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2017年3月20日 (月)

奥武蔵・天覧山と多峯主山

 3月11日(日)、奥武蔵の天覧山と多峯主山(とうのすやま)へハイキング。
 
 

 埼玉県飯能市の東飯能駅前から、天覧山(標高195m)と多峯主山(標高271m)に登り、吾妻峡と飯能河原を経て東飯能駅までの「山峡に歴史を訪ねるコース」、約9Kmを歩く。

 9:30、東飯能駅着、西口前のファミリーマートで昼の弁当を購入。

 9:45、駅西口前をスタート。大通り商店街(県28号、県道70号重複)を西に向かって歩く。
 
 

●店蔵絹甚とひな飾り(10:05)

 大通りに面した「店蔵絹甚(みせぐらきぬじん)」は、飯能市の有形文化財に指定されている歴史的建造物。

 飯能は、かつて絹の集散地であった。江戸時代から商いをしていた篠原家は、明治時代には絹関連(絹織物、生糸、繭、蚕の卵)の買継商を営んでいた。「絹甚」は、篠原甚蔵の名前の「甚」を取った屋号。明治30年代後半に建てられた土蔵造り2階建て、店蔵、居宅と土蔵の3棟は、建築当初の様子をほぼ残しているという。無料で建物内の見学ができる。 

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 「飯能ひな飾り展」が、「店蔵絹甚」をはじめとして市内の各商店や公共施設などで、2月下旬から3月中旬まで開催されている。下の写真は、「店蔵絹甚」内の見世(店)で展示されていたひな飾り。

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●観音寺(10:10~10:35)

 駅から大通り商店街を1Km余り歩いた所、飯能河原交差点の角に市街地の寺院として市民に親しまれている真言宗智山派「観音寺」がある。

 江戸時代の文化・文政期ごろには、「高麗郡三十三ヶ所霊場」の10番札所として庶民の信仰を集めた。また「武蔵野七福神」の1寺で、正面の不動堂に寿老人が安置されている。その右手は本堂(観音堂)。

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 七福神の寿老人を祀る観音寺の不動堂。

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 1867年(慶応4年)の「飯能戦争」で、幕府軍(反新政府の「振武軍」)が本陣とした「能仁寺」(後述)のほか「智観寺」、「心応寺」などともに立てこもった寺の1つである。

 この日は、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」がこの境内でも開催されていた。焼きたての焼き芋や、つきたてのあんころ餅(会津若松産の餅米使用)を買って食べ、支援に協力。

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 この寺の鐘撞き堂には、太平洋戦争中に鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていた。1965年(昭和40年)頃に市内の檀家が仏教の世界に出てくる白象を製作、この鐘撞き堂に収め、現在に至っている。

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 漫画・TVアニメ『ヤマノススメ』には、この白象が何度も登場するそうだ。白象と一緒のアニメシーンを描いた看板が置かれ(写真に撮らなかったのが残念)、キャラクターを描いた絵馬も販売してされている。この象を目当てに訪れる『ヤマノススメ』のファンも多いという。

 また観音寺の境内には、飯能鬼子母神が建立されている。鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所など地元関係者の協力によって2007年(平成19年)に設置された。

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●諏訪八幡神社(10:40)

 「観音寺」の裏手の墓地から林の中の裏道を歩くと、「諏訪八幡神社」の参道の石段がある。神社は、左手の「郷土資料館」と右手の「市民会館」に挟まれて建っている。

 地元では「おすわさま」と呼ばれ、16世紀に信濃の国の諏訪明神(諏訪大社)を勧請(かんじょう)したとされる。

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 境内にある「飯能恵比寿神社」は、先の「観音寺」の不動堂と同様に「武蔵野七福神」に数えられ(その中では唯一の神社)、恵比寿と大黒天を祀る。

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 秋祭りには、この神社に伝承されている獅子舞が奉納されるという。3頭立(3人一組)での「ささら獅子舞」で、天下泰平、国土安穏を祈る。市指定の無形文化財。(ささらは、竹を細く割って作った楽器で、ささら獅子舞はその楽器を使った踊りのこと。)

 

●震災復興元気市(10:45~11:00)

 「諏訪八幡神社」のすぐ隣に、桜で有名な「飯能中央公園」がある。

 この日3月11日は、6年前の東日本大震災の日。「飯能中央公園」をメイン会場に、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」が、市内各地で開催されている。ここはメイン会場とあって、大勢の市民で賑わっていた。

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 公園に隣接する飯能市民会館では「チャリテイよさこい」や、地元の駿河台大学による「元気フェスタ」が実施されていた。

 宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で津波に合い、がれきの中から見つかった「東禅寺」の釣鐘が会場に設置されている。来場者に、鎮魂供養と復興祈願に撞(つ)いてもらっていた。

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 名取市「東禅寺」の三宅住職と飯能市「法光寺」の大野住職は、駒沢大学宗教学部の同級生。震災から1カ月後、大野住職たちが、がれきの中から東禅寺の3つの鐘を捜し出した。「東禅寺」が再建するまで「法光寺」で預かっているそうだ。

 会場では、ボーイスカウトによる募金活動も行われていたので、わずかだが協力する。

 

●能仁寺(11:05~11:10)

 曹洞宗「能仁寺」は、中央公園を出るとすぐ、「天覧山」の南麓にある名刹。

 仁王像(日本彫塑会会員 鏡恒夫氏製作)のある山門をくぐる。

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 石段を上ると中雀門。

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 正面に立派なの本堂が建つ。右手前の手の指のようなオブジェは、 作品名「紅炎魂・コロナ」、 「作:絹谷幸太 2009年4月」 と書いてあって、炎を表現しているらしい。

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 創建は、戦国時代。飯能地方の領主・中山家と黒田家の菩提寺となり、江戸時代には将軍家の庇護のもと栄華をきわめた。1868年(慶応4年)の「飯能戦争」の本陣となり建物と多くの宝物や古文書が焼失してしまった。

 1936年(昭和11年)に本堂が再建、1976年(昭和51)年から復興を続け、現在では山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成している。山門からの石灯籠が並ぶ砂利道の参道は風情があり、秋の紅葉の頃は撮影スポットになる。広大な境内は、手入れが良くゆきとどいていて、なんとも心が洗われる。

 この寺には、中山家三代の墓と黒田家累代の墓があるという。また本堂の北庭には桃山時代(1573~1615)の造園とされ、市の指定文化財、日本名園百選の「池泉鑑賞式逢庭園」があるそうだ。

 

●天覧山(11:40~11:45)

 「天覧山」は、山というより標高195mしかない丘である。春はつつじ、秋は紅葉でも有名。山麓にある「能仁寺」の守護神である愛宕権現を祀ってあるところから、元来は「愛宕山」と呼ばれていた。5代将軍綱吉の時に、綱吉の病気平癒のお礼に、生母・桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので「羅漢山」となったという。

 その後1883年(明治16年)4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことで、「天覧山」と呼ばれるようになった。山頂には行幸記念の石碑が建てられている。

 「能仁寺」の境内を出るとすぐに、「天覧山登り口」の看板がある。

 山道を進むと、やがて山腹に市街を展望できる「中段広場」と呼ばれる公園のような小広場に着く。トイレや東屋(あずまや)があり、ここで休憩。明治天皇が山に登られた時は、ここの松の木に馬をつないだという。

 広場には、「山峡に歴史を訪ねるコース」の大きな案内図が立っていた。(写真をクリックすると拡大)

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 この先を進むと分岐があり、どちらも頂上に行けるが、左手の岩場の方の道へ行く。崖には将軍綱吉の生母・桂昌院が寄進した羅漢像があった。

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 山道は狭くなり急坂になるが、石段となっていて、谷側には鎖が張られている。

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 そういえば、数10年前に登った時はもっと自然に近い山で、今のような石段や鎖のガードはなかった。

  山頂に着くと、展望台がある。標高は低いが眺望はよく、飯能市街が一望。また奥武蔵・奥多摩の山々のほか、この日は見えなかったが遠く富士山を望むことができる。

 都心方面の高層ビル群が見える。

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 奥多摩の大岳山(標高1267m)が中央のピーク)、御前山(1475m)は右側のピーク。

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 山頂の裏手から松林の中を下り始めると、団体らしい大勢のハイカーとすれ違いが続く。

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 谷に下りると、水田跡の湿地に出る。

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 やがて、いつの間にか尾根道となると「見返り坂」の看板があった。この坂は、源義経の母・常盤(ときわ)御前が、あまりの景色の良さに振り返り振り返り登ったという伝説がある。今は杉の木があってまったく見晴らせない。



●多峯主山(12:25~13:00)

 「多峯主山」は、「天覧山」の北西にある標高271mの山。「多」くの「峯(峰)」の「主」の山と書いて、「とうのすやま」とはなかなか読めない。名の由来は諸説あるが、この辺りの山々の中では最も高い山。

 多峯主山に登る延々と続く坂道と階段。

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 やがてこの道も2手に分かれ、どちらも山頂に行ける。左手は、「雨乞い池」や黒田直邦の墓を経て山頂へ行くコース。

 右手の尾根伝いの道から直接山頂へ行くことにする。

 多峯主山の山頂(標高271m)標識。三等三角点がある。ここで昼食。

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 低山でありながら271m山頂からの眺望に恵まれ、東の平野部、南から西、北と広がる山間部が見渡せる。

 気がつかなかったが、頂上にはお経を書いた石が1万2千個も埋められてる「経塚」があり、古くから信仰の対象になっていた。写真に写ってないが、この山頂標識の下にあった「石経供養塔」の石碑が、「経塚」だったようだ。

 北西の方向にはっきり見える秩父の武甲山(標高1295m)。

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●御嶽八幡神社(13:15~13:20)

 多峯主山からしばらく下ると、「御嶽八幡神社」。通称「おんたけさん」、創立年代不詳。「前岩」と呼ばれる巨岩の上に、社(やしろ)がある。産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守護神)として信仰が厚い。

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 つづら折りの急な階段や坂道を下る。

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 多峯主山から下山すると、麓にはお城のような幼稚園(大東幼稚園)があって、この日は卒園式のようだ

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●吾妻峡(13:50~14:15)

 県道70号線に出ると、標識に従ってしばらく名栗方面(北西方向)へ歩き、ドラッグストア(バイゴー)の横を南に入り坂道を下る。民家の路地を通り抜けると、入間川に出る。

 飛び石のような「ドレミファ橋」を渡る。増水時には、通行禁止となる。

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 入間川にかかる「岩根橋」を境に上流が「吾妻峡」で、下流が「飯能河原」。静かな流れの峡谷は、巨石や奇石が点在し渓相美を見せる。

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 「山峡に歴史を訪ねるコース」では、ドレミファ橋を渡った後は対岸の車の通る道を歩く。その脇道に川沿いの「吾妻峡の河原を歩く散歩道」があり、こちらを歩くことにする。予定していた聖徳太子を祀る「八耳堂」(はちじどう、太子堂とも呼ぶ)はスキップ。

 下流に向かい、赤石、兎石(写真下)、汽車淵と名付けられた奇石が続く、人通りの少ない静かな散歩道。

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 中平河原で、約700mの散歩道は終わり、川岸に上がる。大沢川にかかる大沢橋を渡って「飯能河原」に向かう。

 

●飯能河原(14:50~14:55)

 県道28号を歩くとY字路、左が入間川を渡る「岩根橋」、右へ行くと「飯能河原」。

 やがて入間川が大きく蛇行した広い「飯能河原」に着く。この河原は、駅から徒歩20分ほどの市街地近くにある。

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 飯能河原は、緑と清流のまち・飯能をまるごと体感できるという。飯能河原にかかる赤い「割岩橋」の下流両岸は、「さいたま緑のトラスト」の保全地に指定されている。

 バーベキューやデイキャンプ、浅瀬は子どもたちの川遊びなどの絶好のレジャースポット。昔、家族でここに来て、テントを張ってバーベキューをしたことがある。今は人影も少なく静かだが、夏になると賑やかな声が絶えない。

 飯能河原を渡って、もと来た「大通り商店街」を歩き、東飯能駅に向かう。

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 大通り(県道28号)の広小路交差点に銅像がある。説明板を見ると、双木利一(なみきりいち)先生とある。製作は、彫刻家の清水多嘉示。

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 大正から昭和の時代、飯能小学校校長から銀行支店長、町長、県議会議員として活躍、飯能市の発展に人生を捧げた郷土の名士。1939年(昭和14年)8月没、享年62歳。

 
 15:15、東飯能駅着。ここまでの歩程15,700歩、約9.4Km。休憩を入れて所要時間5時間半。

 15:20、東飯能発の川越駅行きに乗車。15:47、川越駅着。

 川越駅東口から延びる商店街「クレアモール」にある「さくら水産」で、2時間ほど打上げ(16:00~17:50)。夜7時過ぎに帰宅。

 

 この日は、汗ばむほどの良い天気で、上着なしでOKだった。しかし風が少しあって、この後またひどい花粉に悩まされた。

 翌朝起きると、少し筋肉痛があった。一昨日に続きウォーキング、ハイキングと2日続いたので、ゆっくり休養する。

 
 

 ★ ★ ★

【飯能市】

 飯能市は、埼玉県の南西に位置し、東京都(青梅市、奥多摩町)に接する。市内の7割が山野。中世より林業で栄え、江戸時代には江戸の相次ぐ火事により、「西川材」と呼ばれる飯能の大量の材木が、入間川や高麗川により運ばれた。

 人口約8万人、東京都区部への通勤率が高い。東京・池袋から電車で1時間足らずで、緑と清流の町として自然に触れることのできる都会のオアシス。

 

【震災復興元気市】

 「第6回震災復興元気市」が11日、飯能市の中央公園をメイン会場に、市民会館、小町公園、観音寺などで、商工関係や教育・行政など100を超える団体が参加して開かれた。東日本大震災などの被災地を支援する飯能市独自のイベント。(写真をクリックすると拡大)

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 中央公園では、福島、宮城、岩手、茨城、熊本など被災地の15自治体の商工会議所、市民、業者らが、地元のグルメや特産品を販売。また県内、都内など13自治体のご当地グルメ市も開催される。

 また県内外のマスコットキャラクターが集合、防災・安全を考える展示、軽トラ市。市内の「法光寺」で預かっている釣り鐘の展示は、復興が進んで年内にも宮城県名取市の「東禅寺」に帰ることになり、今回が最後になりそうだという。

 隣接の市民会館でも、踊りや音楽の演技・演奏。別の会場では、ひな飾り(店蔵絹神)、朝市や100円商店街なども展開された。

 

【多峯主山】

 多峯主山にある「雨乞い池」は、山頂付近にありながら今まで一度も枯れたことの無いという。水を濁すと雨が降るという伝説がある。

 山頂付近に墓がある黒田直邦は、江戸時代から明治維新まで飯能地方を領していた黒田氏の祖。若いころは5代将軍綱吉に、8代吉宗まで50年余り将軍に仕え、侍従から老中まで上り詰め、上州沼田藩3万石の初代藩主となった。黒田直邦の祖先・中山家勝の建てた「能仁寺」を中興し、寺領50石の大寺とした。直邦の墓は、黒田家累代と同じ「能仁寺」墓地にもある。

 源義経の母・常盤御前については、山頂付近の「常盤が丘」に常盤御前の墓があったという伝説の場所に宝篋(ほうきょう)印塔が建っている。その近くに「常盤平」と呼ばれる眺めのよい場所や、ほかにも前述の「見返り坂」や「よし竹」伝説がある。

 「よし竹」伝説は、常盤御前がこの山に登りながら「源氏再び栄えるなら、この杖よし竹となれ」と言って持っていた竹杖を地に突き立てた。やがてそれが根づいて一面の竹林となったという伝説がある。今でもわずかながら、この付近によし竹が植生しているそうだ。「よし竹」を調べると、ヨシに似ていて葦竹または葭竹と書くが、ダンチク(葮竹または暖竹)の別名とある。イネ科の多年草で、ヨシよりも高くて茎も太く、竹のように中空で節があるそうだ。

