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上野毛・等々力・自由ヶ丘

 2026年1月27日(火)   上野毛、等々力、自由が丘界隈を歩く新春ウォーク。
 
 
 東京メトロ副都心線で自由が丘駅9:58着、東急大井町線に乗換え10:02発、東急上野毛駅で10:08下車。
 
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●五島美術館 10:20
 
 上野毛駅から上野毛通りを多摩川方向へ進み、電柱の案内標識で右折して150mほど先に「五島美術館」の正門がある。東急グループをつくった実業家・五島慶太の美術コレクションを保存・公開するために設立。五島が亡くなった翌年1960年(昭和35年)に開館。

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 日本や東洋の古美術を中心に、約5000件の作品を所蔵。国宝が5件、重要文化財が50件も含まれている。国宝『源氏物語絵巻』が特に有名。美術館の敷地は、五島邸の敷地の一部が提供され、庭園を含めて約6000坪。公益財団法人「五島美術館」が運営。同財団が「大東急記念文庫」も管理している。開館には、東急・京急・小田急・京王が出資した。美術館には 入館せず、外観や周辺だけを見学。

 「五島美術館」の通りを逆に戻り上野毛通りを横断すると、すぐに左手に真言宗智山派に属する古刹「覚願寺」と「覚願寺鈴蘭幼稚園」が見えてくる。

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●上野毛自然公園  10:35 

 幼稚園の手前が、質素な看板の「上野毛自然公園」の入口。10:35入口を入ると敷石が敷かれており、かつてこの場所が庭園として使われていた名残だそうだ。その先には、桜の林のある開放感のある広場で、幼稚園児が遊んでいた。

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 世田谷区立「上野毛自然公園」は、多摩川が10万年以上かけて台地を削り出した「国分寺崖線」の上に位置する公園で、地形そのものが大きな見どころ。広場の下の深い緑に覆われた斜面には、木々の間を縫うように長い階段が続く。

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 都会の緑の中は夏には涼しくて、多様な昆虫たちが見られるという。階段を降りきった先には、多摩川沿いの低地が広がり、崖線からの湧き水を利用して造られた水生植物園もある。崖線に沿うように小さな「丸子川」が流れていて、この自然公園の端はこの「丸子川」で終わる。

●上野毛稲荷神社 10:45

 「上野毛自然公園」の北側の上野毛通りは、かなりの急坂で「稲荷坂」という。この坂の途中の左手の崖を切り崩して「上野毛稲荷神社」が鎮座している。旧社格は無格社で、旧上野毛村の鎮守のうちの一社、現在は上野毛全域の鎮守。

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 稲荷神社の北に隣接する「五島美術館」の敷地内には「稲荷丸古墳」、南東には「上野毛稲荷塚古墳」、更に南東の「玉川野毛町公園」内には「野毛大塚古墳」という古墳があり、これらを「野毛古墳群」と呼び、「国分寺崖線」上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる古墳群となっていて古代から人の定住があったという。
 
 この稲荷神社のすぐ下に、日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を私財をなげうって運営してきた歌手で女優の宮城まり子(2020年、93歳で死去)の自宅があった。作家・吉行淳之介(女優・吉行和子の兄)とは、彼の死まで事実婚の関係だった。また、上皇・上皇后とは皇太子・皇太子妃時代から、40年の親交があったという。
 
●二子玉川公園 10:55

 世田谷区立の都市公園「二子玉川公園」は、2013年(平成25)4月にオープン。世田谷区玉川(二子玉川)に位置し、再開発エリアである二子玉川ライズに隣接して整備。公園は、「国分寺崖線」の豊かな緑と多摩川の水辺に接し、自然環境に恵まれた立地にある。二子玉川駅から徒歩9分でアクセスも良好。

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 区立公園として初の本格的な日本庭園「帰真園」が整備、その一角に登録有形文化財「旧清水家住宅書院」を復元。また、区民と共に植樹した約1,400本の苗木が育つ「世田谷いのちの森」、ボール遊びができる「子ども広場」、幼児向けの「遊具の遊び場」など多様な世代が利用できる。さらに、公園は震災時の防災拠点としての機能も備え、避難民1万人の収容と応急仮設住宅132戸の建設を想定している。
二子玉川ライズタワー&レジデンス(億ション)を望む。
 
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 多摩川の下流に向かって岸辺を歩く。

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●影光山 善養寺 11:25
   
 「善養寺」は、国分寺崖線沿いの世田谷区野毛にある真言宗智山派の寺院。正式の名を「影光山仏性院 大毘廬遮那殿(だいびるしゃなでん)善養密寺(ぜんようみつじ)」。
 
 江戸時代以前には、この寺は深沢村(現・世田谷区深沢)にあったという。この寺の僧侶だった祐栄阿闍梨が、本山の京都・智積院で修行を積み、深沢村へと戻ってきたが不在の間に寺は荒廃していた。慶安年間(1648-1651年)に祐栄は、下野毛村に寺を移転したと伝えられる。
 
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 「善養寺」入口、 丸子川にかかる赤い橋(大日橋)を渡ると山門前には巨大な石像。この寺には、ユニークな石像が多い。

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 石段を上ると、迫力のある「海駝」(かいだ)の坐像一対が見える。海駝は、架空の神獣で火除けの神といい、世界でも5つしかない珍しいものという。「像」の下の立て札には、「獬豸」(かいち)と書いてある。

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 「獬豸」(かいち)は、中国に伝わる伝説の神獣で、正義・公正・法治を象徴する存在として知られ、日本の狛犬の起源の一つとも考えられている。朝鮮半島へ伝わり、「獬豸」は「ヘテ」または「ヘチ」と発音され、漢字で表記する際は「海駝」という字が当てられた。中国の「獬豸」との違いは、羊や牛の姿ではなく獅子のような姿をしている点と、多くは頭に角がない。日本では、「獬豸」は「神羊」(しんよう)という別名でも呼ばれて、日光東照宮では麒麟や白澤と共に、拝殿の杉戸に装飾が施されている。

 
本堂の前(山門の右手に見える)にあるカヤの大木「善養寺のカヤ」は樹齢700年とも800年ともいい、1964年に東京都の天然記念物に指定されている。樹高は22.6m、幹の周りは5.3mに達している。
 
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 本堂は、奈良の「唐招提寺金堂」を模したもので、鴟尾(しび)一対が載った瓦葺き、寄棟造りの屋根が特徴。 石像は、仏像の他、蟹、ライオン、カッパ、象、亀などの動物が多い。

 本堂の右前の「大日尊」の座像は、彩色してあるが石像のようだ。この寺のユニークな石像の中で、この石像は普通の仏像なので逆にどこか違和感がある。
 
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 本堂内には、本尊である「大日如来坐像」(木彫漆塗り、高さ約1.2m)が祀られているそうだ。本堂の前のこの石像は、本尊の「御前立ち」(本尊の代わりに、近くで拝めるように置かれた仏像)だろうか。
  
●等々力渓谷 11:55
 
 「善養寺」から北東の方向へ、住宅街の中を進むと、右側に「等々力渓谷」内「日本庭園」の正門。正門の左に、渓谷の「谷沢川」に降りる長い階段がある。
 
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 「等々力渓谷」は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、世田谷区にある延長約1Kmの23区内唯一の渓谷。等々力駅からは、南に歩いて3分ほど、谷沢川に架かるゴルフ橋脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川が流れ、豊かな自然に囲まれた遊歩道が整備されていて、四季折々の風景を楽しみながら散策できる。「等々力」という地名は、滝の音が響き渡り、轟いたことからついたとの言い伝えがある。
 
 夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出ている。晩秋には紅葉も楽しめるようだ。
 
 階段を降りて渓谷の遊歩道に出た後、下流側の冠木門から「日本庭園」に入る。みかん林の斜面を登る。
 
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 日本庭園では、早咲きの桜が満開。メジロが来ていたが、うまく撮影出来なかった。
 
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 再び、遊歩道に降り、等々力渓谷の谷沢川は護岸整備されていて渓谷の自然の川とは趣が違う。この時期、水量は少ない。
 
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 2023年年7月に渓谷内で倒木が発生、他の樹木も倒木の可能性があるため、この谷沢川に架かる「利剣の橋」辺りから等々力駅方面への上流に向かう遊歩道が通行止め。橋を渡ると、「不動の滝」がある。どんな滝かと思ったら、崖からの湧水が滝壺にチョロチョロと落ちていた。古来から滝に打たれる行をする人々が各地から訪れていたそうだ。
  
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●等々力不動尊 12:05
 
 「不動の滝」から石段を登った渓谷南端には、桜の名勝として知られる「等々力不動尊」。正式には「瀧轟山(りゅうごうさん)明王院」。真言宗智山派の寺院「満願寺」(北へ700m離れた等々力三丁目)の別院。開基は真言宗中興の祖・興教大師と伝えられている。
   
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 本尊は不動明王で、寺に残る伝承によれば、約800年前に興教大師が夢のお告げを受け、武蔵国に不動明王像を安置する霊地を探し求めていたところ、当時は水量豊かに流れていた当地の滝を見て霊地と悟り、この地に不動堂を創建したという。
  
●稚児大師御影堂 12:15
 
 渓谷の北斜面、弘法大師誕生1200年記念として昭和50年(1975年)に奉修された「稚児大師御影堂」がある。
 
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 壁のないお堂に祀られている像は、おかっぱ姿の子供。稚児大師は弘法大師の幼い時の呼び名。大師像の金箔は、生誕1250年記念の寄進によって貼られたもので、数年前は黒い地肌のままだった。場所は「等々力不動尊」の境内で、石碑や掲示物にも「等々力不動尊」や「満願寺」と記されている。
 
 等々力渓谷を出て、等々力駅に向かって歩く。都道311号(環八通り)の「玉沢橋」から「等々力渓谷」の下流側を見下ろす。写真にはないが、渓谷の左手には古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々力渓谷3号横穴」がある。
  
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 12:45、等々力駅北口付近にある蕎麦店「やぶ森」に入店。山菜蕎麦を注文。看板には「生蕎麦 やぶ森」と書いてあるようだが、なかなか読めない。
 
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 東急大井町線等々力駅13:15 発に乗車、上り二駅目の九品仏駅13:18下車。
 
●九品仏(くほんぶつ)浄真寺 13:20
 
 「九品仏駅」 を出て北へ進み「等々力通り」横断すると松並木の真っ直ぐな「浄真寺」の参道。9体(九品、くほん)の阿弥陀佛を安置している事から「九品仏」として知られている。
 
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 「浄真寺」の総門を抜け、すぐ左手に「閻魔様堂」。その先で折れると二階建ての立派な仁王門(紫雲楼)。
 
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 「九品仏浄真寺」は、世田谷区奥沢にある珂碩(かせき)上人が開山した浄土宗の古刹。山号は「九品山」、正式名称は「九品山唯在念佛院淨眞寺」。「九品仏」とは、同寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のこと。一般には同寺の通称や地名となっている。
 
 境内の下品(げぼん)堂、中品(ちゅうぼん)堂、上品(じょうぼん)堂には、それぞれ3体ずつの阿弥陀様が納められている。写真の中央が上品堂、左に下品堂、右には中品堂がある。
 
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 下品堂、2体の下品阿弥陀如来像。左の1体は、順次、修繕事業が実施されているため不在。
 
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 上品堂、3体の上品阿弥陀如来像。
 
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 中品堂、3体の中品阿弥陀如来像。
 
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 本堂は、「龍護殿」と呼ばれる。靴を脱いで本堂(龍護殿)の祭壇に進み、釈迦牟尼仏を拝観、参拝。
 
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 本堂内の賓頭盧尊者(びんずる様)の像。お釈迦様の弟子の1人であり、さらに十六羅漢の1人。神通力を持ち、特に病を治す能力に長けていた。
 
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 びんずる様は「なで仏」と呼ばれ、自分の体の悪い部分と同じ所を撫でると、病気やケガが治るとされている。
  
 「浄真寺」の地は、もとは世田谷吉良氏系の「奥沢城」であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、1675年(寛文5年)に当地の名主七左衛門が寺地として徳川幕府より貰い受け、1678年(延宝6年)、高僧・珂碩が同地に「浄真寺」を開山した。境内には古木が多く、カヤの大木は樹齢800年以上、イチョウは樹齢300年ともいわれており、また周囲の土手はこの地がかつて「奥沢城」であった名残で、鎌倉期における「土塁」の形態を示すものとして貴重な資料になっている。
 
●自由が丘駅周辺 14:30
 
 「自由が丘」は、目黒区の自由が丘(1〜3丁目)と世田谷区奥沢にまたがる住宅・商業地域で、東急自由が丘駅を中心に発展した人気の街。交通の便が良く、高級住宅街として知られる一方、洗練されたヨーロッパ風の街並みが女性を中心に支持され、「住みたい街」上位の繁華街でもある。
 
 南部の駅周辺は「丘」という地名ながら、低地となっている。北部には丘が多いが、南に九品仏川(くほんぶつがわ)があり、そこへ流れ込んだ雨水が地面を削っていったため。1974年(昭和49年)、九品仏川は蓋掛けして暗渠となって、長さ約921.4mの「九品仏川緑道」となった。
 
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 自由が丘駅の正面口前は、何やら騒がしい。ものものしい警察官や緑色のジャンパーを着た運動員が大勢いる。衆議院東京都第26選挙区「今岡うえき」候補の街頭演説。財務省出身で自民党の新顔。片山さつき財務大臣が、選挙カーの上でちょうど応援演説中だった。
 
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 14:40目黒区自由が丘にある「熊野神社」。平安〜鎌倉期に熊野信仰が広まる中で、和歌山県の熊野本宮大社・那智熊野神社から 分祀された神社。地元では「谷畑」と呼ばれた当地の「谷畑の権現さま」と古くから地域の人々に信仰されていて、自由が丘を鎮守する。毎秋、神楽殿で催される「目黒ばやし」は、百数十年の歴史を誇る。拝殿は、鮮やかな朱色の鉄筋コンクリート造り。
 
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 境内には、碑衾村(ひふすまむら)村長として耕地整理に尽力した栗山久次郎の銅像(1935年建立)がある。写真は、ウィキメディア・コモンズから転載。
 
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 久次郎は、1853年旧家栗山家の長男として誕生。篤農家、地主、東京府荏原郡(えばらぐん )碑衾村(ひぶすまむら)の村長。「自由が丘学園」の創立者・手塚岸衛の意見に共鳴して自分の土地を貸し、町名もそれまでの谷畑(やはた)から「自由が丘」に改名することを決断した。1934年没。自由が丘一帯の街づくり、地域発展に貢献した功績をたたえ、1935年(昭和10年)に銅像が建てられた。
 
 14:50「ラ・ヴィータ」(La Vita)は、水の都・ベネチアの街並みを再現した空間にショップが集まった商業施設。ゴンドラを浮かべた運河が流れ、レンガ造りの洋館に石畳と、どこを見ても異国情緒あふれて「自由が丘のベネチア」。
 
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 15:00、自由が駅前の正面口に戻ると、まだ衆議院選挙の街頭演説が続いていた。

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 自由が駅15:03発の東急東横線で、池袋方面に向かう。15:34池袋着。

 天気も良くて風もなく、比較的暖かいウォーキング日和だった。帰宅して歩数計を確認すると、この日は19,300歩だった。

2025年12月27日 (土)

秋の伊豆半島めぐり-その2

  2025年11月20日(木)~21日(金)、秋の伊豆半島を巡る1泊2日の旅。
 

 2日目の21日(金)、宿泊のホテルで4:00起床。

 夜明けの「城ヶ崎海岸」へ行くのは暗くて岩場が危険なので止めて、6:00ホテルを出て、朝の稲取漁港(東伊豆町)を散策する。

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●稲取漁港

 漁港の手前から望む伊豆諸島の夜明け。この日の日の出は、6:35頃。

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 7:00~ホテルに戻り朝食。8:20チェックアウト。

 再び「稲取漁港」を散策。左手の平らな山は、昨日行った「稲取細野高原」。茶色の建物は、町役場。

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  右の三角屋根の建物は、稲取漁港直売所「こらっしぇ」。

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 「こらっしぇ」とは、稲取の方言で「こっちへいらっしゃい」という意味。漁協と農協との連携により稲取キンメや定置網の朝獲れ鮮魚、伊豆地方の新鮮な野菜や果物などの農水産物を産地直売。

 「こらっしぇ」に隣接する駐車場にあるキンメのオブジェは、大きな口をあけてけていて不自然みみえるが、顎の金具が外れているようだ。

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 10:10漁港を出発。南へ海岸沿いの国道135号線を走り、下田市に向かう。


●白浜海岸

 下田市に入り、10:40~10:55白浜海岸。セブンイレブン下田白浜店の駐車場に車を駐める。

 南北に約800mの広々とした開放感あふれる砂浜で、伊豆半島最大の海水浴場「白浜大浜海水浴場」。

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 伊豆白浜には、「白浜大浜海水浴場」のほかに、 環境省の「日本の水浴場88選」そして「日本の快水浴場百選」にも選ばれた真っ白な砂と青い海が特徴的な「白浜中央海水浴場」。磯遊びができる 「白浜板戸海岸(一色海岸)」の3つの特徴的な海がある。


