区目白台一丁目

 胸突坂が緩やかになった所で、左手に「永青文庫」がある。細川家屋敷跡にあり、日本・東洋の古美術を中心とした美術館。

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 1950年(昭和25年)設立、公益財団法人「永青文庫」が運営。理事長は18代当主の細川護煕氏(元総理大臣)。歴代当主の甲冑、茶道具、書画、古文書などの細川家伝来品と、第16代当主・侯爵細川護立(1883-1970)の蒐集品などを収蔵、展示、研究を行っている。

 建物は旧細川家の家政所(事務所)として、昭和初期に建設されたもの。
         
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 1972年(昭和47年)から一般公開されている。入館料600円。時間の都合で、入館はスキップ。

 大通りの目白通りに出て、右折するとすぐの「講談社 野間記念館」の前を通過。

Img_9471講談社野間記念館

 講談社の初代社長・野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に、また講談社の出版事業にかかわる出版文化遺産も展示されている。建物は、旧社長宅を改装した。
 
 

●椿山荘 15:00 文京区関口二丁目

 「椿山荘(ちんざんそう)」は、文京区関口の小高い丘に建つ。結婚式や宴会施設で、広大な庭園を擁し、敷地内には「ホテル椿山荘東京」を併設。

 「椿山荘」の正面入り口。

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 その昔は椿が自生する景勝地で、「つばきやま」と呼んだらしい。江戸時代には、上総の久留里藩(黒田豊前守) の下屋敷。1878年( 明治11年)に山形有朋公爵邸となり、「椿山荘」と命名。1918年(大正7年)が藤田観光株式会社が譲り受けた。

 庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を無料で見学出来る。

 庭園に出て散策する。庭園から見る「五丈の滝」。建物の中からも、裏見の滝も見ることができる。

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 園内には戦災を免れた三重の塔がある。

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 三重の塔「圓通閣(えんつうかく)」は、広島県の竹林寺に創建されたものが、1925年(大正14年)に移築された。室町期の作と推定される。旧寛永寺の五重塔(台東区上野)、池上本門寺の五重塔(大田区池上)とならび、東京に現存する三古塔のひとつで登録有形文化財。

 「圓通閣」に奉安されている聖観世音菩薩。

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 古くから東京の名水に数えられた湧水が自噴する「古香井」(ここうせい)と呼ばれる正方形の井戸があり(写真なし)、秩父山系の地下水が湧き出しているそうだ。

 この近くには、丸型の大水鉢(おおみずばち)もある。

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 「量救水(りょうぐすい)」と名づけられたこの水鉢は、元は京都の日ノ岡峠の「亀の水不動」にあったそうだ。何故この地にあるのかは、わからないという。

 大津から京都への荷を運ぶためには、逢坂の峠と日ノ岡峠の二つの峠を越えなければならなかった。その難儀を極めた峠越えを見かねた修行僧・木食養阿(もくじきようあ)は、日ノ岡峠に井戸を掘り当て、水を馬や役夫に振舞った。その水をためた鉢が「量救水」だそうだ。

 1925年(大正14年)に京都伏見稲荷から勧進した「白玉稲荷神社」は、「椿山荘」の守護神。

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 1669年(寛文9年)に作られたという庚申塔。江戸初期の寛文年間は庚申信仰が盛んで、この辺りには野道があったとされる。

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 そのほか園内各所に七福神の石像や、多くの羅漢石などが置かれている。

 15時40分終了。椿山荘16:00発のシャトルバス(無料)で、池袋駅西口前へ。

 16時半から、池袋駅東口すぐの居酒屋「酔粋」で、2時間ほど打ち上げ。

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 20時半頃帰宅。

 寒さは厳しかったが天気は晴れ、風もなくとても良いウォーキング日和だった。

 この日歩いたのは、2万4千歩、15Kmほどだった。都会の中をこれだけ歩くと、けっこう疲れる。

 東京の名所・旧跡を歩いてみると、掲載した写真を見てわかるように、このような静かな景色は都会の喧騒に隣り合わせているのである。

 今回も、この新春ウォーク「東京散歩」を企画し、道案内してくれたYさんに感謝。      

 

 ★ ★ ★

 【山吹伝説】

 その昔、太田道灌が鷹狩りに出かけた際、にわか雨にあってしまう。付近のみすぼらしい農家に立ち寄って、若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された。武道一筋の道灌は、意味がわからず怒ってしまった。

 後日近臣の者から、「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914~987)が詠んだ和歌、

 「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」

 - 山吹はたくさん花が咲くのに、食える実がつかないのは貧しく情けない -

 この「実の」と「蓑」を掛けていたのだと、教えられる。

 娘は、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり、貧しくてひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだ。

 古歌を知らなかった無学を大いに恥じた道灌は、それ以後、歌道に励んだという。

 この伝説は、道灌が亡くなってなんと250年以上も経った江戸時代中期に書かれたというから驚く。岡山藩の儒学者・湯浅常山が、戦国武将の逸話470条を収録した『常山紀談』ににあるそうだ。そして、落語の演目「道灌」によって、庶民にも広く知られるようになったという。

 後に江戸城(現在の千代田区)や河越城(埼玉県川越市)を造った太田道灌(1432~1486)は、室町時代後期の武蔵国の武将、扇屋上杉氏の家臣。兵法に長じ、和漢の学問や和歌に優れていたが、謀殺によってこの世を去った。

 道灌は江戸を切り開き江戸城を造ったが、近世になって徳川氏により小規模だった城は何度も改修・拡張され、日本最大の城郭になった。

 江戸・東京の基礎を築いた太田道灌の銅像は、丸の内の旧・東京都庁の敷地にあったものが有名だった。都庁の新宿移転に伴い、現在は「東京国際フォーラム」内に移転されている。道灌の銅像は、このほかにも東京都内、関東の各地にある。

 埼玉県越生町も、「山吹の里」とされている。「越生梅林」を有する越生町は、町の木が「ウメ」、町の花が「ヤマブキの花」。約3,000株の山吹の花が咲く「山吹の里歴史公園」がある。道灌が河越(埼玉県川越市)の領主であった頃、鷹狩にこの地に来た時の話だという。川越は、太田道灌が1457年(長禄元年)に築いた河越城(初雁城)の城下町として発展してきた。川越市役所の前には、川越を開いた始祖とも仰ぐ太田道灌の立像がある。

 

2018年1月27日 (土)

早稲田界隈-その1

 2018年1月14日(日)、東京・早稲田界隈の名所・旧跡をめぐる新春ウォーク。

 

 この日は、日本付近が高気圧に覆われ、東京は晴れ。最高気温は7℃ほどと寒さが厳しいが、風もなくウォーキング日和。 

 9:50、JR目白駅を出発。 

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 学習院大学目白キャンパスの塀を左手に見ながら、坂道を500mほど下ると、学習院下とういう信号のあるT字路。ここを右手に折れ250mほど進む。

 

●新宿区立「おとめ山公園」 10:05 新宿区下落合二丁目

 園内は起伏に富み、ナラ、シイ、クヌギなどの落葉樹が生い茂り、かつての武蔵野の景観を残す、自然豊かな風致公園。

 中央部の谷間には湧水によってできた池がいくつかあり、池の源流にはサワガニやヌマエビなどを見ることができるそうだ。当時、このあたりが蛍の名所であったことから、湧水を利用した蛍の飼育所があって、地域の方々によってボタルの環境造りや鑑賞会がおこなわれているという。

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 東屋(あずまや)のある標高35m の高台は、東京十名山の一つ「おとめ山(御留山)」と呼ばれる。

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 公園は、目白台地から神田川を臨む南傾斜地にあり、落合崖線に残された斜面緑地。江戸時代、「おとめ山公園」の敷地周辺は将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場で、一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっている。

 明治時代には、この徳川家の土地を近衛家と相馬家が所有。大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ相馬子爵邸を造成したがのちに売却。第二次世界大戦後は国有地として荒れ果て、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、(1969年(昭和44年)にその一部が公園として開園した。

 新宿区立、落合中学校・小学校を右に見て相馬坂を下ると、新目白通りに出る。新目白通りを1Kmほど歩くと神田川に架かる「高田橋」、高戸橋交差点を右に折れ明治通りを南下。

 途中、馬場口交差点のビルの谷間に「有限会社三ツ矢堂製麺」の看板があるちょっとギクッとするレトロな建物。

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 あとで調べると、チェーン展開しているラーメン屋「三ツ矢堂製麺」の高田馬場店。有限会社とあるが、「三ツ矢堂製麺」は屋号で、本社はこの隣のビルにあって社名は「株式会社 インタ-ナショナル ダイニング コ-ポレ-ション」。この外観のレトロさは店内も同じで、演出のようだ。

 諏訪町交差点を左折して、諏訪通りを東に向かうと学習院女子大、学習院女子中・高等科が右手にある。

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 学習院女子大を過ぎたところのの三叉路から箱根通りを南下して、戸山公園に向かう。

 

●都立「戸山公園」 11:05 新宿区戸山二丁目

 新宿区にある都立公園で、敷地は明治通りを挟んで、西側の大久保地区(大久保三丁目)と東側の箱根山地区(戸山二丁目・三丁目)に分かれている。

 子供たちが興じる野球やサッカーの運動公園を右手に見ながら、箱根山に向かう。

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 園内の「箱根山」は、東京十名山の一つで最も高い標高44.6m。山手線内では、一番高い人造の山(築山)である(写真下)。昔は見晴らしが良かっただろうが、ビルに囲まれていて、目についたのは新宿のNTTドコモビルくらいか。

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 一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で「戸山荘」と呼ばれた。回遊式庭園のほか、箱根山に見立てた築山、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた大名庭園だったという。

 明治維新後、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後は、1949年(昭和24年)に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した。

 諏訪通りに戻り、馬場下町交差点を経て、近くの早稲田大学に行って見る。
 

●早稲田大学 11:40 新宿区戸塚町一丁目

 早稲田大学は、2017年で創立135年を迎えた。

 6学部がある早稲田キャンパスに、大学のシンボル大隈講堂。

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 開設者の大隈重信を顕彰して造られた大隈銅像。

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 大学構内を出て、馬場下町交差点近く、早稲田通りへ。

 中華食堂の「日高屋」で昼食(12:05~12:20)。レバニラ炒め定食620円。
 

●穴八幡宮 12:20 新宿区西早稲田二丁目

 「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」の御利益は、虫封じのほか、金銀融通、商売繁盛や出世、開運。旧称は「高田八幡宮」。

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 赤い鳥居をくぐり階段を上がると、参道の両側には縁起物や食べ物などを売る出店がぎっしり並ぶ。縁起物は金色の物が多く、特に幸福の打出の小槌は有名だそうだ。

 参道の左手の境内にはロープが張られ、それに沿って大勢の参拝客が大行列を作って並んでいる。本拝殿の左側に、お守りが頂ける社務所がある。

 お守りをあきらめ、本拝殿の前の列に並んで参拝。

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 社伝では、創建は1062年(康平5年)。奥州からの凱旋途中の源義家(八幡太郎義家)が、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。1636年(寛永13年)ここに的場(弓の練習場)が造られ、射芸の守護神とした。641年(寛永18年)、南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が現れ、以来「穴八幡宮」と称するようになったそうだ。

 「穴八幡宮」を出て早稲田通りを北に向かうと、西早稲田交差点の西北一帯は旗本の馬術の練習場「高田馬場跡」。交差点の角に説明板があった。この辺りの旧高田馬場は、現在の住居表示は新宿区西早稲田、新宿区高田馬場とは異なる。

 

●早稲田水稲荷神社 12:45 新宿区西早稲田三丁目

  早稲田大学の裏手に当たる通りの左手の階段を上ると、「早稲田水稲荷(わせだ・みずいなり)神社」の参道。

 参道の入口に、「堀部安兵衛之碑」が建つ。

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 赤穂浪士四十七士の一人、堀部武庸(たけつね)は高田馬場の決闘で名を馳せた剣客。旧姓は中山、通称は安兵衛。堀部家の婿養子となり赤穂藩・浅野家の家臣となる。吉良邸討ち入りでは、江戸急進派としてのリーダーだった。
 
 1910年(明治43年)、安兵衛の石碑が高田馬場の一隅に建立された。この当時は日露戦争が終わってナショナリズムが高揚していた頃で、忠君の「忠臣蔵」が再評価された時代であった。その後、1971年(昭和46年)に現在の水稲荷神社の場所に移された。

 水稲荷神社や甘泉園公園の辺りは「山吹の里」といわれ、太田道灌にまつわる「山吹伝説」は、よく知られている。水稲荷神社の境内には「駒繋松」があり、道灌がよく鷹狩に通った路には、馬を繋いだという松の木(この木は、三代目)がある。

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 早稲田水稲荷神社は、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた当時は「高田稲荷」(または「冨塚稲荷」)と呼ばれていたが、1702年(元禄15年)に霊水が湧き出したので、現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名。

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 社殿の右上の小高い丘は、元々早稲田大学9号館裏にあった江戸で最古の富士塚とされる「冨塚古墳」。1963年(昭和38年)に早稲田大学拡張工事の際に土地交換で、水稲荷神社(旧高田稲荷、または旧冨塚稲荷)とともに西早稲田3丁目のこの地に移転した。早稲田大合格祈願の神社として、受験生の参拝が多い。

 「冨塚」は、「戸塚」の町名の起源ともいわれている。戸塚町は、現在の西早稲田や高田馬場を含んでいた。「富塚古墳」は、「冨塚富士」、「戸塚富士」、あるいは「高田富士」とも呼ばれたようだ。
 

●新宿区立「甘泉園公園」 13:00   新宿区西早稲田三丁目   

 「甘泉園」は、清水家の下屋敷、大名庭園があった。「甘泉」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからと言われている。池と森の回遊式庭園。

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 この地は、宝永年間(1704-1711年)に尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷が置かれていた。

 明治以降は子爵相馬邸の庭園として整備され、1938年(昭和13年)に近隣の早稲田大学が付属施設として譲り受けた。1961年(昭和36年)前述の様に、早稲田大学の拡張工事のため、旧水稲荷神社だった境内敷地を購入する代わりに当地「甘泉園」を東京都に売却、都立公園となった。旧水稲荷神社は、現在の場所に移転した。1969年(昭和44年)新宿区立公園となって現在に至る。

 春夏秋は、ツツジ、アジサイ、新緑や紅葉、冬になると雪吊りを見ることが出来る。

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 池の一部が氷結していて、家族連れが遊んでいた。

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 なお水稲荷神社の境内も、甘泉園住宅(現在は公務員住宅)も、元々「甘泉園」の敷地であった。

 13:20「甘泉園公園」を出て、新目白通りを横断して、高田一丁目へ向かう。
 

 この後は、「早稲田界隈-その2」に続く。
 

 ★ ★ ★

 【穴八幡宮】

 三代将軍家光は、横穴(古墳だったのだろうか?)から阿弥陀如来像が現れたという話を聞いて、「穴八幡宮」を幕府の祈願所、城北の総鎮護とした。歴代将軍がたびたび参拝し、八代将軍吉宗は世嗣の疱瘡平癒の祈願のため、流鏑馬(やぶさめ)を奉納したという。流鏑馬は、その後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納された。江戸の庶民からも信仰を集め、特に虫封じの祈祷は有名だった。

 虫封じとは、乳幼児の夜泣き、グズリ、かんしゃく、ひきつけなどの「疳(かん)の虫」を防ぐこと。昔は人は、寄生虫を見る機会が多かったので、子供に虫が着いたと思ったのだろう。

 「穴八幡宮」は、冬至の「一陽来復(いちようらいふく、冬至の意)」という金運がアップするお守り(お札)が有名。お守は二種類あって、壁に貼るもの(800円)と、財布などに入れる携帯型(300円)があるそうだ。毎年冬至の日(2017年は12月22日)から翌年節分の日(2018年は2月3日)までが、お守りを受け取れる期間。冬至の日は特別に、午前5時から受け取る事ができ、徹夜組が列をなすそうだ。
 

 【堀部安兵衛】

 1694年(元禄7年)旧暦2月11日のこと、安兵衛は叔父の果し合いの助太刀を買って出て、途中馬場下の酒屋「小倉屋」(現在は「リカーショップ小倉屋」)で気合を入れるために枡酒をあおって、高田馬場に駆け付けたと伝えられている。果し合いでは、相手方三人を切り倒したという。

 この決闘で、安兵衛の活躍が「18人斬り」と江戸中の評判になった。この高田馬場の決闘については、後に多くの講談、芝居、落語となったが、酒は決闘後に飲んだという説もあり、真偽のほどは明らかでない。果し合いの場所は、現在の早稲田通りの「西北診療所」の辺りとされている。

 この安兵衛の評判を聞きつけた赤穂浅野家臣・堀田金丸は、主君・浅野長矩(内匠頭)の許可を得て婿養子にした。

 元禄15年12月(1703年1月)、大石良雄(蔵之介)、堀部武庸(安兵衛)ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の吉良義央(上野介)の屋敷へ討ち入り、本懐を遂げた。元禄16年2月(1703年3月)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、お預けになっていた伊予松山藩の江戸屋敷にて切腹した。享年34歳。主君と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られている。
 

 【富士塚】

  富士信仰の富士塚の造営は、基本的には築山(つきやま)という人工の山であるが、すでに存在する丘や古墳を転用したり、あるいは富士山の溶岩を積み上げだりして、富士山に見立てたもの。富士塚の名称としては、「○○富士」のように呼ばれることが多い。「冨塚富士」は、「冨塚古墳」とも呼ばれているので、古墳を転用してその上に富士塚を造成したのであろうか。

  江戸では最古の富士塚は、1780年(安永9年)に「高田稲荷(冨塚稲荷)」の境内に築かれた「冨塚富士」だとされた。この富士塚は、富士講や富士信仰を知る上で重要な文化財であったが、1964年(昭和39年)に早稲田大学のキャンパス拡張の際に破壊され、近隣の「甘泉園」に「水稲荷神社」と共に移築された。現在の富士塚は、富士講が行なわれる日にのみに、入山することができるそうだ。

 江戸後期、天保年間に7巻20冊が刊行された『江戸名所図会』の一部。(出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 右上に富士山の形をした「冨塚富士」、中央の小高い丘に「高田稲荷」がある。(写真をクリックすると拡大表示。)

2018年1月23日 (火)

国立西洋美術館「北斎とジャポニスム」

 2018年1月17日(水)、国立西洋美術館の企画展「北斎とジャポニズム」を観賞する。

 

 午前10時から駒込・巣鴨界隈を散策、15時ころ上野駅へ。

 15:10、上野駅構内の「エキュート上野」にあるチケットショップで、国立西洋美術館「北斎とジャポニズム」の観覧券1,600円を購入。窓口には、企画展の待ち時間は、「0分」と掲示してある。


【企画展】 北斎とジャポニズム - HOUKUSAIが西洋に与えた衝撃

 15:30入館。音声ガイド550円。企画展内は、撮影禁止。

 「北斎とジャポニスム」のパンフレットの表紙。

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 江戸時代末期、今から150年ほど前に開国した日本に、西洋は急速に関心を寄せ始めた。中でも西洋の芸術家たちは、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、その真髄を自らの創作活動に取り入れた「ジャポニスム」という現象を生み出した。特に、天才浮世絵師・葛飾北斎が、西洋美術に与えた影響は絶大であったという。その影響は欧米の全域にわたり、絵画、版画、彫刻、ポスター、工芸など、更には音楽の分野にも及んでいる。

 国内外の美術館が所蔵するモネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなどの西洋の作品約220点と、錦絵約40点と版本約70点からなる北斎作品約110点を集め、比較して展示。主催者は、「日本初、世界初。西洋と北斎の名作、夢の共演」と謳っている。

 本展の会期は、2017年10月21日(土)~2018年1月28日(日)。鑑賞した前日の1月16日(火)には、来場者数が30万人を突破したそうだ。

 

 葛飾北斎(1760~1849)は、江戸時代後期を代表する浮世絵師。狂歌本や読本挿絵、『北斎漫画』に代表される絵手本などの版本、錦絵版画、肉筆画など多彩な制作活動を行った。代表傑作の『冨嶽三十六景』は、歌川広重の『東海道五十三次』と並び、浮世絵における風景画を確立させた。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表、14歳で絵師になってから90歳で没するまで、意欲的な製作活動を続けた。『北斎漫画』の初編を発刊したのは54歳、『冨嶽三十六景』を発表したの72歳、大器晩成型の絵師であった。

 北斎の自画像 天保10年(1839年)頃 出典:ウィキメディア・コモンズ

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 以下に各章(エリア)ごとに、代表的な作品について論じる。

 本文に掲載する作品は、クロード・モネの《陽を浴びるポプラ並木》 以外は、「北斎とジャポニスム」のパンフレットから転載。

 

第Ⅰ章 北斎の西洋による受容

 鎖国時代、シーボルトを始め出島のオランダ商館員たちが、北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。開国すると、来日した外国人たちは日本での紀行本や紹介本を発刊するが、日本の風景や風俗を表わすため、北斎の絵が挿絵として多数掲載されるようになった。

 明治に入って日本の美術品は大量に流出。特に北斎の作品に興味を持ち、収集する愛好家たちが数多く生まれた。更に、西洋に無い斬新な表現をする北斎に驚いた芸術家たちは、その絵を手本として模写したり、その画法を研究するようになる。

 西洋の画家が『北斎漫画』を模写した作品が、北斎の絵と並べて多数展示されている。
  

第Ⅱ章 北斎と人物

●エドガー・ドガ

 ドガは、踊り子を多く描いた。手を腰に当てたバレニーナの日常、何気ない動きをとらえたポーズは、『北斎漫画』に登場する相撲取りの姿。バレニーナの正面からの姿を描くの普通だろうが、背中を向けたポーズは、新鮮だったのだろうか。

 エドガー・ドガ 《踊り子たち、ピンクと緑》 1894年 パステル、紙

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 葛飾北斎 『北斎漫画』十一編(部分) 刊年不詳

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●メアリー・カサット

 それまで西洋では、幼い女の子でも行儀の良いポーズで描かれていたのだろう。このような退屈そうに寝そべって、足を広げた子供らしい姿は、まさに『北斎漫画』の大きな袋の上にユーモアのある太鼓腹の布袋様を意識しているのだそうだ。
 
 メアリー・カサット 《青い肘掛け椅子に座る少女》 1878年 油彩、カンヴァス

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 葛飾北斎 『北斎漫画』初編(部分) 文化11(1814)年

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第Ⅲ章 北斎と動物

●ポール・ゴーガン

 小動物、鳥、魚、爬虫類や昆虫は、モチーフとして北斎の作品に多く現われているが、西洋にはその生きた姿が作品の主役として描かれることは無かった。西洋から遠く離れた南太平洋のタヒチを本拠地としていたゴーガンも、浮世絵に興味を持っていた。北斎の丸々として愛くるしい3匹の子犬と同じく、平面的に描かれた子犬を3匹描いている。

 西洋画を見た日本人は、油絵など写実的で立体感のある絵に驚いたと思う。しかし西洋人が、簡潔で平面的ではあるが生き生きとした動作・表情の日本の絵に、新鮮さを憶えたのは皮肉なものである。

 ポール・ゴーガン 《三匹の子犬のいる静物》 1888年 油彩、板

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 葛飾北斎 『三体画譜』(部分) 文化13(1816)年 浦上蒼穹堂

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第Ⅳ章 北斎と植物

 日本では古来より、「花鳥風月」という言葉がある。花や鳥などの動植物を愛し、よく詩歌の題材になったり、絵にも描かれる。美しい自然や自然の美しい風物(風と月など)を重んじて観賞する、風雅な趣を楽しむことをいう。

●フィンセント・ファン・ゴッホ

 西洋では、宗教画が一番上で、その下に人物画、風俗画や風景画、静物画の順に位置づけられていた。しかも植物は静物画として、花瓶に活けた姿を描くのが定番だった。日本では花鳥画として、自然の中で根を張った植物が対象である。ゴッホは、野生に咲く花の姿を、しかもクローズアップして描くというのを北斎から学んだという。

 フィンセント・ファン・ゴッホ 《ばら》 1889年 油彩、カンヴァス

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 葛飾北斎 《牡丹に蝶》 天保2-4年(1831-33)頃 横大判錦絵

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第Ⅴ章 北斎と風景

●クロード・モネ

 モネは、北斎の作品をいくつも所有するほど、北斎好き。北斎は、松の並木や竹林越しに見る風景をよく書いていた。モネのポプラの木立がリズムよく並ぶ構図は、北斎の松の並木を参考にしているそうだ。

 クロード・モネ 《陽を浴びるポプラ並木》 1891年 油彩、カンヴァス (出典:ウィキベディア・コモンズ)

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 葛飾北斎 《冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷》 天保元-4年(1830-33)頃 横大判錦絵

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第Ⅵ章 波と富士山

●カミュ―ユ・クローデル

 西洋にも風景画の中に、海景画という分野があったそうだ。しかし北斎のように、波自体を主役にすることは無かった。北斎の『神奈川沖浪裏』の大波を見た西洋人は、きっとそのダイナミックさに衝撃を受けたであろう。大勢の西洋芸術家たちが、その大波(The Great Wave)にチャレンジした。

 フランスの女性彫刻家・クローデルの「波」は、「神奈川沖浪裏」をヒントに、彫刻によって大波を立体化したとされる。ただ大波の恐怖よりも、3人の女性たちを包み込むようで優しい。クローデルと親しかった作曲家・ドビュッシー(1862~1918年)も、北斎の絵から交響詩「海」を着想したとされている。(音声ガイドから、その曲を聞く。)

 左、カミュ―ユ・クローデル 《波》 1897-1903 オキニス、ブロンズ

 右、葛飾北斎 《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》 天保元-4年(1830-33)頃 横大判錦絵

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●ポール・セザンヌ

 北斎の富士山のように、セザンヌは南仏のサント=ヴィクトワール山を様々な構図で繰り返し描いたという。遠景に主役の山を置き、前景に木立を配して、中間の景色を俯瞰的に描く構図は、北斎の『冨嶽三十六景』の描き方に似ている。

 ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山》 1886-87年 油彩

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 葛飾北斎 《冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》 天保元-4年(1830-33)頃

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【常設展】 松方コレクション

 企画展「北斎とジャポニズム」を観賞した後、3年前に鑑賞した事があるが、常設展(松方コレクション)を駆け足で回る。企画展のチケットで、常設展の観覧は無料。

 鑑賞途中で気がついたが、当館が所蔵する作品(常設展示作品)については、写真撮影は可能。

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《横たわる浴女》 1906年 油彩、カンヴァス

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《帽子の女》 1891年 油彩、カンヴァス

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 右、ジョアン・ミロ 《絵画》 1953年 油彩、カンヴァス

 中央、フェルナン・レジェ 《赤い鶏と青い空》 1953年 油彩、カンヴァス

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 17:30、退館。

 本降りの雨の中、公園口からパンダ橋を渡って上野駅ビル商店街「アトレ上野」へ。

 18:00~19:30、不忍口、山下口から徒歩1分、「アトレ上野」1Fの道路側にあるイタリアン「バルピノーロ 上野」 (BAL PINOLO)で夕食。

 

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 ★ ★ ★

 【北斎を「影」で支えた葛飾応為】

 2016年10月16日、長野県小布施町の美術館「北斎館」(一般財団法人)に行った。葛飾北斎の肉筆画が多く展示してあり、北斎の多彩な才能に感動した。

 北斎は、信州・小布施村に縁があった。小布施の豪農商・高井鴻山は、江戸での遊学の折、北斎と知り合った。数年後の1842年(天保13年)秋、83歳の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し北斎を厚遇、自邸に一間のアトリエを新築した。北斎は1年余り滞在して創作活動に励んでいる。その後も数回、鴻山邸を訪れたという。
 

 2017年9月18日(月)夜7:30~8:43、NHK総合テレビで特集ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』が放送され、視聴した。1時間ちょっとの番組だったが、単発でなく連続ドラマにすべきようなとても良い内容だった。

 83歳の北斎が、江戸から信州・小布施まで旅をした。昔の人は健脚であったろうが、高齢の北斎が一人で長旅をしたのだろうか。ドラマを見ていて、やっとわかった。娘・葛飾応為(おおい)が同行したのだった。

 NHK特集ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』 NHKホームページから転載。

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 ドラマのあらすじは、次のようである。

 江戸の天才絵師・葛飾北斎の三女として生まれたお栄(後に葛飾応為、宮﨑あおい主演)は、町絵師と夫婦になった。しかし針仕事も殆どせず、父譲りの画才と男勝りの性格から夫の描いた下手な絵を笑ったため、離縁されてしまう。師である北斎(長塚京三)の元に出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、絵の手伝いが始まる。そんな中で、北斎の門人である絵師・善次郎(松田龍平)にだけは悩みを話すことができ、密かな恋心もあった。

 北斎を尊敬し、影で支える絵師として働き続ける。そして北斎の代表作である「富嶽三十六景」が完成した時にも、そばには応為がいた。父が高齢となり、思うがままに筆を動かせなくなってからも、応為は父の「影」として北斎の絵を描き続ける。北斎は眩しい光、自分はその「影」でいい。

 時は経ち、心のよりどころであった善次郎が、そして北斎もこの世を去る。そして60歳を過ぎた応為は、晩年に独自の画風にたどり着く。

 「影が万事を形づけ、光がそれを浮かび上がらせる。この世は光と影でできている」と・・・。

 

 応為の生まれた年は寛政13年(1801年)前後、没年は慶応年間とされるが、はっきりしない。美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともされる。北斎は、「美人画にかけては応為にはかなわない。彼女は妙々と描き、よく画法に適(かな)っている。」と語ったと伝えられている。しかし残念ながら現存する作品は、10点前後と非常に少ないそうだ。西洋画法への関心が強く、誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。

 葛飾応為 《吉原格子先之図》 1818-44年(文政-天保年間)頃 紙本着色 (出典:ウィキペディア・コモンズ)

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 この絵を見て、筆者は衝撃を受けた。西洋画のような光と影のある絵を書く人が、江戸時代にいたのかと。

 北斎作とされる作品、特に北斎80歳以降の作品の中には、実際は応為の代筆が相当数あると考えられている。目や耳も衰え、中気(脳卒中)で手が震えていた北斎が、90歳で没するまで描き続けたというのも、応為の支えや代筆があったと考えれば納得できる。ドラマでも、応為の名前では売れない絵に、北斎の落款(らっかん)を押すシーンが出てくる。
 

 ドラマの原作『眩』(くらら)は、直木賞の女流作家・朝井まかてによる歴史小説。『小説新潮』2014年12月号から約1年間連載され、2016年3月に新潮社より刊行された。


 墨田区亀沢にある公立の「すみだ北斎美術館」は、葛飾北斎を単独テーマとした常設美術館。2016年(平成28年)11月に開館したので、まだ新しい。北斎が本所界隈(現在の墨田区)で生まれ、生涯を送ったことから、当地に設置された。来月2月に鑑賞に行く予定で、新しい発見が楽しみ。

 

2018年1月20日 (土)

駒込・巣鴨界隈

 2018年1月17日(水)、駒込・巣鴨界隈をめぐる。
 

 当日は、低気圧が本州付近を通過する。関東甲信は雲が多く、昼頃から雨の予報。

 10時、JR駒込駅の南口を出発。本郷通りを南へ550m先の「六義園」へ歩いて向かう。
 

●六義園 文京区本駒込六丁目

 六義園・旧古河庭園の園結びチケットは一般400円、65歳以上は200円。10:15入場。

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 「六義園」のパンフレット。

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 ひと気のない六義園、曇り空だが比較的暖かい。下の写真は、冬の景色を演出する「雪吊り」と「霜よけ」。

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 樹木の枝が雪の重みで折れないように施す「雪吊り」の代表的な手法に「りんご吊り」がある。金沢の「兼六園」で見られるように樹木の幹付近に柱を立て、柱の先端から各枝へと放射状に縄を張る。雪の少ない東京の庭園では、冬の演出だそうだ。

 またソテツなど寒さの弱い植物に施される藁細工の「霜よけ」も、冬の演出。「六義園」にはソテツは無いので、木と竹の骨組みにソテツの霜よけの装飾を行っているそうだ。

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 「六義園」は、1695年(元禄8年)五代将軍徳川綱吉の側用人だった川越藩主・柳沢吉保が、綱吉から賜った土地に土を盛って丘を築き、水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を造成した。

 1702年(元禄15年)庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成り(訪問)が頻繁に行われたという。

 明治になって三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の別邸となり、1938年(昭和13年)に東京市に寄贈された。1953年(昭和28年)、特別名勝に指定。

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 松の木に菰(こも)巻き。縄の結び目が、美的。

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 菰巻きは、江戸時代から大名庭園などで行われてきた伝統的な害虫駆除法。松の木の枝につく害虫(マツカレハの幼虫)が、暖かいところを好む習性を利用して、幹に巻いた菰(藁)で越冬させ、春先に外して害虫ごと焼却する。

 最近の研究では、害虫駆除の効果はほとんど無くむしろ逆効果であるとされ、菰巻きを中止している庭園もあるという。

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 万両、千両と呼ばれる赤い実のなる常緑低木は、お正月の縁起物。これに百両、一両を加え「御利益花壇」と名付けた当園のお正月飾りだそうだ。六義園の入口付近にあった。

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 この時期ひっそりとした「六義園」は、春には枝垂れ桜、初夏のツツジ、秋には紅葉で賑やいを見せる。

 11時「六義園」を後にし、駒込駅に戻る。駅から本郷通りを北に700m先の「旧古河庭園」へ。
 

●旧古河庭園 北区西ヶ原一丁目

 11時半「旧古河庭園」に入場。

 「旧古河庭園」は大正初期の代表的庭園で、1917年(大正6年)古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として竣工した。現在は国有財産で、東京都が借り受けて都立庭園として一般公開している。

 建物と西洋庭園の設計者は、「旧岩崎庭園」や「ニコライ堂」、「鹿鳴館」を設計したことで有名なイギリス人建築家のジョサイア・コンドル。国の名勝に指定。バラの名所として都民に親しまれている。

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 受付で聞くと、洋館内部の見学は往復葉書による事前に申込みが原則だとのこと。ガイドによる解説付の1時間の洋館見学ツアーが、1日3回行なわれているそうだ。しかし見学者が少ない冬の時期のガイドは、中止しているという。 

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 この洋館(旧古河邸)は、ホテルニューオータニで有名な大谷財閥の「大谷美術館」が管理している。美術館といっても絵画のような美術品があるわけでなく、この洋館全体を美術品としているそうだ。石造りの洋館にバラは、とても絵になる。

 「旧古河庭園」のパンフレット。

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 斜面の西洋庭園(バラ園)を降りて行くと、斜面の底部に日本庭園がある。

 雪囲いの冬牡丹がきれい。

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 「六義園」で見たソテツの霜よけと同じものがあった。ここの日本庭園には、本物のソテツがある。

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 日本庭園は、斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。洋館や西洋庭園の後、1919年(大正8年)に完成。

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 12時頃、退場。駒込駅に戻り、12:20山の手線の次の駅の巣鴨駅に着く。
 

●巣鴨地蔵通り商店街と高岩寺 豊島区巣鴨三丁目、四丁目

 巣鴨駅正面口から200mくらい白山通りを歩くと、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる「地蔵通り商店街」の入口。

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 780mも続く「地蔵通り商店街」は、煎餅や大福などの和菓子の老舗、年配向けの衣料品店など、約220店舗があるという。昨年5月に来た時はもっと混み合っていたが、寒いせいか人通りは少ない。

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 赤パンツの元祖「巣鴨のマルジ」(上の写真、右手の看板)はこの通りに4店舗もあるらしい。店に入ると、元気と幸福をもたらす「赤の力」のパンツやインナー、腹巻、靴下、タオルハンカチなど、赤づくめの衣料品が並ぶ。パンツは、婦人向けだけでなく紳士用や子供用もある。

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 「巣鴨のマルジ」の説明書を読むと、へその下3~4cmの所にある丹田(たんでん)というツボがある。東洋医学では、このツボは「気」の発信地とされる。赤いパンツを履くことにより、大事なツボを刺激し身体を温める効果があり、アドレナリンの分泌を促し、精神の集中力、自然治癒力を高めるという。更に、赤い色の布を身に付けると体を温め、エネルギーを補う効果もあるそうだ。

 昼食は、前もってガイドブックで調べた割烹「加瀬政」に入る(12:40~14:00)。

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 ちょっと贅沢な鴨の肉と卵の親子丼(1,550円)を注文。LLサイズの鴨の卵2個を用いて、うち1個の黄身だけを丼の中央に落としてある。12時半過ぎに入店したが、鴨の卵が残り少ないと入口に書いてあって、店員に聞くとあと3人前しかなかった。

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 鴨の親子丼は、初めて。卵は濃厚だが鶏卵と変わらず、肉はミンチ状にしてあって、あまり鴨肉を食べてるという印象は無かった。全体的に味付けは上品で濃くない。

 「加瀬政」は、創業大正11年の老舗割烹店。入口には、ここに訪れてたタレントや有名人の写真が飾ってある。

 食事の後は、商店街を散策しながら、「とげぬき地蔵尊」で有名な「高岩寺」(写真右手)へ。

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 「高岩寺」の山門、参道を進めば香炉があり、山門からほんの20mくらいで本堂が建つ。

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 本堂に参拝。(写真は2017/5/30撮影)

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 本尊の「地蔵菩薩像(延命地蔵)」は、秘仏につき非公開だそうだ。

 縦4cm横1.5cmの和紙に本尊の姿を刷った「御影(おみかげ)」のお札が、本堂で5枚セット100円で授与される。お札は祈願したり、喉に骨が刺さったときや病気平癒にその札を水などと共に飲む、痛いところに貼るなどすると治るといわれる。
 

 本堂のそばにある「洗い観音」は、写真を撮れないほど参拝者が列を成して混み合っていた。

 江戸時代1657年の「明暦の大火」で妻をなくした檀徒の一人が、供養のため「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進した。この観音様に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれたというのが由来。

 しかし長年に渡ってタワシで洗っていた観音様の顔もしだいに擦り減ってきたので、1992年(平成4年)新しい「聖観世音菩薩」の開眼供養を行った。同時にタワシを廃止し、布で洗うことにしたそうだ。布(タオル)は、100円で販売されている。写真は、2017/5/30撮影。

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 14時半、「高岩寺」を後にする。

 地蔵通りの 「元祖 塩大福みずの」で、巣鴨名物の塩大福5個入り650円(写真右手)、それと豆大福(粒あん)5個入り(写真左手)650円を購入。

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 この店は、塩大福の発祥の店だそうで、多くの観光客が買い求めていた。塩大福は、長細くて大きく、もっちりして甘さ抑えめ。豆大福は、甘め。出来立て美味しいが、翌日に少し固くなる。

 14時半、巣鴨地蔵通り商店街を出て巣鴨駅へ。

 巣鴨から上野へ電車で移動、やがて久しぶりに本降りの雨。15:30~国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム展」を観賞。

 本ブログ記事、「西洋美術館「北斎とジャポニスム展」」につづく。
 

 

 とげぬき地蔵尊や高岩寺の由来、地蔵通り商店街については、

 本ブログ記事 「都内をめぐる日帰り研修旅行」 2017年6月3日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-bf6d.html

 にも記載しているので、ぜひ一読されたい。

 
 

 ★ ★ ★

 「六義園」の名称は、中国古代の詩集『詩経』にある詩の分類法ならって、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来する。

 柳沢吉保自筆の『六義園記』の本文に、

 「ああ、浦は、すなわち大和歌なり。ここに遊べる者は、この道に遊べるなり。園はこれ、六種(むくさ)なり、ここに悟れる人は、この理(ことわり)を悟れるなり。」

 - ああ、この六義園にうつされた和歌の浦は、実は、「和歌」そのもののシンボルなのである。この館(六義園)に遊ぶ人は、和歌の道に遊ぶのと同じであり、この庭園で悟る人は、和歌の道理を悟るのである。 -

 と書かれている。

 和歌に造詣が深かった吉保は、和歌の心を造園することを意図したもので、この和歌の六体を表現するために、紀州(和歌山)の「和歌の浦」を中心とした美しい歌枕(和歌の中に古来多く詠みこまれた名所のこと)の風景をこの地に写して、庭園を造ろうと思い立った。そして、『万葉集』『古今和歌集』などにもとづいた「六義園 八十八境」と呼ばれる88ヶ所の名所を模して造り出した。その設計と指揮は、吉保本人によるものと伝えられている。

 正門を入り受付すぐ先に、和歌山市パネル展がある。最初のパネルは、「六義園は、今の和歌山市がモデルって本当!?」

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 下の写真は、パネルの一部で「日本三景之内和歌之浦之勝景」の錦絵。

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 展示パネルは、このほか和歌山市の名所紹介まで数枚あった。
  
 入園者は、吉保が創造した理想の和歌の庭園、和歌のテーマパーク「六義園」を通して、和歌山市の「和歌の浦」を目にしているのだという。

 

 柳沢吉保については功罪相半ばする評価がなされてはいるが、将軍綱吉の寵愛を受け、側用人として権勢を欲しいままにした人物である。

 吉保は、もともとは譜代に属する家柄であって、政治中枢の要職につける身分ではなかった。しかし、後に将軍となる上州(群馬県)館林藩主・徳川綱吉に仕えた父の関係で、16歳で綱吉の小姓、以後小納戸役、若年寄上座、側用人と昇進し、7万2千石の川越藩主となったのは、1694年(元禄7年)30歳代の半ばであった。10年後には15万石の甲府城主となる。その間、老中格、大老格に昇格している。

 なぜ綱吉が吉保を寵愛したのか。両者は学問好きな点で共通しており、かねて老中政治に不満をいだいていた綱吉が、側用人政治をすすめるうえで、吉保ほど重宝な存在はなかったのだそうだ。綱吉と生母・桂昌院の気まぐれ、我がままや贅沢を聞き届け、お犬様に代表される「生類憐みの令」に迎合し、赤穂浪士の切腹を主張するなど、旧来の幕閣や大名から庶民に至るまで嫌われた。側用人のマイナスイメージが強い。

 時代劇では、悪巧みや悪事のシーンがよく描かれている。付け届け(賄賂)の横行を助長、自分の保身と栄達の為に権謀術策を尽くしたとされた。一方で無欲で潔い人間だったとも言われており、その人物像についてはよく分からないところが多いという。

 綱吉は学問を好むなど聡明な点もあるのだが、精神的な問題もあってか突飛な言動など、やりたい放題だったとされる。吉保は、常に綱吉のご機嫌取り、行動をコントロールし、被害が出れば尻拭いに身を粉にして働いた。綱吉や桂昌院に迎合し、追従しているだけのイエスマンだけでなく、想像以上の苦労があったのだろう。

 そういう吉保が、加賀藩前田家の旧邸宅であった駒込の広大な地を綱吉から拝領して「六義園」を造った。和歌の造詣が深く、六義園の由来、和歌の心と和歌の浦を模した事など、初めて知る。忙しい政務の合間に、和歌の理想郷を設計し造園の指揮をとった吉保に、これまでのマイナスイメージから意外な一面に感動すら覚える。

2017年12月25日 (月)

谷中・根津・千駄木界隈-その2

 2011年1月29日(土)、谷中・根津・千駄木界隈を歩く。

 

 本ブログ記事「谷中・根津・千駄木界隈-その1」の続き。

 本ブログ記事は、2011年1月31日作成の「2011年新年ウォークの記録」と2011年2月3日製作の写真集「2011年新年ウォーク 東京散歩 谷中・根津・千駄木界隈の横丁、路地裏歩き」から再構成して公開。

 谷中・根津・千駄木界隈、通称「谷・根・千」の横丁、路地裏歩き。鴎外、漱石、光太郎など文豪が暮らした千駄木、古い民家が残る根津、70もの寺が集まる谷中を巡り、上野恩賜公園から湯島に向かう新春のウォーキング。参加者は9人。

  (写真は、クリックすると拡大表示します。)

 

⑨ 玉林寺(13:16)

 不忍通りと言問通りとの交差点付近の蕎麦処「杉むら」で昼食後、言問通り沿いにある曹洞宗「玉林寺」へ。

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 都の天然記念物の「大椎(シイ)の木」があるそうだ。裏の墓地の周りを探すが、確認できず。寺から家裏の細い抜け道で、ちょっと迷子になりそう。玉林寺に参拝。

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 勝山藩下屋敷跡の大名時計博物館入口をのぞく。

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 大名時計博物館、赤字坂を経て、明治38創業の染物屋「丁子屋」をのぞく。

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⑩ へび道(13:47)

 くねくね曲がった道は、今は暗渠(地下水路)になっているが、藍染川が流れ不忍池に注いだ。狭い道で自転車に注意。

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 へび道沿いの民家の庭に、黄色いフォックスフェイスの鉢植え。

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   再びお寺が並ぶ「三崎(さんさき)坂」に出る。ここで、同行者の一人と別れる。

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 三崎坂にある臨済宗の「全生庵」の前には、「山岡鉄舟墓」、「三遊亭円朝墓」、「弘田龍太郎墓・曲碑」の案内板があった。 

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 「全生庵」入口にある「山岡鉄舟墓」の案内板。

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 「全生庵」入口にある「三遊亭円朝墓」の案内板。

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 「全生庵」入口にある「弘田龍太郎墓・曲碑」の案内板。

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⑪ 観音寺築地塀(14:10)

 「観音寺」の築地塀(ついじべい)の前で 震災で一部崩壊したが戦災は免れた。築地塀は台東区の「まちかど賞」に選ばれた。

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 14:14、「蛍坂」を下る。昔この付近は「蛍沢」という蛍の名所だったそうだ。

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⑫ 岡倉天心記念公園(14:17)

 日本美術の発展に多大な貢献をした岡倉天心の邸宅と日本美術院があったところで、小さな児童公園になっている。六角堂の内部には、天心巫像が安置されている。

 下の2枚の写真は、2013/1/12撮影したもの。

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 公園では谷中キッズが遊んでいた。

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 「よみせ通り」商店街(写真下)を経て右折すると、JR日暮里駅に続く「谷中銀座」。

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⑬ 谷中銀座(17:26)

 両側に下町風情の残る庶民的なお店が並ぶ。観光客で混雑している。意外と道幅は狭い。

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 谷中銀座の「肉のすずき」はメンチカツが人気があり、行列ができていた。

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 その先に有名な「夕焼けだんだん」がある。作家・エッセイストの森まゆみが名付けた。

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 「夕焼けだんだん」を上って、谷中銀座を見下ろす。この方向の夕日が絶景だという。

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 「夕焼けだんだん」は野良猫の天国らしい。

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 階段を過ぎると、いつのまにか歩道が車道に変わる。 直進するとJR日暮里駅に続く。

⑭ 谷中初音(はつね)小路(14:39)

 谷中銀座から日暮里駅に向かう道の途中で右に折れ、左手の路地が「谷中初音小路」。古い木製のアーケードが印象的で、小さな飲食街が並ぶ。

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 奥に入って行くと行き止まりで、共同トイレがあった。   

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 工事中の「朝倉彫塑館」(彫刻・彫塑家の朝倉文夫のアトリエ跡)を通り過ぎる。
 
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⑮ 谷中墓地(14:48)

 都立の谷中霊園。徳川慶喜や鳩山一郎、横山大観、渋沢栄一など有名人が眠るという。霊園内で右折するとメイン道路のさくら通りとなる。

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 「さくら通り」からみた墓地はこんな感じ。有名人の古い大きい墓が多い。

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 途中、「下町風俗資料館」の付設展示場(旧吉田酒店)を通り過ぎる。隅田川に架かる言問橋に通じる「言問通り」を横断。

 

⑯ 東京芸術大学(15:05)

  芸大正門前を通過し、上野公園の「奏楽堂」から大噴水に通じる「芸術の散歩道」を歩く。芸大生卒業・修了制作の造形物を1年間展示しているらしいが気が付かず。

 

⑰上野恩賜公園(15:19)

 徳川家光が江戸城の北東の鬼門を封じるため、この地に寛永寺を建てた。戊辰戦争で彰義隊が立てこもり、一帯は焼け野原となったが、明治6年日本初の公園の一つに指定。

 家康、吉宗、慶喜が奉られている「上野東照宮」に行くが、残念ながら社殿は工事中だった。

 上野公園内にある「上野東照宮」の案内板。

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 上野東照宮の社殿は、工事用の防護壁を隠す巨大な写真にだまされた。