 

【飯能戦争】

 飯能は、1867年(慶応4年)の「戊辰戦争」の一局面「飯能戦争」の舞台となった。

 明治維新時、幕臣の一部や旧幕府を支持する諸藩の藩士・志士で結成された「彰義隊」の頭取であった渋沢成一郎(実業家・渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と意見が合わず対立。彰義隊を脱退した成一郎を首領とし、有志を集めて「振武軍」を結成した。

 「彰義隊」と新政府軍(官軍)の間で「上野戦争」が起こる。敗戦した彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった「振武隊」は、飯能の「能仁寺」に入り本陣とし、「智観寺」、「広渡寺」、「玉宝寺」、「秀常寺」、「心応寺」、「観音寺」に兵を分散して布陣した。1868年(慶応4年)5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる3,500名の官軍の一方的な攻撃により飯能は戦場と化し、わずか数時間で勝敗は決した。200戸の民家や本陣であった「能仁寺」ほか「智観寺」、「広渡寺」、「観音寺」の四ヶ寺もほとんど焼失した。

 成一郎は被弾して負傷したものの、伊香保(群馬県渋川市)に逃れ、密かに江戸に戻る。参謀の渋沢平九郎(渋沢栄一の養子)は、変装して顔振峠を越えて逃げるが、黒山村(埼玉県越生町)で官軍に捕まり、切腹して果てた。22歳だった。成一郎は、榎本武揚の艦隊に合流し、最後は箱館(北海道函館市)まで行って転戦した。

 

【ヤマノススメ】

 『ヤマノススメ』は、ペンネーム”しろ”による漫画作品。月刊漫画雑誌『コミック アース・スター』2011年9月号より連載中。登山を趣味とする著者が、4人の女子高生が登山を通して友情を深め成長するストーリーを描いている。飯能が舞台で、実在する山や建物、風景が作中に何度も登場することから、飯能をいわゆる「聖地」として訪れるファンも多いという。

 2013年度から飯能市のまちのイメージアップとして、「アニメを活用した地域振興」(萌えおこし)を始めている。イベント会場でコーナーを設けたり、舞台探訪マップや聖地巡礼ツアー、スタンプラリーなどを行って、賑わい創出、商店街振興などの活性化策を推進、地域も一丸となって支援している。

 下の写真は、2014年(平成26年)8月開催の『ヤマノススメ』舞台探訪スタンプラリーのパンフの一部(パンフとスタンプ台紙が、飯能商工会議所のホームページからダウンロードできた。)

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 飯能市内を歩くと、キャラクターが車体に描いてある路線バスが走っていた。そういえば「観音寺」にキャラクターの絵馬のほかにも、市内商店にもキャラクターの看板あったり、天覧山の中段広場の東屋(あずまや)にはファンの交流ノートが置かれたりしていたのを、後になって思い出した。

 NHKの大河ドラマや朝ドラの放映、あるいは小説や映画などによって、急に人気が出て脚光を浴びる観光地や新たな場所が観光地化する傾向は以前からあった。

 数年前から漫画・アニメ作品によって、「聖地巡礼」という言葉が漫画・アニメファンにとって、特別な意味を持つようになった。この「聖地巡礼」が広く知られるようになったのは、埼玉県久喜市(旧鷲宮町)の鷲宮神社がアニメ『らき☆すた』に登場、また長崎県五島市を舞台としている漫画『ばらかもん』などの事例が取り上げられる。

 そして漫画・アニメ作品を対象とした「アニメ・ツーリズム」、広くは文芸、舞台、映画、TVドラマ、漫画・アニメを対象とした「コンテンツ・ツーリズム」というカタカナの言葉も耳にするようになった。近年、全国各地の自治体において、これらを地域活性化(まちおこし)として、真剣に取り組まれているようだ。また観光学、社会学の面からも、これらの「物語の旅」が研究の対象となっている。

 漫画・アニメというコンテンツは、シニア世代からすれば対象となる年齢層が若く、ともすればマニア、オタクという印象もつきまとう。彼らは、クチコミやSNSで情報を分かち合う。旅をしても、シニア世代の様に現地にお金はあまり落とさない。最近ある自治体で、あまりにも女性キャラクターの胸を強調し過ぎたポスターを作り、各方面から批判を浴びたため撤去したというニュースもあった。

 旅行や観光つまり「ツーリズム」に、これまでのような自然景観、歴史遺産、文化遺産といった伝統的な観光資産とともに、21世紀になって「物語=コンテンツ」といった新しい観光資産が加わったのだと思えば良い。今後こういった「コンテンツ・ツーリズム」が、各地域でどう発展していくのか、注目したい。

 

 

 

 

2017年3月15日 (水)

森林公園の早春の花

 3月10日(金)、「国営武蔵丘陵森林公園」(埼玉県滑川町)の早春の花見ウォーク。

 

 東武東上線の森林公園駅北口に9時集合。お昼の弁当が配られ、主催者の挨拶の後、ウォーキングのスタート。

 駅前から森林公園南口までのおよそ3Kmの遊歩道を45分ほどかけて歩く。

 南口から入園、「梅林(花木園)」までは約1Km。寒桜や菜の花を見ながら15分ほど歩く。

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 10:10、陽だまりの斜面にある「梅林」に到着。

 ここは、春を一番に感じられるエリア。120品種、500本の梅の木が植えられている。

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 梅の木の下に咲く「水仙」。

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 早咲きの梅はすでに盛りを過ぎてちょっと寂しいが、遅咲きの白・桃・紅の梅の花が見ごろを迎えている。一部の木では、「樹勢回復中」の看板が立っている。

 「月影枝垂れ」は、白の一重咲き大輪、枝垂れ性の品種。

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 見事な紅梅が広がる。

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 「月影」という品種の梅。花が青白く、白梅の中でも際立って目立つ梅。一重、野梅性の遅咲きの梅。池に映る月のような梅という意味があるらしい。

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 「見驚(けんきょう)」は、中国原産で日本へは古代に渡来した栽培品種の1つ。開花時期は3月上旬ころ。野梅性の淡い桃色をした八重咲きの大輪、花の色は咲き進むと白くなる。大輪で見て驚くというのが名の由来。

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 撮影した梅の説明看板で品種をチェックできなかったのが、後になって残念。

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 梅の品種とは違うが、花が蝋のような艶がある「ロウバイ(蝋梅、ロウバイ科)」は盛りを過ぎていた。

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 早春の花「マンサク(満作、マンサク科)」の花は、もう終わったのか見当たらなかった。マンサクは、花がよく咲けば豊作、花が少なければ不作など、稲の作柄を占ったとか、早春に咲くので「まず咲く」、「まんずさく」と東北地方で訛ったものともいわれている。

 ミズキ科の「サンシュユ(山茱萸)」も咲いていた。江戸時代薬用植物として栽培され、今では観賞用として庭木に植えられている。

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 しばらく梅林の中を散策、さまざまな品種の梅の花を観賞。

 (写真をクリックすると拡大表示)

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 10:55、「運動広場」に移動して、ここで早めの昼食。

 11:25、次に「野草コース」に向かう。

 11:35、野草コースの入口では、フクジュソウ、オオミスミソウ、キクザキイチゲなど可憐な花が咲いていた。

 早春を代表する花「フクジュソウ(福寿草)」は、キンポウゲ科の毒草。

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 「オオミスミソウ(大三角草)」は「雪割草」とも、新潟県の花としても知られ、ピンクや紫など色や花の形の変化に富む。

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 「キクザキイチゲ(菊咲一華)」は、菊に似ている。紫色の花もあるそうだ。

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 フクジュソウ、オオミスミソウもキクザキイチゲも、キンポウゲ科である。

 野草コースで「カタクリ(片栗)」の花を探したが、まだ時期が早かったようだ。

 11:55、公園南口に向かう。

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 12:15、公園南口に戻る。ここからまた森林公園駅まで歩いて帰る。

 13:05、森林公園駅着。

 この日は好天に恵まれ、早春を感じながらの4時間、10Km余りのウォーキングを楽しんだ。

 ★ ★ ★

 「雪割草」は、早春に残っている雪を割るようにして咲くのが花の名の由来だそうだ。キンボウゲ科で、オオミスミソウ(大三角草)、ミスミソウ(三角草)、スハマソウ(州浜草)、イチリンソウ(一輪草)、ニリンソウ(二輪草)などが一般に「雪割草」と総称されているという。

 雪割草の中でもオオスミスソウが、最も変異のバリエーションが多く、色々な色や形の花がある。後で撮った写真を見ると、どれがそのオオミスミソウなのか、分からなくなってしまう。また様々な花を作りだすため、交配を試みる雪割草の愛好家も増えているそうだ。雪割草は、新潟県を中心に日本海側でよく見られる花で、新潟県の「県の草花」として2008年(平成20)に指定されている。
 
 一方で、これとは別にユキワリソウというサクラソウ科の高山植物もある。また地方によってはユリ科、ナス科の中にも雪割草と呼ばれる花があったりするので、ややこしい。

2017年3月14日 (火)

早春の三浦半島めぐり

 3月8日(水)、日帰りの三浦半島めぐり。

 

 この日の三浦半島の最高気温は、11℃。天気は晴れだが、午後から雲が多くなり、所によってはにわか雨が降るとの予報。

 参加者18人が乗った貸切バスは、最寄りの駅前を9時出発。東名自動車道の海老名PAで休憩。有料道路の横浜横須賀道路、本町中山道路を経て、11時15分京浜急行の汐入駅前付近で下車。

 

●横須賀どぶ板通り(11:15~12:25)

  汐入駅付近から続く「どぶ板通り」を散策する。横須賀市本町1丁目~3丁目の国道16号(横須賀街道)の南側に並行した道路一帯を「どぶ板通り」と呼ぶ。

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 シャッターの閉った店が目立つ。水曜日は定休日なのか、米兵相手の店が廃業したのかか、それとも夜になって遊びに来るバーなどの店なのだろうか。アルファベットの看板もあまり見ない。

 

 横須賀のグルメは、「ネイビーバーガー」や「海軍カレー」。「どぶ板通り」の入口付近にある「海軍カレー館」に入る。

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 「元祖よこすか海軍カレー」(880円)を注文。

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 このカレーは、明治41年のイギリス海軍のレシピに最も忠実な『海軍割烹術参考書』(明治41年)に基づき調理したものらしい。牛乳とサラダが付く。小麦粉が入っていて、昔懐かしい味がする。

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 「どぶ板通り」は、「中央大通り」(横須賀中央駅から国道16号まで)にぶつかり終わる。

 写真は、国道16号との交差点(本町一丁目交差点)付近。

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 国道16号を横断し「三笠公園」へ。

 

●記念艦「三笠」(12:35~12:55)

 三笠公園には、日露戦争の日本海海戦で活躍した旗艦「三笠」が保存されていて、記念館として見学できる。手前の銅像は、三笠に乗艦し連合艦隊を指揮した東郷平八郎司令官(元帥)。

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 艦内を駆け足で観覧(600円)する。明治時代の戦艦だからだろうか、思ったより小さい。

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 15センチ副砲(レプリカ)の操砲展示。

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 上甲板と8センチ補助砲(レプリカ)。

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 艦橋(ブリッジ)の操舵室は意外と狭い。

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 前部30センチ主砲(レプリカ)。正面は横須賀米海軍施設。主砲が米軍に向かっているのではなく、艦首が皇居を向いているそうだ。あとで地図で見ると確かにそうだった。

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 記念撮影のスペース。背景の絵は、日露戦争での日本海海戦の様子を描いた東城鉦太郎(しょうたろう)の有名な『三笠艦橋の図』の複製。中央で指揮をとるのが、連合艦隊の東郷司令長官。

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 中甲板の艦尾にある「長官室」。長官が居住し、執務する部屋。ベッドもある。外国要人との応接にも使われるので、室内は豪華。

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 長官室の壁の中央に、明治天皇の御真影があった。

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 作戦会議などが行われた「長官公室」。

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 長官公室の隣は「艦長公室」、少し離れて大尉から中佐までの士官が使用する「士官室」などがある。

 ほかに中甲板には日露戦争に関する様々な資料を展示してある「展示室」、上甲板には「ビデオ室」がある。

 上甲板にある「無線電信室」。当時の最新鋭の三六式無線電信機を装備しており、バルチック艦隊発見の無線を受信し、艦隊の場所を把握して戦闘準備に備えたという。

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 三笠公園近くの地場産物総合販売所「よこすかポートマーケット」で買い物。

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 「ポートマーケット」は、横須賀・三浦など地元でとれた旬の農水産物を販売する地産地消マーケット。お土産やレストランの他、軽飲食の施設もある。

 バスは、汐入駅前付近からマーケット駐車場に回送され、13:05出発。

 
 よこすか海岸通りから三春町4丁目交差点を右折、三崎方面へ国道134号を南下する。三浦海岸を経て引橋から県道26号へ。

 「城ヶ島大橋」を渡って(通行料530円)、城ヶ島へ。

 
●城ケ島(14:00~14:55)

 伊豆半島で有名な「城ケ崎」と混同されやすいが、こちらは岬ではなく「城ヶ島」。

 城ヶ島は、三浦半島の最南端、周囲長約4 km、面積約1キロ平米、神奈川県最大の自然島。鎌倉時代以来の景勝地で、北原白秋の『城ヶ島の雨』で知られる。島の周りの岩礁地帯は、波状岩。この島の東半分には、神奈川県立城ケ島公園が広がる。ここは、三浦市三崎町城ケ島で、人口は約600人。

 島の東は「安房ヶ崎」、西に「長津呂崎」や「灘ヶ崎」、南に「赤羽根崎」、北に「遊ヶ崎」という岬がある。

 島の西側、「灘ヶ崎」に行く。相模湾の波は比較的静か。

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 岬に向かって右対岸の三崎港。

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 後方を見ると、さっき渡って来た「城ヶ島大橋」。

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 「灘ヶ崎」には小高い丘があって、登ると山頂に祠があった。

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 この山は「楫(かじ)の三郎山」と言い、祠のそばの木の枝には大漁祈願などの赤い布が結んである。

 三郎山から北西の「灘ヶ崎」の眺望。対岸は、湘南海岸、茅ヶ崎・平塚方面か。

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 三郎山からの南西方向の眺望。眼下に「灘ヶ崎」の磯、向うに「長津呂崎」の磯、左に城ケ崎灯台、中央は京急城ヶ島ホテル。

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 城ヶ島を出て、対岸の三崎港に移動する。

  

●三崎港(15:10~16:00)

 マグロで有名な三崎魚港。三浦半島最南端の港。

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 港にある産直センター「うらりマルシェ」で買い物。あじの干物600円、かまぼこセット1,000円。

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 対岸の城ヶ島。

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 手軽に海中散歩が楽しめるという半潜水式の観光船「にじいろさかな号」が、三崎港に帰って来た。

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 「にじいろさかな号」は、船底のガラス窓から海中をのぞくことができる観光船。約1時間に1本のペースで運航(料金大人1,200円)されているそうだ。
 

 国道134号線を北上し、荒崎入口交差点左折、1.5キロほど走って左折、海岸線を南下2キロ余り走ると荒崎。
 

●荒崎(16:35~18:00)

  荒崎公園の駐車場で下車。

 荒崎公園からは、海沿いに長浜海岸まで延びるハイキングコースがあるそうだ。三浦半島屈指の景観といわれる海岸美が楽しめるという。

 今回は、公園の北側の磯辺に行き、夕陽が伊豆半島に沈むのを眺める。

 波状岩が広がる荒崎の磯辺。

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 荒崎の海岸から見る富士山のシルエット。

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 日の入りは17:40頃。

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 18:00、貸切バスは、三浦縦貫道路、横横道路、東名自動車道を経て帰路へ。 