●ペリーロード

 白浜海岸を出発、車で10分ほど下田ペリーロード駐車場へ11:10着。

 近くの「ペリー艦隊来航記念碑」には、ペリー提督の胸像とアメリカ海軍から寄贈された錨が飾られている。

 この記念碑は下田港を臨む「ペリー上陸記念公園」に設置されている。

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 1854年に下田条約締結に向けて、この地に上陸したペリー提督一行の来航を記念して建てられた。

 下田港を望む。

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 下田港は、江戸時代から江戸に向かう船舶の寄港地として繁栄した。1854年の日米和親条約で、函館港とともに日本最初の開港地となった。しかし、貿易港としての役割は、江戸から遠く、天城山を越えなければならない地理的条件から、まもなく横浜港に移った江戸末期からの史跡や観光スポットも多く、キンメダイの水揚げ日本一でも知られる漁業基地となっている

 
 ペリー一行が歩いた道「ペリーロード」と呼ばれ、界隈のレトロな街並みを散策する。

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 この道は、幕末に黒船7隻で来航したペリー提督一行が、「了仙寺(りょうせんじ)」で日米和親条約の付録である下田条約を結ぶために行進した歴史ある道。

 かつて「出船入船三千隻」とうたわれた港町・下田の花柳界の面影が残り、平滑川(ひらなめがわ)に沿って石畳が続く。伊豆石やなまこ壁の家並み、柳の並木が独特の風情をつくり出している。

 ペリーロード沿いに並ぶ伊豆石(伊豆半島東岸から産する火山岩の総称)の建物群。

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 日米和親条約が結ばれた「了仙寺」。

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 「了仙寺」は、寛永12年(1635年)第三代将軍徳川家光の命により、下田の港町発展の基礎を築いた下田奉行・今村正長が創建した日蓮宗の寺。1854年には江戸幕府とペリー提督の交渉の場となる。ペリーと日本全権の林大学で、日米和親条約附録の細目13ヶ条(下田条約)が締結された。日本開国に関わる国指定史跡。

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 5月には境内のアメリカジャスミンが満開となり、強い香りで知られている。

 「了仙寺」境内に併設された美術館「黒船ミュージアムMoBS」。3,000点以上の開国に関する国内最大の資料の原本を所蔵。入館せず。

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 隣接して徳川歴代将軍朱印状、武田信玄関連古文書など「了仙寺伝来」の宝物を展示 した「了仙寺宝物館」もある。

 右手「豆州下田郷土資料館」、中央「下田開国博物館」、左手に「黒船トロンプ・ルイユ美術館」。いずれも入館せず。

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 下田市中央公民館前に建つ「吉田松陰拘禁の跡」の石碑。

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 幕末に吉田松陰がペリー艦隊に密航を企て、失敗に終わり拘禁された獄があったところ。

 下田は、伊豆石のほかに「なまこ壁」の建物が多い。

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 「なまこ壁」は、土壁等の壁塗りの様式の1つ。壁に平瓦を並べ、その目地に漆喰を盛り付けて塗ってある。盛り付けられた目地が「なまこ」に似ているのが名前の由来。

 下田港の内港(稲生沢川河口付近)の岸壁にある小説『伊豆の踊子』別れの汽船にりば跡。

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 踊子が主人公の学生を見送りに下田港に来て、分かれて汽船で東京へ向かうクライマックスの場面の乗船場があった。現在は当時の汽船航路(大島経由、東京行き)は廃止され、跡地に案内板が立っている。


●カネサ鰹節商店

 下田から県道15号線で西伊豆に移動、国道136号線を北上。13:20西伊豆町田子の「カネサ鰹節商店」に到着。

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 西伊豆田子地区では1300年以上続くカツオ加工の伝統がある。当店は創業140余年、鰹節の「手火山式(てびやましき)焙乾製法」の技と味を守り続けている。「潮鰹」(しおかつお)やカビ付けの「本枯れ節」など、希少な加工品を継承し、安心・安全な商品づくりに努めているという。明治15年創業以来、仕入れから製造・袋詰めまで一貫生産を行い、ほかにも塩辛や燻製など多様な商品を提供。体験や見学も受け付けている。

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 ちょうどこの時は、「潮鰹」(しおかつお)の製造時期、工場の中や軒下には大量の潮鰹が干してある。

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 「潮鰹」は「正月魚」とも呼ばれる縁起物の保存食。古くから正月の神棚に供えられてきた。伊豆田子に伝わる伝統的な加工法を基に製造されている。伊豆田子港はカツオ漁で栄えた漁師町で、航海安全や豊漁を祈願して神ワラを付けた「潮鰹」をつるす風習があった。現在では正月の伊豆の旬として親しまれており、製造は季節風を活かした11月〜1月上旬の限定期間で行われている。

 伝統的な「正月魚」。出典:「カネサ鰹節商店」のホームページ

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 工場の敷地に天日干しの鰹節。生の鰹から鰹節になるには、荒節で約1ヶ月、本枯れ節で約3か月~5か月間かかるという。鰹節になるまでには、いろいろな手間と時間がかっている。

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 伊豆田子地区は古くからカツオ漁と「堅魚(鰹)節」造りが盛んで、1801年に土佐の与市が製法を伝えたことで伊豆節が確立したそうだ。改良を重ね、伊豆節は土佐、薩摩と並ぶ名産となった。明治〜昭和期には多くの船と製造店が栄えたが、漁業衰退により減少。現在は4軒がこの伝統製法を守り続けているそうだ。

 売店でお土産に、「鰹なまりぶし」(1,300円)を購入。写真は、カネサ鰹節商店のホームページから転載。

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 「なまり節」とは、生のカツオをさばきいた後、蒸す、茹でるなど加熱処理行い、一度だけ燻製(焙煎)した加工品。西日本で呼ぶ「生節」(なまりぶし)と同じ商品。「かつお節」は主にダシを取る時に利用され、「なまり節」はなまり節自身をほぐして色々な料理で食る。サラダやパスタ、煮物など和洋中のどの料理にもよく合うそうだ。

 一方、「かつお節」は、同じ鰹を燻製、乾燥とカビ付けを何度も繰り返して仕上げたもので、カチカチに固く、旨味がぎゅっと凝縮されている。
  

 国道136号線を北上。14:30頃、「海産屋」(西伊豆町宇久須)に寄り、金目鯛とアジの干物、合計2,285円の買い物。

 更に国道136号線を北上。14:50頃、昼食の時間が無く、セブンイレブン土肥店(伊豆市土肥)でおにぎりなどを買って、車の中 で遅い昼食。

 19:55最寄り駅前に到着。

2025年12月26日 (金)

秋の伊豆半島めぐり-その1

 2025年11月20日(木)~21日(金)、秋の伊豆半島を巡る1泊2日の旅。

 

 1日目の22日(木)6:55、最寄り駅前をマイクロバスで出発。

 関越・圏央・東名高速をから10:00新東名・長泉沼津ICを降り 伊豆縦貫道/東駿河湾環状道路 、伊豆中央道を経て、10:30修善寺ICを出る。

 10:35修善寺梅林駐車場着、10:50「修善寺自然公園もみじ林」着。

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 修善寺のもみじ林。鮮やかに紅葉する景観は伊豆でも珍しいとされる。

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 「修善寺自然公園」は、四季を通じて散策しながら自然を楽しむことができる。富士見展望台から富士山を望む。

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 「修善寺自然公園」の中央部と「修善寺虹の郷」内には、それぞれ約1ha、約1,000本のもみじが群生しており、この公園は大正13年(1924年)、旧修善寺町の町制施行を記念して整備された。もみじのほか、赤松・金木犀・ツツジ・桜など多くの樹木が植えられたという。
 

 11:45「修善寺もみじ林」を後にして国道141号線を南下、車で30分ほどの道の駅「天城越え」(伊豆市湯ヶ島)に12:25到着。

 お土産・レストラン「緑の森」に入る。窓からの紅葉、黄葉の庭園を眺めながら昼食。冷やしとろろそば、生わさびとおろし金付で1,100円。

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 わさび生産者の直営店「天城わさびの里」や地元のおかあさん手作りの店「竹の子かあさん」もある。

 道の駅「天城越え」内にある「昭和の森会館」は、昭和天皇御在位50年を記念した「昭和の森・天城山自然休養林」の中心施設。天城峠周辺に広がる1600haの緑豊かな森の中に、大自然公園「昭和の森」が整備されている。

 園内には、天城に生息する動植物をパネルや映像で紹介する「森の情報館」(無料)と、伊豆ゆかりの文学者の足跡を紹介する「伊豆近代文学博物館」(有料300円)が併設されている。中庭は、わさび田の清流がと水車が回り、周囲には四季折々に彩りを変えるもみじ林が広がっている。園内には井上靖旧邸が移築されている。なお、今回は入館しなかった。

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 「踊子歩道」は、中伊豆の「浄蓮の滝」を起点として、東伊豆地域の河津町湯ヶ野を終点とする、全長およそ19㎞、所要時間7時間弱のコースがある。道の駅から「踊子歩道」の一部1Kmほどを「滑沢渓谷」を目指して、うっそうとした森の中を歩く。

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 右手の谷下では水量の多い本谷川が流れている音が聞こえ、やがて13:30「滑沢渓谷」に到着。

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 「滑沢渓谷」の底につづく滑らかな一枚岩は、谷を埋めて流れた溶岩。その表面には溶岩が冷却する際にできた節理が刻まれている。滑沢の水の流れが、谷底を埋め立てた堅い溶岩を、長い年月をかけて磨き上げたそうだ。

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 この溶岩流は滑沢沿いをしばらく上流まで辿ることができ、数100m先に天城山中第1位の巨木で、樹齢約450年と推定されている巨木「太郎杉」がある。この「太郎杉」の手前で、火山性の土石流の地層を見ることができるそうだが、時間の都合で引き返す。

 なお、ここから更に5Kmほど南下すると、旧天城トンネル(天城山隧道)がある。

 「踊子歩道」の始点である「浄蓮の滝」とその名所の1つ「旧天城トンネル」写真2枚の出典はウキメディア・コモンズ。

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 滝の落差は25m、幅は7mで岩盤には柱状節理が見られる。滝壺の深さは15m。かつて滝の左岸付近に「浄蓮寺」という寺院があったことから「浄蓮の滝」という名称がついたと伝わる滝の脇には、演歌歌手・石川さゆりのヒット曲である『天城越え』の歌碑があるという。

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 1905年(明治38)に伊豆市(旧天城湯ヶ島町)と河津町をつなぐトンネルとして開通、トンネルの完成により、古来の難所「天城超え」は解消されたという。延長445.5mの国内で最長、最古の石造道路隧道として、国の重要文化財に指定されている。

 14:15道の駅「天城越え」を後にする。

 

 国道414号線を南下して、東伊豆町に入り、「稲取細野高原」へ。

 道の駅から車で45分ほど、15:00「稲取細野高原」(東伊豆町稲取)の駐車場に到着。

 例年11月頃にすすきが見頃を迎え、夕陽に染まり「黄金の海」のような絶景が広がっている。期間中は、入山料1,000円。

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 標高400〜800mの高地にありながら高い樹木がない稲取細野高原からは、遮るものがなく伊豆の大自然を見渡せる。東京ドーム26個、125haという広大な敷地は、全体がハイキングコースとなっていて、湿原や高山植物などを楽しみながら歩くことができるという。

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 高原奥の「三筋山」の標高は821m。高原の一番低い場所の標高が約370m、標高差が約550mあるので、気温でも3度程度の差がある。天城山の侵食で残った台地に、約2万5千年前の泥流が堆積してできた湿原で、貴重な植物や湧水を育む地域である。標高差が大きいので、多様な植生が見られ、約500種の植物と絶滅危惧種26種が生育する。

 東の方角、伊豆諸島を展望。中央が伊豆大島。

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 かつての山焼きの減少により樹林化が進み、現在の高原の広さは1970年代に比較して3分の1程度であるという。湿原の乾燥化や鹿の食害、マダニの増加などが近年の課題となっているそうだ。
 

 16:00頃「稲取細野高原」を後にして、東伊豆町の市街地・稲取に向かう。

 お土産に、稲取漁港の近くの(有)山長水産に16:40頃入店。母娘が手作りでやっている元祖・金目鯛の味噌漬のお店。買おうとしたが、明日まで日持ちが心配。結局、乾物のバラ干し海苔(700円)をお買い上げ。

 17:00「伊藤園ホテル稲取」チェックイン。

 部屋に入って、テレビで相撲観戦。九州場所12日目のこの日、期待の新関脇・安青錦は前頭四枚目・欧勝馬を浴びせ倒しで破り、10勝2敗。大の里・豊昇龍の両横綱と並び、首位を守る。安青錦は、23日(日)の千秋楽で豊昇龍を破り、ウクライナ人として初優勝した。

 テレビ観戦後、入浴。19:20~20:50、バイキングの夕食。22:00頃就寝。

 

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 「早春の伊豆半島めぐり-その1」 2017年2月26日投稿

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2025年11月30日 (日)

秩父三十四ヶ所観音札所めぐり

 2025年11月18(火)、「秩父札所34ヶ所」のうちの9ヶ寺と「秩父神社」をバスで巡る。


 バスは午前7時55分、参加者16名を乗せて出発。パーキングエリアで途中休憩を入れ、関越道花園インターを降りて寄居皆野有料道路へ。

●1番札所「四萬部寺」(しまぶじ)秩父市栃谷

 9時5分、「四萬部寺」に到着。

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 あいにく曇り空だが、秋色に包まれた境内で、紅葉を楽しみつつ参拝する。

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 1007年、幻通の創建。播磨(播州)の性空上人の「武蔵国秩父は観世音菩薩有縁の地なり、彼の地に行きて教化せよ」との命を受けて弟子の幻通がこの地を訪れ、四万部の経典を読経し、供養のための経塚を築き、秩父第一番の霊場としたものとされる。

●2番札所納経所「光明寺」秩父市山田

 2番札所「真福寺」の納経所(のうきょうしょ)としても知られている。山門はなく、一対の仁王像が立っている。

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 納経所(のうきょうしょ)とは、巡礼者が参拝後に「納経」(写経をを奉納すること)を行う場所で、納経帳や掛け軸、白衣などに御朱印をいただける寺院内の受付のこと。

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 札所2番「真福寺」は、標高656mの高篠山の中腹に位置し、無人の寺のため御朱印は納経所「光明寺」でいただく必要がある。「真福寺」は「光明寺」から2.2Km、徒歩で山道を登り約40分の場所にある。

●3番札所「常泉寺」秩父市山田

 「光明寺」と同じように、堂外に仁王像が祀られている。 

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 創建は、奈良の大仏建立の責任者・行基によるものと言われている。

 本堂左手の石段を登ると、1870年(明治3年)に廃仏毀釈によって「秩父神社」の境内にあった「蔵福寺」から薬師堂を移築された観音堂。

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 観音堂の向拝(こうはい)には、名工として当時秩父で名を馳せた玉井(熊谷付近)の飯田和泉による見事な龍・鳳凰の彫刻。海老虹梁(写真なし)の龍の籠彫り(かごぼり)は、素晴らしい。

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 自然石の寺宝「子持ち石」は、子供を授かりたいという女性が抱くと子宝に恵まれると伝えられている。本堂の前に設置されているので、誰でも自由に触れることができ、子宝のご利益を求め多くの女性が訪れるという。 また、安産祈願や幼児の成長を祈願する「子安観音」も祀られている。(「子持ち石」と「子安観音」の写真はなし)

●6番札所「卜雲寺」(ぼくうんじ)秩父郡横瀬町

 ぶどう畑を右にみて急勾配の参道を上ると「卜雲寺」の本堂。

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 高台にある「卜雲寺」は、見晴らしがよく武甲山を望むことができる。

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●7番札所「法長寺」秩父郡横瀬町

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 本堂は、秩父札所随一の大伽藍で、本堂の中に観音堂があるという珍しい造り。平賀源内の原図を元に設計されたと伝わる。

 ここの境内から見る武甲山の風景も素晴らしい。

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 予約してある昼食までにはまだ時間があるので、予定外の9番と15番を追加で参拝。

●9番札所「明智寺」(あけちじ)秩父郡横瀬町

 本堂は、珍しい六角形の観音堂となっており、平成2年(1990年)に再建された。安産子育ての観音菩薩として有名。

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●15番札所「少林寺」秩父市番場町

 駐車場から「少林寺」の裏から入ると、白い漆喰が印象的な本堂は、秩父札所唯一の土蔵造り。

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 明治11年(1878年)の秩父大火で焼失した教訓を活かして、土蔵造りに再建されたという。