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 上野動物園の入口付近にある小松彰仁親王銅像と案内板。

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 公園内の路上で大道芸を見る。

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⑱ 不忍池(弁天堂)(15:35)

  天海大師は不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島を築かせた。時間の都合で露店が並ぶ「弁天堂」前を通過。池には、一面葦ばかりが目立つ。

 

⑲ 湯島天神(15:50)

 不忍通り、春日通りを経て、湯島天神へ。

 江戸・東京の代表的な天満宮で菅原道真公を祀ってある。江戸時代、富くじでも庶民にも親しまれた。湯島天神の夫婦坂の階段を上る。

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 湯島の白梅」が咲いていた。受験シーズンで、参拝客も多く、すざましい数の合格祈願の絵馬があった。

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 湯島天神は受験生の参拝客が多い。

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 湯島天神の梅園には紅梅も 2月8日から3月8日は、梅まつり。

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⑳ 居酒屋「ふくろう亭」(16:00

  予定時刻ぴったしに到着。途中2人が都合で帰宅したので、参加者は7人。

 同行者の知人が脱サラして始めた居酒屋「ふくろう亭」で、打上げを兼ねた新年会を開く。所在地は、文京区湯島3丁目36‐3

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 ここまでの徒歩は、約20,000歩、12km。約3時間半(休憩含めず)。   

 19:35、お開き。2次会は上野広小路のカラオケ店「BIG ECHO」 で約1時間。

 21:00ころ、JR御徒町駅から帰路へ。

 ★ ★ ★

 寒い日だったが、ウオークには良い日和だった。スリーデーマーチよりも疲れたような気がするのは、都会の雑踏とコンクリートのせいだろうか。東京には、ほかにも名所・旧跡が多く、今後のテーマにも良いと思う。

 計画通りの全コースを歩き切ったが、幹事のYさんの下見が完璧なのか、記憶力がすばらしいのか、よくも細かい路地や裏道を憶えたなと感服した。歩きながら、前もって用意した私の地図を追いかけたが、いくつか分からなくなった。

 なお、この記録の記事の一部は、Yさんの計画書を引用・参考にさせていただいた。

 ウォーキングマップ

 

谷中・根津・千駄木界隈-その1

 2011年1月29日(土)、谷中・根津・千駄木界隈を歩く。

 

 本ブログ記事は、2011年1月31日作成の「2011年新年ウォークの記録」と2011年2月3日製作の写真集「2011年新年ウォーク 東京散歩 谷中・根津・千駄木界隈の横丁、路地裏歩き」から再構成して公開。

 谷中・根津・千駄木界隈、通称「谷・根・千」の横丁、路地裏歩き。鴎外、漱石、光太郎など文豪が暮らした千駄木、古い民家が残る根津、70もの寺が集まる谷中を巡り、上野恩賜公園から湯島に向かう新春のウォーキング。参加者は9人。

  (写真は、クリックすると拡大表示します。)

 

① 千駄木駅

 JR西日暮里駅より地下鉄千代田線に乗換え、千駄木駅で下車。 綾瀬方向の2番出口を出る。10:37、千代田線千駄木駅の2番出口を徒歩で出発。不忍通りを北上する。

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 不忍(しのばず)通りに沿ってしばらく歩いたあと左折し、10:46「狸坂」を上る。坂の上一帯は「狸山」と呼ばれていた。

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 10:46、都指定文化財の茶室「半床庵」を通り過ぎる。

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② 高村光太郎旧居跡(10:52)

 明治45年、光太郎が設計した木造の風変わりなアトリエに住居を移し、後に智恵子と住む。昭和20年に戦災で焼失したので、花巻市に疎開。旧跡案内があるのみだが、通りかかった千駄木マダムが、跡地は自分の家だと親切に案内してくれた。

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③ 宮本百合子実家跡(10:58

 宮本百合子の実家跡。この実家で少女期と晩年を過ごした。旧姓中条ユリ。日本共産党元議長宮本顕治の妻。代表作に『播州平野』、『伸子』。昭和26年にこの地で没。

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 11:00、旧安田楠雄邸庭園をちょっとのぞいてみる。

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 大正8(1919)年に建設された近代和風建築として価値が高く、都の文化財に指定。
 財閥の安田家が住んでいたが、財団法人日本ナショナルトラストに寄贈された。

 このあと「団子坂」を横断して「藪下通り」へ。

 

④ 観潮楼跡(11:06)

 森鴎外が、明治25~大正11年の60歳で亡くなるまで30年住んでいた「観潮楼跡」。昔、東京湾まで見下ろせたという。現在「鴎外記念館」として工事中で、平成24年秋開館予定。 

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 「観潮楼跡」の歩道脇の案内板「舞について」。

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 鴎外の小説『舞姫』をイメージした天女の彫刻が歩道わきにあり。

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 「藪下通り」を下る。

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 11:16 江戸時代の屋敷森が残っている「千駄木ふれあいの杜」。太田道灌の子孫で太田摂津守の下屋敷があった。

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 藪下通りの日本医科大の高架連絡通路を抜けた。

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 文教区散歩道にあった「猫の家」を示す地図。

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 文京区散歩道から藪下通りを戻り、11:28 急な階段を上って、「猫の家」に向かう 。

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⑤ 猫の家(11:31)

  夏目漱石旧居跡。日本医科大学の敷地に碑が立っている。ここを舞台に『我輩は猫である』を執筆したので、「猫の家」と呼ばれている。英国から帰国後の明治36年から、3年10カ月住んだ。

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 家屋は、愛知県犬山市の明治村に移築されたそうだ。夏目漱石旧居跡の案内板。

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 夏目漱石旧居跡の塀の上には猫がいた。

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⑥ 聖テモテ教会(11:40)

   森鴎外の小説『青年』に出てくる「東京聖テモテ教会」。

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 聖テモテ教会の反対側は、東大の敷地。「青年の散歩道」の看板が立つ。この先に「S坂」がある。

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 11:44、S坂を下る。S坂は小説『青年』に、「割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して・・・。」と描かれ、一高の学生が「S坂」と呼んだという。

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⑦ 根津神社(11:46)

 S坂を下りるとすぐ根津神社の入口。

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 根津神社は、日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社。東京十社の一つ。立派な楼門が見える。手前は神橋。

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 根津神社境内のツツジ(左手)の名所らしい。
 
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 唐門をくぐる。

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 社殿は権現造りの傑作とされ、国重文に指定。近世の神社建築としては都内で最大規模。根津神社の社殿に到着、参拝。

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 境内の寒桜が咲いていた。

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 境内にある「つつじ苑の記」。

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 実物も文字は読みにくかった。以下抜粋する。

 「当根津神社の社地は、江戸時代もと甲府徳川綱重の下屋敷であり、当時よりつつじの名庭であった。没後五代将軍徳川綱吉は、この邸地に壮大な造営を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建、神苑には更につつじを増植し、以来この地は「つつじが岡」と称せられ実に名勝であった。昭和45年「文京つつじ会」を結んで花季には「つつじ祭」を催行、その充実と発展とに努め、往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った。本年第十回つつじ祭開催に当り有志一同相謀り記念に本碑を建立、その由来を後昆に伝える所以である。昭和54年4月吉日 根津神社宮司 内海元撰」

 根津神社の境内にある鳥居が連なったトンネル。この先に稲荷神社がある。

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 根津神社の境内に六代将軍家宣の胎盤が納められている。ここは甲府藩徳川綱重の屋敷だった時、家宣が生まれたことに由来する。

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 根津神社をあとに、根津神社を出た後、根津教会を見て、お化け階段、異人坂を経て、不忍通りへ。根津教会が見える。

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 12:13、東大のお雇い外国人教師が通ったという「異人坂」を下る。

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⑧ 串揚げ処「はん亭」

 言問(こととい)通りを横断し、12:20串揚げ処「はん亭」の建物に到着。明治~大正に建てられた木造の3階建ての日本家屋。不安定に見えるが、関東大震災にも耐えた。

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 串揚げはん亭の玄関か。

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 串揚げはん亭の不忍通り側は、道路拡張で削られ、現代的な外装となっている。

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 不忍通り側は、道路拡張で建物の一部が削られたという。  0:05:10 

 12:30~13:10、不忍通りと言問通りとの交差点付近の蕎麦処「杉むら」で昼食。ネギ南蛮蕎麦(\800)を注文。

 ウォーキングマップ

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 この後は、本ブログ「谷中・根津・千駄木界隈-その2」につづく。

2017年12月 1日 (金)

渡良瀬遊水地と桐生川源流林

 11月17日(金)、渡良瀬遊水地の夜明けと桐生川源流林の紅葉。


 未明、自宅を出発。埼玉県行田市、羽生市を経て、栃木県栃木市藤岡町の「渡良瀬遊水地」に向かう。
 
 

●渡良瀬遊水地(第一調整池北部) 5:30~7:00

 北エントランス、旧谷中村合同慰霊碑付近から土手に上がる。ここは第一調節池の北部で、ヨシ原が広がるが左手には渡良瀬カントリー倶楽部がある。

 東の方角からの日の出を待つ。

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 日の出時刻は、6:20頃。

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 ヨシ原が赤く染まる。

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 遠くに茨城県つくば市の独立峰「筑波山」(標高877m)が美しい。

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●渡良瀬遊水地(池内水路) 7:05~8:10

 渡良瀬川と並行する第一調節池の地内(ちない)水路。

 池内水路は、調節池に溜まった水を排出する水路。カモやシラサギが見える。

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 水路では、漁が行われている。

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●桐生川源流林 9:55~11:25

 渡良瀬遊水地から佐野市(栃木県)を経て県道66号線を北上、群馬県桐生市に入る。

 桐生ダムのダム湖「梅田湖」に架かる梅田大橋を渡って右折し、桐生川上流の「桐生川源流林」に向かう。細い道を3Kmほど上った所にある「梅田ふるさとセンター」で小休止。

 ここから、更に上流に向かって3Kmほどの間、渓流と紅葉のスポットを探す。

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 渓流には、いくつも滝があるらしい。ここは「千代の滝」と呼ばれる滝。

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 根本山(ねもとさん、標高1199m)より流れ出る桐生川は、桐生市街で渡良瀬川に注ぐ。 梅田湖上流の「桐生川源流林」は、桐生川に沿って周囲にモミジをはじめ、ヒノキ、ナラ、ケヤキ、スギなどの樹木が群生、「森林浴の森日本百選」にも選ばれている。澄んだ渓流には、イワナやヤマメが棲息。根本山へは、ハイキングコースとして登山道も整備されているそうだ。
 

 
●梅田ふるさとセンター 12:05~13:20

 梅田大橋を渡って、桐生川に沿って細い道を3Kmほど上ると、「梅田ふるさとセンター」(桐生市梅田町五丁目)がある。

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 店内に入ると、地元の新鮮野菜やふるさと饅頭など特産品、おみやげなどが並ぶ。オリジナルの手打ち蕎麦やうどんが、おいしいとか。平日だが昼時で、館内は混み合っている。

 天もりそば850円を注文。

 13:20、センターを出て桐生市街、群馬県太田市を経て、帰路へ。
 
 

 ★ ★ ★

 「梅田村」は、群馬県の東部、栃木県と境を接し山田郡に属していたが、1954年(昭和29年)に桐生市に編入され、新たに桐生市梅田町となった。

 根本山を水源とする桐生川は、忍山川や高沢川などの支流と合流しながら梅田町内を南に、更には桐生市街地に流れている。桐生川下流域の町内南部が梅田町一丁目、川を遡るにつれて、二・三・四・五丁目となる。町域のほとんどが山地で占められており、根本山や鳴神山(なるかみやま、980m)など、足尾山地の山々が連なる。
 

 「渡良瀬遊水地」については、本ブログの次の関連記事を参照。

  「渡良瀬遊水地ウォーク」  2016/06/29 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-6b27.html

  「渡良瀬遊水地」 2014/03/28 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-6b27.html

2017年11月30日 (木)

紅葉の志賀高原-その2

 10月13日(金、上信国境の渋峠を経て、草津白根山と志賀高原の紅葉を観に行く。

 本ブログ記事「紅葉の志賀高原-その1」の続き。

 

 7:00、最寄りの駅前からマイクロバスで出発。参加者14名。あいにく朝から雨だが、昼頃には止むとの予報。

 8:07、関越道の渋川伊香保ICを出て、国道353号を走る。中之条町から利根川支流の吾妻川に沿った国道145号線を西に進み、「道の駅 八ッ場(やんば)ふるさと館」で休憩。

 写真は、「道の駅 八ッ場ふるさと館」。ウィキメディアコモンより転載。

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 道の駅は、渋川伊香保ICからおよそ1時間、長野原町の国道145号線八ッ場バイパスと県道375号線の「不動大橋」(湖面2号橋)との林交差点に位置し、JR川原湯温泉駅から西へ3Kmのところにある。2013年4月に開館した。

 レストランには「八ッ場ダムカレー」というメニューがあった。ダムの形を模したカレーは、どこかにもあった。しかし館内のヤマザキショップ(コンビニ)には、「八ッ場ダムカレーパン」(180円)という珍しいパンがあって、一番人気だそうだ。カレーとホワイトソースをチーズ(ダム)で仕切ってある。

 長野原から国道292号で草津に向かい、10:10草津白根山レストハウス駐車場に着く。

 
●草津白根山 10:10~11:10

 山頂付近には「湯釜」、「水釜」、「涸釜」と呼ばれている複数の火口湖がある。そのうち「湯釜(ゆがま」)が一番大きく直径約300m、水深約30m、水温約18℃の火口湖である。写真は、ウィキメディアコモンより転載。

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 登山道入口付近(写真右手)からは、湯釜や展望台らしきものは見えない。昔、駐車場から10~15分くらいかけて火口の縁まで登って、エメラルドグリーンの湯釜を見たことがあったが、現在は500m圏内の立ち入り規制により登山を禁止されている。

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 駐車場の西側に遊歩道(写真左手)があり、「湯釜西側展望台」までは距離が長くなっているが、徒歩で15~20分で登れるそうだ。見上げると、湯釜見学に登る人たちが写真左手に小さく見える。

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 湯釜の見学をあきらめ、雨の中をカッパを着て国道の南麓にある「弓池園地」をめぐる。

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 この弓池も(明治35)の噴火で出来た火口湖だそうだ。今では、池と平らな湿原になっている。

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●平床(ひらとこ) 10:40~12:00

 志賀高原の平床に着く頃には、雨が止む。

 山にかかる霧も次第に晴れてくる。晴れの日と違って、白樺の紅葉もしっとり。

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●木戸池 12:05~12:15 

 木戸池は、白樺やダケカンバに囲まれた池。また雨がシトシト降り出す。

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●蓮池 12:35~13:15

 雨は完全に止む。蓮池の前にある建物は、「志賀レークホテル」。池には、ヒツジクサ(羊草、スイレン科)が浮かぶ。昨年見た時よりも、水が少なくなっている。

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 ホテルの対岸に、総合会館98バス停のある「志賀高原 山の駅」がある。Img_7830

 この山の駅は、2011年に廃線となった「志賀高原ロープウェイ」の発着場「蓮池駅」だった。ロープウェイ搬器が今でも施設内に展示されている。休憩、食事、おみやげ、スキーやトレッキングウェアのレンタルなどの複合施設となっている。昭和のなつかしい紙芝居も展示してあった。

 施設内の「山の食堂1959」で昼食。志賀高原では、良質な根曲り竹が自生するという。根曲り竹定食(1,150円)を注文。タケノコとはまた違う食感を味わう。

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 (写真は、志賀高原リゾート開発株式会社のHPから転載)

 レストランの窓や駐車場から北東の方向、霧がかかる東館山(ひがしたてやま、左手、1994m)と寺子屋峰(右手、2125m)の中腹の紅葉を見る。この辺りは発哺(ほっぽ)温泉のホテルやスキー場があり、かつてはここ蓮池駅からのロープウェイの発哺温泉駅があった。中央の山は、岩菅山(いわすげやま、2295m)か。

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●一沼 13:20~14:15 

 「丸池」の近くにある大駐車場に車を停め、ヒツジグサのが浮かぶ「一沼」へ。

 雨は止んでいるが、沼には霧がただよう。

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 大駐車場の周囲の紅葉も素晴らしい。

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●澗満滝(かんまんたき) 14:20~14:40

 澗満滝展望台に行ってみると濃い霧で、遠望できた滝は全く見えずがっかり。

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 展望台への紅葉の林の中に、炭焼き小屋がある。木炭と木酢酢も販売されてた。

 「財団法人和合会」による説明板が立っていた。志賀高原一帯は、昔から沓野(くつの)地区(山ノ内町)の入会地で、白箸、木炭、竹細工に用いる根曲り竹、用材、薪(たきぎ)、干し草などが生産されていた。特に木炭の生産は盛んだったが、終戦後に林業から観光業に移行した。現在忘れられようとしている炭焼き小屋と炭焼きガマを、区民の手によって復元した・・・とある。和合会は、志賀高原の大部分の土地の所有者だそうだ。
 

 

●小野りんご園 15:00~15:15 

 国道292号線沿いの、中野市のりんご園に寄るころには、青空が出て来た。

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 上信越道の信州中野ICから帰路へ、途中の横川サービスエリアに寄って「峠の釜めし」(1000円)を買って帰る。

 18:05、最寄駅前に到着。18:45、自宅着。

 

 ★ ★ ★

 気象庁は過去に何度か、活火山である草津白根山の噴火警報・予報を発表し、その都度地元の自治体はそれに対応した規制を行ってきた。

 2014年6月気象庁は、火山性地震などの火山活動の活発化の兆候が現れたため、噴火警戒レベルを火口周辺規制の「レベル2」に引き上げた。これを受け、群馬県は付近の国道292号8.5Kmを通行止めにし、草津町と嬬恋村は登山道の一部を立ち入り禁止とした。

 その後2014年6月に規制が緩和され、日中に限り国道292号の通行は可能になったが、途中山頂の半径1キロ以内を走る2.5Kmの区間は駐停車禁止、草津白根山レストハウスや駐車場は閉鎖された。

 2017年6月には火山活動の低下により、活火山であることに留意する「レベル1」に引き下げられ、立ち入り規制が湯釜火口の1キロ圏内から500m圏内に緩和された。これを受け国道292号の規制が解除され、駐車場とレストハウスの営業も再開された。

 

 ★ ★ ★

 八ッ場(やんば)ダムは、利根川の主要支流である吾妻川の中流域、群馬県吾妻郡長野原町に建設が進められている多目的ダム。現在の完成予定は、2020年(平成32年)。

 吾妻川流域の多目的ダム建設計画は、建設省によって東京及び利根川流域の水害を守るため、1952年(昭和27年)に発表された。その後、吾妻川の酸性問題で一時立ち消えになったが、1964年(昭和39年)に水質改善が可能となりダム問題が再燃。この間首都圏の水需要に対応するため計画規模を拡大、利根川水系最大規模の矢木沢ダム、下久保ダムに次ぐ1億トン級規模のダムとして、1967年(昭和42年)現在の地点に建設を決定した。

 だが計画発表以降、水没地域である長野原町において反対運動が起きた。地元の人々は長い間ダム反対の姿勢を崩さなかったが、日々続く抗議運動は精神的・肉体的にも大変な苦しみであった。やがて高額な補償金を示され、疲れ果てた人々はダム建設を容認せざるをえなくなったり、地元を離れる人も相次いだ。

 1986年(昭和61年)、「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が2000年(平成12年)の事業工期として策定。その後2008年(平成20年)までの3回の計画変更で、建設目的や工期変更で、最終的には工期が2010年(平成22年)まで延長、総事業費が2,110億円から4,600億円に増額された。

 1994年(平成6年)、建設省は付帯工事に着手した。国道145号線が水没して集落がダム湖で分断されるため、湖岸となる地区に国道145号八ッ場バイパスを建設、県道の3線とJR吾妻線の付替線が建設され、2014年(平成26年)10月までにほぼ完成した。両岸を結ぶ橋として、八ッ場大橋(湖面1号橋)が2014年(平成26年)10月開通、不動大橋(湖面2号橋)が2011年(平成23年)4月に開通した。

 写真は、建設中の八ッ場ダム湖面2号橋(不動大橋、2009年9月撮影)。ウィキベディアコモンズより転載。

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 民主党政権下で八ツ場ダム建設中止の発表で、建設中の八ツ場ダム湖面2号橋は頻繁にテレビに登場し、すっかり有名になった。

 2011年4月に開通した不動大橋(2012年12月撮影)。ウィキベディアコモンズより転載。

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  衆議院選で民主党が圧勝し、2009年(平成21年)9月の政権交代による影響を受け、ダム本体工事の入札が延期された。民主党はマニフェストで、「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す。」としたことを受け、鳩山内閣の前原国土交通大臣は、八ッ場ダムの事業中止を表明した。

 国の突然の方向転換に対し、長年にわたり国との対立の末に苦渋の決断を下して、代替地転居と事業完成を待っていた地元の人々は、大きく反発した。事業資金の一部を負担した東京、群馬、埼玉、千葉、茨城、栃木の各都県知事からも、建設中止に対する批判や負担金返還の声が上がった。

 2011年(平成23年)9月野田内閣が発足、新入閣の前田国交大臣(建設省河川局OB)は、八ツ場ダムの建設再開を表明、建設予定地の長野原でこれまでの混乱を謝罪した。また当面凍結されていた高速道路の一部区間や整備新幹線などの大型公共事業の再開も次々と決定した。

 2012年(平成24年)12月、自民党政権の第2次安倍内閣が発足する。国土交通省は2014年(平成26年)8月、本体工事を清水建設など3社のジョイントベンチャー(JV)が一般競争入札で落札したと発表。2019年度(平成31年度)の完成を目指し、本体工事を2015年(平成27年)1月に開始した。

 建設中の八ッ場ダム(2017年5月撮影)。ウィキベディアコモンズより転載。

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 一時は公共事業を再評価し、いくつかの無駄なダム計画が中止された。しかし政府や関係自治体は、八ッ場ダムは利水の面で開発単価が安い、利根川全体の治水対策の中で吾妻川流域の豪雨への備え、水資源の需要はまだ十分ではないとして、ダム推進の立場をとっている。それに対して首都圏の水需要の減少予測、洪水対策は堤防の強化で十分なこと、建設による自然破壊などを理由に、八ッ場ダム建設に批判的な意見はいまだに少なくはない。

 一方公共事業では、国交省からの公益法人と企業への天下り、競走入札を行わない不明朗な随意契約、不適正な予算規模、政治家・官僚・業者の癒着などの問題も指摘されている。

 何十年も論争が続き、完成した今でも国や賛成派と反対派が裁判で争っている長崎県の「諫早湾干拓事業」は、失敗した大型公共事業の事例であろう。国の大型事業は、いったん計画が走り始めたら、高度経済成長が終わっても、時代が変わっても、取り巻く条件が変わっても、止まらない。八ッ場ダムは、いったい何だったのだろうか。

 政・官・業の癒着やしがらみ、国民の税金の無駄遣いに対して、民主党の公共事業を見直すマニュフェストに期待をした。しかし、政権交代すると、その政策が迷走してしまったのは残念だった。原子力発電も巨大なダム建設もしかり、公共事業の失敗事例は、子供や孫の世代の未来に負の遺産を残す。

 

2017年11月29日 (水)

紅葉の志賀高原-その1

 10月11日(水)、上信国境の渋峠、志賀高原、カヤの平高原の紅葉を観に行く。

 

 深夜、車で出発。3:15関越道渋川伊香保ICを出て、国道17号から国道353号線を走る。群馬県北西部の吾妻郡中之条町からは国道145号線、吾妻郡長野原町からは国道292号線へ。

 4:30草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)を通過し、未明の5:00渋峠に到着。

 

●渋峠の日の出(5:00~6:10)

 「渋峠」は、群馬県吾妻郡中之条町と長野県下高井郡山ノ内町の間にあり、横手山(標高2305m)と草津白根山(2171m)の間を通過する峠。志賀草津道路が有料道路として1965年に開通したが、1992年に無料になって国道292号に組み込まれた。峠の標高は2172mで、日本全国の国道最高地点。

 「渋峠」から、日の出を見る。日の出時刻は5:50頃。気温は10℃以下だろうか、寒い。

 手前は湿地帯の「芳ヶ平(よしがだいら)」、街灯りは草津温泉。中景は、高間山(1342m)などの山並みか。遠景に赤城山(標高1827m)や榛名山(1449m)の峰々が雲海に浮かぶ。

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 朝日が昇る。

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 陽が昇ると、眼下の「芳ヶ平(よしがだいら)」が明るく見えて来た。

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 雲海が赤く染まり、やがて青空が広がる。

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 6:10「渋峠」を後にして、志賀高原へ向かう。

 6:20志賀高原へ下り始める途中、西の方角に雲海と北アルプスを望む。

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 国道292号線沿いの横手山・渋峠スキー場、熊の湯スキー場を経て、「木戸池」へ。

 

●木戸池(6:35~7:25) 

 「木戸池」は、白樺やダケカンバの森に囲まれた池。秋は紅葉、夏にはボート遊びや、キャンプ、ハイキングなどを楽しむ人々で賑わう。冬は、近くに木戸池スキー場。

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 湖畔にある木戸池温泉ホテル。

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 木戸池から、国道292号線を戻り草津白根方面に向かう。

 

●平床(ひらとこ、7:30~7:57)

 木戸池から約1km、標高約1650mの平床は、名前の通り平でなだらか地形、白樺が多く新緑から紅葉まで楽しめる。

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 この平床付近の国道292号線沿いに、もうもうと白煙を上げる「平床大噴泉」がある。この源泉は、近くのほたる温泉(硯川温泉)に引き込まれている。写真は、Google Mapから転載。

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●朝の渋峠

 8:10、早朝に日の出を見た「渋峠」に戻る。国道沿いに「日本国道最高地点」の石碑が立つ。

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 標高2172mの「渋峠」からは、活火山の草津白根山(標高2,160m)の荒涼とした原野を見る。目の前には、緑豊かな湿地「芳ヶ平湿原」が広がる。
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 群馬県の北西部、中之条町と草津町に広がる「芳ヶ平湿原」のパノラマ。

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 「芳ヶ平湿原」などのある「「芳ヶ平湿原群」は、草津白根山の火山活動に影響を受けて造られた湿地、河川、池沼群をいう。草津白根山の「湯釜」をはじめ、標高約1800mの「芳ヶ平湿原」、「大平湿原」、「平兵衛池」、「大池」、「水池」、標高約1,200mの「チャッボミゴケ公園」の「穴地獄」の湿地群から成り立っている。

 湿地の保存に関する国際条約「ラムサール条約」に、2015年登録された。ここには、ワタスゲをはじめとする様々な高山植物や特別天然記念物であるニホンカモシカ、日本固有種のモリアオガエルの最高標高繁殖地、東アジア最大級のチャツボミゴケ群落など、世界的に重要な生態系が存在するという。

 

 草津白根山のすぐ近くにある「草津白根レストハウス」前まで行き、駐車場(500円)で持参のおにぎりの朝食(8:20~8:30)。

 再び志賀高原へ戻り、「木戸池」前を通過して「一沼」へ行く。

 

●一沼(9:00~9:45)

 国道292号線沿いから、「一沼」を見る。

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 国道292号線沿いの大駐車場に車を置いて、少し歩く。「一沼」は、大きな「琵琶沼」のそばにある小さな沼。 

 黄色くなったヒツジグサ(未草、スイレン科)が、水面に浮かぶ。

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 9:50、志賀高原中央部の「蓮池」前の「志賀高原 山の駅」で一時休憩。

 ここから、県道471号線で志賀高原の北部にある奥志賀高原、更に木島平村に向かう。

 

●奥志賀スーパー林道

 県道471号の志賀3号トンネルの手前、「発哺(ほっぽ)温泉」入口付近(蓮池から約3Km地点)から見る紅葉。赤く紅葉するのは、カエデ、ウルシ、ナナカマドなどか。

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 一ノ瀬スキー場を経て、奥志賀スーパー林道(県道502号線)沿道の紅葉を見ながら、長野県下高井郡木島平村へ。

 やがて「蓮池」湖畔の分岐から約25Kmほどの地点にY字路がある。野沢温泉と中野・飯山の分岐。林道(県道502号線)を直進(北上)すると野沢温泉、野沢温泉から東に向かうと、新潟県津南町や中津川渓谷(秋山郷)へつながる。Y字路の左側へ細い道を西に行くと、木島村のカヤの平高原、その先は飯山市、中野市に至る。

 

 進路を左に走ると、道の右手が「カヤの平高原牧場」。ここには、伊藤忠建材(株)の「地球樹の森」の看板が立ってる。

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 伊藤忠建材は、2013年より木島平村と森林(もり)の里親契約を締結、同村の「カヤの平高原牧場」内に「地球樹の森」を設立し、未利用の牧草地を元々あったブナの森に還す活動を展開しているという。

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●カヤの平ブナ原生林(11:00~12:35) 

 Y字路からおよそ1kmほどで、木島平村の「カヤの平高原総合案内所」前で車を停める。

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 カヤの平の「信州大学ブナ原生林教育園」へ入り、紅葉したブナ林の自然観察路を歩く。教育園は1周700m、ここは日本有数のブナ原生林。

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 「カヤの平高原ロッジ」で昼食(12:05~12:35)。山菜そば700円を注文。

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 「信州大学ブナ原生林教育園」は、「カヤの平自然休養林」の一部。自然休養林は傾斜の緩やかな高原の広大な国有林。標高は1500m、面積1450ha。ブナ原生林やシラカバ群生林は、林齢約250年で「日本一美しい」とされている。

 高地独特の植物やカモシカなどの動物の姿も見られる。春は雪解けとともに緑が芽吹き、夏は牛の放牧、秋にはブナ林が美しく紅葉。5月下旬「南ドブ湿原」にはミズバショウの群落を、北ドブ湿原には7月下旬から8月上旬にかけ湿原を覆いつくすニッコウキスゲを楽しむことができるそうだ。ロッジやキャンプ場、遊歩道などが充実しており、子供から大人まで、家族連れまで、幅広く楽しむことができるという。

 

●丸沼(13:20~13:35)

 カヤの平から志賀高原中央部「蓮池」の分岐まで往路を戻り、国道292号を西へ800mほど行くと「丸池」。

 ナナカマド、ダケカンバ、カエデなどの広葉樹の紅葉に囲まれている。すぐそばには丸池スキー場と志賀高原サンバレースキー場があり、ホテルも点在する。

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●澗満(かんまん)滝(13:40~14:00) 

 「丸池」から、国道292号線を2kmほど西に走ると、「澗満滝展望台」の駐車場。ここから林の中を徒歩1分で、滝の絶景ポイント。

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 志賀高原最大の落差107m(幅20m)の滝を遠望。後で地図で測ると、滝は7~800mほど先にある。紅葉の頃が見頃だそうだが、まだ早い。

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 ここからは、「沓打(くつうち)名水公園」に続く遊歩道も整備され、森林浴が楽しめるという。 滝の周りは断崖で、滝の近くまでは行けない。

 
 

 国道292号線を西へ進み、長野県中野市方面へ向かう。途中、国道沿いの道の駅「北信州やまのうち」、信州中野の「小野りんご園」(シナノスイート購入)に寄る。

 14:45志賀中野有料道路(100円)、14:50上信越道中野ICから帰路へ。18:00、帰宅。

 

 ★ ★ ★

 「澗満滝」の展望台には、歌人・若山牧水の碑が立つ。旅好きで知られ、日本各地に歌碑が作られている。ここにある石碑は、「澗満瀧」と題して1920年(大正9)年5月21日の牧水の感動が書かれている。碑の最後に、「若山牧水全集第六巻 静かなる旅を行きつつ『草津より渋へ』より」とあり、牧水の紀行文を抜粋してあるそうだ。

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 「草津」は、群馬県の草津温泉。「渋」は、長野県下高井郡山ノ内町にある渋温泉(渋峠ではない)のこと。「湯田中渋温泉郷」と呼ばれる一帯の温泉郷の中にある。当然、草津温泉から渋温泉まで、自らの足で歩いたのだろう。牧水の写真や銅像を見ると、きっと頭は山高帽をかぶり、着物の裾をからげ、マントを羽織り、足にはゲートルを巻いて、手にはコウモリ傘の旅姿を想像する。

 草津温泉から草津白根山や渋峠を越え、志賀高原を経て渋温泉へのルートは、昔からあったようだ。もちろん舗装された志賀草津道路(国道292号線)ようなものでなくて、岩ゴロゴロの狭い山道だったに違いない。地図で見ると、その距離は40数Kmもある。

 江戸時代、成人男子は1日平均10里(40Km)、女子は8里(32Km)くらいは歩いたという。そうすると牧水は、草津温泉の宿から渋温泉の宿まで、標高2000m以上もある峠を越えて山道を1日で行ったのか。今のようにその途中にも、温泉宿はあったのだろうか。昔の人は、現代人より想像以上に健脚だったと改めて思う。

 そして旅の途中で、牧水は展望台に立って「澗満滝」を眺め、旅の疲れを癒したのだろう。今から97年もの前の事であった。

 

 本ブログ記事「紅葉の志賀高原-その2」に続く。

 
 関連ブログ記事

  「志賀高原の池めぐり」 2016年10月26日投稿 
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-ad52.html

2017年11月27日 (月)

東京都美術館「ゴッホ展」

 11月9日(木)、上野の東京都美術館で開催中の「ゴッホ展-巡りゆく日本の夢」を観賞。

 

 ゴッホは、600枚に及ぶ浮世絵を集めて模写するなど、日本にあこがれ、日本美術に強い関心を持ち影響を受けていた。

 「札幌展(北海道立近代美術館)が、10月15日(日)までで終了し、現在東京都美術館で、2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)の会期で開催されている。次は京都国立近代美術館が、2018年1月20日(土)~3月4日(日)の会期で京都展が開催される。

 一方上野の国立西洋美術館では、ちょうど「北斎とジャポニズム」展が10月21日(土)~2018年1月28日(日)の会期で開催中。モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン… 等の西洋の芸術家たちが、浮世絵師・葛飾北斎の作品から衝撃を受けた。北斎と西洋の芸術家たちの作品が集結した展覧会。両美術館とも、テーマが似通っているが、今回は時間もないので、ゴッホの方を観賞することにする。

 去る11月3日(金)午前10時05分~50分、NHK特集番組「ゴッホは日本の夢を見た」が放映された。

 日本のどこにひかれたのか?、女優・吉岡里帆がフランス、オランダを旅し、残された遺品や貴重な証言を手がかりに、傑作誕生の物語から意外なゴッホ人物像に迫るという内容だった。この放映を事前に視聴していたので、「ゴッホ展」を観賞してより理解が深まった。

 

 JR上野駅から上野恩賜公園へ。東京国立博物館前に行くと、大噴水の水が抜かれてその中で工事していた。かつて公園は上野・寛永寺の境内だった歴史を踏まえ、浮世絵にある山門を、角材4800本で模した楼閣だそうだ。

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 この構造物は、10月10日~19日に開催されるアートイベント「TOKYO数寄フェス2017」の出品作。夜にはライトアップされ、噴水池に姿を映し出すそうだ。現代美術家で東京芸術大の大巻伸嗣教授の作品。

 

 14:30、東京都美術館の入口に着く。

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 「ゴッホ展」のポスターに使われている絵は、ゴッホの「花魁(おいらん)」。

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 東京都美術館のロビーと受付。

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 作品はすべて「撮影禁止」だったため、以下に掲載する作品の写真はすべてウィキベディアコモンズから転載。

 

 【第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム】

 国内外のコレクションからゴッホ作品約40点と、同時代の西洋画家の作品や浮世絵など50点余りを比較して展示されている。

 ゴッホは33歳の時にパリに来てから浮世絵に出会い、浮世絵や日本の資料を集め、模写しそのデザインや画法を自分の作品に取り入れていく。

 渓斎英泉「雲龍打掛(うんりゅううちかけ)の花魁(おいらん)」を掲載した「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号。

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 ゴッホの模写「花魁」。花魁の他にも、別の浮世絵から蓮、鶴、カエルなどが描かれている。1887年製作。

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 「カフェ・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」 彼女は、パリで「カフェ・タンブラン」を経営していた。ゴッホは、1887年に彼女の店で浮世絵展を開いた。右側の壁に浮世絵の女性像が見える。1887年製作。

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 背景に浮世絵をちりばめた「タンギー爺じいさんの肖像」。1887年。

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 自らを日本の僧侶の姿にして描いた「坊主としての自画像」。1888年製作。(展示なし?)

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 歌川広重の「亀戸梅屋敷」とミレーの「種まく人」の模写。1888年製作。

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 上の絵のもとになったと思われる歌川広重の「亀戸梅屋敷」の模写「梅の開花」(1887)と ゴッホのミレー「種まく人」の模写(1888年)。(これらの作品は、図録リストにはない)

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 晩年、南フランスのアルルに向かったのも、「日本のように陽光に満ちた地」を目指したからだとされる。

 「寝室」= アルルで暮らした2階の部屋。ドアの隣には画家・ゴーギャンが住んでいた。「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか。この作品の陰影は消し去ったり、浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」。1888年製作。

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 アルルの風景「オリーブ園」。黄色がゴッホの作品の特徴。1889年製作。

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 フランス女性を日本人に見立てた「ムスメの肖像」。日本人少女をイメージして、この作品を「ムスメ」と呼んだ。1988年製作。

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 「花咲くアーモンドの木の枝」= ゴッホが南フランスの精神病院で療養していた時、パリに住んでいた弟テオに子が生まれたのを祝って製作したという。花の輪郭や枝ぶりは、浮世絵の影響が見られる。1890年製作。

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 下の絵も同名の作品。1888年製作。

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 【第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼】
 
 1890年(明治23年)にゴッホが亡くなった後、主治医だったガシェ医師に晩年の作品が多く残された。およそ20年を経て、武者小路実篤や岸田劉生らがこの天才画家を日本に紹介し始める。

 日本を夢見たゴッホの死後、大正から昭和初期にかけて今度は日本人画家ら多くのファンたちがゴッホの墓参をし、ガシェ家を訪れた。第2部ではこの「ゴッホ巡礼」で、ガシェ家に残る芳名録に基づいた約90点の資料が展示されている。

 16:00、退館。

 

 ★ ★ ★

 フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月オランダ南部のズンデルトで、牧師の家に生まれた。1869年画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ・ロンドン・パリで働くが勤務態度が悪く、1876年商会を解雇された。その後イギリスで教師として働いたり、オランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折。

 1878年末からベルギーで伝道活動を行うが、常軌を逸した活動で資格停止。画家を目指すことを決意して美術学校に入学。以降オランダ、ベルギーの各地を転々としながら、4歳下の弟テオの援助を受け、製作を続けた。この時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の代表作品。

 1886年2月弟を頼ってパリに移り、印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては、「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵に関心を持ち、収集や模写を行っている。1888年2月、南フランスのアルルに移り「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。

 日本では浮世絵画家たちが、共同生活を送っていると思い込む。南フランスで画家の協同組合を築くことを夢見て、1888年10月末から画家ゴーギャンとの共同生活が始まった。しかし次第に二人の関係は行き詰まり、また住民とトラブルを起こす。同年12月末、ゴーギャンと口論の末、自ら「耳切り事件」を起こし共同生活は破綻した。

 以後、発作に苦しみながらアルルの病院へ入退院を繰り返した。1889年からはアルル近郊の精神病院に入院。発作の合間にも、「星月夜」など多くの風景画や人物画を描き続けた。1890年5月精神病院を退院して、パリ近郊のオーヴェールに移り製作を続けたが、同年7月自らを銃で撃ち、2日後に死亡。37歳だった。発作等の原因は、研究者によって統合失調症やてんかんなど様々な説が発表されている。 

 

 ★ ★ ★

 今回の「ゴッホ展」会場には展示されてなかったが、以下にゴッホの代表的な作品4点を掲載する。

 「ジャガイモを食べる人々」= 1885年にオランダのニューネン在住時に描かれた。ゴッホの初期の頃の作品で「暗黒の時代」とか「薄闇の時代」と呼ばれ、その時代の代表作品。

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 「夜のカフェテラス」= 1888年にアルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。この夜の絵には、青、すみれ色、緑と黄色を用いて、黒は使われていない。

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 「星月夜」= 1889年6月、アルル近郊の精神病院で療養中に描かれた。月と星でいっぱいの夜空が画面の4分3を覆って、大きな渦巻きが特徴。

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 「ひまわり」= 1888年8月から1890年1月にかけて、花瓶に活けられたひまわりをモチーフに、同名の絵画が複数存在する。ゴッホにとってのひまわりは、明るい南フランスの太陽、ユートピアの象徴であったという。

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 ゴッホがどのような人物だったか、よく分かった。彼の代表的な明るい色彩の作品は、パリ時代からだと4年間、特に精神を病んでからたった2年足らずの間に多く描かれている。何度も挫折を繰り返したゴッホは、あまり幸せな人生ではなかっただろう。画家になってからは、弟テイの援助で生活し、精神的な支えにもなっていた。もっと長生きしていれば、画家としての評価も受けて、絵もたくさん売れただろうにと思う。ゴッホの死後4半世紀が経って、多くの日本人画家たちが天才画家ゴッホに憧れ、はるばるゴッホの終焉地を訪ねたのは、まさしく「ゴッホ展」の副題である「巡りゆく日本の夢」、ゴッホの夢は日本人の夢に変わったのだ。

2017年11月25日 (土)

宮崎タウン散策

 10月24(火)~25日(水)、宮崎市に滞在。
 

 本ブログ記事「宮崎県高千穂町」(2017/11/22投稿)の続き。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-f8af.html
 

 10月24(火)14:40延岡市街を出発、JR宮崎駅東口の「リッチモンドホテル」に17:30チェックイン。

 ホテルから宮崎駅の西口前を経て、繁華街「一番街」へ歩いて行く。

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 18:35~21:40中めがねビル3Fの居酒屋「ばる人」に友人らと食事。

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 10月25日(水)、遅めの朝食の後、9:45ホテルをチェックアウト。

 徒歩で、再び宮崎市のメインストリート「橘通り」へ。

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●みやざきアートセンター 10:10~

 橘通西3丁目の「みやざきアートセンター」で、ファッションデザイナー鳥丸軍雪(とりまるぐんゆき)氏の「鳥丸軍雪展」が開催されていると聞き、行って見る。

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 鳥丸氏は宮崎県小林市出身で、英国留学後ピエール・カルダンのアシスタントを務めた。ダイアナ元英国皇太子妃やサッチャー元英国首相、黒柳徹子など、国内外の著名人を顧客に持つオートクチュールデザイナー。
 
 「鳥丸軍雪展」では、初期から近年に至るドレス、デザイン画、写真などを多数展示し、鳥丸デザインの魅力を紹介。行って見ると残念ながら、会期は2017年9月16日(土)~10月22日(日)、3日前で終了していた。 

 「みやざきアートセンター」は、橘通に面したアートセンタービル3Fにあり、展示スペースや小規模ホールなどを備える。6年前に開館、宮崎市が運営。市民が気軽に利用できる「まちなか」の活動拠点として、さまざまなイベント、展示、コンサートなどが行われている。

 アートセンターのエントランス、1階太陽の広場に青く塗られた「ストリートピアノ」があった。

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 このピアノは、NHKのテレビ番組「ドキュメント72時間」の舞台になり、1月27日(金)午後10:50~放送されていたのをたまたま視聴した。

 「ストリートピアノ」は、廃棄されていたピアノをよみがえらせ、誰でもいつでも自由に演奏できるように街角に設置されたもの。宮崎の中心市街地を行き交う人々が集え、音楽に満ちあふれる新たなスポットにしようと、商店街や有識者らのプロジェクトが発足、2013年(平成25年)9月に県内で初めてこの場所に置かれた。

 欧米でよく見られる「ストリートピアノ」は、古いピアノにペインティングを施すことによって命を吹き込み、街中の人と人を繋ぐという。街角に置かれたピアノを誰かが弾き、その旋律に魅かれて人々が集まり、新たな出会いや賑わいが生まれる。日本では、鹿児島を中心に南九州にいくつか見られるそうで、これから全国に広がるのではないだろうか。

 

●宮崎ムサビ展

 「第43回宮崎ムサビ展」が、市内で昨日24日(火)から29日(日)まで開催されているという。アートセンターのスタッフが紹介してくれた。会場は、広島通りのカフェ&ギャラリー「Art Space 色空」の2Fギャラリー。

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 「ムサビ展」は、武蔵野美大校友会宮崎支部会員の展示会だそうだ。油絵から工芸品、彫刻などが展示、会員は学校の先生が多いように思えた。

 1Fのカフェでも、アマチュアカメラマンの個展を観賞。

●宮崎神宮 12:05~

 宮崎駅から北へ車で10分ほど、久しぶりに「宮崎神宮」を散策する。

 初代天皇とされる神武天皇を祀る「宮崎神宮」の神宮の森の中、長い参道を進む。

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 祓所の対面にある手水舎。

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 御神門

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 拝殿の前にある拝所。扁額は中央に「宮崎神宮」、右に「神武天皇」、左に「鵜葺草葺不合尊 玉依姫命」とある。

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 立派な社殿は1907年(明治40)年竣工、2010年(平成22年)に国登録有形文化財に指定された。

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 社殿(拝殿)の内部。

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 社務所の対面にある参拝者休憩所に、神話の一場面を描いた平沢定治画伯の3枚の油絵が奉納されてあった。絵には照明が反射していて見にくいが、写真を掲載する。

 画題「逢初川(あいそめかわ)」= 天孫降臨された瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、水面に映る麗しい木花開耶姫(このはなさくやひめ)を見初められ、妃に迎えられた。逢初川は、宮崎県西都市や高千穂町にあるそうだ。
 
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 画題「海幸山幸」= 兄の海幸彦の大切な釣り針を海で失くした山幸彦は、綿津見神(海神、わたつみのかみ)の国の宮殿へ探しに行く話。日南海岸の青島が舞台。海幸彦と山幸彦の兄弟は、瓊々杵尊と木花開耶姫の間に出来た子。

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 画題「鵜戸の宮居」= 山幸彦は、海神の宮殿で綿津見神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、釣り針も見つけて陸に上がる。豊玉姫は、海辺の洞窟(日南市の鵜戸)で出産するが、生まれたばかりの子・鵜茅不合葺命(うがやふきあえず)を残して海神の海に帰ってしまう。鵜茅不合葺命は、豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)に養育される。

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 鵜茅不合葺命は、後に玉依姫を妻とし4人の子をもうけるが、その末弟が神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと、後に神武天皇)。

 これら絵のほかに、社務所玄関に平沢定治(雅号は定人)画伯の絵「宮崎の宮」が掲げられているという。神倭伊波禮毘古命(=神武天皇)が、東征に向けた軍議を練っている様子が描かれている。これらの絵が書かれたのは1943年(昭和18)、太平洋戦争の真っ只中だったらしい。
 

 
●県総合文化公園

 宮崎神宮」の南西に隣あう「宮崎県総合文化公園」を散策。

 この地に宮崎高等農林学校(1924年設立)があったが、後継となる宮崎大学農学部が1949年に設立された。その後大学は、1984年から1988年にかけて宮崎学園都市(宮崎市木花地区)へ統合・移転した。

 宮崎県は、1983年(昭和58)に「置県100年事業」として大学跡地に文化施設の中核となる総合文化公園の整備計画を発表。1988年(昭和63)「県立図書館」、1993年(平成5)「県立芸術劇場」、1995年(平成7)「県立美術館」が完成した。

 芝生が広がる県民広場には、大学農学部60年の歴史と伝統の面影を残した樹木が活用されているという。

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 「県立美術館」に県民広場の西側出入口から入館、ロビーに入る。

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 内部は、休館日ではないが大きな催しがない日、人出は少なかった。

 特別展「あそぶ浮世絵にゃんとも猫だらけ」が、会期:10月28日(土)~12月3日(日)で開催予定で、大小のポスターがあちこちに掲示されてあった。

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 歌川国芳などの浮世絵には、猫が登場している場面があるという。日本有数の浮世絵コレクションで知られる平木浮世絵財団の所蔵品の中から、猫を描いたの浮世絵145点を紹介。今も変わらぬ江戸の人々と猫との愉快な暮らしぶり楽しめるとある。