 20:30、出発時の駅前に到着。

 この日は好天に恵まれた。冷たい風が吹いたり日陰になったりするとヒンヤリするが、日差しが暖かい早春の三浦半島めぐりの1日だった。さすがに夕日を見る頃には冷え込むのでダウンを着たが、昼間は上着なしで過ごせた。

 

 ★ ★ ★

 戦前の横須賀「どぶ板通り」は、道の中央にどぶ川が流れていたそうだ。道が狭いため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらい、どぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになった。その後鉄板は撤去され、川は埋め立てられたという。この一帯は通称「どぶ板通り商店街」と呼ばれ、150軒ほどの商店・飲食店があるが、正式には「本町商店会」という。

 戦後は進駐軍・在日米軍横須賀海軍の兵隊向けの街として栄えた。いたるところにアルファベットの看板やネオンが溢れる異国風の商店街で、他の基地の街のようにベトナム戦争の頃が最盛期だったが、今やその面影も薄れつつある。 

 

 記念館の「三笠」は、1902年(明治35年)にイギリスで建造された。日露戦争では特に1905年(明治38年)の日本海海戦で、バルト海から派遣されたロシア軍バルチック艦隊と交戦し勝利を得る。1923年(大正12年)に退役、1926年(大正15年)に記念艦として横須賀に保存されていた。

 しかし第二次世界大戦後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、また米軍の娯楽施設になったり、物資不足で資材が盗まれたりして荒廃した。

 三笠を元の姿に戻そうとの運動が国内外で高まり、募金や米海軍の支援などにより、1961年(昭和36年)に復元。現在は防衛省が所管している。 

 

 城ヶ島の灘ヶ崎にある小山は「楫(かじ)の三郎山」と言い、案内板には次のように書いてあった。

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 対岸の三崎にある海南神社の祭神・藤原資盈(すけみつ)公が、貞観六年(864)故あって九州博多を出帆し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。このとき、御座船の楫(かじ)とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、「楫の三郎山」と呼ぶようになったと伝えられています。

 また資盈(すけみつ)公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫がおちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。

 大正初年頃までは、この山に主の大蛇が住んでいるから登るとたたりがあるとの言い伝えがあり、誰一人登ったことがなかったといわれています。

 今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く、毎月7日、17日、27日に多くの人々が参拝に訪れています。                          

                                                   三浦市
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<筆者注> 楫(かじ)とは、櫂(かい)や櫓(ろ)など、水をかいて舟を進める道具の古名。

 

2017年3月 9日 (木)

DIC川村記念美術館

 2月26日(日)、佐倉市にある「DIC川村記念美術館」に行く。
 

 午前中に千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」を観覧、午後から佐倉城址公園を散策した後、佐倉市郊外にある「DIC川村記念美術館」に移動する。

 

 DIC(ディアイシー)は、旧社名「大日本インキ化学工業株式会社」。「川村記念美術館」はそのDICの創業者・川村喜十郎をはじめとする川村家三代の収集品を公開するため、1990年(平成2年)に開館した民間の美術館。

 レンブラントやマネ、ルノアールの印象画、日本画、ピカソやシャガールなどの近代美術、20世紀の現代アートが展示されている。
 

 13:30、美術館の駐車場着。

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 インフォメーションの建物の右手、入口ゲートの左手にある彫刻家・佐藤忠良のブロンズ作品『緑』(1989年製作)。

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 広大な自然の庭園の中の散策路を歩く。池の向う林の奥にDIC総合研究所が見えた。

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 右手の美術館に向かう。

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 ヨーロッパの城のような美術館。建物の設計は、建築家・海老原一郎氏。

 美術館入口の左手にある巨大な赤い椅子のような作品は、彫刻家・陶芸家の清水九兵衛『朱甲面』(1990年製作)。材料は、鋳造アルミニウム、ステンレススチールなど。

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 美術館の入口の右手にあるフランク・ステラによる作品『リュネヴィル』(1994年製作)。廃材のようにも見えるが、材料はステンレスやアルミナブロンズだそうだ。どこか宮崎駿のアニメ映画『ハウルの動く城』を思い出す。

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 13:40、美術館に入館。

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 14:00~15:00、ガイドスタッフによる鑑賞ツアーがあり、展示絵画の解説を1点ずつを聞く。どこの美術館もそうだが、館内は撮影禁止。

 

 以下、主な作品について記す。

 なお、「美術館のパンフから転載」と注記された以外の写真の出展は、ウィキペディア「川村記念美術館」のパブリック・コモン。
 

 レンブラント・ファン・レイン『広つば帽を被った男』(1635年); 左方から光が当てられ、生き生きとした顔の表情が光と影で描き出されており、質感をリアルに描写している。

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 この絵は当初、モデルの妻の肖像画と一対で飾られていたはずだが、子孫の代になって別々に売られたのか、妻の絵はアメリカのクリーヴランド美術館に所蔵。ガイドスタッフの話では、一度だけアメリカから借りて、並べて展示したことがあるそうだ。

 クロード・モネ『睡蓮』(1907年); 自宅の庭に造った池の睡蓮を描き、200点以上の作品を残した中の1つ。よく見ると、映り込みで池の外を表現している。水面に写る光と樹木が絵の遠近感を与えている。

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 オーギュスト・ルノワール『水浴する女』(1891年); 女性の肌の透明感、背景の境界をぼやかして柔らかさを表現しているのが素晴らしい。

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 ほかに、パブロ・ピカソの『肘掛椅子に座る女』(1927年)を含む2点、など。

 マルク・シャガール『赤い太陽』(1979年); シャガールは、20世紀前半にパリで活躍した外国人画家たちの総称「エコール・ド・パリ」のうち特によく知られる一人。闇の黒さを背景に、無重力遊泳するような人物や動物、花束などが浮かび上がる。(美術館のパンフから転載)

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 他にシャガールの『ダビデ王の夢』1966年; キリストを抱いたマリアとダビデ王の絵は、有名。

 長谷川等伯『烏鷺図屏風』1605年; 六曲一双の屏風で、重要文化財。屏風の左隻に烏と右隻に鷺を描いた水墨画で、黒と白、動と静をを対比させているそうだ。

 左隻の烏の図

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 右隻の鷺の図

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 他に日本画では、尾形光琳の『柳に水鳥図屏風』、加山又造『鶴舞』の作品が各1点が展示。

 次のコーナーでは、現代アートが多数展示。幾何学的な線や模様、抽象的な図形などの絵画や壁画、オブジェなど作品は、理解に苦しむ。作品の掲載、解説は省略する。

 マックス・エルンスト『入る・出る』1923年; ダイニングのドアに直接描かれた絵。(美術館のパンフから転載)

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 屋外にも作品『リュネヴィル』があったが、フランク・ステラの大型作品群。(美術館のパンフから転載)

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 本美術館は千葉県佐倉市坂戸にあり、隣接するDIC株式会社総合研究所の敷地と合わせ、里山を利用した広さ30万平方米(9万坪)の広大な庭園の一角に建つ。近現代美術のコレクションとしては、日本でも有数の規模を持つらしい。収蔵品が1,000点以上もあるそうだが、広い館内にたくさんの作品を詰め込みすぎず、ゆったりしている。特に現代アートの作品は、大きいので天井も高い。

 15:15、美術館を退館。出口ゲートを出て駐車場へ。

 美術館の外は時間がなくて回れなかったが、池では水鳥が泳ぎ、庭園の林間には散策路が設けられている。野鳥や四季の草花・樹木の花々が楽しめ、芝生広場でくつろげるという。

 15:30、美術館を出発。

 行きは朝7時半過ぎ出発、佐倉市の「歴博」には、2時間半弱で着いた。

 帰りは別ルートで帰ろうとしたが、高速道路が渋滞していて結局4時間半もかかり、帰着したのは20時前。博物館、美術館の2つのミュージアムを午前・午後と観覧して、立ちっぱなしということもあって、けっこう疲れた。

 

 ★ ★ ★

 DIC株式会社は、印刷インキで世界トップシェアのファインケミカルメーカー。明治41年に印刷インキの製造及び販売会社として創業。今日に至るまで 有機顔料、合成樹脂材料の他、電子情報材料などを製造販売。

 「大日本インキ」という名前は聞いたことがあったが、万年筆や硬筆ペンのインクをイメージしていたら違っていた。日露戦争後の明治末期に急伸した印刷業界の印刷用インキ製造・販売が出発点だった。会社の概要は、以下の通り。

 沿革:  1908年(明治41年) 「川村インキ製造所」創業。
      1937年(昭和12年) 「大日本インキ製造株式会社」設立。
      1962年(昭和37年) 「大日本インキ化学工業株式会社」に変更。
      2008年(平成20年) 「DIC株式会社」に商号変更。

 本社: 東京都中央区、工場;東京都板橋区ほか8ヶ所、総合研究所;千葉県佐倉市。 

 資本金: 966億円、連結従業員数:2万人、連結売上高7,500億円(2016年12月期)

 

 
 「現代アート」という定義はないそうだが、「伝統的・古典的なアートではないアートが、現代アート」だそうだ。ともかく現代アートは、鑑賞してもさっぱりわからない。

 この分からない作品を権威のある人から評価されたり、お墨付きを与えられたりして、作品が高価で取引されているのもよく分からない。

 既成の概念、社会通念や規範を破ってこそ現代アートかもしれないが、倫理観に欠ける作品を発表し、社会問題になることもある。現代アートに、こういったマイナスイメージが付い回るのも、分かりにくくしている。

2017年3月 7日 (火)

国立歴史民俗博物館

 2月26日(日)、佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」に行く。

 ワゴン車に参加者7人が同乗、7:35出発。「国立歴史民俗博物館」は、千葉県佐倉市城内町、「佐倉城址公園」の一角にある。9:55、博物館到着。

 (写真はクリックすると拡大表示します。)

 

●国立歴史民俗博物館(9:55~12:40)

 正式名称は、「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館」。略称は、「歴博」。

 歴史学、考古学、民族学の大学共同利用機関で研究を推進するとともに、あわせて資料を展示・公開する博物館としての施設。35年ほど前に開館した比較的新しい国立の博物館で、約13万平米の敷地に延べ床面積約3万5千平米の規模を有する壮大な「日本の歴史」の殿堂。

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 広々とした博物館のロビー。10:10、展示室に入場。

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●第1展示室(原始・古代)・・・日本列島に人類が登場した旧石器時代~律令国家が成立した奈良時代まで。

 残念ながら、リニューアル中のため閉室。

●第2展示室(中世)・・・平安時代~安土桃山時代

 平安京のジオラマ

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 「王朝文化」; 女房装束の十二単、男性の左が束帯(そくたい、正装)、右は直衣(のうし、日常着)など貴族の服装を展示。唐風文化に代わって独特な王朝文化が花開く。

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 「大名と一揆」; 室町時代は大名が力を持つ一方、地域的な自治も発達した。戦国大名朝倉氏の一乗谷遺跡、一揆関係の資料、京都の町並の再現模型などが展示。「洛中洛外図屏風」を元にした京都の町並のミニチュア(写真中央)は、良く出来ていた。

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 「民衆の生活と文化」エリア; 中世後期は、底辺の民衆が歴史の表舞台にはなばなしく登場、農業や手工業の技術が発展し、多くの芸能も生まれた。

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 中世の賑やかな「市」の様子。

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 縦引き鋸(のこぎり)と職人。この鋸は、製材に一大革新をもたらした。

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 芸能(田楽)の装束。奈良春日社など、現代の祭礼に名残をとどめる。

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 煎じ物売りの商人。

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 「大航海時代のなかの日本」; これまでの中国(明)を中心とした交易から、ヨーロッパ勢力の東アジア進出は多くの文物をもたらし、特に鉄砲とキリスト教は日本に大きな影響を与えた。写真下は、御朱印船の模型。

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 そのほかの展示エリアは、

 「東国と西国」; 中世では、東の鎌倉幕府と西の朝廷とに分権化する。それによって文化・生活の違いが顕著になるが、一方で人々や物資が東西を交流する。

 「印刷文化」; 平安の経典などから近世初期の古活字本など、印刷文化の歴史を紹介。

 

●第3展示室(近世)・・・江戸時代

 「国際社会のなかの近世日本」; 近世では「鎖国」をしていたと思われがちだが、中国、オランダ、朝鮮、琉球、アイヌとの交流していた。特に松前藩を通じてのアイヌとの交流は初めて知ることが多く、興味深い。

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 「都市の時代」; 近世は、各地に城下町ができ、現代にもつながる都市が作られた「都市の時代」だった。江戸中心部の町・日本橋付近の模型も良く出来ている。

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 「ひとともののながれ」; 各地に都市ができ新たな物流が生まれ、また庶民が旅行するようになると全国の交通網が整備された。写真中央は各地に建てられた道標、左には旅篭屋(はたごや)、右に北前船。

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 「村から見える近代」; 「四季農耕図屏風」には、農民の生き生きした働く姿や暮らしぶりが描かれている。村びとは、技術開発によって生産性を向上させ、暮らしのゆとりが出来ると学んだり、娯楽を楽しんだりする一方で、貧富の差も広がる。

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 江戸時代も末期になると、幕府を批判する考え方や、自分たちの地域の文化や歴史をみつめ直そうという動きが起こり、「近代」社会の担い手もこのなかから生まれました。村に住んでいた人たちが考えていたことや活動していたことを紹介。
 

 第3展示室では、特集展示「見世物大博覧会」が開催中。

 江戸時代に隆盛を極め、明治から現代に至るまで命脈を保ってきた多種多様な「見世物」の様子を、本館や個人が所蔵する絵看板、錦絵、一枚摺(ずり)などを紹介。残念だが撮影禁止。写真は、歴博のパンフから転載。

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●第4展示室(民俗)・・・列島の民俗文化を紹介しながら、過去を振り返り未来を見つめる。

 「民俗へのまなざし」; 産業開発や消費文化の影響を受けつつ変貌する民俗を展示。

 サブテーマ「ひろがる民族」では、時代によって三越デパートの「おせち料理」がどう変化したかを食品サンプルで展示されていたが、ここだけは撮影禁止。

 サブテーマ「開発と景観」では、世界遺産に登録された白神山地、屋久島、五箇山・白川郷の合掌造りの景観が保全される一方で、生活文化が改変されている。

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 同上サブテーマの沖縄戦跡と観光、西表島の自然についての展示。

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 「おそれと祈り」と「くらしと技」; 3月31日まで、施設工事のためエリアを閉室。

 

●第5展示室(近代)・・・明治・大正。19世紀後半近代の出発~1920年代まで。

 「文明開化」; 公教育の成立・普及、民間の学習活動、自由民権運動などを展示。

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 急激な文明開化は、人々の経済や生活に多くの動揺と混乱を生じ、貧困と格差、伝統文化の破壊、抑圧や差別の歴史をあぶりだすことになった。

 「産業と開拓」; 政府は、殖産興業や富国強兵をスローガンに、多くの国民の犠牲のもとに近代化政策を推進した。生糸と海外貿易についての展示。

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 政府は、国策の基幹産業といえる製糸、製鉄のほか北海道開拓を進めるが、一方で様々なひずみを生じた。アイヌに対しての和人同化の強制政策についての具体例は初めて知る。

 「都市の大衆の時代」; 近代工業の推進は、産業構造を変化させ、農村から都市変人口移動を加速し、都市の大衆化、消費文化が始まった。

 消費文化に着いて、飲料、化粧品、衣料などのポスターを展示。

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 浅草の町並。正面は活動写真館の券売所がある。

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 やがて1923年(大正12年)、関東大震災が大都市東京を襲うことになる。
 

●第6展示室(現代)・・・1930年代~1970年代、戦前と戦後 

 「戦争と平和」; 明治から大正、昭和と、日本は数々の戦争を繰り返した。富国強兵が国家目標とさ れ、そのために国民と他国民に多くの犠牲を強いた。戦争終結から占領下の生活を展示。

