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吉見百穴と武州松山城趾

 2025年2月4日(火)吉見百穴と武州松山城趾(埼玉県比企郡吉見町)に行く。

 ガイドボランティアが案内。 (写真をクリックすると、拡大表示します)
 

●吉見百穴

 9:00~「吉見百穴(よしみひゃくあな)」に入園。観覧料300円。

 「百穴」のある丘陵は、切削に適した凝灰質砂岩。古墳時代後期~終末期に造られた。横穴墓の数は、現在219基。

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 1887年(明治20)に東大大学院生だった坪井正五郎氏らが、横穴237基を発掘。当時は、住居か墳墓かの論争があった。1923年(大正12年)に国の史跡に指定。

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 玄室の右手に棺座、入口には緑泥石片岩で蓋がされていた。

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 太平洋戦争末期、中島飛行機の地下軍需工場が全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者によって建設されが、本格生産する前に終戦となり閉鎖された。建設により20基近くの横穴墓は破壊された。以前は内部を見学できたようだが、現在は立入り禁止となっていた。

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 本来、傍を流れる市野川は蛇行し「百穴」に近い位置を流れていたそうだ。工場を造るにあたって前面に広い土地が必要になり、 川を真っ直ぐに改め、現在では堤の手前までは広い駐車場になっている。また、地下から掘り出した土を手前に埋め立てたため、園内はその駐車場よりも高くなっているという。

 「かぶと塚古墳」の横穴墓の石材が、屋外に展示してあった。

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 鉄製手斧の加工痕のある玄室の凝灰質砂岩の一部。

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 「かぶと塚古墳」は、吉見町久米田にあった円墳で、1973年(昭和48年)の調査の後に墳丘は破壊され、失われている。

 石室に用いられた石材の緑泥石片岩。

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 「吉見百穴」の2.5Km北の吉見町黒岩にも、百穴と同様の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。

 9:40、園内の「吉見町埋蔵文化財センター」に入館。町内で発掘された縄文時代からの出土品などが展示。

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 2001年(平成13年)年度の西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9~12mの古代の「東山道武蔵路」の道路跡が発見された。展示してあった地図は、撮影禁止のため吉見町ホームページより転載。

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 「東山道(とうさんどう)」は、都を基点に信濃、上野(群馬県)をへて、東北に向かう五畿七道の一つ。そのうち「武蔵路(むさしみち)」は、上野から分岐して武蔵国府(現・府中市 に至った。吉見は当時、重要な交通の要所だったようだ。江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての「東山道」は、中山道日光例幣使街道奥州街道などに再編された。

 10:10、「百穴」の丘陵の上からの東松山市街を展望。

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 左手後方に冠雪の富士山。

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 正岡子規の句碑。1901年(明治24)11月、当地を訪れた。「神の代は かくやありけん 冬籠」 

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 子規が訪れた明治時代は「住居説」だったので、冬の「百穴」を神の住居に例えたのだろうか。

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●岩室観音堂

 「百穴」を出て、10:45「岩室観音堂」を拝観。この堂は、ここから北東へ徒歩10分程度にある「龍性院」の境外仏堂。

 岩をうがって観音像を祀った。代々の松山城主が、信仰し護持した。

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 観音堂2階の天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千社札も多数貼られており、額も様々飾られている。

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 2階の鉄格子扉の岩窟の奥に御尊像(観音様)が安置されているが、よく見えない。

 室観音は、「比企西国三十三所観音札所」の第三番洞窟内に88体の石仏が安置。「四国八十八ヵ所」の参拝と同じ巧徳が得られるという。

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 観音堂の裏にある「胎内くぐり」のハート型のトンネル。

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 ここをくぐると、諸難を除き、安産、その他の願いが叶うとのこと。

 以上3枚の写真は、2015年12月12日撮影。
 

●武州松山城趾

 城の周囲は市野川が天然の堀として利用して、丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定。

 南西方向からの「松山城跡」 出展:Google Earth Pro

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 11:00、「松山城趾」の「曲輪4」の入口から入場。 「三ノ曲輪」を経て「二ノ曲輪」。

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 「二ノ曲輪」から「松山城趾」最大の高低差(9m)の「空堀」を渡ると「本曲輪」へ至る。

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 「本曲輪」には昭和初期、お堂があった。

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 築城技術の高さ、良好な保存状態などから「松山城」「菅谷館」「杉山城」「小倉(おぐら)城」の4城趾が、「比企城館跡群」として国の指定史跡となっている。

 城の北側、「虎口」付近で発掘調査。 11:35、城趾を出る。

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 北側城外には根古屋(城主の館や城兵の屋敷)があった。

 11:45~12:40、「洋麺屋 五右衛門」東松山店でランチ。

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 「菅谷城跡 ー 比企城館跡群」 2024年3月16日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-5b2bff.html

 「比企西国札所巡り-その2」 2015年12月13日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-cf25.html

 ★ ★ ★

 室町幕府時代、足利尊氏が関東に鎌倉府を設置し、関東管領として上杉氏が統治した。やがて室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏らの確執によって争乱・内紛が起こるようになり、関東の動乱を背景に「松山城」は扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。15世紀後半から16世紀前半に比企地域に城館跡が多く残るのは、これら三つの勢力が交差する地域だからだという。

 その後、扇谷と山内の上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏らの「松山城」をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。特に1537年(天文6年)に北条氏綱が「江戸城」と「川越城」を落とし、「松山城」を攻めたことで有名。その後も小田原北条と越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢により「松山城」は落城し、小田原の北条氏は滅亡した。その後徳川家康の支配下に入り、松平家広が1万石の松山藩(のちに3万石に加増)として城主となった。2代目の弟・忠頼のときに5万石の浜松藩に移封され、1601年(慶長6年)に「松山城」は廃城、この地域は川越藩領となった。

 徳川家広の入城から廃城までの時期には交通の便が優先され、城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたという。本来ここは「松山城」防衛の要となる方角だったので、争奪戦が激しかった北条氏が支配した時代までは橋が存在しなかったそうだ。

2025年2月 2日 (日)

映画「雪の花 ーともに在りてー」

 2023年1月31日(金)、映画『雪の花 ーともに在りてー 』を観る。

 江戸時代末期の福井藩を舞台に、数年ごとに大流行して多くの人命を奪う疫病から人々を救おうと立ち向かい、絶対に諦めなかった実在の町医者・笠原良策の姿、そして人々との出会いと夫婦の絆を描く。主人公の笠原良策を松坂桃李、良策の妻・千穂を芳根京子、良策を指導する蘭方医・日野鼎哉(ていさい) を役所広司が演じる。そのほか吉岡秀隆、三浦貴大、宇野祥平らが共演。

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 監督は、小泉堯史(たかし)。黒澤明監督に師事し、28年間にわたって助手を務めた。黒澤の死後、その遺作シナリオ『雨あがる』を映画化(2000年公開)し、監督デビュー。『阿弥陀堂だより』(2002年)、博士の愛した数式』(2006年)、『蜩(ひぐらし)ノ記』(2014年)、『峠 最後のサムライ』(2022年)などで人間の美しい在り方を描いてきた巨匠が、吉村昭の小説『雪の花』(1988年、新潮文庫刊)を原作に映画化。2025年1月24日公開された。

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 江戸時代の末期、有効な治療法がなく伝染力が非常に強く、死に至る疫病として人々から恐れられていた疱瘡(天然痘)が猛威を振るい、多くの命を奪っていた。治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕(=あばた)が残るため、忌み嫌われていた。福井藩の町医者で漢方医の笠原良策(松坂桃李)は、患者を救いたくとも何もすることができない自分に無力感を抱いていた。自らを責め、落ち込む良策を、妻の千穂(芳根京子)は励まし続ける。

 どうにかして人々を救う方法を見つけようとする良策は、旅先の温泉宿で大聖寺藩(加賀藩の支藩)の町医者・大武了玄 (吉岡秀隆 )と出会い、蘭方医学であれば疱瘡を治せるかもしれないと聞く。良策は、友人の福井藩・藩医の半井元沖 (三浦貴大)の紹介で、京都の蘭方医・日野鼎哉 (役所広司)に教え請うため京都へと向かう。

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 「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えのもと、蘭方医学を一から学びなおす。 鼎哉の塾で疱瘡の治療法を探し求めていたある日、 異国では疱瘡を防ぐ「種痘」という方法があると知る。だが種痘を行うためには、牛痘の膿やカサブタ の「種痘の苗」を海外から取り寄せる必要があり、幕府の許可も必要。実現は極めて困難だが、諦めない良策の志はやがて、藩、そして幕府をも巻き込んでいく。そして、私財を投げ打って種痘の苗を福井に持ち込んだ。

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 しかし、天然痘の膿をあえて体内に植え込むという種痘の普及には、さまざまな困難が立ちはだかる。庶民は激しい恐怖心をいだき、漢方の藩医らの妨害もあっていっこうに広まらない。それでも良策は、妻・千穂に支えられながら疫病と闘い続ける。
 

 ★★★

 笠原の天然痘へ立ち向かう活動は、事なかれ主義の役人や、自己の権益に固執する漢方医や藩医だった。医術の主流だった漢方医はこの疾病に、為す術はない。種痘は長崎や大阪、福井で普及し全国に広がっていったが、江戸では漢方医の権勢が強く、お玉ケ池に種痘所の設置が公認されるのは1858年と、福井より 9年も遅れを取ることになったという。

 医者には藩医と町医者がいるのがよく分かった。前者は藩に仕える士分であるが、後者は市中で開業していた町人などの出身者。笠原は映画の中で、種痘を普及させた功労で藩の家老から士分に取り立てて3人扶持を与えると沙汰があるが、「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えを守り断っている。

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 笠原が牛痘の苗を持ち帰る大雪の「栃ノ木峠」越えの場面がクライマックスで、彼の大事業がこのロケシーンで実感できる。当然リハーサルなしで撮影されたようだが、しかし吹雪の割には周囲の樹木は静止したままで、キャストの動きも違和感があった。すぐに暖かい宿で祝い酒や親子でくつろぐ姿に切り替わるが、凍傷にならなかったのか、濡れた着物はどうしたのか、気になった。

 映画の最初の方で、疱瘡にかかって伏せている村人たちが出て来るが、その顔には天然痘特有の豆粒状の発疹がない。また、天然痘を発症したが1人だけ助かった村娘・はつにも顔にアバタがない。映画作りでメイクをどうするか、小泉監督はあまり悲惨なものにしたくないという思いがあって、その後も美しくたくましく生きるという女性を描きたかったということのようだ。

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 映画の中で「男ノ助」と呼ばれた笠原の妻・千穂は、優しくて強い女として描いていて、演技を見ていて清々しい気持ちになる。しかし護身術を使った浪人を追い払う立ち回りや、ラストシーンで祭りの太鼓を叩くシーンは、ちょっとやり過ぎか。小泉監督の渋い、地味な作風の映画に、派手さを盛り込んだのだろうか、ほかに強さを表現する方法は無かったのだろうか。

 数年前の未知のウィルスだった新型コロナが猛威を振るったとき、闘い抜いた多くの医療関係者の専門家の人たちがいて、多くの患者の命が救われた。迷走する官僚や政治家、根拠のないデマを吹聴する者、科学的なデータや知見を超越して権力を振りかざす者、政府の補助金の無駄使い、それを食い物にする者。そういったコロナ禍を経験した今の時代の我々こそ、この物語を身近に心に感じ、共感を得た人たちも多いと思う。
 
 
★ ★ ★

 笠原良策(1809ー1880)は、福井藩の町医者。越前国足羽郡深見村(現・福井市深見町)生まれ。父も福井城下の町医だった。初め漢方医学を修め、福井城下で開業したが、その後蘭方医学を志して京都で学んだ。1845年、牛痘による天然痘予防が可能であることを知り、痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出。福井藩主・松平春嶽の建言により、幕府の牛痘輸入許可がおりた。

 1849年、痘苗を入手するため長崎に行く途中の京都で痘苗が手に入り、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は子どもから子どもに7日目毎に植え継ぐ方法しか確実な方法が無かった。良策の日記『戦兢録』(せんきょうろく)によると、同年11月19日、子ども2人に種痘を施した親子と一緒に京都を出発。11月22日、福井から連れてきた子ども2人に途中の長浜で植え継ぎ、京都の親子は帰した。

 笠原らは11月23日、豪雪の国境(滋賀・福井県境)の「栃ノ木峠」(539m)を越えた。2mを超える積雪、吹雪が行く手を阻み、あわや遭難という時、迎えに来た村人に助けられる。京都から福井まで7日間の行程によって、11月25日福井城下へ痘苗をもたらした。

 映画で、吹雪の「栃ノ木峠」を越えるシーン。

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 同年、福井城下で初の種痘が実施されたが、庶民の理解を得ることは困難であった。藩役人からは「西洋の妖術」と批判され、種痘をすると牛になるというデマも流れたため、予防接種は広まらなかった。怪しげな情報や、払いがたい不安が広がる状況は、現代のコロナ禍でも同様だった。

 それでも良策は諦めず1850年に、『牛痘問答』を出版。ふりがなをつけ、庶民向けに種痘の意義を説いて次第に広まっていく。1851年には藩営の種痘所「除痘館」が 開設され、急速に普及していった。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩の府中、鯖江、大野、敦賀、大聖寺、金沢、富山に種痘を広めた。
   
 
 ★ ★ ★

 種痘は、天然痘の予防接種を指し、人類初のワクチン。1796年にイギリスの医師エドワード・ジェンナー(1749-1823)が、天然痘に感染したウシの膿から精製した「牛痘ウイルス」を接種することで、天然痘の軽症化を発見した。種痘によって近縁のウイルスがヒトの体内に入った場合でも、軽度の発熱、発赤、発しんなどの副反応が生じる場合があるが、発病しない免疫力がつくられる。

 エドワード・ジェンナーと笠原良策  出典:ウキメディア・コモンズ

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 天然痘の歴史は大変古く、およそ1万2000年前からあったと言われていている。紀元前1000年前後のエジプトミイラには、天然痘の痕跡が見られるというジェンナーはウシの乳しぼりをしている人から、「牛痘にかかった人は、天然痘にはかからない」という話を聞き、これをヒントに天然痘の研究に取り組み、ウシやブタで実験をくり返し行なった。そしてついに「種痘」を完成させ、仮説が正しいことを証明した。

 江戸時代の後期、西洋の情報を得た多くの蘭方医が種痘の研究や接種の効果を説き、牛痘苗の入手を試みた。シーボルトに師事した佐賀藩医・伊東玄朴は、藩に痘苗の入手を進言した。藩主・鍋島直正は、オランダ商館長に牛痘苗の取り寄せを依頼。牛痘苗の海外からの輸送は、航海中に効力が失われ失敗していた。同じくシーボルトに師事した佐賀藩医・楢林宗建は藩主の命を受け1848年にオランダ商館医のオットー・モーニッケから種痘法を学んだ。

 翌1989年、バタヴィア(ジャカルタ)からオランダ船が牛痘苗を移入、楢林は長崎出島でモーニッケと協力して、自身の子息を含む3名に対して牛痘接種に成功した。この痘苗は日本の各地へ受け継がれて、本格的な牛痘法が普及する。笠原良策の清国からの牛痘苗の取寄せが実現する前に、この最初の種痘から2か月の間に長崎の市中に広がっていたものが元になった痘苗が、京都の日野鼎哉まで伝わった。笠原はその痘苗を福井に持ち帰ることにした。

 こうして各地で種痘が急速に普及していった。全国に広まっていくと同時に、もぐりの施術を行う牛痘種痘法者も現れた。種痘の普及に尽力していた大坂の蘭学者・蘭方医の緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。1858年、洪庵の天然痘予防の活動に対し、幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。

 天然痘ウイルスの電子顕微鏡写真 出典:ウキメディア・コモンズ

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 中国 (北宋 )から入った「人痘法」という予防法もあったそうだ。ところが「人痘法」は疱瘡‘を実際に発症してしまうことも多く、危険とされ、広まり方は中途半端だったという。

 明治政府は、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達、1876年(明治9)「天然痘予防規則」が制定、1909年(明治42)の「種痘法」によって国民に定着した。20世紀中盤には、先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本国内における発生は1955年(昭和30)の患者を最後に確認されず、1976年(昭和51)には種痘の定期接種が中止された。

 1980年(昭和55)5月に世界保健機関(WHO)によって、天然痘の世界根絶宣言がなされた。以降、これまでに世界中で天然痘患者の発生はない。コロナ禍を今日、江戸時代に感染症と諦めず粘り強く、最後まで闘った無名の町医者の存在を知った。

2025年1月16日 (木)

寅さんの柴又を巡るウォーク

 2025年1月12日(日)寅さんの柴又を巡る新春ウォーク。京成電鉄柴又駅からJR金町駅まで歩く。

 この日、日本列島を強い寒気が覆い、この冬一番の寒さ。九州各地で初雪のが見られたようだが、東京は終日曇り。最高気温は9℃程度だった。3連休のせいか、正月の初詣がまだ続いているのか、帝釈天とその参道は、混雑していてビックリ。この日の歩程は、12,800歩、7.6Kmだった。

 JR日暮里駅から、10:58京成日暮里駅発の京成本線快速特急に乗車、京成高砂駅11:10着。11:22京成金町線に乗換え、柴又駅11:25到着。
 
●京成柴又駅 11:25~
 
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 柴又駅前には、映画『男はつらいよ』 でお馴染みの寅さん(渥美清)と妹・さくら(倍賞千恵子)の像が建っている。第40作目の「寅次郎サラダ記念日」の旅立ちのシーンをモチーフとしているという。 像の前で記念写真を撮る人が多くて、自分なりの写真がなかなか撮れない。
 
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 駅から柴又観光案内所の前の十字路で、参道の方を進まず左折して、まず「柴又八幡神社」に向かう。
  
●柴又八幡神社 11:30~
 
 「柴又八幡神社」の創建年代は不明。柴又村の鎮守だった。10月の例祭になると「柴又の三匹獅子舞」(葛飾区の無形民俗文化財)と呼ばれる神事が行われる。

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 境内全体が「柴又八幡神社古墳」の上にあり、社殿の下に石室がある。この古墳からは、『男はつらいよ』の車寅次郎の帽子のようなものを被った、通称「寅さん埴輪」として知られる埴輪が出土している。本ブログ「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」を参照。

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 江戸川と中川にはさまれた低地にある柴又は、721年(養老5)の『正倉院文書 』に載る「嶋俣」を当てる説が有力だという。戦国時代は「柴俣」、江戸時代中期以後は「柴又」と書かれるようになった。
 
 古くから人が暮らしていたことを物語る「柴又八幡神社古墳」。直径20~30mの円墳。墳丘は失われているが、神社はこの上に鎮座している。 石室は葛飾区指定史跡、出土埴輪は東京都指定有形文化財。境内には、古墳から出土した人骨を納めた半球の「嶋俣塚」。
 
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●帝釈天参道 11:40~
 
 京成電鉄柴又駅から「柴又帝釈天」へと至る200mほどの参道は、どこか懐かしい雰囲気が漂い、木造建築の古い店舗などが軒を連ねる。
 
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 商店街の手前に並んだ屋台の裏に隠れていたが、「映画の碑」があった。
 
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 参道の両側には名物の草だんごや塩せんべい、くず餅、木彫り、民芸品などを売る店、老舗の川魚(うなぎ、鯉、どじょう)料理店などが軒を連ねている。国の重要文化的景観に選定された古き良き下町風情を楽しみながら、「帝釈天」までの参道を歩く。 
 
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 寅さんの実家「くるまや」のモデルとなった「高木屋老舗(ろうほ)」。
 
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 この日は、日曜日とあって観光客や初詣の参拝客か、参道は混み合っていて、ゆっく覗いて見る余裕がない。
  
●柴又帝釈天題経寺 11:50~
 
 「柴又帝釈天」または「帝釈天題経寺」(だいきょうじ)。正式には「経栄山題経寺」。庚申参りや木彫で有名な日蓮宗寺院。映画では、笠智衆が演ずる、門前の人々から「御前様」と呼ばれる住職がいて、寅さんを「兄貴ぃ」と呼ぶ佐藤蛾次郎演ずる庭男の「源公」が庭を掃いていた。

 江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2人の僧によって開創された。
「帝釈天」とは、仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では「題経寺」の略称となっている。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築。「二天門」、「帝釈堂」などは彩色を施さない素木造のため地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
 
 参道の突き当たりに、2階建ての立派な「二天門」が建つ。

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 「二天門」を入った境内正面に位置する「帝釈堂」。手前の拝殿と奥の内殿から成り、内殿には「帝釈天の板本尊」を安置する。大勢の参拝客で、拝殿前には行列が出来ていたし、境内も混み合っている。
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 宗祖・日蓮が自ら刻んだという伝承のある「帝釈天の板本尊」が長年行方不明になっていた。18世紀末、中興の祖とされている9世住職の亨貞院日敬(にっきょう)の時代の安永8年(1779)の「庚申の日」に、本堂の修理を行ったところ棟木の上から発見されたという。このことから、60日ごとの「庚申の日」が縁日となった。

 それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な御利益があったため、「柴又帝釈天」への信仰が広まっていったという。
 
 「帝釈堂」の右に「祖師堂」(こちらが日蓮宗寺院としての本堂。ご本尊は大曼荼羅 )、その右手前に「釈迦堂」(開山堂)、本堂裏手に「大客殿」などが建つ。「帝釈堂」内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われている。出典:ウキメディア・コモンズ。
 
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 これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け一般公開している。この「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は、有料(400円)で拝観出来るが、時間の都合で割愛。
 
 参道商店街へもどり、12:00~そば処「やぶ忠」で昼食を摂る。鴨南蛮1,300円。お土産屋の「門前とらや」で草だんご16粒入りで700円。
 
●真勝院 12:45~
 
 真言宗豊山派の寺院。「新四国四箇領八十八箇所霊場」の第28番札所。806年(大同元年)創建の古刹。柴又界隈で最も古い。近くの「柴又八幡神社」の旧別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前、神社を管理する寺)でもあった。
 
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 「新四国四箇領八十八箇所霊場」とは、中川の両岸沿いの4つの領(葛飾郡葛西領、葛飾郡二郷半領、 足立郡淵江領、埼玉郡八条領)に札所を持つ弘法大師の霊場。柴又七福神の一つで、弁財天を祀る。境内には、1660年(万治3年)に柴又村の名主らによって建立された「五智如来」の石仏がある。
  
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 「五智如来」は、密教で五つの知恵を五つの如来にあてはめたもの。右から阿閦如来、宝生如来、中央が大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来となっている。
 
●寅さん記念館/山田洋次ミュージアム 13:00~
  
 日本庭園のある「山本亭」の敷地を抜けて、「柴又公園」の小高い丘の頂上へ階段を登る。
 
 柴又地区で、江戸川のスーパー堤防の整備事業が行われ、河川敷と法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。公園は、「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場としても利用されている。「寅さん記念館」は、スーパー堤防と一体となったユニークな建物で、1997年11月開館。その公園頂上の真下に作られ、記念館の内部とエレベータで結ばれている。
 
 公園の頂上付近から、北東の方角、スカイツリー方面を望む。
 
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 江戸川の堤防、南東の方角を望む。川の向こうは千葉県。
 
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 13:10、「寅さん記念館」に入館(シニア400円)。記念館は、『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、「松竹大船撮影所」(鎌倉市、2000年閉鎖)から移設した「くるまや」や「朝日印刷所」のセット、ミニチュアで再現された商店街、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナーなどがある。
 
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 2012年には『男はつらいよ』の原作者で監督も務めた山田洋次を顕彰する「山田洋次ミュージアム」が開設された。「松竹大船撮影所」のジオラマも置かれている。
 
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 しばし映画の世界に浸ったあと、先ほど通り抜けた「山本亭」に入館。
 
●山本亭 14:10~
 
 もともとこの土地は庄屋の鈴木家の土地で、1923年(大正12年)の関東大震災まで鈴木家はこの場所で瓦工場を営んでいた。山本栄之助は、浅草でカメラの部品を製造する工場の経営者で、浅草小島町に住んでいたが、関東大震災で浅草が被害を受けたため、鈴木家の瓦工場跡を取得して移転し、現在の「山本亭」を構えたという。
 