 「県立美術館」の東側出入り口から抜ける。

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 美術館から石畳の上を進むと、左手に「県立図書館」。

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 右手には「県立芸術劇場」。2008年4月から命名権導入により、「メディキット県民文化ホール」と呼ぶらしい。

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 公園内には、郷土の先覚者として高木兼寛、安井息軒、石井十次、若山牧水、小村寿太郎、川越進の6体の銅像が設置されている。

・高木兼寛(たかきかねひろ)像

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 高木兼寛(1849-1920)は、高岡(現・宮崎市)で薩摩郷士の子として生まれる。海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。貴族院議員。東京慈恵会医科大学や帝国生命保険会社の創設者。脚気の研究・撲滅に尽力、後にビタミンの発見の糸口となり「ビタミンの父」とも呼ばれる。カレーを脚気の予防として、海軍カレーを食事に取り入れた。

・安井息軒(やすいそっけん)像

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 安井息軒(1799-1876)は、清武(現・宮崎市)で子弟に学問を教えていた飫肥藩士の次男として生まれた。清武では「明教堂」、飫肥城下では「振徳堂」で子弟の教育に励み、江戸に出て私塾「三計塾」を開塾。門下からは谷干城や陸奥宗光、渡辺昇など延べ2千名に上る多くの逸材を輩出した。自らも「幕府儒官」という学者の最高位の職を拝命。その業績は、江戸期儒学の集大成と評価されている。

 この他は撮影出来なかったので、引用可能な県総合文化公園の銅像写真を転載する。

・石井十次(いしいじゅうじ)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 石井十次(1865-1914)は、高鍋藩(高鍋町)下級藩士の長男として生まれる。6歳で藩校「明倫堂」に学び、その儒教的で徳を重んじる気風は十次の人格形成に大きく影響した。海軍士官を志すが脚気で断念、教師や巡査を経験した後、キリスト教に入信。医学を学ぶため岡山に移住。しかし1人の貧しい巡礼者の子を預かったことをきっかけに、医学の道を捨て児童救済事業を開始。資金を集め、教育を施して手に職を付けさせ、子どもたちを自立へと導いた。その数は2千数百人。児童福祉制度などなかった明治時代、児童救済に力を尽くした石井は「児童福祉の父」と呼ばれている。

・若山牧水(わかやまぼくすい)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 若山牧水(1885-1928)は、東郷(現・日向市)の開業医の長男として生まれる。県立延岡中学校に入学、短歌と俳句を始める。わずか43年の短い生涯の中で、実に9,000首もの歌を残した。短歌の他に随筆・童話・紀行文や歌壇の選者としても活躍。明治中期以降、浪漫主義の与謝野晶子などの歌人達が人気となる一方、自然主義文学と呼ばれる牧水の歌は広く庶民の心に浸透した。旅を愛して各地で歌を詠み、全国に歌碑が300基以上あるそうだ。大の酒好きで、一日一升程の酒を呑んでいたようで、肝硬変が死因とされる。

・小村寿太郎(こむらじゅたろう)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

 県総合文化公園の銅像写真が無かったので、肖像画を転載。

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 小村寿太郎(1855-1911))は、飫肥藩(日南市)下級藩士の長男として生まれる。大学南校(東京大学の前身)からハーバード大学へ進学。外務大臣、貴族院議員などを務めた。侯爵。1905年(明治38年)、日露戦争終結後のポーツマス会議日本全権としてロシア側と交渉し、条約調印。また幕末以来の不平等条約を解消するための交渉、条約改正を行い日本の地位確立を果たす。日露協約締結や韓国併合にも関わり、大陸政策を進めた。

・川越進(かわごえすすむ)像

 全国的には知られてない川越進は、筆者も今回初めて知る。引用できるような写真は入手できなかった。

 川越進(1848-1914)は、清武(現・宮崎市)で飫肥藩の勘定方の子として生まれ、藩の郷校「明教堂」で学ぶ。明治初期に宮崎県が誕生するが、その後鹿児島県に吸収合併された。宮崎県民(日向国人)としてのアイデンティティを取り戻すため、川越が中心になって多くの有志が立ち上がった。日向国選出の鹿児島県会議員として初めて、県会議長に就任、宮崎県の分県を実現した。その後も宮崎県会議長や衆議院議員として宮崎県の発展に尽くした。

 15:30宮崎市街を出て、16:05宮崎空港着。

 宮崎空港16:55発のソラシドエア060便は10分遅れで出発。

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 18:45羽田空港着。21:45自宅着。

 

 ★ ★ ★

 「宮崎神宮」は、神日本磐余彦尊(神倭伊波禮毘古命、かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)を主祭神とし、父・鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と母・神玉依姫命(たまよりひめのみこと)の2柱を祀る。

 神話の世界では、神武天皇は初代天皇に即位するまでは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)、幼名は狭野命(さののみこと)。天照大御神から5代目の孫にあたる。鵜葺草葺不合尊(鵜戸神宮の祭神)の第4皇子で、母は玉依姫命。生まれは宮崎県西諸県郡高原町大字狭野とされ、この地には狭野神社が鎮座している。

 天皇は聡明で武術に秀でおり、15歳の時皇太子になり宮崎で政治(まつりごと)を行う。45歳の時に全国を統一して都を中央に遷(うつ)すべく決意し、宮崎を出発。陸路を北へ進み美々津(日向市美々津町)の港から船出した。各地で戦いながら、筑紫、阿波、吉備、浪速、紀伊、熊野を経て16年間の苦難の旅の後、大和を征服。52歳の時、「橿原宮」で即位した。これを「神武東征(東遷)」という。
 
 

 「宮崎神宮」の社伝によれば、神武天皇が東征以前に宮を営んだ宮崎の地に、後に九州に下向してきた神武天皇の孫・建磐龍命(たけいわたつのみこと、阿蘇神社の祭神)が、その縁に因んで創建したとされる。

 「宮崎神宮」が古くからこの地に鎮座していたのは確からしいが、古代における由来は不明である。文献上の初見は、鎌倉時代初めまで下るという。神武天皇に対する崇敬から、歴代の伊藤、島津、有馬、内藤氏などの領主・藩主から、深く崇敬や保護を受けたようだ。もっとも江戸時代までは、「神武天皇宮(社)」や「神武天皇御廟」などと称され、神武天皇を祀るとはいえ単なる地方の一古社に過ぎなかった。

 全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古により「神武創業の始め」に復することが唱えられ、国家神道の中核としての当宮が脚光を浴びるようになってから。1873年(明治6年)に「宮崎神社」と改称。神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受け、神社の格も累進した。1878年(明治11年)「宮崎宮」と改称、1899年(明治32年)には「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、全国から寄付金を集めて境内整備を行い、1907年(明治40年)にほぼ現在の姿となった。1913年(大正2年)に神宮号が許可され現社名「宮崎神宮」となった。更に1940年(昭和15)年、国家的行事・紀元2600年を記念した大規模な拡大整備事業で、現在の境内が完成した。
 
 

 古代史研究家の中には、神武天皇を実在とする説もある。しかし現代の歴史学界では、神武天皇の存在は否定されている。神武天皇は、弥生末期から古墳時代にかけてのいろいろな出来事や伝承を元に、複数の実在した人物の経歴、業績や人格などを重ねあわせ、記紀(古事記・日本書紀)編纂時に創作された偶像であるというのが、最も納得できる。神武天皇の「モデル」とされた人物として、実在の可能性が高い崇神天皇、応神天皇、継体天皇、そして記紀編纂時の天武天皇などが挙げられている。

 国家神道は明治新政府が、神社神道と皇室神道を結びつけて創り出した特異な宗教だった。政府が軍国主義、国家主義的な立場で、神道を神道を国民精神のよりどころとし、国家がその保護・監督を行い、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけた。

 ここういった神話が底流にあって、それを政治に利用する人々が、例えば教育勅語、日本軍創設、核兵器保有などを唱える立場に立っている。近年、国家主義や復古主義など戦前の体制に回帰させ、基本的人権、平和憲法や立憲主義をないがしろにする現政権の右傾化政策を支持しているような背景は、神話の世界と区別して科学的な歴史や史実を正しく理解すべきだと指摘しておかねばならない。

 

 

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 「宮崎市街から高岡町と綾町」2017/06/01投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c2e0.html

 「宮崎タウン」 2015/10/08投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-36e7.html

 「宮崎市と神話のふるさと」 2014/11/01投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-cca2.html

2017年11月22日 (水)

宮崎県高千穂町

 11月24日(火)、神話と伝説の町・宮崎県西臼杵郡高千穂町へ行く。
 
 

 本ブログ記事「延岡市北浦町と北川町」(2017/11/16投稿)の続き。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-6a14.html

 11月23日(月)、「ホテルメリュージュ延岡」(延岡市紺屋町)に宿泊。翌日24日(火)8:00、貸切バスは参加者20名を乗せホテルを出発。延岡市北方町、西臼杵郡日之影町の国道218号線を走り、高千穂町に向かう。

 

●天岩戸神社 9:00~9:25

 8:55、バスは「天岩戸神社」(西本宮)前の駐車場に到着。

 「天岩戸神社」は、古事記・日本書紀に書かれている天照御大神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸伝説の舞台となった場所。岩戸川を挟んで西本宮と東本宮が鎮座し、両社とも天照大御神を祭神とする。川上には、八百萬(やおよろず)の神々が集まり相談したという「天安河原(あまのやすがわら)」がある。

 天岩戸神社の入口、「ひむか神話街道」の案内板の横に、現代的な顔をした「アマテラスオオミカミ(天照御大神)」の像があった。銘板には、提供:米良電気産業株式会社とある。

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 天岩戸神社西本宮の入口。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 鳥居をくぐってすぐ参道右手に、何故か松尾芭蕉の句碑がある。「梅が香に のっと日の出る 山路哉  はせを」 

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 苔むした古い碑だが、芭蕉がここに来たはずはない。説明板には、「俳聖松尾芭蕉の句集『炭俵』の中になじみ深い句で、まさに高千穂地方早春の光景そのものです」とある。「はせを」は芭蕉の古い表記で、現代では「ばしょう」と読む。

 建立されたのは安政2年(1855年)。大勢の門人達がここで句会を開き、その記念にこの地にふさわしそうな芭蕉の句を選んで建立したという。しかしこの名句は、高千穂でなくてもどこの場所にも当てはまるような気がするが。

 参道にある案内板を見るとわかるように、岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。西本宮のちょうど対岸に「天岩戸」、上流に「天安原宮」がある。(クリックすると拡大表示します。)

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 神職の案内で参道を進む。

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 御神木の「おがたま(招霊)の木」。モクレン科で常緑樹。

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 「おがたまの木」は、その枝を手に天鈿女命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で踊ったとされ、その時の踊り(舞)が現在の神楽、枝が神楽鈴(巫女が持つ鈴)の原点ともされる。4月頃白い花が開花、秋に房状の実を結ぶ。花は、常陸宮家の御紋章。

 右手の神門をくぐり、拝殿に向かう。

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 拝殿に参拝。この拝殿のちょうど背後に当たる場所に、「天岩戸」洞窟の遥拝所がある。

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 参拝後、拝殿前で神職の方にお祓いをしてもらう。拝殿の右手にある扉の先は、聖域になっていて残念ながら写真撮影禁止。

 神職が扉を開き、後に付いて通路を歩くと、遥拝所がある。川の対岸に樹木に覆われて見えないが、天照大御神がお隠れになったという「天岩戸」の洞窟がある。洞窟には誰も立ち入ったことが無く、入口は崖崩れで埋まっているとのこと。御神体の岩戸に向かって手を合わせる。

 今回は行けなかったが、西本宮から岩戸川に沿って徒歩約10分(約500m)で「天安河原」と呼ばれる河原に着く。その中心にある洞窟に「天安河原宮」がある。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 天照大御神が「天岩戸」にお隠れになったので、八百萬の神々は「天安河原」に集まって相談した末、この洞窟の前で宴会を開くことになる。河原には、ケルンのように積み重ねられた石が多数ある。近年、石を積み重ねて祈願すると、願い事が叶うとされるようになったという。

 「天岩戸神社」入り口まで戻って、駐車場に 「天岩戸」をこじ開けた手力男命(たぢからおのみこと)の像があった。天岩戸神楽30番で、手力男命が岩の戸を取り払う舞だそうだ。

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●高千穂あまてらす鉄道 9:55~10:35

 かつて宮崎県北部で旧国鉄高千穂線を継承して運営していた第三セクターの「高千穂鉄道株式会社」の高千穂線は、2005年(平成17年)の台風により甚大な被害を受け、復旧することなく全線廃線となった。

 「高千穂あまてらす鉄道株式会社」は、同線を引き継いで運営する計画で設立された会社。現在その線路の一部を活用して、スーパーカートによる高千穂駅~高千穂橋梁の往復5.1Km、30分の観光トロッコ列車を運行している。

 高千穂あまてらす鉄道のチラシ。田園風景や絶景スポットを楽しめる、高千穂観光の最近の目玉となっているそうだ。(写真のダブルクリックで拡大表示します。)

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 高千穂町の中心街にほど近い場所にある旧高千穂駅。

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 乗車券大人1人1,300円は、維持管理費と書いてある。

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 ホームの左手のブルーシートの下に、白とピンク色のグランド・スーパーカートが停車。

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 グランド・スーパーカートは、2017年(平成29年)3月から運行開始した。2500㏄のディーゼルエンジンを搭載が動力車2台が、30人乗りの客車(トロッコ列車)を牽引する。

 午前10:00から40分おきに10便が往復運行。毎週木曜と悪天候の場合は運休となる。

 発車してしばらく走ると、トンネル。天井のイルミネーションに歓声が上がる。

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 二つ目のトンネルを抜け、国道218号線を横切った後の進行方向右側の風景。田園風景と県道7号線のカーブ。写真左手に、岩戸川に架かる国道218号の「雲海橋」。

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 木々のトンネルを走る。

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 天岩戸駅を通過する。

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 天岩戸駅を過ぎると、列車は岩戸川の渓谷に架かる高千穂橋梁の前で停止。運転手は風の状態を確認し、長さ525.5mの橋梁を渡り始める。

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 客車の床の中心部には強化ガラスの床が設置、走り過ぎる線路の様子や高千穂橋梁の最高地点(105m)での直下で停止して眺めを楽しむ。

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 水面からの高さ105mは、鉄道橋梁としては日本一の高さを誇る。完成は1972年(昭和47年)。真下を流れる岩戸川を、おそるおそる覗き込む。

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 岩戸川の下流に架かる1975年(昭和50年)竣工の「雲海橋」。橋のたもとに道の駅がある。

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 岩戸川の上流に架かる県道237号線(旧国道218号線)の「鹿狩戸橋(かがりどばし)」。

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 橋梁を先に進むとフェンスで覆われたトンネルがある。このトンネルの全長は3kmもあり、今のところ通行が許可されていない。ここが折り返し点。

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 運転手は旧高千穂鉄道に勤務されていたのだろうか、車内から絶景ポイントや高千穂鉄道の歴史などを案内してくれる。鉄橋の上でしばらく停車して、周囲に広がる絶景やガラス床から直下の眺め楽しませ、シャボン玉を飛ばすなど、お客さんを喜ばそうと努力されている。

 当初は軽トラックを改造したスーパーカートで、トロッコをけん引していたそうだ。最大で18人乗り、現在も不定期で運行しているという。SL型のほか、新幹線型などがある。

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 旧高千穂鉄道で使用していたディゼルカー TR-202の運転体験が、元鉄道運転手の指導のもとでできるそうだ。料金は、1人30分で10,000円。

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 旧高千穂鉄道の廃線を受けて、駅舎や線路を活用して未来にその鉄道遺産を伝え、地域の文化や経済活性化のための「まちおこし」に取り組む「高千穂あまてらす鉄道」の努力に敬意を表したい。
 


●高千穂峡 10:45~11:50

 高千穂峡(五ヶ瀬川峡谷)は、延岡市に注ぐ五ヶ瀬川の上流にある。日本の滝百選で有名な「真名井の滝」付近の峡谷。台風21号の影響で増水のためか、貸しボートの利用は中止されていた。

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 阿蘇の火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した火砕流が、五ヶ瀬川の峡谷沿いに流れ下った。この火砕流の堆積物が冷却・固結し柱状節理となった岩層を、五ヶ瀬川の侵食によって長い年月をかけて谷底深く削り、再びV字峡谷となった。高さ80~100mにも達する断崖が、7kmにわたり続く。

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  1934年(昭和9年)に国の名勝、天然記念物に指定され、日本を代表する景勝地の一つとして知られるようになった。1965年(昭和40年)には「祖母傾国定公園」に指定。

 峡谷に沿って遊歩道が整備されており、上流に向かって進むと荒々しい柱状節理をはっきりと見ることができる。写真の右上には、変形した柱状節理も見られる。

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 更に遊歩道を進み「槍飛橋(やりとびばし)」を渡る。高千穂峡を跨ぐ平成・昭和・大正の「三代橋」と呼ばれる橋が並ぶ。上から国道218号バイパスが通る鋼鉄造りの「神都高千穂大橋」(平成15年完成)、コンクリート造りの「高千穂大橋」(昭和30年完成)、大正時代の石橋の「神橋(しんばし)」。

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 「神橋」から上流側の「神都高千穂大橋」を望む。

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 「神橋」の東たもとから更に上流へ遊歩道を通って「高千穂神社」へ行けるが、下流に向かう遊歩道を歩き、元の真名井の滝付近の「御橋(みはし)」に戻る。

 なお「高千穂神社」は、日本神話のニニギノミコト以下の日向三代皇祖神を祀り、源頼朝が天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝を奉納したと伝えられている。

 「御橋」付近に戻り、釣り堀もあるおみやげ屋で休憩。

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 ここには、若山牧水の歌碑がある。「幾山河 越えさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅行く」

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 説明板によると、「牧水は明治18年宮崎県東郷町に生まれ、延岡中学を経て早稲田大学に入学した。この歌は牧水が22歳上京以来三度目の帰省の途中、帰路中国地方を回って帰郷した時の歌で、処女歌集「海の声」に掲載されている。北原白秋とは早稲田大学時代、級友として親交がある。昭和38年4月建立。 」

 すぐ近くに1941年(昭和16年)3月に来町してこの地で詠んだ北原白秋の歌碑(1949年(昭和24年)11月建立)もある。

11:50、高千穂峡を後にして、延岡へ。

 

●道の駅「北方よっちみろ屋」 12:35~12:45

 延岡市北方町、国道218号の道の駅。九州中央道の出入り口と国道218号線との交差点に隣接している。「よっちみろ屋に寄っちみろや」というネーミングがおもしろい。

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 延岡市街地に入り、昼食に名物の鮎料理を食べに行く。
 
 

●鮎の炭火塩焼き 13:05~14:00

 延岡市の大瀬川(一級河川の五ヶ瀬川水系)に架かる大瀬大橋の付近、300年の伝統があるという「延岡水郷鮎やな」。向うに見える山は、愛宕山。

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 一昨日、日向灘を通過した台風21号の影響か、鮎やなは河原に撤去してあった。

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 鮎やな近くの堤防にある「あゆ処 国技館」(延岡市大貫町)に入店。

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 昼セットA(鮎の塩焼き2尾、鮎飯、赤だし、なます、お新香など)は、1,900円。

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 骨の抜き方を教わって、焼きたての鮎を始めて食べる。旅館で塩焼きの鮎を食べたことはあったが、炭火で焼きたての鮎は初めてで、ホクホクしたでとても美味しい。
 

 14:10「ホテルメリュージュ延岡」に戻り、14:40ホテルを出発、宮崎へ。

 

 ★ ★ ★

 高千穂を舞台にした天岩戸伝説のあらましは、次のようである。

 天照大御神は、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が大変な乱暴者で、あまりにひどいいたずらにお怒りになり、天岩戸と呼ばれる洞窟にお隠れになった。太陽の神が隠れると天地は真っ暗になり、さまざまな禍(わざわい)が起こり始めた。

 八百萬の神々は「天安河原」に集まって相談した末、岩屋の前で宴会を開くことにした。芸達者の天鈿女命(あめのうずめのみこと)が賑やかに舞い踊り、そのおかしな踊りに皆笑い転げる。その騒ぎに何事かと、天照大御神が天岩戸の扉を少し開いたところ、手力雄命(たじからのみこと)が岩戸を開いて扉を投げ飛ばし、天照大御神は天岩戸から出ていただいた。天地は再び明るくなり、平和が戻った。

 須佐之男命はその後反省して出雲国に行き、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治された。岩戸神楽の中では、この話の神楽歌が歌われている。また、手力男命が放り投げた岩戸の扉は、宙を舞い信州の戸隠山(とがくしやま)へ落ちたと伝えられる。
 

 天孫降臨伝説もそうだが、天岩戸伝説は天上界の出来事であって、地上のことではない。しかし「ここが天岩戸である」とする場所や神社は、全国に何十ヶ所もある。高千穂はその中でも、日本神話に出てくる伝説や地名が多くあることで知られる。

 「天岩戸神社」の東本宮と西本宮は、元来は独立した別の社であった。西本宮は「天磐戸」と呼ばれ、古来からご神体の天岩戸の洞窟を拝む遥拝所だったようだ。東本宮は、「岩社 岩神」または「氏社」であって、天岩戸からお出ましになった天照大御神を祀っていた。皇祖神をを祀るとはいえ、朝廷の国家的な祭祀ではなく、地元を治める氏族や住民の信仰であった。1871年(明治4年)、それぞれは「天磐戸神社」と「氏神社」と改称、その後1970年(昭和45年)に両社が合併、現在の「天岩戸神社」の東西本宮を称するようになった。

 現在、一般的に「天岩戸神社」と呼ばれ参拝客が多く訪れるのは西本宮で、社務所は西本宮に置かれている。しかし西本宮は本殿が無く、歴史的には遥拝所だった。信仰の中心は、むしろ天照大御神を祀って来た東本宮であったと考えられている。

2017年11月19日 (日)

東京臨海部と南房総の旅

 11月14日(火)~15日(水)、東京臨海部と南房総への2泊3日の旅。

 
 

 この日は朝から曇り空、関東ではところどころで雨の予報。貸切バスは駅前を7:35に出発、参加者26名を乗せて関越道・首都高へ。

 今回の旅行のメインは、14日の東京港の遊覧と15日の館山の自衛隊リコプター部隊の見学。いつも通り、車中はお茶やビール、お菓子が配られ賑やかに、やがてカラオケも始まる。ところが首都高に入ると、事故の影響で大渋滞。

 東京都港湾局の視察船「新東京丸」の竹芝を10:00出発に間に合わなくなった。やむなく乗船をあきらめ、東京臨海部広報展示室「ミナトリエ」の見学に予定変更。

 今話題の臨海副都心の豊洲市場の前を通って、10:30青海フロンティアビル(江東区青海)に到着。20階にある「ミナトリエ」へ。

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 江戸時代からの東京港や臨海副都心の歴史、その現在の姿、未来のまちづくりを紹介する展示を1時間ほど見学。

 江戸の河岸の様子を再現したジオラマ。

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 江戸時代の千石船。

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 床に東京臨海部の航空写真。

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 地上100mの展示室のガラス越に東京港の眺望。眼下に大江戸温泉物語と青海ふ頭、対岸は大井ふ頭。

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 21階から乗船できなかった帰港途中の「新東京丸」 を見る。

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 中央は「青海中央ふ頭公園」。左手に「パレットタウン」の大観覧車。その右手に門の形をした「東京ベイコート倶楽部」。

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 テレコムセンターとその先に船の形をした「船の科学館」。

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 11:40、「ミナトリエ」を出る。
 

 東京湾アクアライン通り、「海ほたる」で12:15~12:25小休止。

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 13:00~13:50、千葉県富津市の金谷港のマーケットプレイス「ザ・フィッシュ」のレストランで昼食。ひじきのり550円購入。

 14:25、鴨川市釜沼の「大山千枚田」に着く。霧雨が降って来たが、傘なしでもOK。

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 面積ヘクタールの傾斜地に大小375枚の田んぼが階段状に連なる。

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 15:00~15:20、、試飲と買い物で房総の地酒「亀田酒造株式会社」(鴨川市仲)の売店に20分ほど寄る。

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 銘柄は「寿萬亀(じゅまんかめ)」。

 毎年、明治神宮新嘗祭の御神酒として奉納しているという。

 15:50、鴨川市の小湊温泉、「ホテル三日月」に到着。

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 大浴場には、1億5千万円相当の18金で作られた1人用の黄金浴槽があって、初めて入るが何とも良い気分。ここで2007年に盗難に遭う事件があったが、2か月後に新しい浴槽が設置されたという。

 18:00~20:30、大広間で懇親会。

 風呂も夕食や朝食も満足。しかしホテル売店で、500mlのPETボトルのお茶が260円(自販機も同じ)でびっくり。どうして高いのか店員に聞いたが、答えは聞けなかった。

 

 

★ ★ ★

 翌日15日(火)は晴れ、8:50ホテルを出発。

 9:00~9:35、鴨川市内の国道128号線沿いの海産物「道の港まるたけ」。品定め最中に大型観光バスが次々に到着、すごい混雑で買い物せずに出る。

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 鴨川から和田を経て館山へ。

 10:40、海上自衛隊館山基地(第21航空群)に到着。自衛館の案内で史料館を見学。

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 次に屋外に出て、パイロットから救難ヘリコプターの性能や災害時の救難活動の説明を聞く。興味深い話に、参加者から次々質問が飛び出す。 

 救難ヘリコプター UH-60J。米シコルスキー・エアクラフトが開発、三菱重工のライセンス生産。

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 格納庫の哨戒ヘリコプター SH60K。SH-60Jを基にして、三菱重工業と防衛庁で独自に改造開発。

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 自衛隊グッズの買い物の後、12:20館山基地を後にする。

 12:30~13:20、館山下真倉の410号線沿い「漁師料理たてやま」のレストランで昼食。 隣接の「おみやげ市場」で、アジのひらき4枚セット648円購入。

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 アクアラインを通って帰路へ。16:30、駅前に到着。

 天気も何とかもって、今回も研修と親睦を深めることができた旅行だった。

 
 

 ★ ★ ★

 鴨川の「大山千枚田」は、房総半島南部の嶺岡(みねおか)山地のふもと、面積約4ヘクタールの傾斜地に 階段のように連なる大小375枚の田んぼ。千葉県の指定名勝で、東京から一番近い棚田として知られている。畔(あぜ)に設置されているLEDは、1万本あるだそうだ。

 大山千枚田は、山間部で水源の確保が出来ないために、日本で唯一雨水のみに依存する天水田だそうだ。貴重な動植物も多く生息し、生態系や環境の保全にもなっている。

 農林水産省の「日本の棚田百選」に1999年(平成11年)に認定。文化庁の文化的景観の保存・活用事業の対象地域にもなっている。

 2010年(平成22年)9月、天皇皇后夫妻が国体で千葉県を訪問された際に視察された。その風景に感動して詠まれた短歌を刻んだ石碑がある。
 
 「刈り終へし 棚田に稲葉 青く茂り あぜのなだりに 彼岸花咲く」

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 「大山千枚田保存会」のホームページによると、次のようである。

 この千枚田は、作業参加・交流型のオーナー制度で運営されている。「棚田オーナー」は、農家の方の細かい指導で、すべて手作業の田植え・草刈り・稲刈り・脱穀・収穫祭など年7回程度の作業に参加。収穫した米はすべて持ち帰りも出来る。

 会費は、作業参加・交流型で1区画(約100㎡)で年間3万円。農作業体験・飯米確保型は1口(100㎡)で年間4万円。また、初めて参加する人に年度ごとに更新する「棚田トラスト」という制度もある。

 

 減反政策、過疎化、農家の高齢化などによる棚田の耕作放棄は、1970年頃から始まったという。棚田は、平地の田んぼに比べ労力は2倍、収穫は半分と言われ、生産性が低い。

 棚田の自然・文化を後世に残すため、普及・啓発・支援活動を行う全国組織「棚田ネットワーク」というNPO法人がある。そのホームページに、全国棚田保存会一覧というのが載っており、保存会、保全組合・・・などの団体を数えてみるとざっと80以上あった。

 棚田をふるさと景観、観光資源として行政が耕作の補助金を出したり、棚田オーナー制度で都市住民と農家との交流で地域を活性化したり、様々な活動が行われているようだ。今回大山千枚田を見る機会に、棚田のさまざまな保存活動を知って、有意義だった。

 

 本ブログの関連記事。

 「東京・お台場」 2017/06/10投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/69-ecb7.html

 「宮崎県日南市」 2014/11/02 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-c216.html

 「十日町と周辺の風景」 2014/08/06 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-2d97.html

 

2017年11月16日 (木)

延岡市北浦町と北川町

 10月23日(月)、宮崎県延岡市に行く。
 

 前日22日(日)は宮崎への移動日、台風21号が接近している。

 九州への上陸はなさそうだが、沖縄・九州の東岸沖を通過するため、羽田空港発の宮崎空港行は始発便から午前中の便は欠航となった。

 搭乗予定だった羽田空港12:00発宮崎空港行きのソラシドエア057便も欠航。空席のあった17:05発の同061便を仮予約して、出発ロビーで待機する。

 16時頃になって061便は、羽田に引き返すまたは福岡空港着陸の条件付きで運行することになり、20分遅れの19:05、無事宮崎空港に到着。この日、延岡市内で宿泊の予定を変更して、宮崎市内のホテル「東横イン」に宿泊。

 台風21号は去ったが、23日(月)の午前中に延岡北浦町で予定していた「宮野浦八十八ヶ所巡り」(詳細は後述)のハイキングは中止となった。

 

 午前9時頃宮崎を出発、11:35延岡市内の「ホテルメリュージュ延岡」前で友人らと合流。

 延岡市の北部・北浦町の「道の駅北浦」に一緒に行く。

 

●道の駅北浦(12:05~13:25) 

 国道388号線を車で北上、約30分で到着。

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 「道の駅北浦」(延岡市北浦町古江)は、日豊海岸国定公園内の国道388号沿い、「下阿蘇ビーチリゾート浜木綿村」の中にある。キャンプ場、常設テントやケビンと呼ぶ宿泊施設、オートキャンプ場、河川プール、アウトドアやマリンスポーツなどのレジャー・スポーツ施設がある。

 道の駅の手前に下阿蘇ビーチが広がり、砂浜の向うは日向灘、島浦島(しまうらとう、または島野浦島)が浮かぶ。

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 正面が、約4Km沖にある島浦島。有人島で、町名は延岡市島浦町。

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 左手に総合案内所パノラマ館。手前の小屋は、製塩所。

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 昔、この地域で塩づくり(揚浜式塩田)が行われていて、塩田と製塩所には「塩の資料館」が併設されているそうだ。北浦の名産品として、「月の塩」が販売されている。

 道の駅の「海のレストラン海鮮館」で昼食。北浦で水揚げされるという旬の活魚「刺身定食」1,680円と地元特産の「あげみ」を単品で頂く。

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 漁師たちが定置網漁や底引き網漁で水揚げした大物や状態の良い魚種は市場へと流れ、「あげみ」は残った雑魚をムダにすることなく、家庭で魚のすりみを揚げたもの。

 鹿児島の「さつまあげ」、宮崎では県南・飫肥の「おび天」、県北は「あげみ」。前者は砂糖や黒砂糖を使っているのに対して、延岡の「あげみ」は、砂糖を使わずに塩味に仕上げているそうだ。ふわふわの食感で、風味もいいし美味しい。刺身もコリコリとした食感で新鮮。

 

●西郷隆盛宿陣跡資料館(13:50~14:20)

 東九州自動車道(無料区間)の北川ICから車で5分、延岡市北川町の「西郷隆盛宿陣跡資料館」(延岡市北川町長井俵野)を見学。

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 西南戦争で、北川町の俵野で薩軍最後の宿陣となった旧児玉熊四郎邸は、1933年(昭和8年)に史跡として県指定を受ける。現在は、「西郷隆盛宿陣跡資料館」として資料館として整備され、西郷隆盛ゆかりの遺品や戦争資料が展示されている。入場料:無料。

 当時の軍議の模様を忠実に再現した人形。中央が西郷隆盛。

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 西郷が、重要書類と共にここで焼いたとされる日本で一着しかなかった陸軍大将の軍服(複製)。

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 来年2018年のNHK大河ドラマは、「西郷どん」が放送予定。

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 資料館の内部の様子。

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 可愛岳(えのだけ)のふもとに位置しているこの地は、神話・天孫降臨のニニギノミコト(瓊瓊杵尊、天照大御神の孫、神武天皇の曽祖父)が葬られた地として古くから伝えられ、宮内庁の「御陵墓参考地」として治定されている。写真中央に鳥居があり、その先に陵墓があるそうだ。
 
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 資料館には、ニニギノミコト御陵墓の写真があった。

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 西郷隆盛が西南戦争においてこの地に宿陣した最大の理由は、この裏手に陵墓があるので、天皇の祖が眠る地に官軍が鉄砲や大砲を打つことが出来ないと考えたとされる。可愛岳(えのだけ)は、天孫ニニギノミコトと西郷が時空を超えた出会いによって、鹿児島まで帰ることが成功した「出会いの聖地」とされている。

 なお、ニニギノミコトの埋葬地「可愛山稜(えのさんりょう)」は、ここ宮崎県延岡市北川町、鹿児島県薩摩川内市の新田神社、宮崎県西都原市古墳群のほか、南九州の各地にに言い伝えがあるという。

 
 14:40、今晩宿泊する予定の「ホテルメリュージュ延岡」に到着、チェックイン。

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 17:25頃、ホテルの前の五ヶ瀬橋から五ヶ瀬川の夕日を眺める。

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 18:00~20:30、「ホテルメリュージュ延岡」のパーティルームで、懇親会(参加者20名)。

 翌日は、高千穂観光の予定。

 

 ★★★

■北浦町と北川町 

 北浦町は宮崎県の最北東部に位置し、東臼杵郡におかれていた町。日向灘に面した東側には、リアス式海岸が形成されていて「日向松島」と呼ばれている。2006年2月に延岡市へ編入された。

 北川町は、宮崎県の最北部に位置し、東臼杵郡におかれていた町。2007年3月、延岡市に編入された。両町は、大分県と接する。

 

■台風21号

 10月16日に西太平洋のカロリン諸島で発生した台風21号は、発達しながら日本列島に向かって北上。20日(金)、2015年(平成27年)の台風第23号以来となる半径800Km以上の強風域を持つ「超大型」台風となった。さらに21日(土)午前7時時点では、中心付近の最大風速が44 m/s以上の「超大型で非常に強い勢力」の台風に成長した。

 沖縄・九州、四国、近畿や東海地方を暴風域に巻き込みながら、速度を上げて東海沖に進んだ。その後も勢力を維持したまま北上を続け、23日(月)午前3時頃には静岡県御前崎市付近に上陸。上陸時の中心気圧は950hPa、最大風速は40m/s。本州の広い範囲を暴風域とし、神奈川県、東京都、関東地方を通過した。

 23日(月)8時頃には茨城県日立市沖に抜け、15時頃は北海道の東の海上で温帯低気圧となった。台風は北から寒気を引き込んだため、23日は北海道で広く雪が降った。なお、「超大型」での上陸は、1991年(平成3年)以降初めてのことだそうだ。

 台風の影響で各地で暴風、また前線の活動が活発化して大雨が各地で長時間続いた。飛行機の欠航や列車の運転見合わせが相次ぎ、交通機関は大きく混乱。22日(日)は、衆院選投票日だったが、投票率にも影響を与えたようだ。離島などの一部地域においては、繰り上げ投票が実施。また、京都で毎年10月22日に行われている「時代祭」は29年ぶりに中止されたほか、各地で祭りやイベントが中止または延期された。
 
 

■宮野浦八十八ヶ所巡り

 宮野浦は、延岡市の海岸沿いの北端にある半島、北浦町古江のそばの漁港である。現在では、延岡市街から車で30分。

 江戸時代後期、宮野浦地区で疫病や火災が頻繁に起こったことから、当時京阪地方との交易で莫大な富を得た宮野浦の中野忠之丞の発願で、「四国霊場八十八ヶ所」の勧請が行われた。1819年(文政 2年)に、四国八十八ヶ所の土と、延岡で刻んだ八十八体の石仏を船で搬入したと伝えられている。

 一方、延岡藩内藤家文書によると、石仏の設置については、忠之丞ではなく中野忠五郎という人物で、設置した年は1826年(文政9年)とされている。

 「宮野浦八十八ヶ所大師祭り」が、毎年旧暦の3月21日に開催されるという。この「お大師さん」の日には、地区をあげて子どもから大人まで幅広い年齢層が参加し、巡拝する。一番札所から八十八番札所までは、約12km。参拝路は、地元の人たちの手で整備されていて歩きやすく、道のりは約4時間程度。途中6~7カ所で、赤飯やお茶・菓子などがふるまわれるそうだ。

  俗に「お大師さま」というときは、弘法大師(空海)を指す。そういえば全国各地の「大師祭」は、弘法大師の命日である旧暦3月21日に開催されるというのに気づいた。

 「延岡大師祭(今山大師祭)」も、弘法大師の命日に五穀豊穣、家内安全を願った春祭りが始まりでありとされるそうだ。現在は九州三大春祭りのひとつといわれ、地元では「おだいっさん」と呼ばれて、4月中旬の金~日曜の3日間、延岡市街を中心に開催されている。
  
 

■西南戦争

 1877年(明治10年)、征韓論に敗れて鹿児島に帰った西郷隆盛を盟主に、士族による武力反乱「西南戦争」が勃発。薩軍は、熊本城を包囲したが落とせず、北上。熊本城への幹線道だった「田原坂」(熊本県植木町)で官軍(政府軍)と激突、死闘が繰り広げられた。物量で劣る薩軍は耐えられず、総退却。人吉、都城、宮崎、延岡へと敗走した。

 旧児玉熊四郎邸は、延岡の「和田越の決戦」に大敗北を喫した西郷軍が、北川に逃れた際に立ち寄ったゆかりの家。北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、明治天皇から拝領した陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたとされる。

 その後、可愛岳(えのだけ)突破を敢行して南進。鹿児島に辿り着いた西郷は城山に籠城するが、官軍の総攻撃で西郷も被弾し、切腹して果てた。

 明治維新後、特権身分を廃されて生活に困窮した士族は、各地で反乱を起こした。西南戦争は、一連の反乱の中でも最大で最後の内乱で、およそ7ヶ月に渡り鹿児島、熊本、大分、宮崎の各県を戦場として、官軍6万人、薩軍3万人が動員され、両軍合わせて1万4千人の命が失われた。

2017年11月13日 (月)

東京スカイツリーと浅草寺

 11月6日(月)、羽田空港に行った帰り、久しぶりに東京スカイツリーと浅草寺に行く。
 
 

 トランプ大統領が2017年11月5日(日)~7日(火)に来日。テロ対策の一環で、都心のJR、地下鉄などの主要駅でコインロッカーやゴミ箱の使用ができなくなるという。この期間にかかる旅行者や観光客にとっては、何とも不便なことだ。

 羽田空港第2ターミナルのレストランで昼食後、羽田空港国内線ターミナル駅を12:22発の京急空港線エアポート快特・成田空港行に乗車。この列車は、品川駅の次の泉岳寺駅で地下鉄都営浅草線に、押上駅から京成押上線に乗り入れ、成田空港まで直通運転をしている。

 

 都営浅草線の東銀座、日本橋、浅草駅などを経て、13:01押上駅で下車。「押上駅」は、東武伊勢崎線、地下鉄半蔵門線、京成押上線に接続し、東京スカイツリータウン開業に合わせて2012年(平成24年)5月から、副駅名として括弧で(スカイツリー前)と表示されている。

 押上駅は、「東京スカイツリータウン」のビルにつながっている。「東京スカイツリータウン」は、電波塔・展望施設の「東京スカイツリー」を中心に、商業施設「東京ソラマチ」、プラネタリウム「天空」、「すみだ水族館」のほかオフィス、教育関連施設などから構成される複合施設で、押上駅はその東端にある。

 300店以上の多彩なショップが並び、新しい下町とされる「東京ソラマチ」を通り抜け、スカイツリータウン4階のチケットカウンターに向かう。

 4階のスカイアリーナから見上げる高さ634mの東京スカイツリー。展望デッキから上の方は見えない。

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 チケットカウンターで入場券2,060円を購入、13:20「展望シャトル」と呼ばれるエレベータに乗り、50秒で地上350mの展望デッキへ。

 展望シャトル内は、夏の隅田川の花火をイメージした装飾。

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 展望デッキ(フロア350)から展望は、あいにく遠くが霞んでいて、しかも逆光で遠方のビル群がシルエット。前回来た時見えた富士山も、残念ながら見えない。

 西の方角。中央にアサヒビール本社ビルと隅田川。右端の橋は「言問橋(ことといばし)」後方左手は、新宿方面。後方中央に池袋方面、その手前の森は上野公園、更にその手前に浅草寺が見える。隅田川の手前の森は、隅田公園。

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 西の方角のズームアップ。右上の白い屋根の東京ドーム。遠景は新宿方面で、エンパイアステートビルのデザインのNTTドコモビル、ツインタワーの東京都庁舎を確認できる。

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 南西の方角。中央のビルの左右に、江戸東京博物館、両国国技館。右手に隅田川。後方は、中央に東京タワー、左手方向に東京駅、六本木、渋谷方面。

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 南の方角。後方右手から左手方向に、品川、晴海、豊洲方面と東京湾が広がるが、確認できない。左下の森は大横川親水公園。

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 北東の方角。スカイツリーの影。荒川が左手から右手の東京湾に注ぐ、右下から左上に向かう京成押上線、中央のビル(マンション群とイトーヨーカドー)の左手に東武伊勢崎線は走る。

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 前回上った地上450mの展望回廊(フロア450、入場料1,030円)には行かず、展望デッキ(フロア350)を下りる。

 展望デッキからエスカレータで2階分を下りたフロア340には、強化ガラスを4枚重ねた床ガラスがある。真下に広がる鉄骨と地上の景色は迫力があって、近寄るのも怖い。

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 ガラス床のある340フロアから、展望シャトル(エレベータ)で5階の出口りフロアへ下りる。

 再び東京ソラマチを通り抜けて、今度は東京スカイツリータウンの西端にある東武伊勢崎線(愛称スカイツリーライン)の「とうきょうスカイツリー駅」へ。

 

 

 とうきょうスカイツリー駅の次の駅・浅草駅まで3分。

 15:10、雷門の前では記念写真を撮る観光客で混雑。

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 1960年(昭和35年)、松下電器の創始者・松下幸之助が門と大提灯を寄進した。10年ごとに新調されていて、現在のものは5基目、2013年(平成25年)に取り付けられた。銘板は現在の社名「パナソニック」ではなく、昔のままの「松下電器」となっている。

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 仲見世通りは相変わらず混み合っていて、外人観光客も多い。

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 最近の仲見世では、日本語のほか英語・中国語・韓国語で書いてある「食べ歩き禁止」の看板を見かける。時々4ヶ国語で放送で注意していたが、歩きながら食べている若い女性や外国人を散見する。アイスクリームや団子の餡がついた手で商品を触ったり、 他の人の服につけてしまったりとトラブルがあるらしい。

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 トランプ大統領来日の影響でコインロッカーが使えないためか、雑踏の中で大きなキャスター付きのスーツケースを引っ張っている旅行者もみかけた。

 仲見世通りの右手に見る東京スカイツリー。

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 宝蔵門を抜け、浅草寺本堂に参拝。

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 浅草寺の境内には、江戸時代から現在までに奉納された仏像や石碑などがたくさん建っていて、それらを見て回るだけでも面白い。(写真は省略)

 浅草駅を16:20発の銀座線に乗り、上野駅を経由して19:20帰宅。

 

 ★ ★ ★

 そう言えば、東京スカイツリーや東京スカイツリータウンが開業したのは、2012(平成24年)年5月、もう5周年だ。

 浅草通り(墨田区業平1丁目~吾妻橋3丁目を結ぶ)にある業平橋に隣接する東武鉄道の駅「とうきょうスカイツリー駅」は、スカイツリー開業前は「業平橋(なりひらばし)駅」と呼んでいたのを思い出す。とうきょうスカイツリーという駅名は、観光客には分かり易いが、在原業平の伝説にちなんだ駅名が無くなったのは寂しい。

 墨田区のこの辺りには、『古今和歌集』や『伊勢物語』で知られる平安時代の貴族・在原業平にちなんだ言い伝えや地名が多い。かつては墨田区に江戸時代初期に開かれた「業平天神社」という神社があったそうだ。「業平天神社」は、在原業平が亡くなったとされる業平塚(なりひらづか)に由来するが、諸説の言い伝えがあり、明らかではない。

 埼玉県新座市野火止にある「平林寺」の境内にも、業平が京より東国へ東下りの折、武蔵野が原に駒を止めて休んで和歌を詠んだという伝えがある業平塚もある。

 本ブログ記事「紅葉の平林寺」 (2014/11/28投稿)を参照。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-55bd.html

 業平橋は、運河だった大横川に1662年(寛文2年)に架けられたという伝えがあり、業平天神の近くにあったためその名の由来となった。

 業平をモデルとされる人物は、さまざまな物語や文献に登場している。業平に関連した伝説は、各地に伝わっている。「業平橋」という橋は、墨田区、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市と斑鳩町にもあるそうだ。

 墨田区には、これも『伊勢物語』で業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ「言問橋(ことといばし)」という橋もある。

 

 本ブログの関連記事

  浅草・三社祭り 16/05/18 記事
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-4f97.html

  浅草寺の羽子板市 14/12/27 記事
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-fda7.html

  隅田川水上バスと浅草寺 13/07/09 記事
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-98b3.html

  東京スカイツリー 12/07/23 記事
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-09af.html

  浅草寺の風景 12/07/09 記事
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-2c3c.html
   

 

2017年11月12日 (日)

日本スリーデーマーチ2017

 日本最大の歩く祭典「日本スリーデーマーチ」に11月4日(土)、5日(日)の2日間参加。
 
 

 11月3日(金)から3日間、埼玉県東松山市とその周辺市町で開催される「日本スリーデーマーチ」は、今回は第40回の記念大会。

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●11月4日(土)、武蔵嵐山ルート20Kmコースに参加。

  この日は曇、時々晴れ間が出るが、夕方にわか雨。最高気温は22℃だが、北風が冷たかった。

 9:00、東松山駅前に参加者6人集合、出発。

 9:15、中央会場(東松山市松葉町)を通って、しばらく住宅街を歩く。

 10:00~10:10、森林公園駅前(比企郡滑川町)で小休止。ここからは10kmコースと別れる。

 滑川町の市野川(荒川の支流)に沿って歩く。妙に歩いている人数が少ない。

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 11:20~11:35、比企郡嵐山町(らんざんまち)の「鬼鎮(きじん)神社」で休憩。ここは、全国に4社しかない鬼を祀る神社の一つ。

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 鬼鎮神社の創建は、1182年(寿永元年)。平安末期から鎌倉時代初期の武将・畠山重忠公が造営した「菅谷(すがや)城」の鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立された。

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 鬼が神様として祀られているため、この神社の最大の祭りである節分祭では、「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する。ご利益は、悪魔祓い、家内安全、商売繁盛など。最近では試験・受験などの神様として、参拝者が後を絶たないという。

 20Km、30Kmコースの出発は、中央会場を7:30~8:30。周りにウォーカーがいないと思ったら、出発が1時間遅れていた。この神社で休んでいたら、大会スタッフから急ぐように注意される。

 12:07、祭神として畠山重忠が祀られている「菅谷神社」の前を通過。

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 12:20~12:50、「埼玉県立嵐山史跡の博物館」前に芝生で昼食、休憩。ここでも20Kmコースのウォーカーは、わずかしかいない。

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 菅谷館(すがや・やかた)は、比企郡嵐山町にあった中世の城で、菅谷城とも呼ばれる。1973年(昭和48年)に国の史跡に指定。菅谷館跡には、「埼玉県立嵐山史跡の博物館」が設置されている。

 嵐山は鎌倉街道・上道(かみつみち)の交通の要衝だった。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国の国府(東京都府中市)から鎌倉へ、北上すれば上州から信州へ、または越後へ達する。また嵐山は、源義仲(木曽義仲)と畠山重忠という歴史上の人物を同時期に2名も輩出していることで知られる。