 写真中央の「入営祝いの幟(のぼり)」は、親類・知人が贈ったもので、見送りの際に各家庭の前や駅などに立てられた。

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 占領下の生活、闇市・露天商を実物大のマネキンで再現。

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 「戦後の生活革命」; 1950年代半ばから70年代初めまでの高度成長は、重化学工業を中心とした産業がそれを支え、農村から大量の人口が都市へ流入した。電化生活が実現し、都市型生活が広がった。

 大衆文化からみた戦後日本のイメージとして、昭和の映画、テレビ番組、CM、雑誌などが展示されていた。懐かしいものがたくさんあってゆっくり見たかったが、あいにく集合時刻まで残り少なくなった。

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 東宝映画『ゴジラ』の造作模型。

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 11:45、館内のレストラン「さくら」に入店。佐倉丼(豚丼)や古代米のカレーを注文(1,300円)。 

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 13:30~ミュージアムショップ。関連図書や博物館グッズが販売されている。本館のガイドブック(540円)を購入。

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●佐倉城址公園(12:40~13:10)

 博物館を退場し、城址公園内を散策する。日曜とあって家族連れが多い。さすがにサクラの木が多く植えられていて、花見の頃にはさぞ賑やかだろう。

 江戸時代の佐倉城は、佐倉藩の藩庁。明治以降は、歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

 写真は「佐倉陸軍病院」跡地に建つ石碑。戦後は「国立佐倉病院」となり後に移転するが、現在は国立千葉東病院と統合。

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 正岡子規の句碑「常盤木や冬されまさる城の跡」が建つ。

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 二の丸から本丸に入る二階建て「一の門跡」があった。

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 城の防御のための土塁と本丸跡。城郭は石垣を一切用いない土造りで、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にした。

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 本丸の隅、赤いパイロンの付近に天守の代用の三重櫓(三階建てのやぐら)があった。

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 この後の行動は、本ブログ「DIC川村記念美術館」につづく。

 ★ ★ ★

 東京・京都・奈良の3か所の美術系博物館は明治時代から存在したが、歴史系の国立博物館(以下、歴博)を設置するべきとの意見は古くから出ており、特に歴史学者の黒板勝美が訴えていた。設置構想が具体化するのは、戦後になってから。1966年(昭和41)「明治100年」記念事業一環として歴博の設置を決定、学識経験者らによって検討が始まった。

 1971年(昭和46)文化庁内に歴博設置の基本構想委員会、1978年(昭和53)には歴博設立準備室が設置された。歴博を考古・歴史・民俗の3分野を柱とし、あわせて大学共同利用機関とするコンセプトは、準備室長の歴史学者で東大名誉教授・井上光貞によるところが大きい。

 歴博は1981年(昭和56)に発足、設置準備において指導的立場にあった井上が初代館長となった。ただし博物館としての一般公開が始まるのは、2年後の1983年(昭和58)3月。公開直前の2月に井上は急死する。2代目館長は、東大文学部の土田直鎮教授が引き継いだ。

 歴博は展示施設であるとともに、考古学・歴史学・民俗学の研究機関であり、他の研究機関や大学と共同で研究を推進し、調査研究の基盤のもとに収蔵品の展示を行うことが重視されている。収蔵品は、「収集資料」と「製作資料」とに大別される。「収集資料」は実物資料で、古文書、古記録、絵図などの歴史資料、考古資料、民俗資料など。これらは、歴博開館時に文化庁から移管されたものが大部分を占めるという。「製作資料」は、建造物の模型、古墳や町並み・集落などの復元模型、考古資料など遺物の模造(レプリカ)などがある。

 話に聞いた通り、天皇や将軍といった権力者中心ではなく、庶民の立場からの日本史をわかり易く、ビジュアルに展示・解説してあって、教科書では習わなかった事柄(例えばアイヌの事など)も多く、非常に有益であった。

 2時間近く見て回ったが、全部を見きれなかった。中世、近世の庶民の歴史・風俗に関心があって時間を費やして詳しく見たが、第6展示室(現代)では時間がなくて通り過ぎただけだった。今回は第1展示室(原始・古代)が閉室だったので、特に原始時代の考古学的資料が見られなかったのは残念。歴博は、何度も足を運んで観るものらしい。少々遠い所だが入場料も安いので、機会があればぜひまた行ってみたい。
 
 

 ★ ★ ★

 佐倉城は、1610年(慶長15年)に土井利勝(後に幕府の老中、大老)が徳川家康の命を受け完成した。江戸時代初期には城主の入れ替わりが多かったが、後に堀田氏が入封し幕末まで続いた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、幕末の藩主で老中を努めた堀田正睦(まさよし)は有名。

 正睦は蘭学を奨励し、医師・佐藤泰然を招いて城下に医学塾・順天堂(現在の順天堂大学の起源)を開いた。幕府老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結に奔走する。しかし孝明天皇の勅許を得られず、井伊直弼の大老就任によって失脚した。

 佐倉城址公園には、堀田正睦とタウゼント・ハリスの銅像が並んで建っている。
 

 常盤木や 冬されまさる 城の跡

 正岡子規の句は、既に病魔にむしばまれていた26歳くらいの1894年(明治27)12月、開通したばかりの総武線を利用して佐倉を訪れて詠んだとされる。

 「冬の荒れ果てた寂しさが増した城跡は、常緑樹に包まれている」という意味だそうだ。「常盤木(ときわぎ)」は、常緑広葉樹林のこと。「冬され」と歌っているが、一般的には「冬ざれ」のことで、冬の荒れさびれた姿として用いられる季語だという。枯れ果てた古城より、常盤木のような生き生きとした軍事基地を、「冬されまさる」とは表現した。

 日清戦争が激しさを増している最中、新設なった総武線路によって大陸への人員・物資輸送に活況のある城址駐屯地のありさまと、荒れさびれた古城の対比を見て、子規はどう感じたのであろうか。

2017年3月 1日 (水)

早春の伊豆半島めぐり-その2

 2月15日(水)~16日(木)、1泊2日の伊豆半島めぐり。

 本ブログ「早春の伊豆半島めぐり-その1」の続き。

 

 16日(木)、日本列島は高気圧に覆われ、伊豆半島の天気は晴れ、最高気温はは14℃。前日よりも暖かい日だった。1泊2日の伊豆半島めぐりの2日目。

 

 4:30頃起床。日出を見るため、5:10ホテルを出発。まだ暗いが、さほど寒くはない。

 

●大瀬海岸(5:35~7:00、南伊豆町大瀬)

 下田のホテルから南下。伊豆半島の最南端「石廊崎(いろうざき)」の東方の「大瀬海岸」の沖に、蓑掛岩(みのかけいわ)と呼ばれる奇岩が多く群立する。

 冬の時期になると、蓑掛岩方向からの日の出が美しいという。

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 大瀬海岸から眺める伊豆大島と日の出。波は静か。

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 7:30には、ホテルはな岬に戻り、朝食7:45~、休憩。

 8:30、ホテルを出発。   

●下賀茂温泉(8:50~9:50、南伊豆町下賀茂)

 下田市の南に位置する南伊豆町。国道136号線沿いにある道の駅「下賀茂温泉・湯の花」を目標にして行く。ここには、「みなみの桜と菜の花まつり 」の会場の総合案内所がある。

 下賀茂温泉を流れる青野川沿いの早咲きの桜と菜の花。

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 青野川沿い両岸4.2kmには、早咲きの「みなみの桜」(種類は河津桜)800の桜並木が続く。

 ピンクの桜と黄色い菜の花、温泉の白い湯煙のコントラスト。

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 河津桜は、寒緋桜と大島桜の交雑種で、ピンク色の大きな花が特徴。河津桜発祥の地は、下田市の北部に位置する河津町で、元祖「河津桜まつり」が開催中である。いずれも一足早い川沿いの花見を楽しめるが、こちらの南伊豆町の河津桜は、菜の花と一緒にというのが売りらしい。

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●松崎町(10:40~11:00、松崎町松崎)

 国道136号線を西海岸に向かうと、山に囲まれた小さな港町・松崎。風情ある「なまこ壁」の建物が点在する。その建物が集まる街並みを散策。

 「なまこ壁通り」を歩く。丸窓が印象的な古くてモダンな松崎町観光協会の建物。昔は松崎警察署だったという。

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 薬学会の最高権威・近藤平三郎の生家。

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 なまこ壁とは、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けたもの。目地が、海にいるナマコに似る。

 近藤家のなまこ壁。

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 他になまこ壁の名所として、明治の商家「中瀬邸」、「ときわ大橋」、古民家「伊豆文邸」、国の重文「岩科学校」があるそうだが、省略。

 なまこ壁は、防火、保温、保湿性に優れ、明治から昭和初期に各地で見られた外壁の工法。老朽化や建て替えで年々減少し、ここ松崎町では190棟余りが残っていて、建物の保存・修復、左官職人の技術伝承などの活動を行っているという。他には、下田市、倉敷市、東広島市で見られるそうだ。

 


 国道136号線を北上。前日の夕日で有名な堂ヶ島を経て、次の予定の「黄金(こがね)崎」(西伊豆町宇久須)は、時間の都合でスキップ。

 夕陽を浴びて岩肌が黄金色に輝く黄金崎は、駿河湾と富士山の眺望の素晴らしさ、落日の美しさで有名な景勝地。岬全体が公園になっているそうだ。

 

 

●やま弥(12:45~13:30、沼津市西浦平沢)

 県道17号沿いの「駿陽荘 やま弥」は、伊豆半島の根元の近く、駿河湾と富士山を一望できる民宿。

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 この辺りは、沼津市の伊豆半島部分。昔は西浦村だったが、遠い昔の1955年(昭和30年)に沼津市に編入した。昼食は、人気メニューの鯛丼1,300円(税込)。

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 当店オリジナル料理の「鯛丼」は、当店農園で飼育している地鶏の卵黄、駿河湾の新鮮な真鯛を特製ダレに漬けたものをご飯にのせ、卵黄とのりをかけていただく。

 

●大瀬崎(13:30~14:30、沼津市西浦江梨)

 「やま弥」から県道17号を西へ、10kmほど戻り「大瀬崎」へ。

 大瀬崎は、別名「琵琶島」。駿河湾に約1Km突出た半島、国の天然記念物ビャクシン樹林が群生。海越しに富士山を望む景色は古くから名勝地だそうだ。

 半島には大瀬神社と神池があり、入江は海水浴場で、スキューバダイビングのメッカともなっている。浜辺には、旅館、民宿などの宿泊施設、マリンスポーツやダイビングのショップなどの建物も並ぶ。正面は、富士山。

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 大瀬崎の半島に向かって歩くと鳥居が見える。ビャクシン樹林が自然群生している。

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 振り返ると、今歩いた来た大瀬海水浴場。波が静かで、遠浅のきれいな海水浴場として有名。

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 うっそうとした樹木に囲われた半島の高台にある大瀬神社。駿河湾漁民の海の守護神。

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 毎年4月4日は、例大祭の「大瀬祭り」。各港から飾り立てた「踊り船」に女装した青年たちが乗り、踊りやお囃子も賑やかに参拝に出航する。

 大瀬崎の駿河湾越しの富士山。半島の外海側はいつも波が荒く、丸くて大きな石がゴロゴロ。この日は静かすぎて気抜けするほどだった。対岸は、沼津市や富士市の市街地。

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 県道17号を東へ戻り、西浦みかんを直売所のあるJA共撰場に寄る。予定の「修善寺梅林」は、時間の都合でスキップ。伊豆中央道から15:40沼津ICへ、東名高速を経て圏央道、帰路へ。

 18:30、出発地に到着。走行距離は、2日間で660Kmだった。

 19:30、自宅着。

 

 ★ ★ ★

 沼津市の大瀬崎の近くで、昔海水浴に行った戸田は、最近(2005年)沼津市に編入されている。土肥や修善寺は、「伊豆市」。 その北部には、伊豆長岡や韮山などが合併した伊豆の国市がある。そのほかに「伊豆」が付く自治体として「西伊豆町」、「東伊豆町」「南伊豆町」が出来た。

 東・西・南の伊豆町は良しとしても、伊豆半島の「伊豆市」や律令制の国名を意味する「伊豆の国市」は、一般公募から決めたとはいえ、どうもしっくり来ない。

 古くは福岡県「北九州市」、宮崎県「日向市」が出来た時、最近では鹿児島県「南九州市」や福岡県「筑前町」は、九州のある広域を指す地名で、市町名に使うのはどうかと思った。

 香川県「さぬき市」(讃岐)、愛媛県「四国中央市」、高知県「南国市」、「黒潮町」、岡山県「瀬戸内市」、山梨県「甲斐市」、「甲州市」、「南アルプス市」、「中央市」、福井県「越前町」、岩手県「奥州市」、青森県「つがる市」(津軽)というのがあって、拾い上げると切りがない。

 「太平洋市」や「南セントレア市」というのは一旦決定されたが、各方面からの抗議を浴びて没になったのもある。

 栃木県「さくら市」、群馬県「みどり市」、北海道「大空市」、茨城県「つくばみらい市」、北海道「北斗市」(北斗星)などは地名だろうか、もはや涙ぐましい感じだ。他に良い名前はなかったのだろうか。宮崎県「えびの市」や福島県「いわき市」など、漢字にしにくい名前は良いとしても、「さいたま市」や茨城県「ひたちなか市」、福岡県「みやこ町」・・・のように、無理やり平仮名にした地名が多いのもいただけない。

 合併を優先するあまり、名前がおなざりになったのだろうか。また公募によって安易な名前に流れてしまったのだろうか。難解な字は避けなければならないが、その土地の自然や地理、郷土に根ざした歴史や風土を感じさせる自治体名に出来なかったのだろうかと思うのは、私だけだろうか。

 

 関連ブログ記事

  本ブログ「伊東温泉・伊豆の旅」 2013年11月25日投稿

    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-0eea.html

2017年2月26日 (日)

早春の伊豆半島めぐり-その1

 2月15日(水)~16日(木)、1泊2日の伊豆半島めぐり。

 

 15日(水)は、冬型の気圧配置がゆるみ伊豆半島は晴れ。最高気温は11℃で、比較的暖かい日。

 6:10自宅を出る。総勢12人が出発地に集合し、ワゴン車2台に分乗して7:00出発。

 圏央道から、厚木小田原道路、西湘バイパス、真鶴道路、熱海ビーチラインの有料道路を経て、伊豆半島東岸の国道135号線を南下。熱海市から伊東市へ、10:20頃道の駅「伊藤マリンタウン」で休憩。

 

●城ヶ崎海岸(11:10~12:00、伊東市富戸)

 約4000年前の噴火で溶岩が流れ、海岸線を2km近く埋め立てた海岸は、溶岩流と海の侵食作用でできた小さな岬と入り江が連続、荒々しい断崖絶壁が続く。

 海の吊り橋「門脇吊橋」を渡る。長さ48m、高さ23mのスリルを味わう。

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 門脇埼灯台を中心に、長さ9Kmのハイキングコースがある。

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●稲取温泉(12:40~14:30、東伊豆町稲取)

 更に伊豆半島東岸を南下し、東伊豆町稲取へ。

 稲取は、東伊豆海岸に小さく突き出た岬にある温泉。あちこちに、「雛のつるし飾り発祥の地」の幟(のぼり)が立つ。役場前にある稲取漁港の駐車場に車を停める。

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 そこから南へ350m(5分)歩いた先にある「網元料理 徳造丸」に、13時前に入る。

 1階は海産物直売、2階は食事処のお座敷。ここのお勧めは「金目鯛彩り膳」(金目鯛姿煮、刺身、金目のしゃぶしゃぶ、黄飯ご飯、お吸い物、その他)、3,500円(税別)。

 ちょっと手が出ないので、金目鯛のカブト煮、黄飯ご飯とお吸い物の1,100円を注文。こってりとした煮付は美味しい。食事が終わると、店の入口には10人以上が行列。早く入店してラッキーだった。