●番外「秩父神社」秩父市番場町

 「少林寺」の参道を横切る秩父鉄道の踏切を渡り、番場通りを右へ歩くとすぐに「秩父神社」がある。駅からも近く、平日だが参拝者は多い。

 徳川家康が寄進した「秩父神社」は、秩父の総鎮守。50年に1度の社殿彫刻の塗り直しは約5年間かけて行われた。彫刻はすべて取り外されて作業場に運ばれて修復され、2023年11月に終了した。彫刻は、色鮮やかに塗り直され、社殿の外観を一新した。

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 拝殿正面には、健康の願いを叶えてくれる「恵比寿様」と富の願いを叶えてくれる「大黒様」。

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 髭や歯など顔の細かいところまで丁寧に塗られている。恵比寿様は左手に鯛を、大黒様は打ち出の小槌を振り下ろし、願い事を叶えてくれることを表現しているようだ。

 社殿正面、南側にはたくさんの虎の彫刻がある。

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 寄進した徳川家康が寅の年、寅の日、寅の刻に誕生したと言われており、家康の威厳とご祭神を守護する神の使いともされている。家族連れの虎が戯れている彫刻の中(写真なし)で、母親だけヒョウ柄になっている。諸説あるそうだが、豹を虎の雌だと思われていたという。

 社殿の西側には「お元気三猿」の彫刻がある。

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 三猿といえば、日光東照宮の「見ざる・言わざる・聞かざる」が有名だが、秩父神社の三猿は「よく見て・よく聞いて・よく話す」の意味が持たれ、日光と真逆の表情をしている。

 本殿北側中央には、「北辰の梟(ふくろう)」というご祭神とゆかりの深い瑞鳥(ずいちょう、良いことが起こる前兆とされる鳥)がある。

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 梟は体を南向きに向け、顔だけを北に向けているという。これは、南側の本殿に鎮座する神様に失礼のないように、神様にお尻を向けないようにしているそうだ。また、北を見ているのは北斗七星の尻尾にある破軍星から現れる妙見様を見守っている。男神である妙見様は戦いの神様。関東武士団が「妙見様を信仰すれば必ず勝てる」と広まっていったとのこと。

 社殿東側には左甚五郎が作ったと言われている「つなぎの龍」の彫刻。よく見ると彫刻が鎖につながれている。

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 昔、秩父札所15番「少林寺」の近くに「天ケ池」という池があり、その池に魂が宿った龍が夜な夜な抜け出し暴れまわり、池の水害がある際に、必ずこの彫刻の下に水溜りができていた。そこで、この彫り物の龍を鎖で繋ぎ止めたところ、龍は現れなくなったという伝説が伝わる。龍は水の神様なので、龍が繋がれることで水害が収まってほしいという願いも込められている。

 更に歩いて、秩父鉄道の駅ビル「地場産業センター」の1階で買い物、12時半から2階の秩父茶房レストラン「春夏秋冬」で昼食。

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 レストラン「春夏秋冬」の彩り膳

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●5番札所「語歌堂」(ごかどう)秩父郡横瀬町

 午後は、札所5番は、里道に面して開けっぴろげで無人の「語歌堂」。

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 札所の納経所は「語歌堂」から250mほど東に離れた「長興寺」で、観音堂と別当寺という札所本来の形を残しているという。

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 孫八は和歌の道に親しむ風流人。ある日ひとり堂にこもって歌想を練っていた。そこへ1人の僧が訪ねてきて、2人は夜を徹して和歌の奥義について論じ合った。翌朝、孫八が目を覚ました時には旅の僧の姿はなかった。旅僧は救世観世音菩薩聖徳太子という説もあり)の化身であり、それを悟った孫八はこの観音堂を「語歌堂」と名付けたと言う。

●4番札所「金昌寺」(きんしょうじ)秩父市山田

 赤い仁王門に、大きな草鞋(わらじ)が奉納されている。

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 「金昌寺」は、約1,300体にもおよぶ石仏が並ぶ「石仏の寺」として知られる。

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 江戸時代の寛政年間(1789年~1801年)、古仙登嶽(こせんとがく)和尚が、浅間山噴火・天明の大飢饉などによる犠牲者を供養するために、千体石仏の建立を発願したことに由来するとされる。

 本堂の回廊右手にある「子育て観音」は、赤ん坊に乳房を含ませるリアルな母親の姿の観音様で、秩父札所巡りの目玉の1つだそうだ。

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 江戸時代、妻子を失った人物がその供養のために建立したものと伝えられているが、隠れキリシタンによって建立されたマリア観音とする説もあるという。

 ここには、地元・秩父市出身の政治家・荒船清十郎の墓と銅像があった。

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 1966年(昭和41年)8月、佐藤内閣の運輸相に抜擢されるが、10月からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅急行停車駅に指定させたため、世論の批判を受ける。放言やスキャンダルまみれで評判は良くなかった。しかし、クリーンではないが気骨ある政治家、品性に欠けるものの愛嬌があり憎めない政治家として国民から親しまれた。
  

 「金昌寺」を後にして、午後3時35分に予定より2時間早く出発地に帰着した。

 この日は、今季一番の寒気が流れ込み、12月並みの寒さの予報。秩父地方は曇り空で最高気温は15℃ほど。風も強くなく、にわか雨も降らず、午後からは青空も見えて思ったより暖かい秋の日だった。
 

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2025年11月15日 (土)

映画「おーい、応為」

 2025年11月13日、映画『おーい、応為』を観る。最寄りの映画館の上映最終日だった。
 

 主演は、本作が時代劇映画初主演となる長澤まさみ。監督・脚本は、『日日是好日』の大森立嗣。10月17日に公開。

 飯島虚心1841-1901著の伝記『葛飾北斎伝』(岩波文庫刊)と、杉浦日向子(1958-2005)の漫画『百日紅(さるすべり)』(筑摩書房刊)所収の『木瓜』『野分』を原作に、江戸時代を代表する浮世絵師・葛飾北斎の娘で弟子でもあった葛飾応為(おーい)の人生を描く。

 朝井まかて(1959-)の小説『眩(くらら)』(2016年)でも、応為が主人公として描かれ、2017年にはNHKでドラマ化された。

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●キャスト

 葛飾応為(お栄):長澤まさみ

 葛飾北斎(鐵蔵):永瀬正敏。応為の父で孤高の天才浮世絵師。

 渓斎英泉(けいさい えいせん、善次郎):「King & Prince」の髙橋海人。北斎の門弟で、応為の良き理解者、美人画を得意とする。父母亡き後、幼い妹たちの養育費を稼ぐために春画の制作を始めたり、のちに遊女屋を経営したりする。

 魚屋北渓(ととや ほっけい、初五郎):大谷亮平。北斎の門弟で売れっ子の絵師。応為が淡い恋心。

 元吉:篠井英介。近所に暮らし、三味線を弾きながら端唄(はうた)・小唄を歌う師匠。応為の心の揺れに静かに寄り添う。

 津軽の侍:奥野瑛太。北斎に屏風画を依頼するため、何度も足を運ぶ津軽家藩主の使い。

 こと:寺島しのぶ。応為の母であり、北斎の妻。病を抱える娘・お猶(おなお、北斎の四女)と町外れで暮らす。たまに応為が訪れては心情を打ち明ける、優しい母親。

 

●あらすじ

 浮世絵師・葛飾北斎の三女であるお栄は、ある絵師に嫁いだが、夫の絵をかっこうばかりと絵の技量を見下したことが原因で離縁となり、父・北斎のもとへ戻ることとなった。以後、お栄は父娘として、また師弟として北斎と生涯をともにする。2人が暮らすボロボロの長屋は、貧しく荒れ果て、画材や絵で散らかり放題。豪胆で破天荒。お栄は茶も入れられず、針仕事もできない男勝りの性格。やがて父親譲りの類まれな絵の才能を開花させ、北斎の右腕として活躍するようになる。

 北斎が「おーい、筆!」「おーい、飯!」と呼びかけるたびに応える姿から、「応為(おうい)」という号を授かる。応為は、当時としては稀な女性浮世絵師として、時代の風を切って駆け抜ける。美人画で名を馳せる絵師・善次郎との友情、兄弟子・初五郎への淡い恋心、そして愛犬・さくらとの穏やかな日常。嫁ぎ先を飛び出してから二十余年、父娘は長屋の火事と飢饉をきっかけに、北斎が生涯描き続けた「富士山」の境地へと向かうこととなる。


●作品

 左は、北斎に学んだ技法の応為作『月下砧打美人図』(東京国立博物館)。右は、北斎にない陰影表現から応為に真筆とされる『夜桜美人図』(メナード美術館)。

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 応為作『三曲合奏図』(ボストン美術館 ) 中央の遊女が琴、右側の芸者が三味線、左側の町娘が胡弓をひく。

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 応為作『吉原格子先之図』(太田記念美術館)

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 絵に応為の落款がないが、格子の外にいる客の提灯に「應」「為」「栄」の文字が中半隠れている。

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 北斎作『富士越龍図』(北斎館)は、北斎の絶筆に近い作品とされる。

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 ★ ★ ★

 応為は、飾り気のないひっつめ髪に、足首の見える短めの男物の地味な柄の着物を身にまとい、襟や帯も男性風。歩き方も男のようで、料理や片付けは不得手。父とは対照的に、酒と煙草を嗜んだ。キセルを手にし女性らしい身なりを捨て、北斎が畳に膝をついて絵を描く姿勢を真似ていた。芸術に生きる覚悟が、身のこなしにも表れていたのだろうか。

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 そんな応為が、北斎の圧倒的な画力を間近で見つめながらも、父の模倣ではない独自の「光と影」を操る傑作を残したことは驚嘆に値する。彼女の僅か十数点の作品の中には「日本のレンブラント」とも称され、西洋画のような陰影表現が際立っている。

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 葛飾北斎は、晩年に至ってもなお「猫一匹まともに描けねえ」と己の未熟を嘆いたという。名声を得た後も筆を置くことなく、絵師としての執念を燃やし続けたその姿は、まさに鬼気迫る。生涯を通じて富士山を描き続けた北斎は、映画では、富士の見える掘っ立て小屋で、娘の応為とともに暮らした。

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 映画では、90歳まで生きた老いゆく北斎の姿が印象的に描かれている。役を演じた永瀬正敏は、その風貌に近づけるため体重を落としたという。一方、応為は60歳くらいまでか、髪にわずかに白いものが混じる程度で、父よりもまだ若々しい。弟子の善次郎は、北斎の死の1年前、58歳で病没。火葬場で父娘が見送る場面では、愛弟子の炎に引き寄せられるように近づく北斎を、応為がそっと手を握って現実へと引き戻す姿が胸を打つ。

 応為はおよそ70歳近くまで生きたとされるが、現存する作品は極めて少ない。そのため、「北斎作」とされる作品の中には、実際には応為の手によるもの、あるいは共作と考えられるものが相当数あるという説がある。北斎は晩年、中風(脳卒中)を患ったが、震える手で絵が描けたのだろうか。そのほとんどが応為の作だという説もあるようだ。特に北斎80歳以降の落款を持つ肉筆画には、彩色が若々しく、緻密すぎる作品が多く見られ、応為の代筆とする見方もある。春画の一部は、応為の作とする説も存在する。

 映画のラストシーンでは、応為が縁側から絵を制作している北斎の方を振り向いたとき、北斎の動きが静止している。寝ているのか、しかし観客には死を予感させる。応為が揺すっても起きないし、持っている筆を手から離そうとしても離さない。自分が龍になって、天に昇っているかのような絵『富士越龍図』(前述)を製作中に北斎は絶命していた。

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 応為の史料は乏しく、その生涯には多くの謎が残っている。北斎の死後、彼女の消息は不明となり、作品を描き続けたのか、あるいはより自由に生きたのか定かではない。晩年は仏門に帰依し安政2年~3年(1855〜1856年)頃、加賀・前田家の庇護を受けて金沢で67歳で没したとも、あるいは北斎とともに過ごした信州・小布施でその生涯を終えたとも伝えられている。ミステリアスな存在であるがゆえに、今なお我々の想像力をかき立ててやまない。

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2025年11月 9日 (日)

映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」

 2025年11月8日、映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』を観る。
 

 今年は、女性初のエベレスト登頂から50年の節目の年。輝かしい偉業を成し遂げた登山家・田部井淳子のエッセイ『人生、山あり“時々”谷あり』を原案にしたドラマ。エベレスト登頂という世界中を驚かせた業績は、主人公・多部純子や友人、家族たちに光を与えると共に、深い影も落とすことになる。亡くなる直前まで、山とともに生きた田部井淳子の実話を基に、その生涯を描く。10月31日より全国公開。

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 多部純子は、女性だけの登山隊副隊長として1975年、女性として初めてエベレスト登頂に成功。女性登山家のパイオニアとして注目を浴びる。次々と山に挑戦する純子だったが、彼女に反発する息子・慎太郎とのすれ違いや、登山仲間との決別に悩み、晩年には余命宣告を受けながら病と闘い、夫とともに山と向き合っていく。

 モデルになった田部井淳子とエベレスト登頂の写真。以下は『てっぺんの向こうにあなたがいる』のパンフレットから転載。

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 そして、東日本大震災で被災した高校生たちの姿に心を痛めた純子は、病を押して東北の高校生たちと富士山に登ることを決意。自らの姿を通して彼らを励ますプロジェクトを立ち上げる。純子の夫・正明は、長年すれ違ったままの慎太郎に、プロジェクトへの参加を持ちかける。純子の人生最後の登山も、高校生たちとの富士登山だった。

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 主人公・多部純子を吉永小百合(青年期:のん)、夫・正明を佐藤浩市(同:工藤阿須加)、純子の親友で新聞記者の北山悦子を天海祐希(同:茅島みずき)、娘・教恵を木村文乃、息子・慎太郎を若葉竜也が演じる。監督は阪本順治。

 撮影は、富士山、日和田山(埼玉県日高市)、御霊櫃峠(ごれいびつとうげ/福島県郡山市)、立山室堂(富山県立山町)で行われた。

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 ★ ★ ★

 田部井淳子のエベレスト登頂から50年という今年、公開された。本作は、単なる偉業の記録ではなく、ひとりの女性の「生き方」を描いた作品。多部純子という人物を通して、山に挑む情熱、家族との葛藤、そして病と向き合いながらも笑顔で明るく生きる姿に、胸が熱くなる。

 エベレスト登頂という世界的快挙は、確かに光に満ちていた。しかし、その光の裏には、家族とのすれ違いや仲間との別れといった影の部分もこの映画は描いている。特に、息子・慎太郎との関係に悩みながらも、最後には富士登山を通して心を通わせようとする姿には、親子の絆の深さと複雑さがにじんでいた。

 また、親友で新聞記者の北山悦子との友情が描かれ、そして東日本大震災で傷ついた高校生たちに向けた富士登山プロジェクトは、純子の「誰かのために登る」という信念が凝縮された場面だった。病を抱えながらも若者たちに希望を託す姿は、登山という行為が人生そのものを象徴する営みであることを教えてくれる。

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 吉永小百合の演技は、静かな強さに穏やかで明るさに満ちており、青年期を演じたのんとのつながりも自然だった。佐藤浩市演じる夫・正明が、妻に静かに寄り添いながらも葛藤する姿も印象的で、お互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合う柔らかい感じは、夫婦の絆に深みを与えている。この映画は、登山家の物語であると同時に、家族の物語でもある。田部井淳子の生き方に触れ、人生についても何かを考えさせられる作品だった。

 50年も前のファッション、ヘアスタイル、登山装備、また生活用品などが再現してあって懐かしかった。しかし、エベレスト登山の場面のロケ、富士山のロケなど、若干違和感がある部分があった。

 田部井政伸・純子夫妻 味の素アミノバイタルの広告(2009年)より転載。

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 田部井淳子は、1939年9月22日に福島県三春町の生まれ。昭和女子大学英米文学科卒業、九州大学大学院修士課程修了。1967年には登山家の田部井政伸と結婚、一男一女をもうける。エベレスト登頂(1975年)は、日本で6人目(女性初)、世界で38人目(女性初)。七大陸最高峰登頂(1992年)も、女性では世界初。住まいは、埼玉県川越市。2016年10月20日、腹膜癌で死去(77歳)。墓所は、所沢聖地霊園。

2025年11月 2日 (日)

福岡市動植物園

 2025年10月24日(金)、福岡市動植物園(福岡市中央区南公園)に行く。
 

 「福岡市動植物園」は、動物と植物の両方を楽しめる福岡市営の施設。大きく分けて高部の植物園と低部の動物園の2ゾーンからなる。1953年(昭和28)に動物園が開園し、さらに1980年(昭和55)には植物園が開園した。約110種の動物と約2,600種の植物を飼育・栽培する施設の敷地は広大。動物園は2023年で開園70周年を迎え、植物園は2020年で開園40周年を迎えた。
 