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 大正末期から昭和初期にかけて造られ、山本家4代がここで暮らしたという。書院造りと洋風建築を合わせた和洋折衷建築で、築山と池が広がる日本庭園は、アメリカの日本庭園専門誌で三年連続全国3位に選ばれた。
 
 1988年3月に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開。現在では伝統行事の披露や、琴の演奏などが開催されている。2003年7月東京都選定歴史的建造物。2018年には「葛飾柴又の文化的景観」が重要文化的景観に選定され、「山本亭」は景観の一翼を担う。入館料100円(寅さん記念館とのセット料金で50円引き)。喫茶(抹茶、コーヒーなど)の利用可。ぜんざい700円を注文して休憩。 
 
●矢切の渡し 15:00~
 
 江戸川の堤防を越え、河川敷の「柴又公園」から「矢切(やきり)の渡し」柴又側の渡船場に行く。
 
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 葛飾柴又と松戸市の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は、江戸時代の初期に江戸川の両側に田んぼを持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したこ とから渡し船が始まった。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』、映画『男はつらいよ』や演歌『矢切の渡し』の舞台で、全国的にも有名になった。対岸までは数分、ゆったりとした気分で船旅を楽しむ。料金は200円、往復400円。
 
 乗船して、上流方向を望む。右手は松戸市側のゴルフ場。
  
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 左手に東京都水道局「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔。 

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 3月中旬から11月は毎日、12月から3月上旬は、土日祝日のみ、1月1日から7日は運航。荒天の場合は運休。現在は、昔のような手漕ぎでなくエンジン付小舟の運航。松戸側の渡し場から歩いて20分程のところの「西蓮寺」に、小説『野菊の墓』の一節を刻んだ文学碑があるそうだ。
 
●江戸川の土手 15:20~
 
 江戸川は、関東地方を流れる一級河川。利根川水系で利根川の分流(派川)である。流路延長は本流(江戸川放水路)河口より約55km、旧江戸川河口より約60km、流域は、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都の1都3県におよぶ。

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 左手に東京都水道局の「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔を右に見ながら、の堤防の上の「江戸川堤サイクリング道路」を北に向かって歩く。国道6号(水戸街道)の手前で堤防を降り、西に向かって住宅街、市街地を歩く。疲れてきたせいか、なかなかゴールに着かない。
  
●ウォーク終点 JR金町駅 15:50
 
 「矢切の渡し」からおよそ2Km、30分ほど歩いて、JR金町駅に15:50過ぎに到着。
 
 JR金町駅を15:55発、常磐線で西日暮里駅下車。山手線に乗り換えて池袋駅へ。16:40頃から2時間、池袋駅西口の居酒屋「楽蔵」で新年会。

  
 
 ★ ★ ★
 
●寅さんの生い立ち
 
 寅さんの生い立ちや少年時代は、『少年寅次郎』と題してNHK総合TV土曜ドラマで2019年10月から連続5回で放送された。主演は、寅次郎の育ての母・光子役の井上真央で、好演だった。このドラマは興味深くて、熱心に視聴したが、5年経ってストーリーをすっかり忘れていた。今回「寅さん記念館」を見学して、少し思い出したので、この際いろいろ調べてみた。
 
 寅次郎は、子供の頃から父親からは疎まれ、周囲からは芸者の子や捨て子といじめられる。短気な性格で口が悪く、少し乱暴者。しかし、人を騙したり傷をつけたり、女性に暴力を振るうといったことは決してない。情にもろくて、困っている人を見ると放っておけない、優しい一面があった。学校の勉強は出来ないが、なぜか文才があり、詩的な表現を使った情景描写が巧み。成人になった寅さんとそっくり。そんな寅次郎を、光子は実の子のように育てる。
  
 このNHKドラマの原作は『悪童(ワルガキ)小説 寅次郎の告白』で、やはり山田洋次による長編小説で、講談社より2018年9月に刊行された。『男はつらいよ』シリーズの中で描かれなかった主人公「車寅次郎」の生い立ちを、寅さん自身が語る一人称形式で描いてある。この小説は読んでいないが、NHKドラマのストーリーとネットで仕入れた情報で、寅さんの生い立ちを書いてみた。
 
 寅次郎は、遊び人だった「車平造」と、当時柴又の売れっ子芸者だった「お菊」との間の子として生まれた。平造はすでに光子(さくらの実母)と結婚していたため、寅次郎は不倫の子だった。お菊は京都で身売りをするために、寒い冬の真夜中に産まれたばかりの寅次郎を「とらや」の軒先に置いて去ってしまう。光子はそれを知っていたのか、御前様に報告しに行ったところ、御前様は「寅次郎」と命名してくれた。
 
 平造と光子の間には、秀才だった長男「昭一郎」がいたが、旧制中学のころに伝染病で死んでしまう。寅次郎が小学校に上がる前には、光子の実子で妹の「さくら」が生れた。だんご屋「とらや」は実質的には、平造の父親で、無口な「正吉」と嫁の光子で切り盛りしていた。やがて平造は招集される。復員後「とらや」に帰って来るが、ますますおかしくなって、寅次郎とはうまくいかない。
 
 寅次郎が13歳のころ、育ての母・光子の体調が悪くなる。平造の弟夫婦が、「おいちゃん」(竜造、寅次郎の叔父)と、「おばちゃん」(つね、叔母)。おいちゃんとおばちゃんは、病にかかった光子の面倒を看るために「とらや」に移り住むようになり、光子の死後に「とらや」の店と寅次郎とさくらの面倒をみるようになった。
  
 寅次郎は15歳の時、道楽者で自分を疎ましく思っている父親に対し、日頃の不満が爆発して大喧嘩し家出する。政吉親分に香具師(やし)としての素質を買われて、テキ屋稼業に足を踏み入れた。その後、父親の平造は他界した。1人「とらや」に残されてしまった「さくら」(9歳か10歳頃)は、おいちゃんとおばちゃんに育てられることになる。
 
 寅次郎が35歳の時に、20年ぶりに「とらや」に帰郷する。おいちゃんとおばちゃん、さくらは、彼を家族として歓迎する。

 
●帝釈天参道の「とらや」と「くるまや」
 
 「寅さん記念館」に行って、寅さんの生い立ちのほか、もう一つ大きな疑問があった。
  
 帝釈天に参拝したあとの参道で、時間が無くて店名を確認せずに、急いでお土産の名物「草だんご」を買った。帰ってから、包装紙を見たら「門前とらや」と書いてあった。「柴又屋」の文字もある。
 
 寅さんの生い立ちと少年時代について調べていたら、寅さんの実家の店の名は「とらや」だった。帝釈天の参道にはいくつか、だんご屋がある。「柴又 とらや」でネットで検索すると、「柴又屋」というだんご屋が、実際に「門前とらや」という店名に変えたようだ。『男はつらいよ』の「とらや」の名前に便乗したのは、容易に想像できる。
 
 「門前とらや」は、柴又帝釈天参道で明治20年に「柴又屋」として創業。当時から、参拝者の食事処、草だんごのお土産として、参拝客、観光客の多くに利用されていた。実際に「柴又屋」は、昭和44年の第1作目『男はつらいよ』の映画に使用され、第4作目まで寅さんの実家として撮影が行われたという。ちなみに、第5作から第48作(最後)までの映画のモデルは「高木屋老舗(ろうほ)」という店。
 
 最初「高木屋」がモデルと聞いていたので、「高木屋」の店の写真を撮った。「高木屋」は、参道を挟んで左右2軒あり、写真は帝釈天に向かって右側の店、映画はどちらの店が使われたのか分からない。ところが「寅さん記念館」に行くと、寅さんの実家は「くるまや菓子舗」の幟(のぼり)が立っている。第40作目の『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(1988年)から、何の説明もなく「とらや」の名前が、映画の中で「くるまや菓子舗」(通称くるまや)に変わったという。
 
 はっきりしたことは分からないが、商標権の問題だと思われる。もともと帝釈天参道には「とらや」という店はなかった。当然、映画制作サイドの「松竹」も、「柴又屋」に「とらや」という名前を使わないで欲しいと再三伝えていたようだ。しかし、「柴又屋」は「とらや」という名称を使い続け、それで仕方なく映画側が「とらや」を「くるまや」に変えたというのが、大方の見方だと思われる。

2024年12月26日 (木)

再び渋沢栄一ゆかりの地を巡る

 2024年12月18日(水)、再び埼玉県深谷市 の「渋沢栄一ゆかりの地」をめぐる。

  財務省印刷局と日本銀行は、2024年7月3日新紙幣を発行した。新一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一の肖像がデザインされている。 紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりとなった。2年ぶりに「渋沢栄一ゆかりの地」を車でめぐる。


■渋沢栄一記念館
 10:35~12:00

 「渋沢栄一記念館」は、栄一の出身地である深谷市が設立・運営する渋沢栄一に関する市立博物館。

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 深谷市北部・血洗島(ちあらいじま)にある渋沢栄一の生家から、東に500 mほどの清水川のほとりにある「八基(やつもと)公民館」に併設され、渋沢栄一に関する展示を行っている。1階の資料室の入口に栄一の等身大パネル(栄一の身長は、150㎝ちょっとだったとか)と、記念館北側に建つ銅像がある。

 資料室には、栄一が書き残した書画や写真など、多数の資料を展示。撮影禁止(渋沢栄一記念館/深谷市ホームページより引用)。

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 2020年7月からは、2階展示室で「アンドロイド渋沢栄一」の公開を開始されている(要予約)。なお、東京都北区西ケ原にある「渋沢史料館」は、「渋沢栄一記念財団」の施設。

 資料室の見学後、11:30~12:00ガイドの案内で渋沢栄一のアンドロイドからの講義「道徳経済合一説について」を聴く。

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■麺屋忠兵衛煮ぼうとう店 12:15~13:05

 「渋沢栄一記念館」から、車で西の方へ3分(1.0 km)ほど、12:10旧渋沢邸「中の家」(なかんち)の駐車場着。

 「中の家」の前には、大型バスが駐車できるほど大きな駐車場が整備されて、駐車場の先に見える「中の家」の立派な正門と塀は、いかにも豪農といった雰囲気。

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 「中の家」の正門から入るが、主屋に入らずに東門から一旦出て、隣接する麺屋忠兵衛「煮ぼうとう店」に入店し、先に昼食。

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 古民家の「煮ぼうとう店」は、元は渋沢家の大番頭の家だったという。落ち着いた雰囲気で、テーブル席が50席もあり、思ったより広い。渋沢栄一が帰郷の際に、好んで食べたといわれるのが、この郷土料理「煮ぼうとう」だったそうだ。

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 煮ぼうとう(850円)とホットコーヒー(200円)を注文。

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 野菜がたくさん入った煮ぼうとうは、ボリュームがある。もちもちの麺とスープが絡んで美味しい。

 店内の床の間には、渋沢栄一が書いたとされる「天意重夕陽 人間貴晩晴」の書が飾られている。

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 渋沢栄一が座右の銘にした名言の中の一つ、「てんい、せきようをおもんじ にんげん、ばんせいをとうとぶ」と読む。正確な出典は分からないが、古人の詩の一節とされている。意味は、「一日の中で最も大事なの夕刻で、日中いかに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨だったと感じてしまうように、人間も晩年が晴れ晴れと立派でないと、つまらない人生になってしまう」。

 若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してもくれる。立派な晩年の生活によって、若いうちの欠点失策は、帳消しにすることができるが、いかに若いうちが立派であっても、晩年がよくなければ、その人はついに芳しくない人で終わってしまうものである。晩晴(ばんせい)とは、「夕方になって空が晴れること」。つまり、「人生ってのは、終わり良ければすべて良し」ということか。

 お土産に、秘伝のたれ付の「煮ぼうとう」(干しひらめん)4食入(690円)と長芋の旨味昆布漬け(300円)を購入して店を出る。

■旧渋沢邸「中の家」(なかんち) 13:10~13:50 入館無料

 「中の家」の庭に建つ「若き日の栄一」の銅像は、1867年パリでの姿らしい

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  渋沢栄一が23歳まで過ごした血洗島村にあった「中の家」は、茅葺屋根の主屋だった。明治時代になって家業の中心が養蚕になると建て替えられたが、明治25(1892)年に火災で焼失。家を継いだ妹夫婦(てい・一郎)によって明治28(1895)年に上棟されたのが、現在の主屋。栄一が帰郷の際には、ここに寝泊まりした。主屋を囲むように副屋(藍玉の店、のちに農協の事務所)、4つの土蔵、正門、東門が建ち、屋根に天窓の「煙出し」がある典型的な養蚕農家の形。

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 「中の家」に入室し、栄一のアンドロイドから、スクリーンの映像を見ながら栄一の経歴を聴く。

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 裏庭には、栄一の義弟の渋沢平九郎を追悼した石碑が建っている。

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 この石碑は、東京・谷中の渋沢家墓所内にあったものを、この地に移設したもの。平九郎は栄一の義弟で、栄一が渡欧する際に養子となった。しかし幕府側として「飯能戦争」で新政府軍と戦い、自刃。享年22歳だった。

■尾高惇忠(じゅんちゅう)生家 <見学省略> 入館無料

 「中の家」から東に4分(1.5Km)ほどで、尾高惇忠の生家。車を停めて社内から建物を見るだけで、見学はスキップ。

 惇忠は名主の子で、幼い頃から学問に優れ、17歳頃から自宅に「尾高塾」を開き近郷の子弟に学問を教えた。渋沢栄一も7歳から数年間、惇忠の教えを受けた。栄一の父の姉が惇忠の母で、惇忠と栄一はいとこの関係だった。また、栄一の最初の妻は、惇忠の妹・千代。栄一が渡仏するのを機会に、栄一夫婦の養子として惇忠の弟・平九郎が迎えられた。

 生家の屋号は「油屋」、農業の他、藍玉・菜種湯・塩・雑貨などを販売した。2階には、栄一らと高崎城の乗っ取りの謀議をした部屋が残されている。「戊辰戦争」の際、惇忠は平九郎らと共に「彰義隊」に参加。その後、平九郎らと共に脱退し「振武隊」を結成、「飯能戦争」で官軍と交戦するが敗退し、平九郎は自決、 淳忠は逃げ延びた。維新後は、「富岡製糸場」の建設に尽力して所長、また「第一国立銀行」仙台支店支配人などを勤め、のちに養蚕・製糸業の振興にも努めた。

 

誠之堂(せいしどう)と清風亭 14:00~14:40 入館無料

 「尾高惇忠生家」からは、車で3分(950m)ほど、 誠之堂」と「清風亭」は、県道14号沿いの「大寄(おおより)公民館」の敷地にある。ともに建築史上、重要な建物で、元は東京・世田谷にあった「第一国立銀行」(のちに「第一勧業銀行」、現「みずほ銀行」)の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に並んで建てられていた。

 「第一国立銀行」は、栄一が初代頭取を務めた民間の銀行。「誠之堂」は大正5(1916)年、初代頭取・栄一の喜寿祝に「清風亭」は大正15(1926)年に2代目頭取・佐々木勇之助の古希祝を記念して、いずれも行員たちの出資で建設された。

 昭和46(1971)年に、「清和園」の敷地の半分を聖マリア学園に売却。しかし、学園の施設拡充計画により、「誠之堂」と「清風亭」の取り壊しが検討されたが、平成11(1999)年に深谷市が譲り受け、移築・復元された。その後「誠之堂」は平成15(2003)年に国の重要文化財に、「清風亭」は平成16(2004)年に埼玉県指定有形文化財に指定されている。

 ガイドの案内で、両施設を見学。「誠之堂」の外観は、英国の農家風で、和風、東洋風のデザインが随所に見らる

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 煉瓦造平屋建で、焼き色の異なる3色の色むらのある煉瓦を積む「フランス積み」という方法。煉瓦は、深谷市に存在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された。暖炉の背面の外壁には、3色のレンガで「喜寿」という漢字に積まれた部分もある。

 暖炉脇の窓のステンドグラスのモチーフは、中国・漢時代の宮殿、祠堂、墳墓の壁面に彫りつけたもの。格子状のガラスは、日本の障子をイメージ。貴人と従者らによる宴会を、渋沢栄一の喜寿を祝う様子に見立て描かれている。

 ステンドグラスを建物の外から見たのと、室内から見たのでは色の鮮やかさが全く違う。

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 暖炉の上部には、正面を向いた栄一の肖像レリーフ。

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 「清風亭」は、当時流行っていたスペインの南欧風建築。屋根は南欧風のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラス、円柱装飾などが特徴的。

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 1923年(大正12年)の関東大震災をきっかけに耐震性への関心が高まった。「清風亭」は、鉄筋コンクリート造平屋建の初期の建築物、建築史上でも貴重。その後、日本の洋風建築は煉瓦から、丈夫な鉄筋コンクリートへ代わっていった。

 2017年(平成29年)9月21日には、当時の天皇・皇后陛下が私的な行幸啓で、ここ「誠之堂」「清風園」のほか、「渋沢栄一記念館」や生家の「中の家」を来訪されていて、それぞれの施設で当時の写真が掲示されていた。

 14:40「大寄公民館」を後にして、帰路へ。

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 2年前に来た時は、「渋沢栄一記念館」で栄一のアンドロイドが見られなかったのと、耐震工事中で旧渋沢邸「中の家」の内部を見学できなかったのが残念だった。両施設で、それぞれにアンドロイドから解説を聞いて有意義だった。「誠之堂」と「清風亭」では、ガイドの説明を聞けたのも収穫だった。

 アンドロイドは、人間に似た外見や動作を持つロボットのことだが、人間と同じように動いたり話したり、顔の表情ができるが、昔よりも技術が進歩していて、自然に近い動きをするようになっているのに驚いた。皮膚の見た目も人間に近い。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身で株式会社ドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏の寄付により制作とあったが、いったいどのくらいの値段がするものか気になる。

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 2年前の20221030日(日)には、「渋沢栄一ゆかりの地」をウォーキングでめぐった。

 「渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング」 2022/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-a56a44.html

 

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■渋沢栄一について

 渋沢栄一は豪農の長男で、明冶・大正期の実業家。一橋慶喜(のちに将軍・徳川慶喜)の家臣に取り立てられ、慶応3(1867)年「パリ万国博覧会」に出席する徳川昭武(慶喜の異母弟、のちに水戸藩主)に随行し、欧州の産業や社会制度を大いに見聞した。

 明治2(1869)年新政府に勤め、明治5(1872)年大蔵大丞(大蔵省の大臣に続く第4位の高官)となるが、翌年退官して実業界に入る。「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の頭取となった他、多くの銀行、「王子製紙」、「大阪紡績」、「東京瓦斯」、「東京海上保険会社」、「日本鉄道会社」など約500社の近代的企業のほか、経済団体、教育機関などの創立と発展に尽力した。

 幼少期に学んだ孔子の教え『論語』を徳育の規範として『論語と算盤(そろばん)』を著し、「道徳経済合一説」を唱えた。大正5(1916)年実業界から引退するが、その後も福祉や医療、教育、国際親善に力を注いだ。昭和6(1931)年、老衰のため死去。享年92。

 左から、渋沢栄一、恩師・尾高惇忠、義弟・渋沢平九郎、主君・徳川慶喜。出典:ウキメディア・コモンズ

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2024年12月25日 (水)

再び新宿御苑と神宮外苑

 2024年12月3日(火)、紅葉の「新宿御苑」と黄葉の「神宮外苑」のイチョウ並木に行く。

 天気は晴れ、最高気温は17.5℃で、12月にしては暖かい。

 9:45新宿駅を出て、10:00「新宿御苑」の新宿門から入場。入園料250円。

 園内を東に向かうとカエデの林。

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 温室の手前付近、メタセコイヤとイチョウ。

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 ツワブキの群生。

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 サクラの紅葉。

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 プラタナス並木。

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 バラ花壇から西の方角、ドコモタワーが顔を出す。秋バラは、もう終り。

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 「中の池」と紅葉。

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 「下の池」に映る紅葉。

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 11:30頃、千駄ヶ谷門から新宿御苑を退園。11:55、神宮外苑の「国立競技場」前を通過。

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 12:00頃、「聖徳記念絵画館」前から「イチョウ並木」の方角を望む。総合球技場では、何やらイベントが開催中で「イチョウ並木」へ通り抜けが出来ない。

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 回り道して、12:25神宮外苑の「イチョウ並木」へ。平日だが、すごい混雑。皆、スマホでイチョウを撮っている。

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 「イチョウ並木」に隣接の権田原会場で「全国工芸職人展」が、11/21(木)~12/8(日)で開催中。入場無料。

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 イチョウ並木が黄葉する頃に開催される物産フェア。多彩な工芸品が展示販売。 昼食は、屋台の「広島焼き」700円。ちょっと高い。

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 イチョウ並木と「聖徳記念絵画館」の間の総合球技場では、「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」が11/19日(火)〜12月25(水)で開催中だった。中央に、シンボルのタワー「クリスマスピラミッド」が見える。

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 正面に絵画館が見えるが、こちらからもチケットを買わないと通り抜けが出来ない。

 再び絵画館前に戻り、13:35絵画館の裏に明治天皇の葬場殿跡。記念に植えられた大楠。

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 都道319号線の信濃町歩道橋を渡って、JR信濃町駅へ。歩道橋から青山1丁目方面を望む。

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 14:10JR信濃駅発、新宿駅経由して、14:30JR巣鴨駅着。

 14:35「巣鴨地蔵通り商店街」のアーチ。

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 商店街を散策。巣鴨名物は、赤いパンツと塩大福。

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 元祖「塩大福」と謳っている和菓子屋「みずの」で、少し行列が出来ていたが塩大福(豆大福)をすぐに購入できた。塩大福は、昭和38年にここで誕生したとか。1つ 160円で、5個入り800円。数年前、同じ店で650円だったので、やはり物価高。甘さを抑えた優しい味の大福。

 とげ抜き地蔵の「髙岩寺」に参拝。

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 15:30頃、JR巣鴨駅に戻り、帰路へ。

 

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●神宮外苑いちょう祭り

 2012年12月2日投稿の本ブログ記事「新宿御苑と神宮外苑」を見ると、軟式野球場前の噴水池周辺で「神宮外苑いちょう祭り」が、11/17(土)~12/9(日)で開催されていた。多くの屋台が並んで、ちょうど昼食をとるのに良かった。また、「聖徳記念絵画館」の前では、トヨタ博物館がトヨタ創立75周年記念の「クラシックカーフェスタ」を開催、いずれも入場は無料だった。

 「神宮外苑いちょう祭り」は、2020年から新型コロナウイルスの影響で、開催が中止になっていたが、2023年に噴水周辺で再開されたようだ。今年は、噴水周辺が工事中のため利用出来ず、イベントは中止されたようだ。東京都では他の公共施設と同様、神宮外苑の都道のイチョウ並木を11/23(土)~12/1(日)の期間、ライトアップしているとのこと。
 

●クリスマスマーケット

 今回、神宮外苑で「クリスマスマーケット」という初めて聞くイベントをやっているとは、知らなかった。

 「クリスマスマーケット」は、ドイツやオーストリアが発祥で中世から続く伝統的なお祭り。ヨーロッパ全体に広がり、どこの町でも中心部の広場では飾り付けやイルミネーションのクリスマスの雰囲気の中で、仲間とグリューワイン(ホットワイン)を飲み交わしながら、クリスマス用のお菓子や飾り、プレゼントを選んだりするのが「クリスマスマーケット」の楽しみだそうだ。11月末頃~12月25日のクリスマス・シーズンには欠かせない風物詩となっている。

 ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケット。出典:ウキメディア・コモンズ

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 のちにはドイツ系の移民たちがこの習慣を、イギリスやアメリカへもたらしたという。ドイツ語では、Weihnachtsmarkt(ヴァイナハツ・マルクト、聖夜のマーケット)というらしいが、町によって異なるそうだ。日本では親しみやすい英語の「クリスマスマーケット」がよく用いられる。最近では、全国の各都市でも開催されるようになている。

 「東京クリスマスマーケット」は、本場のドイツ・ザイフェン村からやってきた高さ14mの「クリスマスピラミッド」をシンボルとし、グリューワインやクリスマス・スイーツ、ヨーロッパ風のクリスマス装飾の店舗が並ぶ本場の雰囲気さながらの屋外イベントとして、日比谷公園で2015年12月に初開催された。ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケットをモチーフに今年で9回目、10周年を迎える。