 残り時間が少なくなったので、急いで西へ700m(10分)歩いたところの「雛のつるし飾りまつり」の会場「文化公園雛の館」に行く。入館料300円。

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 稲取温泉に伝わる雛祭りは、江戸時代後期より母や祖母手作りのつるし飾り。 雛壇の両脇に一対のつるし飾りを飾って、女の子の成長を願ったという。

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 伝統工芸の吊るし飾りは、糸の先に布製の人形などを吊るして雛人形とともに飾る。ここ伊豆町稲取の「雛のつるし飾り」、福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」を称して「日本三大吊るし飾り」というそうだ。会場には、柳川の「さげもん」と酒田の「傘福」も展示してあった。

 稲取漁協には、金目鯛が水揚げされていた。

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  金目鯛の日本一の水揚げは下田漁港とされるが、ここ稲取漁港の金目鯛は、一本吊りで脂の乗りが高く、漁業関係者から極上とされている。伊豆半島特産の金目鯛は、1975年(昭和50年)頃までは一般には流通してなかったが、輸送手段が確立して全国に知られるようになった。金目鯛は深海魚で、鯛の種類ではない。1年中獲れるが、旬が冬季で荒天で漁が安定性せず、最近は漁獲量も減って高級魚となっている。

 

●白浜海岸(14:55~14:30、下田市白浜)

 稲取温泉で時間を取ったため、予定の下賀茂温泉を止め、下田市の白い砂の白浜大浜海水浴場へ行く。

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 沖に見えるのは伊豆大島。

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 南北に約800mの広々とした開放感あふれる砂浜。海辺では、サーファーが数人。

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●堂ヶ島(16:35~17:50、西伊豆町仁科)。

 伊豆半島の東海岸から、西海岸へ移動する。

 西伊豆の黄金崎や堂ヶ島などは、日本一の夕日が眺められるスポットとして有名。16:15浮島海岸(西伊豆町仁科)に寄って、南東2Kmにある堂ヶ島へ移動。

 堂ヶ島の西伊豆の海に沈む夕陽。波は静か。

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 日没後の一時の景色は、「マジックアワー」と呼ばれる。

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 「マジックアワー」と呼ばれる時間は、太陽は沈み切っているが、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、最も美しい幻想的な時間帯を指す。日の出の直前の時間帯でも言うらしい。太陽が無いため影が無く、色相がソフトで暖かく、金色に輝いて見える状態だそうだ。

 

●下田伊藤園ホテルはな岬(18:35~、下田市武ガ浜)

 下田は、黒船来航の地。伊豆の南部に位置し黒潮の影響を受けて、一年を通して暖かな気候に恵まれた温泉地。「ホテルはな岬」は、伊豆の海を望める港の宿。

 18:35頃ホテル着。入浴後、19:30~バイキングの夕食。21:30頃就寝。

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 このホテルは、1年365日土曜も休前日も、1人1泊2食付き8,100円(税込)、この他入湯税が130円で合計8,230円で泊まることができる。しかもバイキングなので食べ放題。夕食は、アルコール飲み放題が付く。カラオケ、インターネット、麻雀ルームなども無料だ。

 徹底的に人件費や経費を削減した格安ホテルの「伊東園ホテルグループ」は、伊豆を中心に全国に44館の温泉旅館・ホテルを有する。

 翌日、早朝4時半起床。

 

 関連ブログ記事

  本ブログ「伊東温泉・伊豆の旅」 2013年11月25日投稿

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 翌日16日(木)は、本ブログ「早春の伊豆半島めぐり-2」に続く。

2017年2月24日 (金)

夏目漱石の妻と阿川弘之の妻

 明治の文豪・夏目漱石は、昨年12月で没後100年、今年2月に生誕150年を迎えた。
 

 昨年末に、二松学舎大学で製作された漱石そっくりのロボット(アンドロイド、写真)が公開され、話題になった。

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 数年前から、毎年実施している都内の名所旧跡を巡るウォーキングの中で、漱石の旧居跡や墓地、漱石の小説に出てくる「伝通院」、「こんにゃく閻魔(えんま)」、「小石川植物園」、東大の「三四郎池」など、漱石のゆかりの地も訪ねた。

 漱石の旧居跡、2011/1/29千駄ヶ谷にて撮影。

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 漱石の墓、2012/1/22雑司ヶ谷霊園にて撮影。

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 ここでは、漱石の妻・夏目鏡子について記述してみたい。

 鏡子は、漱石が亡くなった後に結婚生活を口述し、それを漱石の弟子で長女・筆子の夫に筆記させた。その回想記『漱石の思ひ出』は、昭和初期に出版された。

 漱石は、幼少期に屈折した生活を過ごしたことがあり、小説家になる前は四国松山の中学教師、第五高校(熊本)の教授から東大の講師をしていた。頭脳は明晰だが、几帳面で気難しく、わがままで頑固者だった。しかしその後、留学先のロンドンで神経衰弱を患ってからは、ますます心が荒れてしまう。漱石の作品は良く知られていていくつか読んだこともあるが、留学中にノイローゼになった事は、ずっと後に知った。

 明治政府官僚のお嬢様だった妻・鏡子は、おおらかで自分の思ったことを口に出す性格、ことごとく夫とぶつかる。当時は漱石の弟子たちから、悪妻とも中傷されたこともあったようだが、今の基準で考えるとごく現代風の女性だったそうだ。

 妻として漱石との家庭生活の苦労を、この回想記で生々しく語っている。この回想記を元に、NHKで土曜夜のドラマ『夏目漱石の妻』となって、昨年9月から10月に4回に渡って放送された。

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 漱石(長谷川博己)の言動で家庭崩壊しそうな夫婦関係や親子関係を、妻(尾野真千子)は必死で守り、家庭の夢を追いかける物語。明治の亭主関白の夫、明治の女の芯の強さを少しコミカルに描いたこのドラマを、家内と一緒に興味深く視聴した。

 漱石は、小説を書きながらもひどい胃潰瘍、晩年には糖尿病にも悩まされ、小説『明暗』の執筆途中の49歳で亡くなった。亡くなるまでの彼女には、少しも平穏な結婚生活はなかったという。しかし、子供は2男5女もいた。
 
 このドラマが終わってから別の資料で知ったことだが、晩年の鏡子は孫に「いろんな男の人を見てきたけど、あたしゃお父様(漱石)が一番いいねぇ」と目を細めて言ったそうだ。20年も一緒に過ごした妻の苦労は、並大抵ではなかったはずだが…。
 
  

 この話を知った後、エッセイストでタレントの阿川佐和子が、あるテレビ番組で似たような話をしていたのに驚いた。佐和子のお母さんは最近になって、亡くなった夫で小説家・阿川弘之との結婚生活を振り返って、「幸せだった」とか、「いい人だった」と言うので、彼女は唖然としたそうだ。

 阿川佐和子は、テレビ番組の中で父親ことをよく批判していた。彼女の父親・阿川弘之は小説家で、代表作に『春の城』、『雲の墓標』のほか、帝国海軍提督を描いた三部作『山本五十六』、『米内光政』、『井上成美』などがある。文壇の重鎮として文化勲章をもらったほどの人だが、家庭では亭主関白、自己中心、短気で頑固者、堅物でいつも怒鳴り散らしていて、妻や子供たち(佐和子ほか兄弟)を困らせ、母はいつも泣かされていたそうだ。

 佐和子は、知的でユーモアがあって、聞き上手、話し上手。テレビ番組『ビートたけしのTVタックル』などでもお馴染。家内は、土曜の朝の対談番組『サワコの朝』が好きで、よく見ている。政治家や大物タレントにも物おじせず、ストレートに切り込む話し方が魅力だ。ベストセラーになった『聞く力』は、読んだことがある。

 弘之が一昨年94歳で世を去って一周忌の昨年7月、娘の佐和子は妻子に対しては絶対服従を求める「暴君」の父親の素顔を書いた『強父論』という単行本を出した。

 数日前に買って読んでみたが、数分おきに大声をあげて笑いながら、一気に読んでしまった。阿川佐和子のウィットに富んだ簡潔な文章ですっと理解でき、横暴で破天荒な父親・弘之の深刻な話だが、面白く楽しんで読める。

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 晩年の父親への介護の苦労から始まって、子供の頃は急に怒り出す父親にびくびくしながら育ったこと。大人になってからは、理屈っぽいが不合理、理不尽な考えの父親に従順ながらも確執もあり。そして、父親の最期様子と亡くなってからのこと。

 自分では、合理主義者であると言うが、感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。佐和子に対する口癖のひとつに「文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」だった。

 今なら児童虐待か、DV(家庭内暴力)か、それと離婚に対する敷居が低くなっているので、そんな夫婦は簡単に別れてしまうだろう。

 友達のような夫婦、優しい父親が今の時代は大多数だが、昔は怖くて強い父親はあちこちにいたのだ。亡くなった親戚の伯父、近所のおやじ、知人の旦那…、身近にいたそんな横暴な亭主関白の夫のいる家庭を見聞きした時、それに耐えている妻子に同情し、いたたまれない気持ちになる。そして、その妻の姿は、夏目漱石とか阿川弘之の妻と重なってしまうのだ。

 小説家としては立派でも、家庭では自己中心で古い考えの頑固な夫にあんなに苦労して不幸に耐えた妻は、夫が亡くなった後には夫のことをあんなに美化するものかと、そのギャップに言葉を失う。夫婦というのは、そんなものなのだろうか。

 

 関連ブログ

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012/01/29 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その2」 2012/01/30 投稿
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  ・本ブログ「白山・本郷界隈-その1」 2017/01/31 投稿
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  ・本ブログ「白山・本郷界隈-その2」 2017/02月/05 投稿
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2017年2月 7日 (火)

秩父神社の節分祭

 2月3日(金)、秩父神社(埼玉県秩父市)の「鬼やらい節分祭」に行く。

 

 「追儺(ついな)」とか「鬼やらい」とか呼ばれる行事は、節分などの季節の変わり目に、古来から全国的に行われている鬼を追い出す祭り。

 「秩父神社」は埼玉県秩父地方の総鎮守であり、「三峯神社」、「宝登山神社」とともに秩父三社の一つ。秩父市の市街地、秩父鉄道秩父駅のすぐ近くにある。付近を山梨県甲府に至る国道140号線、長野県茅野市に至る国道299号線が通る。
 

 途中道路が渋滞したりで、秩父神社についたのは10時20分ころ。

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 裃(かみしも)を着た年男・年女の氏子たちが社殿でお祓いを受けている。

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 神主を先頭に、年男・年女たちは社殿から神門をくぐって平成殿(社務所)に向かう。

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 やがて金棒を持った赤鬼や青鬼たちが境内にやって来て、踊ったりしながら騒ぎ立てる。

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 平成殿の2階に上がった年男・年女たちが、豆を撒き鬼を追い出す。

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 豆は、白い御供物の袋に入っている。福引券も入っているそうだ。
 
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 鬼が逃げ出すと同時に、観客は飛んでくる豆に必死に手を広げ、地面に落ちた豆を拾う。

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 豆まきが終わると、鬼は幼児を怖がらせたり、抱き上げたりして記念撮影。でも泣き出す子供が多い。

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 神楽殿では、打ち出の小槌を持った福の神(大黒様?)が、笛・太鼓に合わせて踊りながら豆を撒いていた。

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 このような豆まきが、午前中は10時半、10時、11時40分、午後は14時、15時と、5回繰り返されるという。

 

 午前の部が終わり、神門をくぐって拝殿に行って参拝する。

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 秩父神社の社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一つにまとめられた権現(ごんげん)造り。

 拝殿の立派な彫刻、扁額(へんがく)には「知知夫(ちちぶ)神社」とある。

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 拝殿の正面左手にある彫刻「子宝・子育ての虎」は、左甚五郎の作とされる。

 (写真は、クリックすると拡大表示します。)

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 彫刻の下には、「赤子には肌を離すな、幼児には手を離すな、子供には目を離すな、若者には心を離すな」と親の心得が書かれた札があるそうだ。母虎は、何故かヒョウ柄だ。

 拝殿東側の彫刻。

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 本殿東側の彫刻「つなぎの龍」は、これも左甚五郎作と伝えられる。夜な夜な近くの池に青龍が現れるため、鎖でつながれたという伝説がある。

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 彫刻「北辰の梟(ふくろう)」は、本殿北側の中央に彫刻されたフクロウ。

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 このフクロウは、体は本殿(南)を向いているのに、顔だけ180度逆の方向(北)を向いていて、祭神である「妙見菩薩」を守っているという。妙見菩薩は「北辰菩薩」とも呼ばれ、北辰すなわち北極星を神格化したものとされる。

 本殿西側の彫刻。

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 本殿西側の左下にある彫刻「お元気三猿」。有名な日光東照宮の「見ざる・言わざる・聞かざる」に対して逆に、「見て・聞いて・話せて」といつまでも元気に願って、「お元気三猿」と呼ばれている。

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 西側幣殿(幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ建物)の彫刻「瓢箪(ひょうたん)から駒」。馬に関する諺(ことわざ)の「瓢箪から駒」は、意外なところから意外な発見や出会いがあることで、その意味は開運招福。社殿の西側にはこの諺に因んだ彫刻が施されている。

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 なお、「秩父夜祭」では、祭神は御輿だけでなく神馬に乗って御旅所に渡るため、12月3日には本物の馬が2頭奉納されて神幸の供をする。

 拝殿西側の彫刻。

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 午前中の行事が終わって拝殿で参拝の後、11時50分ころ神社を出る。

 運よく豆袋を2袋拾った。中には豆と紅白の砂糖菓子が入っている。福引券はなかったが、家に帰ってからありがたく豆を頂く。

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 ★ ★ ★

 毎年12月1日~6日の秩父神社の例祭「秩父夜祭」は、国の重要無形民俗文化財」(秩父祭の屋台行事と神楽)に指定。京都の「祇園祭」、飛騨の「高山祭」とともに日本三大曳山祭にも数えられる。また18府県で計33件の祭りの「山・鉾・屋台行事」の一つとして、2016年12月ユネスコ無形文化遺産へ登録が決定した。(写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ)

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 この祭りは、寛文年間から300年以上続き、歴史的にも文化的に価値が高いとされる。提灯で飾り付けられた豪華絢爛の山車(笠鉾・屋台)の曳き回しや冬の花火大会は、全国に知られている人気のある祭りの一つ。

 

 秩父神社の現存する社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康の寄進によるものとされ、江戸時代初期の建築様式をよく留めている。埼玉県の有形文化財に指定。

 御由緒によると、秩父神社の創建は第10代崇神(すじん)天皇の代に、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の子孫である知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が知知夫国(ちちぶのくに)の初代の国造(くにのみやつこ)に任命され、祖神を祀ったことに始まる。一説には紀元前87年に創建とされる。武蔵国(むさしのくに)成立以前から栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至る。

 関東でも屈指の古社のひとつで、中世以降は関東武士団の源流である秩父平氏が奉じる妙見信仰(妙見菩薩)と習合し、江戸時代まで「秩父妙見宮」と呼ばれた。明治の神仏分離令により「秩父神社」の旧社名に復したという。平成殿(社務所)の2階からは、「奉祝 御鎮座 二千百年」の垂れ幕が下がる。
 

 
 節分は、もともと各季節の始まりの日である立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していて、「季節を分ける」ことを意味している。昔から節分を境に季節が変わり、邪気(鬼)が生じると考えられていた。やがて江戸時代頃より、節分はもっぱら立春の前日のみを指すようになる。この日には、各地で豆まきや鬼追いの行事が行われる。これらの儀式の多くは、本来は旧暦大晦日の行事であったものが、節分の日に行われるようになったという。

 秩父神社では、夜7時半から「節分追儺祭」の神事がある。「奉幣(ほうべい、神に供物を捧げる)」行事、「撤豆(さんとう、豆まき)」行事、「引目(ひきめ、弓で矢を放つ)」行事、そして「鬼やらい(鬼払い)」と、往古の形式にならって行われるという。