 8:40、「KKRホテル博多」(中央区薬院4丁目)をチェックアウト。

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 ホテル前の市道「博多駅草ヶ江線」を南に進み250mほど先の「動物園入口」交差点を左折、住宅地の長い坂道を上る。やがて学校法人「福岡雙葉学園」の校舎が右手の高台に現われるが、この学園の裏の方角が動植物園。

 8:55、ホテルから徒歩15分ほどで、「福岡市動植物園」正門(中央区南公園)に到着。

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 入園料600円。わかりにくい案内標識だが、左手の方角が植物園らしい。

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 左手の動物園側の「アジア熱帯の渓谷エリア」に行く。アジアゾウは、ゾウ舎の中にいるのか放飼場に姿はない。高いタワーの上にいるオランウータン、檻の中のマレーグマやヒョウ。

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 山の急斜面にあるこの渓谷エリアは、坂道、階段を上るので、高齢者にはきつい。エスカレータもあるが、場所がわかりにくい。

 マレーグマの後、「植物園」に向かう。植物園は更に高台にあり、坂道、階段のほか、スロープカーもある。

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 「植物園」の一番西側にある「温室」に行く。

 「温室」入口付近に咲いているブーゲンビリア。

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 「温室」に入室。スイレンの葉は円形で水面に浮かび、花は早朝に開花、昼過ぎには閉じるというサイクルを繰り返す。花色は白、ピンク、赤、黄色、紫など多様。 

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 パラグアイオニバスのつぼみと葉。スイレン科オオオニバス属に属する水生植物の1種。パラグアイオオオニバスともよばれる。オオオニバスと同様、たらいのような非常に大きな葉を水面に浮かべる。

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 デンファレ。ラン科。「デンドロビウム・ファレノプシス」が正式名称で、洋蘭の一種。 コチョウラン(胡蝶蘭)によく似た花で、ハワイの首飾り「レイ」の材料としても親しまれている。

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 ベニヒモノキ。トウダイグサ科エノキグサ属の常緑低木~中木。垂れ下がるブラシ状の花に由来。エノキグサ属の種は一般に葉を鑑賞対象とするが、本種は花を鑑賞する。高さ4mほど。深紅色のひも状の穂状花序を20~50cmほど伸ばす。

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 直径1mにもなるサボテンの一種のキンシャチ。寿命は最長で30年程度とされる。

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 ビカクシダ(コウモリラン)。アフリカやマダガスカル、アジア、太平洋諸島、オーストラリアの熱帯地域に分布。現在18種の原種が確認されてる着生シダ植物。大きく垂れ下がった葉が、コウモリが羽ばたく姿に似ていることから、通称「コウモリラン」。

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  温室の周辺花壇、マリーゴールド。

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 温室前で、ハローインの飾り付けをしたシンボルガーデン。

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 10:50頃、退園。ホテルに戻り預けた荷物を引き取って、博多駅に向かう。
 

 ★ ★ ★

 「福岡市動物園」の前身は、1933年(昭和8年)に昭和天皇の御即位を記念して、博多区「東公園」内の馬出の地に設立された「御大典記念・福岡市動植物園」。戦後、「動物園」は福岡市中心部から南に位置する「南公園」へ移転・開園し、現在に至っている。

 「南公園」は、福岡市中央区に位置する都市公園で、福岡市動植物園とその周辺一帯を総称する名称。市の中心地にありながら、園内には閑静な照葉樹林が広がっている。公園周辺の丘陵は、かつて「大休山」(おおやすみやま)と呼ばれていたそうで、一帯の丘陵地は住宅地に囲まれている。かつてこの地には、福岡市で初の上水設備である「平尾浄水場」が存在した。浄水場の廃止後、その跡地を利用して「植物園」が整備され、「動物園」とあわせて現在の「福岡市動植物園」となった。

 広義の「南公園」は、北部の無料公園エリア、中部の「動物園エリア」、南部の「植物園エリア」の3つに大きく分かれる。「動物園」と「植物園」は有料施設で、合わせて「福岡市動植物園」として都市公園「南公園」に含まれている。また、「植物園」の北東側にある無料区域には多くの桜が植えられ、福岡市内有数の花見スポットとして知られる。さらに、「動物園」北部の無料エリアには丘陵の地形を生かした散策コースが整備されているそうだ。

2025年11月 1日 (土)

福岡県・糸島半島

 2025年10月23日(木)、福岡県糸島半島をツアーバスで巡る。
 

 糸島半島は、東部が福岡市西区、西部と南部が糸島市の市域。「糸島」の名前の由来は、合併前の怡土郡(いとぐん)と志摩郡(しまぐん)の名を繋げて別の字を当てたもの。

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 9:30、KKRホテル博多をマイクロバスで出発。

 西九州自動車道の拾六町ICから 入り、前原東ICを出て県道54号を北西へ進む。
 

●芥屋の大門

 10:30、「芥屋の大門」(けやのおおと)公園の駐車場(糸島市志摩芥屋)に到着。

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 「芥屋の大門」公園の駐車場に隣接する「大祖(たいそ)神社」。社殿は工事中で、ブルーシートで覆われていた。

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 歴史のある神社のようだ。主祭神はもとは天照大神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の三神だったが、明治44年に綿積神社、産屋神社を合祀したことで、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)、草野姫命(カヤノヒメノミコト)・・・豊玉姫(トヨタマヒメノミコト)ほか多数の神々が祀られているそうだ。

 「大祖神社」の前を通り過ぎ、海岸線に出ると鳥居がある。その向こうの海側が神域。額は「大門神窟」。「芥屋の大門」を祠とする「大門神社」だそうだ。

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 海岸線から左手に、柱状節理の「芥屋の大門」の東側面が見える。下の写真は、Googelフォトより転載。

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 「芥屋の大門」は、玄海国定公園の中でも名勝奇岩として全国的に知られる日本最大の玄武岩洞。高さ64m、奥行き90m、間口10m。神秘的な洞窟の中は、遊覧船に乗って観ることができる。3月中旬から11月にかけて、芥屋漁港から観光遊覧船が運航(遊覧時間約25分)。

 この日はこの日は波が荒くて、乗船予定の遊覧船は欠航。洞窟を見れなかったのは残念だった。次の2枚の写真は、福岡県観光連盟提供。

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 六角形や八角形の玄武岩柱状節理は、国の天然記念物に指定。

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 「芥屋の大門」公園の展望台へ向かう森の遊歩道が、ジブリ映画『となりのトトロ 』に出てきそうな「トトロの森」。木立のアーチのようになっているトンネルの中を5分ほど登る。

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 森の奥へ登っていくと展望台があり、「芥屋の大門」の背面を見ることができる。

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 展望台からは、玄界灘に浮かぶ姫島とその背後は唐津。

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●二見ヶ浦の夫婦岩

 「芥屋の大門」公園を後にして、県道54号を北東へ福岡市西区方面に向かう。11:20、およそ20分ほどで「二見ヶ浦」(糸島市志摩桜井)の海中大鳥居と夫婦岩。

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 北西の方角、海岸線の向こうに「パームビーチ」が見える。

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●バームビーチ

 県道54号の歩道を600mほど歩き、12:00頃「パームビーチ」 (福岡市西区西浦)へ。

 「パームビーチ」から夫婦岩を望む。

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 ビーチカフェのバーベキュー小屋。

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 イタリア料理の「パームビーチ レストラン」(福岡市西区西浦)で、12:30~昼食。

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●ざうお海岸のブランコ

 県道54号線を5Km、7分ほど、13:35博多湾側の「ざうお海岸のブランコ」(福岡市西区小田)に到着。

 「活魚茶屋ざうお本店」の敷地内にある「ヤシの木ブランコ」。

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 ジョーズ(右)と碇のベンチ(中央)など、浜辺にはいろいろな遊具がある。

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 「宙(そら)への階段」を登ると「宙の鐘」。飛び込み、飛び降り禁止。

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 浜辺からは、海に突き出た「福岡市海づり公園」、遠くに博多市街が見える。

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 14:00「ざうお海岸」を離れ、県道54号線を南下し、桑原水崎線から西へ向かい九州大学伊都キャンパス近くを通る。

●造り酒屋「杉能舎」

 14:15、造り酒屋の「杉能舎」(浜地酒造、福岡市西区元岡)着。

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 スタッフが、米を蒸すための大釜の展示と酒造りの紹介ビデオを案内。

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 「杉能舎」は、日本酒やクラフトビール、種類豊富なリキュールや甘酒、季節限定のお酒など販売。無料で試飲が可能。発酵副産物を使用した酒蔵のパン工房では、地ビールパン、あまざけソフトクリームや酒粕饅頭なども販売。
 

 県道85号国道202号、今宿道路/岡前原道路から今宿ICで西九州自動車道に入り、福岡高速環状/Cの博多駅東ICを出る。

 15:30、博多駅筑紫口へ到着。
 

 ★ ★ ★

●糸島と伊都国

 糸島市は、2010年(平成22)1月に旧前原市・旧志摩町・旧二丈町が合併して誕生。福岡県西部の糸島半島に位置し、北側には玄界灘に面した美しい海岸線、南側には背振山系の山々が連なる。それの間は、糸島平野と呼ばれるなだらかな田園地帯が広がっている。

 中国の歴史書『魏志倭人伝 』によると、糸島市を含む糸島半島全域は、かつて古代国家「伊都国」として栄えていた地。「伊都国歴史博物館」には、1965年に発見された「平原遺跡」(ひらばるいせき)から出土した日本最大直径46.5cmの銅鏡「内行花文鏡」(ないこうかもんきょう)が展示されており、伊都国の繁栄を象徴する。


 糸島地方は、朝鮮半島や中国大陸に近いため、最新の技術や情報をどこよりも早く取り入れることができ、国内外から人々が集まり、やがて「伊都国」と呼ばれる国が生まれた。『魏志倭人伝』によると、伊都国は大陸との交易窓口と記され、中国や朝鮮半島の使者たちは必ず「伊都国」に立ち寄る義務が課せられたという。伊都国は、代々の王によって統治され、その力は当時、女王卑弥呼が君臨した邪馬台国に次ぐものと考えられている。

 王は、伊都国の人々に長い間信頼されながら中国皇帝とも深いつながりを持ち、古代国家建設を目指した。伊都国の生活は非常に豊かであったことが推測される。多くの人々が集まり行きかい、その集落には王の宮殿をはじめ、役人たちの官舎、中国や朝鮮から来た人々の迎賓館などが建ち並び、華やかな王都の想起される。1965年に発見された「平原遺跡」こそが、伊都国がどれほどの力を持っていたかを知る手がかりとなった。

2025年10月12日 (日)

鐘撞堂山ハイク

 2025年10月7日(火)、埼玉県寄居町の「鐘撞堂山」ハイキング。
 
 
 「鐘撞堂山」(かねつきどうやま)は、寄居町の北方にそびえる低山で、山麓から目立たない山であるが手軽なハイキングの山として人気がある。関東百名山に選定されている。山頂からは関東平野が望め、寄居の街並みや東京スカイツリー、筑波山や榛名山などが見渡せるという。
  
 10:25、東武東上線「寄居駅」に到着。10:35、北口からスタート。
 
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 市街地を北に向かい、10分ほどでヤオコー寄居店、昼食を調達。
 
 10:55ヤオコーを出発。国道140号線を横断して北へ向かう車道を歩く。11:25、標高130mの「大正池」。東屋で休息。トイレ有り。
 
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 「大正池」といえば、上高地(長野県松本市)の「大正池」。こちらの「大正池」は上高地の2年遅れで誕生、寄居駅の北1.5kmほどの標高130mほどの場所に位置し、「鐘撞堂山」を結ぶハイキングコースにある。
 
 大正6年に竣工した農業用ため池で、地元の農業関係者が毎日30人〜40人、2年間にわたって谷を掘削したもの。大正時代に溜め池として作られた大正池は、全国にあるそうだ。
 
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 庚申塔など、いくつかの石碑がある。
 
 やがて舗装道路は途切れて砂利道、山道になり、11:45鐘撞堂山の登山口に到着。
 
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 杉林の登山道を進む。
 
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 途中で、「肌あれ・アトピー・花粉症にも竹酢液を」の札。竹酢液とは竹炭を焼くときに出る煙を冷却して採り出した液体で、竹のエキス。原材料が竹の場合「竹酢液」と呼び、他の木の場合は「木酢液」と呼ばれる。この辺りには、竹林が続く。
 
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 やがて「竹炭工房」の看板のある小屋があった。
 
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 「竹炭工房」の看板には、
 
・一般家庭用   ・竹酢液(アトピー・肌荒れ・花粉症)
・平炭・丸炭   ・花器(一輪差し)
・竹炭枕      一日、灰焼体験コーナー 要予約
 
とある。
 
 笹薮の山道が続く。
 
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 いよいよ急登。
 
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 「鐘撞堂山」と「円良湖」に向かう分岐。
 
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 山頂直下の最後の急階段。
 
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 12:25、「鐘撞堂山」山頂(標高330m)に到着、昼食。ここは、寄居町、深谷市、美里町の分岐点に位置する。北条氏が北関東支配の拠点 とした「鉢形城」の物見山で、鐘を撞いて危急を知らせた。
 
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 展望台からは、桜の木の枝が邪魔して、展望が悪い。
 
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 展望台の下からが良く展望できたが、写真を撮るのを失念した。
 
 13:00、下山開始。
 
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 13:30、灌漑用の「円良田湖」(つぶらだこ)。標高156m、周囲4.3km。美里町と寄居町にまたがり、桜の名所として知られている。ヘラブナ釣りのメッカ、冬にはワカサギ釣りもできるそうだ。東屋で休憩。
 
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 14:35、秩父鉄道「波久礼駅」(無人駅)着。
 
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 歩程約8Km。曇り空で、最高気温20℃程度。この時期には涼しい日和だった。
 
 15:01発の羽生行きに乗車。次の駅の寄居駅に5分で到着。

2025年9月25日 (木)

くらかけ清流の郷

 1925年9月21日(日)「くらかけ清流の郷」(埼玉県東松山市)へ行く。

 埼玉県と東松山市共同の「川のまるごと再生プロジェクト」により、荒川水系「越辺川」(おっぺがわ)支流の都幾川に架かる「鞍掛橋」周辺の自然を川に親しめる場所として整備。川遊びやバーベキューが楽しめる施設。

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 「鞍掛橋」は、市内神戸(ごうど)地区と上唐子地区をつなぐ冠水橋。飛び石も設置されている。

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 河川工事により長い間休業していたが、2025年7月14日(月)より営業を再開された。

 夏休みは、家族連れが大勢来場して混み合ったようだ。9月になっても水遊びの子どもも多い。

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 9月下旬になっても朝夕は涼しいが、日中は厳しい残暑が続く。この日の最高気温は、30℃前後。

 しかし東北・北陸の秋雨前線が活発なせいか強い風が吹き、日差しはあるが蒸し暑さはなく過ごしやすかった。

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 有料エリアは、木陰で真夏には涼しい。

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 利用料金(予約)は、5名、普通自動車1台利用で、 環境美化協力金(駐車料)1,000円、BBQ用具セット5,000円、食材(スタンダードコース)8,000円で、合計14,000円。一人あたり、2,800円相当。

 食材の牛・鶏・豚肉のほかに、東松山名物の「やきとり」10本と「味噌だれ」も含まれているのが面白い。

2025年8月 9日 (土)

白駒池と車山肩

 2025年7月30日(水)、涼しさを求めて八ヶ岳周辺を巡る。

 

 8:00、集合地を出発。関越自動車道、上信越自動車道から中部横断自動車道の佐久穂ICを10:00頃出る。「白駒池」を目指して「メルヘン街道」(国道299号)を南下する。

 八千穂高原の白樺群生地、八千穂スキー場の前を抜けて、標高1706mに位置する「レストハウスふるさと」(長野県小海町)で休憩。

 ここのテラス席から、佐久平の広大な景色を一望。残念ながら景色は靄(もや)がかかって、山並みは雲で覆われて見えにくい。

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●白駒池

 11:00、メルヘン街道沿いの右手「白駒池」駐車場(有料)に到着。駐車場の反対側に「白駒池」の入口。

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 国土地理院の地図では「白駒池」と表記されているが、資料やパンフレット、看板などで表記ゆれがあり、「白駒の池(しらこまのいけ)」、「白駒池(しらこまいけ)」、「白駒ノ池(しらこまのいけ)」の3種類がある。

 苔と原生林。「白駒池」は、周囲をコメツガやシラビソなどの針葉樹林帯に囲まれている。

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 苔のミクロの世界。

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 ミクロの苔の森。

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 木道を歩いて「白駒池」へ向かう。こんな歩きやすい木道は、昔来た時は無かった。

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 原生林の中を徒歩で約10~15分程歩くと、別世界のような静かな池の畔に立つ。八ヶ岳連峰の北部にあたる北八ヶ岳のふもとの八千穂高原にあり、紅葉の名所として知られる「白駒の池」は、長野県佐久穂町と小海町との境にある。