 12:55、「国立女性教育会館」の前を通過。

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 広大な敷地にある「国立女性教育会館」は、文部科学省所管の独立行政法人。英語名称「National Women's Education Center」の頭文字NWECから、愛称は「ヌエック」。

 女性教育指導者その他の女性教育関係者に対する研修、女性教育に関する専門的な調査及び研究等を行うことにより、女性教育の振興を図り、もって男女共同参画社会の形成の促進に資することを目的としている。

 1977年(昭和52年)文部省の附属機関として「国立婦人教育会館」が設置され、2001年(平成13)年名称を「国立女性教育会館」に変更、独立行政法人となった。

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 13:40~13:55、「丸木美術館」で近く流れる都幾川(荒川の支流)を眺めながら休憩。

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 「丸木美術館」は、東松山市下唐子にある美術館。丸木位里(いり、1901-1995)と妻の俊(とし、1912-2000)の共作による原爆の惨状を描いた「原爆の図」は有名。位里は、広島出身。原爆投下後、疎開先の埼玉県浦和市から夫婦で広島の救援活動に従事した。1966年(昭和41年)東松山市に移住し、翌年美術館を開館した。

 14:10~14:15、市内下唐子にある「唐子中央公園」で小休止。

 15:25、箭弓神社(市内箭弓町)着。小雨が降り出したので、東松山駅で雨宿り。

 16:00~18:15、そのまま駅近くのやきとり屋で、お疲れさま会。

 

 初日の3日(金)は31,875人、この日の4日(土)は30,082人が参加したそうだ。

 

●11月5日(日)、唐子中央公園ルートの10Kmコースと市内パレードに参加。

 9:15、スタート地点の中央会場(東松山市松葉町)。ステージでは今年も、歌手「Tomo_Yo(知世)」さんが歌でウォーカーを見送る。

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 9:30、中央会場近くに参加者31名集合。黄色い旗を持った幹事を先頭に、9:40ウォーキングを開始。

 商店街や住宅街を抜け、やがて栗林を左に見ながら小道を歩く。

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 スタートから約6Kmの中間地点・第1休憩所の唐子中央公園(市内下唐子)に11:00頃到着。ここでは唐子地区商工祭が開かれていて賑わっていた。

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 祭りの中を通り抜け、園内にある子供広場の芝生に集まり、12:00頃まで昼食・休憩。

 しばらくのどかな田園風景の中を歩く。

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 関越自動車道の下のトンネルをくぐると、次の第2休憩所はノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章先生の母校・南中学校(市内石橋)。写真は、2016/11/6に撮影したもの。

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 中学校を出て、再び田園の農道を歩く。

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 パレードに参加するため、氷川神社(市内上野本)から10Kmコースを外れ、パレードの集合場所へ。

 集合場所に13:25到着。出発式の後、14:00から市内バレードに出発。1Kmほどのメインストリートを横断幕を先頭に、のぼりや提灯を掲げて行進。沿道では、市民の歓迎の拍手、和太鼓チームの演奏、山車の上から祭り囃子、比企消防本部の音楽隊や松山高校吹奏楽部の歓迎演奏が流れる。

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 14:30、パレードの終点、中央会場に到着。

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 ステージ前では、東松山観光大使(お立ち台中央)のピオニメイツが迎えてくれた。

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 会場は、パレードや各コースのゴールしたウォーカーで大混雑。

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 ビールとやきとりを買おうとするが、長い行列が出来ていて、テーブルも空いてない。

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 東松山市のゆるキャラ「まっくん」(右)と「あゆみん」は子供たちに人気。

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 帰りに中央会場近くの東松山市総合会館に寄ってみた。大会40年の歩みを振り返る写真や歴代ポスターの展示のほか、ヒマラヤトレッキングの様子を撮影した写真展示やビデオ映像を流していた。

 東松山市在住の登山家の大山光一氏は、本大会に先立って10月に「エベレスト展望トレッキング隊2017」の隊長を務め、第40回大会記念事業として「ウォーキングのまちからヒマラヤへ」を合言葉に、4,000m級の山々のトレッキングを行ったという。

 この日の最高気温は18℃。冬型の天気配置は緩んで高気圧に覆われて、気持ちの良いウォーキング日和。今年もスリーデーマーチに参加して、歩きの楽しさを共感しながら、2日間とも完歩した。

 例年「日本スリーデーマーチ」では、有名人がウォークに参加したり、トークショーなどのイベントも催されている。今年は、元NHKアナウンサーでフリーキャスターの押尾正明氏(さいたま市出身)がスペシャルゲスト。参加しなかったが、初日3日(金)の中央会場で14:00から、氏のトークショーが行われた。母親の介護の話題から健康について体力つくりの大切さを語ったそうだ。

 「観歩ガイドウオーク」の観光ガイド、各コースでの交通誘導、休憩所での湯茶接待などの大勢のボランティア、大会スタッフが、この大会を大いに盛り上げている。
 

 最終日の5日(日)は39,041人、3日間で延べ約10万1千人が参加したそうだ。

 

 

 「ものみ・ゆさん」の日本スリーデーマーチの関連ブログ記事 

  「日本スリーデーマーチ2016」 2016/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-89c3.html

  「日本スリーデーマーチ2015」 2015/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

  「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-ba9a.html

  「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ba9a.html
 

2017年10月15日 (日)

越谷まちめぐり

 10月3日(火)、埼玉県春日部市と越谷市をめぐる埼玉再発見ウォーク。

 本ブログ記事「地底探検ミュージアム「龍Q館」」の続き。春日部市の「龍Q館」を見学の後、水郷と歴史のまち・越谷市を散策する。

 

 春日部駅13:08発の東武スカイツリーライン(東武伊勢崎線)急行・中央林間行きに乗車、13:18 越谷駅下車。越谷観光ガイドのTさんと合流し、13:25ガイド開始。

 写真は、越谷駅東口前。

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 越谷駅から300mほど東へ行くと左手の平和堂ビルで、日光街道(県道52号線)と交差する。交差点を左に折れ、日光街道を北に向かう。
 

●植木屋人形店

 平和堂ビルの斜め向かいに、越谷びなの元祖「植木屋人形店」がある。江戸時代の安永年間(1772年~1780年)に、越谷で雛人形の製作と販売を始め、現在に至っている。軒先テントに、ひな人形、よろい・かぶとなどのほかに、フランス人形とあるのが面白い。(写真をダブルクリックすると拡大表示します)

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 街道の商店街を北へ向かって歩くと、歴史的な建築物を散見する。
 

●行徳屋建築

 いつの頃か、千葉県の行徳から越谷に来て薪や炭を販売、後に建築屋を始めたという。2階には菱形模様の銅板の戸袋が特徴的。数年前の写真では、この建物の左手隣に古い「白屋旅館」があったようだが、新しい住宅に変わっている。

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●田中米穀店

 昭和以前から店を始め、近くの農家の方が精米に来られていたという。建物は、昭和初期に建築。ここの2階も菱形模様の銅板の戸袋。

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●横田診療所

 西洋風のレトロな雰囲気の木造二階建ての建物。看板には、内科・小児科・婦人科・外科の診療科目がある現役の診療所。

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 1935年(昭和10年)に建てられ、1960年(昭和35年)までは郵便局として使われていたという。
  
 
●油長内蔵(あぶらちょううちくら)。

 「油長(あぶらちょう)」という屋号で油屋を営んでいた旧家・山崎家の蔵。江戸時代末期に建てられた。老朽化により解体される予定だったが、存続を希望する声に押され、地元の住宅関連企業・(株)中央住宅が買い取り、曳家(ひきや)工法で現在の場所に移動させ、2015年(平成27年)に外壁を塗り替えるなど改築、越谷市に寄贈した。

 イベントなどで活用されている。越ヶ谷宿の雛めぐり期間中は、1階部分は「まち蔵カフェ」としてカフェスペース、2階では雛人形や吊し雛が展示されている。

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 この後、野崎ビルのある交差点で左折し、日光街道を外れた100m先の浅間神社へ向かう。


●浅間神社(せんげんじんじゃ)

 市指定文化財のケヤキは、幹回り7m、樹高23m。幹は6本に分岐し、さらに上方で多数の枝を広げ、樹勢はきわめて旺盛。ケヤキは越谷市と埼玉県の木、市内では一番大きなケヤキで、樹齢約600年と推定されているそうだ。

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 ガイドの説明によると、神社には丸い木型に富士山と大日如来をかたどった銅板を張った「懸仏(かけぼとけ)」が伝わっている。裏面に応永32年(1425)の銘があることから、室町時代の創建とされる。

 懸仏は、「御正体 (みしょうたい)」 ともいい、円形板に浮彫の仏像を取付けて、壁面に吊下げて安置した。こうした懸仏は、市内には他に例がなく、市の有形文化財に指定されている。

 浅間神社から、日光街道へ戻る。
  
 
●木下半助商店

 日光街道沿いの「木下半助商店」は、創業が江戸後期の商家。1899年(明治32年)の越谷大火後に再建された。

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 明治前半から金物商を営業、現在も大工道具や建築金物、家庭用金物を扱っている。畳の帳場の上や壁の棚には、いろいろな商品であふれていた。

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 写真を撮れなかったが、この店舗の奥の細長い短冊状の敷地には、母屋と外壁が黒漆喰塗と銅板の土蔵、房州石を積んだ石蔵の蔵が3つ、自前の稲荷神社があり、明治時代のの越谷の商家の面影をよく伝えているそうだ。2015年(平成27年)に、越谷市では初の国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
 

●小泉家住宅

 木下半助商店の向かいにある店舗(母屋)と土蔵が並ぶ建物で、1875年(明治8年)築。土蔵は当時のもので、1899年(明治32年)の越谷大火で類焼を免れた。焼失した母屋は同年に再建。左手に赤レンガの防火壁、銅板張り土戸(つちど)など明治時代の防火対策を施した建築が見られる。

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●鍛冶忠商店

 小泉家住宅の1軒挟んだ左隣、明治33年(1900年)に建てられた蔵造りの建物。日用雑貨・荒物などを扱っている。もともとは鍜冶屋だったそうで、屋号はそれにちなんでいる。

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 日光街道沿いには、「会田金物店」や秤屋の「旧大野邸」、街道から離れた大間野町には市の保存民家として名主を勤めた「旧中村家住宅」などなど、商家、蔵、古民家がまだまだあるそうだ。

 野崎ビル前の交差点へ戻り、日光街道を外れて新しい道路「青葉通り」を東に500mほど歩くと、元荒川に架かる「新宮前橋」(写真なし)というのがある。
 

●久伊豆(ひさいず)神社

 その「新宮前橋」に左手に並んで架かる「宮前橋」(下の写真)を渡ると、その先に「久伊豆神社」の森が見えた。

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 14:30、久伊豆神社の第一鳥居をくぐる。木々に囲まれ、まっすぐで長い石畳の参道は  500mほどもある。

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 参道の左手に隣接して「アリタキ植物園」がある。植物学者の有瀧龍雄氏が収集した私有の植物園で、死後越谷市に寄贈された。

 境内の藤の幹は7本に分かれ、株廻り7.3m、枝張は東西20m・南北30mほどあり樹齢200余年の古木。県指定の天然記念物。

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 5月上旬が藤の花の見ごろ、例年藤まつりが行われ多くの人で賑わうという。1837年(天保8年)越ヶ谷町の住民で久伊豆神社内に出店を開いていた人が、下総国流山から樹齢50余年の藤を舟で運んで植樹したと言われている。

 手水舎は、1675年(延宝3年)建造。彫り物の「登龍門」は有名。

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 拝殿は、1964年(昭和39年)に建造された。

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 拝殿にある左右一対の狛犬(下の写真の丸い囲み)は、足に麻を結ばれている。家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、古くから「足止めの狛犬」と呼ばれている。

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 「久伊豆神社」は、古来から「久伊豆大明神」と崇められ、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神とし、越谷の総鎮守とされている。

 創建の年代は不詳だが、平安時代中期以降には武士団・武蔵七党の一つの私市党(きさいとう、騎西党)の崇敬も篤く、除災招福の神として武士や庶民の信仰を集めてきたという。応仁年間(1467-1469年)には伊豆国宇佐美の領主である宇佐美三八郎重之が埼玉郡騎西の地を領するところとなり、当神社に古刀を奉献し、篤く尊崇したそうだ。

 近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられている。

 

 14:55、神社を退出。市立中央中学校のそばを通って青葉通りへ。青葉通りをおよそ1kmほど歩くと「花田苑」の入口。
 

●日本庭園「花田苑」

 「花田苑」は、久伊豆神社から歩いて20分ほど、15:15着。市の中央、花田六丁目にある約2.1haの日本庭園。越谷市が運営し、入園料100円。江戸時代の名主・宇田家(越谷市大成町)の長屋門を原寸で復元したという風格のある門をくぐって、日本庭園へ。

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 当苑は、造園家・中島健氏の設計による。氏は、国内では吉田茂や田中角栄、政財界の要人の邸宅、国内外で数多くの庭園を設計・施工した。施行期間は、1988年(昭和63年)度から1990年(平成2年)度。

 苑内には14,000本の樹木が植えられ、四季折々の風情を楽しむことができる。中央に約4,000平方メートルの池、周囲には170mのせせらぎがある廻遊式庭園。

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 池を中心に、木橋、滝、飛石、浜、小高い築山、松をはじめ数々の植樹など、平成の時代に出来た新しい豪華な庭園である。上の写真の右手に見える数奇屋造りの茶室では、年間20回以上(月1~2回)茶会が開かれているそうだ。 

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 池のむこうにある建物は、苑内にある日本文化伝承の館「こしがや能楽堂」。

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 竹林の歩道を通って「能楽堂」へ。

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●日本文化伝承の館「こしがや能楽堂」

 能楽堂は、檜を使って日本建築の粋を集めた建物。「花田苑」の中にある。能楽だけでなく邦楽・日本舞踊・詩吟・茶道・華道等の伝統芸術の拠点として、また地域コミュニティを促進する場として市民文化の向上に寄与していくことを目的とする施設。1993年(平成5年)5月に開館。越谷市が運営。

 通りから見る「こしがや能楽堂」の門。

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 能楽堂は、花田苑の中にあるので、苑内から入館する。

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 入館すると廊下があって、左手に展示室(写真中央)、右手(写真の反対側)は和室や大広間がある。

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 「展示室」では、能楽に関する道具・舞台の素材などをショーケースに展示する。能の書籍の閲覧、ビデオが視聴できる。

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 展示室に入って右手に舞台に通じる「鏡の間」や「楽屋が数部屋並ぶ。

 総檜(ひのき)造りの「能舞台」を「大広間」から見る。

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 この舞台は、埼玉県内唯一の屋外の能舞台。 檜の能舞台では、足袋を履かなくてはならないとかで、舞台には入れなかった。

 「大広間」の写真は撮らなかったが、舞台を持備えた48畳の和室で、能公演時には観客席として使用出来るそうだ。そのほか、いくつかの多目的の和室もあり、茶会にも利用出来つという。

 能舞台の周りの「中庭見所」は、500㎡余りの石床の見所。公演時には折りたたみ椅子を並べ、観客席として使用される。

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 この能楽堂のホームページの催物情報を見ると、市民の能楽の会、こども能楽教室のほか伝統芸能のイベントやコンサートなどにも利用されている。ほかにも落語、和太鼓、盆栽、将棋・囲碁、マンドリンなどなど、・・・足袋を履いてモダンダンスの演舞というのもあるようだ。

 16:10、退場。花田小学校前バス停から16:18発の路線バス(朝日バス)で移動、16:32 越谷駅前に到着。

 越谷駅から市街地を5kmほど散策したが、秋晴れのこの日は暑くて、けっこう汗だくだった。

 越谷駅16:45発の電車、17:24  大宮駅着。 

 日頃から埼玉県内の縁のなかった春日部と越谷が、どんなところかを知った。この日のウォーキング(自宅まで)は、歩数計では2万5千歩、距離にして15Kmほどだった。
 

 ★ ★ ★

 「越谷市」は、埼玉県の南東部に位置し、東京都心から約25Km。人口約34万人は、さいたま市、川口市、川越市、所沢市に次いで県内第5位。
 
 鉄道は、浅草に通じる東武スカイツリーライン(伊勢崎線)が南北に、横浜・鶴見と千葉・船橋を結ぶJR東日本武蔵野線が東西に横断している。地下鉄日比谷線・半蔵門線、および半蔵門線を経由して東急田園都市線との相互直通運転を行っている。東京のベッドタウン。

 元荒川、中川、綾瀬川、古利根川、新方川(千間堀)、逆川など、多くの河川が流れていることから、「水郷こしがや」と呼ばれる。ほとんどが平地であり、山林、原野はほとんどない。さいたま市、春日部市、川口市、草加市などに接する。

 「越谷」の地名は、1954(昭和29年)年に南埼玉郡の近隣町村との合併により、新しい町が成立した際に、合併前の「越ヶ谷町」と区別するために「ヶ」を取って「越谷町」とした。したがって、旧越ヶ谷町にあたる越谷市の中央部は、現在「越谷市越ヶ谷」である。
 

 「越ヶ谷宿」は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道の宿場町の一つ。江戸・日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿場町であり、日本橋からの距離は6里8町。草加宿から1里28町、次の粕壁(かすかべ)宿へ2里30町あり、奥州道(後の日光街道)の整備に伴い成立された。

 宿場の範囲は現在の越谷市越ヶ谷から元荒川を渡り、同市大沢に至る範囲。古くから栄えていた越ヶ谷側は旅籠よりも商家の比率が高いのに対し、大沢側は純粋な宿場の形態を持っており、本陣・脇本陣も大沢側に置かれていた。

 また徳川家康が鷹狩のために建てたという「越ケ谷御殿跡」、幕府を開く前の家康が宿泊し夜具が残されていると伝わる「大聖寺」などがあり、徳川家ともかかわりが深い。
 

 ひな人形は、宝暦年間(1751年~1761年)に江戸に伝えられ、たちまち江戸で大流行した。江戸では、京風とは異なる独自の優美さを持つひな人形として発達してきた。最初のひな市は、江戸の十軒店(じっけんだな、今の日本橋室町)を中心として、江戸各地で開かれていた。

 「越谷ひな人形」の起源は、今から200年以上も遡る安永年間(1772年~81年)に、越ヶ谷新町の会田佐右衛門がその十軒店で製法を学び、越谷の地で製作を始めた。その後、越谷ではひな人形づくりが盛んになり、ひな人形を扱う店が多数軒を並べるようになった。「越谷段雛」など越谷特有の人形が生産され、将軍家にも納入されたと伝えられている。

 その隆盛は明治時代になっても続き、年間2万個以上のひな人形が関東一円に出荷されたそうだ。十軒店、鴻巣、越谷で開かれるひな市は「関東三大ひな市」と呼ばれるまでになり、越谷はひな人形生産の一大中心地となった。越谷ひな人形は、1983年(昭和58年)に埼玉県の伝統的手工芸品として指定された。

 県内でも岩槻(さいたま市岩槻区)の人形は、伝統産業として有名であるが、その発祥については諸説あり定かではないという。江戸時代の人形の主要生産地であった鴻巣宿や越ヶ谷宿より、かなり遅れて創業されたようだ。

 関東大震災や太平洋戦争などで、東京の人形業者が岩槻に疎開したり、被災により再建が難しい状況となったりした。東京から岩槻へ注文が相次ぎ、次第に販路を全国に拡大させたそうだ。昭和60年代には、埼玉県の人形製品出荷額は国内の4割を占め、このうち県内出荷額の7割を岩槻が占めるに至ったという。
 
  

 「久伊豆神社」の社務所の脇に、越谷市の文化財(歴史資料)に指定されている「三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ)銘の力石(ちからいし)」がある。力石というのは、人力が重要だった昔の時代、力比べや力自慢に使われた大石のこと。久伊豆神社の力石の重さは50貫目(約190キロ)あるが、これを三ノ宮卯之助が持ち上げて奉納したと言われている。

 三ノ宮卯之助は、現在の越谷市三野宮(さんのみや)の出身で、江戸時代後期に日本一の力持ちと言われ、力石や米俵を持ちあげて全国各地を興業した。越谷市には、久伊豆神社を含めて、三ノ宮卯之助の名が彫られた力石が、現在6つ確認されているという。

2017年10月 9日 (月)

地底探検ミュージアム「龍Q館」

 10月3日(火)、埼玉県春日部市と越谷市をめぐる埼玉再発見ウォーク。

 埼玉県春日部市(旧庄和町)にある国土交通省「首都圏外郭放水路」の「庄和排水機場」には、地底探検ミュージアム「龍Q館(りゅうきゅうかん)」が併設されている。

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 「龍Q館」では、放水路の役割などをわかりやすく説明、また調圧水槽(地下神殿)の見学ができる。(下図は、国土交通省江戸川河川事務所のパンフから転載)

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 大宮駅から8:10発の柏行きの東武アーバンパークライン線(旧東武野田線)に乗車、8:39春日部市の南桜井駅に到着。

 ここは、春日部市と合併する前は庄和町であった。駅のホームには庄和商工会が、帽子、羽子板、五月人形、桐たんす、菓子類などの物産を展示している。

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 南桜井駅北口からウォーキング開始。約2.4Km、徒歩35分ほどの「龍Q館」に向かう。

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 南桜井団地みどり公園から狭い住宅街の道路を北東へ。西金野井団地を抜け国道16号線の西金野井交差点を横断する。

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 国道16号から200mばかり進むと、「香取神社」参道入口に平成14年(2002年)に建立された大鳥居。そばには、「神明社(大神宮)」の石碑と石祠、「招魂碑」の石碑も建つ。

 そのまま参道を進むと、神社境内入口の鳥居前には、富士山を模した「富士塚」らしき岩山、その上に古い石碑があるが字が薄れて読めない。あとで地図を調べるとこれはてっぺんに富士山の浅間神社を祀った「浅間塚」だそうだ。(写真は、Google Mapから転載。)

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 更にそのすぐ先には大ケヤキの切り株があって、その隣に「西金野井村 江戸みち」の壊れた道標があった。

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 西金野井の「香取神社」は、室町時代末期の建立とされ、埼玉県東部地区の有数の古社。この地は、かつては下総国葛飾郡の金野井村であって、その総鎮守であったという。

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 本殿は「檜皮葺(ひわだぶき)一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)」というヒノキ板の屋根がゆるやかな反りをもつのが特徴だそうだ。県指定有形文化財。経津主命(ふつぬしのみこと)と木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る。

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 上の写真は、本殿を保護するために覆う建物らしい。この中の本殿は、確認出来なかった。春日部市教育委員会サイトの写真を見ると、金箔や極彩色の装飾が施されている豪華な本殿。

 当神社に伝わる「西金野井の獅子舞」は、7月下旬の夏祭りに、悪魔払い、五穀豊穣や雨乞い祈願として演じられ、埼玉県無形文化財に指定されているそうだ。

 かつて広大な境内には鎮守の森の大杉があったが、第二次大戦で供出。参道の杉並木も江戸川改修で伐採。唯一残った樹齢600年の大ケヤキも、昭和61年(1986年)に枯死して、当時の面影はないという。

 右手に堤防がある。堤防に上がると、そこは江戸川が見え、その川向うは千葉県(野田市)。

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 「庄和排水機場」が見えて来た。

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 「首都圏外郭放水路」は、首都圏の河川(中川・綾瀬川流域)の洪水を防止するため、あふれた水を地下に取り込み、6.3Kmもある巨大なトンネルを通して、江戸川に流す地下放水路。世界一の規模を誇る。

 その放水路の「庄和排水機場」には、地底探検ミュージアム「龍Q館」が併設されていて、地下の「水路」の見学は予約が必要だが、「龍Q館」は自由に見学ができる。

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 「龍Q館」の「龍」は旧庄和町に伝わる「火伏の龍」の伝説から、「Q」はAQUA(水)からちなんだもので、2003年(平成15年)のオープン時に公募した。

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 入館すると、1Fロビーに市民ギャラリー。上部には、名物の大凧や画家・寺門孝之氏と子ども達の手によって描かれた「スーパードラゴン」の作品が展示。

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 2Fは、放水路の資料や模型の展示室、施設見学の受付・集合場所となっている。

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 幹事があらかじめ数人のグループで予約してあって、10時から見学開始。

 首都圏の河川を大型地図で説明の後、首都圏外郭放水路にどのように水がたまっていき、その水をどのように排出するのかを模型で説明。

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 国道16号線の地下50mには、調圧水槽につながる全長6.3Km、直径11m弱の巨大なトンネルと、いくつかの河川の水を取り入れる5つの立坑がある。

 ポンプ設備模型。 ここ庄和排水機場は地下トンネルから流入してきた洪水を調圧水槽から巨大ポンプをで江戸川へ排出する。巨大ポンプは航空機用に開発されたガスタービンで、ポンプ4台の排水能力は1秒間で200㎡(25mプール1杯分)。

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 中央操作室、ガラス越に見学。放水路のさまざまな施設をモニターテレビで写し出してコントロールする。ちなみに平時には、スタッフ1名が待機している。

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 いったん屋外に出て、約200mほど離れた第1立坑近くにある調圧水槽の地下入口へ向かう。

 向うに見えるのが龍Q館がある庄和排水機場、芝生はサッカー場の広さの多目的広場で、この地下にほぼ同じ広さの調圧水槽がある。

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 地下入口から166段の階段を下り、地下50mにある放水路の一部である巨大な調圧水槽に入る。

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 巨大な柱が59本もそびえ、「地下神殿」とも呼ばれる巨大な調圧水槽。

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 巨大な柱は、高さ18m、重量500トン。この調圧水槽が地下水の浮力で浮き上がるのを抑えているという。

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 調圧水槽に入って来た土砂を除去するブルドーザーを、地上から上げ下ろしするため調圧水槽の天井に穴がある。

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 調圧水槽につながる第1立坑。直径30m、深さ70mの円筒形。
 
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 第2~第5立坑は、国道16号線の地下にあるトンネルと繋がっている。

 朝からどんよりした曇り空だったが、「地下神殿」から地上に出ると秋晴れの良い天気。

 11:00「龍Q館」の見学を終了、11:15退館する。

 帰路は往路を戻り、南桜井駅に11:55着。

 11:57分発の東武アーバンパークライン(旧野田線)急行・大宮行きに乗車。12:04、春日部駅で下車。

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 春日部駅西口付近のレストランで昼食。午後から越谷へ。

 本ブログ記事「越谷散策」に続く。

 
 
 ★ ★ ★

 春日部市は、埼玉県東部に位置し、さいたま市、越谷市、千葉県野田市などと接する。人口は23万人で、草加市に次ぐ県内7位。2005年(平成17年)10月、庄和町と合併した。

 旧庄和町は、江戸川と中川に挟まれた埼玉県北葛飾郡の町。「大凧揚げ」が有名で、それにちなんだ博物館「大凧会館」(現在閉館)や菓子などの名物がある。

 江戸川河川敷では、毎年1月中旬の日曜に開催される「春日部新春凧あげ大会」と、毎年5月3日と5日に開催される「大凧あげ祭り」の会場になっている。縦15m・横11m(畳100畳)、重さ800Kg、百数十人の引手による大凧揚げは、江戸川の舟運で栄えた同地域の初節句を祝う祭りが由来。

 なお「大凧会館」は、2011年3月の東日本大震災による施設損壊により長期休館となったが、2014年4月に正式に閉館が決定、その後解体されて跡地は大凧公園となっている。また旧庄和町役場(現在は春日部市の庄和総合支所)は、地域住民に親しまれている庄和総合公園の中にある。

 この地域は、江戸時代までは下総国葛飾郡に属していた。1871年(明治4年)千葉県に属し、1875年(明治8年)埼玉県に転属したという経緯がある。
 

 本ブログの関連記事、東京都の「神田川・環状七号線地下調節池」について「都内をめぐる日帰り研修旅行」 2017年6月3日投稿 
 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-bf6d.html
 

2017年9月17日 (日)

真田の郷

 8月27日(日)、長野県上田市の「真田の郷(さなだのさと)」をめぐる。 
 

 前日の26日(土)、上信国境の百名山「四阿山(あずまやさん)」に登り、下山後上田市菅平のペンションに宿泊。27日(日)、上田市真田町の「真田の郷」を観光ガイドと共にめぐる。

 写真は、前日の四阿山登山の途中、山間の「真田の郷」を見下ろす。左手は上田平。

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 真田町は、長野県東部の小県郡にあった町。2006年(平成18年)3月に上田市、小県郡丸子町、武石村と合併し、上田市の一部となった。真田氏発祥の地と知られる。戦国の表舞台に現れ、天下にその名を轟かした真田三代は、強きをくじくヒーローとして、また悲劇の武将として庶民に広く愛されている。
 
 

 6:00、宿泊先のペンション「プチホテル りすの森」で起床。

 7:00~朝食。8:05、車で上田市真田町へ向け出発。

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 8:30、「御屋敷公園」の駐車場に到着。観光ガイドのMさんと合流。

 真田の郷めぐりでは、真田氏の系図を事前によく頭に入れておかないと、説明が混乱してなかなか理解しがたい。本文末尾に真田氏の系図と主な人物のヒストリーを記載する。
 
 

●御座敷公園(真田氏居館跡)と真田氏歴史館(8:45~10:00)

 真田氏の上田城築城以前の居館跡は、現在でも「御座敷」と呼んで親しまれているそうだ。「御屋敷公園」は、その居館跡を公園として整備されていて、現在はツツジの名所として知られる。長野県指定史跡。

 (写真は、ダブルクリックで拡大表示されます)

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 当時の遺構として、居館跡の四方をめぐらす土塁、大手門や枡形、搦手門のほか東門。また内部は二段に分かれて、上段が東曲輪(くるわ)と下段が西曲輪、厩(うまや)と言われる四角い土塁が残っている。

 当時の石垣が残る南側の大手門。ここは標高763mの標識がある。

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 東曲輪には、天照大神を祀る「皇大神社」が居館跡に建つ。真田昌幸が、上田城に移るときに荒廃することを恐れ、伊勢より勧請したと伝えられる。

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 北側の搦手門(からめてもん)から外へ出る。土塁の外は天然の堀跡。今は大沢川という小川が流れている。

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 館の周囲には武士や商人を住まわせ、城下町を形成していたそうだ。
 

 御屋敷公園に隣接して、真田三代ゆかりの歴史資料が展示された「真田氏歴史館」がある。入館料250円。

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 戦国の激動を生き抜いた真田三代の足跡を、武具甲冑や書状などの資料が展示・解説されていた。
 

 

●真田氏本城跡(10:05~10:35)

 1583年(天正11年)に真田昌幸が上田城を築城して居城を移すまで、水利や他の城址に比べて規模の大きさから真田氏の本城跡とされる山城。別名、「松尾城」。真田の郷の中央部の丘陵に位置する。

 現在は公園として整備されており、「真田氏本城跡」と書かれた看板のすぐ近くまで車で登ることができる。

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 平時は麓にある真田氏居館に居住して政務を司り、ここは戦時用の城であった。
 
 前日に登った「四阿山」(右)と左手に「根子岳」を望む。右手前のピークは、「松尾古城」。

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 東太郎山の尾根の一つに築かれ、村上、武田、真田、徳川の攻防の場となった山城「砥石(といし)城」(右手前の山)を望む。その左手に向うに上田市街が広がる。

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 敵の侵入を防ぐ土塁跡。

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 土塁の北側に本郭(ほんくるわ)があり、ここから眼下の「真田の郷」を見下ろす。右手の小山のすそ野には、「根子屋城」、「尾引城」、「信綱寺」、「打越城」などがある。

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 本郭の北側、段差2m下に二の郭、その下に三の郭が続く。
 
 

●長谷寺(ちょうこくじ、10:50~11:20)

 1547年(天文16年)真田幸隆が「長谷寺」を創建、かつての菩提寺とした。昌幸の代を経て、1622年(元和8年)信之(信幸)が松代へ移封となり、同地へ「長国寺(ちょうこくじ)」を建立したので、その末寺となり現在に至っている。

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 樹齢150年のシダレザクラが数本植栽されていて、春には桜の名所としても有名。

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 全国でもめずらしいアーチ型の石門。写真では分かりにくいが、六文銭が刻まれている。

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 本殿前には「大わら馬」が奉納されていて、何故か絵馬がたくさん結び付けられていた。

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 境内の裏手に、真田幸隆と昌幸親子の墓がある。

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 中央の石塔が幸隆、左は幸隆の正室、右が昌幸。

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 お賽銭のつもりだろか、1円、5円や10円の小銭を6つ並べた六文銭があちこちに置いてある。

 写真を撮らなかったが、幸隆・昌幸親子の左手に真新しい信繁(幸村)の供養塔が建っている。2013年(平成25年)5月に建てられたそうだが、無理やり「真田三代」のつもりだろうが、せっかくの史跡を見る中で違和感をおぼえる。

 

●山家神社(やまがじんじゃ、11:25~12:10)

 「山家神社」は、927年にまとめられた『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に名を連ねる、格式の高い神社。山家郷(やまがごう=真田郷)の産土神(うぶすながみ=その土地を守る神)として、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っている。

 養老年間(717年~724年)には、加賀の国の白山神社を迎えて合祀したので、白山様とも呼ばれる。

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 真田一族や歴代上田城主にあつく崇拝された。 

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 前日登った「四阿山(あずまやさん)」の山頂に奥宮があった。修験者が集まる山岳崇拝の聖地、あるいは四阿山を源とする神川(かんがわ)流域に住む人々の水分の神(みくまりのかみ=水の分配を司る神)である。

 山家神社の境内に「真田神社」がある。

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 ここの「真田神社」は、上田城本丸内にある「真田神社」と由来はまったく違う。山家神社の境内には、かつて「白山寺」という神宮寺があった。明治の神仏分離令で廃寺となったため、その跡地にこの「真田神社」が建立されたそうだ。祭神は真田幸隆、昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)。戦後、西南・日清・日露・・・太平洋戦争の真田長村(さなだおさむら)内の戦没者の英霊149柱も合祀。
 

 観光ガイドの案内で、山家神社の境内を出て周辺の住宅地を歩くと、幸隆のころ「御座敷」の居館を建てる前に一族が住んでいたと推定される場所に「山家の真田氏館跡」の説明板がある。(写真は、ダブルクリックで拡大表示されます)

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 跡地は、傾斜地にもかかわらず石垣が積まれたりして、南北約100m、東西約60m四方の人工的な平らな土地。現在は民家が建っていているので撮影は控えたが、土塁、祠や用水路、矢竹の植え込みなどが残っていて、古銭が出土されたそうだ。

 付近には、敵が侵入しにくい「枡形道」や、身分の高い屋敷に通じる「たつ道」なども残っている。写真は、付近の道路で左手に用水路跡がある。史跡の周囲には、「信州真田」の幟が立つ。

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 山家神社境内に裏手から戻り、神社をあとにする。
 

 

●信綱寺(しんこうじ、12:15~12:55)

 木立に囲まれた「古城緑地広場」の駐車場に車を停める。

 「古城緑地広場」は、「信綱寺」のすぐ前にあり、四季の花や遊具施設、遊歩道があって、バーベキューもできる市民憩いの場所。

 「信綱寺」は、室町期の創建。「横尾城」の東にあって、この地の小豪族・横尾氏の菩提寺であった。横尾氏滅亡後、真田信綱が寺を打越(おっこし)に移し、「打越寺」と名付けた。その後、長篠の合戦で討ち死にした兄・信綱のために昌幸が位牌所とし寺堂を改築、「信綱寺」と改めたという。境内には現在、信綱夫妻と昌輝の墓がある。

 この寺の南には、古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地だという。

 この寺の立派すぎる楼門がそびえる。

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 長い石段を登ると山門がある。

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 山門の手前にある「墓前の桜」。長篠の合戦で命を落とした信綱の首を、家臣(近習)の白川勘解由(かげゆ)兄弟(北沢最蔵と白川勘解由という資料もある)の手により陣羽織に包まれた鎧とともに、この地にあった打越寺まで運ばれた。手厚く葬ったのち、墓標の桜を植え、ここで自刃し殉死したと伝わる。

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 この桜は、エドヒガンザクラで樹齢400年とされる古木だが、春には花を咲かせるそうだ。首を包んだ「血染めの陣羽織」とそれを押し込んだ鎧は、信綱寺の宝物館に収蔵されているそうだ。

 信綱の首は敵から取り返したとか、愛用の太刀、旗も一緒に持ち帰った、または遺体をそのまま運んだとか・・・、戦いの混乱の中で撤退時に、そんなに持ち帰れるものだろうか、真偽のほどは定かでない。

 山門をくぐると、びっくりするほどの立派な本堂。

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 本堂の裏の細くて急な坂道を登ると墓地があり、信綱夫妻と昌輝の墓がある。

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 中央は信綱、左にその夫人、右に昌輝の石塔が並ぶ。

 信綱は幸隆の長子として生まれ、1574年(天正2年)に父が病没すると家督を継いだ。翌年、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、鉄砲の一斉射撃により弟・昌輝と共に戦死した。信綱は享年39歳、昌輝は享年33歳であった。

 信綱の弟である昌幸が、信綱の位牌所として「打越寺」を「信綱寺」と改号し、その後1717年(享保2年)の寺の移築にともない、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に厚く弔われていた。後世になって(江戸時代)、その脇に白川勘解由兄弟の墓も建てられた。信綱夫婦の右隣の昌輝の石塔は比較的新しく、昭和60年代に建てられたという。

 

●そば処「佐助」(13:10~13:50)

 元祖真田流手打ちそば「佐助」(上田市真田町本原)に入店。

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 350年以上前の江戸時代に建てられたという古民家を、1969年(昭和44年)に長野県北部の飯山市からこの地に移築した。茅葺屋根、黒光りする太い柱や梁、囲炉裏のある板張りの部屋、奥座敷など趣のある部屋がある。くるみざる蕎麦800円を注文。
  

 13:50、観光ガイドのMさんに謝辞を述べて別れ、上田菅平インターから上信越道、関越道へ。

 17:20、自宅着。

 ★ ★ ★

 真田氏中興の祖とする幸隆以降の系図は、以下のようである。

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 東信濃・真田郷の土豪(地方の小豪族)に過ぎなかった真田氏は、幸隆の時に武田信玄の家来として頭角を現し、幸隆のみならずその子・信綱、昌輝兄弟も、信玄の武田二十四将として活躍した。数々の軍功を挙げ、信州から上州にまで勢力基盤を伸ばしていく。この頃は、真田本城が本拠地だった。

 しかし信長との「長篠の合戦」で、信綱・昌輝兄弟があいついで討死、急遽三男の昌幸が家督を継ぐ。武田氏が滅亡した後は、大大名らの草刈場となった信州で、知略に優れた昌幸は織田、北条、徳川と主君を変えるなど、巧みな外交戦術で領土の維持に奔走する。また上田城を築いて、信州の小大名として認められていく。

 真田幸隆(左)と昌幸(右)の親子の肖像画。(出典:ウィキペディアコモンズ)

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 豊臣秀吉の死後、関ケ原の戦いで昌幸と次男の信繁が豊臣側(西軍)につき、長男の信幸が徳川側(東軍)に、別れて戦う。上田城で徳川の大軍を撃退した昌幸・信繁親子は、西軍が敗退したことにより、紀州の九度山に配流される。昌幸はその地で没する。信繁は大阪の冬の陣が勃発すると、大坂城に呼ばれて秀吉の遺児・秀頼を守って戦い、大坂夏の陣では家康の本陣まで肉薄するが、力尽きて戦死する。

 関が原の戦いで東軍に属した信幸は、名を信之と改め、上田・沼田の領地を安堵され、家名を存続する。その後、信濃・松代に移封され、93歳で没した。その後真田家は、江戸幕府の治世下10代に渡って真田10万石として生き残った。

 信之(信幸、左)と信繁(幸村、右)の兄弟の肖像画。(出典:ウィキペディアコモンズ)

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 ★ ★ ★

 一般に「真田三代」と呼ぶときは、真田幸隆―昌幸―信繁(幸村)を指す。長男の信幸(信之)でなく、父の昌幸に従った次男の信繁(幸村)が入っている。反徳川家の色彩が強い講談『真田三代記』の世界では、昌幸-幸村-大助を指し、猿飛佐助や霧隠才蔵などの真田十勇士と共に大活躍している。江戸時代から、軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に文庫本などが幅広く読まれ、庶民の間でフィクションの真田三代が庶民に広く知れ渡った。なお、信繁よりも幸村の名が広く知られているが、幸村は後世になって軍記物で名付けられたものとされる。
 

 池波正太郎作の歴史小説『真田太平記』は、1974年(昭和49年)から1982年(昭和57年)ににかけて『週刊朝日』に連載された。1985年(昭和60年)には、NHK大型時代劇『真田太平記』としてテレビドラマ化され、主人公の真田信幸(信之)には渡瀬恒彦が起用された。あらすじは、次の通り。

 武田氏傘下の豪族だった真田家は、武田家が滅んだ後は信州の小大名としての道を歩みはじめる。信長の横死後、昌幸と長男の信幸(信之)、次男の信繁(幸村)は、真田の忍びによる情報収集と謀略によって戦国の乱世を生き抜いていく。

 秀吉が亡くなると、関が原、大坂冬の陣・夏の陣で親子兄弟が敵対するが、生き残った信幸(信之)は江戸幕府の治世下に家名を残す。しかし、真田家と真田忍びに反感を持つ幕府と甲賀衆は真田家取り潰しを策謀、信幸(信之)は真田家の存続の計略をめぐらす。

 『真田丸(さなだまる)』は、2016年の1年間放送されたNHK大河ドラマ。三谷幸喜の脚本。番組名は、大坂の陣で信繁が築いたといわれる大坂城の出城「真田丸」に由来する。主人公・真田信繁(幸村)役に堺雅人、父・昌幸を草刈正雄、兄・信幸(信之)を大泉洋の好配役で、高視聴率を得た。

 ドラマは、昌幸が長年仕えていた武田家が滅亡する直前からスタート。手段を一切選ばず、策略・謀略をめぐらす父親の昌幸を中心にドラマは進む。頑固で真面目な兄の信之と、社交的で発想豊かだが詰めが甘い信繁の性格の対比が面白い。

 秀吉に可愛がられた信繁は出世して、独立した大名のように遇され、また淀君にも好意を寄せられる。一方、信幸の才能を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、信幸にめとらせた。関ヶ原以降兄弟同士で敵味方に別れるが、最後は主人公・信繁(幸村)の大阪冬の陣・夏の陣での活躍が、このドラマの最大の見せ場となる。

 ★ ★ ★

 今回の観光ガイドの方もよく勉強されていて、我々の要望・質問によく答えていただき、有意義な1日であった。特に、誤った歴史に対して鋭い批判や、歴史の真実を追求されている姿勢にとても共感した。

 江戸、明治・大正の軍記物、絵本の「真田三代記」、「真田十勇士」、最近では「真田太平記」、NHK大河「真田丸」まで、作られた物語・小説・ドラマと史実を混同したり、誤ったままを後世に伝えられることが多い。

 最近、鎌倉幕府の成立や聖徳太子について歴史が訂正される方向にあるが、一方で観光用に後世になって作られた墓石、天守閣(大分の杵築城も中津城天守も正しくない)も、現政権のように権力に立つ側の勝手な解釈がいかに多いか。

 史実は史実、フィクション・観光用とは明確に区別して理解するなり、未来の子供たちに伝えなければならないと思う。

 

 

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2017年8月31日 (木)

四阿山(あずまやさん)

 8月26日(土)、上信国境の百名山「四阿山(あずまやさん)」に登る。

 
 日本百名山の「四阿山」は、長野県須坂市・上田市と群馬県嬬恋村(つまごいむら)との境にある標高2333mの山。上信国境では「浅間山」の標高2568mに次ぐ。嬬恋村では、「吾妻山(あづまやま)」とも呼ばれる。

 早朝に出発する頃は、曇り。パーティ5人を載せた車は、関越道を北に向かって走り、上信越道の碓氷峠を越えて長野県に入ると雨が降り霧も出ている。長野県上田地方の天気予報は、午前中は小雨や弱雨、午後から曇り。四阿山の山の天気では、登山指数C(風または雨が強く、登山に不適)、登山はあきらめムード。

 しかし雨や霧もしばらくすると止み、8:25上田菅平インターを出て上田市に入るころには青空が出て来た。この日は、予報外れの登山日和となった。菅平高原を車で走ると、ラグビー選手らしき体格の人達の朝のランニングをを見かける。

 

 9:05、菅平牧場へ向かう坂道の途中にある管理事務所の小屋で、入山料1人200円を払い、2、3分先の駐車場(無料)に着く。ここは、標高1590m。

 南西の方角は、「大松山」(649m)の菅平スキー場。

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 雲上には、北アルプスの峰々が連なる。

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 北アルプスの中でも、尖った山頂の「槍ヶ岳」(3180m)にはすぐ気がつく。その左の穂高連峰には雲がかかる。

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 北東の方角は、「花の百名山」と呼ばれる「根子岳」(標高2207m)がくっきりと見え、右手の樹木隠れているが「四阿山」の山頂も晴れているようだ。

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 駐車場を出ると、すぐに売店があり、トイレと登山箱が設置してある。用意した登山届を投函する。

 9:30、登山開始。

 左手の牧柵に沿った舗装道路を3~400mほど進むと、牛舎の手前に登山口がある。

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 牧場を左に見て歩いた後、右に折れて牧場から離れる。ダケカンバの林の中、水の音を聞きながら大明神沢に沿った登山道を登る。

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 沢に架かる丸太の橋を渡り、比較的緩やかな登山道を進む。樹林帯の熊笹が生い茂る道には、今朝の雨でぬかるみが所々ある。

 出発から約1時間半後の11:05、最初のピーク「小四阿」(1917m)に到着。

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 この辺りからの見晴らしは素晴らしい。

 南東の方角に、左端のピークは噴煙を吐く「浅間山」、そのすぐ右は火口丘の「前掛山」。その右手前は、外輪山の「黒斑山(くろふやま)」。南の方角(右側)に目を移すと、丸い穏やかな形の「湯の丸山」と二つの三角形のピークを持つ「烏帽子岳(えぼしだけ)」。

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 (写真をクリックすると拡大表示します)

 写真右手に、「湯の丸山」(2101m)と「烏帽子岳」(2066m)。

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 写真左手から、「浅間山」(2568m)、「前掛山」(2524m)、「黒斑山」(2404m)。

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 写真中央は、上田城築城以前の真田氏の館があった「真田の郷」(上田市真田町)、左手に「上田平」と呼ばれる上田盆地(上田市街)。

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 再び樹林の中へ。

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 樹林帯を抜け、「根子岳」を左手に眺めながら進む。

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 再び樹林中、深い熊笹の生い茂る登山道。

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 四阿山山頂までは、マツムシソウ、ウスユキソウ、リンドウ、などなど・・・・高山植物をいくつも見かけた。残念ながら、今回の登山では写真を撮ったり眺めたりする余裕はあまりなかった。

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 樹林帯を抜け、見晴らしの良い場所で休憩。「大松山」と菅平スキー場、遠景に北アルプス。

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 北アルプスに掛かる雲が去って、だいぶはっきりした来た。

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 左端のピークは女性的な山「爺ヶ岳(じいがだけ)」(2670m)、その右が立山連峰の峻険な「剱岳(つるぎだけ)」(3180m)、双耳峰の「鹿島槍ヶ岳」(2889m)。

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 左からギザギザの稜線が連なる「唐松岳」(2696m)、中央は天狗尾根、右手に「白馬三山(しろうまさんざん)」が続く。「唐松岳」の左手、「鹿島槍ヶ岳」との間にそびえる「五竜岳」(2814m)の望遠写真は撮れてなかった。

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 「白馬三山(しろうまさんざん)」は、左から「鑓ヶ岳(やりがたけ)」(2903m)、雲がかかった「杓子岳(しゃくしだけ)」(2812m)、中央の「白馬岳(しろうまだけ)」(2932m)の総称。

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 北西の方角、眼下に「善光寺平」とよばれる長野盆地(長野市街)。中央を千曲川が流れる。

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 尾根伝いに進む。

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 12:20、次のピーク「中四阿」(2106m)に到着。

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 ここからは一旦鞍部に下り、山頂に向かう。

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 鞍部を過ぎ、高度を上げて振り返ると、さっき登って来た「中四阿」が眼前に。