 そして日中は、「鬼やらい」や「豆まき」、神楽殿では「福神舞」などが行われ、境内では甘酒がふるまわれ、抽選券のくじ引きが行われる。平日にもかかわらず、多くの人々で賑わっていた。

 
 

本記事に関連するブログは、以下の通り。

  ・「三峯神社」 2013/05/24 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4a2b.html

  ・「秩父・大陽寺(つづき)」 2013/05/23 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3145.html

  ・「秩父・大陽寺」 2013/05/22 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3386.html

  ・「宝登山神社」 2013/03/08 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-3b82.html

  ・「長瀞・宝登山のロウバイ園」 2013/03/07 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-6267.html

2017年2月 5日 (日)

白山・本郷界隈-その2

 1月29日(日)、文京区の白山・本郷界隈を歩く。

 

 本ブログ「白山・本郷界隈-その1」の続き。白山界隈から本郷界隈に移動する。

 12時25分、小石川2丁目の「源覚寺」を出て、こんにゃくえんま交差点から白山通りを横断、東へ向かうと菊坂下の交差点。

 

●旧伊勢屋質店(12:30~12:45)

 菊坂下交差点から、昔この辺りは菊畑だったという「菊坂」を上る。

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 坂の途中、左手に樋口一葉が通ったという「旧伊勢屋質屋」がある。今はもう営業していないが、そのままの建物(左の土蔵と2階建の店舗兼住宅)が保存されている。

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 所在地は文京区本郷5丁目、跡見学園女子大学が菊坂跡見塾として所有し、内部を公開している。太い柱や梁を使った土蔵、風通しや日当たりのため中庭、床の間がある奥座敷、当時の質物台帳が置いてある見世(店)など見学する。江戸時代の町屋造り、明治の面影を残す。玄関は直接道路から見えないように工夫してあるところが面白い。入場料は無料、撮影は禁止。

 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通って家計をやりくりした質屋。下谷区竜泉町に移ってからも通ったという。 一葉が亡くなった際には、店から香典が届けられほど縁が深かった。質屋は1869年(明治2年)創業、1982年(昭和57年)に廃業した。2015年(平成27年)に、跡見学園女子大学が文京区からの補助も得て、所有者から建物を購入した。

 

●金田一京助・春彦の旧居跡(12:50)

 樋口一葉が住んでいた家のすぐそばで、「鐙(あぶみ)坂」を上り切った所の左手の石垣の上に、金田一京助、長男・春彦の旧居跡がある。道路挟んだ向かいは、財務省関東財務局真砂住宅がある。

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 文京区教育委員会の「鐙坂」の説明板が立っている。以下抜粋する。

 本郷台地から「菊坂」の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられたなどといわれている。
 
 
 ここは文京区本郷4丁目。石垣の前には「金田一京助・春彦の旧居跡」と書かれた文京区教育委員会の説明板が立ち、その上に2棟の住宅がある。手前は白い壁の比較的新しい家。写真ではうまく写っていないが(残念)、その奥には時代を経た独特の雰囲気の木造住宅。

 旧居跡というのは、この2棟を指すのか、片方の古い家なのかよく分からなかった。

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 金田一京助(1882-1971)は言語学者、民俗学者。アイヌ語の研究で有名。京助は学者として活躍するかたわら、盛岡中学の後輩である詩人・石川啄木の援助を行なっていた。啄木が移り住んだアパートや家がこの近くに集中している。

 金田一京助の長男・春彦(1913-2004)も言語学者、国語学者。国語辞典の編纂や方言の研究で有名。ちなみに春彦の長男・真澄(つまり京助の孫)は、ロシア語学者。次男・秀穂も言語学者で、日本語教育やテレビのバラエティ番組出演でも知られている。
 

 この辺りの旧町名は、明治2年(1869)から昭和40年(1965)まで「真砂(まさご)町」だった。『婦系図』などの小説の舞台になったり、文人が多く住んでいたことで知られている。

 

●樋口一葉の旧居跡(12:55)

 金田一京助・春彦の旧居跡から鐙坂を少し下って、右手の狭い路地に入る。

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 5千円札で有名な樋口一葉(1872-1896)は、東京生まれの小説家。本名は夏子、戸籍名は奈津。

 父は下級役人だったが、事業で負債を抱えて死去。住まいを転々とした後、父亡き後の明治23年から26年まで、ここで母と妹と暮らした借家があった。3人で洗い物や仕立てで生計を立てたものの、借金は追いつかない。このころ文筆で身を立てる決意をしたとされるが、当時の建物は今はない。一葉が使ったとされる井戸が残っている。一葉の時代は、このようなポンプで汲み上げたのではなく、つるべを使っていたのだろう。

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 一葉の旧居跡を訪ねる人は多い。周囲はその面影を残し、ひっそりとした雰囲気が漂う。

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 女に学業は不要との母の考えで、一葉は成績優秀だったが上級学校には進まなかった。14歳で中島歌子に歌や古典を学び、文才は卓越していた。やがて半井桃水(なからい・とうすい)に小説を学び、食べるために職業作家を目指す。

 生活に苦しみながら、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』といった名作を発表、森鴎外ら文壇から絶賛を受ける。わずか1年半でこれらの作品を世に出したが、24歳6ヶ月の若さで、肺結核により亡くなった。死ぬまで金策に追われていたという。没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けている。
 
  

●坪内逍遥旧居・常磐会跡(13:00)

 「炭団(たどん)坂」は、菊坂の谷にある古い街並みから、本郷の台地へ上る急坂。今では中央に手すりのある石段となっている。この坂を上りきると、まっすぐ春日通り方面に向かう。

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 炭団坂の途中に立つ文京区教育委員会の説明板には、次のように書いて(抜粋)ある。

 本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないことは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 

 この炭団坂を上った西側の崖の上に、「坪内逍遥旧居・常磐会跡」の同教育委員会設置の説明板が立っている。

 坪内逍遥(1859~1935)は小説家、評論家、教育家、翻訳家、劇作家。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』や『当世書生気質』を発表した。ほかにシェークスピア全集の翻訳などがある。近代日本文学の成立や演劇運動に大きな影響を与えた。

 逍遙が旧真砂町25番地に転居後、明治20年(1888)には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人の正岡子規らが寄宿している。現在は、マンション「ブランズ本郷真砂」(写真左手)が建っている。写真右手が炭団坂。

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●宮沢賢治の旧居跡(13:05)

 長い菊坂の途中で、菊坂に並行する細い路地に下りる石段に、文京区教育委員会の説明板が立っている。

 写真左手の建物は、「よしむら歯科医院」。正面の3階建ての建物の所に、宮沢賢治の旧居があった。この家は平成2年(1990)末まで残っていて、二軒長屋の左側の2階6畳間に住んでいた。現在は、写真のように賃貸アパート「ベルウッド本郷」に改築されている。

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 宮沢賢治(1986-1933)は詩人、童話作家。岩手県の花巻市生まれ。

 25歳の時の大正10年(1921)1月に上京。同年8月、妹の肺炎悪化のため急ぎ花巻に帰るまで、ここ本郷菊坂町75番地の稲垣方2階6畳に間借りしていた。ここでは、東大赤門前にあった印刷会社で働き、日蓮宗の布教活動をしていた。童話集『注文の多い料理店』に収められた『どんぐりと山猫』、『かしはばやしの夜』などが、この上京中に書かれている。
 
    

●石川啄木ゆかりの赤心館跡(13:10)

 「よしむら歯科医院」横の石段から菊坂を横断、「長泉寺」の石段を上って山門をくぐり、境内を抜けて振り返って撮ったのが、下の写真。正面に長泉寺の境内が見え、左側電柱のそばの建物(オルガノ株式会社)のフエンスに文京区教育委員会が説明板が設置してある。ここは、本郷5丁目。

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 説明板には、次のように書かれている。(抜粋)

 石川啄木(1886-1912)は「文学の志」やみがたく、明治41年(1908)に北海道の放浪の旅を終えて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後金田一京助を頼って、ここにあった「赤心館」に下宿し、執筆に励んだ。

 赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、『菊池君』、『母『』、『ビロード』など小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で近くにあった下宿「蓋平館(がいへいかん)別荘」に移っていった。

 たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず (赤心館時代の作品)
 

 石川啄木は歌人、詩人、思想家。岩手県で生まれる。盛岡中学中退後、明星派の詩人として出発。20才で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として知られるようになった。小学校代用教員を経て、北海道に職を求め各地を流浪。上京して「東京朝日新聞」の校正係となるが、なおも窮乏生活は続く。

 歌人として道を開き、明治43年(1910)歌集『一握の砂』を出版、歌壇内外から注目された。大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾倒する。明治45年(1912)、肺結核のため小石川区久堅町の借家で生涯を閉じる。享年27才。代表作に歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。

 

●菊富士ホテル跡(13:15)

 石川啄木ゆかりの赤心館跡のすぐ近くに、「菊富士ホテル」跡がある。本郷5丁目のオルガノ株式会社の敷地内に石碑が建っている。

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 かつて「菊富士ホテル」がここにあった。このホテルには、大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、数々の逸話が残っている。

 主な宿泊者には、石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、月形龍之介、高柳健次郎。
 
 このホテルは、明治30年この地に岐阜県出身者が下宿「菊富士楼」を開業、大正3年に五層楼を新築「菊富士ホテルと改名し営業を続けた。昭和20年3月、東京大空襲で被災し50年の歴史を閉じた。

 

●鳳明館(13:20)

 菊坂に戻り、北へ「梨の木坂」を上りきると、「鳳明館本館」がある。この周辺は、静かで昔ながらの東京下町の雰囲気が残る。

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 文京区本郷5丁目にある鳳明館本館は、明治時代の下宿屋を昭和になって旅館に模様替えしたと言われており、登録有形文化財に指定されている歴史ある旅館。

 本館の周辺に別館、台町別館、森川別館などがある。内部は、都心とは思えないほど落ち着いた雰囲気だという。修学旅行生や東大受験生が、今でも宿泊しているのだろうか。最近は、外国人観光客にも人気があるそうだ。 

 

 再び菊坂交差点にもどり、本郷通りに向かって50m先の右手に「新坂」の入口がある。そこから50mほど坂を上った所に空き地があった。石川啄木は、都内のあちこちに旧居跡があったが、ここは啄木ゆかりの宿。2014年前まで「太栄館」という旅館があり、啄木の碑もあったがそうだが、今は取り壊され更地になっている。
 

●徳田秋声の旧宅(13:15)

 秋声の旧宅は、「新坂」の途中から路地を入った所、本郷6丁目にある。

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 ここには、東京都教育委員会の説明板がある。

 徳田秋声(1872-1943)は、金沢市出身で明治から昭和初期活躍した小説家。尾崎紅葉の門下、『雲のゆくへ』が出世作。自然主義文学の巨匠。代表作に『足跡』、『黴(かび)』、『あらくれ』、『仮装人物』、『縮図』など。金沢から上京後この地に居を構え、明治38年(1905)から73歳で没するまで38年間住んだ。この建物と多くの遺品が保存されている。東京都指定史跡。

 

●法真寺(13:45)

 本郷通り(国道17号線)を挟んで東大赤門の向かいにある浄土宗「法真寺」は、樋口一葉ゆかりの寺。

 一葉が4歳から9歳(明治9~14年)までの5年間の幼少期を過ごした家、通称「一葉桜木の宿」がこの寺のすぐ東隣にあった。現在は、法真寺の境内となっている。

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 当時は45坪もある屋敷で、庭には立派な桜の木があったという。この時代が一葉にとって最も豊かな安定した日々だった。父・則義もまだ健在で警視病院の会計係を務めており、家は裕福だった。経済的には最も恵まれた時期に過ごしたこの家を、一葉は「桜木の宿」として懐かしんだ。

 本堂の左手に観音様、桜の木、一葉塚の背後には草草紙を手にする少女(一葉)の像がある。

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●東大本郷キャンパス(13:55~14:30)

 東大赤門から本郷キャンパスに入場する。赤門は、東大正門の南へ300m程の所にある。

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 赤門は、国指定重要文化財。加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘・溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室に迎えた。この門は、その際に建立された御守殿門と呼ばれる朱塗りの門。

 現在の東大本郷キャンパスの一部とその周辺地は、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家が幕府からを賜ったものである。

 赤門から入ってすぐ左手に「コミュニケーションセンター」がある。その隣に浜松フォトニクス株式会社が、アクリルケースに入った光電子増倍管の実物を展示している。

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 2002年に東大の小柴昌俊先生が、2015年にも同じく東大の梶田隆章先生がノーベル物理学賞を受賞した。これは浜松ホトニクス製の光電子増倍管が大量に設置された岐阜県の素粒子観測施設であるカミオカンデ、スーパーカミオカンデで研究した成果であることが記されていた。(写真をクリックすると、拡大表示します。)
 

 東大本郷キャンパス構内を散策。いちょう並木から安田講堂を望む。

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 東大のシンボル、安田講堂。正式名は東京大学大講堂。収容人員は1,144席。講堂のほか多くの事務室や食堂など入っている。

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 安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付により建設、1925年(大正14年)竣工。1968年(昭和43年)の東大紛争では、全学共闘会議によって占拠されるという事件があった。その後荒廃したままであったが、旧安田財閥の関連企業の寄付もあり、1988年(昭和63年)から1994年(平成6年)にかけて改修工事が行われた。

 構内にあった「育徳園心字池」は、夏目漱石の名作「三四郎」でここが舞台となったため、「三四郎池」と呼ばれる。       

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 寛永6年(1629)前田家3代藩主利常の時に、隠居していたが3代将軍家光の大御所である秀忠の訪問(御成り)があった。このために御殿などを新築したり、庭園を整備したという。庭園が「育徳園」で、池を「心字池」といった。
 

 本郷7丁目にある東大医学部付属病院。

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●弥生美術館、竹久夢二美術館(14:45~15:15)

 東大の弥生門から退場し、斜め向かいの「弥生美術館」に入館。同敷地内の「竹久夢二美術館」と渡り廊下でつながっていて、入館料900円で両館を観覧できる。弁護士・鹿野琢見氏によって創立された私設の美術館。文京区弥生2丁目にある。

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 大正時代の有名な挿絵画家・高畠華宵(たかばたけ・かしょう)の作品、竹久夢二の作品を常設展示。 館内は撮影禁止。

 写真は美術館の入場券。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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 開催中の展覧会は、弥生美術館では時代劇画の平田弘史の作品。竹久夢二美術館では、「竹久夢二の春・夏・秋・冬―四季の抒情  夢二絵ごよみ―」。

 写真は、平田弘史(左)と竹久夢二(右)の展覧会のチラシ。

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 美術館の塀に描いた夢二の作品。

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 なお、夢二がたびたび訪れたという伊香保(群馬県渋川市伊香保町)には、立派な「竹久夢二伊香保記念館」があり、10数年前に行ったことがある。

 

●不忍池と上野公園(15:20~16:00)

 不忍池(しのばずのいけ)や上野公園は、冬の季節にもかかわらず相変わらず人出が多かった。ここは、台東区上野公園。

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 不忍池から上の公園に向かうと崖の上に京都清水寺に似た「清水観音堂」(重要文化財)と「月の松」がある。

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 徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍に仕えた天海大僧正は、秀忠から寄進されていた上野の山に平安京と比叡山の関係にならって、寛永2(1625)年に「東叡山・寛永寺」を開いた。

 それは、比叡山が京都御所の鬼門を守護するように、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとした。そして京都の有名寺院になぞらえたお堂を次々と建立、その一つが「清水観音堂」(上野清水堂)で、寛永8年(1631)に創建された。

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 江戸時代の植木職人の技によって、丸く一回転した枝ぶりの「月の松」は、浮世絵師・歌川広重の江戸の名所シリーズ『名所江戸百景』に描かれている。江戸の庶民に親しまれていたが、明治初期の台風で失われ、そのままになっていた。江戸の風景を復活させるため、現代の造園技術を駆使して2012年(平成24年)12月に150年ぶりに復元したという。
 