 北八ヶ岳を構成する山々のうち、丸山と白駒峰との間、標高2,115mの地点に位置し、白駒峰の噴火により大石川(信濃川水系)がせき止められて誕生した堰止湖。池の周囲長1.35Kmで、 標高2,100m以上にある湖としては、日本最大。

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 周囲は約1.6km(一周徒歩約3~40分ほど)、最大深度約8.6mの自然湖で水面にはヒルムシロやホソバノウキミクリなどの水草が浮いている。

 ホソバノウキミクリ (細葉浮実栗) の細い葉の水草が、波に揺られている。この水草は、本州ではここ「白駒池」と東北の一部にしかないそうだ。

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 アキアカネ(赤トンボ)が飛び交う。平地で育ったアキアカネは、日中の気温が20~25℃の3000m迄の高原や山岳地帯へ移動し、7月~8月の盛夏を過ごす。

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 成熟した成虫、特に雄は体色が橙色から真っ赤な色に変化し、秋には大群を成して山を降り、平地や丘陵地、低山地へと移動するという。

 湖畔を散策して、駐車場に戻る。

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●大東園

 12:05、「白駒池」駐車場を出発。「メルヘン街道」を南下して茅野市方面に向かう。30分ほどで、築150年以上の純日本家屋の宿・豪族の館「大東園」(長野県茅野市北山)に12:45到着。ここで13:35まで昼食、休憩。

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 「大東園」の名物は、ぼたん鍋(猪鍋)だそうだが、予約しておいたランチは、「豪族そば」(1,600円)。猪の肉、ねぎ、海苔がのった信州そばに、つけ汁と卵黄が付く。猪の肉はミンチ状になっていて、臭いもないし、言われなければ猪とは分からないが、美味しい蕎麦にあう。

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 「大東園」から更にメルヘン街道を下り、「鉄山入口」バス停で左折して県道484号を走り、更に左折して県道191号線を上ると「御射鹿池」(みしゃかいけ)、13:50到着。

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 画家・東山魁夷の有名な作品『緑響く』に描かれた風光明媚な「御射鹿池」。静かな水面には背景の林や山々の風景が逆さに映り込み、幻想的。ここは、長野県茅野市豊平にある標高1,500mの農業用溜め池で、冷たい八ヶ岳の水を太陽で温めて稲作に利用するために、昭和の初めに造られたそうだ。

 10年前にここに来たときは、水際までは入れたが、今では堤防内は立ち入り禁止。柵で囲われて、池に近づくことはできなくなった。当時に比べ、駐車場やトイレも設置してあって観光客も多い。

 14:10、「御射鹿池」を出発。国道152号線を北上、「白樺湖」の傍を通って「ビーナスライン」(県道40号線)で霧ヶ峰高原方面に向かう。


●車山肩

 「車山高原」の「車山肩」駐車場(標高1800m)に、15:00着。期待していた草原に群生するニッコウキスゲは、見頃を終わっていて残念。

 気象レーダーのドームがある「車山」(標高1925m)とその左奥に「蓼科山」(たてしなやま、標高2,531m )が見える。

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 ニッコウキスゲを鹿の食害から守る電気柵が張られている。

 枯れかかったニッコウキスゲの花が、チラホラ。

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 「霧ヶ峰」の最高峰「車山」(くるまやま)は、長野県茅野市と諏訪市の境目に位置する標高は1925mの山。車山一帯は「車山高原」と呼ばれており、冬季には車山高原スキー場としてスキーが楽しめる。ニッコウキスゲは、7月中旬から車山高原一帯に咲き始める。ニッコウキスゲの黄色と空の青、遠くの山並みが一体となった絶景のコントラストが広がるはずだった。

 オニユリが満開だったが、ニッコウキスゲのように群生はしていない。

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 「車山肩」を15:45出発。帰りの車窓から見る「八ヶ岳連峰」。

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 予定していた「八島湿原」(標高1,630m)は、時間の都合で割愛した。

 国道142号(国道256号)沿い、中部横断自動車道の佐久南ICの手前にある道の駅「ほっとぱーく・浅科(あさしな)」(長野県佐久市甲)に16:45着。

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 ここから北の方向に、雄大な浅間山と広大な田園地帯を望む

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 17:05まで、道の駅で買い物、休憩の後、往路を戻る。19時少し前に朝の集合場所に帰着。

 平地ではこの日も35℃を超える猛暑日だったが、高原の気持ちの良い風と景色を楽しんだ1日だった。
 


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「白駒の池周辺の山歩き」 2023/08/24投稿
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「長野市周辺と白馬の旅」 2016/10/28投稿
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「八ヶ岳高原の新緑」 2014/06/02投稿
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「八ヶ岳北横岳・霧ヶ峰車山高原」 2011/09/26投稿
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2025年7月28日 (月)

池ノ平湿原

 2025年7月21日(月)、湯の丸高原「池ノ平湿原」(長野県東御市)ハイキング。

 「池ノ平駐車場」から「見晴歩道」、「三方ヶ峰」(2040m)を経て、「池ノ平三方歩道」を周回。

 

 9:45関越道小諸ICで高速を降り県道94号線を経て、10:25標高2060mの「池ノ平駐車場」に到着。

 コマクサ峠の「池ノ平湿原」入口の案内板。

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 案内板右手の丘陵部から、湿原全体を望む「見晴歩道」へ。 しばらく階段状の上り坂が続くが、やがてゆるやかな登り。

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 高度を上げると、「池ノ平湿原」が顔を出す。

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 「村界の丘」を経て、11:00「雷の丘」2100m。

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 更に進むと「池ノ平湿原」の全容が見えてくる。

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 平坦な山道を歩く。

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 11:20「雲上の丘」2,110mに到着。休憩。

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 ここは、「池ノ平湿原」をはじめ、「篭ノ登山」、「黒斑山」、「湯ノ丸山」、「北アルプス」などを眺めることができるベストビューポイントだが、あいにくのガスで見えず。

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 「池ノ平湿原」を見下ろす。右下が「鏡池」。

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 11:25「雲上の丘」を後にして、「ピグミーの森」を抜けると、分岐に11:35着。

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 右は、100mほど先に「見晴岳」2095m。

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 左は、400mに「三方ケ峰」2040m。

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 分岐を左に進むと道は下りに転じ、すぐ右手に小諸市の街が見えてくる。

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 下りから10分ほどで、「三方ケ峰」への最後の登り。

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 12:05「三方ケ峰」2040mに到着。ここで昼食。

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 「三方ケ峰」は、「篭ノ登山」(かごのとやま)の南西側に位置する山で、「池ノ平湿原」と「鏡池」の背後にあって、山頂は横長の小高い丘のようだ。

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 山頂付近は、コマクサ園になっている。保護柵が張られ、その先のガレ場の斜面にはコマクサがチラホラ。既に見頃を過ぎていた。

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 南の方角は、佐久方面。

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 南南西の方角、小諸市。

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 南西の方角、東御市。

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 八ヶ岳は雲で隠れて、全容は見えない。

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 12:30「三方ケ峰」を後にし、しばらく下ると木道が続く。

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 12:40湿原の「忠治の隠岩広場」着。   

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 ここから左へ湿原に張り出すように設けられた木道で、「鏡池」へ。

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 「三方ヶ峰」の直径700mほどの中心火口が、現在の「池ノ平湿原」。かつては火口湖だった。湿原に水が溜まったのが「鏡池」。

 「忠治の隠岩」は、江戸時代の侠客・国定忠治が上州赤城から逃げて隠れたという伝説の巨石。岩石は、「三方ケ峰」火山の溶岩の塊。隠れ岩伝説は、赤城山や志賀高原にもあるという。

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 湿原中央部を横切る「池ノ平遊歩道」平坦部の終り、12:50「グリーン広場」2008mに到着。しばし休憩。

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 「グリーン広場」から、「忠治の隠岩広場」と「鏡池」の方面を振り返る。

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 「グリーン広場」から「池ノ平駐車場」まで、木道のゆるやかな坂道。

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 この木道は、設置されて間もなく、幅も広くて歩くのに快適だった。

 13:15「池ノ平湿原」入口の案内板裏のベンチで休憩。「池の平駐車場」に13:30着、13:40出発。
 

 帰りの渋滞が予想されるため、予定していた「あぐりの湯ころも」の入浴は割愛。上信越道の藤岡JCTに近づくと渋滞が始まり、15:25吉井ICで降りて一般道へ。17:40出発地に帰着。

 
 ★ ★ ★

 この日の平地は、気温35℃以上の猛暑日。標高2000mのこの高原では20℃と少し、風も爽やかで涼しかった。

 「池ノ平湿原」は、浅間山西麓にある「湯の丸高原」と「高峰高原」の間にある。浅間・烏帽子火山群に属する 数万年前の「三方ヶ峰」火山の火口原に広がる高層湿原。

 湿原は直径700mほどの広がりを持ち、三方を低い火口縁に囲まれているが、東南方は谷に向かって開いており、「放開口」と呼ばれている。湿原の西南隅近くには池塘もみられる。アップダウンが少ないので、年齢を問わず軽装で気軽に歩ける散策コース。

 1000種類以上もの高山植物の宝庫で、季節によりコマクサ(6月~8月)、レンゲツツジ(6月中旬~7月)、アヤメ(7月)、ヤナギラン(8月)、マツムシソウ(8月中旬~9月上旬)、リンドウ(8月中旬~9月)等が見られるという。

 かすかな記憶として残っていた「池ノ平湿原」を、以下の本ブログ記事を探したことで思い出した。訪れたのは、今から12〜13年前のこと。当時は高山植物を見つけては熱心に撮影していたが、今回の訪問ではあまり目にすることができなかった。探したり撮影したりする時間が限られていたことも理由の一つであろう。

 「鏡池」付近を除く湿原全体がクマザサに覆われており、その様子は異様であった。尾瀬のような典型的な湿原とは趣が異なる。近年、「池ノ平湿原」の乾燥化が進行しており、湿地本来の姿が少しずつ失われつつあるという。高山植物をあまり見かけなかった一因も、この乾燥化にあるのかもしれない。地球温暖化の影響により、降水量や季節ごとの気温変動が増加し、水環境が変化した結果、湿地が徐々に乾燥しているとのことである。特に近年は夏の暑さが厳しく、乾燥の進行に拍車をかけていると考えられる。

 本ブログの関連記事

 「浅間山周辺の高原」 2012年8月7日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-39a6.html

 「湯ノ丸山」 2013年7月 3日 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-4e73.html

 

2025年7月14日 (月)

仙台・平泉探訪の旅ー気仙沼・松島

 2025年5月25日(日)~27日(火)、2泊3日の仙台・平泉探訪の旅。
 

 3日目の5月27日(火)、6:00起床。朝7時頃、ホテルの客室の窓から気仙沼湾と漁港の風景。

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 7:45~朝食、9:00「気仙沼ホテル観洋」を出発。

 予定の「亀山展望台」(標高235m)が工事に付き、9:15「気仙沼大島大橋」(鶴亀大橋)展望台へ。

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 北西の方角、気仙沼市街地と「気仙沼港横断橋」を望む。

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 大橋の東側の「大島瀬戸」を望む。

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 9:25、展望台発。三陸沿岸道路を通り、11:05「松島さかな市場」駐車場着。 

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 「遊覧船案内所」付近から松島湾の小島を望む。

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 松島湾の地図

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 11:30、松島のシンボル「瑞巌寺五大堂」。伊達政宗が慶長9年(1604)に再建、東北地方現存最古の桃山建築。

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 「瑞巌寺五大堂」から松島島巡り観光船乗り場を望む。

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 11:50~、松島のかき小屋「MATSU」で昼食。 

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 12:50松島を出発。三陸沿岸自動車道を通って仙台へ。

 13:55仙台レンタカー店に戻り、14:00~「朝市」(昼間もやっている)で買い物。

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 14:35~、仙台駅S-PAL地下1階の土産品店で買い物。

 仙台駅16:34発「やまびこ148号」6号車に乗車、大宮駅18:11着。2泊3日の旅を終わる。

 

気仙沼漁港

 気仙沼に初めて来て、こんなに大きな漁港とは知らなかった。太平洋に面した気仙沼漁港は、宮城県気仙沼市の気仙沼湾奥部に所在する東北でも有数の漁港。世界三大漁場の一つである、三陸沖を操業域とする漁船の主要な水揚げ港の一つであると同時に、日本の主にまぐろなど遠洋漁業の基地の一つとなっている。水揚げは、かつお、まぐろ、かじき、さんま、さめが多く、生鮮かつおの水揚は全国一。フカヒレのさめは、全国の7割だという。

 1960年(昭和35年)5月24日に発生したチリ地震に伴う津波で被害を受け、また2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災に伴う地盤沈下および津波によって大きな被害を受けた。

 1969年(昭和44年)3月、水産業の振興のためには特に重要であるとして漁港漁場整備法の政令で定められた漁港として、「特定第3種漁港」(略称は「特三」)に指定された。「特三」漁港は、本州と九州にのみ分布し、全国に13港。東北では、八戸漁港、気仙沼漁港、石巻漁港、塩釜漁港の4港。

●仙台朝市

 「仙台朝市」は仙台駅から徒歩5分、「仙台市の台所」。 新鮮な地元宮城の食材を豊富に取り揃えた商店街。生鮮食料品の店を中心として、魚介、野菜、果物、肉類、様々な商店が並んでおり、飲食店も多数。名物コロッケや鰻の肝焼き、ビアガーデン、焼肉などなどグルメスポットなども充実していて、仙台の名物が凝縮された市場。買い物から食事まで幅広く楽しめる。

 「仙台朝市」は、昭和20年空襲で焼け野原となった仙台駅前に多くの露店が立ち並び、そこに誕生した通称「青空市場」が起源と伝えられている。その後、高度経済成長時代に仙台駅前地区の都市化が進むなか、「仙台朝市」は生鮮食品市場として残り続けた。1985年(昭和60年)には「仙台朝市通り商店街連合会」が発足、1992年(平成4年)には「仙台朝市商店街振興組合」へ発展し、現在に至っている。

 「朝市」と呼ばれているが、多くの店舗がお昼や夕方も営業、営業時間は8:00~18:00くらい。朝の方が種類が豊富だが夕方には値引きがあるというメリットもある。

 

2025年7月13日 (日)

仙台・平泉探訪の旅ー奥州平泉2

 2025年5月25日(日)~27日(火)、2泊3日の仙台・平泉探訪の旅。
 

 2日目の5月26日(月)の続き。14:40「毛越寺」を後にして、県道300号線を北に向かい「中尊寺」へ。


●中尊寺

 「毛越寺」から車で10分ほど、14:45「中尊寺」着。

 「中尊寺」の本堂。本尊は釈迦如来。寺伝では円仁の開山とされる。実質的には奥州藤原氏の初代・藤原清衡が開基、造営した。現在の建物は1909年(明治42年)に再建。

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 本尊は、藤原清衡の供養願文に「丈六皆金釈迦」を安置したことが記されていることから、新本尊が造立され、2013年(平成25年)3月に開眼供養が行われた。像高2.7mの尊像で、台座、光背を含めると5mにもなる。

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 拝観券発行所で、拝観料1,000円。

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 拝観券発行所と同じ建物の「讃衡蔵」(宝物館)に入館。奥州藤原氏の残した文化財3,000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められている。残念ながら、館内撮影禁止。

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 「讃衡蔵」とは、奥州藤原三代 (清衡公・基衡公・秀衡公)の偉業を「讃仰」し、報恩の誠を捧げる意味、「三代」の「衡」、「讃仰」とを掛けた名称。

 見逃せないのが丈六仏(じょうろくぶつ)。丈六仏は3体あり、薬師如来(もとは閼伽堂の本尊)、阿弥陀如来、薬師如来(もとは峯薬師堂の本尊)で、いずれも平安時代後期の作 。丈六とは1尺(30.3cm)の16倍の大きさ、つまり484.8cm。ただ、これらの丈六仏は座っているので、大きさは半分の約270cm。3体の丈六仏は桂材で、重要文化財に指定。

 「金色堂」の覆堂。国宝の「金色堂」は覆堂(おおいどう)内にある。

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 覆堂の手前にある「念仏行人 阿波介 舎利塚」。阿波介は法然に帰依、この地で念仏往生を遂げた。

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 覆堂に入る。堂内は薄暗く、照明で「金色堂」が浮かび上がる。もちろん撮影禁止。

 「金色堂」は、初代・藤原清衡が1124年(天治元年)に建立したもので、「平等院鳳凰堂」と共に平安時代の浄土教建築の代表例、当代の技術を集めたものとして国宝に指定。1965年建設の鉄筋コンクリート造覆堂内にあり、ガラス張りのスペースに納められて外気と遮断されている。 (以下2枚の写真は、中尊寺パンフから転載)