 日比谷公園のリニューアルに伴い、2023年、2024年は神宮外苑の絵画館前、総合球技場で開催されている。「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」(下のチラシ)は、日本を代表するクリスマスマーケットとして、57の雑貨店や飲食店が出店しているという。チケットは平日1,000円、土日祝1,500円、初日(11/19)と12/21~25は2,000円だそうだ。

 主催:東京クリスマスマーケット実行委員会
 後援:ドイツ観光局/バイエルン州駐日代表部/ザクセン州観光局/ザイフェン村/
    東京都/新宿区/新宿観光振興協会
 協力:Trip.com/SKWイーストアジア/ファミリーマート

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「四谷から神宮外苑」 2024/1/18投稿
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「新宿御苑と上野動物園」 2019/5/1投稿
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「駒込・巣鴨界隈」 2018/1/20投稿
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「都内をめぐる日帰り研修旅行」 2017/6/3投稿
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「初夏の新宿御苑」 2016/5/18投稿
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2024年12月 8日 (日)

再び紅葉の平林寺

 2024年11月30日(土)、「平林寺」(埼玉県新座市)の紅葉。

 

 東武東上線志木駅の南口から、9時48分発の西武バスひばりヶ丘駅北口行きに乗車。約14分で平林寺バス停下車。

 「総門」は、県指定有形文化財(建造物) 。左手に受付があって、入山料500円。パンフには、入山料は国指定天然記念物「平林寺境内林」の整備に使われていますと書いてある。

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 「総門」からすぐに「山門」。こちらも県指定有形文化財(建造物)。

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 「山門」の先に見える「仏殿」の前で、立ち入り禁止。昔はその先の「本堂」まで拝観できたと思ったが、今は行けなくなった。

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 「半僧坊感応殿」の建物の傍にある「放生池」。かつては仏教の「放生」の儀式に使用されていたのだろうか。「放生」とは、生き物を解き放つことで、慈悲の心を示す行為。水面に映る紅葉に赤い鯉が映える。

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 「平林寺境内林」は、武蔵野の面影を残す雑木林として、国の天然記念物に指定。2009年(平成21年)11月、天皇明仁・皇后美智子夫妻(現上皇后夫妻)が訪問したと説明板にある。皇太子時代の1977年(昭和52年)以来の再訪だという。

 「野火止用水」の「平林寺堀」が、境内を通る。

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 川越藩主で幕府老中だった松平伊豆守信綱夫妻の墓(県指定史跡)。

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 約三千坪の墓域に配された墓石は、すべて大河内松平家一族歴代のもの。一大名一族の墓が、一箇所にこれほどまでに残っているのは、国内であまり例がないという。

 信綱布佐の墓所の近くに、「寛永年中 肥州島原対死亡霊等」と刻まれた島原の乱戦没者供養塔がある。

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 供養塔の左手にある説明板には、

 『寛永十四年から十五年(1637~38)にかけて肥後国天草の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』

 とある。

 この供養塔について、島原の乱で亡くなった人々を悼みその霊を慰めるためのもので、「対死」すなわち敵味方双方の慰霊のため塔だと解釈する向きもあるようだが、平林寺のホームページの「山内散策」ページには、あくまでも「幕府側の犠牲者を弔う供養塔」と書いてある。

 12時過ぎに平林寺を退場。先月、紅葉前に来た「睡足軒の森」に入場。

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 平林寺バス停12時23分発の志木駅南口行きの西武バスに乗り、志木駅ビルEQUiA(エキア)の2階「すし三崎丸」でランチし、帰路へ。

 

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 「紅葉の平林寺」 2014/11/28投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-55bd.html

 

 ★★★

 この日は、紅葉の時期の土曜日で、天気も良く、境内は家族連れなどで賑わっていた。外国人も多かった。今年の紅葉は全国的に遅れていて、「平林寺」でも全山紅葉とまでには至っていないが、それなりに楽しめた。「平林寺」の紅葉期間中の人出は6万人ともいわれ、埼玉県内第1位の紅葉人気スポットだそうだ。

 近年、国内の観光地に過剰な観光客が訪れることで、「オーバーツーリズム」が問題になっている。観光地のインフラや地域社会に悪影響を及ぼし、地元住民の生活が妨げられたり、自然環境が破壊されたりする。この問題に対処するために、観光地や管轄の自治体では、訪問者数の制限や各種の規制、ルールの厳格化などの対策を講じているところもある。

 臨済宗「金鳳山 平林寺」は、「禅の修行の場であり、参拝や散策は静粛に」と平林寺のパンフやホームページに書いてある。以前は、本堂の拝観も出来たし、自由に境内を散策できたようだったが、いまは散策コースが定められていて、立入り禁止の柵があちこちに設けられ、散策する範囲が狭まっていて残念だ。

 注意事項・禁止事項として、写真・動画は個人で楽しむ限りスマホやカメラ等で手軽に撮影するもののみ。撮影用の機材(一脚・三脚、自撮り棒、レフ板、ライト、踏み台)の使用やモデル撮影、撮影会の開催は禁止。写生やスケッチ、総門・山門・仏殿の前での集合写真も禁止。飲食(弁当、軽食、酒類)、喫煙は禁止。敷物類や折り畳み椅子、スポーツ用トレッキングポールの使用禁止。ガイドや案内説明の行為、ペット(ケージに入っていても)の入山、動植物の採取も禁止。ゴミは持ち帰り、御朱印帳の記帳はない等々・・・とけっこう細かい。

2024年12月 7日 (土)

秋の矢作川上流域

 2024年11月21日(木)、秋の矢作川上流域。長野県、岐阜県と愛知県を巡る。

 5:40上信越自動車道を佐久ICで降りて、県道44号、国道142号を経由し岡谷ICからへ中央自動車道へ。7:05辰野PAで休憩。飯田市の飯田山本ICで高速を降りて、国道153号線を南下する。阿智村を経て、8:20平谷村の道の駅「信州平谷」で休憩。

 赤坂峠を越えると最初の目的地の長野県根羽(ねば)村に入る。根羽村を走る国道153号線沿いに「信玄塚」の標識があった。諸説あるようだが、ここは戦国武将・武田信玄が絶命したと伝わる場所。信玄は、三河国に侵攻して家康を敗退させたが持病が悪化、甲斐国に撤退する途中でこの地で没した。

 矢作川支流の小川川沿いに国道153号線を更に南下し、 根羽村の役場を過ぎてから左折、8:45黒地集落に到着。棚田が広がるこの辺りの標高は、610m。

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●黒地の柿の木
 長野県下伊那郡根羽村黒地(8:45~9:25)

 樹齢150年の柿の木は、今年は「成り年」だそうで柿は実っているが、青い葉が残っていて秋の柿の木の風景とはどこか違う。

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 早朝、雨が降ったようで、地面から蒸気霧が上がっている。

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 根羽村の「黒地の柿の木」は、写真愛好家たちの撮影スポット。葉が落ち赤い実が残った木と根元にある苔むした物置小屋が調和し、昔話の一コマのような写真が撮れると評判だそうだ。今年は、青葉が茂って主役の柿の実が目立たない。

 近くのドウダンツツジは、真っ赤に染まっていた。

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 矢作川に沿って国道153号を走り、いったん愛知県豊田市の国道257号を経て、矢作川に架かる「出合橋」を渡ると岐阜県恵那市。「奥矢作さくら街道」(県道20号)を矢作川を左に見て走ると、「奥矢作湖」の湖畔に「大野公園」がある。
 

●大野公園 岐阜県恵那市串原 大野公園 10:00~10:30

 カエデが紅葉。ここは標高305m。

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 ツタの葉は紅葉しているが、モミジは青い。

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 岐阜県の南東部の恵那郡にあった串原村は、2004年10月に周辺自治体との合併で消滅。合併後は恵那市の大字として串原が旧村域に設定されている。

 「奥矢作湖」の下流(右手方向)に「矢作ダム」がある。

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 「矢作ダム」は、愛知県豊田市と岐阜県恵那市にまたがる、一級河川・矢作川本流最上流部に建設されたダム。「矢作第一ダム」とも呼ばれる。国土交通省直轄のダムで、高さ100mのアーチ式コンクリートダム。矢作川の治水と愛知県西三河地域への利水、水力発電を行う多目的ダム。矢作川水系では最大規模。「矢作ダム」による人造湖は「奥矢作湖」。

 「矢作ダム」 出典:ウキメディア・コモンズ

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 公園内にある「恵那市串原郷土館」は、串原地区の文化財の収集保存、公開する施設。1968年(昭和43)、恵那郡串原村の「串原村郷土館」として開館。2004年(平成16)に合併で恵那市となると、「串原郷土館」に改称した。建物は「奥矢作湖」に水没した久木地区の農家(江戸時代末期建築。茅葺屋根の木造平屋建)であり、串原村が建物の寄贈を受け、移築した。1979年(昭和54)に串原村指定文化財(2004年に恵那市指定文化財に再指定)となっている。

 ここには、当時の村の生活文化を現代に伝える民具が600点以上も展示されているそうだ。 10:00を過ぎた時刻だが、建物は閉まっている。後で知ったが、利用する際は事前予約が必要だという。

 「恵那市串原郷土館」 恵那市観光協会串原支部のホームページから転載。

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 建物は、2016年(平成28)にリノベーションが行われ、「サトノエキカフェ」がオープンした。カフェの「フェースブック」を見ると、11月のカレンダーでは営業日は土日を中心に1カ月の1/3程度。12月1日~桜の頃まで冬期休業だとか。

 前庭には、水没集落から移築した「三十三体仏」が「奥矢作湖」を向いて立っている。岐阜県内には、一石三十三観音が多数存在しているようだ。この恵那市指定文化財「彫刻石造三十三一石観音」は、 1846 年(弘化3)の作で彫りも深く、保存状態も良い。

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 矢作川に沿って西進し、県道11号から、右折して矢作川に架かる「有平橋」を渡って国道354号線。恵那市の「大野公園」から35分ほど、11:10豊田市も「小原ふれあい公園」着。

 

●小原ふれあい公園 愛知県豊田市小原町  11:10~12:30

 公園では、「四季桜まつり」が開催中。

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 「小原ふれあい公園」と隣接する豊田市役所小原支所の周辺には約300本もの四季桜が植えられており、春は3月中旬~4月上旬、秋は10月下旬~12月上旬に花を咲かせるという。春に比べて秋の方がより満開になるので、ピンクの桜と紅葉のコラボを楽しむことができる

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 「小原ふれあい公園」に隣接する豊田市市役所の小原支所。標高280m。

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 愛知県西加茂郡小原村は、2005年(平成17)4月豊田市に編入合併され、小原村は廃止された。

 「小原ふれあい公園」を出て、国道419号線を北へ。「小原和紙のふるさと」(小原和紙美術館)を経て5分ほどで「川見四季桜の里」。
 

●川見(せんみ)四季桜の里 愛知県豊田市川見町  12:35~13:30

 川見町は、旧小原村の大字川見。川に沿った山全体に1200本の四季桜と紅葉のコントラストが広がる。標高360m。

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 川見の「四季桜の里」にある「川見薬師寺」は、真言宗高野山派の古刹。

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 本堂は、急勾配の石段を88段、33段、42段と登った上にある。

 真言宗「瑠璃光山薬師寺」の本堂。本堂の標高495m。

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 開山は不明だが、現在の伽藍は江戸末期から明治初期にかけて建立。本尊の木造薬師如来像は室町時代末期の作と伝わる。灯籠と如来像は、豊田市の指定文化財。

 四季桜は、小原地区の各地で咲いていて、「四季桜まつり」はあちこちで開かれている。

 13:30「川見四季桜の里」を後にして、往路と逆順で帰路へ。
 

 15:40中央自動車道の駒ヶ岳SAで休憩。山頂が雲に隠れた「仙丈ヶ岳」(中央)と冠雪の「甲斐駒ヶ岳」(左手)を展望。

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 16:25岡谷ICで高速を降り、佐久ICから関越自動車道。18:15横川SAで休憩。横川SAでは、いつも「峠の釜めし」を購入するが、値段が高いのでやめた。米などの食材、燃料や物流費の高騰で、10月15日から 「峠の釜めし」は、1,400円(税込み)に値上がりしていた。

 「峠の釜めし」は、過去1,000円の時もあって買いやすかった。 2020年1月には1,100円に、2022年4月より1,200円、2023年7月に1,300円と値上がりしていた。また、「益子焼の器が重い」というの声を受け、誕生したパルプモールド素材の白い容器がある。原料はサトウキビの搾りかす等を使用した環境にやさしく、値段も陶器より100円安かったが、今回陶器と同じ価格になっていた。

 

 ★ ★ ★

●今年の遅い紅葉

 今年9月の気温はかなり高く推移し、特に中旬の最低気温は平年より5℃程度高くなった。10月~11月も平年より高めの傾向は続き、12月も平年並み、または高めの気温が予想されている。日本気象株式会社の11月26日の予想では、紅葉の色づきは各地で平年より遅く進むとのこと。東日本の山間部では10月下旬から12月中旬にかけて、平野部では11月下旬から12月下旬にかけて見頃となる見込みだそうだ。

●一級水系矢作川

 矢作川または矢矧川(やはぎがわ)は、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽(ねば)川」とも呼ばれる。矢作川は、その源を中央アルプス南端の長野県下伊那郡大川入山(標高 1,908m)に発する。大川入山付近を境として北西側は木曽川水系、東側は天竜川水系へと分かれている。

 矢作川は、飯田洞川、名倉川などの支川を合わせて愛知、岐阜県境の山岳地帯を貫流し、平野部で巴川、乙川を合わせて、その後、矢作古川を分派して三河湾に注ぐ。「小原ふれあい公園」の近くを流れる「犬伏川」(いぬぶせがわ)や「川見四季桜の里」の中を流れている「田代川」も矢作川の支川。

三十三観音と二十二夜塔

 恵那地方では、江戸時代の中・後期に観音信仰が盛んになり、西国、坂東、秩父の霊場巡拝が行なわれたそうだ。当時としてはこれらの霊場を巡礼参拝することは、時間的、経済的にも大変なことであった。大野公園の「石造三十三観音」は、西国三十三霊場を巡拝に行けない個人が、自分の屋敷内に建立して祭ったいたものを移築した。(恵那市教育委員会の説明板から抜粋)

 「石造三十三観音」の右手に「二十二夜神」の石塔がある。「三十三体仏」とは関係なさそうだが、月待行事を行った供養の記念として建てた月待塔(つきまちとう)の一つのようだ。月待行事は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜など、「講中」と称する信者たちが月の出を待って集まり、ともに飲食したあと経などを唱え、月を拝み、悪霊を払うという行事だった。

 一般的に「二十二夜」の塔は、旧暦22日の月待ちを記念して建立され、ほとんどは女人講(安産祈願やおしゃべり)や念仏講(高齢者が念仏を唱える)だったそうだ。「二十二夜」と刻まれた文字塔のほか如意輪観音が彫られた塔もある。群馬と埼玉を中心に、東日本に多く分布するという。ここには「二十二夜神」と彫られているので、当時「神」も「仏」も同じ祈りの対象だったのだろうか。

●小原の四季桜

 シキザクラ(四季桜)は、バラ目バラ科サクラ属のサクラ。エドヒガン系の中のコヒガン系の栽培品種で、マメザクラとエドヒガンが交雑した種間雑種で、春と秋から冬にかけての二度開花する二季咲きが最大の特徴だそうだ。最大の特徴は、ジュウガツザクラ、コバザクラ(フユザクラ)、コブクザクラ等の品種と同じく、春と秋から冬にかけて咲く二季咲きであり、広義の冬桜の一つ。

 新芽の時期には葉と一緒に花をつけ、紅葉の時期には葉が落ちるころに花をつける品種で、花は春のほうが大きく、秋は小さめの花を咲かせるという。豊田市小原地区には、約10,000本の四季桜が植えられている。秋の開花の時期には、「小原四季桜まつり」が開催されることで有名。見ごろは10月下旬~12月上旬、最盛期は11月上旬~11月下旬頃。地区内に数カ所あるまつり会場では、出店やイベントも楽しめる。

 この小原のほかの「四季桜」の名所に、朱塗りの鳥居とともに四季桜を観賞できる宮城県塩竈市の志波彦神社と塩竈神社がある。初詣の時期などに開花をしている場合もあるという。京都府立植物園(京都市左京区)では、園内の半木(なからぎ)神社近くに寒咲きの桜を集めたコーナーがあるそうだ。

2024年11月18日 (月)

国立東京博物館「はにわ展」(その2)

 2024年11月15日(金)、国立東京博物館(平成館)の特別展「はにわ」を観覧する。

 本ブログ記事「国立東京博物館「はにわ展」(その1)」の続き。

■第5章 物語をつたえる埴輪

 埴輪は、複数の人物や動物などを組み合わせて、当時の王や王を取り巻く人々の物語を表現しているという。古墳を護る盾持人(たてもちびと)、古墳から邪気を払う相撲の力士など…、多様な人物の役割を表現。また、魂のよりどころとなる神聖な家形埴輪は、古墳の中心施設に置かれ、複数組み合わせることで王の居館を再現したと考えられている。

67~70.「盾持人」群馬県高崎市、鳥取県米子市、群馬県太田市、埼玉県本庄市 5~6世紀

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 盾形の上に人の顔が造形されている。盾は地面に置くタイプのもので、人物の手足は表現されてない。目や耳を大きくしたり、入れ墨を表現したり、あるいは満面の笑みで悪しき者を古墳に寄せ付けない。

71.重要文化財「両面人物」和歌山市 大日山35号墳出土 6世紀 和歌山県教育委員会

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 頭の両側にある2つの顔には、一方に矢じり、他方に矢羽根のような線刻がある。盾持ち人の頭部とみられている。形象埴輪では、現実に存在しないものを作ることはないそうで、両面人物はこの作品が唯一の例だという。

74.「力士」大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

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 力士は大地を踏み、悪霊を鎮める役割がある。片手をあげ四股を踏む直前の動作を表現。現在の力士と同様、ふくよかな体格でまわしを締めている。髷は横一文字で手足に飾り紐や鈴のようなものをつけている。

78.「鷹匠」群馬県太田市 オクマン山古墳出土 6世紀 新田荘歴史資料館保管

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 飼いならした鷹を放って鳥等を捕える鷹狩りの男子。高さは約147cm。左手には尾に鈴を付けた全長15cm程の鷹を止め、巾広の鍔(つば)のある帽子をかぶり、肩まで垂らした美豆良(みずら)を結っている。裾縁に鋸歯文(きょしもん、鋸の歯のように三角形を並べた文様)を施した袴をつけ、腰には大帯をしめている。盛装した人物は高い地位にあったと思われ、鷹狩りが支配者層の狩猟行事であったことを物語る。

79.「琴をひく男子」伝・茨城県桜川市出土 6世紀 東京国立博物館

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 亡き王を弔うために音楽を奏で、踊る様子を再現した埴輪たち。膝の上に乗せた琴を弾く高貴な男子。並んで弦をつま弾く2人の童女(次項の「二人童女」)。邪を払うために一心に舞い踊る者(写真なし)もいる。

80,81.「二人童女」栃木県足利市 熊野古墳出土 6世紀 東京国立博物館(80) 足利市ふるさと学習・資料館保管(81)

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83.重要文化財「ひざまずく男子」(右)群馬県太田市 塚廻り4号墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

84.重要文化財「ひざまずく男子」(左)茨城県桜川市 青木出土 6世紀 大阪歴史博物館保管

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 腕輪、冠、籠手(こて)などを着込んで正装し、両手を前面に揃えて顔を上げてひざまずく男子の埴輪。亡き王の遺徳をたたえ、新たな王へ忠誠を誓うために、体を伏せた所作をとる公式的な礼拝場面を表現。

85.「あぐらの男子」群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

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 次の「正座の女子」と対面しておかれた人物埴輪。呪術的な双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん、古墳時代の装飾文様の1つ)の帽子を被り鋸歯文(きょしもん)の入った服を着る。鈴付大帯を腰に締めるので、この人物は王がモデルかも知れない。

86.「正座の女子」群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

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 下半身には折り目の付いた裳(スカート)をはき正座する。裳をはく女性は大変珍しく、朝鮮半島から伝来した最先端のファッションを着る人物は、高貴な女性であった。

89~94.「家形埴輪」,95.「囲形(かこいがた)埴輪」群馬県伊勢崎市 赤堀茶臼山古墳出土 5世紀 東京国立博物館

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 赤堀茶臼山古墳からは堅魚木(かつおぎ、屋根の上に乗っている丸太のような部材)のある主屋を中心に、倉庫や住居の家形埴輪が発見され、豪族居館を再現している。小さな家は囲形埴輪(左端)の中に入り、水にかかわる重要施設と考えられている。

99.「導水施設形埴輪」大阪府藤井寺市 狼塚古墳出土 5世紀 藤井寺市教育委員会

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 一辺に2個ずつ囲形埴輪を並べた方形区画を構成し、内部に川原石を敷き詰めた導水施設をかたどった。中央に導水管形の土製品が置かれる。聖水の儀礼または遺骸を洗浄Lた施設と考えられている。

100.「埴輪棺」香川県高松市 本堯寺北1号墳出土 4世紀 東京国立博物館

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 埴輪は、棺(ひつぎ)にも用いられている。補強のための帯を巡らせてある。このような専用の棺の他に、円筒埴輪をそのまま転用した棺も見たことがある。

105.「牛形埴輪」(前)大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

108.重要文化財「猪形埴輪」(中)群馬県伊勢崎市 剛志(上武士)天神山古墳出土 6世紀 東京国立博物館

110.「犬形埴輪」(後) 同上

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112.「鹿形埴輪」静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 5世紀 浜松市市民ミュージアム浜北蔵

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 後ろを振り返ったポーズをとる、いわゆる「見返りの鹿」。大きな角を持った牡鹿で、胴部には焼く時に空気を抜く穴がある。鹿の埴輪は犬や人物とセットになって狩猟場面を構成。後世の武士が愛好した鷹狩のように、狩猟は常に権力と結びついていた。

103.「馬形埴輪」(奥前)群馬県前橋市 白藤古墳群V-4号墳出土 6世紀 前橋市粕川歴史民俗資料館保管

101.重要文化財「馬形埴輪」(中)埼玉県熊谷市 上中条出土 6世紀 東京国立博物館

102.「馬形埴輪」(後)愛知県春日井市 味美ニ子山古墳出土 6世紀 春日井市教育委員会

116.「魚形埴輪」(手前)千葉県芝山町 白桝遺跡出土 6世紀 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館保管

115.「鵜形埴輪」(中)群馬県高崎市 保渡田八幡塚古墳出土 5世紀 かみつけの里博物館

107.「水鳥形埴輪」(後)埼玉県行田市 埼玉出土 6世紀 東京国立博物館保管

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 奥の列は、金属製の馬具をまとってハレの場に臨む飾り馬である。胸にはいくつもの馬鐸(鐘)をぶら下げており、口にくわえた轡(くつわ) や背中にぶら下げた杏葉(ぎょうよう、飾り板)には鈴が付いている。

114.重要文化財「翼を広げた鳥形埴輪」和歌山市 大日山35号墳出土 6世紀 和歌山県教育委員会

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118.「乳飲み児を抱く女子」茨城県ひたちなか市 大平古墳群出土 6世紀 ひたちなか市教育委員会

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 乳房にしがみついてお乳を飲む赤ん坊に、手をそえて支える。このようなボーズの埴輪は本品が唯一。大きな髷を結い、耳飾りや首飾りを付けて頰紅を差した柔らかな表情は、子への慈愛に満ちている。

119.「犬猿の円筒埴輪」群馬県前橋市 後二子古墳出土 6世紀 前橋市教育委員会

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 子を負う母親を表現した。犬に追われ樹上に逃げた親子猿が、円筒埴輪に小像で表現されされている珍しい埴輪。

■エピローグ 日本人と埴輪の再会

 古墳時代が終わると埴輪は作られなくなる。江戸時代に入ると考古遺物への関心が高まり、埴輪がふたたび注目を浴びるようになった。著名人が愛蔵した埴輪、著名な版画家が描いた埴輪、埴輪の人気投票でNo.1になった埴輪など、芸術家や一般市民など幅広い層で埴輪が愛されている。ここでは近世以降、現代にいたるまで埴輪がどのように捉えられてきたかについて紹介。