 草野球が行える「正岡子規記念球場」(東京都が管理)の脇を通る。明治初期に日本に野球が紹介されて間もない頃の愛好者だった正岡子規のは、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいたそうだ。

 昨年に世界文化遺産に登録された「国立西洋美術館」の前を経て、ゴールの上野駅公園口に16:05頃到着。
 

 上野駅からJR山手線で池袋駅へ。池袋駅東口から歩いてすぐの居酒屋「粋酔」で新年会(16:45~18:45)。

 自宅に帰ったのは20時過ぎ、万歩計を見るとこの日歩いたのは2万2千歩、距離はおよそ13Kmだった。

 

 都内はいつも電車で移動することが多いが、改めて歩いてみると都会の意外な面に気付き、驚きがある。今回の行事を計画し、案内してくれたYさんに感謝。

 

 

 ★ ★ ★

 樋口一葉の両親の故郷、甲斐の国中萩原村(後に大藤村、現在山梨県甲州市塩山)の「慈雲寺」には、一葉女史の文学碑が建つ。2013年4月、次の記事に記載した。

  ・本ブログ「甲州桜めぐり」 2013/04/03 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f620.html

 文京区小石川の小石川植物園、石川啄木の終焉の地については、2012年1月に次のブログで確認した。

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012/01/29 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

 上野公園の本ブログ関連記事は以下の通り。

  ・上野・谷中界隈 2014/02/02 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3a2a.html

  ・上野恩賜公園 2012/10/11 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-f868.html

  ・国立西洋美術館「ホドラー展」 2015/01/13 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-e775.html

2017年1月31日 (火)

白山・本郷界隈-その1

 1月29日(日)、文京区の白山・本郷界隈を歩く。

 

 1月最後の日曜日の天気予報は、高気圧の中心が次第に東へ離れ、西からは低気圧や前線が進んで天気は下り坂に向かうが、日中の気温は九州から関東では3~4月並みの暖かさが続く見込みだという。

 この日は、1月と思えないぽかぽかの良い天気。東京の最高気温は12℃。3月中旬並みの暖かさだった。

 Yさんの計画で、数年前から毎年1月に実施している東京の名所・旧跡巡りを兼ねて新春のウォーキング。今回の参加者は、6人。

 

 最寄り駅を電車で出発、池袋、巣鴨で乗り換え、地下鉄三田線白山駅に9時40分頃到着。

 

●白山神社(9:50~9:55)

 9時45分、白山駅A3出口前からスタート。

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 以前から東京に「白山」という地名の由来を知りたいと思っていたが、今回「白山神社」から来ていることを知る。白山は、中学、高校、大学などの教育機関が多数あるところ。特に東洋大学の白山キャンパスが、地下鉄白山駅のすぐそばにある。

 緩やかな坂道を上り、高台にある白山神社に徒歩3分ほどで到着。

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 所在地は、文京区白山5丁目。桜の木に囲まれた拝殿の後方には、東洋大学のビル。

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 白山神社は、加賀の国(石川県)の「白山比咩(しらやまひめ)神社」が総本宮とされ、全国に2,700社ほどの白山神社があるそうだ。 白山は、富士山、立山に並ぶ日本三霊山の一つで、山岳信仰として崇められてきた。

 天暦年間(947~957)に加賀の国の一宮白山神社を、現在の本郷一丁目の地に分祀したと伝えられる。後に2代将軍秀忠の命で、現在の小石川植物園内に遷座、その後5代将軍職につく前の綱吉(館林藩主)の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。当社は、綱吉の生母・桂昌院の崇敬が篤く、綱吉の厚い庇護を受けた。

 ちなみに小石川という地名も、白山神社の総本宮のある加賀の国石川郡(石川県)より名づけられているそうだ。

 白山神社は、「東京十社」の一つ。明治政府により当社は、氷川神社の勅祭社(ちょくさいしゃ)に次ぐ准勅祭社とされていたが、戦後は社格は廃止された。1975年(昭和50年)、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議し、元准勅祭社から東京23区内の10社を「東京十社」とし、東京十社めぐりが始まった。東京十社めぐりは、七福神めぐりと同様に、「ご朱印帳」を片手に「記念絵馬」を集めるという参拝ツアーが行われている。

 境内には紅白の梅がちらほら咲いていた。白山神社は6月のあじさいで有名だが、「白山旗桜」という品種の桜、紅枝垂れ桜や染井吉野があり、4月の風情ある桜も知られている。

 

●本念寺(10:05~10:10)

 白山下の交差点から「白山通り」を北へ巣鴨方面に向かうと、左手に日蓮宗の「本念寺」(白山4丁目)がある。

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 この寺の裏の墓地に、江戸後期の天明年間(1781~1789)を代表する文人・狂歌師であり、御家人の太田南畝(おおたなんぽ)の墓がある。号は蜀山人、狂歌名を四方赤良(よものあから)と言う。

 太田南畝の名は、江戸時代の狂歌とともに、確か日本史の教科書の出ていた。俳諧から川柳が生まれたように、和歌から狂歌が生まれた。狂歌は元禄の頃から上方で行われていたが、江戸では天明のころから流行、洒落と滑稽と即興が特徴。

 19歳で平賀源内に認められ、狂詩文『寝惚(ねぼけ)先生文集』 (1767) を刊行して文名を高めた。幕府官僚であった一方で、以後狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩文などで町人文学の中心的存在となった。狂歌三大家の一人とされる。昼は真面目な役人、夜は引く手あまたの文化人であった。

 境内に入ると「ひと声掛けてからお入り下さい」の張り紙があって、寺の裏に回ると一般の墓地がある。

 左の墓石が南畝の墓かと思い写真を撮ったが、後でよく見たら右側の墓誌のないのっぺらぼうの墓石が「南畝大田先生之墓」と刻んあった。右隣は「大田自得翁之墓」とあるが、南畝の父・吉左衛門の墓だそうだ。

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●小石川植物園(10:20~11:20)

  白山下交差点に戻って、御殿坂を下ると「小石川植物園」(白山3丁目)の正門がある。以前にこの植物園の前を通過したことがある。

 入園料は、400円。ここは東大の植物学の教育・研究施設で、正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」。

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 日本でもっとも古い植物園であるだけでなく、世界でも有数の歴史を持つ植物園の一つ。園内には数多くの由緒ある植物や遺構が今も残されており、国の史跡および名勝に指定されている。

 綱吉が将軍になる前に「白山御殿」が建てられ、貞享元年(1684)に幕府が設けた「小石川御薬園」が前身。明治10年、東京大学が設立された直後に附属植物園となった。台地、傾斜地、低地、泉水地などの地形を利用して、様々な植物が栽培されている。
 
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 植物園の本館。研究室、植物標本室、図書室などがある。

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 ニュートンのリンゴの木。

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 物理学者ニュートンの生家にあったリンゴの木は、接ぎ木によって科学施設で大切に育てられていた。1964年(昭和39年)英国の国立物理学研究所長のゴードン・サザーランド卿から、当時日本学士院長の柴田雄次博士にニュートンの木の苗木が贈られた。

 しかし、この木はウイルスに感染していたので隔離栽培されていたが、植物園の研究によりウィルス除去に成功、一般公開されている。これらの木から更に増やされたニュートンの木の分身が、今では日本の各地にあるそうだ。

 ニュートンのリンゴの隣には、遺伝学の基礎を築いたメンデルがブドウの育種の研究を行なった「メンデルのブドウ」が分譲されている。園内には他に、1894年に平瀬作五郎が裸子植物から精子をはじめて発見したというイチョウがある。

 

 薬園保存園、植物分類標本園などを回る。

 旧「小石川養生所」跡の井戸(東屋の下)の傍に咲いていたカンザクラ。

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 小石川養生所は、貧困者の救済の為の無料の医療施設で、江戸時代「享保の改革」の下層民対策の一つ。養生所は、山本周五郎の時代小説『赤ひげ診療譚』でも有名。関東大震災の際には、被災者の飲料水として大いに役立ったという。
 

 青木昆陽の甘藷(サツマイモ)の試作跡の記念碑。食糧難の時の食物として、昆陽は幕府の許可を得て栽培を試み成功した。これを機にサツマイモは、全国で栽培されるようになった。

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 クスノキの巨木。

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 梅園の紅白の梅の花も、もう咲いている。

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 日本庭園。ここは、綱吉の幼児の時の邸宅だった白山御殿と蜷川能登守の屋敷跡に残された庭園だった。

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 本郷から小石川植物園内に移築されたかつての「東京医学校」本館(現・総合研究博物館小石川分館)は、重要文化財。

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 東京医学校は、明治初期に東京府に設立された官立の医学教育機関(医学校)で、東京大学医学部の直接の前身である。

 

 園内には、花の季節ではないので入場者も少なかったが、ソメイヨシノ並木やカエデの並木などもあり、春・秋にはきっと人出も多いのだろう。

 

 小石川植物園を出て、千川通り(都道436号線)を南下し柳町小学校前を過ぎると、正面に立派な28階建ての文京シビックセンター(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)と東京ドームの屋根が見える。

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 文京シビックセンターは、文京区役所、大小のホールや区民施設などが入居する総合施設。

 

 えんま通り商店街アーケードの「そば処さくら」に入り、昼食(11:30~12:15)。

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●源覚寺(12:20~12:25)

 千川通りのこんにゃくえんま交差点の脇に、浄土宗の「源覚寺」(文京区小石川2丁目)がある。眼病治癒の信仰を集める「こんにゃくえんま(閻魔)」のお堂に参拝。

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 「こんにゃくえんま像」は鎌倉時代、運慶派の仏師の作とされる高さ100cmの木造坐像。像内に寛文12年(1672年)の修理銘がある。文京区指定有形文化財。えんま像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴。

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 えんま像については、次のような言い伝えがある。

 宝暦年間(1751年~1764年)に一人の老婆が眼病を患い、このえんま様に21日間の祈願を行っていた。夢の中にえんま様が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたに差し上げよう」と告げたという。

 満願の日、老婆の眼はたちまち治癒し、えんま様の右目は盲目となった。以来この老婆は、感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断って、それをずっと供え続けたという。

 以来この源覚寺のえんま像は「こんにゃくえんま」や「身代わりえんま」と呼ばれ、人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、こんにゃくを供える人が多い。供物台上には、ビニールに入ったこんにゃくや、こんにゃく芋が置かれていた。

 夏目漱石の『こころ』や樋口一葉の『にごりえ』にも「こんにゃくえんま」が登場、ほかにも時代小説や落語の噺の中にも取り上げられているそうだ。源覚寺の周囲一帯は、門前町としてに賑わい、江戸時代から続く縁日には多くの人々が押しかけ活気にあふれるという。

 

 12時25分、「源覚寺」を出て小石川から本郷に向かう。

 以下、本ブログ「白山・本郷界隈-その2」に続く。

 

 関連ブログ

  「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012年1月29日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html
 
  「白山(はくさん)-その1」 2014年7月31日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a43e.html

 

 

 

2016年12月17日 (土)

森林公園のスターライト

 12月11日(日)、国営・武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)の「スターライト・イルミネーション」に行く。

 

 秋の「森のハロウィンナイト」、「紅葉見ナイト」(カエデのライトアップ)に引き続き、冬の夜間イベント「スターライト・イルミネーション~ 光と森のStory 最終章 ~」は、12月10日から29日まで開催中。

 

 夜間入場口の中央口ゲート。

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 中央口エリア。森林公園のマスコットキャラクター「しんちゃん」と「りんちゃん」の着ぐるみは、こどもたちに大人気。

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 カエデ園の入口。カエデの紅葉は、すっかり散ってしまっている。

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 植物園展示棟前にイルミネーションが点灯。薄暗くなった16:15頃に撮影。

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 16:25頃撮影の植物園展示棟前の花壇。

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 17:15頃には、周囲は真っ暗。

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 花壇のパンジーとイルミネーション。

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 植物園展示棟前の芝生広場に、「森の湖」が闇の中に浮かぶ。

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 日曜日の夜、家族連れでにぎわっている。時々子供たちがはしゃぐ声がするが、都会のイルミネーションとは違った静寂な夜。

 12月の夜の森は、じっとしているとさすがに寒い。

 

 ★ ★ ★

 国営公園は、国土交通省が所管する都市公園。全国に16カ所ある。

 以下に、代表的な3つの国営公園のイルミネーション・イベントの特徴とチラシの一部を掲載する。(各公園のホームページから転載。)
 

●武蔵丘陵森林公園

 埼玉県比企郡滑川町にある「武蔵丘陵森林公園」は、全国初めての1974年(昭和49)7月開園、総面積304ha。

 星空をイメージした30万球をこえるイルミネーションが中央口エリアに煌めき、植物園下の芝生広場には、森の中にオアシスのような湖が出現する。

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●国営昭和記念公園

 都内にある日本を代表する「国営昭和記念公園」は1983年(昭和53)10月開園、総面積165ha。昭和天皇御在位50年記念事業の一環として、立川市と昭島市にまたがる米軍の立川基地跡地のうち一部を公園として建設。

 公園の「Winter Vista Illumination」は、立川口ゲートから水路のカナールを中心に、約1万5000個のグラスを使ったシャンパングラスタワーや大噴水のライトアップ、木々と水面が輝く約20万個からなるイルミネーション。毎年15万人の来園者を集め、24日のクリスマスイブには花火も打ち上げられる。

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●国営アルプスあづみの公園

 全国で16番目、北アルプスの麓にある国営公園として「国営アルプスあづみの公園」は、2004(平成16)年7月に長野県安曇野市の堀金・穂高地区が暫定的にオープン。2009年(平成21年)7月に大町市、北安曇郡松川村の大町・松川地区部分が開園。総面積は353ha。

 夜の森を鮮やかな40万球の光が照らす「光の森のページェント」を開催。水面に映るイルミネーションが印象的な「花咲く大地」など、光の幻想的な風景が広がる。期間中は花火を使った演出なども開催される。次の2枚は、堀金・穂高地区と大町・松川地区のチラシの一部。

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 「ものみ・ゆさん」のイルミネーション関連ブログ記事

   「伊東温泉・伊豆の旅」 2013/11/25 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-0eea.html

   「紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション」 2015/11/16 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/1113-d746.html

   「昭和記念公園と西武園ゆうえんち」 20115/11/26 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-9651.html

   「森林公園の紅葉見ナイト」 2016/12/04 投稿 
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-60c9.html

2016年12月 4日 (日)

森林公園の紅葉見ナイト

 11月25日(金)、国営・武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)の「紅葉見ナイト」に行く。

 

 11月3日(木)~12月4日(日)の夜間、約500本のカエデのライトアップをはじめ、各種アート作品の展示やイルミネーション「紅葉見ナイト~光と森のStory~」が開園中。
 

 夜5時過ぎ、森林公園中央口から入園。

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 中央口エリアのイルミネーション。

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 11月24日に降った関東の初雪が残る。

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 カエデ園のライトアップ。残念ながら紅葉は盛りを過ぎて、枯れ始めていた。

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 植物園のイルミネーション。

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 次に12月10日(土)から12月29日(木)までの夜間、武蔵丘陵森林公園では「スターライトイルミネーション~光と森のStory最終章~」が開園する。

 30万球をこえるイルミネーションが中央口エリアに煌めき、植物園下の芝生広場では森の中にオアシスのような湖が出現するそうだ。

 

 ★ ★ ★

 クリスマスシーズンに向けて、クリスマスツリーや商業施設、個人の家の周りにもきれいな電飾で飾ることが増えてきた。観光名所としても大規模にイルミネーションが展開されてきているいる。全国に各地には、様々なイルミネーショ・スポットが存在する。