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 「金色堂」の内陣。鈍い色の金色は歴史を感じさせる。

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 創建当初のまま残る「金色堂」の須弥壇内には奥州藤原4代のミイラ化した遺体が安置。鎌倉軍の討伐を受け殺害された4代目の泰衡の首級(くび)は、黒漆の首桶に入れられ納められている。

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 覆い堂を出るとすぐ右手に、松尾芭蕉の句碑がある。「五月雨の 降り残してや 光堂」

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 石碑の文字は、所々しか読めない。

 すぐ隣は、経蔵(きょうぞう)。経典を納める建物で、国宝、重文の経典は、「讃衡蔵」(宝物館)に移されている。

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 しばらく進み、旧覆堂の手前に、奥の細道「松尾芭蕉」の銅像。

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 「芭蕉翁像并奥の細道」 東京芸術大学 戸津圭之介製作 東遊此地に至る 時に四十六歳 平成元年五十三日 「奥の細道」三百年記念建立
 
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 金色堂の旧覆堂。

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 1962年、「金色堂」の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を風雨から守ってきた覆堂で、1964年に100mほど北西の現在地に移築された。建築年代は室町時代中頃と推定される。

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 「中尊寺ハス」。1950年の「金色堂」発掘調査で、泰衡の首桶から約100粒の蓮の種が見つかった。

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 16:00、中尊寺駐車場を出発。16:05、JR平泉駅前を通過、国道284号線で気仙沼市へ。

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 17:35、「気仙沼ホテル観洋」に到着。

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  19:00~夕食。23:00ころ就寝。

 本ブログ記事「仙台・平泉探訪の旅ー気仙沼・松島」につづく。

 

 ★ ★ ★

●奥の細道

 1189年(文治5年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』によれば、当時の「中尊寺」には「金色堂」のほかいくつもの堂宇があり、諸仏が安置されていた。しかし、1337年(建武4年)に大きな火災があり、「金色堂」を除く堂宇がほぼ全焼してしまった。江戸時代には仙台藩領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、また仙台「仙岳院」が別当寺、その後江戸「寛永寺」の末寺となった。

 しかし元禄時代、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が、「中尊寺」の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られている。奥州藤原氏の滅亡から500年目の1689年(元禄2年)、芭蕉は弟子の河合曽良と2人、江戸・深川を出発。150日間にも渡る旅に出た。芭蕉46才、曽良41才の春だった。東北・北陸を周り、旅の詳しい様子と各地で詠んだ俳句をまとめた、いわゆる旅日記が有名な『奥の細道』。 

 江戸を発って44日後の5月13日(新暦6月29日)、『奥の細道』にはかつての栄光を失った平泉に滞在したときの様子が書かれている。平泉で芭蕉は、後世にも残る2つの有名な俳句を残した。現在の平泉には、芭蕉の詠んだ句碑がさまざまな場所に置かれている。

 平泉を訪れた芭蕉は、まず義経の居館があったと伝えられる高館(たかだち)の丘陵にのぼる。丘の頂きにあらわれるのは束稲山(たばしねやま)、その麓に悠然と流れる北上川とそれに合流する衣川。そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりだった。

  「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 一面に草がぼうぼうと生い茂っている。昔武士たちが立てた功名も、今では夢のようにはかなく消えてしまった。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら、芭蕉はしばらく高館に腰を下ろした。

 続いて「中尊寺」を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた「金色堂」に参詣。鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかける。

  「五月雨の 降り残してや 光堂」

 長い年月の間、五月雨もこの光堂だけは避けて降り残したのであろうか。遠い昔の姿を今に残している光堂よ。「光堂」と称したのは、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉の眼差しが向けられていたからだそうだ。

 

●奥州藤原氏

「奥州藤原氏と京の藤原氏はどう違う?」という疑問が昔からあった。この際、資料を調べてみた。

 奥州藤原氏とは、平安時代中期から後期にかけて、東北地方を支配した豪族。平将門を討伐した藤原秀郷の流れをくむ一族とされ、京都で摂関政治を行っていた藤原氏の遠縁にあたる。「前九年の役」や「後三年の役」により東北の支配者だった安倍氏が衰退し、代わって奥州藤原氏がその支配者になった。

 11世紀半ば、陸奥国を安倍氏が、出羽国を清原氏が支配していた。清衡は陸奥国の豪族である藤原経清と安倍頼時の娘の間に生まれた。1051年、安倍氏が朝廷から派遣された陸奥守と対立したため、朝廷軍と安倍氏の合戦「前九年の役」がはじまると、清衡の父・経清は安倍軍の一員として朝廷軍と戦うが、安倍軍は敗れ、朝廷側の勝利に終わった。経清は、朝廷軍の源頼義の命令で処刑。経清の妻は、朝廷に協力した清原武貞の妻となり、連れ子の清衡も清原姓を名乗る。

 その後、清原氏が陸奥・出羽両国を支配する。ところが、1083年に清原氏の内部で家督争いがおき、それが切っ掛けとして、「後三年の役」が始まった。清衡は、陸奥守源義家の協力で家督争いに勝利。東北地方の支配者となり、母方の姓である「藤原」を名乗り、藤原清衡と改めた。清衡は、馬や砂金を献上するなどして、京の藤原氏と積極的につながりを持つ。そうして、朝廷から東北地方の有力者と認められるようになった。これが、奥州藤原氏の始まり。

 1094年、清衡は本拠地を平泉に移し、京都を模した大規模な都市にした。悲惨な戦争を経験した清衡は、亡くなった人々の鎮魂と平和の実現を目指して、この世に浄土の世界を作り上げようとした。「中尊寺」を開いたのも清衡。さらに清衡は、独自に中国の宋と貿易するなどの活躍を見せ、1128年に清衡は73歳の生涯を閉じる。以後、基衡・秀衡・泰衡が100年にわたって東北地方を支配した。しかし、源頼朝による奥州合戦(奥州征伐)に敗れ、1189年に滅亡した。
 

●安倍氏と安倍家

 今からおよそ950年前、「安倍氏」という奥州で最も有力な豪族が、岩手県の中央から県南にかけて勢力を広げていた。この力を恐れた朝廷は、源頼義を派遣し、安倍頼時、貞任(さだとう)親子と戦い、秋田で勢力を広げていた豪族の清原武則を味方につけ、安倍氏を滅ぼした。この合戦を「前九年の役」(1051年から1062年)という。

 貞任の弟・安倍宗任(むねとう)の伝説が、各地に存在しているそうだ。京に連行され、四国の伊予国に流された。その後少しずつ勢力をつけたために、九州の筑前国宗像郡の離島・大島に再配流されたとされる。地元の豪族・宗像氏による日朝・日宋貿易の際に、宗任は重要な役割を果たしたとも。また、大島の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するため、「安昌院」を開基した。

 1108年(嘉承3年)に77歳で亡くなった。現在、宗任と伝わる墓は、「安昌院」の北側にひっそりと建っている。墓は形からして江戸時代に建てられたものと思われる。写真の出典は、ウキメディア・コモンズ。

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 政治家・安倍晋三のルーツは平安時代に陸奥国を治めた豪族・安倍氏一族で、安倍宗任を祖として晋三で44代目であるらしい。山口県大津郡(現長門市)の安倍家は、江戸時代には地元の大庄屋を務め、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった。明治時代になると安倍慎太郎が山口県議会議員に当選し、「安倍家中興の祖」と呼ばれた。

 その子・安倍寛は山口県議会議員、1937年に衆議院議員に当選して中央政界へ進出、以降安倍家は山口の地盤を世襲する政治家一家となる。岸信介は安倍寛と親しくなり、その息子で山口中学と東大の後輩にあたる安倍晋太郎のことを気に入り、娘洋子との結婚を許し夫妻の次男として生まれたのが晋三である。安倍元首相は、2022年7月の銃撃事件で亡くなる前年11月に、自民党の県議らとともに夫婦で大島の安倍宗任の墓参りに訪れていた。

仙台・平泉探訪の旅ー奥州平泉1

 2025年5月25日(日)~27日(火)、2泊3日の仙台・平泉探訪の旅。
 

 2日目の5月26日(月)、6:45起床、7:00~朝食。

 7:55「ホテルモンテエルマーナ仙台」を出発。

 9:20、ニッポンレンタカー仙台西口店を出発。東北自動車道を北へ。

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●平泉ガイダンスセンター

 東北自動車道の平泉スマートICから、10:10「平泉世界遺産ガイダンスセンター」に到着。入館料320円。

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 北上川の西岸に位置するガイダンスセンターは、世界遺産をはじめとする「平泉の文化遺産」を広く世界中に伝え、後世へ継承するための拠点となる岩手県立の施設で、2021年(令和3年)11月に開館した。

 ワイドスクリーンで、仏国土(浄土)の世界観を体感した後、世界遺産の構成遺産と関連遺産をパネルで展示された平泉の世界」のコーナーを見学。

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 「毛越寺」の庭園「大泉が池」にある高さ2.3mの立石の実寸模型。

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 「柳之御所遺跡と奥州藤原氏」のコーナーでは、三代秀衡の頃の「平泉館」の復元ジオラマにより、奥州藤原氏の政庁・居館として、建物や広場、池などが造られていた当時の姿を再現。

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 柳之御所遺跡から出土した重要文化財を「仏教・祭祀」「儀式・政務」などのカテゴリー別に展示されている。

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 産出した砂金や名馬を中央の権力者に送り、都の仏像、経典、陶磁器などを入手した。

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 遺跡の建築関係の出土品。

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 平泉町内を通る国道4号バイパスは1984年9月に着工した。しかし北半分は「柳之御所遺跡」の世界遺産登録に伴う調査のためルート変更を余儀なくされ、北上川ギリギリに沿う形となり川筋も同時に一部変更された。2008年8月に全線開通。遺跡の景観を保護する観点から、バイパスを走行する車両が遺跡公園から極力見えないよう、道路両側に盛土をして切り通し状態としてある。

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 柳之御所遺跡や金鶏山を窓越しからの展望。クリックすると、拡大表示します。

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 11:30、ガイダンスセンターを出る。

 11:35、JR平泉駅前の平泉わんこそばの店「芭蕉館」に入店。

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 なめこ蕎麦、山菜蕎麦、天ぷら蕎麦の3つの蕎麦が楽しめる「三代そば」を注文。

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 食事の後で、「芭蕉館」という店名は松尾芭蕉が『奥の細道』で平泉を探訪したこと、「三代そば」は藤原三代に因んだ商品名だと気がついた。食事の後、店の前で観光ガイドと合流。

●達谷窟(たっこくのいわや)

 ガイドのお薦めで、北上川支流・太田川に沿った県道31号線を西へ、車で10分ほどで、12:50「達谷窟」へ。拝観料500円。

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 「達谷窟毘沙門堂」は、毘沙門天を祀った堂。国の史跡。801年(延暦20年)、征夷大将軍の坂上田村麻呂がここを拠点としていた悪路王(あくろおう、陸奥国の伝説上の人物、蝦夷)を討伐した記念として、京の清水寺の舞台造りを真似て建てたと伝わる。別当寺は天台宗「達谷西光寺」であるが、境内入口には鳥居が建てられており、神仏混淆の社寺となっている。

 源頼朝も鎌倉への帰路に軍神である毘沙門天に参拝している。2011年6月に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産に登録された。

 「達谷西光寺」境内の西側には、北限の磨崖仏として名高い「岩面大仏」がある。高さ16.5m。

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 「達谷窟毘沙門堂」の敷地内にある蝦夷・悪路王伝説の「姫待不動堂」。 

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 かつて、「達谷窟」を拠点に、領民を苦しめ女子供をさらうなどの悪事を働いていた悪路王らは、京の姫君までさらってきた。姫君が逃げようとするも、太田川の滝のある「姫待瀧」で見張っていた。見せしめに姫君の髪を切り、掛けた石が県道31号線沿いの「鬘(かつら)石」。

 のちに、智証大師が「姫待瀧」のご本尊として祀ったのが、「姫待不動尊」。のちに藤原基衡が再建したという。年月を経て、お堂の老朽化が進んだため、1789年に今の境内に移動したという伝承があるそうだ。

●毛越寺(もうつうじ)

 平泉の市街地の戻り、13:40「毛越寺」着。画像をクリックすると拡大表示。

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 山門で拝観料700円。

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 毛越寺本堂に参拝。現在の本尊薬師如来立像。平安時代後期の作。脇侍は日光菩薩月光菩薩。建築は平安様式。

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 境内に芭蕉「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句碑がある。

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 「夏草」の英訳の句碑。The summer grass 'Tis all thats left Of Ancient warriors' dream

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 ’Tisは、it is短縮形。訳したのは、 新渡戸稲造博士。 岩手が誇る郷土の偉人。

 「毛越寺伽藍復元図」の説明板。南大門の跡地付近にある。

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 「大泉が池」は、平安時代の浄土庭園を今に伝える。南大門から中島、円隆寺へと続く二つの橋が架けられていた。

 出島と立石で荒磯を表現。「大泉が池」は、海を表現している。

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 平安貴族は、竜頭(左)と鷁首(右)の船を浮かべ「管弦の遊び」をした。鷁(げき)は、想像上の水鳥。

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 築山で海岸に迫る岩山を表現。

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 「毛越寺」を開いた慈覚大師(円仁)を祀る「開山堂」。

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 巨大な礎石のある「嘉祥寺」跡。

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 「毛越寺」の中心伽藍の「金堂円隆寺」跡。こちらも礎石が並ぶ。

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 散水を池に取り入れる水路「遣水」(やりみず)。「曲水の宴」は遣水に杯を浮かべ、和歌を詠む遊び。

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 「常行堂」は1597年(慶長2)に焼失、1732年(享保7)に仙台藩主・伊達吉村の武運長久を願って再建された。

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 「常行堂」には宝冠の阿弥陀如来が本尊として祀られている。

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 「大泉が池」の東岸には穏やかな入り江を表現した「州浜」。

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 14:40「毛越寺」を後にして、次の目的地「中尊寺」に向かう。

 本ブログ記事「仙台・平泉探訪の旅ー奥州平泉2 」につづく。

2025年7月12日 (土)

仙台・平泉探訪の旅ー仙台タウン

 2025年5月25日(日)~27日(火)、2泊3日の仙台・平泉探訪の旅。

 
 2015年5月の2泊3日の「仙台・石巻の旅」から、10年振りに仙台へ。

 9:47大宮発駅発、東北新幹線「やまびこ131号」に4号車に乗車。11:10仙台駅着。

  仙台駅東口の東西自由連絡通路。

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 仙台駅東口の東西自由通路前のデッキ(高架歩道)から「宮城野通り」を見下ろす。

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 仙台駅西口のデッキ。

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 仙台駅西口デッキからより青葉通り。

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 仙台駅西口デッキからより広瀬通り。

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 本日の宿泊先の「ホテルモンテエルマーナ仙台」。仙台駅西口からデッキ直結で徒歩3分。青葉区花京院。

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 11:40、ホテルに荷物を預け、再び仙台駅西口へ。12:00~12:40牛たん炭焼「利久」西口本店で昼食。

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 ランチメニュー限定の「牛たん焼きと特製海鮮丼」。牛たん焼き3切れと特製海鮮丼、テールスープ。

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 12:45、駅西口前のアーケード「ハピナ名掛丁(なかけちょう)商店街」を散策した後、仙台駅12:55発の地下鉄南北線に乗車。

 13:05、勾当台公園駅で下車。

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 13:10、ここから「杜の都・仙台」のシンボルロード「定禅寺(じょうぜんじ)通り」を「西公園」に向かって散策。

 (画像をクリックすると拡大表示します)

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 仙台市中心部を東西700mにわたってケヤキ並木が続く。木漏れ日が差し込む中央分離帯の遊歩道には、イタリアの著名な彫刻家による彫刻作品が3体設置されている。

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 東北を代表する繁華街「国分町通り」に寄り道。

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 国分町の「元鍛治丁(もとかじちょう)公園」では、何やらイベントが開催中。

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 5月24日から再整備工事が始まっていて、一部の中央分離帯の遊歩道が通行止だった。

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 ここから中央分離帯の遊歩道が通れる。

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 イタリアの彫刻家クロチェッティの「水浴の女」のブロンズ像。

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 13:45「西公園」に到着。園内には、桜の木が約190本植えられており、春は花見の名所。公園のすぐそばには、一級河川「広瀬川」が流れる。元々は、仙台藩の武家屋敷があった歴史のあるエリアだという。

 現存する唯一の蒸気機関車C60形式1号機の貴重な展示があるSL広場。

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 宮城県の伝統工芸でもある「こけし」は、高さ10m。

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 60年以上も前から西公園に立つ「こけし塔」は、2018年に初の化粧直しが行われて現在の姿になったという。全体は南部鉄器で出来ており、山形にある鋳造会社が製造した。

 広瀬川と西公園通りに挟まれた「西公園」を歩く。

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 国道48号線に架かる歩道橋の上から、国道48号線の仙台駅方面を見る。