123.「両手を挙げる女子」茨城県水戸市愛宕町出土 6世紀 東京国立博物館

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 島田髷を結い、首飾りを付けてスカート状の広がる服を着た埴輪。下半身には何も装飾がなく、頬紅をさした素朴な愛らしさが魅力。木版画家の斉藤清によって作品「ハニワ」(1952年)のモチーフに採用された。

124.「頭巾をかぶる男子」(左)、125.「首飾をする女子」(右)東京都港区芝 丸山第8号墳出土 6世紀 東京国立博物館

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 東京タワーのそばの芝公園内の古墳から出土した。1916年(大正5)に発見され、東京帝国大学人類学教室が調査した。この調査がきっかけに武蔵野会(現武蔵野文化協会、武蔵野の自然と歴史・文化を研究する地域史研究団体)が設立した。

126.「帽子をかぶる男子」東京都葛飾区柴又 八幡神社古墳出土 6世紀 葛飾区郷土と天文の博物館

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 千葉県北部を中心に分布する下総型の埴輪に属する人物埴輪で、平板な顔、切れ長の目などの特徴がある。出土した際、映画『男はっらいよ』の渥美清が扮する車寅次郎に似ているとして話題を呼んだ。

127.「笑う男子」群馬県藤岡市 下毛田遺跡出土 6世紀 藤岡市教育委員会

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 農道工事中に見つかった埴輪。平成30年度(2018年度)に群馬県が「群馬HANI-1グランプリ」を開催し、埴輪の人気投票を行なったところ100体エントリーした中で本品は見事優勝。ほぼ無名だった埴輪が、一躍注目を省びた。

そのほか、1912年(大正元年)には吉田白嶺作の「武人埴輪模型」が明治天皇陵に埋められたとされる。幕末の孝明天皇陵は円墳、明治天皇陵では埴輪が作られたという。

 「平成館」1階の常設展「考古展示室」を観覧。

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 14:35「平成館」を出て、「本館」の常設展を観覧。15:50「本館」を退出。
  

 博物館の「表慶館」では、「ハローキティ展」が開催中(11月1日2025年2月24日)。こちらは、若い女性で混み合っている。

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 15:55、国立東京博物館を退場。上野恩賜公園の木々は、秋に色付いてきた。

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 公園では、「酒屋角打ちフェス」が開催中(11月15日~17日)。 入場料は、500円。

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 個性的な酒屋が集結、日本酒・焼酎・ワインの飲み歩きやお土産のお酒を購入が出来るそうだ。

 16:05上野駅着。

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 ★ ★ ★

 西都原古墳群のある宮崎県西都市出身の本部マサは、「はにわ製作の先駆者」と評される。幼い頃から出土品に関心があり、女学校の頃から埴輪を模倣して焼くという製作活動を始める。やがて1955年に「本部はにわ製作所」を開業し、土産物として販売される埴輪を多数制作した。古墳時代に祭祀や魔除けなどのため、古墳から出土したという程度しか知らず、模造の埴輪を置物として見たり、お土産として貰ったことがあった。

 しかし近年、古代史に関心を持って博物館・資料館、書籍やネットを見ると、本部の時代より研究が進んでいて、いろいろなことが分かってきた。埴輪は、古代の王や王を取り巻く人々の生活の様子や時代背景を映す鏡であり、王の人生の物語を今日に伝えているドラマだ。

 特別展の開催に合わせて、テレビや新聞なども埴輪をテーマに取り上げている。ちょうど特別展を観覧したこの日の夜、NHKテレビ番組 「チコちゃんに叱られる!」で、埴輪のことを放映していた。「ハニワって何?」という質問に、「魔除け」「お墓の石みたいなもの」「子供が健やかに成長できるように・・・」と答える。チコちゃんは、「ハニワは、王様の大河ドラマ」と答える。

 国立東京博物館の河野正訓主任研究員は「王のやって来たことを再現した大河ドラマ」と解説する。古墳時代の初期、3世紀中頃には円筒埴輪を並べて古墳を取り囲み、現実の世界と聖なる場所を区別する境界線の役割があった。円筒埴輪は壺を載せる台で、一説によると壺に飲食物を盛って邪悪な者をもてなし、お引き取り願うというものであったという。

 その後、王が住んでいてその魂が宿ったという家形埴輪や、王が持っていた持ち物、武力を表わす物などの形象埴輪が王の権力を象徴した。5世紀になると、その権力の幅を広げるために誕生したのが、人物埴輪。狩猟、儀式や祭祀、葬儀の場面など、人物で王が行なってきたことをストーリーにして表現するようになったそうだ。

  
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  「神話のふるさと日向の国ーその1」 2019/05/31投稿
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2024年11月17日 (日)

国立東京博物館「はにわ展」(その1)

 2024年11月15日(金)、国立東京博物館(平成館)の特別展「はにわ」を観覧する。

 12:25、JR上野駅を出て上野恩賜公園から、横断歩道を渡り「国立東京博物館」の正面ゲート。特別展「はにわ」の観覧料は、大人2,100円(本館、東洋館などの常設展も含む)。

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 国立東京博物館の「本館」の前。

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  特別展「はにわ」の会場は、国立東京博物館の一番奥の「平成館」。

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 全国から埴輪が集結した特別展「はにわ」。「平成館」に12:45入館。

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 特別展「はにわ」は、2階、第1・第2会場。

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 埴輪の始まりは、今から1750年ほど前。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝える。「挂甲(けいこう)の武人」(群馬県太田市飯塚町で出土)が1974年の国宝に指定から50年を記念し、会期2024年10月16日(水)~12月8日(日)で特別展が開催中。


■プロローグ 埴輪の世界

 会場に入るとまず、東京国立博物館の代表的な所蔵品のひとつである「踊る人々」が展示。この埴輪は、当博物館が創立150周年を機に文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行い、2024年3月末に修理が完了したもの。

1.「踊る人々」 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 6世紀 東京国立博物館蔵

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 初期の埴輪と思いきや、実は時代が新しく、表現の省略が進んだ姿だそうだ。埴輪がもつ独特な「ゆるさ」を象徴する。王の祭祀に際し、死者の復活を願ってて踊る姿であるとする説のほか、近年は片手を挙げて馬の手綱(たづな)を曳(ひ)く馬子の姿であるとする説が有力となっている。

■第1章 王の登場

 古墳からの副葬品は、王の役割の変化で移り変わった。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割であったので、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割のため、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王(ヤマト王権)から配布された。このほか各時期において、中国大陸や朝鮮半島と交流関係を示す国際色豊かな副葬品も出土している。

11.国宝「金銅製沓」 熊本県和水町 江田船山古墳出土 5~6世紀 東京国立博物館蔵

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 死者のための沓(くつ)で、全長34cm。金銅板を鋲で留めてたもので、朝鮮半島の百済で作られた。

12.国宝「金銅製鈴付大帯」 群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

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 鈴付大帯は石室右側の壁に沿って安置されていたので、死者の頭部に置かれていた。鈴の付いた帯の出土は国内で3例のみで、他の2ヵ所は奈良の藤ノ木古墳と山王金冠塚古墳(前橋)。長さ105cm、幅9.4cmで、20個の鈴が付いている。

 この他、金象嵌銘大刀や神獣鏡、耳飾りなどの展示あり。

■第2章 大王の埴輪
 
 ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒している。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わった。古墳時代前期は奈良盆地に、中期に入ると大阪平野で。倭の五王の陵(みささぎ)としても名高い大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群は、世界文化遺産に登録された。後期には、継体(けいたい)大王(天皇)の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造されている

16.重要文化財「円筒埴輪」 奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 4世紀 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

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 日本最大の埴輪。メスリ山古墳では、後円部中央の竪穴式石室を取り囲むように多数の巨大な円筒埴輪が立てられた。最大のもので、2mを上回るその高さ、大きさもさることながら、厚みは2cmほどしかない。

23.「水鳥形埴輪」 大阪府羽曳野市 誉田御廟山古墳 (応神天皇陵古墳)出土 5世紀 東京国立博物館

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 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は「応神天皇陵」とも呼ばれ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵、大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳。「水鳥形埴輪」の高さは、61.8cm。

25.「家形埴輪」と26.「盾形埴輪」 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館蔵

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 「家形埴輪」は、3つのパーツを組合せてつくられた巨大な家形埴輪(高さ170cmの日本最大)で、屋根の上部と床下の高床部分が別づくり。屋根の上には現代の神社建築にも通じる千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)などの部材がのせられており、大王にふさわしい建物であることがわかる。
 古墳時代の盾は、主に革(かわ)や木などで作られていたが、「盾形埴輪」はそれを粘土でかたどった盾面部分が円筒部分に取り付けられている。

27.「捧げ物をする女子」と28.「挂甲の武人」 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

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 「挂甲の武人」は、今にも刀を抜こうとする瞬間。衝角付冑(しょうかくつきかぶと、前後に少し長い卵形の冑 )をかぶり、籠手(こて)や手甲まで着込んだ完全武装の埴輪である。今城塚古墳では祭祀区を中心に多くの武人の埴輪が置かれ、大王を死後も護る役割が与えられていた。

■第3章 埴輪の造形

 日本列島の幅広い地域で埴輪は作られた。地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いがある。その結果、各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。

29.「特殊器台・特殊壺」(左)岡山県新見市 西江遺跡出土 2〜3世紀 岡山県立博物館保管

30.「朝顔形円筒埴輪」(右)奈良県天理市 東殿塚古墳出土 3〜4世紀 天理市教育委員会 

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 「特殊器台・特殊壺」は、弥生時代後期後葉(2世紀)に吉備地方(岡山県)で生まれ、古墳時代前期には衰退した。華麗な文様を施し赤く塗るなどして装飾性に富んだ筒型・壺型の土器。埋葬祭祀に使用された。これらの土器類が発達・変遷して、円筒埴輪や朝顔形埴輪が生れたと考えられている。

 「朝顔形埴輪」は、広義の円筒埴輪に含まれる。器台の上に壺を載せた形状をしており、上部は口縁部が大きく朝顔の花が開いたようにラッパ状に広がっている。

31.「鰭付楕円筒埴輪」 奈良県天理市 東殿塚古墳出土 3〜4世紀 天理市教育委員会

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 円筒型埴輪に鰭(ひれ)がついたもの。よく見ると前後に船の絵が線刻されている。これらの船の絵は、後に出現する「舟形埴輪」と多くの表現が共通しているという。

33.国宝「円筒埴輪」 奈良県天理市 東大寺山古墳出土 4世紀 東京国立博物館

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 「円筒埴輪」は、墳丘の上に並べられた土管状の形態をしたもので、埴輪の中で一番早く登場した。れとは別種の埴輪として形象埴輪がある。

40.重要文化財「子持家形埴輪」 宮崎県西都市 西都原古墳群出土 5世紀 東京国立博物館

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 中心の大きな家(親)の周りに小さな建物(子)が4つ配置されているのは極めて珍しいという。中央の家は竪穴式住居、周りの建物は高床式建物となっている。

43.模造「船形埴輪」 原品:三重県松阪市宝塚1号墳出土 5世紀 九州国立博物館保管

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 高い側板と波切板で船底を深くし、外洋を航行できる。櫂(オール)受けや隔壁の表現は繊細で、船体中央には権威を象徴する蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘、王のもつ杖とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀(たち)が華々しく飾る。死者を乗せて冥土へ渡る船だろうか。

46.「馬形埴輪」 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県埋蔵文化財センター保管

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 馬は、古墳時代に朝鮮半島から渡来して急速に普及し、農耕や軍事、儀式などに用いられた。馬形埴輪の大半は、数多くの馬具を身に付けた「飾り馬」。この埴輪は、頭部の表現が独特で、被りものか、たてがみを垂らした状態を表したと思われ、全国的に見ても例がない。

47.重要文化財「旗を立てた馬型埴輪」 埼玉県行田市酒巻14号墳出土 6世紀 行田市郷土博物館

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 戦闘用の馬の鞍から筒のような蛇行状の鉄器を付けて、旗竿を装着している。旗を立てた表現は日本で唯一の例となる。

48.重要文化財「天冠をつけた男子」 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 6世紀 磐城高等学校保管

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 美豆良(みずら)を肩まで垂らしたヘアスタイルに、両手を前に捧げあぐらをかいて座る男性。三角形の冠(天冠)のひさしの先端には7つの鈴がゆれている。左腰には、大刀と弓を射る時の防具である鞆(とも)を下げた盛装。衣服や冠、頬紅をつけた端正な顔だち。王の葬祭に際して、威儀を正して霊前に拝礼する若き後継者の姿を表現しているという。

50.「あごひげの男子」 伝・茨城県出土 古墳時代 6世紀 東京国立博物館

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 長い髭を生やし、先の尖った帽子をかぶる。千葉県北部から茨城県南部にかけて見られる地域色豊かな埴輪。高さが173cmもある人物埴輪としては最大級の大きさ。

52.重要文化財「武装石人」 福岡県八女市 鶴見山古墳出土 6世紀 岩戸山歴史文化交流館保管

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 甲冑で身を固める武人で、腕を水平に広げ、近づくものを退ける姿勢をとる。阿蘇溶結凝灰岩で出来た埴輪で、重厚感にあふれる。筑後や熊本県北部の「石人」の分布は、この地域を支配した「筑紫君一族」勢力範囲を示しているという。

■第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間

 埴輪として初めて国宝となった「挂甲の武人」には、同じ工房で作成された可能性も指摘されるほど、兄弟のようによく似た埴輪が4体がある。そのうちの1体は、現在アメリカのシアトル美術館が所蔵しており、今回5体の「挂甲の武人」を史上初めて一堂に集めて展示。

55.国宝「挂甲の武人」(左) 群馬県太田市飯塚町出土 6世紀 東京国立博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

61.彩色復元「挂甲の武人」(右) 製作:2023年 文化財活用センター 原品は、上記の55.

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 国宝「挂甲の武人」には、表面に色が塗られていた痕跡が各所に残っている。2017(平成29)年~2019(平成31)年に実施した解体修理に際し、詳細な分析を行った結果、白、赤、灰の3色が全体に塗り分けられていたことがわかった。このたび実物大で彩色復元を行い、製作当時の姿を展示する。

56.重要文化財「挂甲の武人」(左) 群馬県太田市成塚町出土 6世紀 (公財)相川考古館蔵

57.重要文化財「挂甲の武人」(右) 群馬県太田市世良田町出土 6世紀 天理大学附属天理参考館蔵

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58.「挂甲の武人」(左) 群馬県伊勢崎市安堀町出土 6世紀 千葉・国立歴史民俗博物館蔵

59.「挂甲の武人」(右) 群馬県太田市出土 6世紀 アメリカ・シアトル美術館蔵

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60.国宝「挂甲の武人」 群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

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 2020年(令和2年)に指定されたもうひとつの国宝「挂甲の武人」。突起の付いた特徴的な冑をかぶり、左手で弓を持ちう右手は大刀の柄頭に触れている。甲冑を着込んだこの武人は、身なりから被葬者自身を表わした可能性もあるという。また背中側には、完全には残っていないが靫(ゆぎ)という矢の入れ物が付いていたと考えられ、復元されている。

 この後、■第5章 物語をつたえる埴輪 以降は、本ブログ記事「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 埴輪の最高傑作「挂甲の武人」(群馬県太田市飯塚町出土)は、1958年(昭和33年)重要文化財に指定された後、1974年に埴輪で初めて国宝に指定された。しかし、同じ工房で製作されたと考えられ、「きょうだい」と称される4体が国内、アメリカに存在していた。今回、初めて5体の「挂甲の武人」が勢ぞろいした。今回の特別展の目玉展示である。

 「挂甲の武人」は、小札(こざね)と呼ばれる小札状の鉄板を重ねた甲(よろい)を身に着け、左手に弓、右手に大刀を持つ。背負っている靫(ゆぎ)には矢を入れている。「挂甲の武人」の埴輪のほとんどは、他の埴輪に比べて顔以外は写実的な作りをしており、不思議に思っていた。最近、身分の高い権力者か埋葬された人物がモデルとされているためだと知り納得できた。

 2020年(令和2年)に群馬県高崎市の綿貫観音山古墳出土の埴輪群が国宝となるまでは、群馬県太田市飯塚町出土の「挂甲の武人」は、唯一の国宝埴輪であった。群馬は「埴輪王国」と呼ばれ、古墳時代の東国文化の中心地であったことが、改めて認識した。

2024年10月27日 (日)

野火止用水を歩く

 2024年10月24日(木)、埼玉県新座市の「野火止用水」に沿って約10Kmのコースを歩く。


 東武東上線「志木駅」南口を10:30出発。

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 鉄腕アトムがコースを案内。

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 駅から住宅街を通る「野火止用水」は、暗渠(あんきょ)。

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 やがて用水路が現れるが、水量は少ない。

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 用水路に架かる小橋を渡ると、そこは「野火止用水公園」。

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 「野火止用水公園」を通り抜け、川越街道(国道254号線)に架かる歩道橋(野火止用水緑道橋)を渡る。

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 歩道橋を渡るとすぐに「野火止公園」。公園の前に立つ「埼玉県指定史跡 野火止用水」の石碑には冒頭、次のような内容の和歌がある。

 「聞かでしも 其の名はしるし 玉河の 流れの末の いとど澄めれば」

 1811年(文化8)、吉田藩主・松平信順(のぶより、松平信綱の嫡流で8代目)は信綱の150回忌に墓所のある「平林寺」を訪ね、著作「野火止紀行」の中に、「野火止用水」の清らかな流れを詠んでいる。「玉河」は「玉川」、つまり「多摩川」のこと。

 

 

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 吉田藩(愛知県豊橋市)は7万石を領する三河最大の藩であった。東海道の要衝にあったため、譜代大名が配置された。江戸時代後期の約140年間は、大河内松平家が7万石で治めた。同家は松平信綱を祖とする譜代大名で、代々の藩主は伊豆守を名乗った。信綱をはじめ、信祝(のぶとき)、信明(のぶあきら)、信順の四人が老中を務め、最後の藩主信古(のぶひさ)も幕末の混乱期に大阪城代を務めるなど、譜代大名としての重責を担った。 

 子どもの遊具がある「野火止公園」で、11:50~12:25休憩・昼食。

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 「野火止公園」の脇を流れる「野火止用水」。

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 「野火止用水」に沿って「野火止用水緑道」を歩く。

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 「野火止緑道」は、左手の広大な「平林寺」の境内林と「野火止用水」が一体となっている武蔵野の風情を色濃く残す遊歩道として、多くの市民やハイカーに親しまれている。

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 「平林寺」の広大な境内林が終わり「陣屋通り」に架かる「伊豆殿橋」。

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 やがて「野火止用水」は、フェンスの下を走る関越自動車道の上をまたぐ「掛樋(かけひ、かけとい)」と呼ばれる水道橋を流れる。

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 ここから「本多緑道」。「野火止用水」の清流に沿って春には数多くの桜が咲き乱れるという。

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 「本多緑道」のあたりの「野火止用水」は、昔ながらの素掘りで築かれ、春になると山桜やソメイヨシノなどの桜の名所としても知られている。また緑道の右手一帯には「本多の森」が広がる。その一角の「本多の森お花畑」には、夏にはヒマワリ、春には菜の花が咲き、自然を満喫できる遊歩道となっている。更に森の先には、スポーツ施設の「新座市総合運動公園」がある。森の中のマレットゴルフ場で休憩。

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 13:35「野火止用水」分岐点。左は本流、右の「平林寺堀」の方向に折り返す。

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 「平林寺」の境内に向かって流れる「平林寺堀」に沿って、「野火止史跡公園」の細い道を歩く。

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 史跡公園の石碑には「平林寺林泉二ソソグ野火止用水…史跡景観保存地域ニ依り大切…管理スベキ事 昭和十九年二月 埼玉縣」とある 。よく読めないが、太平洋戦争中の1944年(昭和19)に埼玉県が建てたもの。

 「西屋敷通り」を歩くと、右手の歩道と用水は道路よりも高い所を流れている。地形の高低差の関係で「築樋(つきどい)」と呼ばれる土手を築いて、その上に水路を開削するという工事が約800m続いている。写真は、Googleマップより転載。

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 このあたりは、用水路を道路が横切るたびに水は道路の下をくぐって、また高い位置に続く。また水路が道路右側から左側に、道路をくぐって移動する。このようなサイフォンの原理で水を通しているのは、明治以降の工事による。

 関越道を越えた用水は、バス通りから離れて「平林寺」に向かう。

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 用水からしばし離れて 「新座市保健センター」の建物の中にある「新座市立歴史民俗資料館」(愛称:れきしてらす)に寄る 。14:00~14:30、見学・休憩。

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 「歴史民俗資料館」は、新座市の歴史、民俗、考古などに関する資料の収集や保存、展示する施設。片山一丁目にあった旧資料館は閉館し、2023年(令和5年)4月に「保健センター」との複合施設として野火止二丁目に開館した。

 ワンフロアーに原始時代の石器・土器から始まり、古代・中世を経て、近世・江戸時代に開削された「野火止用水」に関わる新田開発関連資料などの各種資料や、昭和30年代まで新座の中心産業であった農業に関連した生産・生活用品、伝統芸能の「中野の獅子舞」の資料などの民俗資料が展示。

 臨済宗「平林寺」の総門前を歩く。入山せず。

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 「平林寺」は、南北朝時代の1375年(永和元)、現在のさいたま市岩槻区大字平林寺に創建。1663年(寛文3) 川越藩主・松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止台地に移転した。約40haの広大な境内を有し、武蔵野の面影を残す雑木林として、1968年(昭和43)に国の天然記念物に指定。松平信綱夫妻墓(埼玉県指定史跡)がある。

 「平林寺境内林」の国の天然記念物のほか、「睡足軒(すいそくけん) 」(国の登録有形文化財)、1,000坪の広さを有する池泉廻遊式庭園 の「平林寺林泉境内」(県指定名勝)、総門、山門、仏殿、中門などが県指定有形文化財に指定されている。「平林寺」の紅葉は有名で、赤、黄、緑の彩りの美しさが特徴。「平林寺」の総門前から「平林寺大門通り」を北へ60m程先、道路の対面に「睡足軒の森」がある。

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 「睡足軒の森」は「平林寺境内林」の一画で、武蔵野の雑木林の面影を残す。2002年(平成14)「平林寺」から新座市へ無償貸与され、一般に開放されている。 園内には、「睡足軒」(下の写真)がある。松永安左エ門(松永耳庵)が、もともと飛騨高山周辺に建てられていた江戸後期の民家を1938年(昭和13)に当地へ移築し草庵とした。

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 安左エ門は、長崎県壱岐出身。明治末期から昭和にかけて長く電力業界で活動した実業家で、茶人としても著名。「睡足軒」に親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しんでいた。

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 新座市役所前の信号を左折、「こもれび通り」「川越街道」を経て、JR武蔵野線「新座駅」南口に15:35到着。

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 ★ ★ ★

●野火止用水

 「野火止」という地名は、その昔、焼き畑が行われた頃にその火が人家に及ばないように、塚や堤を築いて止めた「野火止塚」に由来し、「のびどめ」または「のびとめ」と読む。

 「野火止用水」は、1655年(承応4年)に川越藩主・松平伊豆守信綱が、江戸の上水道である「玉川上水」を完成させた功績により許可を得て、家臣の安松金右衛門に命じて武蔵野開発の一環として「玉川上水」(東京都小平市)に7分、「野火止用水」3分の割合で分水した。用水の開削は、野火止台地を経て新河岸川に至るまで全長24Km。工期40日、費用は3000両。野火止の開拓民や移転してきた「平林寺」や「陣屋」等の貴重な飲料水・生活水として使われた。

 開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、灌漑用水として大規模な新田開発も行った。「野火止用水」の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、信綱の官位である「伊豆守」にあやかって「伊豆殿堀」と呼ぶようになったという。

 なお、松平信綱の孫・松平信輝が下総古河に移り、替わって川越城に入った柳沢吉保がその後甲府城へ移ると、信綱の弟で高崎城主松平輝貞が、周辺の知行と近くの菩提寺「平林寺」を守るために、1704年(宝永元年)が「陣屋」を構え、家臣を住まわせたという。「陣屋堀」跡は「平林寺堀」と同様、「野火止史跡公園」から分水し現在の「水道道路」を通って「陣屋バス停」付近に達していた。