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 樹林帯の中、厳しい急登。

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 やがて山頂が見える緩やかな登山道がしばらく続く。。

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 13:15、根子岳との分岐点の広場。ここから四阿山の山頂までは標準で20分、根子岳へは1時間40分。

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 大きな石が連なる登山道、最後の急登。

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 四阿山の山頂近く、老朽化して一部傾いたり破損した木道の階段。鳥居峠からの登山道が右手から合流する。

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 南の方角。近景の「湯の丸山」と「烏帽子」の後方に、「八ヶ岳連峰」が現れた。右のピークが「蓼科山」(2530m)、左が「赤岳」(2899m)。

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 山頂の少し手前の南峰にある「山家(やまが)神社」の奥宮(西の宮)。上州側(東)を向いているので上州宮(上州向社)とも呼ばれる。

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 13:50、山頂(標高2,354m、北峰)に到達。北峰に建てられた「山家神社」の奥宮(東の宮)。信州側(南)を向いているので信州宮(信州向社)とも呼ばれる。

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 山頂付近から南東の方角を望む。左端の「浅間山」(2568m)、そのすぐ右隣は「前掛山」(2524m)。その右手前は「黒斑山(くろふやま)」(2404m)。山麓には、群馬県妻恋村の広大なキャベツ畑が広がる。左下は「田代湖」。

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 浅間山裾野の左手遠くに、ギザギザの奇岩の山が連なる「妙義山」(1104m)。

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 更に「浅間山」から左に目を移すと、外輪山が連なる。鼻が曲がったような独特な形の「鼻曲山」(1655m、右)、左の三角のピークは「浅間隠山」(1757m)。

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 北東の方角は、志賀高原方面。「岩菅山(いわすげやま)」(2295m、左)と国道292号線が横切る「横手山」(2305m)。

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 北西の方角、根子岳と北アルプス。

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 山頂からの360度の展望を楽しみ、遅い昼食のあと、14:20 下山開始。往路を戻る。

 14:35根子岳分岐、15:25中四阿、16:25小四阿、17:35登山口に到着。

 菅平牧場駐車場へ向かう途中、陽が落ち始め、北アルプスの美しいシルエット。中央は双耳峰の「鹿島槍ヶ岳」、右側にどっしりした「五竜岳」。

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 17:45、菅平牧場駐車場に到着。

 18:05、ペンション「プチホテル りすの森」(上田市菅平高原菅平)に到着。

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 入浴後、19時から夕食。23時前に就寝。

 明日は、上田市真田町の「真田の郷」をめぐる。

  
 

 ★ ★ ★

 「四阿山」の主な登山口は、長野県側の菅平牧場、四阿高原、群馬県側にはパルコール嬬恋、県境の鳥居峠がある。菅平牧場を出発点に、根子岳→四阿山→中四阿→菅平牧場と周回するコースが一般的。「パルコール嬬恋」はスキーリゾートで、ゴンドラリフトが夏の期間は土日祝とお盆に運行しているので、登山に利用すれば短時間で登頂できるそうだ。

 「菅平高原」は、長野県上田市の北部から須坂市にまたがる標高1,250~1,650mの高原。上信越高原国立公園に属する。夏は涼しい気候であるため、古くからラグビー合宿のメッカとして知られ、サッカー、テニス、ゴルフ、陸上競技、パラグライダー、乗馬など、冬はスキーなどのスポーツが盛ん。
 

 

 古事記によれば、日本武尊が東征から戻って、信濃に入る鳥居峠に立たれたとき、「あずま(吾妻)はや」(=我が妻よ)と嘆いて妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び、峠のすぐ北の山を「吾妻山(あづまやま)」と名付けたと言われる。その山から上州に流れる川は「吾妻川」、山の東側は「吾妻(あがつま)郡」、そして嬬恋村(つまごいむら)の名もこの伝説による。・・・と深田久弥著『日本百名山』に書かれている。東国を東(あずま)というのも、これが謂れとされる。

 もっとも、「あずまはや」と嘆いたという地名は、静岡・神奈川県境の足柄峠、長野・群馬県境の碓氷峠や鳥居峠などといくつも説があるようだ。

 関連ブログ記事 「中山道の碓氷峠越え-その2」 2017年7月24日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-a467.htm

 信州側ではこの山を「四阿山(あずまやさん)」と呼ぶ。どこから見ても山の形があずまや(東屋・四阿)の屋根に似ているのでこの名がつけられたという。「四阿」の「阿」は棟の意味、四方に軒を下ろした屋根を持つ建物を意味するのだという。
 

 

 群馬県と長野県の県境にまたがる四阿山の山頂には南峰・北峰があり、どちらにも祠がある。二つとも里宮である上田市真田の「山家神社」の奥宮で、御祭神は「白山大権現」(大国主神、伊邪那美神、菊理媛神)とある。修験者の浄定が714年頃に加賀の国の白山から勧請し、四阿山を御神体として奥宮を置いたのが始まりだという。

 南向きの北峰の祠「西の宮」は、信州宮(信州向社、信濃社)、東向きの南峰の祠「東の宮」を上州宮(上州向社、上毛社)と呼ぶ。実際に確認出来なかったが、もう一つ石積社とも呼ばれている岩室の祠「中の宮」があると書いた資料もある。「中の宮」は最古の斎場で、大国主神(おおくにぬしのかみ)が祀られる。「東の宮」には、伊邪那美神(いざなみのかみ)が、「西の宮」は菊理媛神(くくりひめのかみ)祀られているそうだ。

 

 

 雨の予報だったので、半分以上はあきらめて現地に向かった。しかし菅平に着くころはすっかり晴れて、本当に運の良い登山であった。朝8時ごろに牧場に着いた登山者からは、雨の中での出発だったと聞く。ただ菅平牧場からのコースも、歩程が長くてそんなに甘くはなかった。下りではだいぶ足がふらつきながら、なんとか無事に下山。翌日は、先月の中山道碓氷峠越えハイクよりも、ひどい日焼けと筋肉痛だった。

 浅間山や八ヶ岳、北アルプスなど、最近には見ない眺望で、素晴らしかった。北アルプスは目ではなんとか眺望できたが、鮮明な写真が撮れなかったのは残念。

2017年7月28日 (金)

熊谷うちわ祭り

 7月21日(金)、関東一の祇園「熊谷うちわ祭り」(埼玉県熊谷市)に行く。
 

 夕方の4時頃、国道17号沿いの「八木橋百貨店」の前に着く。

 百貨店前の手動の大温度計。この日の14時、熊谷地方気象台発表の気温は35.9℃。

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 この大温度計は、「暑いぞ!熊谷」のシンボル。設置して10年の今年を区切りに廃止される予定だったが、市民から惜しむ声が多く寄せられ存続することになったという。

 国道17号の歩道を中心に、数百店の露店が出店しているという。

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 JR熊谷駅に行って、駅正面口(北口)の階段アート「金魚とスイカ」を見る。

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 涼しさを感じてもらおうと、7月1日から「階段アート」が登場した。他にも熊谷駅南口階段、市内のJR籠原駅の構内4カ所の階段にも別の作品が描かれているという。
 

 21日(金)は、祭りの中日(2日目)。午後から市街では交通規制が敷かれる。10台の山車や屋台が、笛や太鼓、鐘の「熊谷囃子」を鳴らして、歩行者天国となった国道17号線を東へ西へと巡行する。

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 本格的に賑わうのは夕方6時頃からで、観客も次第に多くなってきた。「熊谷うちわ祭り」は、2台以上の山車・屋台を向き合わせたり、並べたりして囃子を競い合う「叩き合い」が特特徴。夕暮れになると、12台の山車・屋台が動き始める。昼の巡行とは異なり、国道17号線の各所で、次々と「叩き合い」を繰り広げながら賑やかに巡行する。

 国道17号線での仲町区の山車と荒川区の山車の並んでの「叩き合い」。

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 第二本町区の山車(左)と荒川区(右)の山車の向かい合っての「叩き合い」。

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 イオンの前で待機していた本石区の屋台が動き出す。

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 桜町区の屋台は、八木橋百貨店から300m離れた屋台庫からやって来た。

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 「叩き合い」のたびに山車・屋台が合流し、東西からそれぞれ合流してきた12台の山車・屋台は、夜20時半頃には八木橋百貨店前で勢揃いし、扇形に並んで叩き合いを行い最高潮となるそうだ。

 3時間ほど滞在していた、混み合う前の夜7時ころ、早めに帰ることにする。

 山車や屋台を追いかけて歩きまわったので、けっこう疲れた。

 

 翌日22日(土)が最終日で、一番賑わうという。クライマックスの夜9時頃には、観客も身動きできないほど混雑するそうだ。来年また機会があれば、最終日に行きたいと思う。

 

 ★ ★ ★

 文禄年間(1593年~)、京都の「八坂神社」を勧請し、市内鎌倉町にあった愛宕神社に合祀された。「熊谷うちわ祭」は、熊谷の「八坂神社」(愛宕八坂神社)の例大祭。京都八坂神社の「祇園祭」の流れを受け、江戸中期(1750年頃)より始まったとされる。当初は神輿(みこし)中心の祭りだったが、天保年間(1830年~)に山車や屋台を購入または建造して、山車・屋台中心の祭りの形態に代わっていった。氏子たちや町を挙げての盛り上がりで年々盛大になり、3日間で延べ70万人の集客を誇る「関東一の祇園」と謳われるまでになった。

 毎年7月19日~23日に、全日程5日間にわたり執り行われるが、一般向けの行事は20日~22日の3日間である。クライマックスは、22日の夜。

 祭期間中に各商家が疫病除けの赤飯を炊いて、買い物客に振る舞ったので「熊谷の赤飯ふるまい」として名物になった。後に赤飯の代わりに、当時は生活必需品だった「うちわ」を客に出し、評判となったため「熊谷うちわ祭」と呼ばれるようになった。現在でも、店名や企業名が書かれた宣伝用のうちわが、大量に観客に配られている。

 なお「熊谷うちわ祭り」では、上部が唐破風の屋根のみを「屋台」。屋根の一部があるが、最上段に人形を飾るようになっていて、人形は上げ下げが出来る仕組みになっているのが「山車」と呼ばれているようだ。車輪は3輪あって、小さい前輪は可動式で小回りが利くようになっている。

 

2017年7月27日 (木)

古代蓮の里2017

 7月14日(金)、昨年に引き続き、埼玉県行田市の「古代蓮の里」公園へ行く。

 

 8時半から10時半ころまで、古代蓮会館を含め園内を見学。蓮の花は見ごろを過ぎているが、観光客は少なくはない。駐車料金500円。

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 駐車場の係員が言うには、今年は雨が少なかったので開花が1か月早かったそうだ。

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 桜のように一斉に咲いて、散るわけではない。開花中やこれから開花する花が、まだちらほらある。

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 「古代蓮会館」に入館する。入館料は400円だが、駐車場利用券の提示で半額。

 古代蓮ふれあいシアターコーナーでは、古代蓮のロマンと美しさを120インチ3画面のスクリーンで再現。蓮の一生を、映像でよく理解できた。

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 行田の自然コーナー。行田の自然や、そこに暮らす生物の様子を紹介。

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 古代蓮観察コーナー。種から発芽、地下茎が伸び、葉がでて、芽がでて花が咲き、やがて枯れていくの蓮の一生をレプリカで観察。

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 「古代蓮会館」の高さ50mの展望室に上り、東側の田んぼで見る。

 行田市は1998年(平成20年)から「田んぼアート」に取り組んでおり、今年が10周年目。2015年には「世界最大の田んぼアート」としてギネス世界記録に認定された。

 今年のテーマは、『日本書紀』や『古事記』で、ヤマタノオロチ退治の説話で登場する「イナダヒメノミコトとスサノオノミコト」。田んぼアートはこれからが見頃。
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 今年は、公園南側の田んぼに、どこの広告だろうか、こんなアートもある。

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 『陸王(りくおう)』は池井戸潤の小説で、2017年10月にTBS系でテレビでドラマ化される予定だという。単行本の表紙デザインとドラマ主演・役所広司氏の似顔絵が描かれている。

 

 ★ ★ ★

 「イナダヒメノミコトとスサノオノミコト」の説話は、次の通りである。

 高天原(たかまがはら)を追放されたスサノオノミコト(須佐之男命)は、出雲の国(島根県)の斐伊川(ひいがわ)上流にやってきた。そこで老夫婦が泣いている。一人娘のイナダヒメノミコト(奇稲田姫命)が、8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の生贄にされそうだと。

 スサノオは、イナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチ退治を約束する。老夫婦に酒を造らせて8つの酒樽を用意させ、イナダヒメの姿を櫛(くし)に変えて自分の頭に挿して、ヤマタノオロチとの戦いに向かう。酒に酔って眠り込んだヤマタノオロチを、スサノオは剣でズタズタに切り裂く。尾を割り裂いた時、中に一振りの剣があった。これが「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」で、スサノオはこの剣を天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上する。

 イナダヒメ(稲田姫)は、別称をクシナダヒメ(奇稲田姫)と言い、一般的にはこちらの名の方が広く知られている。稲田の守護神、美田の神様として信仰されている。クシ(櫛)になったヒメから、クシナダヒメ(櫛名田比売)ともいう。
 

 

 行田市を舞台にした小説『陸王(りくおう)』は、『小説すばる』(集英社)に2013年7月号から連載、2016年7月に集英社から単行本が刊行された。2017年10月からTBS系テレビでのドラマ化を記念して、今回の「田んぼアート」が実施されたという。

 池井戸潤小説のドラマ化では、銀行を舞台にした『半沢直樹』、中小企業を舞台にした『下町ロケット』、企業野球部を描く『ルーズヴェルト・ゲーム』など、テレビで視聴した事がある。

 『陸王』のあらすじは、以下の通り。

 埼玉県行田市にある「こはぜ屋」は、創業から100年以上続く老舗の足袋(たび)製造会社。その四代目社長・宮沢紘一を、役所広司が演じる。「こはぜ屋」は足袋の需要減少で業績が低迷し、資金繰りに悩んでいた。そんな中で宮沢は、足袋製造の技術を生かし、「裸足感覚」を取り入れたランニングシューズを思いつき、社内にプロジェクトチームを立ち上げる。会社の生き残りをかけて新規事業に参入するが、資金難、人材不足、特許紛争、大手シューズメーカーの妨害、予想外の機械トラブルなどに直面しながら、頼れる協力者を得てランニングシューズの開発に邁進する。

 行田は江戸時代から足袋つくりが盛んで、古くから足袋の町として知られている。明治時代になると、ミシンによる動力化も進んで足袋の生産量は増大、行田の足袋は名実ともに日本一となったとされる。1938年(昭和13年)の事業者数200社、足袋生産量は8,400万足、これは全国生産の約8割を占めていた。「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定されているほか、「行田の足袋製造用具及び製品」が国の登録有形民俗文化財となっている。
 

 

 7月17日の朝日新聞1面にあるコラム「天声人語」に、ハスについての話題が掲載されていた。コラムの後半部に、ちょうど行田のハス由来が解説してあるのでそのまま引用する。

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 行田市では1973年、ゴミ焼却場の建設地で桃色の大輪が見つかった。埼玉大の研究者らが調べ、推定1400~3千年前の地層に眠っていた種子が掘削で目を覚ましたと推定した。

 主産業の足袋作りが下り坂にあった市は1995年、ハスを核にした公園を開く。「ふるさと創生」をうたって全国の市町村に交付された1億円をいかした。街はにぎわいを取り戻す。

 ふるさと創生と聞くと金塊や純金のこけしが浮かぶ。盗まれたり売られたり、哀れな結末も見た。ばらまき政治の見本のごとく語られることが多いけれど、将来を見すえて種をまいた自治体も少なからずあったようである。

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 関連ブログ記事

  「古代蓮の里」 2016/07/16 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-52e8.html

  「栃木県北部の冬景色」 2015/02/05 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-81a2.html

2017年7月24日 (月)

中山道の碓氷峠越え-その2

 7月16日(日)、中山道の三大難所の一つ「碓氷峠」越えのハイキング。
 
 

 江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道(なかせんどう)」。軽井沢駅(長野県軽井沢町)から「碓氷峠」(標高1,200m)を越え、横川駅(群馬県安中市)までのおよそ19Kmの山道を歩く。 

 本ブログ記事「中山道の碓氷峠越え-その1」のつづき。

 

 11:45熊野神社を出て、左右に茶屋を見ながら車道を100mほど進むと、狭い山道の下り坂 。

 これで碓氷峠のピークを越え、群馬県側の下り道に入る。

 11:51、分岐点。ここには、壊れかけた道標や熊に注意の看板、「思婦石」と「仁王門跡」の松井田町観光協会の案内板、いくつかの石碑や祠が並ぶ。

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 「仁王門跡」の案内板は、「もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている」とある。神宮寺とは、神仏習合で神社に付属して建てられた寺院のこと。

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 「思婦石(おもふいし)」は、群馬郡室田の国学者・関橋守(せきのはしもり)の直筆の歌碑で、安政4年(1857)の建立。
 
 歌碑には、「ありし代に かへりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」が刻まれている。

 『日本書紀』では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、荒れた海を鎮めるために入水した妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を、碓氷峠で「吾妻はや(我が妻や)」と嘆いたという。東国を指して「あずま」としたのは、この故事にちなむそうだ。この歌は、尊が妻を恋い偲んで詠んだもの。

 道標は、左の道は「留夫山」(とめぶやま、1591m)から「鼻曲山」(はなまがりやま、1655m)への尾根道、中央の道は「霧積温泉」へ、右に行けば「旧中山道」。

 分岐を右にとり、旧中山道のコースへと進む。「長坂道」の案内板がある。「中山道をしのぶ古い道である」と簡単な説明。一方、江戸末期に皇女和宮が降嫁される時に拓かれた「和宮道」というのがある。比較的広く安全な道で、現在「安政遠足」のコースになっているようだ。地図で確認すると、霧積温泉の方向に15分ほど進んで分岐を右折、そこから30分ほどで旧中山道に合流する。

 かつて旅人を苦しめた難所は、最初はえぐれた急坂の山道。樹木に覆われ昼なお薄暗い。

 12:08、人馬の労をねぎらう休憩所だった「人馬施行所跡」の案内板。

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 「笹沢のほとりに、1828年(文政11年)江戸呉服屋の与兵衛が,安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休む家をつくった」とある。貧しい旅人の為の茶屋だったようだ。

 12:13、「化粧水跡」の案内板。「峠町を登る人々がこの水で姿・形を直した水場」。草むらの下の沢には、水がちょろちょろと流れていた。

 12:22、「陣場が原」と「子持山」の案内板。ここで、「和宮道」と合流する。

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 この辺りは、子持山(こもちやま、標高1107m)頂上付近の「陣馬ヶ原」である。「太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代には武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原で、ここが古戦場といわれている。」

 「子持山」に案内板には、万葉集に「兒持山 若かえるでの もみづまで 寝もと吾は思う 汝はあどか思う (巻14-3494 読人不知)」とある。

 (意味) この山のカエルデ(カエデのこと)の若葉が紅葉するまで、ずっと寝ていたいと私は思う。あなたはどう思うか。山の名前に「子持ち」をかけ、寝ることで子を持とう、つまり遠回しのプロポーズ。

 12:29、「一つ家」の案内板には、「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている」。周囲に何も無い一軒家に住む老婆が、旅人に何をしたのだろうか、意味不明。

 12:36、「山中坂」の案内板。

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 「山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が「山中坂」で、この坂は「飯食い坂」と呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので、山中茶屋で飯を食って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。」

 12:39、「山中茶屋」と「山中学校跡」の案内板。

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 飯場のような廃屋がぽつんと建っているが、まさかこれが明治の学校ではあるまい。

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 「山中茶屋」は峠の真中(坂本宿と軽井沢宿の中間)にあった茶屋で、1662年(寛文2年)には13軒の立場茶屋(たてばちゃや)ができた。明治のころには小学校もあったという。立場茶屋とは、茶店(ちやみせ)から発展した各種の飲食遊興の店。

 付近には石垣などの屋敷跡、墓石塔、畑跡なども残っている。

 12:45、「入道くぼ」の案内板。「山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。」とある。

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 線刻の馬頭観音は、石の表面が磨滅していてよく確認出来なかった。

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 山道は、再びゆるやかになる。このあたりで、左から「明治天皇御巡幸道路」が合流してくる。

 13:08、「栗が原」の案内板。「明治天皇御巡幸道路といわれた道で、国道の碓氷橋へ出る。中山道と追分の形になっていて、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりであるといわれる。」

 御巡幸道路は明治になって出来た新しい道だが、崩落しているのか現在は通行禁止になっているらしい。

 峠に上って来るランナーのために、「安政遠足」の看板は所々に設置してある。

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 13:30、「座頭ころがし(釜場がんば)」の案内板が立っている。「急な坂道となり、岩や小石がゴロゴロしている。それから赤土となり、湿っているので、すべりやすい所である。」

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 急な坂道には、落ち葉が腐葉土となり滑りやすいので、足元に注意しながら下る。


 道は平らになり、左手の山道に入るところに、13:36「一里塚」案内板が立っている。この山道は慶長以前の旧道の「東山道」で、途中に一里塚がつくられているという。

 13:39、「北向馬頭観音」の案内板。「馬頭観音があるところは、危険な場所である。一里塚の入口から下ると、ここに北向馬頭観世音が岩の上に建っている」。1818年(文化15年)建立。

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 13:39、「南向馬頭観音」の案内板。「この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。昔この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある」。1791年(寛政3年)建立。

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 13:44、「掘り切り」の案内板。「天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を,松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所。道は狭く両側が堀り切られている。」

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 13:57、「碓氷坂の関所跡」の案内板には、「昌泰2年(899)に碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。」とある。平安時代の話である。

 案内板の脇に休憩所(東屋)と道標(坂本宿2.5Km、熊野神社6.4Km)。ゴールは近い。

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 14:03「四軒茶屋跡」「刎石(はねいし)茶屋跡」の案内板。この付近は刎石山の頂上。 ここに四軒の茶屋があった屋敷跡、現在でも石垣や墓が残っている。今は杉林となっているが、昔は旅人たちで賑やかだったのだろう。平坦で歩きやすく、気持ちがよい道が続く。

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 14:06、「弘法の井戸」がある。「諸国をまわっていた弘法大師から、ここに井戸を掘ればよいと教えらたと伝えられている霊水である」。今でもきれいな水が出ているそうだが、トタン板で覆ってあった。

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 14:09、「風穴(ふうけつ、かざあな)」。「刎石(はねいし)溶岩のさけめから湿った水蒸気が噴き出している穴が数カ所ある。」とされるが、ちょっと手をかざしてみたが何も感じない。

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 14:10、馬頭観音の大きな石塔。案内板はなし。

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 さらに坂を下ると急に木々が途切れ、14:11眼下に坂本宿が良く見える 「覗(のぞき)」という有名な場所に着く。江戸時代から旅人の心を癒した絶景ポイント。

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 一茶はここで、「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。

 この先は、石ころが混ざった急な下り坂となる。 

 14:14、「上り地蔵下り地蔵」の案内板。案内板には、 「十返舎一九が、「旅人の 身を粉(こ)に砕く(はたく) 難所道(なんじょみち) 石の碓氷の 峠なりとて」と・・・その険阻な道は刎石(はねいし)坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。」とある。

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 大小の岩がたくさん転がっているが、辺りに板碑のような地蔵は見当たらない。

 14:18 、「刎石坂」の案内板。

 「刎石(はねいし)坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏、大日尊、馬頭観世音の石碑がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。」

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 14:19、 「柱状節理」 の案内板がある場所に着く。「火成岩が冷却、固結するとき亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである。」

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 14:36、「堂峰番所跡」の案内板。「堂峰の見晴らしのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣上に番所を構え、中山道をはさんで西側に定附同心の住宅が2軒あった。関門は両方の谷が迫っている場所をさらに掘り切って道幅だけとした。現在も門の土台石や石垣が残されている。」

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 横川にある「碓氷関所」の出先機関だった関所が置かれ、関所破りを見張っていたそうだ。

 急坂の山道を下りきると、14:40やっと国道18号(旧道)に出る。

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 ここはバス停「中山道口」で、東屋風の停留所になっている。入り口には「安政遠足」の標識が立っていて、峠まで行くにはこの標識に従えばよい。

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 バス停の東屋で休憩15:00まで休憩。

 

 ここから国道18号を下り、坂本の旧宿場町の面影が残る町並みを歩き、上信越自動車道をくぐってさらに歩くと、横川駅へ到着する。しかし坂本の集落までの国道は、歩道か無く、車通りも比較的多い。

 中山道口のバス停から、「アプトの道」の中間部に降りられる。

 「アプトの道」は、旧信越本線のアプト式鉄道時代の廃線跡を利用した遊歩道。横川駅~旧熊ノ平駅の間の約6Kmを遊歩道として整備された。国の重要文化財である「旧丸山変電所」をはじめ3つの橋梁と10の隧道がある。代表的な鉄道煉瓦構造物である「めがね橋」(碓氷第3橋梁)などの碓氷峠鉄道遺産に触れることができる。

 「アプトの道」を歩くとにして、15:03旧信越線のトンネルをくぐる。

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 15:07、北原白秋歌碑と「白秋の歌「碓氷の春」について」の案内板がある。

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 「うすいねの 南おもてと なりにけり  くだりつゝ思ふ 春のふかきを

 大正12年春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと言われている。」

 途中に、「峠の湯」とすぐ近くにトロッコ列車の終点「とうげのゆ」駅がある。

  碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」から「鉄道文化むら」に続くおよそ2.6Kmの廃線道路をひたすら歩く。 かつて碓氷峠を上った機関車の面影を想い浮かべながら。

 途中、観光客を乗せたトロッコ列車が通り過ぎる。

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 廃線となった旧信越本線は複線で、アプトの道と一方はトロッコ列車の線路に利用されている。

 15:25、「旧丸山変電所」は国の重要文化財。

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 碓氷線が幹線鉄道ではじめて電化されたことに伴い、明治45年に建設された。煉瓦造り建築の最盛期のもので、純煉瓦造り。

 15:43、「鹿嶋組招魂碑」と「碓氷路交通殉難者鎮魂碑」が、碓氷関所跡の小道を挟んで南側に建つ。

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 右の「招魂碑」は、明治の困難な碓氷線建設工事で命を落とした多数の犠牲者を供養するため、1892年(明治25年)に魚住政吉が建立。
 
 左の「鎮魂碑」は、碓氷の交通機関建設工事で殉職、思わぬ災害や交通事故に遭遇した犠牲者を慰霊するため、信越本線の廃線に伴い「うすいの歴史を残す会」が1996年(平成8年)建立。

 碓氷関所跡は素通りし、15:45「碓氷峠鉄道文化むら」に並ぶ鉄道車両が見えてくる。ゴールはあとわずか。

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 15:50、ゴールとなるJR信越線横川駅の駐車場に到着。16:00、車で坂本宿のある国道18号線(旧道)を通って、3km先の日帰り温泉「峠の湯」へ。

 16:05~17:05 、碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」(600円)で汗を流してすっきり。

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 ぬるぬるしたアルカリ性の泉質。風呂から上がった所で夕立があり、山の中で遭わずに良かった。

 横川駅で昔ホームで立ち売りし、今では横川駅近くの「おぎのや」のみやげで屋などで売っている陶器の釜を使った有名な駅弁「峠の釜めし」がある。この日帰り温泉の売店にも置いてあった。これを2個(1個1,000円)夕食用に購入。

 17:05、「峠の湯」を出発、 「おぎのや」横川店に寄ったあと往路を還る。帰りは日曜の夕方とあって高速道路が渋滞、予定より遅れる。

 19:40、自宅着。

 ★ ★ ★

 「山中坂」付近から先だったろうか、正確な場所を忘れたが、車が通れるほどの広い山道で、左側にしっかりしたコンクリートの擁壁が造られていた。こんな山道にいつどんな目的で造ったのか。疑問に思いながら歩いていると、さらに広場のような場所に朽ちたバスの廃車を発見。「見晴らし台」や「別荘分譲地」の錆付いた看板もある。乗り捨てられて乗用車や別荘と思われる廃屋が数軒現れた。この辺りで、別荘開発やリゾート開発があったのだろうか。熊野神社からこの辺りまでは、車が通れたという話もある。

 山道の谷側が一部崩落していて狭くなり、ガードローブを張ってあるような場所がいくつかあった。昔は、参勤交代の大名行列も通ったであろうから、今よりも道が整備してあって、もっと道幅が広かったのだろう。もちろん今のような杉の植林はしてなかっただろうが、昔の中山道の峠越えの風景を思い描きながら歩いた。

 歩数計を見ると3万2千歩、距離は約19Km。所要時間は休憩入れて約7時間(軽井沢駅前8:45発、横川駅前15:50着)、正味は6時間くらいだっただろうか。こんな長い距離を歩いたには久しぶり、バテもせず完歩した。その後2、3日、適度な筋肉疲労が残ったが。

 雨も降らず、木立の中と曇り空で日差しも強くなかったが、風がなかったのでもう汗がダラダラ。あとで自分の足をよく見ると、左右の足を2ヶ所づつ山ヒルに吸われていた。いずれも靴下の上からだったが。

 街道には史跡がたくさんあったが、残念ながら石碑や石仏以外は草木ばかりで、あまり絵にならない写真だった。

 

 

 ★ ★ ★

 信越本線の廃線道路「アプトの道」の途中に「碓氷線工事」と「アプト式とエントランス」の説明板があって、以下のように記載されていた。

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 「碓氷線工事」

 碓氷線の工事は1年6ケ月程で完成したといわれています。当事は一日、約1万4、5千人の人が働いていました。鹿島組の他日本で有数の大小の請負業者が何社も入っており、全国から集まった職人達が厳しいしい上下間係のもと働いていました。めがね橋周辺にも多くの飯場があり、工事は昼夜行なわれていたようです。横川駅近くの明治25年(1892年)に建てられた鹿島租の「招魂碑」には「魚住八十松他五百名」(受難者)とありますが、工事に携わった渡辺信四郎の報告書には「約二十名ニ過ギザルベシ・・・ 」とあり、犠牲者の数は今でも謎となっています。

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 (大正時代の軌道アプト改修工事風景)

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 「アプト式とエントランス」

 碓氷線の急勾配66.7‰ (パーミル、1,000mで66.7m上がる)に対処するためドイツ系スイス人、ローマンアプトの考案した方法(英語読みはアブト)。レールの間にラックレールを敷き、機関車にはピニオンギヤを設け、かみ合わせて上り下りをしました。またアプト式の入り口をエントランスといい、バネが入っていて、当初は無事かみあわせたかどうかを確認する、エントランス番がいました。アプト式は、昭和38年EF63型による粘着運転こ切り替わるまで使用されました。

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 (丸山エントランスと独製1OOOO型電気機関車)

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 明治の初めの頃、東京と京都を結ぶ幹線鉄道のルートのひとつとして、交通の要衝であった碓氷峠に鉄道を敷設する計画が検討された。しかし難工事が予想されることから断念。明治20年代に入ると再度、鉄道敷設計画が持ち上がる。

 急坂を登るのにスイッチバック式やループ線などの案も検討されたが、地形的な問題があった。ドイツのハルツ山岳鉄道を参考に、2本のレールの間に敷かれたラックレール(凹凸のついたレール)と車軸に取り付けた歯車をかみ合わせて機関車を推進するアプ方式が採用された。1891年(明治24年)に着工して、トンネル数26、レンガ造りの橋梁18を要する難工事の末、1年9ヶ月で完成。1893年(明治26年)、横川-軽井沢間の碓氷峠越えの鉄道が開通した。

 明治40年代に入ると、輸送力のアップや安全性の面から電気機関車の導入を計画。横川火力発電所を新設、碓氷線の両端にあたる丸山と矢ヶ崎の2カ所に変電所を設け、1912年(明治45年)、日本初の幹線電化区間となる。当初はドイツから輸入した電気機関車EC40型が走っていたが、やがて国産のED42型を開発、碓氷峠を49分で結んだ。

 しかしアプト式の機関車は特殊で、線路の保守の面からも不利な点が多かった。1966年(昭和41年)には碓氷線を複線化し、アプト式から一般的な車両と同じようにレールと車輪の粘着力による粘着運転方式に変わる。補助機関車を連結して粘着運転することで輸送力の改善した。補助機関車のEF63形やEF62形電気機関車により、横川-軽井沢間の所要時間は登り17分、降り24分と大幅に短縮された。

 1997年(平成9年)長野行き新幹線が開通。信越本線横川~軽井沢間が廃線になった後、「碓氷峠鉄道文化むら」が開設され、鉄道資料館などでアプト式の展示や、機関車の屋外展示を行っている。

 ★ ★ ★

 

 「峠の釜めし」は、群馬県安中市松井田町にある「株式会社荻野屋」が製造・販売する駅弁。益子焼の釜に入った薄味醤油の炊き込みご飯。具は、鶏肉、ささがき牛蒡(ごぼう)、椎茸、筍、ウズラの卵、グリーンピース、紅しょうが、栗、杏(あんず)。プラスチック容器入りの漬物(キュウリ・ごぼう・小ナス漬けなど)が付く。

 長年変わらない素朴な味で、横川や軽井沢の近くに行くと、懐かしくて食べたくなる。

 土釜に入った「峠の釜めし」。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 荻野屋は1885年(明治18年)、横川駅の開業時に創業した老舗。初期の駅弁は、おにぎり2個にたくあんを添えたもの。戦後、国内の旅行者数が増えていく中、駅弁はどこも似たようなものだった。横川駅は碓氷峠を越えるため、ED42形電気機関車への付け替えが必要でホームに長時間停車する駅という好条件にもかかわらず、駅弁は飽きられていた。

 右が現在の荻野屋本店と左のJR横川駅。(写真の出典:Google)  

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 今から55年ほど前、荻野屋4代目社長の故・高見澤みねじは、自らホームに立ち、また停車中の列車に乗り込み、旅行者ひとりひとりの駅弁へのご意見を聞いて回った。そこで、彼女は「温かくて、家庭的な、楽しいお弁当が求められている」という結論に達した。これが新たな駅弁開発のきっかけとなり、1958年(昭和33年)益子焼の土釜に入った「峠の釜めし」が誕生した。

 当時の折り詰めという常識を破り、保温性にも優れた陶器で温かいまま食べられる画期的な駅弁は、文藝春秋に掲載されたことから徐々に人気商品となって、やがて爆発的に売れていく。1967年(昭和42年)には、フジテレビ系のドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)のモデルにもなった。

 さらにモータリゼーション進展を受け、1962年(昭和37年)国道18号沿いに「おぎのやドライブイン横川店」を開設。鉄道以外の販路へと展開していく。

 1997年(平成9年)9月30日限りで信越本線の横川 - 軽井沢間が廃止され、横川は終発着駅となる。横川駅での販売量は往時に比べて激減するが、長野行き新幹線の開通によって、高崎 - 軽井沢間にて「峠の釜めし」の車内販売を開始された。

 現在「峠の釜めし」を購入できる場所は、荻野屋の直営みやげ店や関連会社店舗、上信越道の横川サービスエリア、横川駅・軽井沢駅・安中榛名駅・長野駅・清里駅などの売店、東京駅・上野駅・大宮駅の駅弁専門店、北陸新幹線「あさま」の車内販売、碓氷峠鉄道文化むら・峠の湯のほか、百貨店などが開催する「駅弁フェア」などがある。

 関連ブログ記事「上信国境・鼻曲山」 2015/07/17投稿 
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-a08d.html

2017年7月22日 (土)

中山道の碓氷峠越え-その1

 7月16日(日)、中山道の三大難所の一つ「碓氷峠」越えのハイキング。
 
 

 江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道(なかせんどう)」。軽井沢駅(長野県軽井沢町)から「碓氷峠」(標高1,200m)を越え、横川駅(群馬県安中市)までのおよそ19Kmの山道を歩く。 

 中でも碓氷峠は中山道の三大難所の一つで、上州と信州の国境でもあった。現在でも群馬県と長野県の県境にあたる。江戸時代には、横川に関所も設けられていた。
 

 6:35、乗用車2台に6人が分乗して出発。関越道、上信越道を走り、松井田インターで降りる。

 7:50、JR横川駅の駐車場(無料)に到着。横川駅はJR信越本線の終点。

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 8:10発のJRバスで横川駅前出発。バスは、観光客や学生で満員。このバス路線は、1997年(平成9年)信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間の廃止に伴う代替輸送機関として運行している。運賃は510円。

 国道18号の碓氷バイパスを走り、30分ちょっとでJR北陸新幹線と「しなの鉄道」の軽井沢駅前に到着。8:45、軽井沢駅前からハイキング開始。

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 軽井沢駅から20分ほど歩いたところの旧軽井沢のメインストリート「軽井沢銀座商店街」(県道133号線)。この辺りが中山道の宿場だった。この先右手に、現在は軽井沢町観光会館になっている脇本陣「江戸屋」跡がある。

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 10分ほど歩くと、商店街も途絶え、木立に囲まれた道となり、9:20「つるや旅館」。

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 「つるや旅館」は、江戸時代初期に中山道街道筋の宿場町・軽井沢宿の休泊茶屋「旅籠鶴屋」として開業。明治以降は、数多くの文化人が宿泊した旅館として知られる。

 「つるや旅館」から100mあまり先の右手に、「芭蕉の句碑」がある。

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 1843(天保14年)に地元の門下生小林玉蓬が松尾芭蕉の150年忌に建立した。

 「馬をさへ なかむる雪の あした哉」

 雪が降り積もった白銀の朝、往来を眺めると様々な格好の旅人や馬さえも通って行く。

 芭蕉句碑の向かい側に、日本聖公会中部教区に属する軽井沢の教会「軽井沢ショー記念礼拝堂」が、木立の中に佇んでいる。

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  1886年(明治19年)、カナダ出身の宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーは、家族と訪れた軽井沢に魅了されてここを避暑地にし、また教会を設立する。これ以降、軽井沢が外国人の間で知られるようになり、その後別荘地として発展する。現在の礼拝堂は1895(明治28)年、軽井沢最初の教会建造物として建立。その後、修復を重ねながら今日に至る。

 信濃川水系の矢ケ崎川に架かる「二手橋(ふたてばし)」を渡り、その先で車道(県道133号線)と分かれて、9:38「碓氷峠遊覧歩道」に入る。碓氷峠見晴らし台へ向かう。

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 所々に別荘が点在する遊覧歩道の前半部は緩やかなハイキングコース。

 「野生動物(クマ)生息地域 熊は音に敏感で臆病です携帯ラジオ・鈴・仲間等の会話などで音をたてながら歩きましょう」

 の看板がある。 この看板はハイキングの途中、散見する。

 見晴らし台が近づくにつれて、道幅が狭くなり、つり橋や沢など自然豊かな道となる。9:52、吊り橋 を渡る。

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 やがて碓氷峠遊覧歩道は石畳の坂と丁字路となり、右折して上りつめると出発から2時間ほどの10:45、視界が開けた広場の「碓氷峠見晴台」に到着。 

 見晴らし台の入口に万葉歌碑があり、2首が刻まれている。

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 「日の暮(ぐ)れに 碓氷(うすひ)の山を 越ゆる日は 夫(せ)なのが袖も さやに振らしつ」 (巻14・3402 読人しらず、上野国の相聞往来の歌)

 (意味)碓氷峠を越える日は、夫が袖を目につくほどハッキリと振ってくれた。 「日の暮れに」は、碓井(うすひ)に掛かる枕詞。

 「ひなくもり 碓氷(うすひ)の坂(さか)を 越えしだに 妹(いも)が恋(こひ)しく 忘らえぬかも」 (巻20・4407 他田部子磐前、上野国の防人)

 (意味)碓氷の坂を越えるときに、国に置いてきた妻が恋しくて忘れられない。 「ひなくもり」は、日が曇った薄い日差し、薄い(碓氷)に掛かる枕詞。
 

 広々とした「見晴らし台」にある長野県と群馬県の県境、昔の信州と上州の国境。

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 見晴台から望む南西方向は奇岩の山「妙義山」(標高1103m)。北東に活火山の「浅間山」(2568m)が迫る。

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 天気が良ければ、八ヶ岳や北アルプスなども一望できるそうだ。

 「見晴らし台」にある「詩聖タゴールの碑」。アジアで初めてノーベル賞(文学賞)を受賞(1912年)したインドの詩聖タゴールの生誕120年を記念して建立された。

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 1916年(大正5年)に軽井沢を訪れた。日本には3度来日、日本の自然美を愛し、第1次世界大戦や日本の軍国主義を批判、平和主義を説いた。1941年(昭和16年)、80歳で逝去。

 

 石畳の坂を下ると、車道(県道133号線)と合流。車が通る道路沿いには、名物の「峠の力餅」を売る茶屋が数件ある。店の外にあるメニューを見ると、ひと口サイズの餅を餡子、黄な粉、大根おろし、ごま、くるみ等で包んであって、一皿に10個ほどで500円くらい。

 9:12、車道の左手にある「熊野神社」に到着。本宮が群馬と長野にまたがる珍しい神社。かつて多くの旅人達が、ここで旅の安全を祈った。 参道入口には大きな「安政遠足(とおあし)決勝点」の看板が立つ。※「安政遠足」については、後述。

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 参道石段の中心に県境があり、一つのお宮ではあるが、2つの宗教法人の神社となっている。

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 県境の左側が長野県で「熊野皇大神社」、右側が群馬県で「熊野神社」。それぞれの宮司、役員、氏子代表で維持されているという。拝殿の賽銭箱も、県境を挟んで2つある。

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 「熊野皇大神社」境内に、県天然記念物樹齢800年の御神木シナノキがある。

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 陶器製のヤタガラス(八咫烏)に入ったおみくじ(500円)を引くと、”大吉”。

 ヤタガラスは、日本神話で神武天皇を紀州熊野から大和橿原まで導いたという三本足の烏(カラス)。ここ熊野神社では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折り、碓氷峠で濃霧にまかれたときヤタガラスが峰へ導いたことから、熊野大神を祀ったのが由緒。

 11:20~境内で、コンビニおにぎりの昼食。11:45、熊野神社を出る。

 左右に茶屋を見ながら車道を100mほど進むと、狭い山道の下り坂 。

 

 この先、碓氷峠から横川駅までは、

 本ブログ記事「中山道の碓氷峠越え-その2」につづく。

 

 ★ ★ ★

 「中山道」は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道。草津宿で東海道と合流する。本州の東海岸沿いの南回りの「東海道」に対し、北回り中央部山脈の間を貫通する。67箇所の宿場が置かれ、距離は135里(約530km)である。

 距離にして東海道よりも約40kmほど長く、宿場も16宿多い。宿場数が多かったのは、険しい山道が多いうえ、冬場は寒さも厳しく、降雪時に通行が困難であったため。東海道は大井川などの川留めや箱根峠などの難所が多いうえ、幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったので、遠回りルートであった中山道を歩く旅人も多かったそうだ。

 

 「安政遠足(あんせいとおあし)」は、1855年(安政2年)安中藩主・板倉勝明が藩士の心身鍛錬の目的のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の「熊野権現」(熊野神社)まで7里余りの中山道を走らせた徒歩競走。総走行距離は30Km程度ながら、最終的にスタートとゴールの標高差は1000m以上ある。

 その記録が1955年(昭和30年)、碓氷峠の茶屋から発見された。これは走者に意義を持たせることが目的で、順位やタイムは重要視されていなかったという。ゴールした者には力餅などがふるまわれたそうだ。

 安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられている。「日本最古のマラソン」として藩主の偉業を後世に伝えるため「安政遠足保存会」を組織、1975年(昭和50年)からは「安政遠足 侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されている。仮装をしながら走れることが特徴。

2017年7月19日 (水)

小田原と熱海の旅

 6月28日(水)~29日(木)、1泊2日の小田原と熱海の旅。
 
 
 【6月28日(水)】 乗用車2台に9人が分乗、最寄駅前を9:45出発。

 関越道、圏央道、東名高速を経て、小田原厚木道路の小田原西インターを出て国道1号線を走る。

 

 12:00、小田原城址公園に入場。

 小田原城は、戦国時代は北条氏(後北条氏)の拠点、江戸時代は小田原藩の藩庁。城跡は、国の史跡に指定。

 1971年(昭和46年)に再建した常盤木門(ときわぎもん)をくぐると、本丸。

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 小田原城の天守閣ちかくにそびえるクロマツの巨樹。樹高30m、 幹回り5.3m。

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 天保年間(1830~1844)に書かれた史料には「御本丸多聞櫓(たもんやぐら)の近き方に七本松という老松あり」と記されていて、この松はその1本とされる。倒木防止の鉄骨に支えられて痛々しい。

 天守閣は、1960年(昭和35年)市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興された。江戸時代に造られた模型や設計図を基づき外観を復元、内部は歴史資料の展示施設となっていて、「外観復元天守」に分類される。

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 天守閣は3重4階、付櫓(つけやぐら)を接続した複合天守。地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822㎡。

 天守閣に入館(入館料500円)。甲冑、刀剣、絵図、古文書など小田原の歴史や、武家文化に関する資料が展示。

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 江戸時代の小田原城ジオラマ模型と本丸の図面。

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 北条氏の領土拡大の図。緑の線は、初代の北条早雲の頃。オレンジは、5代北条氏直の時の関八州(現在の関東地方)240万石とされる最大版図。(ダブルクリックで拡大表示)

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 最上階に上がり、標高約60mから南の方角を望む。

 右手に伊豆半島、半島の先端が真鶴岬。左手に相模湾が一望。伊豆半島は霞んでいて良く見えない。

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 北の方角は、眼下の小田原駅。遠く丹沢山地も見えない。

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 13:00、小田原城址公園を出る。

 

   国道1号線(旧東海道)沿い、なんとお城のような外観の和菓子店、「ういろう」本店(小田原市本町)に立ち寄ってみる。

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 この日は水曜で、「ういろう」本店は定休日。

 「ういろう」本店のすぐ近く、国道1号線沿いの「柳屋ベーカリー」」(小田原市南町)に、13:20入店。大正10年創業というレトロな建物と店内の老舗のパン屋。

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 ショーウィンドウには、10種類の薄皮アンパンのサンプルと有名人のサイン。

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 昼食用に「大正金時」と「つぶし」の2種類の薄皮アンパン。ジャムパン、カレーパン、メロンパンなどの普通のパンもある。

 このパン屋の近くに「筋違橋町(すじかいばしちょう)」の石碑が建っていた。筋違橋町は、江戸時代は旅篭屋が並ぶ東海道筋の通り町9町の一つ。


 13:40、小田原城址公園の駐車場を出て、JR熱海駅の東北1.5Kmほどにある「伊豆山神社」(熱海市)に向かう。

 14:30、伊豆山神社の 駐車場に到着。伊豆山神社は、古くは「走湯(そうとう)大権現」、「伊豆山権現」とも呼ばれ、平治の乱によって伊豆国に配流された源頼朝と北条政子が崇敬した神社。 駐車場から、長い石段を登る。

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 本殿までの参道は、本来は伊豆山浜から837段もの石段を上るハードなものだそうだ。そのため、我々のように本殿のすぐ下の駐車場から、約170段ほどを上るのが一般的。

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   茅の輪(ちのわ)をくぐり、本殿に参拝。

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 頼朝と政子が平家打倒を祈願し、二人の逢瀬の場としても有名な神社。強運守護のほか、縁結びや恋愛成就の神様として人気があるそうだ。
 
 頼朝と政子が腰掛けたという「腰掛石」。

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 本殿の裏山、1時間の山道を登ると「本宮」(奥の院)もある。

 ※「伊豆山神社」の詳細については後述。
 

 15:20 伊豆山神社の駐車場を出て、熱海の市街地へ。予定の大正時代の建築物「起雲閣」も休館日。

 とりあえずホテルにチェックインすることに。

 

  15:50 、国道135号沿いの大江戸温泉物語「ホテル水葉亭」(熱海市伊豆山)着。

 ロビーは6階、部屋は2階~11階。レストランが1階、浴場は地下1階にある。ロビー、客室、大浴場からは、相模灘の絶景が眼下に広がるオーシャンビュー。

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 大江戸温泉物語株式会社(本社:東京都中央区)は、熱海の老舗ホテル「水葉亭」(1951年開業)を昨年2016年9月に取得、リニューアルして2か月前の2017年4月28日にオープンした。

 ホテルロビー(6階)の窓から、熱海温泉のホテル街を望む。

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 ホテルの客室に荷物を置き、16:25熱海駅前まで散策する。