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 「西公園」の「お花見広場」にある「桜岡大神宮」。

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 神社の旧社格は県社。伊達政宗が創建したという。同社の周辺は、仙台市の中でも有数のサクラの名所として知られる。

 14:05~近くの「源吾茶屋」に寄り、ずんだ餅やお汁粉などで休憩。

 14:45、広瀬川に架かる「大橋」を渡る。

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 「大橋」は、かつて仙台城の大手門と城下町を結ぶ重要な橋だった。現在の橋は、昭和13年に竣工したコンクリート製。

 15:05、仙台城二の丸趾に建つ支倉常長の銅像。

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 常長は伊達政宗の命を受け、海外との通商を求めて慶長遣欧使節団を率いてサン・ファン・バウティスタ号で太平洋を横断。メキシコを越え、ヨーロッパに上陸。スペインでは国王フェリペ3世と謁見し、ローマでは教皇パウロ5世にも謁見した。その道中、常長は洗礼を受け、クリスチャンとなった。

 15:30、「青葉山公園」のビジターセンター「仙臺緑彩館」の前に建つ伊達政宗の胸像。

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 伊達政宗胸像は1935年に仙台城跡に設置した初代・伊達政宗騎馬像の一部だという。戦時中の金属供出のため撤去されたが戦後胸から上を発見されたものだそうだ。現在、仙台城本丸に建つ伊達政宗騎馬像は戦後に同じ型で鋳造された2代目とのこと。

 仙台城本丸跡に建つ伊達政宗騎馬像も、この位置から小さく見える。

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 「大橋」を渡って、地下鉄東西線「大町西公園駅」へ。15:50発、仙台駅15:55着。 

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 仙台駅からいったんホテルに戻り、16:00チェックイン。

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 17:50~20:00仙台駅前の居酒屋「鶏☆一番星」。青葉区中央4丁目。

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 20:20~20:40、「SS30」(エスエスサーティー)ビルの30階展望台から見る仙台市街の夜景。

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 「SS30」は、仙台市青葉区中央4丁目にあるオフィスビル(旧称、住友生命仙台中央ビル)。

  「青葉通り」を通って、夜の仙台駅西口付近。

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 21:10、「ホテルモンテエルマーナ仙台」に戻る。23:30ころ就寝。 

 本ブログ記事「仙台・平泉探訪の旅ー奥州平泉1 」につづく。

2025年6月12日 (木)

東上線沿線の街歩き

 2025年6月8日(日)、東武東上線「和光市駅」から「成増駅」までの新緑の中の街歩き。
  
 
 陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」は、朝霞駐屯地にある自衛隊の博物館・広報施設で、戦車・ヘリコプターなどの装備品が展示されている。見学後、「和光樹林公園」「大泉さくら運動公園」「大泉町もみじやま公園」「光が丘公園」などの都市公園を徒歩で巡る。

 8:54、東武東上線「和光市駅」(Googleマップ)着。

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 「和光市駅」は、埼玉県和光市本町にある東武東上線と東京メトロの駅。東武鉄道「和光市駅」の1日平均乗降人員は、およそ167千人(2024年度)、東武の駅の中では、「池袋駅」、「北千住駅」に次いで第3位。東京メトロ「和光市駅」は、1日平均およそ169千人(2023年度)が乗降する。

 「西友」和光市駅前店で、昼食用の弁当と飲みもの購入。
 
 9:10、ウォーキングをスタート。

 本町通りと本田通りの交差点から、「本田技術研究所」が見える。

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 大規模マンション「シーアイハイツ和光」の前を通る。1982年3月築、14階建て。総戸数1616戸。

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 9:35、国道254号線(川越街道)に面した「陸上自衛隊・広報センター」(陸上自衛隊朝霞駐屯地 )に到着。

 愛称「りっくんランド」は陸上自衛隊の広報施設で、陸自の組織・編成、任務・役割、活動状況を学び、戦車等の大型装備品や各種装備品を間近で見学、また疑似乗車体験などができる。陸軍予科士官学校や旧軍に係る資料を展示する「振武臺(しんぶだい)記念館」も公開。休館日:月・火曜。開館時間: 9:30〜11:45 、13:15〜16:45。入館料無料。

 装備品マネキン。左から、第1空挺団(習志野駐屯地)の隊員が落下傘と背嚢を装着、空挺隊員が上空から落下している状態、有毒ガスの防護装備、一般的な作戦での服装・装備。

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 対戦車ヘリコプターAH-1S(通称コブラ)。20mm機関砲、対戦車ミサイルTOW、70mmロケット弾を装備。

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 左奥から、94式水際地雷敷設装置、87式自走高射機関砲、89式装甲戦闘車、74式戦車、90式戦車、10式戦車。
 
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 左奥から、多用途ヘリUH-1H、75式と74式自走155mmりゅう弾砲、中距離多目的誘導弾。

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 左から、87式自走高射機関砲、89式装甲戦闘車、74式戦車。

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 水陸両用車AAV7(愛称アムトラック)は、乗員3名+兵員25名、または貨物4.5tを収容。
 
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 広報センターの裏から見る広報センターの建物と屋外展示(イベント広場)。

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 (クリックすると拡大表示)

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  屋外展示場(イベント広場)と第2駐車場を抜けると「振武臺記念館」の建物がある。

 「振武臺記念館」は、陸軍予科士官学校にまつわる数々の展示品や旧軍ゆかりの資料、朝霞駐屯地や郷土の歴史の資料が紹介されている。残念ながら、館内撮影は禁止。

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 戦前の朝霞には、旧陸軍の予科士官学校があった。陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)にあったが、昭和の時代になって手狭となり本科が1937年(昭和12年)に座間(神奈川)へ、予科は1941年(昭和16年)10月に朝霞に移転した。なお予科の修業期間は2年、本科は1年10カ月であった。

 この「振武臺記念館」は、1978年(昭和53年)3月に座間にあった陸軍士官学校の皇族舎を解体し、移設した歴史的建造物。皇族舎は、皇族男子が陸軍士官学校や海軍兵学校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎。市ヶ谷から朝霞に移転した、陸軍予科士官学校に関する資料等を中心に展示されている。「振武臺」の由来は、1943年(昭和18年)12月、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いから名付けられたという。

 九九式十糎山砲(99しき10せんちさんぽう)の展示:旧陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。

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 11:00自衛隊広報センターを出て、国道254号線を西へ。朝霞警察署前で左折して県道108号(東京朝霞線、南大通り)を南下。

 11:35左折し、480mの「新座緑道」を通って埼玉県営「和光樹林公園」へ向かう。

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 480mの「新座緑道」は、災害時には住民の避難路となる緑道として、1993年(平成5年)4月に開設された。周辺の緑地をつなぐ快適な憩いの小道。

 緑道の途中、自衛隊正門前信号の左手に朝霞駐屯地の正門がある。

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 左の門には「東部方面総監部」と「朝霞駐屯地」、右の門には「陸上総隊司令部」の大きな表札。

 12:00、埼玉県営「和光樹林公園」に到着。

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 公園は、 米軍「朝霞キャンプ」の跡地の一部で、芝生広場や遊具、樹林地などが整備されている。2019年(平成元年)3月オープン。隣接して同様な公園計画の都立「大泉中央公園」がある。さらに当公園から新座防災基地までの緑道が、都・県共同で整備されている。

 公園を散策、あずま家で昼食。

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 南側に隣接する都立「大泉中央公園」を通り抜けようとしたが、練馬区立「大泉さくら運動公園」の方に行ってしまった。

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 「大泉さくら運動公園」は練馬区と埼玉県和光市の都県境にあり、東京都立「大泉中央公園」と埼玉県営「和光樹林公園」に隣接している。どちらも米軍が、旧陸軍士官学校の敷地の一部を接収して「朝霞キャンプ」として利用していた土地が返還されてできた公園。「大泉さくら運動公園」も同様であるが、こちらは米軍基地内ゴルフ練習場の跡地だった。

 「大泉さくら運動公園」内の一部に、無料でデイキャンプやバーベキューが可能な野外炊事広場が設置されてて、家族連で賑わっていた。東京23区内で、数少ない無料で焚き火ができる貴重なエリアだという。

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 行けなかった東京都と埼玉県の都県境に位置する都立「大泉中央公園」は、米軍から返還後、計画面積約10haの公園として造成、1990年(平成2年)6月にオープンした。噴水池・武蔵野の自然林・芝生広場・アスレチック遊具・広い砂場など。また陸上競技場・野球場の施設もある。

 13:15、練馬区立「大泉町もみじやま公園」

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 練馬区と埼玉県和光市の都県境にある練馬区立「大泉町もみじやま公園」は、「もみじやま憩いの森」があった保護樹林の傾斜地と、外環自動車道上部の平坦な広場(V字型の左半分)を合わせて整備してできた。公園内に生えているもみじの種類は130本。秋には多くの紅葉するもみじは迫力があるが、緑のもみじも生き生きとしていて綺麗。

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 13:25、「大泉町もみじやま公園」を出る。

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 「らんとう坂下」交差点を経て、住宅街を流れる白子川(荒川水系新河岸川支流)に沿って東の方向へ歩く。白子川の遊歩道には、歩き始めてしばらくは桜並木が続いていた、桜の青葉がちょうど日差しを避けるには良かったが、途中から並木はなくなった。

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 下中里橋で、右(南)に折れ、急坂を登る。

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 坂を登り切る手間で、13:40「稲荷山憩いの森」。

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 13:50「稲荷山憩いの森」を抜けると住宅街。やがて都道68号線(練馬川口線、土支田通り)に出て、東へ「光が丘公園」に向かう。

 コメダ珈琲練馬土支田店付近。

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 14:10、都立「光が丘公園」の光が丘高校口から入園。公園内は多くの樹木が茂り、まるで森林公園のようだ。

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 戦後米軍住宅地「グラントハイツ」として米軍の管理下にあったが、1973年(昭和48年)に返還が完了し、総面積の約1/3が都立の都市公園として確保された。1981年(昭和56)年から一斉に周辺の整備が開始され、小、中、高校が15校、公団、公社、都営住宅が12,000戸、都内有数の大団地となった。

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 公園内を散策、「観賞池」近くの売店で休憩。ここから公園内を北に向かって、15:05北口から退場。赤塚高台通りを通って、国道254号線(川越街道)を歩く。

 「りそな銀行」成増支店の手前で右折、「なりますスキップ村」商店街へ。

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 「なりますスキップ村」商店街からは、成増駅南口へ。

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 15:25、東武東上線の成増駅南口に到着。

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 「成増駅」は、板橋区成増にある東武東上線の駅。東京メトロ有楽町線、副都心線の成増駅が近接する。

 都市公園の通り抜けだけだと歩程は10Kmくらいの予定は、公園内の散策も含めて13Kmになった。雨が降りそうな曇り空だったが、午後からしばらく日が射すこともあった。汗ばむこともなく、目にも優しい新緑の中で、良いウォーキング日和だった。

2025年6月10日 (火)

埼玉歴民と氷川神社

 2025年4月29日(火)、さいたま市の大宮盆栽村を巡った後、大宮公園内の埼玉県立「歴史と民俗博物館」、武蔵一之宮「氷川神社」を巡る。

 本ブログ記事「大宮盆栽村 」の続き。

 緑に囲まれた県立「歴史と民俗博物館」の入口。 

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 「歴史と民俗の博物館」は、近代建築の巨匠ル・コルビュジェの弟子で、日本の近代建築発展に貢献した建築家・前川國男氏の設計。

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 12:10、博物館に入館。入場料金300円。館内2階の「カフェ パティオ」で昼食。

 本館は、1971年(昭和46年)に開館した旧「県立博物館」と1980年(昭和55年)に開館した旧「県立民俗文化センター」を統合し、2006年(平成18年)4月に誕生した歴史、民俗、美術工芸の分野を広域的、総合的、多元的に扱う人文系の総合博物館。

  
 12:50~学芸員の案内で展示室を見学。 「埼玉における人々のくらしと文化」をテーマに、旧石器時代から現代までを1~10室の展示室で紹介。

 第1室「旧石器~弥生時代」、第2室「古墳時代」を中心に学芸員の説明を聞く。
 
 縄文海進と貝塚、埼玉の貝塚と海岸線=海に面していない埼玉にも、氷期の終了に伴う海面の上昇(縄文海進)により湾が入り込んでおり(奥東京湾)、埼玉にも多くの貝塚が形成されていた。

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 足元に埋もれる石器群、火山灰の降る大地で=旧石器時代は、火山活動が活発な時期、富士山や浅間山などが噴火し、関東ローム層と言われる火山灰層を堆積した。

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 関東ローム層は、火山噴出物により土壌自体が弱酸性のため、当時使用されていたかもしれない骨角器、木器等有機質の遺物は分解され、石器以外の遺物は溶けて、残らないという。埼玉県最古の遺跡の一つは、寄居町末野遺跡で約30,000年前。局部磨製石斧、打製石斧、ナイフ形石器、大形剥片などが出土した。

 縄文人の四季、狩猟・採集の時代=1万2千年前くらいになると、関東地方では低地に海が入り込み、台地や山地には広葉樹が広がった。

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 一本の丸太をくりぬいて造られた縄文時代の丸木舟。

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 死者への祈りと世界観=縄文人は、死者を土葬にした。手足を折り曲げ、大型の土器にあたかも胎児に見立てて、再生を願った。

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 生への祈り=土偶、石棒などのまじないの道具は、自然災害の恐怖に対して、生命の誕生や維持を願う縄文人の祈りが込められている。

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 縄文土器の変遷=石器時代の土器は、日本各地に分布、形状や文様に地域・時代ごとの特徴がある。流行や嗜好の変化が様式に反映され、その変遷を基に縄文時代は6期に分類される。
  
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 銅鐸、まつりの鐘は音が出ない=音を出すための「かね」は、音を出さない飾るための「かね」に変身した。

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 銅鏡の分布と王権=銅鏡は、権威の象徴。古墳の出現と比企・児玉=3世紀後半~4世紀前半の初期の古墳は、群馬に近い比企・児玉で発見されている。

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 埼玉の埴輪作り=埼玉県内また南関東各地の古墳から、鴻巣の生出塚(おいねつか)埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している。群集墳の出現=古墳時代後期(6世紀後半)から造られた狭い区域に集中し密集度の高い古墳群が作られた。吉見百穴のように横穴墓も群集墳。
 
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 地頭となって全国各地へ、広がる鎌倉武士=守護や地頭が設置された経緯や流れは、鎌倉幕府が地方政治をも支配するプロセス。

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 戦国時代の足軽=戦国時代、多くは農民だった足軽の武具。 

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 円空仏=江戸時代の仏師・円空によってシンプルながら丁寧に彫られた仏像。

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 第6室の板碑(いたび)と武士のこころ=板碑は、主に供養塔として使われる板石塔婆。

 鎌倉時代から戦国時代にかけてつくられた。材料は、荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里から産出する緑泥石片岩。

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 設立時期は、鎌倉時代から室町時代前期に集中している。鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。
 
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 板碑は主に関東に分布。特に埼玉県内の板碑は、質・量とも全国一。武蔵では、長瀞産の緑色片岩を加工して造られた。
 
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 地上高5.37mもある日本一大きな板碑。長瀞町の野上下郷石塔婆(国指定史跡)。展示の板碑は、すべて複製ある。
 
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 江戸時代、川越藩の藩庁が置かれた川越城=川越城には、石垣と天守閣がない。宇都宮城と同様に土塁と「富士見櫓」(右端)がその代わりを果した。中世では、河越城と呼ばれた。 

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 江戸時代の舟運=商都・川越を支えたのは、舟運だった。

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 明治時代から現代と民俗展示

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 14:30、博物館を退館。

 博物館敷地にある大宮公園内遺跡と住居の復元。住居の南側に弥生時代の墓がある。
  
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 「大宮公園」内の「埼玉百年の森」を抜け、桜並木に下を歩いて「氷川神社」に向かう。

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 14:55、武蔵一之宮「氷川神社」の東門から入門。

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 社伝によれば2,400年前の孝昭天皇(実在不明)時代に創建され、聖武天皇時代に「武蔵一之宮」に定められたという。

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 ゴールデンウィークで参拝客は多い。参拝後、15:00立派な楼門から退出。

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 「氷川神社」の南北2Kmの日本一長い参道を歩く。 

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 15:40、JR大宮駅着。

 この日の歩数は、自宅から自宅までを含めて14,000歩、約8Km。

 
 ★ ★ ★
 
 「歴史と民俗の博物館」の展示室に入って真っ先、石器展示の前で学芸員から説明を聞いて驚いた。日本に「旧石器時代」があったというのが分かったのは戦後のこと。戦前には、「旧石器時代」というのは存在しなかったのだ。もっとも、戦前の教育を受けた人が、「近世」「中世」「古代」の前は、「神代」ということを聞いてはいたが・・・。
 