 太平洋戦争中の1944(昭和19)年には、「史蹟名勝天然記念物法」に基づき埼玉県指定史跡となっている。しかし、戦後の1949(昭和24)年頃から生活様式が変化すると、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になった。特に1963(昭和38)年頃から宅地化が進み、水質汚染が激しくなる。さらに1964年(昭和39)関東は大干ばつに見舞われ、東京が水不足で「野火止用水」への分水が中止された。

 写真は、新座市教育委員会のパンフ「のびどめ用水を歩く」から転載。

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 1966(昭和41)年、再度通水されるようになるが水量が制限、水質汚染は改善されず、1973(昭和48)年には東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止。次第に用水路には蓋がされ、暗渠化されていくようになる。

 しかし、歴史的にも貴重な「野火止用水」をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都は1974(昭和49)年には都内の「野火止用水」とその周辺の緑地が「東京都における自然の保護と回復に関する条例」に基づき「野火止用水歴史環境保全地域」に指定、保護されることとなった。下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施した。

 埼玉県と新座市は、文化的業績の大きい「野火止用水」を滅ぼしてはならないと「野火止用水復原対策基本計画」を策定して、用水路の浚渫(しゅんせつ)や氾濫防止のための流末処理対策を実施。1984(昭和59)年には「野火止用水」に流水がよみがえり、現在に至っている。新座市では「野火止用水クリーンキャンペーン」として、例年8月に学校、市民や団体による清掃活動を行い、「野火止用水」への愛護啓発・世代間交流・ボランティアのネットワーク拡大を図る活動も行っているという。

 「野火止用水」は、「野火止用水史跡公園」(新座市本多1丁目)で本流と「平林寺」へ分岐する「平林寺堀」と「陣屋堀」(現在は廃止)に分かれる。また現在は、関越自動車道を「掛樋(かけひ)」で越えている。新座市野火止付近から志木駅周辺は、暗渠となっている。
 

●松平信綱

 源氏の流れを引くという三河国大河内郷の大河内氏は、大河内信貞のとき徳川家康に仕えた。その子は秀綱。孫の正綱(秀綱の次男)は、家康の命で徳川氏一族の長沢松平家(松平氏の庶流)の養子となって松平姓を与えられ、以後は大河内松平家となった。

 信綱は、大河内秀綱の長男で家康の家臣・大河内久綱の長男として、1596(慶長元)年に武蔵国に生まれた。6歳にて自ら望んで叔父(久綱の弟)・松平正綱の養子となり、江戸幕府第3代将軍となる家光の小姓として出仕、そのまま老中まで登り詰めた。家光亡き後も第4代将軍家綱の老中として留任、幕藩体制の完成に大きく貢献した。幕政下では「島原の乱」鎮圧、「明暦の大火」処理、また第5代川越藩主として「玉川上水」「野火止用水」の掘削等を行い、数々の優れた手腕は「知恵伊豆」と称えられた。

 信綱の遺言により、岩槻にあった「平林寺」は野火止の地に移され、信綱の興した大河内松平家の祖廟となった。廟所は約3,000坪。信綱夫妻の墓(埼玉県指定史跡)を含む160基余りの一族の墓石が、この地を見守るように並んでいる。写真は、2014年11月26日に筆者撮影の松平信綱夫妻の墓。

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 信綱は、「島原の乱」の幕府軍総大将として鎮圧の勲功を賞され、1639年(寛永16)1月には3万石加増の6万石で、川越藩に移封された。更に信綱は、城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、「玉川上水」や「野火止用水」の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。また、キリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行い、オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。

 1638年(寛永15)11月に土井利勝と酒井忠勝が名誉職である大老に就任すると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。1639年(寛永16)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。1651年(慶安4年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、1657年(明暦3)1月の明暦の大火などを対応。1662年(寛文2)3月に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。

 松平信綱とその子孫は代々「松平伊豆守」を名乗り、下総古河藩・三河吉田藩と移りながら老中を何人か輩出した。信綱の五男・信興は下総土浦藩に封ぜられ、養子輝貞からは上野高崎藩主として幕末に至った

 

●鉄腕アトム

 手塚治虫の「手塚プロダクション」は1988年(昭和63)、新座市にアニメ制作「新座スタジオ」を建て、本社の高田馬場から制作部門が 引っ越して来た。手塚の自宅は東久留米市だが、距離が近くて環境の良い新座は、「平林寺境内林」や近郊の雑木林を大変気に入っていたという。スタジオを建てた翌年の1989年(平成元)、手塚は60歳で早世した。

 新座市は2003年(平成15)、鉄腕アトムを特別住民に登録している。また、JR武蔵野線「新座駅」の発車メロディは、山手線「高田馬場駅」と同様に音色は異なるが、テレビアニメ『鉄腕アトム』の主題歌が使われている。

2024年8月13日 (火)

夏の赤城自然園

 1924年8月9日(金)、群馬県の赤城山中腹にある「赤城自然園」(渋川市)のほか、「丹生ひまわり畑」(富岡市)と「こんにゃくパーク」(甘楽町)に行く。

 

 このところ天候不順で、数日前から雨の予報で心配したが、夜のうちは雨だったが朝には止んで曇りから晴れ。

 小型バスに9人が同乗し、8:00出発。関越道の赤城ICを下りて、渋川市赤城町の「赤城自然園」には9:05着。

 

●赤城自然園 9:05~11:15

 入園料1,000円(セゾンカードの提示で500円)。標高600~700mにある夏の「赤城自然園」は、木漏れ日や吹き抜ける風が爽やか。

 「赤城自然園」には過去数度ほど訪れているが、 今回は「自然生態園」の北東の端にある「レンゲショウマの苑」に初めて向かう。

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 標高675mを示す「三角点」を通過。

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 「ミズスマシの池」は、周囲の木々の緑を移す湖面が涼しげ。

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 「レンゲショウマの苑」へ向かう遊歩道の途中でも、レンゲショウマがチラホラ咲いている。

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 「レンゲショウマの苑」は 園内でも最も標高の高い場所に位置し、約100mにわたって遊歩道沿いに森の妖精・レンゲショウマが群生、ちょうど満開。

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 11:15「赤城自然園」を出発、伊香保(渋川市伊香保町)に移動。

●山一屋 11:50~12:45

 予約してあった県道15号線沿いの手打うどん店「山一屋」(北群馬郡吉岡町)で昼食。

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 はちみつを練りこんだオリジナル麺の「山一屋」。水沢観音の「水沢うどん街道」からは、南に2.5Kmほど離れたところにあり、「水沢うどん」を名乗っていないが、オリジナルのツヤツヤ、ツルツル麺のうどん店。もりうどんと舞茸天盛り合わせを注文。麺も天ぷらもボリューム満点。食べきれず持ち帰る人も。


丹生ひまわり畑 14:05~14:25

 伊香保町から安中市を経て、富岡市丹生(にゅう)地区の「丹生湖」を見下ろす小高い丘(およそ2.5ヘクタール) にある「丹生ひまわり畑」へ。入園料、駐車料は無料。

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 例年7月下旬から8月中旬まで、約11万本を超えるひまわりが咲き誇る。 

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こんにゃくパーク 14:55~15:40

 「こんやくパーク」(甘楽郡甘楽町)で、こんにゃくの無料バイキング、買い物や工場見学を楽しむ。入場無料。

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 こんにゃくを様々なアレンジ料理で楽しめる無料バイキング。スイーツバイキングコーナーもある。

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 おみやげゾーンもすごく混み合っている。「こんにゃく詰め放題」、「ゼリー詰め放題」が毎日開催。

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 工場見学では、「板こんにゃく製造ライン」、「しらたき製造ライン」、「ゼリー製造ライン」の3つの工程を2階から見学できる。

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 予定通りのスケジュールで、16:40出発地に帰着。

 良い天気だったが、到着間近になって雨が降りそうな雲行き。出発地に到着直後に雨が降り出し、自宅への帰りの路線バスの中では豪雨。

 バス停から自宅まで、傘を差してもビショ濡れになった。

 

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 「秋の赤城自然」 2022/11/27投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-5adad6.html

 「初夏の赤城自然園」 2019/06/21投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-7a81a6.html

 

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●水沢うどん

 水沢うどんは、渋川市伊香保町の水沢付近で名物料理とされるうどん。一説にによれば、「讃岐うどん」(香川県)、「稲庭うどん」(秋田県)と並んで、「日本三大うどん」の一つとされる。「水沢うどん」は、400年余り前に、「水沢観音」(水沢寺)付近で参詣客向けに手打ちうどんが振る舞われたのが起源で、今でも小麦粉、塩、水沢の水だけを使い、こね、踏み、寝かしの後、麺に切って干す、といった伝統手法で作られる。

 麺は若干細めで、コシと弾力があり、ところどころ透き通るツルツルした白い麺。冷たいざるうどんで提供される場合が多い。つけ汁は、しょうゆだれやゴマだれなど、店によって異なる。麺は、お土産用として販売されている。また、パック詰めの冷蔵生麺が、群馬や関東一帯の一般的なスーパーでも販売されているそうだ。

 「水沢うどん商標登録店組合」に、水沢寺近くの「水沢うどん街道」周辺の13軒の店が加盟している。

2024年7月25日 (木)

八島湿原と車山肩

 2024年7月22日(月)、長野県下諏訪町、諏訪市の「八島湿原」を散策し「車山肩」に寄る。

 「八島湿原」は、長野県のほぼ中央に位置する「八ヶ岳中信高原国定公園」中部の「霧ヶ峰」高原の北西部に位置する標高約1632mの高層湿原。湿原の所在地は諏訪市及び下諏訪町にまたがる。苔や湿地の生き物の宝庫で、総面積43.2ヘクタールの高層湿原。国の天然記念物・文化財に指定されている。

 

 上信越道から中部横断道の佐久南ICを9:45に下り、国道142号線(一部国道254号と重複)を西に向かって走る。

 10:05、立科町の道の駅「女神の里たてしな」で休憩。販売所「農ん喜村(のんきむら)」は、新鮮なトウモロコシなど地元産の野菜、立科町産の加工食品、オリジナル商品も並ぶ。

 道の駅を出て35分後、国道142号線(旧中山道)を南西に進むと「通行止め」の看板あり。長和町の大和橋Y字路を左に曲がり、「大門街道」(国道152号線)の諏訪・白樺湖方面に迂回。大門峠で右折して 霧ケ峰の表示のある「ビーナスライン」(県道40号線)に入る。「ビーナスライン」のドライブルートは、高度を上げながら開放感あふれる高原のすばらしい絶景が広がる。

 11:15、「白樺湖展望台駐車場」で休憩。展望台から「白樺湖」と「蓼科山」を望む。

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 「蓼科山」は、八ヶ岳連峰の北端に位置する標高2,531m火山。コニーデと呼ばれる台地状の火山に、美しい円錐型のトロイデを重ねた複式火山。別名「女の神山(めのかみやま) 」や「諏訪富士」の別名を持つ

 「八ヶ岳連峰」の全容を身近に展望。

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 県道194号線の「ビーナスライン」を経て、11:40「八島湿原」の駐車場(普通乗用車約100台、無料)に到着。平日だが混んでいて、3、4台の車列に並んで何とか駐車できた。

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 左手の建物が、下諏訪町立の「八島ビジターセンターあざみ館」。右手は、みやげ・宿泊・食事の「八島山荘」。

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 12:05、ビジネスセンターを見学。「八島湿原」のジオラマ、断面模型による形成の成り立ち、高原に生きる動物や鳥たちや亜高山植物を紹介。「霧ヶ峰高原」一帯には、人が居住していたとされいて旧石器時代の遺跡が多く、黒曜石の石器が大量出土する国内有数の黒曜石の産地。また2階では四季折々の自然の姿をビデオで放映。

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 12:15、ビジターセンターを出て、「ビーナスライン」(県道194号線)の下をくぐり、「八島湿原」の入口「八島湿原展望台」広場へ。

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 広場の端の木陰で昼食。

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 広場には、『あざみの歌』の歌碑があった。「山には山の愁いあり 海には海のかなしみや」の『あざみの歌』は、1949年(昭和24年)にNHKラジオ歌謡で発表。作曲は『さくら貝の歌』で知られる八洲秀章。作詞は『さよならはダンスのあとに』、『下町の太陽』などを手掛けた横井弘。

 横井は、戦後に転居した長野県下諏訪で、自然散策をしながら15編余りの詩をしたためた。野に咲くアザミの花にみずから思い抱く理想の女性の姿をだぶらせて綴った、最も気に入った一編が「八島湿原」で書かれた『あざみの歌』だったという。

 広場から「八島湿原」を展望。

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 12:45、「八島湿原展望台」広場を出発、木道を歩く。1周約3.7㎞。高低差もあまりなく、2/3は木道。途中には休憩所もあり、90分くらいで散策が楽しめる。

 時計廻りで木道を歩き始めてすぐの「八島ヶ池」。

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 正面の山は「車山」、気象レーダーが小さく見える。

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 13:05、「鬼ケ泉水(おにがせんすい)」の近くで、休憩。

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 ニッコウキスゲ、アヤメ、ノアザミ、シシウド、コバイケイソウの花もチラホラ咲いている。 ここのニッコウキスゲは、盛りを過ぎた感じ。

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 「八島湿原」の中で一番大きい「鎌ケ池」。

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 この木道の先は、現在休止中の「奥霧小屋」と「奥霧キャンプ場」、トイレの建物がある。

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 13:15、トイレ休憩。トイレはバイオトイレで、チップ制。

 近くに『山小舎の灯』の歌碑(1988年建立)があった。この歌は戦後まもない1947年(昭和22年)に発表された。作詩、作曲したのは米山正夫。歌ったのは近江俊郎。ラジオから流れたその曲は、たちまち知れ渡りヒットした。

 『山小舎の灯』の歌詞では、「暮れゆくは白馬か穂高は茜(あかね)よ」のように、北アルプスの山々と山小屋の情景が歌いこまれている。しかし「八島湿原」には歌の舞台ではなく、モデルになった山小屋もない。どのような経緯でこの地に歌碑が設置されたのか不明だそうだ。

 遊歩道には「鹿よけのネット」が張られえており、その出入口が2個所ほどある。

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 しばらく林の中の木道を歩く。

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 再び視界が開け、湿原を一望。

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 14:00、ハート型の湿原を一周して、広場に戻る。14:15、駐車場を出発。

 「ビーナスライン」(県道192号線)を北上して和田峠の方へ向かおうとしたが、「通行止め」の看板、来た道を戻る。和田峠トンルのある国道142号の旧道区間で道路路肩の崩落が確認されたため、この旧道区間が全面通行止めとなっているらしい。 

 二度の迂回のたため1時間近くのロス。次に予定していた「権現の湯」(立科町)で汗を流すのは、割愛。

 14:45、「ビーナスライン」沿いの「車山肩」の駐車場(180台、無料、一部有料)に車を駐める。ちょうどニッコウキスゲが満開。

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 「車山」の山頂に設置された「車山気象レーダー観測所」が見える。

 ここはニッコウキスゲが群生しているが、ロープが張られ、電気柵が設置されていて近づいて撮影できないのが残念。

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 「車山」は、長野県茅野市と諏訪市の市境に位置する「霧ヶ峰」の最高峰、標高は1925mで、日本百名山。諏訪市にある「車山肩」は、「車山」への登山口で標高1,800m。バス停や駐車場がある。ここから「車山」山頂までゆっくり歩いて45分ほど。13年前に登ったことがある。

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 丘の上から、車山と反対方向(西の方角)を望む。

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 車山肩の売店のソフトクリームは人気があるそうで、買って食べたがちょと高い(460円)。

 15:25、「車山肩」を出発、中部横断道へ。途中上信越道の横川サービスエリア夕食用の「峠の釜めし」(1,300円)を購入。釜飯は、買うたびに値上がりしている。

 18:15、出発地に帰着。18:30帰宅。

 天気に恵まれ、快適な高原のドライブと涼しい湿原の散策、ニッコウキスゲを楽しめた。

  

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 「八ヶ岳北横岳・霧ヶ峰車山高原」  2011年9月26日 (月)投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/20110723-24-5f5.html

 

 ★ ★ ★

●ビーナスライン

 「ビーナスライン」は、茅野市街から蓼科湖、白樺湖、車山高原を経由して美ヶ原に至る観光道路。戦時中は国鉄茅野駅から郊外の花蒔(はなまき)という駅まで鉄道が敷かれていて、花蒔よりさらに山奥の鉄山から鉄鉱石を掘り出して、茅野駅を経由して神奈川県川崎にある製鉄所に運ばれていた。その鉄道は、1944年(昭和19)年に運用を始めたものの翌年の終戦と共に廃止されたそうだ。

 その線路跡に作った道路が「ビーナスライン」で、まず1963年(昭和38年)に茅野市街から蓼科湖までの道路が開通、その後順次路線が延びて、1981年(昭和56年)に「美ヶ原」まで全線が開通。開通当初は建設費用を賄うため有料道路で、7~8ヶ所の料金所があった。「ビーナスライン」の名前の由来は1968年(昭和43)年、有料道路が大門から強清水まで開通した際に「美ヶ原」までの有料道路全線の愛称を募集、その中から「ビーナスライン」が選ばれた。

 「ビーナスライン」から望める「蓼科山」を、歌人・伊藤左千夫が「信濃には八十の群山ありといへど女の神山の蓼科われは」とうたっている女の神を「ビーナス」と呼びかえ、「美ヶ原」の「美」も「ビーナス」に通じるものとして命名者の理由にあったそうだ。

 なお、立科町のあった道の駅「女神の里たてしな」は、町のシンボルである「蓼科山」が円錐形で優雅な山容から「女の神山」と呼ばれ、水面に映す高原の湖で神秘的な「女神湖」があることから名付けられたという。

●八島湿原と八島ヶ原湿原

 「八島ヶ原湿原」と「八島湿原」は、同じ場所を指している。正式名称は「八島ヶ原湿原」、一般的には「八島湿原」とも呼ばれている。湿原は面積が43.2ha、泥炭層の厚さは約8.05m。12,000年前に誕生した高層湿原であり、日本の高層湿原の南限にあたる。

 「霧ヶ峰」には、「八島ヶ原湿原」、「車山湿原」、「踊場湿原(池のくるみ)」の3つの湿原があり、それらは1939年(昭和14年)に国の天然記念物として個別に指定された。1960年(昭和35年)に「八島湿原」の西半分の旧御料地を加え、個別に指定されていた3つの天然記念物は1件にまとめられ、指定名称が「霧ヶ峰湿原植物群落」となった。

 高層湿原の始まりは、湖沼。周囲から土砂の流入、水生植物の繁茂などが起き次第に埋められていく。標高1,000m以上の場所や高緯度地方では寒冷な気候のため、植物は腐敗・分解がしにくく泥炭となって堆積。堆積物の溜まった湖沼に植物が侵入し、湖沼はやがて湿原に変わる。この段階の湿原を低層湿原という。低層湿原は、湿原の表面まで冠水。湿原の水は地下水と雨水などにより供給され比較的富栄養性である。

 しかし、長い年月がたつにつれて湿原は泥炭が蓄積され周囲よりも高くなる。そのため、湿原は地下水からの供給が行われず雨水のみで維持されるようになり貧栄養。高層湿原に生育している植物は、主にミズゴケ。これが、湿原全体を時計皿をふせたように盛り上げていく。このようにしてできた湿原を高層湿原と呼ぶ。

 1年に約1㎜ずつ成長している「八島ヶ原湿原」。12,000年の歴史を持つ湿原の主役ともいえる18種ものミズゴケをはじめ、シュレーゲルアオガエルなどの湿地の生き物や各種の亜高山植物が多く生息していている。湿原の主役ともいえるミズゴケの種類は18種にのぼり、「八島ヶ原湿原」の約490倍もある日本最大級の「釧路湿原」とほぼ肩を並べているという。

●旧御射山(もとみさやま)遺跡

 「八島湿原」を時計回りに2/3ほど回った南東の湿原の外れに、鎌倉時代の「旧御射山遺跡」(南北370m、東西270m)がある。この地は諏訪信仰の要地で、ここ「旧御射山遺跡」は江戸初期まで「諏訪大社下社」の狩猟神事「御射山(みさやま)祭」が行われた。「旧御射山(もとみさやま)神社」は、「諏訪大社」下社の奥宮。

 遺跡では、鎌倉時代の素焼き土器(かわらけ=神事等に用いる使い捨ての土器)や、陶器・古銭等が多数出土している。「諏訪大明神」(軍神)を祀る「御射山祭」では、諏訪・甲斐を中心に関東一円から武将や幕府重臣が集い、流鏑馬(やぶさめ)、草鹿(くさじし)、 武者競馬や相撲などの奉納試合を盛大に行ったそうだ。(草鹿=鹿の形をした的に離れたところから弓を引いて腕前を競う)

 諏訪大社の最古の縁起絵巻『諏訪大明神画詞』にあるように、中央の祭場と競技場を取り囲んで丘を削った階段状の桟敷が設けられており、10万人とも言われる人数が見物に集まったとされる。鎌倉・室町時代には、神官や武将たちがここに小屋を建てて5日間籠り、農作物の豊作を祈願したという。

2024年7月 3日 (水)

八王子城跡ー居館地区

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 本ブログ記事「八王子博物館」の続き。

 「八王子博物館」を出て、道の駅「八王子滝山」で昼食。予定していた「滝山城趾」の散策は、雨が強くなってきたため中止。

 12:30道の駅を出て、13:00「八王子城跡ガイダンス施設」の駐車場へ入る。

 

●八王子城跡ガイダンス施設 13:05~15:30

 「八王子城」の歴史や城主・北条氏照について、映像やパネルで紹介。

 13:05施設に入館(無料)し、ボランティアガイドと合流。施設内の展示物を案内してもらう。

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 発掘調査で「御主殿跡」から出土したベネチア産のレースガラス瓶(複製)。どのように持ち込まれたか分からないが、氏照が愛用した物か?