 ホテルからすぐ、国道135号沿いに「秋戸郷(あきとのごう)跡」の石碑が建っている。秋戸郷は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所。

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 ※「秋戸郷」の詳細については後述。

 16:45、徒歩20分ほどでJR熱海駅前に到着。

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 駅改札の左手に「ラスカ熱海店」のおみやげ・食品売り場。 

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 駅前の正面に第一ビルのアタミックス名店街、右手にはアーケードの仲見世商店街と平和通り商店街がある。目当てのお土産、饅頭と大福は日持ちが短いので、明日買うことにする。

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 駅前の広場ににある熱海鉄道の蒸気機関車。東海道本線が開業する前、小田原と熱海の間を結んでいたレールの幅も小さい軽便な鉄道線。明治40年~大正12年まで走っていたそうだ。

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 駅前のアーケード「平和通り名店街」をぶらぶら歩く。

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 帰りはホテルの送迎バスで17:20駅前発、5分でホテルに着く。

 入浴後、18:50~20:30飲み放題のバイキング。21:55~23:50カラオケ。24:00頃就寝。

 

 

 【6月29日(木)】 5:50、起床。1階の庭に出て、離れの露天風呂に行ってみる。オープンな露天風呂から広がる相模湾の眺めは素晴らしい。

  7:40~1階レストランで朝食バイキング。

 9:00、送迎バスでホテル出発。

 前日に行ったJR熱海駅駅ビル「ラスカ熱海店」で、「石舟庵」の石舟庵饅頭(8ケ入)864円と塩豆大福(2ケ入)400円。

 

 9:55送迎バスでホテルに戻り、10:30 ホテルを車で出発。真鶴へ向かう。
 

 11:15、真鶴半島の突端「真鶴岬」(神奈川県真鶴町)に到着。

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 磯辺まで降り、名勝の「三ツ石」を見る。

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 三ツ石海岸を見ると、この真鶴半島が溶岩で出来ているのがよく分かる。真鶴海岸は、「箱根ジオパーク」の一部。明らかに、伊豆半島の地形とは異なることに気づく。

 ※「箱根ジオパーク」の詳細については後述。

  11:50、 真鶴岬を出発、 国道135号線を戻り、福浦漁港」(静岡県湯河原町)へ。12:05、海鮮食堂「みなと食堂に入店。

 福浦漁港と漁港にある「みなと食堂」。

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 しめさばの刺身680円(税抜き)。

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 金目鯛煮付定食(金目鯛煮付、サザエ刺身、地魚フライ)2,300円(税抜き)。新鮮さ、ボリューム満点。

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 13:00「みなと食堂」を出て、再び真鶴駅から真鶴岬へ向かう道沿いへ。

 創業60余年という干物の店「二藤商店」 に13:10~20。特上あじ280円×4枚購入。

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 135号線沿い西湘バイパスの手前。蒲鉾で有名な「鈴廣」の石橋店(小田原市石橋)に、13:40~50立ち寄り。

 14:00、前日は定休日だった小田原市のお城の「ういろう」本店へ入店。

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 小田原銘菓「ういろう」、1本648円。室町時代から続く米粉の蒸し菓子。

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 「ういろう」は元々、外郎(ういろう)家が作る薬のことを言っていた。その後、接客用に考案された米粉の蒸し菓子のことを「お菓子のういろう」と呼ぶようになったそうだ。

 店内に入ると、観光客が数人。和菓子を売っている横に薬局が併設されている。

 薬の「ういろう」は、別名「透頂香(とうちんこう)」という万能薬。仁丹と良く似た形状・原料で、元々は中国の王が被る冠の匂い消しに使われていたと言われ、日本に伝来した600年以上前から外郎家が代々変わらぬ製法で作られている。他の薬局や通販では販売していない。

 ※「ういろう」の詳細については後述。
 

 前日に行った近くの「柳屋ベーカリー」に寄るが、もう午後2時を過ぎている(閉店は午後4時)せいか、薄皮アンパンはだいぶ品薄、一部は売り切れで買うのをあきらめる。

  14:15、「ういろう」本店の駐車場を出て、帰路は小田原厚木道路を経て、往路を逆順。

 17:00出発地に到着、17:30自宅着。

 

 ★ ★ ★

●伊豆山神社

 頼朝に始まる鎌倉将軍は、毎年正月の恒例行事として、「伊豆山権現」 (伊豆山神社 ) と「箱根権現」 (箱根神社) に参詣するという「二所詣(にしょうもうで)」を行った。

 戦国時代には小田原の後北条氏の格別の崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失した。江戸時代に入ると、山麓の阿多湊(熱海)が湯治場として名が知られ、焼失していた社は再建、代々の徳川将軍にも崇敬されて多くの寄進を受け興隆がはかられた。明治になって、神仏分離令によって「伊豆山神社」と改称。

 本殿の裏手にある「伊豆山郷土資料館」は、残念ながら水曜は休館日。ここ資料館には、伊豆山神社の所蔵品を中心に伊豆山地区に代々伝わる郷土資料を展示。中でも、北条政子が頼朝の一周忌の日に自らの髪の毛を除髪してこれを刺繍し、伊豆山権現の法華堂に飾ったという「頭髪梵字曼荼羅(とうはつぼんじまんだら)」(複製)が展示されているそうだ。

 伊豆山神社は、本殿からさらに山道を登り、「本宮」まで行ってこそが本当の参拝といわれている。本殿の右奥には「白山神社遥拝所」があり、山中の「白山神社」を遥拝するために設けられた場所だが、伊豆山神社の「本宮」への登り口にもなっている。
 
 「本宮社」までの所要時間は約1時間ほどで、今回はとても時間がない。途中の病気平癒、厄難消除の神様の「白山神社」までは約20分、縁結びを叶えてくれる神様「結明神本社」までは約40分ほどかかるそうだ。(写真のダブルクリックで拡大表示)

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 ●秋戸郷

 1180年(治承4年)8月、源氏再興のため挙兵をした源頼朝は、伊豆国の目代(もくだい=国司の代官役)の山木兼隆を討ち、伊豆国を制圧して相模国へと進軍するが、石橋山の戦いで敗北。数日間山中をさまよった後、真鶴から船出して安房(現、南房総)へと脱出した。

 その間、北条政子と娘大姫は走湯山(伊豆山)に隠れ住んで頼朝の安否を気づかっていた。9月になって、伊豆山権現の別当(寺務を司る僧職)の文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の計らいによって、平氏の手から逃れるため政子らは密かに秋戸郷に移動した。

 秋戸郷は走湯山の神域の東南隅に位置し、浜の方からしか入れないうえ船着場も近い。神域に護られ、平氏方の追っ手をくらませることが出来た。それから1ヶ月後、多くの関東武士の支持を得た頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷を発った政子は頼朝と再会を喜び合った。

 

●箱根ジオパーク

 「箱根ジオパーク」は、2012年(平成24年)9月に日本ジオパークに認定。神奈川県西部の小田原市、南足柄市、箱根町、真鶴町、湯河原町の2市3町が位置する箱根火山周辺地域である。この地域は、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北米プレートの3つのプレートが重なり合う位置にあり、火山から噴出した溶岩流や火山灰などは多様な火山地形を造り出している。

 山間部には箱根に固有の動植物が生息し、豊かな自然環境に恵まれ、この地域に散在する温泉の恵みは、古くから人々に享受されている。 また、温暖な相模湾に面して、魚種も豊富で古くから漁業が盛んである。

 

●ういろう

 14世紀の中国で、元が明に滅ぼされたとき、筑前博多に亡命した陳延祐(宗敬)は、陳外郎と名乗り、医術や占いに従事していた。外郎(ういろう)は、中国での官職名・礼部員外郎(れいぶいんがいろう)から取った。その子、外郎宗奇が足利義満の招きで朝廷に仕えて家伝の外郎(ういろう)薬を献上、また外国使節の接待に菓子「ういろう」を自ら考案した。

 小田原外郎家は、京都の外郎家の分家として、1504年(永正元年)には北条早雲の招きで小田原に移住した。家祖は外郎宇野藤右衛門定治(定春、ういろう・うのとうえもん・さだはる)で、本家4代目の外郎祖田の子とされる。

 以後小田原外郎家は、京都の本家とともに外郎薬の製造を代々行ってきたが、後北条家滅亡後は、豊臣家や江戸幕府においても保護がなされ、後に本家が衰亡した後は、独占的に外郎薬を製造するようになり、現在に至っている。

 現在、全国にある菓子「ういろう」の中では、名古屋ういろうの知名度が高い。江戸時代から日本各地にういろうの製法が広まり、製造販売が行われるようになっていて、現在でも各地の名物となっている。ういろうの発祥にはそれそれの伝承が存在し、原材料や製法は地域や製品によって、見た目や味、食感は様々である。

 小田原外郎家のパンフレットによると、今日全国に展開する菓子「ういろう」は、この京都外郎家に仕えた職人が拡げたものが、その起源だと主張している。小田原外郎家はういろうの元祖との自負から、「ういろう」の商標登録について特許庁を相手に裁判を起こしたが敗訴した。

 小田原以外の菓子「ういろう」は、全国各地に次のようなものがある。

 名古屋は、うるち米からできる米粉を主原料とする。老舗「青柳総本家」は、1879年(明治12年)創業。「青柳」の屋号は旧尾張藩主・徳川慶勝から贈られたという。1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、「青柳ういろう」は車内販売によって全国的に知られるようになり、日本一の販売量を誇る。

 また1659年(万治2年)創業、名古屋の「餅文総本店」は、尾張藩第2代藩主の徳川光友に仕えた陳元贇(ちんげんひん)から製法が伝えられたとの伝承があり、名古屋ういろうの元祖だとし、「献上ういろ」などを製造販売している。「大須ういろ」は1949年(昭和24年)の創業、「ういろ」や「ないろ」等の名称で製造販売している。

 三重県の伊勢ういろうは小麦粉素材、黒砂糖を用いたういろう。伊勢神宮前の「虎屋ういろ」、「柳家ういろう」、多度大社前の「丸繁」などがある。伊賀ういろうは、米粉に餅粉が含まれ、江戸中期創業の「かぎや餅店」と明治末期創業の「いせや」。

 京都では、1855年(安政2年)創業の「五建外良屋(ごけんういろや)」が「五建ういろ」を製造販売。また一般的に、茶席などで提供されるういろう皮で餡を包んだ上生菓子、ういろうに大納言小豆を載せた「水無月(みなづき)」、ういろうを使った「ちまき」などが作られている。

 神戸の歴史ある長田神社商店街にある「長田のういろや」は、1877年(明治10年)から「ういろ」を作り続けている老舗。米粉と砂糖と葛粉を使用。

 山口のういろうは、ワラビの粉に砂糖を加え、蒸して作られる。室町時代に秋津治郎作が製法を考えたとする説があるが、明らかではない。県下では山口市や岩国市のほか多くの地域で作られており、ういろうが名物の県として知られる。

 徳島では、「阿波ういろ」と総称される。寛政年間(1789年~1800年)にサトウキビ栽培が伝わり、それをもとに作られた砂糖の一種「阿波和三盆糖」が出来た祝いとして、徳島藩主や領民たちが旧暦3月3日の節句のときに食したのが始まりとされる。

 宮崎では、1877年(明治10年)頃から旅館を営んでいた鈴木サトが売り始め、やがて観光地・青島の名物となった。最近では地元の日向夏や宮崎マンゴー入りも販売されている。

 関連ブログ記事「小田原方面の旅」 2015年6月28日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/625-2421.html   

2017年6月25日 (日)

映画「家族はつらいよ2」

 6月21日(水)、映画『家族はつらいよ2』を観る。

 

 山田洋次監督の国民的映画『男はつらいよ』シリーズが終了してから20年以上が経つ。山田監督が取り組んだ本格的ホームコメディ・ドラマ『家族はつらいよ』の2作目。

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 橋爪功と吉行和子が、熟年離婚の危機を迎えた夫婦を演じた『家族はつらいよ』の続編。3年前の『東京家族』で演じた西村雅彦×夏川結衣、中嶋朋子×林家正蔵、妻夫木聡×蒼井優 が、前回、今回もそれぞれの夫婦で配役。 

 父親の運転免許返上の問題をめぐって家族の騒動が起こるが、運転中に故郷の同級生に偶然再会。その同級生が来訪し、新たな大騒動を引き起こす。

 映画のパンフレットの表紙。

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 離婚騒動から数年後、周造はマイカーでの外出をささやかな楽しみにしていたが、最近車に傷が目立ち始めたことを長男の妻・史江(夏川結衣)が気付く。高齢者の危険運転を心配した家族は、周造から運転免許を返上させようと画策する。

 しかし、頑固なオヤジをいったい誰が説得するのか。嫌な役回りを兄妹夫婦でなすりつけ合う。そんな家族を見透かした周造は、「いつの間に俺の家族は言いたいことも素直に言えなくなってしまったんだ!もう崩壊しているな、この家族は!」と大激怒。「俺は死ぬまで車を運転する!」と宣言する始末。平田家は、またもや不穏な空気に包まれる。

 そんなある日、富子(吉行和子)が海外旅行に出かけることになり不在に。つかの間の独身生活を楽しむ周造は、お気に入りの居酒屋の女将・かよ(風吹ジュン)を食事に誘い、車を走らせる。その途中、道路工事の現場で交通整理に汗を流す高校時代の同級生・丸田吟平(小林稔侍)と偶然再会する。

 その直後にダンプカーと追突事故を起こしてしまうが、かよの機転の利く対応で事なきを得る。しかし、長男夫婦に交通事故と女性とのデートがバレてしまい、大喧嘩に。

 同級生の丸太は、大きな呉服屋の跡取り息子。高校時代は背が高くてサッカー部のゴールキーパー、女子生徒にモテた。男子生徒の憧れのマドンナと結婚、その後離婚や事業の失敗、だまされて保証人になり借金に追われる生活で音信不通に。今や独り身で、貧しく寂しい生活を送っていたのだった。

 周造は丸太のために同窓会を開き、四十数年ぶりに一緒に酒を飲み、酔っぱらった丸田を自宅2階の留守中の富子のベッドに泊める。翌朝、周造の免許返納について家族会議を開くため、長男・幸之助(西村雅彦)が招集した兄妹夫婦たちが集まった。ところがなんと、泊まっていた丸太が血を吐いて息を引き取っており、平穏な住宅街に救急車や警察がやって来て、平田家は大パニック・・・。

 映画のパンフレットから転載。

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 ★ ★ ★

 前回は探偵事務所の小林稔侍は、貧しい孤独老人の役。特別出演の笑福亭鶴瓶と演歌歌手・徳永ゆうきは、チョイ役で出演。刑事役の劇団ひとりと新米巡査の藤山扇治郎(藤山寛美の孫)は、初出演だった。

 高齢者ドライバーの問題から端を発して、老々介護、老人の孤独死などのいわゆる高齢化社会の問題点が浮きあがって来る。前回の「熟年離婚」に続いて、「無縁社会」というテーマを背景に、平田家の大騒動、大喧嘩の可笑しさに、劇場の中は私を含め観客も大爆笑だった。丸太という男を通じて、悲哀とか哀愁を感じながら・・・。

 今回も庄太(妻夫木聡)の妻・憲子(蒼井優)が、このストーリーのキーパーソン。ドタバタ家族の中でも、一番しっかりしていていて良識もあるまともな人物。看護師をしている。しかし憲子の家族は大変だ。憲子の実家の母親は、寝たきりの認知症の祖母を引き取り、保険営業の仕事をしながら介護をしている。別れた父親は、ペースメーカーをつけているのに酒好き、医者嫌い、博多でひとり暮らしという孤独老人。家族から見放された老人の孤独死は、憲子にとっては他人事ではないというのが伝わって来る。

 やっぱり憲子役の蒼井優には、山田監督が尊敬する小津安次郎監督の映画『東京物語』、紀子役の原節子をイメージしてしまう。
 

 周造役の橋爪功は1941年9月生まれの75歳と、ちょうど後期高齢者。免許更新時に認知機能検査や高齢者講習の受講などがあり、映画と同じくそろそろ免許返上の年代か。富子役の吉行和子は、映画ではとても70歳前後くらいにしか見えないが、なんと1935年8月生まれの81歳。80代にしてまだまだ現役女優として活躍しているのは凄い。

 1931年9月生まれで85歳の山田洋次監督には、家族コメディシリーズの3作目『家族はつらいよ3』も期待したい。

 

 

 本ブログの関連記事は以下の通り。

 映画「東京家族」 2013年2月9日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1fb5.html

 映画「家族はつらいよ」  2016年4月7日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-009d.html

2017年6月24日 (土)

大分・豊の国探訪の旅-その3

 5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その2」の続き。

 【3日目】は、八幡神社の総本宮「宇佐神宮」と古代仏教文化の里「国東半島」をめぐる。

 

 5月28日(日)朝、「ホテルルートイン中津駅前」にて起床。6時45分からホテル内のレストランで朝食バイキング。

 7時15分、ホテルを早めに出発、国道10号線を東へ走る。宇佐神宮の4kmほど手前の赤い橋「瀬社橋」から上り坂、その頂上付近に御幡交差点がある。そこで、事前に申し込んでいた宇佐市観光協会の観光ガイドWさんと、7時50分に合流。

 ガイドの案内でここから10号線を外れ、天皇から派遣された勅使が通ったという細いまっすぐな道(勅使街道)を2Kmほど進む。この道は宇佐神宮の「呉橋」、「西参道」に通じる。

 

●極楽寺 -宇佐市南宇佐

 まず、宇佐神宮のすぐ近くにある「極楽寺」に入る。宇佐神宮の神仏習合の歴史を知る上で、非常に重要なお寺だそうだ。

 極楽寺の弥勒堂に安置されている「弥勒大仏」は、かつては「宇佐八幡宮弥勒寺」の講堂の本尊仏だった。明治の廃仏毀釈騒動の時に難を逃れ遷座。県の有形文化財に指定。

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 現地の案内板には以下のようにあった。

 「元宇佐神宮境内にあった弥勒寺講堂の本尊仏であったが、明治初年の神仏分離令によりこの極楽寺へ招来された。 弥勒仏は正しくは弥勒菩薩であるが、五十六億七千万年後に如来(仏)となることが確定されているので、弥勒仏(如来)と称され、仏像としても如来像としても作成される。 本像は丈六(一丈六尺、筆者注=約4.8m)の大仏である。」


●宇佐神宮 -宇佐市南宇佐

 宇佐神宮は、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社、通称「宇佐八幡」。「石清水八幡宮」、「筥崎宮」又は「鶴岡八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」の一つ。祭神の八幡大神(はちまんおおかみ)は、応神天皇の神霊とされる。宇佐神宮は、神仏習合発祥の地。神仏分離以前は弥勒寺と一体のものとして、「宇佐八幡宮弥勒寺」と称した。参拝料無料。

 極楽寺から表参道入口を経て、8時30分寄藻川(よりもがわ)に架かる太鼓橋の「神橋」を渡る。

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 神橋を渡ると「大鳥居」が見え、広くてまっすぐな「表参道」が続く。

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 大鳥居の手前右側に「黒男(くろお)神社」がある。御祭神は、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)。景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と5代の天皇に240余年もの間、忠臣として仕えた伝説上の人物。古くから大鳥居の外に鎮座、八幡大神をお護りしている長寿、忠誠、奉仕などの神様。

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 大鳥居をくぐり長い表参道を進むと、右手に宝物館、初澤池(はつさわいけ)、参集殿、神宮庁、左手に絵馬堂、菱形池、能楽殿があって、8時50分手水舎(てみずや)でお清め。

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 手水舎の先、右手の「春宮(とうぐう)神社」には、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祀る。応神天皇の皇子を祀る2つの摂社の一つ。

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 勉学に励んだことから学問の神様として敬われている。菟道稚郎子は応神天皇に寵愛され、皇太子に立てられていたが、異母兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、仁徳天皇)に皇太子の座を譲った。

 参道は、「祓所(はらえど)」で左に曲がり、本殿がある「上宮(じょうぐう)」のある亀山(小椋山(おぐらやま)ともいう)に向かって上る。
 
 写真は、うっそうとしたイチイガシやクスノキの自然のままの常緑広葉樹林(国指定天然記念物)に囲まれた石畳、石段の参道から、上り口にある鳥居を振り返る。

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 「若宮神社」の手前の参道に、三角形の石が二つ並ぶ「夫婦石」がある。夫婦やカップルは、手をつないで左右の石を一緒に踏む、独り身なら両足で二つの石を踏むと幸せになれるそうだ。

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 参道の左手にある「亀山神社」は、上宮が鎮座する亀山の中腹に鎮座。祭神は亀山の神の大山積尊(おおやまつみ)。ガイドに言われてこの神社の礎石をよく見ると、亀の形をしていた。

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 「西大門」前に建つ木造の鳥居「宇佐鳥居」は、県指定有形文化財。宇佐古来の形式をもつ鳥居として知られる。大きい反りのある笠木(かさぎ、2本の柱の上の横木)に桧皮葺(ひわだぶき)の屋根をかけ、額束(がくづか)はなく、柱上に台輪(だいわ)を置いている。大鳥居をはじめ、他の宇佐の鳥居もすべてこれと同じ形式。写真は、2016/1/26撮影。

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 文禄(1592年~)のころ改築されたとされる「西大門」は、唐破風(とうはふ)に安土桃山風の彩色を施した構造で桧皮葺。

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 西大門をくぐると亀山山頂に鎮座する立派な「上宮(じょうぐう)」に到着。目の前に見える建物は、左から一之御殿、二之御殿、三之御殿の本殿を囲む回廊である。拝礼は一般的な2礼2拍手1礼でなく、出雲神社と同じく2礼4拍手1礼。三御殿に参拝する。

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 三之御殿前にそびえる推定樹齢800年のクスノキは、御神木(写真右手)。EXILEのUSA(うさ)さんが祈願、テレビ番組で紹介されてパワースポットになった。

 回廊の中の本殿は、よく見えなくて写真が撮れない。写真下は、(公社)ツーリズムおおいた「おおいた風景写真集」より転載。

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 宇佐神宮の本殿は、八幡造(はちまんづくり)という古来の様式を今に伝える貴重な建築として国宝に指定。二棟の切妻造平入の建物が前後に接続したマクドナルドの”M”の字の形をしている。両殿の間に大きな黄金の雨樋(あまどい)が渡されているという。桧皮葺(ひはだぶき)で、白壁、朱漆塗柱の美しい建物が並んでいる。

 本殿の奥殿を「内院」、前殿を「外院」という。神様の夜のご座所である内院には御帳台(みちょうだい、寝所)があり、昼のご座所である外院には御椅子が置かれているそうだ。

 一之御殿は、八幡大神(はちまんおおかみ、応神天皇)を祀る。

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 「南中楼門」は、皇族や勅使が通る門。入母屋造り檜皮葺の重厚な造りで、二之御殿の前にある神宮内郭の南正門。県指定有形文化財。

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 南中楼門の奥にある二之御殿は、比売大神 (ひめのおおかみ)を祀る。宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)ともされる。

 三之御殿は、応神天皇の母である神功(じんぐう)皇后を祀る。

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 現在の本殿は、一之御殿は1860年(万延元年)、二之御殿1859年(安政6年)、三之御殿1861年(文久元年)の建立。

 上宮から下宮に向かう途中に「若宮神社」がある。八幡神の応神天皇の若宮(皇子)である大鷦鷯命(おほさざきのみこと、仁徳天皇)と他の皇子を祀り、除災、厄除けの神様として知られる。写真は2016/1/26撮影。

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 亀山の山麓に鎮座する「下宮(げぐう)」は、弘仁年間(810年~824年)、嵯峨天皇の勅願により創建。上宮からの分祀で、祭神は上宮と同じ3柱。

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 古代から国家の大事を決する時、「若宮神社」の拝殿で亀占(きせん)を行っていた。その時に用いた亀甲を焼いたものを、この下宮境内の「兆竹(さましだけ)」を用いて「”冷ました”とされている。

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 写真下は、古くは壮大な「弥勒寺」という神宮寺が、廃仏毀釈により取り壊され、礎石のみが残っている。

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 かつて弥勒寺があった境内は、八坂神社や北側には神宮庁(社務所)と宝物館が建っている宇佐神宮境内の西側一帯だった。

 呉橋くればし)は西参道の途中、寄藻川に架かる屋根のついた神橋。鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承がある。県指定文化財。

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 この橋は、10年に1度、勅使のみが渡ることが出来る。普段は橋の両端の扉に、鍵が掛けられている。

 宇佐神宮を10:10分に出て、3Kmほど北にある「県立歴史博物館」へ向かう。


 

●県立歴史博物館(宇佐市大字高森字京塚)

 「県立歴史博物館」に10時15分着。九州最古の前方後円墳など6基の古墳群を有する「宇佐風土記の丘」内にある歴史博物館。

 宇佐神宮や国東半島の六郷満山(ろくごうまんざん)の八幡・仏教文化などを中心に、大分の歴史・文化を体系的に展示。観覧料金310円。

 写真は、博物館ロビーにある熊野磨崖仏(大日如来像)の複製。

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 「富貴寺大堂」の実物大の模型。中央に阿弥陀如来坐像が見える。

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 富貴寺大堂に安置されている木造の阿弥陀如来坐像と壁画の複製。

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 博物館の観覧チケットには、富貴寺大堂の壁画、極楽浄土の世界が描かれている。

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 時間の都合でこれら展示以外の見学は簡単に済ませ、博物館を10時55分に出て東進、国東半島の豊後高田市へ向かう。


●富貴寺(ふきじ) -豊後高田市田染蕗(たしぶふき)

 国東半島の県道34号線を桂川に沿って東に向かう。やがて桂川支流の蕗(ふき)川に沿って分岐し、3kmほど道なりに進むと県道655線との合流点付近に富貴寺がある。博物館から車で走ること25分、11時20分に「富貴寺」に到着。

 石段を上ると、ユーモラスな石造の仁王像のある仁王門。拝観料300円。

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 「富貴寺大堂」は、近畿以外に所在する数少ない平安建築の一つで国宝。

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 本尊の木造阿弥陀如来坐像は、榧(かや)の木の寄木造り、平安時代藤原期の作で、極楽浄土の大堂壁画と合わせて国の重要文化財。富貴寺境内全体は、国の史跡に指定。

 歴史博物館で見た富貴寺大堂、壁画、阿弥陀如来坐像の実物を目の当たりにする。

 堂の中は、撮影禁止。下の写真、阿弥陀如来坐像は「豊後高田市フォトギャラリー」より転載。仏像の金箔は剥がれ、壁画の彩色は失われている。

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 富貴寺大堂の境内には、貴重な石仏や石塔が建っている。南北朝時代とされる十王石仏と一番右端によく見えないが奪衣婆(だつえば)の石仏がある。

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 十王は、中世以降に国東半島に持ち込まれた信仰で、閻魔(えんま)大王をはじめとする地獄の裁判官。大堂壁画の極楽浄土の世界と対比して安置されたと考えられる。奪衣婆は、三途の川の渡し賃を持たない亡者の衣服を奪い、罪の重さを量る仏様。

 笠塔婆(かさそとば、左の写真)4基は、鎌倉時代に立てられたと伝えられる。県指定有形文化財。国東塔(くにさきとう、右の写真)は、国東半島独特の宝塔の一種。一般の宝塔には台座がないが、国東塔は基礎と塔身の間に蓮華座の台座があるのが特徴。

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 富貴寺の門前の食事処「榧(かや)の木」で昼食。山かけそば750円。富貴寺前を12時25分に出発、県道655号を南下する。

 
 

●元宮磨崖仏と大門坊磨崖仏 -豊後高田市真中

 計画外だったが、観光ガイドの案内で富貴寺から3.4Kmの県道655号沿いの右手にある「元宮磨崖仏」に立ち寄る。12時30分着。

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 不動明王を中心として、凝灰岩の岩壁に6体の仏像が薄肉彫りで刻まれていたが、1体は欠損しているという。国の史跡に指定。室町時代の作とされる。風雨をさけるための比較的新しい屋根が設けられていて、賽銭箱、香炉、花立てなどが設置されていた。

 元宮磨崖仏から更に県道655号を500mほど進むと、右手に「大門坊磨崖仏」がある。

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 豊後高田市真中の大門坊という寺院の境内の凝灰岩の岩壁に、薬師如来、大日如来など数体の仏像が刻まれている。日当たりが悪いせで苔が生え、雨ざらしの状態で風化が進んでいる。よく見ないと、どこに仏像が彫ってあるのか分からない。制作年代は、鎌倉期と推定。大門坊磨崖仏を12時45分に出る。



●真木大堂 -豊後高田市田染真木

 更に県道655号を南下し、富貴寺より5.2Kmの県道沿い右手に「真木大堂」がある。12時45分着。

 古刹「伝乗寺」は、六郷満山の最大規模の本山本寺で、多くの学僧を集めた学問所、平安時代に建てられた。広大な境内の中に、七堂伽藍を備えて田染地区だけでも36の寺坊があって隆盛を誇ったが、約700年前に焼失したそうだ。

 写真は、ウィキベディアコモンズ「真木大堂」から転載。

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 現在の「伝乗寺」の本殿。木造の仁王像(阿形と吽形)。国東半島で石造の仁王像は多いが、木造はまれだという。

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 「真木大堂」は、その伝乗寺の堂宇のひとつ。火災の難を免れ、現存する木造9体の国指定重要文化財の仏像は、空調の効いたこの一堂に集めてありガラス越しに拝観(拝観料300円)できる。

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 堂内は撮影禁止。下の3枚の写真は、「豊後高田市フォトギャラリー」より転載。

 白い水牛に乗った大威徳明王(だいいとくみょうおう)は、顔、手、足がそれぞれ6つある。次の写真は、不動明王と二童子立像。

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 阿弥陀如来坐像と4体の四天王立像。

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 真木大堂の境内にあった石造物。国東塔と庚申塔。

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 真木大堂発13時15分、県道655号を更に南下する。

 

●熊野磨崖仏 -豊後高田市田染平野

 真木大堂より2.6Km、「胎蔵寺」の駐車場に13時20分着。拝観料300円。

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 「胎蔵寺」横の山道を登る。鳥居をくぐると急な石段が続き、さすがに息が切れる。乱積みと言われる自然石の石段は、登って行くほど乱雑で歩きにくい。鬼が一夜にして積み上げたという言い伝えがあるそうだ。

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 開けた広場に出ると熊野磨崖仏が現れる。平安後期藤原時代の作とされ、国の重要文化財、史跡。日本最古・最大級の不動明王(約8m)と大日如来(約6.7m)。

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 胎蔵寺を13時50分出発。県道655線に出た所で、観光ガイドが指さす方向の峰の中腹に大きな洞穴がある。国東半島にはこういった洞窟がたくさんあって、修験者たちが籠って修行したという。

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 県道655号線を北上して真木大堂付近まで戻り、これまで案内していただいた観光ガイドのWさんと別れる。朝早くから午後2時くらいまで、案内して頂いたWさんに心から深謝。

 県道34号線を東進、大分空港(国東市)近くでレンタカーを返却、空港に余裕を持って15時10分に到着。ソラシドエア92便は、大分空港を定刻通り16時50分出発。羽田空港18時30分着、21時20分自宅着。
   

 

 ★ ★ ★

 「宇佐神宮」は、皇室からも崇敬される「伊勢神宮」に次ぐ宗廟(そうびょう)として、実在したとされる最古の天皇・応神天皇を祀る。応神天皇は、大陸文化を取り入れて国を繁栄させた天皇として神格化された。571年(欽明32年)宇佐の地で八幡大神として崇められるようになり、725年(神亀2年)に宇佐神宮が創建された。

 東大寺の大仏建立の際、東大寺の守護神に宇佐八幡の分社を勧請(かんじょう)したのが「分社」の始まり。それ以後、石清水八幡や鶴岡八幡など、多くの八幡社が造られるようになった。

 奈良時代、僧・道鏡が皇位を得ようとした「道鏡事件」は有名な話。勅使の和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐神宮の神託を問うために参宮するなど、歴史の舞台となった。戦前には、清麻呂は皇統の断絶を救ったとして、楠木正成とならぶ勤皇の忠臣と見なされ、十円紙幣に肖像が印刷された。

 2015年(平成27年)10月、10年に一度の「勅司祭」(天皇の勅使が派遣されて行われるる祭祀)が執り行われた。勅使御奉迎の打上花火や提灯行列、奉納行事や野点(茶席)などの行事が催され、また勅使が渡る「呉橋」が一般開放された。この祭りは、宇佐市民や観光客で大賑わいだったそうだ。
 

 観光ガイドの説明で、宇佐神宮には3つの発祥の地であることを知る。

 一つ目は、「神仏習合」の発祥の地。二つ目は、「神輿(みこし)」の発祥地。そして三つめは、宇佐神宮における最古の祭祀で、全国各地で行われる「放生会(ほうじょうえ)」の発祥の地でもある。

 東大寺の大仏参拝のために、八幡神が神輿に乗って宇佐から上京したという言い伝えがある。以後、神輿は神の移動手段として、全国に広まっていったという。

 720年(養老4年)、大和朝廷は隼人(はやと)の反乱を鎮圧するため、一万人の兵を南九州に送る。宇佐の人々も八幡神を神輿(みこし)に乗せて現地に赴き、3年にわたって抵抗する隼人を平定して帰還した。いつのまにか八幡神は、大和朝廷の守護神とされた。

 その後、隼人の霊を慰めるため「放生会」をすべしとの八幡神のお告げが下る。隼人の霊に見立てた蜷(にな)や貝を、海に放つ祭典がとり行われた。これが、現在でも宇佐神宮の重要な祭礼「放生会」(仲秋祭)の始まりで、宇佐は全国各地で行われる「放生会」の発祥の地なのである。

 

 国東半島の中央にそびえる最高峰・両子(ふたご)山(標高721m)から、谷々が放射状に海岸へと広がり、約28谷を六つの里に分け、六郷と称した。国東半島の中央部は両子火山群の溶岩ドーム、溶岩台地で、その周囲は火山噴出物で形成されている。

 この地に開かれた天台宗の寺院全体を総称しして「六郷満山」と呼び、奈良・平安・鎌倉時代より、全国八幡社の総本社「宇佐八幡」の庇護と影響の下で、神仏習合の独特の寺院集団と山岳信仰が形成された。往時には半島一帯に185の寺院、洞窟・僧坊を含めて約800の大小の堂、また石仏・石塔が点在し、「ほとけの里」と呼ばれる六郷満山仏教文化圏が開かれ、山岳地域の険しい山道を歩く修行が行われるようになった。

 両子山の中腹にある寺院「両子寺」は、山岳修行の中心。深い緑に包まれた神秘的な境内、山門を背景にした仁王像、本堂、護摩堂、奥の院等、往時の佇まいを伝える。

    
    
 関連ブログ記事
   
 「宇佐八幡神と渡来人」 2016/02/09投稿
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 「大分県立歴史博物館」2016/02/03投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-855d.html

 「宇佐神宮」 2016/02/01投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-d1af.html

2017年6月21日 (水)

吉見朝観音2017

 6月18日(木)、今年も埼玉県比企郡吉見町の「吉見朝観音詣り」に行く。
 

 この日の恒例行事、早朝ウォーキングに参加。

 早朝5時、集合場所を出発。梅雨に入ってどんよりとした曇り空だが、蒸し暑くもなく清々しい気持ち良い早朝ウォーキング。まだ人通りのない市街地、住宅地、田園地帯の数キロの道のりを歩く。

 古墳時代末期の横穴墓群の遺跡「吉見百穴(ひゃくあな)」の前を歩く。

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 田植えが終わった田園地帯を進む。

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 1時間後の午後6時頃、「吉見観音」に到着し、参拝。

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 本堂から境内を見下ろす。

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 埼玉県比企郡吉見町にあるこの寺は、地元では「吉見観音」と呼んで親しまれている。正式には「岩殿山 安楽寺」、坂東第11番札所。

 古くから毎年この日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、お参りが朝早いほど御利益があるとされ、深夜から早朝まで参拝客で賑わう。

 境内には名物の「厄除け団子」を売るテントの前で買い求める参拝客の行列。

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 参道には大判焼き、焼きそば、お好み焼きなどの屋台も並んでいる。

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 参加者は参拝後、近くの空き地に集合。朝食の弁当とお茶、お土産の厄除け団子が配られた。

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 朝食後、7時前に現地解散。参加者は、三々五々とまた往路を歩いて帰る。

 

  

 ★ ★ ★
 
 古くから吉見観音の参道で店を開いている茶店の「どびんや」は、本日分の厄除け団子が売り切れたのか、午前6時過ぎに覘いた時はすでに店が閉まっていた。

 「どびんや」をネットの「食べログ」などのグルメサイトを見ると、名物・厄除け団子のメニューとして、柚子味噌団子、みたらし(甘辛)団子、醤油団子、粒餡団子が並んでいる。

 この日に売られている「厄除け団子」を持ち帰ると、家族には美味しくないと評判が悪い。和菓子として食べ慣れているみたらしや粒餡、漉し餡の団子ではなく、焼いて醤油がかかった昔からの味付けの醤油団子だから。

 江戸時代にこの辺りで疫病が流行った時、貴重な米粉で作っただんごを、安楽寺の観音様に朝早くお供えしたところ、たちまち疫病が治まったというのが「厄除けだんご」の由来だという話がある。そこで、毎年6月18日の早朝に観音詣でが行われ、境内では「厄除け団子」が売られるようになったという。この団子を食べると、1年間の厄払いが出来ると言われており、地元の参拝者はこれを買い求め、家族だけでなく親戚・隣人・知人にも配ったりしている。

 現在の串団子は、様々な材料と味付けされた団子が商品化されているが、古来より団子は神仏への供え物としたようだ。供え物の団子は、祈祷を済ませた後は硬くなっているので、焼いてから醤油で味付けして食したのだと思われる。

 なお、砂糖醤油の葛餡(くずあん)をかけた「みたらし(御手洗)団子」は、京都の下鴨神社が行う「御手洗祭」が語源だそうだ。醤油だれ団子、焼き団子、醤油団子、単にみたらしとも言う。甘辛いみたらし団子を指して、甘辛団子、甘辛とも言ったりする地域もあってややこしい。

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 2015年ブログ記事「吉見朝観音2015」は、こちら。
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2017年6月16日 (金)

大分・豊の国探訪の旅-その2

 5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その1」の続き。

 【2日目】は、「由布岳(ゆふだけ)」を眺めながら、大分県の景勝地「耶馬渓」へ。黒田官兵衛と福沢諭吉ゆかりの中津城下町をめぐり、中津市内のホテル泊。

 

 5月27日(土)朝、「おにやまホテル」にて5時起床。朝食は、ホテル内のレストラン「和味(なごみ)」で和洋バイキング。

 「おにやまホテル」を8時出発。国道500号、県道11号を経て、別府インター(IC)から大分自動車道を日田方面へ走る。

 

●由布岳

 深田久弥が百名山に入れず後悔したとされる豊後富士とも呼ばれる「由布岳」を、高速道路を走る車窓から眺める。由布岳は、東峰と最高峰の西峰(標高1584m)の双耳峰。

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 8時30分、大分自動車道の由布岳パーキングエリア(PA)着、10分ほど休憩。北斜面の山頂から山腹にかけての大規模な崩壊地を見上げる。

 PAに立つ案内板によると、麓の集落を守るための治山ダムなどの治山施設が整備されているという。昨年3月の熊本地震でも大量の土砂が崩落したしたそうだが、麓の被害を防止したと書いてあった。

 大分自動車から左手に「九重連山」が見えるはずだが、確認できなかった。
 
 

●一目八景

 大分自動車道玖珠ICを出て右折し国道387号、県道28号へと狭い山道を走る。大分県の温泉というと、別府や湯布院にある温泉をイメージするが、この辺りの山間部にもいくつも温泉地があるのに気がつく。大分県が「おんせん県」だというのが、よくわかる。

 「深耶馬渓」は、「山国川」支流の「山移川(やまうつりかわ)」支流に位置する渓谷で、「一目八景」が有名。 「一目八景」は、切り立った凝灰岩と広葉樹林から成る渓谷。群猿山(ぐんえんざん)、鳶ノ巣山(とびのすいわ)、嘯猿山(しょうえんざん)、夫婦岩(めおといわ)、雄鹿長尾の峰(おじかながおのみね)、烏帽子岩(えぼしいわ)、仙人ヶ岩(せんにんがいわ)、海望嶺(かいぼうれい)などの岩峰群が一望できる深耶馬渓の代表的なスポット。

 近くには鴫良(しぎら)、深耶馬渓などの温泉がある。

 車を走らせると、谷筋の狭い県道28号線の両側に土産屋や食事処が並ぶが、駐車スペースがない。そのまま県道を進むと、左手に大きな無料駐車場があった。9時20分駐車場に車を置き、川沿いの散策道を上流に向かって歩く。10分ほどで一目八景展望台に着く。

 鳶(とび)の幼鳥が餌をもらおうと天に口を開け、周りの木々が鳥の巣のように見えるという「鳶ノ巣山」。

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 2つの岩が夫婦のように寄り添う「夫婦岩」。

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 猿が群がっているように見える「群猿山(ぐんえんざん)」。

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 このほかにも、いくつか名前の付いた岩峰を確認。

 一目八景を9時50分出発、県道28号をさらに北上する。

 

●耶馬渓ダム

 10時05分「耶馬渓ダム」に寄って、ダム湖を眺めながら5分ほど休憩。

 ダム湖の噴水は何かと思いきや、説明板によるとダム貯水池の水質保全を目的としたものだそうだ。ポンプの加圧や散水によってプランクトンの増殖を抑えるという。

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 一級河川の山国川水系の山移川に建設された「耶馬渓ダム」は、山国川の治水、利水及び水力発電を目的とした特定多目的ダム。

 耶馬渓ダムの完成を記念して1987年に造られた広さ約2万平方mの「渓石園(けいせきえん)」と呼ばれる日本庭園があるが、時間都合でスキップする。

 

●羅漢寺

 耶馬渓ダムより国道212号を北上、七仙橋を渡って約500m先の交差点を右折、国道500号を南下する。

 10時40分、羅漢寺の駐車場に到着 。

 ここ豊前の「羅漢寺」は、「日本三大五百羅漢」の一つ。645年(大化元年)にインドの僧・法道仙人が岩山で修行して開基したとされるが、伝説の域を出ないそうだ。ここには五百羅漢をはじめとして、三千体以上の石仏がある。国の重要文化財。

 駐車場から羅漢寺への入口。

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 参道入口の左にある「禅海堂」のすぐ裏に、リフト乗り場がある。

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 「禅海堂」は、「青の洞門」を掘った僧・禅海(後述)を祀っていて、ノミや槌が展示されているそうだ。

 羅漢山の山頂までのリフト往復800円を購入する(羅漢寺までだけなら、700円)。写真は、羅漢寺に向かうリフト。約3分で羅漢寺駅に着く。

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 羅漢寺駅でリフトを降り、険しい崖に沿った狭い山道を進むと、崖に「千体地蔵尊」の看板のある建物がある。

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 格子の隙間から建物の中を覗く。室町期に安置されたという1,100体以上の地蔵尊。

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 石段を上ると途中、小さい洞窟にも石仏や石塔が並ぶ。

 羅漢寺の山門。室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたとされる。

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 この山門の先からは、撮影禁止。山門の入口から左側に「無漏窟」(むろくつ、五百羅漢窟)と呼ばれる大きな洞窟があり、様々な表情をした五百羅漢などが安置されているが、写真を撮れず残念。

 写真の右上には、鐘楼が崖にへばりついている。

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 この先を進むと、見晴らしの良い羅漢山の中腹に、洞窟に半分埋め込まれた立派な本堂が建っていた。本堂は1943年(昭和18年)の火災で焼失、現本堂は1969(昭和44年)年に再建されたそうだ。

 羅漢寺駅へ戻り、更にリフトに乗って3分、羅漢山の山頂に着く。

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 山頂には高い鉄骨の展望台があって、阿蘇山、英彦山、豊前海が見えるという。阿蘇山(写真中央)は確認できた。
 
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 なお、羅漢寺の向かいの山に「古羅漢」があるという。「古羅漢」には磨崖仏(まがいぶつ)、石仏、国東塔(くにさきとう)などが残されていているそうだ。

 今回は時間の関係でリフトで羅漢寺に登ったが、江戸時代中期に作られたという旧参道は、往復45分の散策コースで、緩やかな石畳で風情があるそうだ。

 11時35分、羅漢寺の駐車場をあとにする。

 

●競秀峰

 本耶馬渓は、大分県北部の下毛(しもげ)郡にあった旧町名。旧本耶馬渓町は、2005年(平成17)中津市に編入した。国指定名勝「耶馬渓」の中心をなし、「青の洞門」や「競秀峰」を中心とする山国川上流一帯を指す。

 国道500号から国道212号へ戻り、約300mほど先の目的地「レストハウス洞門」駐車場に11時40分着。

 「レストハウス洞門」から1周約1.8Kmの山国川の畔を散策する。岩峰が連なるの「競秀峰」の絶景を見ながら下流へと遊歩道を歩く。

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 「競秀峰」は景勝地の多い本耶馬渓のなかでも、屈指の美しさを誇る岩峰だという。「青の洞門」の上にそびえる。大黒岩、恵比須岩、妙見岩など8つの岩峰が集まり、いかに秀でているか競いあっているように見えるというのが名前の由来か。凝灰石の層が帯状に浮かび上がっていることから帯岩とも呼ばれる。



●耶馬渓橋

 山国川に架かる8連アーチの石橋「耶馬渓橋」を渡る。青の洞門からわずか500m下流にある

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 日本で最長の116m、石造の8連アーチ橋は日本で唯一。1923年(大正12年)に竣工。長崎県の石橋に多い水平な石積みを採用しているため、別名「オランダ橋」ともいう。大分県の有形文化財に指定、「日本百名橋」のひとつ。上流の「馬渓橋」、「羅漢寺橋」とともに、「耶馬渓三橋」と呼ばれる。

  耶馬渓橋から対岸の車道に沿って川上に向かう。


 
 
●青の洞門 

 「青の洞門」は、諸国巡礼の途中だった禅海和尚が、30年余りをかけてノミと槌だけで掘った隧道。完成は、1763年(宝暦13年)。全長は約342mだったが、現在の洞門はかなり変化している。明治時代、陸軍の輸送路拡幅のための大改修で、当初の原型は大部分が破壊された。現在は歩行者用通路の一部に、当時のノミの痕跡が認められる程度となっている。写真は、「青の洞門」の入口で、車も通る。

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 当時の面影を残す手堀のトンネルと明かり窓やノミの跡が残る。

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 「青の洞門」の逸話は、大正時代に菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなり、また尋常小学校国語読本で取上げられて、知られるようになった。

 「青の洞門」の約500m先に、禅海和尚の像がある。

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 山国川に架かる「禅海橋」を渡って対岸へ渡り、レストハウスに戻る。

 「青の洞門」は、山国川のほとりから見学するほか、山腹を巡る「競秀峰探勝道」からもその美しさを満喫できるそうだ。隧道を通らずに難所であった崖側を通るルートが今も残っており、険しい場所ではあるが鎖などを伝って通ることができる。探勝道は、初級、中級で70分、上級で100分のコースがある。

 下の写真で、横に一筋の探勝道が見える。よく見ると鎖場も見える。

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 レストハウス洞門で「競秀峰」の絶景を見ながらランチ。耶馬渓のご当地グルメは「洞門バーガー」(430円~)。中津は鱧(はも)料理が名物、「鱧かつカレー」(1,080円)を注文する。

 13時20分、レストハウス洞門を出発。


●中津城

 国道212号を北上し、中津市街地へ。13時45分、「中津城公園」の駐車場着。事前に申し込んでいた中津耶馬渓観光協会の観光ガイドYさんの案内で、中津城や城下町を巡る。

 中津城公園に建つ福沢諭吉の言葉「独立自尊」の石碑。

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 「独立自尊」は、「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」とある。自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味し、慶應義塾の基本精神となっている。

 また公園内には、西南戦争の時に旧中津藩士によって中津隊が結成され西郷軍に参加した大顕彰碑「西南役中津隊之碑」も建っている。

 「中津城」は、黒田官兵衛(孝高、如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代は小笠原家(8万石、後に4万石に半減)を経て、明治初期まで奥平家が10万石の藩庁だった。