 ヨーロッパなど世界の考古学における「旧石器時代」は、文字を使用する以前の人類の歴史「先史時代」における区分のひとつ。「石器時代」の初期と前期にあたる時代を指す。しかし戦前の日本では、「縄文時代」より前の時代を「先土器時代」、または「無土器時代」と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかった、日本における「旧石器時代」の存在はなかったとされていた。
 
 
 ところが1949年(昭和24年)、群馬県岩宿遺跡(新田郡笠懸村、現みどり市笠懸町)で、アマチュア考古学者の相沢忠洋が関東ローム層から定形の「槍先形尖頭器」を発見した。これは、槍の柄の先端に装着し、狩猟に用いられていたと推測される打製石器。その3年後、明治大学の杉原荘介、芹沢長介ら専門家と共に共同発掘調査により多数の打製石器が確認され、約3万~1.2万年前に日本列島に「旧石器時代」が存在し、人類が居住していたことが判明した。
 
 「旧石器時代」は、生活の道具として石器が用いられていた時代。土器を使用し始めた縄文時代には、砂と石あるいは石同士を擦り合わせて表面を滑らかにした「磨製石器」が主流。これに対し「旧石器時代」には、石を打ち割って作る「打製石器」が使われていた。その時代の人々は、黒曜石(黒色でガラス光沢がある火山岩)や頁岩(けつがん、板状に薄く剥がれる堆積岩)を用いて狩猟・採集に適した石器を製作し、獲物などを求めて移動生活を営んでいたと考えられている。
 
 岩宿遺跡の発見は、日本考古学の常識を覆し、その後全国約1万ヵ所以上の「旧石器時代」遺跡が発掘されている。1979年(昭和54年)には岩宿遺跡が国の史跡に指定され、出土品は「相澤忠洋記念館」や「岩宿博物館」で展示されている。この発見は、日本の考古学史における重要な転換点となったという。

2025年6月 9日 (月)

大宮盆栽村

 2025年4月29日(火)、さいたま市の「大宮盆栽村」から県立「歴史と民俗博物館」、武蔵一之宮「氷川神社」を巡る。
 
 JR宇都宮線土呂駅から大宮駅まで7Kmのウォーキング。
 
 9:40、大宮駅の次の駅、JR東北線(宇都宮線)土呂駅に到着。大宮観光ガイドと合流。

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 土呂駅は、設置を求める運動が大正時代から行われ、1983年昭和58年) に開業した新しい駅。土呂駅東口の駅前広場には、赤松3本 松の木に景石などを加えた盆栽をイメージした大きな植え込みがある。

 「盆栽村」は、関東大震災で被災した東京の植木職人や盆栽師が集団で移住、大正14年(1925)に誕生した。さいたま市北区盆栽町にある。現在は5軒の盆栽園があり、「盆栽四季のみち」(かえで通り)を中心に閑静で美しい町並みを保っている。2025年は、大宮盆栽村開村100周年という記念すべき年である。
 
 9:55「さいたま市大宮盆栽博物館」着。写真の出典:ウキメディア・コモンズ

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 「大宮盆栽美術館」の入館料は、310円。エントランスに置かれた楓「ハウチワカエデ」(羽団扇楓)が、出迎え。エントランス以外の展示室は撮影禁止。

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 盆栽美術館は、日本で唯一の盆栽に特化した公立美術館。2010年3月開館。日本を代表する名品盆栽120点以上。盆器、水石(天然の石)、卓(しょく=盆栽の台 )といった盆栽関連の美術品、絵画資料や歴史・民俗資料等が展示されている。

 2階の盆栽テラスから盆栽庭園を見下ろす。盆栽庭園には常に約60点の盆栽が展示されている。

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 唐松「巌」(いわお)推定樹齢180年  黒松「羽衣の舞」 推定樹齢200年

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 蝦夷松 推定樹齢100年  五葉松 推定樹齢200年

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 蝦夷松「轟」(とどろき)推定樹齢1000年  黒松 推定樹齢250年
    
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 真柏(しんぱく)推定樹齢300年  真柏「武甲」 推定樹齢350年                

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 五葉松「千代の松」 推定樹齢500年  ぶな「白神の里」 推定樹齢80年

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 五葉松「明光」 推定樹齢150年

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 右端の盆栽:五葉松「青龍」 推定樹齢350年
 
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 野梅 推定樹齢200年
 
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 11:00「大宮盆栽美術館」を出て、盆栽村を散策する。
 
 盆栽村には、現在「芙蓉園」「九霞園」「清香園」「蔓青園」「藤樹園」の盆栽園が点在し、さいたま市の伝統産業事業所に指定されている。
 
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 11:15、5代に渡る盆栽の老舗「蔓青園」に入園(Googleマップ)。園内の撮影は禁止。
 
撮影日時 2025-06-09 17:49:57 
 
 11:20、「もみじ通り」の「盆栽四季の家」で休憩。ここは、市民や盆栽村を訪れた人々のくつろぎの場。
 
撮影日時 2012-02-21 14:47:45
 
 11:25、江戸時代末期創業の「青香園」に入園。園内は、撮影禁止で残念。盆栽販売だけでなく、盆栽教室もある。
  
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 11:40、さいたま市立「漫画会館」に入館。入場無料。
 
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 近代漫画の先駆者、北澤楽天(1876-1955)の晩年の居宅跡に1966年11月開館した。ここも館内撮影禁止。
 
 11:45「芙蓉園」入園。園内撮影禁止。
  
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 「芙蓉園」は、1939年大宮盆栽村にて盆栽園を開園。二代目園主竹山浩氏は、雑木盆栽のレジェンド。盆栽協会理事長やNHK趣味の園芸の講師などを勤め、現在盆栽協会顧問。
 
 11:50「芙蓉園」を出て、「大宮公園」へ向かう。
 
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 街には、「大盆栽まつり」の幟が並ぶ。ゴールデンウィークの5月3日~5日は、国内外から注目されている大宮盆栽村で開催される盆栽の祭典。市民盆栽展、盆栽・盆器の即売会などが開催され、多くの愛好家でにぎわうという。
  
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 11:55、東武アーバンパークライン(野田線)の大宮公園駅の踏切を渡り、県立「歴史と民俗の博物館」へ。
 
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 この後は、本ブログ記事「埼玉歴民と氷川神社」に続く。

2025年3月16日 (日)

天覧山・高麗峠・巾着田

 2025年3月14日(金)、天覧山・高麗峠・巾着田ハイキング。

 

 JR東飯能駅(埼玉県飯能市)から飯能市街地を経て、「能仁寺」、「天覧山」の山頂、奥武蔵自然歩道の「高麗峠」を越えて「巾着田」を訪ね、西武鉄道高麗駅(日高市)まで、およそ12Kmのハイキング。

 県立奥武蔵自然公園の玄関が、飯能市。市街地から少し足をのばし、自然を求め、歴史を訪ねるのんびりハイキング。

 本州付近は、緩やかに高気圧に覆われていて、埼玉県の日中は晴れ。飯能市の最高気温は19℃。北の風は強くなく、絶好のハイキング日和。しかし、今日の花粉は極めて多い。

 10:14東飯能駅着。駅近くのコンビニで、昼食を購入、10:30スタート。

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 飯能市の商店街を抜ける。

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 途中、ひな人形が飾ってある「店蔵絹甚」(みせぐらきぬじん、飯能市指定有形文化財)に立ち寄り、入間川の「飯能河原」(親水広場)を見下ろす。「飯能市市民会館」前を通って「中央広場」を抜ける。

●能仁寺と天覧山

  11:15「能仁寺」の山門に到着。この寺院は、「天覧山」の南麓にある曹洞宗の古刹。山号は武陽山、本尊は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。

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 「能仁寺」は1501年(文亀元年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族・中山家勝が創建した。小庵であったが家勝の没後、1573年(天正元年)、中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。

 1705年(宝永2年)当時、常陸下館藩の大名となった黒田直邦は老朽化した寺を改築し、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇ったという。

 「能仁寺」の本堂。

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 1868年7月(旧暦5月)、彰義隊と袂を分けた渋沢成一郎(旧名・喜作)が率いる振武軍が「能仁寺」を本営として飯能の6つの寺に駐屯。これを追討する新政府軍と戦闘(飯能戦争)となった。半日ほどで新政府軍が勝利したが、飯能では民家200軒、4か寺が焼失する被害を受けた。この戦いで、渋沢成一郎と尾高惇忠は伊香保へ逃れた。参謀の渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子)は別の道を逃げ、黒山村(現埼玉県越生町)で官軍に囲まれ自刃した。

 「能仁寺」を通り抜けて、11:25桜や紅葉の名所「天覧山」に向かう。

 緩やかな山道を登り、11:40あずま家のある「天覧山中段」で休憩。山腹には、五代将軍綱吉の生母・桂昌院が奉じたという「十六羅漢」がある。

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 「十六羅漢」を過ぎると、頂上直下の岩場の急登があり、鎖を使って登る。

 11:50「天覧山」の山頂(195m)着。山頂標識の右は、明治天皇の行幸記念の石碑。

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 低山だが、山頂からは飯能市内や秩父連山が一望できる。あいにく富士山は望めなかった。

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 新宿のビル群や、池袋のビル群と東京スカイツリーが、遠くに霞む。

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 12:00「天覧山」の南斜面を下る。12:10「多峯主山」(とうのすやま)との分岐を右に、奥武蔵自然歩道を「巾着田・宮沢湖」方面に向かって進む。

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 山道を下ると、12:15車が通る舗装道路に出る。西武線のガード下をくぐる。

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●高麗峠

 ガードのすぐ先に国道299号線の中山(西)交差点。すぐ左手の山道を12:20「高麗峠」へ向かって登る。

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 ここから「高麗峠」までが「飯能・西武の森」になる。 

 12:30「青梻の森」には、アオダモ(青梻)の木が植栽されていた。

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 西武グループは、飯能市に所有する約130haの森林を「飯能・西武の森」として、自然環境保全の事業を行っている。2015、2016年度には、埼玉西武ライオンズ、西武造園と連携し、西武グループ社員・家族向けに「健康・エコハイキングと植樹祭」を開催、野球のバットの材料として活用されており現在資源の枯渇が危惧されている「アオダモの木」を植樹した。

 「ほほえみの丘」は、奥武蔵自然歩道の「高麗峠」に向かう途中の「飯能・西武の森」にある。ベンチがあり、12:35~13:10ここで昼食。

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 奥武蔵自然歩道の左手(西の方角)の樹木の間から、奥多摩「大岳山」(おおたけさん)1,266mが顔を出す。

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 13:25「高麗峠」着。天覧山から巾着田をつなぐ奥武蔵自然歩道の飯能市と日高市の市境にある。温度計が設置してあり、見ると気温20℃。

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 平坦な山道だったので峠らしくない。武蔵野の面影を残す雑木林が今も残る。

 麓の日高市の住宅街に下り、「高麗小学校」「高麗郷民俗資料館」の傍を通って県道15号線(日高川越線)へ。高麗川に架かる「天神橋」を渡る。

●高麗郷古民家と民俗資料館

 14:00「高麗郷古民家」着。「高麗郷古民家」は、江戸時代末期から明治時代に建設され、「旧新井家住宅」とも呼称される古民家。高麗郡本郷村の名主を努めていた。明治になってから新井家は、戸長、村長も務めた。国の登録有形文化財となっている。

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 母屋の土間といろり端、茶の間の入口。

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 母屋とつながった2階建ての建物である客殿の中央玄関には、式台が設けられている。ほかに土蔵、納屋、作業場などの建物がある。 

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 県道15号線に戻って、高麗川に架かる「天神橋」を再び渡る。橋の左手が巾着田。

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 14:20「高麗郷民俗資料館」に入館。建物は、昭和37年に建築された旧高麗公民館。

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 民俗資料を市の歴史を物語る貴重な財産として保管。この中から日常生活、農業、林業そして漁労に関する資料を展示。ほかに古代高麗郡集落ジオラマの展示や企画展を開催。

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●巾着田

 14:40「あいあい橋」を渡り、「巾着田」に入る。橋は、橋長91.2m。日本最長級の木製トラス橋とされており、「巾着田」観光のシンボル。

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 日高市内を流れる高麗川の蛇行により長い年月をかけてつくられ、その形がきんちゃくの形に似ていることから、「巾着田」と呼ばれるようになった。

 直径約500m、面積約22haの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、 秋には、約500万本の彼岸花(曼珠沙華)が咲き誇る。見頃は、9月中旬~10月上旬。

 近くの日高のシンボル「日和田山」より望む「巾着田」。出典:ウキメディア・コモンズ

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 群生する秋の彼岸花と日和田山 出典:ウキメディア・コモンズ

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 巾着田に広がる青い葉を異様に思ったが、これは彼岸花の葉だという。今の時期は赤い花は枯れ、一面に彼岸花の青い葉が茂る。

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 「巾着田」をほぼ一周近く回って県道15号線に戻り、15:15高麗川に架かる「鹿台橋」を渡って、西武線の高麗駅に向かう。

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 15:25、ゴールの高麗駅に到着。

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 本ブログの関連記事

 「高麗の里山」2015/09/10投稿  
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-b75c.html

 

 ★ ★ ★

●天覧山と黒田直邦

 天覧山は、山麓にある「能仁寺」愛宕権現を祀っていたので、もとは「愛宕山」と呼ばれた。江戸時代、5代将軍・綱吉の病気平癒のお礼に、生母の桂昌院が親しかった黒田直邦の助言により十六羅漢」の石仏を奉納したので、「羅漢山」と呼ばれるようになった。それが1883年4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことにより、「天覧山」と呼ばれるようになり山頂には「行幸記念碑」が建てられた。

 なお、黒田直邦の墓が、「能仁寺」と「多峯主山(とうのすやま)」山頂の近くにある。黒田直邦は、1666年(寛文6年)に中山直張(なおはる)の三男として生まれ、外祖父の黒田直相(なおすけ)に養育されたことから黒田氏を称した。

 5代将軍綱吉に仕え30人扶持を拝したのが出世の始まり。その後、常陸国の下館城主、また奏者番に就任し寺社奉行を兼任する。 晩年は、上州の沼田城主(3万石)となった。直邦は、宝永年間には飯能地方を領し、菩提寺の「能仁寺」を中興するなど当地の発展に貢献した。

●愛宕山

 天覧山が、かつて「愛宕山」と呼ばれたように、日本各地にある「愛宕山」の多くは山頂に「愛宕神社」が祀られていることにちなんで名付けられている。「愛宕神社」は、火の神や防火の神として知られる「愛宕権現」が祭神。特に江戸時代以降、火事を防ぐ祈りの場として信仰を集め、全国各地に「愛宕神社」が建てられるようになった。そのため、これらの神社のある山が、「愛宕山」と呼ばれるようになったという。

 「愛宕神社」の総本宮は、京都市の左京区にある。その他、東京の港区と福岡の西区にある「愛宕神社」の三社を総称して「日本三大愛宕神社」と呼んでいる。京都市内で一番高い山に鎮座している総本宮に習ってか、東京、福岡の支社やそのほかの「愛宕神社」もその土地の周辺で一番の高台や山にあるが「愛宕神社」だともいう。

●巾着田

 「巾着田」は、日高市の高麗本郷に位置し、高麗川が南向きに大きく蛇行することで形成された巾着のような形状の平地地元では「川原田」と呼ばれているそうだ。「高麗」の地名は、716年(霊亀2年)朝廷駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる

 昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ha(17万平方m)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに竹藪やアシに覆われていた休耕田を整地したところ、大規模な彼岸花の群生が見られるようになった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。1996年には日本一の木製トラス橋「あいあい橋」が完成。グラウンドや駐車場など観光地として整備された。

 河原では季節を問わずキャンプやバーベキューを楽しむ人が多く見られる。特に夏場は、弧を描く川の内側は流れが緩やかであるためか、小さな子ども連れの家族の川遊びなどで賑わっている。開花中の曼珠沙華群生地内へ入場は有料(500円)となっており、またキャンプやバーベキーも有料。2017年(平成29年)9月、天皇皇后両陛下が「曼珠沙華公園」を私的な旅行で訪れ、満開の彼岸花を観賞された。

●彼岸花

 彼岸花の名は秋の彼岸ごろ、突然に花茎を伸ばして鮮やかな紅色の花が開花する事に由来。別名の曼珠沙華は、梵語(サンスクリット語)で「赤い花」「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味から名付けられたと言われ、『法華経』などの仏典に由来する。日本では各地方のみで通じた異名が派生し、葬式花、墓花、死人花、地獄花、幽霊花など不吉な名前が多く見られる。

 彼岸花は球根から花が出てきて、その花が枯れた後に葉が成長する。花と葉を同時に見ることができない事から「葉見ず花見ず」と言われ、昔の人は恐れをなしたという。多くの植物は春に芽を出し、夏に葉を繁らせ秋に枯れるが、彼岸花はその逆。冬から春にはちゃんと葉が繁り、花をつけない寒い季節にしっかり栄養を球根に貯えているそうだ。

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