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 「御主殿」の入口「虎口」とその周辺で多数見つかった土製の玉。近年の研究で「まきびし」であることが分かった。

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 「八王子城跡」から出土した中国・明からの輸入磁器と国産陶器。

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 「滝山城」のジオラマ。

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 「八王子城」のジオラマ。

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 13:25~15:05、屋外に出て、雨の中の「八王子城跡」をガイドの案内で散策。

 駐車場から一段上がった所に「屋外模型広場」。東屋の下に「八王子城」の地形模型がある。

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 中央の赤い札が、現在地。

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 右上に「本丸」などのある山頂付近。下の谷の部分に城主の居館「御主殿」がある。

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 「屋外模型広場」を出て、この道を直進し、急な山道を登ると「金子曲輪」を経由して山頂付近にある「本丸」に至る。

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 本日は雨ののため「本丸」のある「要害地区」へは中止し、「御主殿」跡がある道路左手の「居館地区」に向かう。

 「アシダ曲輪」跡は、私有地につき出入り禁止。ボランティアガイドと一緒でなければ見学できない。

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 城山(しろやま)川に沿って、細い山道を進む。

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 城山川を渡る。

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 「大手門前広場」。発掘調査で、この右手の階段の先に「大手門」があったことが確認されている。

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 当時、「御主殿」へ入る道として使われていた「古道」(大手道)の堀切に架かる木橋が見える。

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 「古道」を登ると復元した大きな「曳橋」(ひきばし)が見えてくる。

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 「曳橋」の下に見える山道は、江戸時代に作られた林道らしい。

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 「曳橋」の先には、何段かの石積みがあり「御主殿」至る「虎口」が見える。しかし当時こんな大きな「曳橋」が実際あったのだったのだろうか、疑問が残る。

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 「御主殿」の入口である「虎口」(こぐち)の石垣や石畳は、当時のものをそのまま利用し復元されている。石段の高さが高く、奥行きが広くて、とても登りずらい。

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 階段の踊り場の部分には、「櫓門」があったという。

 「虎口」は鉤型に曲がって、「冠木門」がある。出典:ウキメディア・コモンズ

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 「冠木門」をくぐると、広い曲輪に「御主殿」跡のレプリカの礎石。発掘された実際の礎石は、保存のため埋め戻されているという。

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 「御主殿」は、城主の北条氏照が居住した館。落城後は幕府直轄領や明治以降は国有林だったので、当時のままの状態で残っていたという。発掘調査の結果、多数の遺物が出土した。この曲輪から、茶道具や当時珍しかったベネチア産のレースガラス器の破片が見つかっている。

 要人の接待、宴会などを行った「会所」跡の床を復元。

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 「会所」から右上に入口の「冠木門」が見える。

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 「御主殿」の西側、「会所」の南側にある池や枯山水のある庭園の跡。

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 会所の南側にあるスペースは能舞台の跡か? 手前は敷石の通路。

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 「御主殿」跡を出て、城山川の「御主殿の滝」は、雨天のためすごい水量。

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 1590年、豊臣秀吉方の攻撃により「八王子城」は落城した。その際に「御主殿」にいた女、子供達が滝の上で自刃したと伝わっている。滝の水は三日三晩赤く染まったといわれている。

 15:05管理棟のある「八王子城」の入口に戻る。ガイド終了。

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 「ガイダンス施設」で休憩、ビデオを鑑賞。

 15:30「ガイダンス施設」を出発、帰路へ。

 

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●八王子城の築城

 「滝山城」は、北条氏の三代目・氏康(うじやす)の三男・北条氏照(うじてる)の居城として知られており、多摩川や秋川を堀に利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇った。「滝山城」は、木曽義仲の末裔で山内上杉氏の重臣である武蔵国守護代・大石定重が、1521年(永正18年)に築いたとされ、「高月城」(八王子市高月町)から移転して来たと伝えられている。

 1546年(天文15年)、関東管領・上杉憲政氏康に「河越城の戦い」で大敗し没落すると、氏康は武蔵一帯の支配を進め、定重の子・定久は氏照を娘婿に迎えて事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。

 1569年(永禄12年)の「滝山城の合戦」では、小田原攻撃に向かう武田信玄がおよそ2万に対し北条勢はわずか2千程と戦力差は歴然、武田勢に二の丸門まで肉迫、落城寸前にまで追い込まれた。たが、「滝山城」を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が「滝山城」を守り抜いた。その後、天下統一を目差す豊臣秀吉に対抗するため1582年(天正10年)頃、氏照は「八王子城」の築城を開始し、1587年(天正15年)頃に「滝山城」から拠点を移した。

 標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された山城「八王子城」は、北条氏の本城である「小田原城」支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点となった。平安時代、深沢山の麓、華厳ヶ谷に庵を結んだ僧・妙行(称号:華厳菩薩)が、山頂で修行中に「牛頭(ごず)天王」と8人の王子が現れたとして916年(延喜16年)に「八王子権現」を祀ったことから、「八王子城」と名付けられた。

 氏照が構想していた「八王子城」の城郭は壮大で、落城時はまだ未完成の状態であったと考えられている。城は大まかに、家臣団の屋敷や寺院など城下町に当たる「根小屋地区」(ガイダンス施設の付近から城山東側の麓)、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる本丸がある「要害地区」に分かれている。

●八王子城の落城

 小田原征伐の一環として1590年(天正18年)、「八王子城」は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代・横地吉信や家臣らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3千が立て籠った。激しい戦闘の末、城は1日にして陥落した。

 城代の横地吉信は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは「御主殿の滝」に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。麓の村では、城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。現代でも受け継がれている風習として、先祖供養に小豆の汁で赤飯を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。

 この「八王子城の攻防戦」を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって「八王子城」は廃城となった。

 2004年(平成16年)に、城山要害部の西端直下を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」が竣工。2006年(平成18年)、「日本100名城」(22番)に選定された。

2024年7月 2日 (火)

八王子博物館ー桑都物語

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 9:50八王子駅南口近くの駐車場へ入る。

 

●八王子博物館 10:05~10:55

 「桑都日本遺産センター  八王子博物館」は、JR八王子駅南口(八王子市子安町4丁目) の「サザンスカイタワー八王子」 3階にある博物館。2021年(令和3年)6月にオープン。愛称:はちはく。

 東京都内唯一の「日本遺産」として認定されたストーリー「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語」と八王子の歴史・文化を紹介。

 八王子博物館のエントランス。入館無料、ボランティアガイドに案内してもらう。

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 テーマ展示ゾーンでは、八王子の歴史文化と日本遺産のストーリーを4つのテーマ➊~➍を紹介。

➊霊気満山 高尾山・・・歴史、信仰、自然や観光・行事。いろいろな角度から高尾山の魅力を紹介。

 高尾山は、動植物の玉手箱ームササビは高尾山の人気者。

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 高尾山は、戦国武将の祈りの山、戦略上も重要な山。江戸時代は大名も庶民も信仰した山。

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➋滝山城と八王子城・・・北条氏照(うじてる)の居城、「滝山城」と「八王子城」を紹介。

 氏照は、北条氏の領国支配と勢力拡大に重要な役割を果たした人物。

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 滝山城跡の投射模型。

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 八王子城跡の出土品ー北条氏照は、茶の湯や生け花をたしなむ戦国大名だった。

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 八王子市の名は、深沢山に祀られている「八王子権現」(八王子神社)に基づいている。下の「八王子」の文字を大きく鋳出した扁額。

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➌八王子のまちと人びと・・・甲州道中の宿場町として発展した八王子宿。まちの様子やそこに住む人々、幕府に仕えた「千人同心」について紹介。

 街道沿いに旅籠や店が立ち並び、旅人を迎えた。八日市宿の風景。

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 「千人同心」は元武田氏の家臣団。武田氏滅亡後は徳川家康に召し抱えられ、軍事面で支えた。家光死後は軍事動員がなくなり、日光火の番を主な任務とした。身分はあくまで百姓だが、幕末に入ると幕府直属軍として再び軍事面で支えた。

 「千人同心」の郷土調練。

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 「千人同心」に関する品々 -韮山笠、日光火の番の鳶口と手鎌。

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➍桑都と織物・・・古くから養蚕や機織りが盛んで「桑都」と呼ばれてきた。まちの発展を支えた織物業や、現在に伝わる伝統芸能などを紹介。

 八王子は、織物のまち。織物工場からは、織機の音が聞こえた。

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 「八王子祭り」では、真夏の甲州街道を山車や神輿が彩る。獅子舞などの個性豊かな伝統芸能が受け継がれている。

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➍交流コーナー・・・車人形や、機織りを体験できる。

 車人形と車仕掛けの箱に人形の遣い手が腰掛けて、前後左右に動けるようにし、両手両足を用いて人形をあやつる。

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 車人形の使い方の解説ビデオ。

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 明治時代に実際使われていた高機(たかばた)。

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 八王子博物館から八王子市滝山町にある東京都道169号淵上日野線(新滝山街道)の道の駅「八王子滝山」へ移動。

●道の駅八王子滝山 11:40~12:30

 2007年(平成19)4月開業。東京都内では、唯一の道の駅。

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 「道の駅八王子滝山」で昼食。降雨が強いため「滝山城跡」の散策は中止。

 次に、「八王子城跡ガイダンス施設」へ移動する。本ブログの記事「八王子城趾」へ続く。

 

 ★ ★ ★

●午頭天皇(ごずてんのう)

 牛頭天王は、日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。京都東山祇園や播磨国広峰山(ひろみねさん)に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ「感神院祇園社」(現在の「八坂神社」にあたる)から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。牛頭天王は、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあったそうだ。

 北条氏照が城を築いた城山(しろやま)は、かつては深沢山(ふかざわやま)呼ばれた。この山に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」(八王子神社)を祀り、「八王子城」と名づけた。 この城名が市名の由来であるという。

●桑都八王子

 「桑都」(そうと)とは八王子を指す美称。古くから養蚕や織物が盛んであったことを示している。「桑都」と呼ばれる由縁は、西行が詠んだという短歌

 浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く

にあるという。この歌は、江戸時代後期の随筆に記録されており、このころ栄えてきた八王子宿の織物市のにぎわいを背景に「桑都」と言い習わされてきた。日本で「桑都」と称されるのは八王子だけ。ちなみに桐生市は、「織都」という雅称がある。

 戦国時代には北条氏および徳川氏から軍事拠点として位置づけられて城下町となり、江戸時代には甲州街道の宿場町(八王子宿)として栄えた。絹織物産業・養蚕業が盛んであったが、特に明治以降は山梨県や長野県、群馬県(桐生市)、栃木県(足利市)などから鉄道により八王子に生糸が集積され、絹織物に加工された。絹織物や生糸は横浜鉄道(現在のJR横浜線)で横浜港に輸送され、当時の貴重な外貨獲得源として世界中に輸出された。

 明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属することは管理上で不都合が生じたとも。また1889年に新宿駅―立川駅で開業を果たした甲武鉄道(現・JR中央線)は、半年も経たないうちに八王子駅まで延伸。八王子から東京方面へと人と物が流れるようになり、東京との経済的な結びつきは強まっていった。

 八王子市は、23区を除く東京都内の全自治体のなかで最も人口が多く、現在およそ60万人。東京市(現在の東京23区)に次いで2番目に早く市制を施行した。面積は奥多摩町に次いで、東京都の市区町村で2番目に広い。

2024年6月30日 (日)

映画「九十歳。何がめでたい」

 2024年6月27日(木)、映画『九十歳。何がめでたい』を観る。
 

 昨年100歳を迎えた作家・佐藤愛子が、日々の暮らしと世の中への怒りや新しい時代への戸惑いを独特のユーモアでつづったベストセラー・エッセイ集『九十歳。何がめでたい』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』が映画化、6月21公開した。90歳を迎えた草笛光子が、エネルギッシュでチャーミングな佐藤愛子を熱演する痛快エンターテイメント。唐沢寿明が、 冴えない中年編集者の吉川をコミカルに演じる。

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 直木賞など数々の文学賞を受賞してきた作家の佐藤愛子(草笛光子)は、90歳を過ぎて断筆宣言して人づきあいも減り、新聞やテレビをボーッと眺める鬱々とした日々を過ごしていた。一方、大手出版社に勤める中年編集者の吉川真也(唐沢寿明)は、古い昭和気質がパワハラ、セクハラだと社内で問題となり、謹慎処分に。妻や娘にも愛想を尽かされ、仕事にプライベートに悶々とする日々。

 そんなある日、吉川の所属する編集部では佐藤愛子の連載エッセイ企画が持ち上がる。なんとしても企画を成功させたい吉川と、「書けない、書かない、書きたくない!」と断固拒否する愛子とのお互い一歩も譲らない「頑固者」どうしの攻防戦が繰り広げられる。

 以下6枚の写真は、『90歳。何がめでたい』のパンフレットより転載。

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 ようやく吉川を追い払ったが、情けなくうなだれる吉川の姿にほだされた愛子は、執筆を承諾する。ヤケクソで「いちいちうるせえ!」と、生きづらい世の中への怒りを歯に衣着せぬ物言いで綴った連載は、意図せず大反響を呼び、全国の書店で売れ行き№1に。愛子の人生は90歳にして大きく変わっていく。そして吉川も、妻と離婚して新しい人生を切り開こうと決意する。  

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 愛子と同じ家の2階に暮らす娘・響子役を真矢ミキ、吉川の妻・麻里子を木村多江が演じるほか、三谷幸喜、清水ミチコ、オダギリジョー、LiLiCo、石田ひかりらが出演。『老後の資金がありません!』(2021年10月公開 )などの前田哲監督がメガホンをとり、『水は海に向かって流れる』(2023年6月公開 )でも前田監督と組んだ大島里美が脚本を担当した。そういえば、昨年6月30日に観た『大名倒産』も前田哲監督だった。

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 書籍『九十歳。何がめでたい』は、2016年8月に小学館から刊行。『女性セブン』(同社)に連載されたエッセイに加筆修正したもの。自身の身体の不調、時代の進歩、悩める若い人たちについて書いているという。

 『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年8月、小学館刊)は、その続編。自身の最後となるエッセイ集のタイトルは、夫が作った莫大な借金を一人背負い込んで奮闘する妻(愛子自身)の姿を描いた直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』(1969年)を真似た借金は返済したけれど人生の「戦いはやまず」、今も「日が暮れていない」という愛子の人生の実感だそうだ。

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●暴れ猪

 佐藤愛子は、90歳の時に長い作家生活の集大成として『晩鐘』(文藝春秋、2014年12月)を書き上げた。その時のインタビューで「書くべきことは書きつくして、もう空っぽになりました。作家としての私は、これで幕が下りたんです」(女性セブン)と語った。一度は下ろした幕を再び上げて始まった連載『九十歳。何がめでたい』は、現代の世相に噛みつく様子が「暴れ猪」のように見えるという。自らを「暴れ猪」と自称する生き方は、 映画の中でも吉川に「私は暴れ猪だから・・・」と言うシーンがある。

 愛子は大正12年(1923年)の生れ、「癸亥(みずのとい)の年」。「十二支」は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類。「十干」(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、これらを合わせて60種の「干支」がある。中国の陰陽五行説に基づいた占術「四柱推命」で、「干支」からその人の性格・本質が分かるそうだ。

 「癸亥生まれ」の性格や特徴は、乱暴な性格の持ち主。無茶苦茶な行動や常識はずれの言動が多い。ときにはお茶目でお調子者のようで、人気もあるが、憎まれることもあるという。本心はいたって正直で曲ったことを嫌、ウソがつけない。平常は温厚で努力家であり、成功する人が多いという。

 「暴れ猪」生まれの愛子と「頑固」な所が似た者同士で、がむしゃらに猪突猛進の編集者・吉川も「癸亥の年」かと思いきや、大正12年の次の「癸亥の年」は60年後の昭和58年(1983年)生れ。吉川とは年齢が合わないので、思い違いだった。草笛光子は、愛子の「暴れ猪」を見事に演じている。

●いい爺さん

 映画の中で吉川が、「いい爺さんになれますかね?」と愛子先生に尋ねると、「いい爺さんなんてつまらない。面白い爺さんになりなさい!」と言う。脚本の大島里美のセリフだそうだ。 「いいお爺さん」や「元気なお爺さん」と「面白いお爺さん」とは、何が違うのか? 死ぬまで、自分に何かを課して、目標・目的を持って生き続けることだろうか? 幾つになっても、生き生きと生きられるのは素晴らしい。

 この映画のラストは愛子が旭日小綬章を受章して、大爆笑の記者会見のシーンで終わる。そして彼女が、吉川への感謝と励ましを贈る。これは前田監督の中高年男性へのエールでもあるともいう。佐藤愛子は、著書『九十歳。何がめでたいの中で、人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました」と書いているそうだ。

2024年6月15日 (土)

金沢探訪の旅-ひがし茶屋街

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 3日目 27日(月)は、金沢三茶屋街の「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」、百万石の台所「近江町市場」を散策、文豪記念館も見学。
  

 8:00、ホテルをチェックアウト。金沢駅東口バスターミナル⑦番から、8:39発の城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗車。8:50、橋場町(ひがし・主計町茶屋街)バス停着。

 

●ひがし茶屋街 9:00~9:45

 まずは、バス停から徒歩2,3分ほどの「ひがし茶屋休憩館」へ行く。

 この通りは、「ひがし茶屋街」のある東山に囲まれた観音町。古い町屋が並ぶ。この通りに先に、金沢三十三観音霊場 の「観音院」がある。

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 9:00「まいどさんガイド」が待機する「ひがし茶屋休憩所」(旧涌波家住宅) 着。

 旧涌波家(わくなみけ)住宅主屋は江戸時代末期の建築と推定され、「ひがし茶屋街」の主要道から少し離れた所に位置している町屋建築。建築当初は平屋建てだったが、明治時代以降に2階建てに増築されたそうだ。間口が狭くて、奥が深い町屋の特徴。窓がないため、天窓で明かりを取る。2003年(平成15年)に復元整備された。

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 軒先に「トウモロコシ」をぶら下げてある。これは、観音さまの功徳が得られる日を「四万六千日」といい、この日に観音さまにお参りすると、4万6千日分(126年分)のお参りをしたのと同じご利益があると言われている。

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 「観音院」では毎年、旧暦7月9日(今年は8月12日)に年中行事として「四万六千日」が行われ、参拝後に祈祷を受けたトウモロコシを買って帰り、自宅の軒先にぶら下げる。トウモロコシの実は家族の繁栄(子だくさん)、下部のたくさんの毛は「儲け」「魔除け」に通じる。この行事は金沢特有というわけではなく、浅草「浅草寺」の7月9日には「ほおずき市」が行われている。ちなみに「四万六千日」は、もとは「千日詣」だったとも言われている。

 9:10、ガイドから「200年前のひがし茶屋街の創立時の絵図」の説明を受ける。

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 「ひがし茶屋街」は、金沢3茶屋街の一つで、出格子の風情あるお茶屋が軒を並べる観光名所。金箔工芸の店やお土産雑貨の店も多い。

・箔一(はくいち)

 「箔一」は、金箔商品の販売店で、金箔ソフトクリームの元祖(値段は、891円)

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 「箔一」は、新名物の金箔ソフトクリームや、金沢箔工芸品、金沢箔菓子、あぶらとり紙や金箔化粧品など多彩なアイテムが揃っている。風情ある白塗りの外観は、江戸期から芸妓衆に愛されていた「銭湯東湯」を受け継いだ。

・金澤しつらえ

 「ひがし茶屋街」のシンボル的存在ともいえる見返り柳。かつては柳の街路樹が並んでいたが、現在は1本を残して取り払われている。その正面の建物「金澤しつらえ」は、江戸末期より200年もの歴史を持ち、金沢市の保存建造物にも指定されている茶屋建築。写真は、Googleマップより。

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 現在、高度な技術・技法をもつと認定された「人間国宝」の作品や、伝統的な素材で作られた1点物のアクセサリーなどを取り扱っている。また、2階の「茶房やなぎ庵」では「ひがし茶屋街」を眺めながらお抹茶、上生菓子を楽しむことが出来るという。

 茶屋建築の特徴的な外観の色彩「弁柄塗り」(べんがらぬり)は、江戸時代にインドのベンガル地方から伝わったベンガラという天然の土からとれる顔料で、酸化鉄を含むことから独特の赤い色合いを表現する。ベンガラには木材の防腐効果があるほか、年間200日雨が降る金沢で、街を明るく見せる工夫で、もちろん花街の色気のある色彩が使われた。

 ここが、「ひがし茶屋街」のベスト・フォトスポットの「一番町」の通り。左手前は、見返り柳。

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 窓をふさぐ格子も風情あり。虫かごのような造りから、木虫籠(きむすこ)と呼ばれる。

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 この木虫籠のおかげで、昼間は建物の中が見えづらく、反対に家の中から外は見えやすい。この格子の断面は台形になっていて、外側が太く、内側が細くなっている。これは、室内により多くの光を採り入れる工夫で、特に細い格子を使うのが金沢の特徴だという。

・志摩

 1820年」(文政3年)に建てられたお茶屋の建物で、これまで手を加えることなく、江戸時代そのままに残っており、学術的にも貴重な文化遺産として高く評価されている。

 お茶屋は、2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らず、あくまでも遊興を主体とした粋な造りとなっている。お客が床の間を背にして座ると、その正面が必ず控えの間となる。襖がひらくと同時に、あでやかな舞や遊芸が披露されるそうだ。

・懐華樓(かいかろう)

 築200年の金沢で一番大きなお茶屋建築。金沢市指定保存建物として、昼は一般に広く公開している。カフェの利用も可能。

 「懐華樓」の中は、金箔の水引で織られた畳の茶室、輪島塗の朱階段、加賀友禅の花嫁暖簾、夜は今も一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられている部屋などがあり、全てを見学することができる。名物「黄金くずきり」などの甘味を楽しめる「懐華樓カフェ」やオリジナル商品を販売する蔵の店も併設。季節ごとにお茶屋遊びを体験して頂ける「艶遊会」も開催している。

 写真は、「志摩」と「懐華樓」。Googleマップより引用。

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・藤とし

 松が建物を貫通しているという建物「藤とし」。

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 「一見さんお断り」のため見学できないが、このお茶屋は赤松が建物を突き抜けて生えていることでも有名。2階のお座敷の床の間を、見事に貫通しているらしい。文化文政の頃からと言われ、樹齢200年以上、高さ8mもあるそうだ。

 一番町の通りを反対側(東から西の方)を望む。

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 二番町の通りを「宇多須神社」側から(東から西)を見る。

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・宇多須神社(うたすじんじゃ)

 9:40、「宇多須神社」参拝。「ひがし茶屋街」の奥に社殿があり、毎年2月3日の節分祭には芸妓衆が踊りを奉納し、多くの見物客が訪れる。江戸時代、藩祖・利家の没後、2代目利長が密かに利家をここに祀り、こっそりお詣りしたという。

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 三番町の通り。

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●徳田秋声記念館 9:55~11:00

 「徳田秋声記念館」に入館。観覧料210円。予約していた当館の解説員が案内。

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 金沢三文豪の一人・徳田秋聲は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治末期~昭和の自然主義文学における代表的作家。川端康成に「小説の名人」と言わしめた技巧の高さ、つねに弱者への視点を忘れない。庶民の生活に密着した作品は、「新世帯(あらじょたい)」「黴(かび)」「爛(ただれ)」「あらくれ」「仮装人物」「縮図」など。

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 1階 ▽書斎(再現);東京都文京区の自宅の書斎を忠実に再現し、貴重な遺愛品を当時の雰囲気のままに展示。▽常設展示「光を追うて」;自伝的小説「光を追うて」を元に、秋聲の生い立ちから小説家になるまでのあゆみと、近代化する金沢の姿を辿る。

 ▽和紙人形シアター;秋聲の代表作に登場する女性を、和紙人形作家・中西京子による「和紙人形」で展示。秋聲の生涯と作品を映像で紹介。▽秋聲作品への賛辞;川端康成、広津和郎から古井由吉、中上健次まで、作家たちからの世代を超えた秋聲および作品への賛辞を紹介。

 2階 ▽企画展示室;「レコオドと私~秋聲の聴いた音楽~vol.2」(会期:3月16日~7月20日)。昭和5年、60歳で社交ダンスを始めたことで知られる秋聲。ダンスに没頭してからの秋聲愛用の蓄音器やSPレコードもまじえて展示。

 ▽常設展示室;秋聲の生涯を6期に分け、年譜や基礎資料からその業績を辿る。遺品、初版本、直筆原稿、筆跡など、多くの資料を展示。▽映像コーナー(文学サロン);新藤兼人・徳田章子・高松光代の三氏が秋聲を語ったインタビュー映像や、金沢の三文豪を紹介。
 

●梅の橋と秋声の道

 「徳田秋声記念館」を出るとすぐに、「浅野川大橋」の上流側に架かる木造風の「梅ノ橋」。この橋は、歩行者専用。

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 浅野川の右岸に沿って「秋声の道」を歩く。国道369号線を渡って、更に「秋声の道」を進むと、「梅ノ橋」 と同じような浅野川に架かる「中の橋」。浅野川の上流は、国道359号線のコンクリート橋の「浅野川大橋」。

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●主計町茶屋街 11:10~11:20

 「中の橋」から見る浅野川沿いの「主計町茶屋街」は桜の名所。

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 「中の橋」を渡って対岸に出ると、橋のたもとに「主計町緑水苑」と呼ばれる小公園がある。

 浅野川に架かる歩行者専用の「中の橋」(左)と「主計町緑水苑」(左) 写真は、Googleマップ。

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 金沢市制百周年記念事業の一環として1989年(平成元年)、旧金沢城の内堀だった「西内惣構堀(にしうちそうがまえぼり)」を活かし、「池泉回遊式庭園」をなぞらえ、「主計町緑水苑」が整備された。「西内惣構堀」は、1599年(慶長4年)金沢城防備のため2代目の前田利長が、高山右近に命じて造らせた金沢城西側の内堀のこと。

 浅野川沿いに茶屋造りの町家が並ぶ「主計町茶屋街」は、金沢三茶屋街のひとつで、全国で初めて旧町名が復活。 艶やかな雰囲気が漂う茶屋街は、春ともなれば桜並木が満開の花を川面に垂らす。

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 「主計町茶街」の前の道は「鏡花の道」。この近くの下新町に「泉鏡花記念館」があるが、5月20日~30日は展示替えのため休館。