 写真は、中津城に残る官兵衛が築いた石垣。自然石ではなく、直方体に加工された石が使われている。1588年(天正16年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては、九州最古のものだそうだ。

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 模擬天守の北面は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境("y"の字が見える)がある。向かって左が細川氏、右が黒田氏の石垣。(写真をクリックすると拡大表示)

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 堀には海水を引いたため、水城(海城)ともされ、今治城、高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。

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 天守の存在は不明で、模擬天守閣(資料館)が旧藩主奥平氏の子孫によって、1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリートで建てられ、奥平家所蔵の宝物が展示されている。

 中津城へ入場。福澤諭吉旧居・記念館との共通入場券が600円。

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 城内には甲冑、刀剣、陣道具・古文書などの宝物が展示されている。3階には幕末・明治までの中津の蘭学の歴史のコーナーもあり、中津は蘭学で有名だったことも知る。

 明治時代の中津城の写真。今のような天守閣はない。

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 中津城天守の展望台からの展望。写真の北門橋が架かる「中津川」は、豊前海(ぶぜんかい、周防灘の南部海域)へ注ぐ。

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 大分県北西部、福岡県にまたがる英彦山(ひこさん、標高1199m)付近を源流として、耶馬溪を流れる「山国川」は、やがて福岡県と接し県境に架かる山国橋付近で二手に分かれる。中州である小祝島の東側は、「中津川」、西側が「山国川」となる。

 豊前海は、瀬戸内海を経て大坂・近畿に通じる。官兵衛が築いた中津城は、海路交通の便が良く、大坂からの知らせを早船で3日で受け取ることができ、九州の玄関口でもあった。

 

●福沢諭吉旧居 

 15時30分中津城を出て、「福沢諭吉旧居」に徒歩10分くらいで着く。

 福澤諭吉は、1835年(天保5年)に大坂の中津藩蔵屋敷で下級武士の次男として生まれる。1歳6ヶ月の時父が急死、母子6人で中津に帰郷する。貧しい少年時代を過ごし、14歳で儒学の塾に入る。

 旧居は、19歳で長崎に遊学するまで居住。当時の武士の生活を垣間見る。

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 諭吉は庭の土蔵を改修し、二階で窓の明かりで勉学に励んだという。諭吉の人形が座っていた。

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 旧居の庭に立つ諭吉の胸像(左)と隣接する「福沢諭吉記念館」にある胸像。

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 記念館の内部。『学問のすすめ』の版本や貴重な資料が展示されていた。

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 福沢諭吉旧居を16時30分発、観光ガイドと一緒に中津の城下町を散策する。



●合元寺

 寺町通りには、黒田官兵衛ゆかりの寺が多い。官兵衛の末弟が初代住職だった「西蓮寺」、閻魔様の「円龍寺」、河童の墓のある「円応寺」、赤壁寺の「合元寺(ごうがん)」などをめぐる。

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 「合元寺」は、官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開山。官兵衛の子・黒田長政が謀殺した宇都宮鎮房(しげふさ)の家臣と激戦の場になった。その時の壁の血しぶきが、何度塗り直しても赤く染み出でくるため、ついに赤壁とせざるを得なかったという逸話が残っている。

 中津城公園の駐車場に戻り、17時20分案内頂いた観光ガイドYさんとお別れ。
  

 

 17時30分、「ホテルルートイン中津駅前」にチェックイン。

 荷物を部屋へ置いて、18:30~中津駅前のアーケード街へ。夕食の飲食店を探すが、土曜日とあってどこも混んでいる。

 焼きとん屋「くうとん」に入店、20時15分退店する。

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 20時半頃、ホテルに戻る。

 このホテルには大浴場があって1日の疲れを癒し、23時頃就寝。

 明日は、宇佐神宮と国東半島をめぐる。


 ★ ★ ★

 二百名山の「由布岳」は双耳峰で、東峰は家族連れでもOKだが、最高峰の西峰(標高1584m)は急な岩場や鎖場があって険しいという。山頂からは、百名山の九重山、祖母山、阿蘇山などが見えるそうだ。

 当初の旅行計画では、2日目に由布岳登山を予定していた。由布岳中央登山口(標高780m)から樹林帯を進むと、合野越(ごうやごえ)からは景色の良い開けた道となる。やがて松や灌木のジグザグ道を登ると、ミヤマキリシマ(5月下旬~)が咲き誇っているだろう。岩ゴロゴロの急坂になるとマタエ、この先は東西のピークに別れる。登りのコースタイムは、2時間10分。下りは1時間半。しかし、日程の都合で由布岳登山の計画を変更し、耶馬渓と中津に行くことにした。

  
 

 儒学者で南画家・書道家の頼山陽が、1818年(文政元年)に「山国谷」と呼ばれたこの地(耶馬溪町柿坂)を訪れ、その景勝を絶賛して「筆舌に尽難し」と筆を投げたという。

 その12年後、山陽は記憶を元に『耶馬渓図巻記』という山水画の絵巻を描き、この「山国谷」を中国風の文字を当て、「耶馬渓」と漢詩に詠んだのが、名前の由来だそうだ。その後、周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われるようになった。各地域を「本耶馬渓」、「裏耶馬渓」、「深耶馬渓」、「奥耶馬渓」などと呼んでいるのはいつからだろうか。
 

 

 「耶馬渓」は、松島・天橋立・宮島の「日本三景」にならって、1916年(大正5年)に三保の松原(静岡県)と大沼公園(北海道)とともに「日本新三景」に選ばれた。1923年(大正12年)には国の名勝に指定、1950年(昭和25年)には、一帯が「耶馬日田英彦山国定公園」に指定された。また、寒霞渓 (かんかけい、香川県小豆島)、 妙義山(群馬県)とともに「日本三大奇勝」の一つである。

 しかし奇岩の周囲の樹木が生い茂り、昔のような景観が損なわれ、観光客の苦情もあったため、市が数年前から「耶馬渓修景」に取り組んでいる。地元や地権者の協力を得て、うっそうとした雑木を伐採、美観が復活したそうだ。修景ビフォー・アフターの写真を見ると、アフター後の今もまた木々が茂ってきているので、イタチごっこのような気もする。

 

 「青の洞門」が掘られる前、この付近を通行する際は川原を歩いていたそうだ。藩が下流に堰を設けために水量が増加し、川原が水没してしまった。このため断崖に道を作り、岩にくくりつけた鎖につかまりながら通らなくてはならず、転落する人が後を絶たなかったという。

 諸国遍歴の旅の途中、羅漢寺を参拝する折りに立ち寄った禅海和尚が、この断崖の難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと考えた。1730年(享保15年)頃、中津藩主の許可を得て、托鉢(たくはつ)で資金を集めて雇った石工たちと一緒に、また周辺の村民の協力や九州諸藩主の援助を得たりしながらノミと槌だけで30年かけて掘り抜き、1763年(宝暦13年)に完成させたといわれる。

 開通後は、通行料を徴収したという言い伝えもあり、日本最古の有料道路ともされる。ちなみに、洞門は江戸時代には「樋田(ひだ)のくりぬき」と呼ばれていたそうだが、大正以降に「青の洞門」という名称になったという。「樋田」や「青」は、この地域の地名だそうだ。

 子供の頃にどんな本を読んだのか忘れたが、この「青の洞門」の話は何故かよく覚えている。
 


 中津は、「蘭学の里」と呼ばれる。福沢諭吉のほかにも多くの蘭学者、医師を輩出したことを知った。オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳、「解体新書」を出版した中津藩医で蘭学者の前野良沢(まえのりょうたく)は、特に著名。ほかにも、日本で最初の和蘭辞典「蘭語訳撰」と蘭和辞典「バスタード辞書」を刊行した奥平昌高(中津藩5代藩主)、九州で最初の解剖を行った村上玄水らは、蘭学や医学の礎を築いた。

 「蘭学の里・中津と中津城」の顕彰碑が中津城公園に建てられていた。中津城資料館にも、多くのパネルを使って中津の蘭学の歴史を詳しく説明してあった。見てはないが、JR中津駅前にも福沢諭吉の銅像とともに、「蘭学の泉ここに湧く」という碑文があるそうだ。

 中津の城下町を散策すると、あちこち説明板とともに史跡や偉人ゆかりの場所があり、まさに故郷を愛し誇りを持つ町だったということが、心に残る。このブログに書ききれないほど、中津を丁寧に説明して頂いたボランティア観光ガイドに感謝。


■追補■ 2017/6/24

-由布院と湯布院について

 1955年(昭和30年)に由布院町と湯平(ゆのひら)村が合併して湯布院町となった。昔からある地名などは由布院温泉、由布院駅、由布岳と言い、湯布院の“湯”の字を使うのは新し町全体を指すとき。由布院温泉と湯平温泉を合わせて、湯布院温泉ともいう。   
    
 更に2000年(平成17)年、庄内町、挾間町、湯布院町が合併して由布市となり、由布院温泉や由布院駅のある旧湯布院町は、由布市湯布院町になった。このように「湯布院」と「由布院」が混在し分かりにくくなったため、「ゆふいん」と表記されることもある。
   
    
-九重、久住、くじゅうについて
    
 地域一帯を「くじゅう」と呼び、北側に九重町(ここのえまち)、南側に久住町(くじゅうまち:現、竹田市)がある。山名は「久住山」、火山群や周辺地域全体は「九重山」、または「九重連山」と呼ぶ。

 

2017年6月10日 (土)

東京・お台場

 6月9日(金)、東京都港区の「お台場」に行く。

 

 「お台場」は、東京臨海副都心地区のおおむね東京港埋立第13号を指す。

 JR新橋駅汐留改札を出て、臨海新都心線「ゆりかもめ」の1日乗車券820円を購入。10時頃「ゆりかもめ」に乗車、13分で「お台場臨海公園」駅に着く。

 駅前にある33階建の高級分譲タワーマンション「ザ・タワーズ台場」が目を引く。

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 「お台場海浜公園」の浜辺エリアへ行く。

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 浜辺エリアでは無料で潮干狩りができるという。さすがに水質は悪いようで、遊泳は禁止。浜辺のあちこちには、クラゲが大量に打ち上げられていた。

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 お台場海浜公園の対岸、「レインボーブリッジ」の手前の中央の緑は「台場公園」。

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 「お台場海浜公園」と一体となった「台場公園」は、国指定史跡の「第三台場」を公園として開放されていて、砲台跡、陣屋跡や火薬庫跡、かまど跡などがあるという。

 1997年(平成9年)、新宿区より移転した「フジテレビ」のビル(中央)をお台場海浜公園から見る。

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 日の出桟橋、晴海、浅草などを結ぶお台場海浜公園の海上バス乗り場。正面の2棟のビルは、左がUR都市機構の賃貸マンション「シーリアお台場一番街」、右が都住宅供給公社の賃貸マンション「トミンタワー台場一番街」。

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 お台場海浜公園から望む田町、品川方面。手前の2つの緑の島は、野鳥の繁殖地で「鳥の島」と呼ばれる防波堤で、立ち入り禁止。

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 手前の灯台(灯籠)は、何ためにあるのか、不明。遠景は、田町にあるタワーマンション「芝浦アイランドグローヴタワー」の分譲マンション。

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 お台場海浜公園の「自由の女神」像。

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 「アクアシティお台場」(写真左手)の5階レストラン「築地食堂 源ちゃん」に入り、ランチ。右手のビルは、フジテレビ。

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 「お台場海浜公園」から、隣接する「潮風公園」へ歩く。護岸工事中の壁が延々と続き、公園からは海が見えない。

 「潮風公園」の中央を首都高速湾岸線が走る。1976年(昭和51年)、「東京港トンネル」(海底トンネル)により、大井・臨海副都心間が開通した。写真中央は海底トンネルの排気塔。ここから湾岸線は、左側の海底に入る。

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 「潮風公園」の首都高速湾岸線から南側エリアで、やっと海が開けた。観光船「安宅丸」とクレーン林立する大井ふ頭。

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 「安宅丸」については、本ブログ「隅田川水上バスと浅草寺」を参照。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-98b3.html

 写真左手には、東京湾が広がる。

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 潮風公園から歩いて船の科学館駅へ。

 船の科学館駅の駅舎から見る「フジテレビ」(左手)、「ダイバーシティ東京プラザ」(中央)、「オフィスタワー」(右手)のビル。

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 数年前この景色を見た時に、茶色の建物「ダイバーシティ東京プラザ」前の樹木の上に高さ18mのガンダム立像の上半身がのぞいていたのだが、撤去されたのだろうか見えない。

 駅のホームから見る、1974年(昭和49年)に開館した「船の科学館」。お台場で最初の大規模建築物だった。

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 「船の科学館」には、南極観測船「宗谷」が係留されている。右手には、先ほど見かけた「安宅丸」が停泊。

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 船の科学館駅から「ゆりかもめ」に乗って移動。青海駅まで4分、14時15分頃着。

 青海駅から北東を望む。門の形をした「東京ベイコート倶楽部」(左)と逆三角形独特な形の「東京ビッグサイト」(右)の建物。

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 青海駅の北口にある「MEGA WEB(メガウェブ)」は、”見て、乗って、感じる”トヨタのテーマパーク。入場料無料。

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 青海駅南口にある「水の広場公園」と有明ふ頭。

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 15:25発の水上バスで、日の出桟橋へ渡ろうと「パレットタウン乗船場」(写真左下)に行くと、なんと本日は運休。

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 「ゆりかもめ」で帰ることにする。15時25分頃青海駅発、約20分で新橋駅着。

 関東甲信越地方は、7日梅雨入りの発表されたが、前線が東の方へ離れて梅雨とはいえ晴れ間が続く。この日の東京は、最高気温28度の夏日。海風が適当に吹いてくるので、暑さを感じない良い日和であった。

 

 ★ ★ ★

  1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が来航、脅威を感じた幕府は、江戸防衛のため洋式の海上砲台の建設を計画する。台場は、石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、埋め立ての土は高輪の山を切り崩して調達した。品川海上に第一台場から第三台場が完成。

 完成した台場は、江戸湾海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。その後に第五台場と第六台場が完成した。これらは品川台場(品海砲台)と呼ばれ、「お台場」は幕府に対して「御」をつけ、「御台場」と呼んだことが由来。

 翌年ペリー艦隊は2度目の来航で品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。

 結局、合計8つの台場が建設されたという。しかし、これらの砲台は一度も火を噴くことなく、開国することになったのだった。

 

 ニューヨークにある自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスより贈呈され、1886年に完成した。ニューヨーク港内、リバティ島にある。台座から松明(たいまつ)までの高さは46m、台座部分も含めると93m、総重量は225トン。

 フランスのパリにある自由の女神像は、セーヌ川のグルネル橋のたもとにある。フランスがアメリカに自由の女神像を送ったことの返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈った。高さは11.5m、重さは14トンと、ニューヨークにあるものよりかなり小さい。1889年に除幕式が行われた。

 1998年(平成10年)4月から約1年間、「日本におけるフランス年」を記念してパリの自由の女神像がお台場海浜公園に設置されていた。この事業が好評を博したため、その後フランス政府からレプリカ制作が認められ、フランスで複製されたブロンズ製レプリカが2000年(平成12年)に設置された。台座からの高さ約12.25メートル。重さ約9トン。

 自由の女神レプリカ像は、ラスベガスなどアメリカに点在、またフランス、日本でも各地で建てられているそうだ。

 関連ブログ記事

 「東京湾クルーズ-その1」 2013/09/30 投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-d7b5.html

 「隅田川水上バスと浅草寺」 2013/07/09 投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-98b3.html

 「再び潮風公園」 2012/05/15 投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3bd6.html

 「雨の潮風公園」 2012/03/31 投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2571.html

2017年6月 8日 (木)

大分・豊の国探訪の旅-その1

 5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

  大分はおんせん県。別府温泉は、世界一の源泉数と湧出量を誇る。【1日目】は、杵築城下町散策の後、別府「地獄めぐり」で大自然のパワーを体感、別府・鉄輪(かんなわ)温泉泊。
 

 5月26日(金)朝、池袋で久しぶりのラッシュアワーに遭遇しながら、羽田空港第2ターミナルビルへ。羽田空港の天気は雨だが、九州は晴れているそうだ。

 羽田発11時00分発のソラシドエア91便は、雨のためか出発が遅れ、大分空港には20分遅れて12時55分着。

 写真は、国東(くにさき)半島の大分空港(写真中央)へ着陸態勢のソラシドエア機。

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 空港で大分市在住のメンバー1名の出迎えを受け、参加者6名は空港ビル3Fの和風レストラン「なゝ瀬」で昼食。名物のダンゴ汁、とり天定食、とり天うどん等を注文。

 大分空港の近郊のトヨタレンタカーから、レンタカーと自家用車の2台に分乗して13時45分出発。

 

●杵築(きつき)城下町

 国道213号を南下し、杵築市の「杵築ふるさと産業館」駐車場に14時10分到着。

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 杵築は、凸凹形状の「サンドイッチ型」城下町と呼ばれ、南北の高台にある武家屋敷とその谷筋には老舗商家が残り、風情ある石畳の坂が美しい。

 手前の「酢屋の坂」を下った谷は、商人の町。

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 北台武家屋敷通りには、上級武士たちの屋敷跡や藩校が並ぶ。中でも「酢屋の坂」近くにある「大原邸」は、家老屋敷としてその風格と風情が今でも残る貴重な建築遺産。

 写真は、「大原邸」の長屋門。

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 「大原邸」に入館。入館料200円。ボランティアガイドに案内してもらう。

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 長屋門、茅葺屋根、式台のある間口の広い玄関。次の間、紋入りの畳の縁、弓天井、厠(かわや)、風呂場、台所。広い敷地には、回遊式の庭園。身分の高い家老宅であったことは、質素で堅実だが格式の高さがこの建物の随所に残されている。

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 「酢屋(すや)の坂」を下ったところ、商人の町「谷町通り」に店を構える創業明治33年の「綾部味噌」(写真左手の建物)は、市指定有形文化財。

 この建物は、18世紀中頃に建てられたもので、前身は豪商・志保屋が営む酢屋。「酢屋の坂」と対面する「志保屋の坂」の名の由来となっている。

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 「谷町通り」から「志保谷(塩屋の坂)」を上ると、南台武家屋敷。対面は、北台武家屋敷。

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 「きつき城下町資料館」付近の展望台から、八坂川の台地にそびえる海と川に三方を囲まれた「杵築城」を望む。右手は、八坂川と杵築大橋。守江湾には、広大な干潟が広がる。

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 15時30分、杵築を出発。国道213号線から国道10号線を走り、別府市内へ向かう。 
 

 

●別府地獄めぐり

 杵築で少しゆっくりしたので、予定より1時間遅れの16時15分「海地獄」駐車場へ到着。

 当初の予定は、鉄輪(かんなわ)温泉の「海地獄」→「鬼石坊主地獄」→「山地獄」→「かまど地獄」→「鬼山地獄」→「白池地獄」を徒歩で巡り、少し離れた柴石温泉へ車で移動して「龍巻地獄」→「血の池地獄」の合計8地獄を見学する予定であった。

 「8地獄共通観覧券」2,000円(10%の割引チケットあり)を購入しようとするが、各地獄への入場は17時まで。あと40分しかない。全部の地獄を回れないので、あとは翌朝にしてくださいと窓口で言われる。

 共通観覧券の有効期間は、購入日とその翌日の2日間。開場は朝8時からだが、翌朝は次の予定があって別府を離れるので、8地獄をあきらめ、「海地獄」→「鬼石坊主地獄」→「かまど地獄」の3つを見学することにする。

 海地獄の入口。入場料400円。

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 鬼石坊主地獄、入場料400円。

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 かまど地獄、入場料400円。

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 17時ころで退出して、すぐ近くに4階建ての屋上に「おにやまホテル」の看板があるホテルへ。

 

●おにやまホテル

 17時10分、鉄輪(かんなわ)温泉「おにやまホテル」にチェックイン。 

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 鬼山地獄を源泉に持つ、別府最大級の露天風呂という「鬼山の湯」に入浴。もちろん源泉かけ流し。夕食は19:00~、レストラン「和味(なごみ)」で「地獄蒸し会席料理」。

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 22時頃就寝。明日は耶馬渓、中津へ行く。

 

 

 ★ ★ ★

 杵築城は、木付(きつき)氏によって室町時代初期に八坂川河口の台山(だいやま)の上に築かれた。戦国時代には、大友氏と島津氏の戦いの舞台となった。

 前田氏、杉原氏を経て、慶長4年(1599年)には細川氏(忠興)の所領となる。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、大友氏の杵築城攻撃に対し、中津の黒田如水(黒田官兵衛)が救援した。1632年(寛永9年)細川氏が熊本藩に移封となると、替わって小笠原氏、その後、1645年(正保2年)には松平氏が3万2千石で封じられ、明治維新まで居を構えた。

 天守は、1608年(慶長13年)に落雷で焼失、以来再建されなかったそうだ。天守の建築構造は不明だという。現在の天守台跡には、杵築ゆかりの資料館と展望台を兼ねた3層の鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣が建てられている。

 

 別府の地獄では観光用として、温泉熱を利用してアマゾン産のオオオニバスの栽培、鳥や哺乳類、ワニ、熱帯魚など飼育し、地獄以外の付加価値が付いている。

 「かまど地獄」には色の違う様々な地獄があって、地獄の1丁目から6丁目までの名前が付いている。また「極楽」と称する足湯、喉・肌に良い湯気、足や手の箱蒸し、飲む温泉などの設備もあり、温泉卵とか何故かラムネなどの飲食物やお土産など、他の地獄とは変わった特色を出しているようだ。

 1年前にここへ来た時もそうだったが、「かまど地獄」はやたらと多くの韓国人ツアーが目立つ。この日も韓国人のガイドが何人かいて、韓国語で団体客を案内をしていた。ガイドは、たばこを手にして、タバコの煙を地獄の池の表面の湯気に吹きかけると、そこから白い湯けむりが増大するというパフォーマンス。それを見た韓国人団体客からは、歓声が上がていた。

 日本人のガイドが我々に、ここにいるガイドは全員が「かまど地獄」のスタッフだと言う。また、地獄の湯けむりが増大する実験を我々にも見せてくれた。タバコの煙の粒子が核となって、周りの水蒸気がくっつき白い湯気に見える、ちょうど雲のできる原理と同じようなものだ、という説明を聞き納得した。

 

 

 関連ブログ記事「別府地獄めぐり」 2016年2月4日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-ae15.html

 

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その2」に続く。

2017年6月 3日 (土)

都内をめぐる日帰り研修旅行

 5月30日(火)、迎賓館、深大寺、地下調節池、とげぬき地蔵をめぐる、都内日帰り研修バスツアー。
 

 都心では気温29℃の夏日。全国各地でも、今年一番の暑い日だった。

 バスは、午前7時半出発。参加者31名を乗せて関越道、外環道、首都高を走る。車内では、幹事の挨拶の後、お茶やお菓子、ビールが配られ、カラオケも始まった。

●迎賓館

 最初の見学先である元赤坂の「迎賓館赤坂離宮」に10時に到着。迎賓館は、外国からの賓客を迎えるのに支障のない範囲で一般公開されている。

 噴水のある主庭側からの迎賓館。

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 入館前に、テントの下で手荷物検査と金属探知機でのボディチェックがあり、30分以上も見学者の列に並ぶ。(写真下)

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 参観料は大人1000円、団体参観料は大人800円。

 館内には見学者のトイレがないため、入館前に済ますように。館内は撮影禁止、カメラはバッグにしまえ、レンズにキャップをせよとかなかなか細かい。決められた参観路を歩くよう、壁やカーテン、家具に直接手にふれないよう、繰り返しアナウンスされる。

 赤い絨毯、豪華な大理石、巨大なシャンデリア、金箔が施された彫刻、立派な天井画や壁画など、テレビで見る晩餐会や首脳会談などが開かれる広間を目の当たりにする。

 写真は、広間の一つ「彩鸞の間(さいらんのま)」。迎賓館のパンフから転載。

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 迎賓館の前庭から撮影。

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 12時、迎賓館をあとにする。

 
●深大寺(じんだいじ)

 調布市の「深大寺都内は、浅草の「浅草寺」に次ぐ古刹で、だるま市でも知られる。

 門前の「深大寺そば」が有名で、20軒以上のそば屋があるそうだ。12時35分、そば処に到着。そば定食を頂いた後、参拝に行く。

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 深大寺の山門。

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 本堂に参拝。

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 本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。飛鳥後期の作とされる「銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)」が、今年3月に国宝指定されたばかり。気がつかなかったが現在「釈迦堂」で特別開帳されているとのことだった。

 緑の多い深大寺周辺は、そば屋の他、土産屋、お休み処など、参拝客で賑わっている。

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 13時、深大寺を出発。

●地下調節池

 午後からは、「神田川・環状七号線地下調節池」へ。14時、善福寺川取水施設(杉並区堀ノ内)へ到着。

 地下調節池は、神田川水系の水害を防止するため、豪雨時に川の水を地下トンネルに逃がす東京都の施設。スライドやビデオ、模型での説明の後、地下40mにある直径12.5mもあるトンネルへエレベーターで降りて見学。

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 このトンネルには、照明は全く無い。案内の都職員が持つ懐中電灯を頼りに、後について行く。

 この先は、防災用にきれいな水が少し溜めてあって進めない。

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 環状7号線の地下、トンネルは延長い4.5Kmあり、54万トンの洪水を貯留できるそうだ。

 15時35分、善福寺川取水施設を出発し、巣鴨へ向かう。

 
●とげぬき地蔵

 最後は、「とげぬき地蔵」で親しまれる巣鴨の「高岩寺(こうがんじ)」。16時20到着。

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 境内にある「洗い観音」は、観音様に水をかけ、自分の悪いところの観音様の部位をさすると治るそうだ。

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 高岩寺前の「巣鴨地蔵尊通り商店街」は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれ、塩大福などの和菓子や老人向け衣料のお店が並んでいる。

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 和菓子屋で、塩大福と玉子せんべいを購入。

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 17時、高岩寺を後にして帰路へ。18時半出発地に無事到着。


 研修旅行の名の通り、迎賓館、地下調整池など、普段行けないような施設を見学、また深大寺やとげぬき地蔵の高岩寺も初めての参拝で、有意義だった。

 ★ ★ ★

 迎賓館は、港区元赤坂の「迎賓館赤坂離宮」と、京都市上京区の京都御苑内に「京都迎賓館」があり、内閣府が管理している。

 迎賓館赤坂離宮の建物は、かつては紀州徳川家の江戸中屋敷があった所。1909年(明治42年)に皇太子の住まいである「東宮御所」として建設された。しかし、皇太子・嘉仁親王(大正天皇)は、ほとんど使用することなかった。

 その後、皇太子時代の裕仁親王(後の昭和天皇)や明仁親王(今上天皇)が一時お住いになった以外は「東宮御所」として利用されず、戦後は国立国会図書館や内閣法制局、東京オリンピック組織委員会などの国の機関に使用された。「東宮御所」は、皇太子が天皇に即位した後は「赤坂離宮」と呼ばれた。

 その後赤坂離宮は改修されて、1974年(昭和49年)3月に現在の迎賓館が完成。2009年(平成21年)12月には、明治以降の建物としては初めて国宝に指定された。 一般公開が始まったのは2016年 (平成28年)4月で、つい最近のことである。

 ★ ★ ★

 武蔵野の面影を残す「深大寺」の周辺は、隣接の旧寺領であった「都立神代植物公園」とあわせて、散策、憩の場所として知られている。

 中国の伝奇小説『西遊記』に登場する僧・三蔵法師として有名な玄奘三蔵が経典を求めて天竺(インド)へ行く途中、水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)が砂の中から現れ、玄奘の難を救い守護したという(『西遊記』では、妖怪・沙悟浄のことか)。「深大寺」の名称は、その「深沙大王」に由来すると伝えられている。深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける神とされる。

 深大寺は豊富な湧水源の多い武蔵野台地の崖面に立地し、古くから周辺の田畑を潤し、水源地ということから霊場でもあったので、水神「深沙大王」ゆかりの深大寺の建立に至ったのではないかという。深大寺は733年(天平5年)、満功上人(まんくうしょうにん)が開創したと伝えられている。

 「深大寺そば」が名物となったのも、水の恵みがあったからか。蕎麦の栽培や水車を利用しての製粉、そば打ちに湧水が利用された。


 ★ ★ ★

 「とげぬき地蔵」の通称で名高い「高岩寺」の本尊・地蔵菩薩像(延命地蔵)は、秘仏のため非公開だそうだ。本尊の地蔵菩薩立像の姿を和紙に刷った「御影(おみかげ)」を祈願、またはその札を水と共に飲むなど、病気平癒に効果があるとされる。

 「とげぬき地蔵」の縁起は、次のようである。

 1713年(正徳3年)小石川の武士・田付又四郎の妻が、病気で死に瀕していた。地蔵尊に毎日一心に祈願を続けていた又四郎が、夢枕に立った僧のお告げにより地蔵の姿を印じた「御影」の紙1万枚を隅田川に流すと、妻の病は回復した。その後、毛利家の女中が誤って針を飲み込んで苦しんだ時、地蔵の印像を水で飲ませたところ、すぐに針を吐き出したという。

 以後、「とげぬき地蔵」の伝承が、他の病気の治癒や広く厄除け・招福にご利益があるとされ、現在でも高齢者を中心に参拝者が絶えない。

 高岩寺は、今から約400年前1596年(慶長元年)に熊谷(埼玉県)の「集福寺」の扶嶽太助(ふがくたいじょ)和尚が、江戸・神田明神下(千代田区外神田)に創建した。その後下谷(台東区上野)を経て、明治時代に巣鴨(豊島区巣鴨)に移転した。現在では末寺の高岩寺の方が有名だが、本来は熊谷の集福寺の方が本寺だそうだ。

2017年6月 1日 (木)

宮崎市街から高岡町と綾町

 5月21日(日)~23日(火)、宮崎市街から宮崎市高岡町、宮崎県東諸県郡綾町へ行く2泊3日の旅。

 
 5月21日(日)、長崎自動車道、九州自動車道を経て、宮崎自動車道を走る高速バスの車窓から、雄大な「霧島連山」を望む。

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 ●宮崎市街

 やがて宮崎市街に入り、繁華街「橘通り」(県庁前付近、一番街付近)を走る。

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 バスはJR宮崎駅西口前に、13時前に到着。左手のビルは、「JR九州ホテル宮崎」。

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 宿泊した「JR九州ホテル宮崎」の5階から見下ろすJR宮崎駅(左手)と西口前。

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 つい笑ってしまう「すみません回送中です」の宮崎交通のバス。県内の人にはこんな光景は見慣れているだろうが、バスを見てびっくり。腰の低い土地柄か、お客に対するバス会社の優しさが伝わる。JR宮崎駅西口前にて。

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 JR宮崎駅東口前。

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 歓楽街「西橘通り」の入り口「一番街」は、昼も夜もけっこう賑やか。

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●宮崎市高岡町の天ヶ城公園

 5月22日(月)、宮崎市郊外の宮崎市高岡町「天ヶ城(あまがじょう)公園」に行く。

 高岡町は、宮崎県の中部に存在していた東諸県郡の町であったが、2006年1月に宮崎市に編入された。

 「天ヶ城公園」は、標高120mの丘にある。宮崎市街に注ぐ大淀川の流れと、西に霧島連山、東に日向灘、宮崎市街地が望めるという。1,300本の「千本桜」と呼ばれるソメイヨシノや、5万本のツツジが有名。

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 公園内の右手に城風の建物「天ケ城」(宮崎市天ケ城歴史民俗資料館)、広大な芝生の広場の左手には遊具があった。

 天ケ城歴史民俗資料館は、大淀川と生きてきた町の人々の生活や、薩摩藩に属した高岡が、かつて日向の中心であった当時の武家社会、高岡の歴史・風土・産業などを紹介しているという。

 大手門のような入場口に行くと、なんと「開館日:土・日・祝日」。ただし花見のシーズンだろうか、「特別開館期間:3月15日~4月14日(この期間は休館日はありません。)」とある。平日5日間は、閉館している資料館なんて聞いたことが無い。残念だった。

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 天ヶ城は、薩摩島津家17代島津義弘が1600年(慶長5年)、日向伊東氏の攻撃に備えるために築城した城。

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 関ヶ原の戦いのあと、島津義弘が東の国境を守る拠点として、島津領内各地から数百人の武士を移住させ、ここ久津良名(くつらみょう)に「天ケ城」を築き、12ヶ村をまとめて高岡とした。

 1615年の一国一城令によって廃城となったが、城下町的な機能を持つ「麓」と呼ばれる地域を形成した。(島津藩では、武士たちが住むところを「麓」と呼んだ。)

 天ヶ城公園から見下ろす大淀川の流れと高岡の街並み。

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●宮崎県綾町(あやちょう)

  高岡町から綾町へ移動する。綾町は、宮崎県の中西部に位置する東諸県郡の町だが、宮崎都市圏に属する。

 綾は、奈良時代から日向の国の交通の要衝で、鎌倉から戦国時代までは伊東氏、江戸時代は薩摩島津氏が統治した。基幹産業は農業で、有機農業(自然生態系農業)に町ぐるみで力を入れており、綾牛・綾豚・綾地鶏などの畜産品は有名。

 昼食に、評判の「そば処まる」に入る。古民家の畳の座敷で、手打ちそばを味わう。えび天せいろそば1,000円は、リーズナブル。

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●綾の照葉大吊橋(てるはおおつりばし)

 綾町の本庄川(綾南川、大淀川の支流)に架かる吊り橋「綾の照葉大吊橋」に行く。入園料は350円。

 長さ250m、高さ142mの歩行者専用の大吊橋は、1982年に架橋。歩行者専用の吊り橋としては高さにおいて、2006年10月に大分県玖珠郡九重町の「九重"夢"大吊橋」(高さ173m)に破られ、日本で2番目。

 周辺の森は日本一の規模を誇る照葉樹林が広がっていて、2012年にユネスコエコパークに登録された。写真左手前の石碑は、「照葉樹林の自然 日本一」とある。

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 ユネスコエコパークは現在、志賀高原、白山、大台ケ原・大峯山・大杉谷、屋久島、綾、只見、南アルプスが登録されている。

 橋のたもとに「歩く吊り橋世界一」、「日本一悠久の森へ 新照葉大吊橋」の石碑が建つ。

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 対岸に向かって恐る恐る渡る。橋の揺れはあまりないが、強い風が吹くと人が飛ばされそう。また桁が網状で、足元から谷が透けて見えるので怖い。
 
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 対岸に渡ると、この先は照葉樹林の自然を歩く遊歩道がある。「山ヒルに注意」の看板と「遊歩道は土砂崩れの為、通行禁止」のロープが張られていた。

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 橋のスタート地点を望む。向うに見える建物は「照葉樹林文化館」。照葉樹林の植生や昆虫、鳥、動物の自然生態系と人々の暮らしが展示されているそうだ。

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 谷を見下ろすと、遊歩道をつなぐ「かじか吊り橋」が架かる。

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●綾・国際クラフトの城

 「綾・国際クラフトの城」は、伝統工芸や歴史・民俗資料の施設と綾城(あやじょう)がある。入園料は350円。

 門をくぐると左手に、綾で生まれた名刀工・田中国廣の像がある。

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 田中国廣は子供の頃から鍛刀に励み、長じて1586年(天正14年)に打った刀は、日州古屋住国廣作として国の重要文化財に指定されている。

 また国廣は文武両道にも秀れ、伊東氏が没落する際、伊東満千代(伊東義祐の娘の子、後に遣欧使節の伊東マンショ)の侍臣(じしん)として、大友宗麟を頼って豊後へ逃がした功績も残している。

 

 園内に建つ「綾城」は、1985年(昭和60年)、時代考証により中世風の城館の天守建造物が建設された。綾町産の木材を使って建てられた山城。

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  綾城は、いまから650年ほど前の元弘年間(1331年~1334年)に足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門が築城したとされる。義門の子・義遠は綾氏を名乗り、数代この城にて綾を支配したが、その後伊東氏の配下に入り、伊東48城の一つとして島津と戦う重要な拠点(支城)になっていた。

 1577年(天正5年)に伊東氏は家臣団の離反と島津氏の攻撃を受けて滅亡。その後は島津氏の支城となり、1615年に江戸幕府の一国一城令により、綾城は廃城となった。

 城内には、ジオラマ、甲冑、刀剣、武士の暮らしのパネルなど、歴史資料が展示されている。

 マネキン人形と音声で、島津氏に追われた伊東氏が綾城で、豊後に逃げる算段をしているシーンが説明されている。左に立っているのが、都於郡(とのこおり、現在の西都市)城主の伊東義祐、真ん中で座っているのが綾城主の佐土原遠江守、右が刀工の田中国廣。

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 綾城の最上階から見下ろす綾町の街並み。

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 園内には、「綾城」のほかに「工芸館」や「工芸体験館」の建物がある。

 綾では、草木染めによる染織、地産材による木工、竹細工、陶芸やガラス工芸など、様々な手工芸作りが盛ん。また良質のカヤが産出されるため、碁盤や将棋盤などの最高級品は、綾で創られたものが珍重されるという。写真下の「工芸館」では、これら工芸品が展示・販売されている。

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 「工芸館」の一角の展示室に、「昭和の暮らし」の展示があった。数十年前のラジオや扇風機などの家電製品、蓄音機やレコード、ポスターやパンフレット、「平凡」や「明星」の娯楽雑誌、アイドル写真集、人形やおもちゃ、コーラなどの空き瓶や空き缶、置物などなど・・・、いつまで見ていても飽きない。

 特に、大小のビクターの犬はたくさん展示されていて、懐かしかった。

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 その他園内には、「工芸体験館」や「綾陽校記念館」があるが、入館せず。

 「工芸体験館」では、織物や陶芸のオリジナル作品作りの体験ができるそうだ。

 「綾陽校記念館」は、明治時代に建築された綾小学校の校舎をこの敷地内に移築し、町民から贈られた農具や生活用具の他、明治時代の教科書などを展示する歴史資料館となっているという。

 

 5月23日(火)の帰路、宮崎空港から羽田空港へ向かうソラシドエア機。眼下に伊豆大島、中景は伊豆半島、遠景に富士山。

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 高岡町の天ケ城は、石垣などは古そうだが、実際に存在した天守閣を復元したものでない。いわゆるコンクリート造りの「模擬天守」とよばれる観光用の建物だ。

 こういった模擬天守は、全国各地に作られていている。筆者は、歴史をねつ造、誤解するのものとして否定する。どうしてもこんな城を建てたければ、復元したものではない模擬天守閣だと、パンフレットや城に入口に明確に説明すべきであると思う。

 綾城も、中世の城として元々資料や設計図は残されていなかった為、各地の城を研究をして設計図を作った「模擬天守」である。築城に関しては、「日本城郭協会」にお墨付きを頂いているそうだ。綾城を建てるにあたって、江戸時代ではなく全国でも珍しい中世の城にした点、コンクリート造りでなく、全ての材料が綾産の木材だという点が面白い。

2017年5月31日 (水)

羽田空港から長崎空港

 5月18日(木)、羽田空港から長崎空港へ向かう。
 

 羽田空港第2旅客ターミナルビルの2階の出発ロビーは、ここ2,3年前からリニューアルされている。搭乗口を色別に4つのエリアに分け、電光掲示板では搭乗便に割り振られた色とエリアを確認し、最寄りの保安検査場の前にエリアA~Dの大きな垂れ幕で分かり易くしてある。

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 2015年7月から「ANA自動手荷物預け機」が設置された。手荷物カウンターに並ばずに、簡単な操作で手荷物が預けられるが、最初はちょっと戸惑う。

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 羽田空港長崎空港行き搭乗便。

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 長崎空港に到着。(写真は、2015/10/18撮影)

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 長崎空港のターミナルビルは、オランダの教会をモチーフにデザインされている。

 内観はドーム天井やステンドグラスが設けられたり、外観はレンガ色で鐘楼が設置されている。。(写真は、2015/10/18撮影)

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 海上空港である長崎空港に架かる箕島(みしま)大橋を渡り、大村市街地へ向かう。

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 大村市の岩船(玖島2丁目)にある最近整備されたという「愛宕山公園」に行って見る。

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 「愛宕山」の山頂(標高33m)の広場には、聖徳太子を祀る祠がある。

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 愛宕山からは、大村湾や市内を展望できる。

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 愛宕山公園から望む大村湾に浮かぶ長崎空港。

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 愛宕山公園から望む大村湾に浮かぶ玖島城(大村城)の板敷櫓(いたじきやぐら)。

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 大村藩の武家屋敷通りを散策。立派な石垣と門が残る稲田家家老屋敷跡(現在は民家)。

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 武家屋敷跡の中尾元締役旧宅。石垣や門、寄棟つくりの建物が残るが、現在は民家となっている。

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 長崎県立大村高校は、1670年(寛文10年)九州で初めに開学した藩校が前身。

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 東京の愛宕山は、東京都23区内の最高峰で25.7m。山頂には愛宕神社もある。

 愛宕神社の関連ブログ記事 「新橋・品川界隈」 2014年1月31日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/index.html

 東京をはじめ、全国各地に愛宕山や愛宕神社があるに気がつく。

 調べると全国に約800とか900社とされる愛宕神社があるそうだ。本社は京都市の最高峰の愛宕山(標高924m)に鎮座している。京都の愛宕山は、京都盆地の西北にそびえ、京都盆地東北、滋賀・京都の県境にある「比叡山」(標高834m)と並び古(いにしえ)より信仰対象の霊山である。
 
 

 長崎空港は、大村湾に浮かぶ有人島「箕島(みしま)」を造成して作られた世界初の海上空港で、1975年(昭和50年)に開業。本土側とは970mの「箕島大橋」でつながる。

 離島航路や上海とソウル航路がある国際空港で、長崎県の空の玄関口。以前は、海軍飛行場跡の大村空港(大村市今津町)を、海上自衛隊と民間航空会社とが共用していた。

 長崎空港に関する関連ブログ記事 「長崎空港と天正遣欧少年使節」 2015年10月30日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/index.html

 

2017年5月 3日 (水)

小説「火花」

 2015年の芥川賞を受賞したお笑い芸人・又吉直樹の小説『火花』の文庫版(文春文庫、580円+税)が、2017年2月10日に発売された。

 このベストセラー小説は、文庫版が出たら読もうと思っていたので、販売されるとすぐに買って読み始めた。

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 一方で小説『火花』は、日本のネットフリックス社と吉本興業でドラマとして製作され、2016年春にネットフリックス社から映像が世界に向け配信されたそうだ。

 ネットフリックス社(Netflix, Inc.)は、インターネットを介してDVDレンタルや映像ストリーミング配信事業会社。本拠地は米国カリフォルニア州にあり、世界各国でも運営されている。ストリーミング配信では、既存映画などコンテンツのほかにオリジナルのコンテンツも配信されている。(ストリーミングとは、インターネットを経由して動画データをダウンロードしなくても視聴できるようにするための技術)

 それのコンテンツの再編集版が2017年2月末 から、NHK総合テレビでドラマ『火花』全10話として放送が始まったのだ。放送は、2月26日(日) から毎週日曜午後11時00分。50分番組で、全10話。

 NHKドラマは、日曜夜遅い放送だったこともあって、見逃した回もあったが、4月30日(日)の最終回(第10話)まで見終えた。ドラマは小説にかなり忠実に作ってあり、セリフも小説とほとんど同じだった。

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 売れない漫才コンビ「スパークス」の徳永(林遣都、写真左)は、営業で行った熱海の花火大会で先輩コンビ「あほんだら」の天才肌の芸人・神谷(波岡一喜、写真右)と出会う。神谷の強烈な漫才にショックを受け、その才能に憧れて師匠になって欲しいと懇願。神谷は、徳永の弟子入りの条件に「俺の伝記を作ってほしいねん」と要求、師弟関係が始まる。

 二人は共に過ごすことが多くなる。居酒屋に行っては「笑い」とは何か、「漫才」、「人生」について熱く語り合う。先輩はお金の余裕はなくても、いつも後輩に飲食を奢るのが芸人世界なのだ。神谷は、「笑い」に対する自分の考え、信念や理想を持っている。その神谷に影響を受け、すべてを吸収しようとする徳永は神谷の元で次第に成長していく。

 少しづつであるが、売れていく徳永のコンビ。自分の信念で誰にも媚びないが、どこか荒唐無稽さは、周囲からは理解されず万事がうまくいかない神谷のコンビ。

 神谷は飲みに行けば、女の子にはモテる。同棲している彼女・真樹(門脇麦)もいたが、男が出来たため、アパートから追い出されてしまう。やがて二人の間で、歯車は少しずつ噛み合わなくなって来る。多額の借金を抱えたまま、苦悩する神谷はいつも間にか姿を消してしまうのだった。

 やっと売れ始めた徳永は、この道に入ってからもう10年が経っていた。やがて徳永に人生の転機がやってくる。コンビ「スパークス」の解散だった。そして1年ぶりに再会した神谷の絶望的な姿を見て、徳永は驚愕する・・・。

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 監督は、寺島しのぶ主演の映画『ヴァイブレータ』 (2003年公開)で知られる廣木隆一。

 

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 この小説は、筆者の身近な人にはあまり評判は良くない。NHKのドラマも、熱心に見たのは最初の回だけで、後は見なくなった。

 ネットでも、内容が無いし全然面白くないという声も多かったようだ。放送前には話題となったが、回を重ねるにつれ視聴率も落ち込んでしまったそうだ。ネット上では、キャストの声が小さくボソボソに聞こえる、ストーリーの展開が遅くて飽きてしまう、 映像が退屈で途中で寝てしまうなどが寄せられていたという。なるほどその通りだ。

 このドラマ作品の廣木監督は「この作品は空気感が肝」と言っているそうだが、映画通でない筆者にはその意味がよく理解できない。確かにカメラの長回しや遠くから撮影する引きの映像が多くて、NHKが作るような大多数の人に分かり易いドラマとは明らかに違う。

 芥川賞のこの作品を読んで最初の印象は、又吉の文章の表現力がすごい。彼には失礼だが、漫才師がよくあんなに素晴らしい文学らしい文章が書けるものだと尊敬してしまった。これまでビジネス文書やブログ記事くらいしか書いたことはない筆者は、彼の文章力に憧れてしまう。このブログもあんなふうな文章で書ければ良いのだが・・・。

 小説を読み始めてから、ダラダラした物語の展開で、著者は何が言いたいのか、何か感動するようなこともなかった。これは「大衆小説」のようだが、確かに「純小説」なのだ。一般的には、筆者のような読書家でない人間には難しい部類の小説なのかもしれない。

 読み終わってみると、「笑い」とは何か、「天才」とは何か、「人生」とは何かを考えさせられた。しゃべりの才能も社交性も乏しかった主人公が、先輩芸人に影響を受けて次第に成長していく。一方で、笑いや人生について語らせると自分の哲学を持っていて、自分の考えをつらぬく、他人に媚びない天才肌の芸人は、結局は周囲に理解されず、人生の裏側へと去って行く。師弟関係だった若者二人が、皮肉にも反対の道を歩むことになる。

 

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 神谷ほどではないが、自分の人生の中でも似たような人は周囲に何人かいた。せっかくその道の才能はあるが、周囲から理解されない、周囲に溶け込んでその中で生きようとしない。徳永のような一部の人には慕われたり尊敬されたりするが、理屈っぽくて自分勝手、自分だけが正しいとする独善的で排他的な人、周囲との社会性が乏しい人。人の立場や痛みが分からない人、約束を守らない人、金銭感覚に乏しい人、酒におぼれる人・・・、そんな人と神谷とが重なる。

 神谷は本当にお笑いの「天才」だったのか、単なる「天才肌」だったのか、才能はあったのか。もし彼が、お笑い芸人ではなく、才能ある芸術家だったら・・・、実力のあるスポーツマンだったら・・・・、名を残すような人になったのだろうか。

 天才の多くは、それと裏腹の何かの欠点を持っているはずだ。コンピュータの実業家スティーブ・ジョブズ、発明家のエジソンや理論物理学のアインシュタイン、そのほか天才音楽家も天才画家も、何らかの発達障害や適応障害があったとされる。このために周囲といろいろと問題を起こしているが、素晴らしい業績を残した天才だ。才能と欠点をうまくバランスしてこそ、天才が人生で成功するのだろう。