 幼い頃に母を亡くした金沢三文豪の一人・泉鏡花は。明治、大正、昭和にかけて亡母憧憬を基底とする浪漫と幻想の世界を紡ぎ出し、多くの小説や戯曲を生み出し、やがて浪漫主義文学の大家、また天才と称された。「義血侠血」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」「日本橋」「天守物語」などの傑作の数々は、現在も人々に愛され続けている。

 「浅野川大橋」の橋のたもとにある「今越清三朗翁出生の地」の石碑。

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 金沢では「乃木将軍と辻売りの少年」の話が、戦前映画や浪曲の題材にもなったという。今越清三郎は、1883年(明治16)主計町で生まれ幼くして死別、祖母と弟妹を養うため昼は魚、夜は辻占(くじ引きの菓子)売りをして貧困な生活を支えていた。清三郎が8歳の時、たまたま金沢を訪れた陸軍大将乃木希典と巡り合い、激励を受けたことで発奮し、やがて金箔師として大成したという。

 浅野川大橋のたもとから100mほどの橋場交差点を右折し、国道249号線(百何石通り)を西へ、近江町市場方面に歩く。

 こんな大通りにも写真のような古い建物が所々に並ぶのが、金沢らしい。

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●近江町市場 11:35~

 浅野大橋のたもとからおよそ12分、11:35に「近江町市場」に着く。写真は、十間町口。

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 約300年の歴史を持つ金沢市民の台所。日本海の鮮魚や加賀野菜の他、肉・洋品雑貨など180店以上の店がある。当日も観光客で賑わっていた。

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 11:50、昼食に「百万石うどん」の店に入る。

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 観光客相手の海鮮丼や握り鮨の店が多く、2500円以上するので安くはない。百万石うどんなら850円。近江町市場で45年の「百万石うどん」に入店、食券購入。

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 出汁は昆布と鰹節を使用した、上品で優しい醤油味。もちもちの太麺とエビや野菜の天ぷらが乗っていて、ボリューム満点。 

●金沢駅構内

 12:36発の武蔵が辻・近江町市場バス停から、12:50金沢駅東口へ。

 13:50いったんホテルに戻り、預けてあった荷物を引き取り、再び金沢駅へ。14:30駅構内の「百万石街」で土産購入。

 金沢駅構内の観光情報センターに展示してあった「かがやき甲冑展」(百万石祭りのイベント)の「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の複製が展示してある。

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 「加賀百万石祭り」は、加賀藩の祖・前田利家が1583年(天正11年)6月14日、金沢城に入城したことにちなんだもので、入城の行列を再現した百万石行列をはじめ、数々のイベントが6月第1土曜日を中心とした3日間に行われる。利家は織田信長に仕えた頃は、信長の親衛隊的存在(馬廻り役)の直属精鋭部隊「赤母衣衆」として従軍したという。

 金沢駅構内の「金沢百番街Rinto」でお土産を購入。金沢駅コンコースと新幹線改札口。

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 金沢駅15:55発の北陸新幹線「かがやき510号」東京行に乗車。18:03大宮駅着。

 

 ★ ★ ★

●ひがし茶屋街

 浅野川界隈に位置する東山ひがし地区。ここは、1820年(文政3年)に遊郭として公許・形成された。その当時は約百軒以上の店が軒を連ね、茶街一帯が板塀で囲われ、入口には木戸が設けられるなど、別天地ともいえる金沢の歓楽地として大いに賑わっていた。

 街並みを特徴づける美しい出格子と、2階を高くして座敷を設けた独特の構造を持つ茶屋建築が立ち並んでいる。加賀藩ではお殿様を見下ろしてはいけないということで、町人エリアの2階建ては禁止されていたが、周囲を塀で囲まれていた茶屋街のみは2階建てが許可されていた。現在は、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に登録されており、南北約130m、東西約180m、約1.8haの保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物。

 重伝建は全国に数多くあるが、茶屋街として登録されているのものは4地区しかない。そのうち2つが「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」。京都・祇園の茶屋町と並び、これら江戸時代後期から明治初期にかけての茶屋建築がまとまって残されている。

 今日の「ひがし茶屋街」では、観光地化に向けて大きく舵を切ったのは最近で、2001年(平成13年)のこと。そして、2001年11月に「東山ひがし」として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、一気に観光地へと整備されていった。ちなみに茶屋街としての保存地区の指定は、京都の祇園に次いで2例目とのこと。

●宇多須神社

 「宇多須神社」は、718年(養老2年)に「卯辰治田門天社」として創建。浅野川の河辺から掘り出した古鏡に卯と辰の紋様があり、卯辰神を祀ったことが始まり。1599年(慶長4年)に 前田利家(加賀藩の藩祖)が亡くなると、前田家2代利長(初代加賀藩主)が金沢城の北東方向(鬼門)にあたる本境内に密かに「卯辰八幡宮」を建てて藩祖・利家の神霊を祀って藩社とした。藩士は禄高に応じて祭祀料を負担し、藩主の祈祷所として崇敬を集めた。

 当時、2代利長は徳川家康暗殺の嫌疑が掛けられるなど不安定な情勢下にあり、徳川家の疑念になる事を避ける必要があった。利家は死去する直前まで家康と対立する立場にあり、利家を崇拝する事はすなわち家康と対立する事になり、公には出来なかったと思われる。利長や藩士達は、こっそり利家をお祀りした。

 明治4年(1871)に廃藩置県が施行すると庇護者を失い「卯辰八幡宮」が荒廃した為、1873年(明治6年)に金沢城の金谷出丸(金谷御殿)の跡地に利家の神霊を遷座し、「尾山神社」を創建している。当地に残された当社は、1901年(明治34年)に卯辰山の旧名(宇多須山)にちなんで「宇多須神社」に改称、1902年(明治35年)には県社に列した。

●赤母衣衆

 母衣(ほろ、幌)は、矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の布をつけて風で膨らませるもの。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助武具具としての実用性は失われ、旗一種の指物(馬印)として、大将の近習(側近)や使番(伝令)だけが着用を許された。

 これらは名誉の軍装として、 織田信長の軍には馬廻りから選抜された信長直属の使番の集団は、「黒母衣衆(くろほろしゅう)」と「赤母衣衆(あかほろしゅう)」があり、それぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせた。前田利家は、赤母衣衆として活躍した。

 今年の「百万石まつり」(5月31日~6月2日)のポスターの写真素材に「赤母衣衆」が使われている。

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2024年6月14日 (金)

金沢探訪の旅-長町武家屋敷

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 2日目 26日(日) は、加賀百万石の「金沢城」、日本三名園の一つ「兼六園」、城下町の風情漂う「武家屋敷跡」など、加賀藩ゆかりの史跡や武家文化を訪ねる。本記事は、「室生犀星記念館」と「長町武家屋敷」について記す。本ブログ記事「金沢探訪の旅ー兼六園」の続き。
 「兼六園」を見学した後、13:00前に金沢駅東口近くの加賀料理「大名茶屋」着。予約しておいた昼のミニ会席「羽衣」で昼食。夜の加賀料理の会席より、昼だと安く食べられる。

 13:50頃、加賀料理「大名茶屋」を出て金沢駅東口に戻り、バスターミナル⑦番から「城下まち金沢周遊バス」(左回りルート)に乗車。14:27、百万石通りの片町(パシオン前)バス停着。
 

 「室生犀星記念館」は、翌日の「徳田秋声記念館」の後に行くつもりだったが、この日最後に行く「長町武家屋敷」の近くに記念館あるため、予定を変更して前倒しする。

 犀川に架かる「犀川大橋」を渡り、千日町へ。途中、室生犀星が育ったという「雨宝院」前を通る。

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●室生犀星記念館 14:35~15:00

 片町バス停から徒歩6分ほど、「室生犀星記念館」着。

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 記念館は、金沢三文豪の一人・室生犀星の生家跡に建つ。近くには、「にし茶屋街」がある。記念館周辺では「雨宝院」、犀星が愛した「犀川」、詩碑のある「犀星のみち」など、犀星文学の原風景を散策できる。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」の詩(「小景異情 その二」)で知られる犀星は、この地で私生児として生まれ、不遇な出生のため生後まもなく近くの寺「雨宝院」に預けられた。館内では、犀星の生き方やその文学世界の魅力と出会い、ふるさとや命に対する慈しみの心への強い共感を呼び起こす。

 以下4枚の写真は、「室生犀星記念館」のパンフレットから転載。

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 館内は、ガラスに囲まれた「中庭」には、庭造り好きの犀星が東京・大田区馬込の自宅の庭に置いてあった「九重塔」「四方仏のつくばい(手水鉢)」などを配している

 1階の「心の風景」コーナーとして、小さな生きものたちや杏の木をシンボリックな造形で表現、吹き抜けの壁面には約160冊の著書を展示。

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 「生涯と作品」コーナーでは、自筆原稿や書簡などを紹介。「交友と人柄」コーナーでは、萩原朔太郎や芥川龍之介をはじめとする交友関係や、家族への愛、動物への慈しみ、軽井沢への愛着など犀星の日常が偲ばれる遺品などとともに紹介されている。

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 2階では、企画展「むかし、女、ありけり―犀星の王朝小説―」を開催。3月2日~7月7日

 15:00「室生犀星記念館」発。再び犀川を渡って、武家屋敷跡のある長町に向かう。

●長町武家屋敷 15:26~16:07

 15:26、「長町武家屋敷休息館」着。待機している「まいどさんガイド」と合流。

 ガイドの案内で、長屋門を見る。武家奉公人の長屋と厩が、門と一体になったもの。この門は加賀藩直臣・禄高300石の天野家のものであった。

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 土塀が続く武家屋敷の町並み。お薦めのフォトスポット。ほとんどの家には、現在も人が住んでいる住宅街。

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 駒留石。馬をつなぎ留めるための石(右下の石)。

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 どこで撮ったのか後で調べると、九谷焼などの販売やコレクションの展示するカフェ「おいしいいっぷく鏑木(かぶらき)」の門の前だった。写真は、Googleマップ。

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 金沢を代表する「新家(あらいえ)邸長屋門」。

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 屋根は現在、瓦葺きだが昭和3年までは板葺き石置きだった。扉は両開きで、右脇には大きな武者窓が張り出している。長屋の中は、一方が仲間(ちゅうげん)部屋で6畳2間あり、道路に向けて窓が開けられている。他方、長屋門を入った左手は馬屋だった。

 土塀に沿って清らかに流れる大野庄用水。大野庄用水は犀川から水を引いており、武家屋敷に沿って流れている。

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●旧加賀藩士高田家跡

 入場無料。敷地内には、見事な池泉回遊庭園を配し、当時の面影を残している。以下3枚の写真は、Googleマップ。

 長屋門を中から見た写真。右が厩、左が奉公人の仲間部屋(ちゅうげんべや)。

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 旧加賀藩士の高田家の禄高は550石、6つの階級に分けられた加賀藩士の中では、上から3番目の平士(へいし)に位置する中級武士。江戸時代、屋敷に門だけでなく「長屋」や「厩」をつけることを認められていたのは、中級以上の武士のみだった。

 厩(右)と庭園(左)。高田家は、2頭の馬を所有していた。400石以上の侍が、馬2頭を持つことができた。

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 こちらは下働人が寝起きする仲間(ちゅうげん)部屋 。

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●足軽資料館 15:50~16:00

 入場料無料。藩政時代の足軽屋敷、高西家と清水家の2棟が保存展示されている。屋根は石を置いたもの。建物の中は、足軽の職務や日常生活の解説・展示で、当時の雰鹿気を醸し出している。

 下の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ。

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 足軽は最下層の武士にあたるため、基本的には住居はいわゆる「長屋」が一般的だが、加賀藩の足軽たちは「庭付き一戸建て」が与えられていた。元々は両家とも金沢市内の別の場所にあったが、住んでいた子孫の方から金沢市に寄贈され、1997年(平成9年)に現在の場所に移築された。

 『流し』(台所)は、写真では板張りだが、もともとは土間だった。

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 『茶の間』。江戸初期の食事は1日朝夕の2回で一汁一菜。

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 玄関を入るとまず正面に『玄関の間』があり、その奥が『座敷』。客人は玄関から入りまっすぐ進み座敷へと通される。一方、玄関入って右を見るとまず『流し』(台所)があり、『茶の間』と『納戸』(物置、生活空間、寝室)があった。このように「接客空間」と「生活空間」を分けるというのが、武士住宅の特徴だそうだ。『座敷』と『納戸』には縁側があり、庭に通じていた。

 16:07、ガイド終了。

●武家屋敷跡野村家

 長町で唯一、一般公開されている有料(入場料550円)の武家屋敷。格式のある建物と風情のある庭園が見事に調和。加賀藩のお抱え絵師によって「上段の間」に描かれた襖絵や野村家伝来の刀剣、甲冑等は必見とか。時間の都合で入場できず。

●前田土佐守家資料館 16:10~16:50

 前田土佐守家の歴史と加賀藩上級武士の姿を紹介している。観覧料210円。

 「前田土佐守家資料館」は、同家に伝来した約6,000点 の古文書をはじめ、武具・書画などあわせて約9,000点 の歴史資料を保存・公開する施設。前田土佐守家伝来の資料は、歴代当主が保存・整理に務めてきたため散逸が少なく、古くは戦国時代、土佐守家の草創期(天正期)から明治時代にいたるまでの古文書を中心とした資料が良好な状態で保存されている。

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 1階の第一展示室。利家の正室おまつの方の書状をはじめとする古文書、書画、調度品など約80点を常時展示。

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 第一展示室。左手は、上級武士の床の間を再現、おまつの方の像。

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 第一展示室の中央、前田土佐守家の成立と歴史を展示。黒漆塗黒糸威二枚胴具足は、前田利政の所用と伝わる具足。

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 写真は、「前田土佐守家資料館」のパンフレットから引用。

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 2階第二展示室の春季企画展:「行くも帰るも123里~前田土佐守家当主 江戸への旅~」が開催中。期間:令和6年4月27日~7月7日。

 加賀藩は徳川御三家に並ぶ有力藩。参勤交代の他にも、藩士たちはしばしば江戸への出府の御用を命じられ、金沢からの長い道のりを往復していた。その距離は、483Km(約123里)にも及ぶ。当館には、「道中日記」が所蔵されていて、加賀藩士たちは藩主に出府を命じられてから、どのような準備をし、どのような道のりを経て、江戸へたどりついたのか。江戸での御用を終えた藩士は、どのような思いで金沢への帰路を進んだのか・・・等を展示。

 16:50「前田土佐守家資料館」を出て、100mちょっと、徒歩1、2分で夕食に予定した洋食店「グリルオーツカ」に到着。

●ハントンライス 17:00~17:55

 ハントンライスは、金沢の名物料理とか、洋食の一種として知られている。 1957年(昭和32年)創業の「グリルオーツカ」は、テレビや雑誌などでも紹介された行列のできる店。2015年の北陸新幹線開業とご当地グルメの流行によって、日本全国に知名度を上げたという

 一般的には、「ハンガリー」の「ハン」と、フランス語で「マグロ」を意味する「トン」(thon)をあわせた造語であると言われている。ハンガリーに似た料理があることから「ハン」と名付けられたとされているが、ハンガリーに該当する料理はないそうだ

 開店の17時前、すでに先着の2、3人が並んでいたが、日曜とはいえ思ったより行列は少ない。ふわふわたまごのオムライスの上に、魚介類のフライ、ケチャップとタルタルソースがのっている。ボリュウムがあるので、「小」を注文。写真の出典:ウキメディア・コモンズ。

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 食事前に、ビールを小瓶で飲んだせいもあって、腹いっぱい。オムライスを食べた気分だが、ちょっとケチャップの味が濃いめ。

 17:55店を出ると、さらに十数人の行列ができていた。

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 「グリルオーツカ」を後にして、片町・香林坊の百万石通りで出る。城下まち金沢周遊バスの片町(きらら前)バス停や香林坊(旧日銀前)バス停がを探すが、まちバス、北鉄の路線バス、西日本JRバスなど、いろいろなバス停があってよくわからない。おまけに道路が混んでいてバスは時刻表通りに来ない。なんとか城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗り込んで、金沢駅東口着。18:30頃にホテル着。


 ★ ★ ★

●前田土佐守家

 前田土佐守家は、加賀藩祖・前田利家と正室まつの次男・前田利政を家祖とし、以後、明治維新を迎えた直信まで10人の当主を数える。このうち6人が従五位下および近江守、土佐守の叙任を受け、5代直男・6代直方・7代直時・10代直信の4人が土佐守に任ぜられたため、当家は一般に「前田土佐守家」と称されるようになった。

 利政は、前田利家の次男であることから、当家は藩主前田家の分家筋にあたる。利政の長男で2代当主の直之は、幼少時に祖母芳春院(まつ)にひきとられて養育され、芳春院の尽力があって元和元年 (1615)に3代藩主前田利常に召し抱えられた。これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ、1万余石の禄高をもって代々「加賀八家」の一つとして藩の要職を歴任した。

 加賀藩では、「年寄」(他藩の「家老」に相当)という家格に属する家が八つあったことから、それを「加賀八家」と呼ぶようになった。年寄は、軍事面、行政面で藩の重職に就いた。「八家」の制度は、5代藩主綱紀が整えたもので、本多家(5万石)。 長家(3万3000石)・ 横山家(3万石)・ 前田家(長種系1万8000石)・ 奥村家(宗家1万7000石)・ 村井家(1万6569石)・ 奥村家(支家1万2000石)。 前田土佐守家(1万1000石 )があった。

2024年6月13日 (木)

金沢探訪の旅ー兼六園

 2024年5月25日~27日、 加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 2日目26日(日)は、加賀百万石の「金沢城」、日本三名園の一つ「兼六園」、城下町の風情漂う「武家屋敷跡」など、加賀藩ゆかりの史跡や武家文化を訪ねる。本記事は、「兼六園」について記す。本ブログ記事「金沢探訪の旅ー金沢城公園」の続き。
 
 引き続き、観光ボランティアの「まいどさんガイド」の案内で、11:03「金沢城公園」を出て「兼六園」の桂坂口より入場。

●蓮池門

 茶店が並ぶ「江戸町通り」を抜けて、11:09「蓮池門」を通る。

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 暫く歩くと、右手に園外から石段を上がって来る門がある。対面の「金沢城」の石垣が見える。

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 立派な石段があるのは、かつて、金沢城から「兼六園」へお越しになった殿様や奥方が2階建ての「蓮池御門」と呼ばれる門をくぐって「兼六園」へ出入りしていた。門の両サイドに番所が設けられて三十人組と呼ばれる役人が門番をしていたという。

 この「蓮池御門」には、「兼六園」の名付け親「白河楽翁(松平定信)」の筆による「兼六園」と書かれた扁額が掛けられていた。明治時代に「蓮池御門」は老朽化のために取り壊されたが、定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されているという。

●「兼六園」の由来

 「兼六園」は、17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された「大名庭園」を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園。岡山後楽園水戸偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられる。園名は、松平定信が中国・宋の『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観「六勝」を兼ね備えていることから命名された

●瓢池(ひさごいけ)

 「瓢池」は、「兼六園」で2番目に大きい瓢箪(ひょうたん)の形をした池。 2500㎡(760坪)の池に小島が1つ、滝が2つ、橋が2つある。「瓢池」周辺は「兼六園」が作られる前には「蓮池(れんち)」と呼ばれ、ハスが生い茂る沼地だった。「瓢池」周辺の庭は「兼六園」と呼ばれるまでは「蓮池庭」(れんちてい)と呼ばれ、作庭されていた。「兼六園」の始まりの場所であり、園内でもっとも古く作られた場所だった。

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 「翠滝」(みどりたき)は「瓢池」に落ちる人工の滝で、滝壺が無く、石が積みあがっているのが特徴。「瓢池」にある「夕顔亭」のすぐ後ろにある茶屋が「三芳庵」(みよしあん)で、「瓢池」に突き出た写真左手の建物は、「三芳庵」の別棟。

●夕顔亭

 「夕顔亭」は、「瓢池」の傍にある茅葺屋根の茶室。1774年、11代藩主、前田治脩(はるなが)によって建てられた茶室で、「兼六園四亭」(よんてい)の一つ。1989年に石川県の有形文化財に指定されていて、建物も茶庭も約240年前のまま保存されている。

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●黄門橋(こうもんばし)

 榮螺山(さざえやま)から「噴水」へ向かう途中の小川にかかる橋。青戸室石でできた一枚石で、大きさは園内一。長さ6m、幅1m。「黄門」とは中国名で中納言のことであり、中納言であった3代藩主利常を称えて名付けられた。現世と浄土をつなぐという橋を題材にした謡曲「石橋」に基づいて造ったという。

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●噴水

 動力を使わず、霞ケ池を水源として池の水面との高低差による自然の水圧(逆サイフォン)によって、高さ約3.5mで噴きあがる。日本最古の噴水。

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●ことじ灯籠と霞ヶ池

 「兼六園」のシンボル「ことじ灯篭」は、「霞ヶ池」にそっと足を下したような美しい姿。

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 「兼六園」を代表する風景。片足だけを池の中に入れた二本足の灯籠で、高さは2.67m。前方にある「虹橋」を琴に見立てると、後方の灯籠が琴の絃(いと)を支える駒に見えるので、徽軫(ことじ=琴柱)と名付けられた。記念写真のスポットとしては最適で、観光客の行列ができていた。

 「霞ヶ池」は、「兼六園」の中央に位置する園内最大の池。5,800㎡(1,750坪)。この池には、神仙島を表す「蓬莱島」が置かれている。

●眺望台

 卯辰山(うたつやま)や白山(はくさん)山系、能登半島方面が見渡せる場所で、海抜53mある。兼六園の六勝の内の1つ「眺望」はまさにここで体験できる。眼下の土手には桜やサツキ、ツツジなども配されており、季節の花も楽しめる。

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●蓬莱島(ほうらいじま

 「霞ヶ池」の真ん中にある小島が「蓬莱島」で、渡ることはできない。「蓬莱島」の蓬莱とは、古代中国で仙人が住むといわれている蓬莱山(ほうらいさん)のことで、大きな亀の背中にある山と言われている。

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 「霞ヶ池」は、日本庭園の手法の一つ、借景という技法で設計されていて、園外にある卯辰山を遠景、霞ヶ池に突き出た茶屋「内橋亭」を近景、真ん中の中景となる「蓬莱島」が浮島に見える、という演出になっているという。

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●唐崎の松(からさきのまつ)

 「霞ヶ池」に枝を伸ばす大きな黒松は、「兼六園」でもっとも有名な「唐崎の松」。13代藩主・前田斉泰(なりやす)が、琵琶湖畔の松の名所、唐崎の松から種を取り寄せて植えた黒松。園内の多くは赤松だが、唐崎の松は黒松。黒崎松の雪吊りは、兼六園ならではの風物詩。

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●雁行橋(がんこうばし)

 11枚の赤戸室石一枚一枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」ともいわれる。並べられた11枚の石が、雁(かり)の列が飛んでいく様に見えることから名付けられた。別名「かりがね橋」とも呼ばれる。1969年(昭和44年)から、石の保護のために通行が禁止されているが、昔はこの橋を渡ると長生きすると言われていた。なお、戸室石(とむろいし)は金沢市東部の戸室山の周辺で採れる安山岩。

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●七福神の庭

 七福神に見立てた庭石が並ぶ築山になっていて、七福神山周辺だけでも小さな日本庭園になっている。七福神山の庭石は、名前のとおり、七福神の姿に似た石を集めて作られている。

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 七福神山の正面(写真では右手)にある、大きな青戸室石の橋が「雪見橋」(ゆきみばし)。囲いの中にあるため、現在は渡ることができない。

●曲水(きょくすい)

 「兼六園」の中には、約570mの「曲水」と呼ばれる小川がいたるところに張り巡らされている。この水は犀川の上流から引いてある「辰巳用水」から引かれたもの。六勝の一つに数えられる「曲水」は、周辺の木々や草花と川のせせらぎによって癒しを感じられる。

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●明治記念之標

 西南戦争で亡くなった軍人を鎮めるために建てられたのが、「日本武尊象」。1880年に富山県高岡で造られたという銅像は、仏像以外では日本最古の銅像と言われている。

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●鶺鴒島(せきれいじま)