 小説の主人公・徳永が書いた「神谷さんの伝記」が、ノート20冊になったとある。実際に著者の又吉直樹は、神谷のような師匠と仰ぐモデルになった先輩(1人でないかもしれない)がいたのだろう。そんな先輩から教わった事、語り合った事、出来事などをノートに書き留め続け、それを元に小説を書いたのではないだろうか。

 なお2017年2月14日、小説『火花』の映画化が発表されたそうだ。2017年11月に公開予定。auのCMの菅田将暉(徳永)と桐谷健太(神谷)、木村文乃(神谷の彼女・真樹)が演じ、監督は板尾創路。もう一つ楽しみが増えた。

2017年4月30日 (日)

全日本モトクロス選手権2017関東大会

 4月23日(日)、2017年「全日本モトクロス選手権」第2戦関東大会に観戦に行く。

 

 会場は、埼玉県川越市の県道51号線の入間川に架かる入間大橋、荒川に架かる開平橋に挟まれた河川敷にあるウエストポイント・オフロードヴィレッジ。

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 係員の案内で河川敷に車を駐車(1,000円)。7時40分ごろ入場(当日券は大人4,000円)。

           
 全日本モトクロス選手権シリーズの2017年第2戦となる春の関東大会は、埼玉トヨペットカップとして4月22、23日の2日間にわたり、予選・決勝戦が開催された。選手権シリーズは、4月4、5日に2017年開幕戦(第1戦)の九州大会(熊本)をスタートに、全国で9戦まで行われる。ここ川越市の会場は、秋には第8戦も行われる。

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 すでに7時20分頃から、下位クラスから順に公式練習が始まっていた。練習風景を見て会場を回り観戦スポットを下見、また有料観客席(1,000円)を確保する。

 9時から大会式典が始まる。大会会長の赤坂正人氏(関東モーターサイクルスポーツ協会会長)の挨拶。

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 競技方法は、横一線に並んでスタートし、制限時間内に最も多く周回を重ね、最初にチェッカーを受けた者が勝者。競技時間はクラスによって異なり、トップレベルの国際A級の場合は30分+1周で行なわれる。

 コースは、急勾配や凸凹、急カーブがある1周約3Kmの野山や丘陵をイメージした舗装されないオフロード。決勝は2レース(ヒートという)制で、両ヒートの合計ポイントで総合順位が決まる。

 国際A級2500cc(IA2)クラスのマシンのゼッケンは、黒字に白文字。IA2は最高峰の国際A級450ccクラス(IA1)に次ぐクラスで、10代から20代の比較的若い選手が多い。

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 ジャンプが高く上がり過ぎ、滞空時間が長いと時間ロスになる。

 バイクの走りに合わせてカメラを動かし遅いシャッター速度で「流し撮り」。

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 国際A級2500ccクラス(IA2)クラス、ヒート1の表彰式。優勝から3位までにトロフィーと賞金が贈呈、このあと勝利インタビュー、シャンパンファイトがある。

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 国内最高峰の国際A級450cc(IA1)クラスは、赤字に白文字のゼッケン。

 土煙を撒き上げたIA1クラスのスタートダッシュ。

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 フィニッシュゲート付近をジャンプで通過。

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 白と黒のチェッカーフラッグが振られて、レース終了。フラグを受けた順に順位が決まる。

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 エントリーが多い国際B級(IB OPEN)は250ccのマシンで争い、国際A級への昇格を狙う。レースは、20分+1周で2ヒート制。

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 転倒してコースから外れた選手は、この後レースに復帰した。

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 国際B級(IB OPEN)ヒート1の表彰式でのシャンパン・ファイト。ライダーは中高校生くらいに見えるが、未成年でも勝利を祝ってシャンパンをかけあう。

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 チャイルド(CX)クラスのスタート。マシンは50cc、ゼッケンは白地に赤文字。他のクラスよりも短いショートコース、1ヒート制。

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 この子は後ろ髪が長いので女の子のようだが、3位に入った。

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 参加選手は全員壇上に上がり、参加賞を受けていた。

 チャイルド(CX)のほかジュニア(JX)クラスがあるが、前日に決勝が終わったようだ。

 レディス(LMX)クラスは、1ヒート制で15分+1周。

 スタート前のコース1周のウォーミング走行で、転倒して担架で運ばれるライダー。

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 レディスの正式スタート。マシンのゼッケンは白地に黒字。

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 スタート直後に、再び2、3台が接触して転倒。すぐに起き上がれないライダーを、土煙の舞う中で、スタッフが救助する。

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 昨シーズン、日本モトクロス史上最多となる11度目のチャンピオンとなった国内最強のIA1クラスの成田亮選手(36歳)は、通算150勝の目前でこの大会を迎えた。

 第1戦の熊本大会では、成田選手はヒート1で優勝したもの、ヒート2では山本鯨選手が優勝して、総合暫定1位を奪われた。

 第2戦の本大会では、ヒート1では成田選手が好スタート、山本選手がこれに続くが後半で成田を抜き優勝、成田が2位、新井宏彰が3位だった。ヒート2では、スタート直後の第1コーナーで多重衝突が発生して山本選手が転倒して遅れてしまう。新井選手が優勝、成田が4位でゴールした。

 成田選手は、本大会ヒート1、2とも優勝を逃したが、第1、2戦までの総合ポイントでは山本選手を抑えて暫定1位となっている。

 ゼッケン番号1番をつけたトップライダー成田選手のウィニングラン。

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 帰りの駐車場が混まないうちに、15:30退場。
 

 ★ ★ ★

 4月4、5日に行われた2017年の開幕戦(第1戦)の九州大会では、大量の降雨によるマディコンディション(泥んこ)での波乱のレースとなったそうだ。

 今回の第2戦は4月22日(土)は夕方から夜にかけて雨が降ったが、決勝日の23日(日)は朝から晴れ、すぐに路面状況は回復してドライコンディション。最高気温19℃の初夏を思わせる陽気だった。本大会2日間で、約8,000名の観客が来場したそうで、土・日曜日とあって家族連れも多かった。

 この日は良い天気だったがゴム長靴は必須。多くの観客が長靴を履いている。河川敷のコースも観客席もダート(芝生や舗装なしの土のまま)で、あちこちに水たまりやぬかるみがある。

 観客席にも泥はねや土ほこりが飛んできて、それにエンジンの轟音がこのモータースポーツの醍醐味。好きでなければ、こんな環境の悪い場所には絶対来ないだろう。

 帰ったら、顔は日焼けして砂ほこりでザラザラ、それに花粉症がさらにひどくなってしまった。屋外の騒音の中で、場内をカメラ片手に動き回ったせいか、ドッと疲れが出る。

 

 関連ブログ記事 「全日本モトクロス選手権」 2015年4月22日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-7493.html

2017年4月26日 (水)

森林公園の春の花

 4月21日(金)、国営武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)に行く。
 

 関東では、4月中旬から夏日(最高気温20℃以上)や真夏日(最高気温25℃以上)が続くことが多く、「春」というよりもう「初夏」。

 森林公園では、4月22日から5月28日まで「わかばフェスタ」が開催中。その開催前日のこの日は、雨が降りそうな曇り空だったが、開花した花を探して園内をめぐる。 

 

 赤や黄色、白、ピンク色など様々な色のチューリップ。「中央口ゲート」付近のチューリップ花壇。

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 「植物園展示棟」前のチューリップの花壇。

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 チューリップはほとんどが、もう見頃を過ぎていた。

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 一言で「チューリップ」といっても5,000もの種類のチューリップがあるそうだ。残念ながらその種類の名前までは確認できなかった。

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 「植物園展示棟」前に咲いていた珍しいシラー・ペルビアナ。日本名は大蔓穂(おおつるぼ)、ユリ科で地中海沿岸原産。

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 「西口ひろば」花畑では満開のネモフィラが、ブルーの湖のように一面に広がる。日本名は瑠璃唐草(るりからくさ)、ムラサキ科、アメリカ原産。

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 園内各所にある林の中には、鮮やかな赤のヤマツツジ。

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 「公園・庭園樹園」は、公園や庭園で使われている樹木が鑑賞できる場所。例年ここの花畑でチューリップが咲いていた。昨年2016年からルピナス畑となっている。咲き始めたルピナスの花が、ゆるやかな斜面に広がっている。

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 フジ(藤)を逆さにしたような花の形から「ノボリフジ(昇り藤)」ともいうそうだ。

 下のクローズアップ写真は、同じ場所で2016/5/27撮影。

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 広大な「運動広場」の花畑、赤・黄・白のアイスランドポピーがちょうど満開。

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 写真上部に見える白いものは、日本一大きなエアートランポリン「ぽんぽこマウンテン」。

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 日本名は、シベリアヒナゲシ(西比利亜雛罌粟)、ケシ科の植物。原種は、シベリア、モンゴル、中国の北部などに分布。英名のアイスランドは、シベリアと気候が似ているためで、アイスランド共和国とは関係ないそうだ。

 

 

 関連ブログ記事 「森林公園の初夏の花」2016年6月4日投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-f26b.html

2017年4月15日 (土)

熊谷桜堤の花見サンデー

 4月9日(日)、埼玉県熊谷市の「熊谷桜堤」に行く。

 

 この日は朝方雨が降っていたが、その後はどんよりとした曇り。

 桜の満開で迎えた日曜日、「花見サンデー」は全国各地の名所で賑わっているようだ。

 JR熊谷駅(埼玉県熊谷市)から徒歩5分ほどの「熊谷桜堤」は、江戸時代から知られる桜の名所。1990年(平成2年)には「日本さくら名所100選」にも選定されている。荒川堤の約2Kmにわたる約500本のソメイヨシノの桜並木は、そろそろ散り始めていた。

 毎年「熊谷さくら祭」が開催され、大勢の花見客で賑わいを見せている。さすがに前日に行った「吉見さくら堤」とは、比べられないほどの混雑ぶり。桜堤の周辺は車が列を作り、無料駐車場に入れるのも待たされる。周辺の有料駐車場も満車だったが、運良く1台空いたのでそこに駐車。

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 土手の上の遊歩道を歩く花見客と荒川の河川敷。

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 土手の下に植えられている桜の花は、土手から目の高さで楽しめる。

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 桜の木の下にシートを敷いて楽しむ花見客。

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 土手の下にはぼんぼりも並んで、約50軒の露店で賑わいを見せている。

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 薄暗くなるころ、ぼんぼりが灯る。やがてライトアップされて、夜桜も楽しめる。

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 桜の木に登った猫の親子(飼い猫)がいた。

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 ★ ★ ★

 「熊谷桜堤」は、安土桃山時代の1580年(天正8年)頃に荒川北岸に築かれた堤にその後桜が植えられ、江戸時代頃から桜の名所として有名となった。当時の熊谷桜堤は、現在の桜堤よりもっとJR熊谷駅に近いところにあったそうだ。

 明治時代になって枯れたりしたが、植樹後に再び栄えるも大正時代に大火で多くが焼失したり枯れてしまった。1952年(昭和27年)の荒川改修に伴い、新たな「熊谷堤」が築かれ、そこに熊谷市の市制施行20周年事業として植樹、現在の「熊谷桜堤」となる。

 旧熊谷堤の一部は、現在の熊谷桜堤より歩いてすぐの「万平公園」として、桜とともに残されている。

2017年4月14日 (金)

吉見さくら堤公園

 4月3日(月)と8日(土)、埼玉県比企郡吉見町の「吉見さくら堤公園」へ行く。

 

 4月2日(日)、全国トップで東京の桜(ソメイヨシノ)が満開になったそうだ。平年より1日早く、昨年より2日遅い満開だという。しかし東京でも偏りがあって、場所によってはつぼみの所もあるという。

 3日(月)、近郊の「さくら堤公園」へ行くが、やはり東京に比べて桜はさっぱりだった。まだ、2~3分咲きというところか。遠目には、枯れ木の並木でしかない。

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 土手の菜の花は、満開。

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 わずかに開いた花を探して、撮ってみる。

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 わずかに開いた花を求めてミツバチがやって来た。

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 当然、花見客はほとんどいない静かな公園だった。

 

 
 ★ ★ ★

 その後数日間暖かさが続いたせいか、あちこちで満開の便りを聞くようになった。

 4月8日(土)の午後、雨が降りそうな曇り空だったが、再び「さくら堤公園」にいくと、前回と打って変わって満開の桜のトンネル。

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 ピンクの桜並木と黄色いじゅうたんが続く。

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 この1..8kmほどの桜堤は遊歩道となっていて、桜のトンネルの中は、花見客で賑わっている。遊歩道は、サイクリングコースにもなっていて、時々サイクリストが通り抜けて行く。

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 菜の花を背景に、桜の花のクローズアップ。

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 ★ ★ ★

 桜の開花は、秋冬の寒さと春先の暖かさの寒暖差が大きいほど早まるそうだ。今年は、全国的に暖冬だった。開花前の時期に東京では、平年並みの暖かさが続いた。一方3月の気温が低かった九州・四国では、開花が1週間から特に大分・宮崎・鹿児島などは10日以上も遅れたらしい。

 ここ「吉見さくら堤」公園は、昭和52~53年に当時の青年団が、ふるさと歩道の設置とともに約200本の桜の苗木を植栽した比較的新しい桜の名所。露店の出店やぼんぼり、夜桜鑑賞も無くて、すっきりした桜並木も珍しい。

 この公園は、一般的な公園のように広場や遊具があるわけではなく、長さ約1.8kmの桜堤の公園。土手には菜の花、秋には一面彼岸花が咲く。堤の上には舗装された遊歩道が整備され、さいたま市の秋ヶ瀬公園と滑川町の武蔵丘陵森林公園とをつなぐ総延長46kmのサイクリングコースの一部となっている。
 

 堤に沿って西側には「市野川」に注ぐ「文覚川」という小川があるが、堤の両側は水田地帯が広がっている。この堤は、何の為にあるのだろうか。

 昔から荒川は、大雨に見舞われれば幾度となく氾濫を起こし、幾度もその流路を変え、その名前のとおり「荒ぶる川」であった。一方、それによって流域には肥沃な土地が広がり、その土地や集落を守るために様々な治水工事が重ねられてきた。

 吉見町は東に「荒川」、北は荒川支流の「和田吉野川」、南には荒川支流の「市野川」と、三方を川に囲まれているため、たびたび洪水が起きた。

 元和年間(1615~1625)、江戸幕府の関東郡代(かんとうぐんだい)・伊奈忠次(いなただつぐ、忠治という資料もある)によって、西の丘陵地を除く三方、吉見領を囲むように「吉見領囲堤(よしみりょうかこみてい)」と呼ばれる堤が築かれたのだ。

 「さくら堤公園」の堤は、この「吉見領囲堤」の名残りだそうだ。

2017年3月20日 (月)

奥武蔵・天覧山と多峯主山

 3月11日(日)、奥武蔵の天覧山と多峯主山(とうのすやま)へハイキング。
 
 

 埼玉県飯能市の東飯能駅前から、天覧山(標高195m)と多峯主山(標高271m)に登り、吾妻峡と飯能河原を経て東飯能駅までの「山峡に歴史を訪ねるコース」、約9Kmを歩く。

 9:30、東飯能駅着、西口前のファミリーマートで昼の弁当を購入。

 9:45、駅西口前をスタート。大通り商店街(県28号、県道70号重複)を西に向かって歩く。
 
 

●店蔵絹甚とひな飾り(10:05)

 大通りに面した「店蔵絹甚(みせぐらきぬじん)」は、飯能市の有形文化財に指定されている歴史的建造物。

 飯能は、かつて絹の集散地であった。江戸時代から商いをしていた篠原家は、明治時代には絹関連(絹織物、生糸、繭、蚕の卵)の買継商を営んでいた。「絹甚」は、篠原甚蔵の名前の「甚」を取った屋号。明治30年代後半に建てられた土蔵造り2階建て、店蔵、居宅と土蔵の3棟は、建築当初の様子をほぼ残しているという。無料で建物内の見学ができる。 

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 「飯能ひな飾り展」が、「店蔵絹甚」をはじめとして市内の各商店や公共施設などで、2月下旬から3月中旬まで開催されている。下の写真は、「店蔵絹甚」内の見世(店)で展示されていたひな飾り。

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●観音寺(10:10~10:35)

 駅から大通り商店街を1Km余り歩いた所、飯能河原交差点の角に市街地の寺院として市民に親しまれている真言宗智山派「観音寺」がある。

 江戸時代の文化・文政期ごろには、「高麗郡三十三ヶ所霊場」の10番札所として庶民の信仰を集めた。また「武蔵野七福神」の1寺で、正面の不動堂に寿老人が安置されている。その右手は本堂(観音堂)。

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 七福神の寿老人を祀る観音寺の不動堂。

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 1867年(慶応4年)の「飯能戦争」で、幕府軍(反新政府の「振武軍」)が本陣とした「能仁寺」(後述)のほか「智観寺」、「心応寺」などともに立てこもった寺の1つである。

 この日は、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」がこの境内でも開催されていた。焼きたての焼き芋や、つきたてのあんころ餅(会津若松産の餅米使用)を買って食べ、支援に協力。

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 この寺の鐘撞き堂には、太平洋戦争中に鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていた。1965年(昭和40年)頃に市内の檀家が仏教の世界に出てくる白象を製作、この鐘撞き堂に収め、現在に至っている。

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 漫画・TVアニメ『ヤマノススメ』には、この白象が何度も登場するそうだ。白象と一緒のアニメシーンを描いた看板が置かれ(写真に撮らなかったのが残念)、キャラクターを描いた絵馬も販売してされている。この象を目当てに訪れる『ヤマノススメ』のファンも多いという。

 また観音寺の境内には、飯能鬼子母神が建立されている。鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所など地元関係者の協力によって2007年(平成19年)に設置された。

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●諏訪八幡神社(10:40)

 「観音寺」の裏手の墓地から林の中の裏道を歩くと、「諏訪八幡神社」の参道の石段がある。神社は、左手の「郷土資料館」と右手の「市民会館」に挟まれて建っている。

 地元では「おすわさま」と呼ばれ、16世紀に信濃の国の諏訪明神(諏訪大社)を勧請(かんじょう)したとされる。

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 境内にある「飯能恵比寿神社」は、先の「観音寺」の不動堂と同様に「武蔵野七福神」に数えられ(その中では唯一の神社)、恵比寿と大黒天を祀る。

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 秋祭りには、この神社に伝承されている獅子舞が奉納されるという。3頭立(3人一組)での「ささら獅子舞」で、天下泰平、国土安穏を祈る。市指定の無形文化財。(ささらは、竹を細く割って作った楽器で、ささら獅子舞はその楽器を使った踊りのこと。)

 

●震災復興元気市(10:45~11:00)

 「諏訪八幡神社」のすぐ隣に、桜で有名な「飯能中央公園」がある。

 この日3月11日は、6年前の東日本大震災の日。「飯能中央公園」をメイン会場に、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」が、市内各地で開催されている。ここはメイン会場とあって、大勢の市民で賑わっていた。

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 公園に隣接する飯能市民会館では「チャリテイよさこい」や、地元の駿河台大学による「元気フェスタ」が実施されていた。

 宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で津波に合い、がれきの中から見つかった「東禅寺」の釣鐘が会場に設置されている。来場者に、鎮魂供養と復興祈願に撞(つ)いてもらっていた。

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 名取市「東禅寺」の三宅住職と飯能市「法光寺」の大野住職は、駒沢大学宗教学部の同級生。震災から1カ月後、大野住職たちが、がれきの中から東禅寺の3つの鐘を捜し出した。「東禅寺」が再建するまで「法光寺」で預かっているそうだ。

 会場では、ボーイスカウトによる募金活動も行われていたので、わずかだが協力する。

 

●能仁寺(11:05~11:10)

 曹洞宗「能仁寺」は、中央公園を出るとすぐ、「天覧山」の南麓にある名刹。

 仁王像(日本彫塑会会員 鏡恒夫氏製作)のある山門をくぐる。

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 石段を上ると中雀門。

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 正面に立派なの本堂が建つ。右手前の手の指のようなオブジェは、 作品名「紅炎魂・コロナ」、 「作:絹谷幸太 2009年4月」 と書いてあって、炎を表現しているらしい。

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 創建は、戦国時代。飯能地方の領主・中山家と黒田家の菩提寺となり、江戸時代には将軍家の庇護のもと栄華をきわめた。1868年(慶応4年)の「飯能戦争」の本陣となり建物と多くの宝物や古文書が焼失してしまった。

 1936年(昭和11年)に本堂が再建、1976年(昭和51)年から復興を続け、現在では山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成している。山門からの石灯籠が並ぶ砂利道の参道は風情があり、秋の紅葉の頃は撮影スポットになる。広大な境内は、手入れが良くゆきとどいていて、なんとも心が洗われる。

 この寺には、中山家三代の墓と黒田家累代の墓があるという。また本堂の北庭には桃山時代(1573~1615)の造園とされ、市の指定文化財、日本名園百選の「池泉鑑賞式逢庭園」があるそうだ。

 

●天覧山(11:40~11:45)

 「天覧山」は、山というより標高195mしかない丘である。春はつつじ、秋は紅葉でも有名。山麓にある「能仁寺」の守護神である愛宕権現を祀ってあるところから、元来は「愛宕山」と呼ばれていた。5代将軍綱吉の時に、綱吉の病気平癒のお礼に、生母・桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので「羅漢山」となったという。

 その後1883年(明治16年)4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことで、「天覧山」と呼ばれるようになった。山頂には行幸記念の石碑が建てられている。

 「能仁寺」の境内を出るとすぐに、「天覧山登り口」の看板がある。

 山道を進むと、やがて山腹に市街を展望できる「中段広場」と呼ばれる公園のような小広場に着く。トイレや東屋(あずまや)があり、ここで休憩。明治天皇が山に登られた時は、ここの松の木に馬をつないだという。

 広場には、「山峡に歴史を訪ねるコース」の大きな案内図が立っていた。(写真をクリックすると拡大)

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 この先を進むと分岐があり、どちらも頂上に行けるが、左手の岩場の方の道へ行く。崖には将軍綱吉の生母・桂昌院が寄進した羅漢像があった。

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 山道は狭くなり急坂になるが、石段となっていて、谷側には鎖が張られている。

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 そういえば、数10年前に登った時はもっと自然に近い山で、今のような石段や鎖のガードはなかった。

  山頂に着くと、展望台がある。標高は低いが眺望はよく、飯能市街が一望。また奥武蔵・奥多摩の山々のほか、この日は見えなかったが遠く富士山を望むことができる。

 都心方面の高層ビル群が見える。

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 奥多摩の大岳山(標高1267m)が中央のピーク)、御前山(1475m)は右側のピーク。

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 山頂の裏手から松林の中を下り始めると、団体らしい大勢のハイカーとすれ違いが続く。

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 谷に下りると、水田跡の湿地に出る。

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 やがて、いつの間にか尾根道となると「見返り坂」の看板があった。この坂は、源義経の母・常盤(ときわ)御前が、あまりの景色の良さに振り返り振り返り登ったという伝説がある。今は杉の木があってまったく見晴らせない。



●多峯主山(12:25~13:00)

 「多峯主山」は、「天覧山」の北西にある標高271mの山。「多」くの「峯(峰)」の「主」の山と書いて、「とうのすやま」とはなかなか読めない。名の由来は諸説あるが、この辺りの山々の中では最も高い山。

 多峯主山に登る延々と続く坂道と階段。

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 やがてこの道も2手に分かれ、どちらも山頂に行ける。左手は、「雨乞い池」や黒田直邦の墓を経て山頂へ行くコース。

 右手の尾根伝いの道から直接山頂へ行くことにする。

 多峯主山の山頂(標高271m)標識。三等三角点がある。ここで昼食。

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 低山でありながら271m山頂からの眺望に恵まれ、東の平野部、南から西、北と広がる山間部が見渡せる。

 気がつかなかったが、頂上にはお経を書いた石が1万2千個も埋められてる「経塚」があり、古くから信仰の対象になっていた。写真に写ってないが、この山頂標識の下にあった「石経供養塔」の石碑が、「経塚」だったようだ。

 北西の方向にはっきり見える秩父の武甲山(標高1295m)。

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●御嶽八幡神社(13:15~13:20)

 多峯主山からしばらく下ると、「御嶽八幡神社」。通称「おんたけさん」、創立年代不詳。「前岩」と呼ばれる巨岩の上に、社(やしろ)がある。産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守護神)として信仰が厚い。

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 つづら折りの急な階段や坂道を下る。

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 多峯主山から下山すると、麓にはお城のような幼稚園(大東幼稚園)があって、この日は卒園式のようだ

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●吾妻峡(13:50~14:15)

 県道70号線に出ると、標識に従ってしばらく名栗方面(北西方向)へ歩き、ドラッグストア(バイゴー)の横を南に入り坂道を下る。民家の路地を通り抜けると、入間川に出る。

 飛び石のような「ドレミファ橋」を渡る。増水時には、通行禁止となる。

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 入間川にかかる「岩根橋」を境に上流が「吾妻峡」で、下流が「飯能河原」。静かな流れの峡谷は、巨石や奇石が点在し渓相美を見せる。

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 「山峡に歴史を訪ねるコース」では、ドレミファ橋を渡った後は対岸の車の通る道を歩く。その脇道に川沿いの「吾妻峡の河原を歩く散歩道」があり、こちらを歩くことにする。予定していた聖徳太子を祀る「八耳堂」(はちじどう、太子堂とも呼ぶ)はスキップ。

 下流に向かい、赤石、兎石(写真下)、汽車淵と名付けられた奇石が続く、人通りの少ない静かな散歩道。

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 中平河原で、約700mの散歩道は終わり、川岸に上がる。大沢川にかかる大沢橋を渡って「飯能河原」に向かう。

 

●飯能河原(14:50~14:55)

 県道28号を歩くとY字路、左が入間川を渡る「岩根橋」、右へ行くと「飯能河原」。

 やがて入間川が大きく蛇行した広い「飯能河原」に着く。この河原は、駅から徒歩20分ほどの市街地近くにある。

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 飯能河原は、緑と清流のまち・飯能をまるごと体感できるという。飯能河原にかかる赤い「割岩橋」の下流両岸は、「さいたま緑のトラスト」の保全地に指定されている。

 バーベキューやデイキャンプ、浅瀬は子どもたちの川遊びなどの絶好のレジャースポット。昔、家族でここに来て、テントを張ってバーベキューをしたことがある。今は人影も少なく静かだが、夏になると賑やかな声が絶えない。

 飯能河原を渡って、もと来た「大通り商店街」を歩き、東飯能駅に向かう。

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 大通り(県道28号)の広小路交差点に銅像がある。説明板を見ると、双木利一(なみきりいち)先生とある。製作は、彫刻家の清水多嘉示。

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 大正から昭和の時代、飯能小学校校長から銀行支店長、町長、県議会議員として活躍、飯能市の発展に人生を捧げた郷土の名士。1939年(昭和14年)8月没、享年62歳。

 
 15:15、東飯能駅着。ここまでの歩程15,700歩、約9.4Km。休憩を入れて所要時間5時間半。

 15:20、東飯能発の川越駅行きに乗車。15:47、川越駅着。

 川越駅東口から延びる商店街「クレアモール」にある「さくら水産」で、2時間ほど打上げ(16:00~17:50)。夜7時過ぎに帰宅。

 

 この日は、汗ばむほどの良い天気で、上着なしでOKだった。しかし風が少しあって、この後またひどい花粉に悩まされた。

 翌朝起きると、少し筋肉痛があった。一昨日に続きウォーキング、ハイキングと2日続いたので、ゆっくり休養する。

 
 

 ★ ★ ★

【飯能市】

 飯能市は、埼玉県の南西に位置し、東京都(青梅市、奥多摩町)に接する。市内の7割が山野。中世より林業で栄え、江戸時代には江戸の相次ぐ火事により、「西川材」と呼ばれる飯能の大量の材木が、入間川や高麗川により運ばれた。

 人口約8万人、東京都区部への通勤率が高い。東京・池袋から電車で1時間足らずで、緑と清流の町として自然に触れることのできる都会のオアシス。

 

【震災復興元気市】

 「第6回震災復興元気市」が11日、飯能市の中央公園をメイン会場に、市民会館、小町公園、観音寺などで、商工関係や教育・行政など100を超える団体が参加して開かれた。東日本大震災などの被災地を支援する飯能市独自のイベント。(写真をクリックすると拡大)

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 中央公園では、福島、宮城、岩手、茨城、熊本など被災地の15自治体の商工会議所、市民、業者らが、地元のグルメや特産品を販売。また県内、都内など13自治体のご当地グルメ市も開催される。

 また県内外のマスコットキャラクターが集合、防災・安全を考える展示、軽トラ市。市内の「法光寺」で預かっている釣り鐘の展示は、復興が進んで年内にも宮城県名取市の「東禅寺」に帰ることになり、今回が最後になりそうだという。

 隣接の市民会館でも、踊りや音楽の演技・演奏。別の会場では、ひな飾り(店蔵絹神)、朝市や100円商店街なども展開された。

 

【多峯主山】

 多峯主山にある「雨乞い池」は、山頂付近にありながら今まで一度も枯れたことの無いという。水を濁すと雨が降るという伝説がある。

 山頂付近に墓がある黒田直邦は、江戸時代から明治維新まで飯能地方を領していた黒田氏の祖。若いころは5代将軍綱吉に、8代吉宗まで50年余り将軍に仕え、侍従から老中まで上り詰め、上州沼田藩3万石の初代藩主となった。黒田直邦の祖先・中山家勝の建てた「能仁寺」を中興し、寺領50石の大寺とした。直邦の墓は、黒田家累代と同じ「能仁寺」墓地にもある。

 源義経の母・常盤御前については、山頂付近の「常盤が丘」に常盤御前の墓があったという伝説の場所に宝篋(ほうきょう)印塔が建っている。その近くに「常盤平」と呼ばれる眺めのよい場所や、ほかにも前述の「見返り坂」や「よし竹」伝説がある。

 「よし竹」伝説は、常盤御前がこの山に登りながら「源氏再び栄えるなら、この杖よし竹となれ」と言って持っていた竹杖を地に突き立てた。やがてそれが根づいて一面の竹林となったという伝説がある。今でもわずかながら、この付近によし竹が植生しているそうだ。「よし竹」を調べると、ヨシに似ていて葦竹または葭竹と書くが、ダンチク(葮竹または暖竹)の別名とある。イネ科の多年草で、ヨシよりも高くて茎も太く、竹のように中空で節があるそうだ。

 

【飯能戦争】

 飯能は、1867年(慶応4年)の「戊辰戦争」の一局面「飯能戦争」の舞台となった。

 明治維新時、幕臣の一部や旧幕府を支持する諸藩の藩士・志士で結成された「彰義隊」の頭取であった渋沢成一郎(実業家・渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と意見が合わず対立。彰義隊を脱退した成一郎を首領とし、有志を集めて「振武軍」を結成した。

 「彰義隊」と新政府軍(官軍)の間で「上野戦争」が起こる。敗戦した彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった「振武隊」は、飯能の「能仁寺」に入り本陣とし、「智観寺」、「広渡寺」、「玉宝寺」、「秀常寺」、「心応寺」、「観音寺」に兵を分散して布陣した。1868年(慶応4年)5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる3,500名の官軍の一方的な攻撃により飯能は戦場と化し、わずか数時間で勝敗は決した。200戸の民家や本陣であった「能仁寺」ほか「智観寺」、「広渡寺」、「観音寺」の四ヶ寺もほとんど焼失した。

 成一郎は被弾して負傷したものの、伊香保(群馬県渋川市)に逃れ、密かに江戸に戻る。参謀の渋沢平九郎(渋沢栄一の養子)は、変装して顔振峠を越えて逃げるが、黒山村(埼玉県越生町)で官軍に捕まり、切腹して果てた。22歳だった。成一郎は、榎本武揚の艦隊に合流し、最後は箱館(北海道函館市)まで行って転戦した。

 

【ヤマノススメ】

 『ヤマノススメ』は、ペンネーム”しろ”による漫画作品。月刊漫画雑誌『コミック アース・スター』2011年9月号より連載中。登山を趣味とする著者が、4人の女子高生が登山を通して友情を深め成長するストーリーを描いている。飯能が舞台で、実在する山や建物、風景が作中に何度も登場することから、飯能をいわゆる「聖地」として訪れるファンも多いという。

 2013年度から飯能市のまちのイメージアップとして、「アニメを活用した地域振興」(萌えおこし)を始めている。イベント会場でコーナーを設けたり、舞台探訪マップや聖地巡礼ツアー、スタンプラリーなどを行って、賑わい創出、商店街振興などの活性化策を推進、地域も一丸となって支援している。

 下の写真は、2014年(平成26年)8月開催の『ヤマノススメ』舞台探訪スタンプラリーのパンフの一部(パンフとスタンプ台紙が、飯能商工会議所のホームページからダウンロードできた。)

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 飯能市内を歩くと、キャラクターが車体に描いてある路線バスが走っていた。そういえば「観音寺」にキャラクターの絵馬のほかにも、市内商店にもキャラクターの看板あったり、天覧山の中段広場の東屋(あずまや)にはファンの交流ノートが置かれたりしていたのを、後になって思い出した。

 NHKの大河ドラマや朝ドラの放映、あるいは小説や映画などによって、急に人気が出て脚光を浴びる観光地や新たな場所が観光地化する傾向は以前からあった。

 数年前から漫画・アニメ作品によって、「聖地巡礼」という言葉が漫画・アニメファンにとって、特別な意味を持つようになった。この「聖地巡礼」が広く知られるようになったのは、埼玉県久喜市(旧鷲宮町)の鷲宮神社がアニメ『らき☆すた』に登場、また長崎県五島市を舞台としている漫画『ばらかもん』などの事例が取り上げられる。

 そして漫画・アニメ作品を対象とした「アニメ・ツーリズム」、広くは文芸、舞台、映画、TVドラマ、漫画・アニメを対象とした「コンテンツ・ツーリズム」というカタカナの言葉も耳にするようになった。近年、全国各地の自治体において、これらを地域活性化(まちおこし)として、真剣に取り組まれているようだ。また観光学、社会学の面からも、これらの「物語の旅」が研究の対象となっている。

 漫画・アニメというコンテンツは、シニア世代からすれば対象となる年齢層が若く、ともすればマニア、オタクという印象もつきまとう。彼らは、クチコミやSNSで情報を分かち合う。旅をしても、シニア世代の様に現地にお金はあまり落とさない。最近ある自治体で、あまりにも女性キャラクターの胸を強調し過ぎたポスターを作り、各方面から批判を浴びたため撤去したというニュースもあった。

 旅行や観光つまり「ツーリズム」に、これまでのような自然景観、歴史遺産、文化遺産といった伝統的な観光資産とともに、21世紀になって「物語=コンテンツ」といった新しい観光資産が加わったのだと思えば良い。今後こういった「コンテンツ・ツーリズム」が、各地域でどう発展していくのか、注目したい。

 

 

 

 

2017年3月15日 (水)

森林公園の早春の花

 3月10日(金)、「国営武蔵丘陵森林公園」(埼玉県滑川町)の早春の花見ウォーク。

 

 東武東上線の森林公園駅北口に9時集合。お昼の弁当が配られ、主催者の挨拶の後、ウォーキングのスタート。

 駅前から森林公園南口までのおよそ3Kmの遊歩道を45分ほどかけて歩く。

 南口から入園、「梅林(花木園)」までは約1Km。寒桜や菜の花を見ながら15分ほど歩く。

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 10:10、陽だまりの斜面にある「梅林」に到着。

 ここは、春を一番に感じられるエリア。120品種、500本の梅の木が植えられている。

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 梅の木の下に咲く「水仙」。

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 早咲きの梅はすでに盛りを過ぎてちょっと寂しいが、遅咲きの白・桃・紅の梅の花が見ごろを迎えている。一部の木では、「樹勢回復中」の看板が立っている。

 「月影枝垂れ」は、白の一重咲き大輪、枝垂れ性の品種。

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 見事な紅梅が広がる。

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 「月影」という品種の梅。花が青白く、白梅の中でも際立って目立つ梅。一重、野梅性の遅咲きの梅。池に映る月のような梅という意味があるらしい。

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 「見驚(けんきょう)」は、中国原産で日本へは古代に渡来した栽培品種の1つ。開花時期は3月上旬ころ。野梅性の淡い桃色をした八重咲きの大輪、花の色は咲き進むと白くなる。大輪で見て驚くというのが名の由来。

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 撮影した梅の説明看板で品種をチェックできなかったのが、後になって残念。

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 梅の品種とは違うが、花が蝋のような艶がある「ロウバイ(蝋梅、ロウバイ科)」は盛りを過ぎていた。

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 早春の花「マンサク(満作、マンサク科)」の花は、もう終わったのか見当たらなかった。マンサクは、花がよく咲けば豊作、花が少なければ不作など、稲の作柄を占ったとか、早春に咲くので「まず咲く」、「まんずさく」と東北地方で訛ったものともいわれている。

 ミズキ科の「サンシュユ(山茱萸)」も咲いていた。江戸時代薬用植物として栽培され、今では観賞用として庭木に植えられている。

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 しばらく梅林の中を散策、さまざまな品種の梅の花を観賞。

 (写真をクリックすると拡大表示)

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 10:55、「運動広場」に移動して、ここで早めの昼食。

 11:25、次に「野草コース」に向かう。

 11:35、野草コースの入口では、フクジュソウ、オオミスミソウ、キクザキイチゲなど可憐な花が咲いていた。

 早春を代表する花「フクジュソウ(福寿草)」は、キンポウゲ科の毒草。

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 「オオミスミソウ(大三角草)」は「雪割草」とも、新潟県の花としても知られ、ピンクや紫など色や花の形の変化に富む。

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 「キクザキイチゲ(菊咲一華)」は、菊に似ている。紫色の花もあるそうだ。

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 フクジュソウ、オオミスミソウもキクザキイチゲも、キンポウゲ科である。

 野草コースで「カタクリ(片栗)」の花を探したが、まだ時期が早かったようだ。

 11:55、公園南口に向かう。

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 12:15、公園南口に戻る。ここからまた森林公園駅まで歩いて帰る。

 13:05、森林公園駅着。

 この日は好天に恵まれ、早春を感じながらの4時間、10Km余りのウォーキングを楽しんだ。

 ★ ★ ★

 「雪割草」は、早春に残っている雪を割るようにして咲くのが花の名の由来だそうだ。キンボウゲ科で、オオミスミソウ(大三角草)、ミスミソウ(三角草)、スハマソウ(州浜草)、イチリンソウ(一輪草)、ニリンソウ(二輪草)などが一般に「雪割草」と総称されているという。

 雪割草の中でもオオスミスソウが、最も変異のバリエーションが多く、色々な色や形の花がある。後で撮った写真を見ると、どれがそのオオミスミソウなのか、分からなくなってしまう。また様々な花を作りだすため、交配を試みる雪割草の愛好家も増えているそうだ。雪割草は、新潟県を中心に日本海側でよく見られる花で、新潟県の「県の草花」として2008年(平成20)に指定されている。
 
 一方で、これとは別にユキワリソウというサクラソウ科の高山植物もある。また地方によってはユリ科、ナス科の中にも雪割草と呼ばれる花があったりするので、ややこしい。

2017年3月14日 (火)

早春の三浦半島めぐり

 3月8日(水)、日帰りの三浦半島めぐり。

 

 この日の三浦半島の最高気温は、11℃。天気は晴れだが、午後から雲が多くなり、所によってはにわか雨が降るとの予報。

 参加者18人が乗った貸切バスは、最寄りの駅前を9時出発。東名自動車道の海老名PAで休憩。有料道路の横浜横須賀道路、本町中山道路を経て、11時15分京浜急行の汐入駅前付近で下車。

 

●横須賀どぶ板通り(11:15~12:25)

  汐入駅付近から続く「どぶ板通り」を散策する。横須賀市本町1丁目~3丁目の国道16号(横須賀街道)の南側に並行した道路一帯を「どぶ板通り」と呼ぶ。

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 シャッターの閉った店が目立つ。水曜日は定休日なのか、米兵相手の店が廃業したのかか、それとも夜になって遊びに来るバーなどの店なのだろうか。アルファベットの看板もあまり見ない。

 

 横須賀のグルメは、「ネイビーバーガー」や「海軍カレー」。「どぶ板通り」の入口付近にある「海軍カレー館」に入る。

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 「元祖よこすか海軍カレー」(880円)を注文。

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 このカレーは、明治41年のイギリス海軍のレシピに最も忠実な『海軍割烹術参考書』(明治41年)に基づき調理したものらしい。牛乳とサラダが付く。小麦粉が入っていて、昔懐かしい味がする。

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 「どぶ板通り」は、「中央大通り」(横須賀中央駅から国道16号まで)にぶつかり終わる。

 写真は、国道16号との交差点(本町一丁目交差点)付近。

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 国道16号を横断し「三笠公園」へ。

 

●記念艦「三笠」(12:35~12:55)

 三笠公園には、日露戦争の日本海海戦で活躍した旗艦「三笠」が保存されていて、記念館として見学できる。手前の銅像は、三笠に乗艦し連合艦隊を指揮した東郷平八郎司令官(元帥)。

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 艦内を駆け足で観覧(600円)する。明治時代の戦艦だからだろうか、思ったより小さい。

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 15センチ副砲(レプリカ)の操砲展示。

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 上甲板と8センチ補助砲(レプリカ)。

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 艦橋(ブリッジ)の操舵室は意外と狭い。

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 前部30センチ主砲(レプリカ)。正面は横須賀米海軍施設。主砲が米軍に向かっているのではなく、艦首が皇居を向いているそうだ。あとで地図で見ると確かにそうだった。

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 記念撮影のスペース。背景の絵は、日露戦争での日本海海戦の様子を描いた東城鉦太郎(しょうたろう)の有名な『三笠艦橋の図』の複製。中央で指揮をとるのが、連合艦隊の東郷司令長官。

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 中甲板の艦尾にある「長官室」。長官が居住し、執務する部屋。ベッドもある。外国要人との応接にも使われるので、室内は豪華。

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 長官室の壁の中央に、明治天皇の御真影があった。

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 作戦会議などが行われた「長官公室」。

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 長官公室の隣は「艦長公室」、少し離れて大尉から中佐までの士官が使用する「士官室」などがある。

 ほかに中甲板には日露戦争に関する様々な資料を展示してある「展示室」、上甲板には「ビデオ室」がある。

 上甲板にある「無線電信室」。当時の最新鋭の三六式無線電信機を装備しており、バルチック艦隊発見の無線を受信し、艦隊の場所を把握して戦闘準備に備えたという。

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 三笠公園近くの地場産物総合販売所「よこすかポートマーケット」で買い物。

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 「ポートマーケット」は、横須賀・三浦など地元でとれた旬の農水産物を販売する地産地消マーケット。お土産やレストランの他、軽飲食の施設もある。

 バスは、汐入駅前付近からマーケット駐車場に回送され、13:05出発。

 
 よこすか海岸通りから三春町4丁目交差点を右折、三崎方面へ国道134号を南下する。三浦海岸を経て引橋から県道26号へ。

 「城ヶ島大橋」を渡って(通行料530円)、城ヶ島へ。

 
●城ケ島(14:00~14:55)

 伊豆半島で有名な「城ケ崎」と混同されやすいが、こちらは岬ではなく「城ヶ島」。

 城ヶ島は、三浦半島の最南端、周囲長約4 km、面積約1キロ平米、神奈川県最大の自然島。鎌倉時代以来の景勝地で、北原白秋の『城ヶ島の雨』で知られる。島の周りの岩礁地帯は、波状岩。この島の東半分には、神奈川県立城ケ島公園が広がる。ここは、三浦市三崎町城ケ島で、人口は約600人。

 島の東は「安房ヶ崎」、西に「長津呂崎」や「灘ヶ崎」、南に「赤羽根崎」、北に「遊ヶ崎」という岬がある。

 島の西側、「灘ヶ崎」に行く。相模湾の波は比較的静か。

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 岬に向かって右対岸の三崎港。

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 後方を見ると、さっき渡って来た「城ヶ島大橋」。

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 「灘ヶ崎」には小高い丘があって、登ると山頂に祠があった。

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 この山は「楫(かじ)の三郎山」と言い、祠のそばの木の枝には大漁祈願などの赤い布が結んである。

 三郎山から北西の「灘ヶ崎」の眺望。対岸は、湘南海岸、茅ヶ崎・平塚方面か。

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 三郎山からの南西方向の眺望。眼下に「灘ヶ崎」の磯、向うに「長津呂崎」の磯、左に城ケ崎灯台、中央は京急城ヶ島ホテル。

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 城ヶ島を出て、対岸の三崎港に移動する。

  

●三崎港(15:10~16:00)

 マグロで有名な三崎魚港。三浦半島最南端の港。

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 港にある産直センター「うらりマルシェ」で買い物。あじの干物600円、かまぼこセット1,000円。

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 対岸の城ヶ島。

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 手軽に海中散歩が楽しめるという半潜水式の観光船「にじいろさかな号」が、三崎港に帰って来た。

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 「にじいろさかな号」は、船底のガラス窓から海中をのぞくことができる観光船。約1時間に1本のペースで運航(料金大人1,200円)されているそうだ。
 

 国道134号線を北上し、荒崎入口交差点左折、1.5キロほど走って左折、海岸線を南下2キロ余り走ると荒崎。
 

●荒崎(16:35~18:00)

  荒崎公園の駐車場で下車。

 荒崎公園からは、海沿いに長浜海岸まで延びるハイキングコースがあるそうだ。三浦半島屈指の景観といわれる海岸美が楽しめるという。

 今回は、公園の北側の磯辺に行き、夕陽が伊豆半島に沈むのを眺める。

 波状岩が広がる荒崎の磯辺。

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 荒崎の海岸から見る富士山のシルエット。

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 日の入りは17:40頃。

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 18:00、貸切バスは、三浦縦貫道路、横横道路、東名自動車道を経て帰路へ。 

 20:30、出発時の駅前に到着。

 この日は好天に恵まれた。冷たい風が吹いたり日陰になったりするとヒンヤリするが、日差しが暖かい早春の三浦半島めぐりの1日だった。さすがに夕日を見る頃には冷え込むのでダウンを着たが、昼間は上着なしで過ごせた。

 

 ★ ★ ★

 戦前の横須賀「どぶ板通り」は、道の中央にどぶ川が流れていたそうだ。道が狭いため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらい、どぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになった。その後鉄板は撤去され、川は埋め立てられたという。この一帯は通称「どぶ板通り商店街」と呼ばれ、150軒ほどの商店・飲食店があるが、正式には「本町商店会」という。

 戦後は進駐軍・在日米軍横須賀海軍の兵隊向けの街として栄えた。いたるところにアルファベットの看板やネオンが溢れる異国風の商店街で、他の基地の街のようにベトナム戦争の頃が最盛期だったが、今やその面影も薄れつつある。 

 

 記念館の「三笠」は、1902年(明治35年)にイギリスで建造された。日露戦争では特に1905年(明治38年)の日本海海戦で、バルト海から派遣されたロシア軍バルチック艦隊と交戦し勝利を得る。1923年(大正12年)に退役、1926年(大正15年)に記念艦として横須賀に保存されていた。

 しかし第二次世界大戦後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、また米軍の娯楽施設になったり、物資不足で資材が盗まれたりして荒廃した。

 三笠を元の姿に戻そうとの運動が国内外で高まり、募金や米海軍の支援などにより、1961年(昭和36年)に復元。現在は防衛省が所管している。 

 

 城ヶ島の灘ヶ崎にある小山は「楫(かじ)の三郎山」と言い、案内板には次のように書いてあった。

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 対岸の三崎にある海南神社の祭神・藤原資盈(すけみつ)公が、貞観六年(864)故あって九州博多を出帆し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。このとき、御座船の楫(かじ)とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、「楫の三郎山」と呼ぶようになったと伝えられています。

 また資盈(すけみつ)公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫がおちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。

 大正初年頃までは、この山に主の大蛇が住んでいるから登るとたたりがあるとの言い伝えがあり、誰一人登ったことがなかったといわれています。

 今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く、毎月7日、17日、27日に多くの人々が参拝に訪れています。                          

                                                   三浦市
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<筆者注> 楫(かじ)とは、櫂(かい)や櫓(ろ)など、水をかいて舟を進める道具の古名。

 

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