 「花見橋」の下を流れる曲水の少し上流にある、赤い鳥居や石塔が建つ小島が「鶺鴒島」。

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 「鶺鴒島」は別名、「夫婦島(めおとじま)」とも呼ばれている。子孫繁栄も含めて、人の一生を表している島。鶺鴒とは、鳥のセキレイのこと。セキレイは古来より子孫繁栄のシンボルで、日本神話のイザナギとイザナミに子孫繁栄の契りを教えた鳥。

●根上松(ねあがりまつ)

 「ひねくれの松」(写真なし)を見たあと、「根上松」を見る。高さ15mの黒松で、大小40数本もの根が地上2mまでせり上がり、地を掴んだような奇観は、迫力がある。

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 根っこが地面の上に出ているが、根っこを掘り出されても枯れない生命力の強さから、縁起の良い松とされている。根上(ねあがり)の語呂から、値が上がる成績が上がる運気が上がる商売繁盛株価上昇。園内屈指のパワースポット。

●沈砂池(ちんさいけ)

 「沈砂池」は、「兼六園」内の「曲水」の始まり。山崎山の裏にある蒼く澄んだ池。「辰巳用水」から流れてきた水が、「沈砂池」に溜められ、山崎山の下を通って園内へ流れ出ている。

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 砂を沈めて、きれいな水だけが「兼六園」内の「曲水」を流れ、「霞ヶ池」に溜まり、「噴水」となって吹き上がり、「ひさご池」に滝となって落ち、金沢城へ、金沢市内へ、と流れている。

 小立野口を出て、11:59「石川県立伝統産業工芸館」(石川生活工芸ミュージアム)で休憩。

 再び、「兼六園」に入場、12:09桂坂口に戻って退場。

 12:12、兼六園下・金沢城バス停着。12:36、金沢駅行きの北陸バスに乗車。この路線バスは、全国共通交通系ICカード(SUICA/PASMO)が使えない。

 金沢駅東口に到着、歩いて予約してある加賀料理の店「大名茶屋」(此花町7丁目)へ。

 

 ★ ★ ★

●成巽閣(せんそんかく)

 「兼六園」に隣接する「成巽閣 」は、時間の都合で見学を省略した。

 「成巽閣」は、13代藩主前田斉泰の母堂の隠居所として造営。武家書院造と数寄屋風書院造を一つの棟の中に組み入れた巧みな様式をもつ建造物であり、江戸時代末期(1860年代後半)の武家造の遺構としては類例のないものと高く評価されている、また、大名正室の御殿としては、日本国内に唯一現存する建造物。

 以下2枚の写真の出典:ウキメディア・コモンズ

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 建築当時は、「巽御殿」(たつみごてん)と呼ばれたが、後に「成巽閣」と改められた。1階は書院造りで2階は数奇屋造り、江戸時代末期の大名屋敷の代表的建築として、国の重要文化財に指定。また付随する庭園「飛鶴庭」も、国の名勝に指定されている。内部は歴史博物館として、書画、人形等の展示が季節ごとに行われるという。

金沢探訪の旅ー金沢城公園

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 2日目26日(日) は、加賀百万石の「金沢城」、日本三名園の一つ「兼六園」、城下町の風情漂う「長町武家屋敷跡」など、加賀藩ゆかりの史跡や武家文化を訪ねる。本記事は、「金沢城公園」について記す。

 

 8:27、宿泊先の「ホテルマイステイズ金沢キャッスル」を出発。徒歩5分で金沢駅東口。

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 金沢駅東口のバスターミナル⑦番乗り場から、8:35発の城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗車。

 8:50、兼六園下・金沢城バス停着。石川橋(陸橋)を渡り、の「石川門」へ。

 「石川門」(重要文化財)は現在、金沢城のメインゲートだが、当時は搦手門(裏門)だった。写真は、2014/7/25撮影。

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 8:56、「石川門」は、枡形になっており、こちらは「石川門二の門」。

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 写真にはないが「石川門」の石垣は、右側は「切石積み」、左側は「粗加工石積み」となっていて積み方が異なる珍しい例。

 9:05、「金沢城総合案内所」で観光ボランティアの「まいどさんガイド」と合流。金沢城の模型で説明を聞く。

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 城址は明治以降、陸軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には「金沢大学」が1995年(平成7年)まで置かれていた。

 「河北門」は、金沢城の大手門から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸」の正面、金沢城の実質的な正門。

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 「河北門」も枡形になっていて、こちらは「河北門二の門」。

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 「三の丸」広場前から、金沢城のシンボル「五十間長屋」を眺める。武器等を保管する倉庫として使用されていたという。

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 「五十間長屋」には、堀に面して「出し」と呼ばれる出窓が造ってある。「出し」の床は開くようになっており、床を開けると真下に堀や石垣が見え、敵が侵入して堀を渡り、石垣に取り付いて来た時に、石を落としたりするためのもので「石落し」といわれている。

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 「石川門」の櫓を城内から見る。内部を見学できる。

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 「二の丸御殿」に至る「橋爪門」は、「石川門」と「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、最も厳しい通行制限があった。

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 「橋爪門」の狭間(さま)。鉄砲を撃つために城壁に開けた穴で、外側の海鼠(なまこ)壁を破って鉄砲狭間として使えるようになっている。

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 「橋爪門」は、「石川門」同様に枡形になっており、「橋爪門二の門」(写真下)には番所が置かれていた。

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 左に「三十間長屋」、右に「二の丸」御殿のあった広場をを見ながら進むと、左手に「玉泉院丸庭園」に下る道がある。

 「玉泉院丸庭園」に面した石垣群「数寄屋式石垣」(写真なし)あたりから、「玉泉院丸庭園」を見下ろす。この先の通路は、1月の地震で工事中のため、通行止め。

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 「玉泉院丸庭園」は、「兼六園」より古い庭園。2代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来。3代目利常により作園が始められ、廃藩まで歴代藩主が愛でた庭園。2015年(平成27年)3月、江戸時代末期の姿をもとに再現された。金沢城に、「金沢大学」があったときは、この庭園はテニスコートだったらしい。

 「玉泉院丸庭園」に面した石垣群の「色紙短冊積み石垣」は、趣向を凝らした切石積みで、「玉泉院丸庭園」の重要な景観的な要素だった。

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 「三十間長屋」(重要文化財)に行く。

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 「三十間長屋」は、もともとは食器類が収められたり、干飯(ほしいい)が蓄えられていたそうだ。その後、江戸時代後期には武器や弾薬を備えた武器庫でもあったらしく、鉄砲蔵とも呼ばれていた。この「三十間長屋」は1858年(安政5年)に再建されたもので、金沢城にはこの他に全部で14の長屋があったと伝えられている。倉庫と防壁を兼ねた細長い建物のことを「多聞櫓」というが、金沢城では、「長屋」と呼んでいる。

 2階の西側の窓からは、日本海を航行する船を見張ったという。

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 2階の南側の天井の木組みがすごい。

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 「三十間長屋」の西側は、唐破風のついた出窓が3箇所あり、城下町から見るといかにも堂々としてお城に見せたという。

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 「三十間長屋」の石垣は、切石積みの技法で積まれているが、表面の縁取りだけをきれいにそろえ、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。

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 「鉄門(くろがねもん)」は、「二の丸」から「本丸」に入る正門。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いた。渡し櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。 重要な鉄門の石垣は、「切石積み」で、石の表面を多角形に加工したすぐれたデザインで、丁寧なつくりになっている。

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 「戌亥櫓(いぬいやぐら)」跡から「二の丸御殿跡」の広場や「五十間長屋」(右手)を眺める。

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 城内には陸軍第9師団の司令部や兵舎が置かれていたが、本丸付近には弾薬庫が設けられ、煉瓦作りのトンネルが造られた。

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 鉄門から、金沢大学時代に植物園となっていた西側の高台「金沢城園地」の散策路を歩くと、この辺りに「本丸」があったという説明板。

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 説明文には、1586年(天正15年)頃に天守を設けたと記されている。当時は関ケ原の戦い以前であったことから、豪華な城を築くことができたようだ。しかし、五層建ての天守閣は1602年(慶長7年)に落雷で焼失。この時は、既に権力を掌握した家康に遠慮してコジンマリこぢんまりとした三階櫓が建造された。その後も本丸の建物は、何度も焼失を繰り返し、次第に手つかずのままとなって金沢城の中心は「二の丸」に移っていったという。

 「東の丸」の北面の石垣は、利家時代の城内最古の高石垣。石垣の総高は21mに達し、金沢城で数少ない初期の姿を伝える「自然石積み」。

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 「丑寅櫓跡」から「兼六園」側を望む。桂坂口近くの茶店通りは、茶店や土産物店が立ち並び、「江戸町通り」とも呼ばれている。

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 「江戸町」は、徳川秀忠の次女・珠姫(たまひめ)が加賀藩の前田利常の正室として、わずか3歳で金沢に輿入れした1601年(慶長6)年から亡くなった1622年(元和8)まで、江戸からの随行者がここに住んだことに由来する。「兼六園」が正式に一般開放された年の翌年(明治5年)に、茶店の営業が許可された。

 幕末に建てられた総2階の「鶴丸倉庫」(重要文化財)を見る。明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていた。

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 「鶴の丸土塀」は、三の丸側の腰部が海鼠(なまこ)壁で覆われていたが、内側にはたくさんの鉄砲狭間があった。塀の中からはいざという時に瓦を1枚割れば鉄砲を撃てる「隠し狭間」となっていた。

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 「鶴の丸」休憩所付近に展示されている井戸の枠。

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 井戸枠は、石垣にも使われている戸室石(とむろいし) で、8枚の石を組み合わせて作られており、意匠性が高い。江戸時代後期の絵図によれば、金沢城内には少なくとも21個の井戸があったという。井戸には四角いものと丸いものとがあり、それぞれ9個と12個存在していた。これらの井戸が城内の至るところに設置されていたという。戸室石、金沢市の郊外の戸室山周辺で採掘されている青・赤色系の安山岩。

 「辰巳用水」の説明板あり。日本4大用水の一つとされている。犀川から用水を引き、金沢市内を流れる約11kmの用水路。

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 「石川門」の入口(石川門口)に立っている「百間堀」の説明板。兼六園と金沢城の間は、かつて「百間堀」があった。

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 前田利家入城前の城主・佐久間盛政がこの「百間堀」を掘ったとされ、利家の子・利長の時代に改修したと言われている。防衛上重要な水堀で、長さ270m、幅68.4m、水深2.4mあった。「百間堀」が埋め立てられ、現在のような道路となったのは、1911~12年(明治44年)のことだという。

 11:03「金沢城」を出て、「石川橋」を渡って「兼六園」へ入る。

 この後は、本ブログ記事「金沢探訪の旅ー兼六園と武家屋敷」に続く。

 

 ★ ★ ★

●辰巳用水

 3代加賀藩主・前田利常の命により、1632年(寛永9年)に板屋兵四郎が完成させたといわれている。1631年に発生した金沢大火が建設の契機になったとされ、金沢城の防衛・防火のための用水を導水する目的で掘削された。途中、長距離のトンネルがある難工事であったが、工事開始から1年足らずで完成した。

 犀川上流の金沢市上辰巳より取水し、約4kmの導水トンネルを経て、「兼六園」の園内の曲水(きょくすい)となる。かつては、導水管を用いて外堀をくぐらせ金沢城内に水を供給し、さらに市内にも配水していた。板屋兵四郎は水の高低差を利用して金沢城内に水を吹き出させた。これは、取水地が金沢城より高い位置にあることを利用した逆サイフォン。当初は木管が用いられていたが、後に石管に替えられた。石管は、石川県立歴史博物館の中庭等で保存されている。

2024年6月12日 (水)

金沢探訪の旅ー美術・博物館

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 1日目の25日(土)は、「21世紀美術館」の現代アートと「県立美術館」の伝統工芸を観賞、「県立歴博」で歴史・民俗を学ぶ。

 

 9:06大宮駅発の北陸新幹線「はくたか555号」に乗車。時間節約のため、11:00過ぎに車中で駅弁ランチ。11:43金沢駅に到着。

 金沢駅東口(兼六園口)の「もてなしドーム」。

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 金沢駅の兼六園口の「鼓門」。2014/7/25撮影

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 駅構内でコインロッカーを探すが、土曜の昼とあってロッカーの空きがまったくない。金沢駅東口(兼六園口)から徒歩で5分、12:10宿泊先の「ホテルマイステイズ金沢キャッスル」に直行し、荷物を預ける。

 金沢駅東口に戻り、バスターミナル⑦番から12:26発の「城下まち金沢周遊バス」(右回りルート)乗車。このバスは、全国共通交通系ICカード(SUICA/PASMO)が使えるので便利。

 広坂・21世紀美術館(石浦神社前)バス停まで17分。バス停から広坂交差点を渡って、徒歩2分で「金沢21世紀美術館」。 
 

●金沢21世紀美術館 12:45~13:45

 「兼六園」の斜め向かいで金沢市役所の隣にある。 公園のように気軽に訪れることができて、多くの人々に愛されているという美術館。2004年10月にオープン、全国から多くの人が訪れ、入館者数は国内でもトップクラスだという。有料の展示作品を観覧する「展覧会ゾーン」、屋外と屋内にも無料で楽しめる「交流ゾーン」との二つに分かれている。

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 屋外展示の《カラー・アクティヴィティ・ハウス 》オラファー・エリアソン作、ベルリンとコペンハーゲン在住。3色のガラスの組み合わせで、色の異なる周囲の風景が作り出される。

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 そのほか屋外には、12個のチューバ状の管が点在、管が地中でつながって対になり思わぬところへ声を伝えるという《アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3》、いくつもの突起が様々な方向に突き出た形を持つ遊具作品ラッピング》がある。

 総合案内の前には、右側に三輪車の形をしたユニークな3つの作品《バイサークル》。作者は、パトリック・トゥットフオコ。

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 1月1日に石川県能登地方で最大震度7を観測した「令和6年能登半島地震」で、「金沢21世紀美術館」が大きな被害を受けた。美術館は円のかたちをした明るいガラス張りの平屋建築で、展示室の天井にもガラス板が使用されている。今回、このガラス板が地震によって部分的に剥がれ落ちた。同館は地震発生後に休館、2月6日から「交流(無料)ゾーン」の一部を再開しているが、残念ながら「展覧会(有料)ゾーン」は、修復のため6月21日まで休場している。

 展示作品《スイミング・プール 》レアンドロ・エルリッヒ作、ブエノスアイレス(アルゼンチン)在住。

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 地上から見下ろすと、あたかも水で満たされたプールのように見える。地下からプール内部に入って、地上とプール内部で人と人の出会いを創出するはずだが、地下部への入場も6月21日まで休止。地上部からだけしか見学できない。

 360°全面ガラス張りという斬新なデザインで知られる円形の美術館。

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 美術館の西側にある階段の吹き抜けに合わせて制作された《喪失の美学》サラ・ジー作、ニューヨーク在住。

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 1階と地下を繋ぐ作品は、鑑賞者の階段の昇り降りの行動に様々な表情を見せるという。

 企画展の「透明標本展」と「金魚美抄」

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・市民ギャラリーA 冨田伊織 新世界『透明標本』展 入場料1,000円。

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 透明標本はタンパク質を酵素で分解し、肉質を透明にし、硬骨を赤色、軟骨を青色に染色する骨格研究の手法。生物でありながら、まるで鉱物のような美しさ。学術標本としてだけではなく、芸術やアートへの興味を深め、生物の内なる美を体感できるという。

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・市民ギャラリーB「金魚美抄2024~金魚を描くアーティストたち~」展

 「金魚美抄」は、金魚の美をすくい取るという意味の深堀隆介氏による造語。金魚の美に魅了され、金魚をモチーフにアート作品を手がけるアーティストが一堂に集う展覧会。それぞれの技法、表現などを駆使して様々な作品を生み出し、金魚の“美”を魅せる。今回も監修の深堀隆介を筆頭に新たなアーティストも加わり総勢11名が参加。こちらも有料(1,000円)、入場せず。

 「金沢21世紀美術館」を出て、広坂交差点を渡って百万石通りの坂道を登り、「本多の森公園」へ向かう。
  

●石川県立美術館 14:00~14:40

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 国宝の「色絵雉香炉」他、古九谷から再興九谷焼を含む古美術コレクション。また、石川県を中心とする近現代の美術と工芸作品。加賀藩前田家に伝わる文化財を展示する前田育徳会「尊經閣文庫」分館などが展示。

 国宝「色絵雉香炉」(右)と重文「色絵雌雉香炉」(左)。野々村仁清作、三代目加賀藩主前田利常の頃に前田家にもたらされ、家臣を経て商家・前川家に渡り、石川県に寄贈された。撮影可能な展示品は、これのみ。

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 古九谷、茶道美術、明治以降現代までの絵画、彫刻、工芸作品を鑑賞。
  

●国立工芸館

 国立工芸館前を14:45ころ通過。入館せず。

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 2020年(令和2年)10月、開館した。移転開館当初の正式名称は「東京国立近代美術館工芸館」。東京都千代田区にあった従前の「東京国立近代美術館工芸館」から、収蔵されている美術工芸作品のうち1,900点以上が移転した。近現代の工芸・デザイン専門の美術館。陶磁やガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、グラフィック・デザインなどの各分野にわたって、総数約4,000点を収蔵。

 建物は、明治期に建てられた2つの旧陸軍の施設、旧陸軍第九師団司令部庁舎(1898年建築、左)と旧陸軍金沢偕行社(1909年建築、右)を移築し、過去に撤去された部分や外観の色などを復元したという。 


●いしかわ赤レンガミュージアム 14:50~16:50

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 「石川県立歴史博物館」は「兼六園」に隣接する「本多の森公園」に建ち、かつては1909年(明治42年)~1914年(大正3年)に日本陸軍の兵器庫として建てられた煉瓦造りの建物を改修してつくられた博物館

 最初に建てられた煉瓦倉庫は1909年(第3棟)、1913年(第2棟)、1914年(第1棟)と約5年にわたって建設され、金沢を拠点としていた第9師団の兵器庫として使用された。戦後は「金沢美術工芸専門学校」(現金沢美術工芸大学)の校舎として利用されていたが、1968年(昭和43年)「石川県立郷土資料館」に改修、1986年に「石川県立歴史博物館」としてリニューアルオープンした

 2015年(平成27年)には、愛称が「いしかわ赤レンガミュージアム」に変更され、新たな施設を増築・整備してより一層充実した施設に生まれ変わった。現在は第1棟・2棟が「石川県立歴史博物館」、第3棟が「加賀本多博物館」として金沢を歴史を巡ることが出来る。

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 入館すると、緑のベストを着たレトロ建築のボランティアガイドが、30分ほど建物を案内。2階建ての3棟は、明治と大正期に建築されたが、木造でなく煉瓦の兵器庫だったため残ったこと。兵器庫と言っても火薬類はなく、被服類を中心に保管してあったという。

・加賀本多博物館

 2015年4月、「いしかわ赤レンガミュージアム」の一環として、「石川県立歴史博物館」の敷地内に同居する形で武家文化を伝える「加賀本多博物館」としてリニューアルオープンした。隣接の「県立歴史博物館」の2館共通観覧券あり。

 以下3枚の写真は、「加賀本多博物館」パンフレットから引用。

 加賀藩前田家の筆頭家老として、5万石を領した本多家の博物館。「藩老本多蔵品館」として1973年に開館。その秘蔵の品々は、1000点にも上る。本多家伝わる刀や甲冑など実際に、武士が使った品々が展示されている。軍装具をはじめ、当主が着たという火消し装束、儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう) の文書など、藩政時代の文化・歴史を知る貴重な資料がある。

 藩主からの拝領品が多いが、中でも豊臣秀吉が命名したとされる南蛮渡来の「村雨の壷」は、初代本多政重が藩主前田利長から5万石の加増を固辞した際に代わりに拝領したもので、「五万石の壷」という異名がある。

 初代・本多政重の画像と本多家随一の家宝「村雨の壺」。

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 左下:「の」の字文象嵌鐙(あぶみ) 中央:当主と夫人の火事装束 右:色々威(いろいろおどし)二枚胴具足

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・石川県立歴史博物館

 常設展は、石川の原始から現代までを、各時代の象徴的なテーマを軸に概観する「歴史展示」と、風土に根ざした祭り文化を紹介する「民俗展示」から構成される。第1展示室は、縄文時代から江戸時代までの展示。テーマは、原始=豊かな自然となりわい、古代=日本海を行き交う人びと、中世=武士と一揆、近世=加賀藩の政治と文化。第2展示室は、明治時代から現代までの歴史、民俗の展示。近代=近代国家と石川県、民俗:加賀・能登の祭り。

  中世=武士と一揆(1)武士の世へ 加賀国井家荘いのいえのしょう内に位置する堅田かただやかたあと(金沢市)は、当時の武士の豊かな暮らしぶりを伝えている。 

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 中世=武士と一揆(2)信仰の世界

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 近世=加賀藩の政治と文化(1)加賀藩の成立 加賀藩の大名行列。参勤交代は、幕府の命で450名の藩士を連れていくのが常だった。

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 近世=加賀藩の政治と文化(2)加賀藩政の展開 北前船の模型と船旗

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 「県立歴史博物館」の2階で無料の企画展をやっていた。

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 「くらべる文学展 in 歴博」というもので、地震で休館中の「石川近代文学館」所蔵品の企画展だった。企画展は撮影禁止。

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 「石川近代文学館」がある「石川四高記念文化交流館」(金沢城の南側にある)は、能登半島地震の影響により修繕工事をしていて、現在休館。もともとのこの旅行計画では、「石川近代文学館」をスケジュールに組んでいたが、休館中だったので諦めていた。しかし、この「近代文学館」の展示資料を「県立歴史博物館」に移して、歴博で企画展としてやっていたのは、知らなかった。

 本展は、それぞれの作家の自筆の原稿や手紙、日常的に手元に置いた愛用品など「見くらべて」楽しむ文学展。泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星など石川県出身作家の資料だけでなく、教科書にも登場する著名作家と石川のかかわりを示す資料や、「文学館」のイメージからは遠い絵画や工芸品といった意外な資料も面白い。
 

 広坂・21世紀美術館(石浦神社向い)から城下まち金沢周遊バス(左回りルート)で21分、17:46金沢駅東口に到着。

 金沢駅から徒歩1分で、ショッピングモール「金沢フォーラス」、6Fの「おひつごはん四六時中」に18:00着、夕食。19:30宿泊先の「ホテルマイステイズ金沢キャッスル」(金沢市此花町10-17)到着、チェックイン

 

 ★ ★ ★

●加賀本多家の歴史
 
 加賀本多家の初代は、徳川家康の重臣・本多正信の次男、本多政重(まさしげ)。彼は当初、徳川家に仕えたが、その後、様々な大名家を渡り歩き、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには宇喜多秀家の家臣として参加、西軍で活躍した。また、慶長9年(1604)には上杉景勝の執政・直江兼続の養子となり、上杉家に仕える。さらにその後、慶長16年(1611)には加賀藩前田家へ仕えることとなり、それ以降、初期加賀藩政を支える重要な役割を果たした。

 「加賀百万石」の加賀藩前田家には、多くの家臣の中でも最上級の藩士が8家あった。彼らは1万石以上の禄高を与えられた大名クラスの重臣で「八家(はっか)」と呼ばれ、藩内では家老よりも上位の年寄役を務め、政務にあたった。また、戦時には前田家中に編成される軍団の長となり、部隊の指揮を務めた。

 加賀本多家はこの「八家」のうちの1つ、そのなかでも最高の禄高5万石を与えられている。江戸幕府から1万石以上の領地を与えられた者を大名というが、前田家の家臣に過ぎない本多家が5万石を拝領していたことは、全国的にも破格の待遇。この初代・本多政重以降、加賀本多家の歴代当主は年寄役として加賀藩政の参画を続け、重要な役割を果たした。特に幕末においては、11代当主・本多政均(まさちか)が執政として藩政を主導、江戸幕府と京都の朝廷との間で困難な政局を乗り越えていった。

 また、本多家は前田家中でも別格の扱いを受け、藩主前田家からは2度にわたる姫君のお輿入れがあった。前田家3代利常六女・春姫(はるひめ)は本多家2代政長に、前田家12代斉広七女・寿々姫(すずひめ)は本多家9代政和に嫁している。「本多の森公園」は、本多家の武家屋敷が軒を連ねていたところ。なお現在、15代当主・本多政光氏が、「加賀本多博物館」の館長を務めているという。

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