 何故、イルミネーションがこうも普及してきたかというと、以前の光源には豆電球が使われていたが、球切れが多く、消費電力が多さ、発熱が大きいことから難点があった。近年開発された、高出力のLED(発光ダイオード)ライトが、安価になり耐久性や発熱面、ランニングコストが格段に改善されるようになったからだ。

 LEDライトは1960年代に実用化された。最初は赤色しかなかったが、後に緑色が出て来た。近年、青色LEDが開発されたので、赤・緑・青の光の3原色がそろいどんな色でも表現できるようになったのだ。最も汎用性のある照明器具の白色に、赤色・緑色・青色LEDを合成して発光させることが出来るようになり、LED照明は急激に普及してきた。青色LEDを開発した中村修二氏の「青色LED特許紛争」や「ノーベル物理学賞受賞」の出来事は、いかに青色が重要だったかが分かる。

 一方で、昔のあの豆電球のイルミネーションで飾られたクリスマスツリーが持つ、暖かさ、柔らかさや安らぎが懐かしい気もする。

 昨年、栃木県足利市の「あしかがフラワーパーク」に行った時、ここは「関東三大イルミネーション」の一つとされていた。これは、2012年10月の「夜景サミット2012 in 長崎」において、千葉県袖ケ浦市「東京ドイツ村」 、神奈川県藤沢市「江の島 湘南の宝石」とともに、関東を代表する冬期イルミネーションに認定されたからだそうだ。しかし、どこのイルミネーション・スポットも毎年進化しており、なかなか甲乙をつけるのも難しそうだ。

 

 最近知らぬ間に、東京にはイルミネーションの名所が、どんどん増えている。街路樹、公園、ビルやショッピングモールなど、都会の夜をロマンチックに飾る。東京ミッドタウン、六本木ヒルズ、カレッタ汐留、表参道イルミネーション、恵比寿ガーデンプレイス、丸の内イルミネーション・・・等々、数え切れない。

 日本のイルミネーションは、夏の「打ち上げ花火」のように、世界に誇れる魅力や創作美、技術力や芸術性は、日本文化として冬の風物詩となりつつある。

 

 

  「ものみ・ゆさん」のイルミネーション関連ブログ記事

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   「紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション」 2015/11/16 投稿
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   「昭和記念公園と西武園ゆうえんち」 20115/11/26 投稿
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2016年12月 3日 (土)

森林公園の夏と秋の花

 国営・武蔵丘陵森林公園(埼玉県比企郡滑川町)で見た2016年の夏と秋の花。

 

 2016年6月24日(金)、初夏のダリア。

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 コニファーの実。コニファーは、鉢植えや地植えにも適し、庭木に用いられる針葉樹。

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 散らばった宝石のような、クモの巣にかかった雨露。

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 7月29日(金)、夏の森林公園を代表する花「オニユリ」は、ユリの女王。

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 10月21日(金)、野生の原種シクラメン。

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 ハーブの一種のセージ。

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 秋のダリア。

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 キク科のヒャクニチソウ。

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 「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事

   「森林公園の初夏の花」 2016/06/04投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-f26b.html

2016年11月30日 (水)

紅葉の信濃路の旅

 11月20日(日)~22日(月)、大河ドラマ「真田丸ゆかりの地を中心に東信州から北信州を巡る1泊2日のバスツアー。

 

 20日(日)、この日は朝から濃い霧。午前8時、参加者29名を乗せた観光バスは、関越道、上信越道の霧の中を走る。やがて霧が晴れて曇り空、雨はなさそう。

 

●千曲錦酒造(10:15~10:45)

 最初の訪問先は、佐久インターから上信道を降りてすぐ、江戸時代初期の天和元年(1681年)創業という老舗「千曲錦酒造」(長野県佐久市長土呂)。武田信玄の二十四将の一人・原虎胤(はらとらたね)の子孫・弥八郎が、この地域の名主を勤めるかたわら、酒造業を始めたとされる。

 この日は日曜で酒蔵の見学は出来なかったが、おなじみの試飲コーナーでは利き酒を楽しむ。

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●蜂天国(11:15~11:45)

 バスは国道141号から国道18号を走り、東御市加沢にある「蜂天国」へ。

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 「世界初のスズメバチの芸術館」がキャッチフレーズの館内には、スズメバチの標本や生態などの説明パネルとともに、珍形・奇形や巨大な蜂の巣800点余りが展示され、初めて見る人は驚くばかり。一見する価値はある。

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 置物などの人工物にくっついた巣や巨大な巣は、アートなのかオブジェだろうか。スズメバチだけで自然に作ったのではなく、人間の手が加わっている。蜂の巣駆除作業で取り外した巣を置物にくっつけて、いくつも並べるとスズメバチは巣と巣の間をせっせと埋めて、大きな巣の造形物ができていくのだそうだ。

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 蜂の巣80個を合体した「雷門」。

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 160個の巣を合体した「富士山」は、ギネスに登録された。

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  あまりにも多くの蜂の巣のアートを見ていると、ちょっと食傷気味になる。

 

 バスは、国道18号線を北上し、上田城址の目の前にある「ホテル祥園」(上田市大手1丁目)に入り、昼食(12:20~13:10)。

 

●真田丸大河ドラマ館と上田城址(13:20~15:50)

 「上田城址公園」の大型バス駐車場にバスを止め、公園に入場。

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 上田城址公園の一角にある「信州上田 真田丸大河ドラマ館」に入館。

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 現在放映中の大河ドラマの影響で狭い館内は、多くの観光客で大混雑。ドラマの解説や配役の紹介、ロケの写真や衣装、小道具、甲冑などが展示されている。館内は、撮影禁止。

 写真は、ドラマの真田信繁(幸村)が大坂の陣で着用した「赤備え(あかぞなえ)」の鎧兜(よろいかぶと)。これだけは、撮影可だった。

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 上田城は、真田本城主の真田氏が築城し、二度にわたり徳川軍を撃退した。しかし関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、上田城は徳川によって破壊され後、小諸藩主だった仙石忠政が移り、再構築した。しかし忠政の死後は、松平氏が藩主を交代し幕末までこの城を引き継いでいる。

 写真は、「上田城」の東門虎口櫓(やぐら)門。

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 本丸にある「真田神社」。明治になって上田城が廃城となった跡地に、創建された。本丸には、もともと天守閣はなかった。

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 神社は当初、松平氏を祀り「松平(しょうへい)」神社と称した。戦後、真田氏と仙石氏も合祀して「上田神社」と改称した。しかし市内の同名他社と紛らわしいため、その10年後に初代城主の真田氏の名前を冠して「真田神社」と再改称され、今に至っているそうだ。

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 集合時刻の14時40分になっても参加者の一人がバスに戻らず。迷子になったらしくて、大騒ぎとなるハプニング。大事に至らずやっと見つかったが、結局1時間以上の遅れの15時50分、公園の駐車場を出発。

 

 上信越道の坂城インターから信州中野インターを経て、16時55分湯田中温泉「ホテル星川館」(下高井郡山ノ内町平穏)に到着。

 温泉に浸かった後は、18時半から20時50分まで大広間で懇親会。
 

 

 ★ ★ ★

 21日(月)、6:25起床、7:30から朝食。9:00ホテルを出発。

 

●小野りんご園(9:15~9:35)

 信州中野の「小野りんご園」(中野市吉田)に寄る。ここは先月10月17日、リンゴ狩りに来たところ(文末の関連ブログ参照)。

 時間の関係でリンゴ狩りを省略、試食とお土産のリンゴを1人1カゴずつ持ち帰り。

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●小布施のまち歩き(9:55~10:30)

 栗と北斎で知られる小布施町の街中を散策(高井郡小布施町大字小布施)。

 ここには、江戸時代の絵師・葛飾北斎の「北斎館」のほか美術館や博物館、栗菓子・土産物・食事処・カフェなどの店が並ぶ。

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 この街も10月17日に訪ねて、「北斎館」を見学した(文末の関連ブログ参照)。今回は、「高井鴻山記念館」に入館しようと思ったが、改修工事中につき来年3月まで休館。高井鴻山は、地元の農・豪商でありながら江戸末期一級の文化人。北斎にアトリエを提供し、創作を支えた鴻山に関する資料が展示されているそうだ。

 「北斎館」すぐ隣の甘味処「おぶせ庵」と民家の間の空き地に置いてあった天才バカボンの人形が、おもしろい。

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 10:40小布施のスマートICから上信越道、長野方面へ。

 

●真田邸と松代城(11:05~12:10)

 10:55上信越道長野インターを降りて、長野市松代の「真田邸」と「松代城」を見学。

 「真田邸」は、9代藩主・幸教(ゆきのり)が、江戸住まいを幕府から帰国を許可された義母・貞松院の住まいとして、1864(元治元)年に建築された。

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 松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていた。母屋、表門、土蔵、庭園が、江戸末期の御殿建築として貴重な建物であり、松代城とともに国の史跡に指定。紅葉の庭園も見どころ。

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 隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降には伯爵となった真田氏の私宅となった。1966年(昭和41)年、12代当主の幸治氏により代々の家宝とともに松代町(現長野市)に寄贈された。

 「松代城」は、川中島で上杉と戦った武田信玄の拠点だったところで、「海津城」と呼ばれていた。関が原の勝利で功績を上げた初代藩主の真田信之(信幸)が、加増され上田城から移ってから「松代城」に変わる。幕末まで真田氏の松代藩10万石の藩庁だった。

 写真は、「松代城」の太鼓門。

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 明治維新に廃城となるが、近年江戸時代に近い姿で再現されたという。

 

 長野インター近くの「信州そば蔵ドライブイン」で、栗おこわと生そばの昼食(12:20~13:15)。

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 13時20分、長野インターから上信越道、関越道を帰路へ。

 

 16時、出発地の駐車場に到着。この日は曇り空だったが、自宅に帰る途中で雨。2日間とも寒くもなく、まずまずの天気の旅行だった。

 

 ★ ★ ★

 蜂の子(ヘボ)はクロスズメバチなどの幼虫だが、他にもミツバチ、アシナガバチなど、全国各地の山間部では幼虫やサナギが食用にされている。古い時代には貴重な蛋白源として常食されたが、近年は珍味として瓶詰や甘露煮、佃煮が販売されている。

 蜂の巣を採取するため、「蜂追い」と呼んで目印をつけた蜂を追いかける昔ながらの伝統的な狩猟がある。山間部の村には、蜂追いの愛好家や名人がいたりする。

 蜂の巣作りの勤勉さから「蜂は企業の手本なり」というのは、「蜂天国」のオーナー塩澤氏の言葉。氏は、地元で生コンクリート会社などの経営者だそうだ。スズメバチに愛着を持って、蜂の巣づくりがピークを迎える夏から秋には、蜂の巣集めに奔走しているという。特に長野県は、蜂蜜採取のためやミツバチ養蜂、蜂の子を食用とするためスズメバチの飼育や蜂追いなどが盛んな所だが、このような蜂の巣でアート作りをしている人がいたとは驚いた。

 

 ★ ★ ★

 真田といえば「赤備え(あかぞなえ)」が有名。 旗指物(はたさしもの)や、兵士が身につける甲冑(かっちゅう)などの武具を全て朱色に統一した部隊編成は、武田の重臣・飯富虎昌(おぶ とらまさ)が最初に始めたとされている。赤は戦場で目立ち、武田のこの部隊の戦いが強く印象づけられた。やがて「武田の赤備え」といえば、優れた精鋭部隊、最強軍団を意味した。また、当時は朱色の染料が貴重で高価、装備一式を同色に染めることなどは、特別のことだという理由もあった。

 信繁(幸村)の父・昌幸が存命中の文禄年間には、真田氏は甲冑と旗指物には赤を使用していた。真田氏の赤備えは、元々仕えていた武田氏から引き継いだものだろう。また、大阪夏の陣の真田信繁の兜は、大きな鹿の角が一対備え付けられ、前方に六文銭が飾られている。雄雄しい鹿の角にあやかって、当時の兜によく使われていた。もっとも信繁の兜は、九度山(和歌山県)で共に幽閉生活を送っていた父から授けられた物だとされている。

 大阪夏の陣で、赤備えで編成した真田信繁の部隊は、徳川本陣への攻撃で「日本一の兵(つわもの)」と讃えられた。赤備えは、劣勢の豊臣方につくことへの信繁自身の覚悟を表わし、兵士に赤を与えることで士気を向上させ、さらに精鋭部隊というイメージを敵に与え恐れさせたのに違いない。

 六文銭は、「三途の川(さんずのかわ)」を意味している。昔は、亡くなった者は「この世」と「あの世」の間を隔てる三途の川を渡って、あの世へ行くものだと信じられていた。川には渡し船があり、人を葬る際には船賃に困らないよう、六文の銭を副葬品として入れる習慣があった。真田の家紋を六文銭にした由来は、いつ命を落としても悔いが残らぬように六文銭を常に身につけ、命をかけて戦いに挑むという強い意志から来ているそうだ。

 しかし「大阪の陣」で豊臣派の真田信繁は、ドラマのように六文銭を実際には使用しなかったとされる。真田家の本流は信繁の兄の信之(信幸)であり、信之は徳川派に属していた。兄に気兼ねしたという理由からだと言われている。

 

 「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事

  「信州松代の史跡巡り」 2012/06/20投稿
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  「長野市周辺と白馬の旅」 2016/03/26投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-937b.html

  「長野市周辺と白馬の旅-その2」 2016/10/28投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-0d0e.html




2016年11月11日 (金)

日本スリーデーマーチ2016

 11月4日(金)~6日(日)の埼玉県東松山市とその周辺で開催されたウォーキングの祭典「第39回日本スリーデーマーチ」の2日目、3日目に参加。
 

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 (写真をクリックすると拡大表示します)

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●2日目: 11月5日(土) 20Kmコース

 吉見百穴(比企郡吉見町)から国営武蔵丘陵森林公園(比企郡滑川町)の中を通り抜ける20Kmコース。この日は、秋晴れの爽やかな良い天気で、最高気温は20℃くらい。途中で暑くなって、半袖のTシャツ1枚になってちょうど良かった。

 

 午前9時、東松山駅前を出発。吉見百穴から滑川の堤防(市内松山)を歩く。

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 10:45、岩鼻運動公園(市内松山)の休憩所、国道407号に架かる陸橋を渡る。

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 市内野田の田園地帯を歩く。

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 12:05、ちょうど市内大谷で、中学生を相手に観光ガイドによる「観歩!ガイドウォーク」をやっていた。平安末期から鎌倉前期に源頼朝を支えた比企氏の伝承のコース(比丘尼丘~串引沼)へ約1Kmほど寄り道して、元のコースに戻るそうだ。

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 県道307号線を武蔵丘陵森林公園に向かう。(市内大谷)

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 12:40武蔵丘陵森林公園の中央口(滑川町山田)、今日は無料入園日。

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 2017ミス・インターナショナル日本代表の筒井菜月さんが同じコースを歩いているのを見かける。(写真は、東松山市ホームページ「日本スリーデーマーチ」の動画から転載。)

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 中央口付近の芝生で昼食。

 公園の林の中の道を歩く(滑川町山田)。

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 13:55、森林公園の南口(滑川町山田)を出る。紅葉がきれい。

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 滑川に沿って、堤防の上を歩く(滑川町羽尾)。

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 15:25、ゴールの中央会場(市内松葉町)に到着。テントが並び、飲食や物品の販売や各種サービス。正面のステージでは、歓迎の演奏や演技が行われていて賑やか。

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 メインストリート(市内材木町)で行われている「よさこい陣屋まつり」を見ながら、東松山駅に向かう。

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 この日の歩数計は、36,000歩、22Km。

 事前に予約した駅付近の居酒屋で、夕方4時から同行の仲間と一緒に生ビールで完歩を祝って乾杯。地元の名物「やきとり」を食べて、6時過ぎに帰る。

 この日は、土曜日とあって家族連れも多かった。翌日の新聞発表では、3万247人がウォーキングに参加したという。

 

●3日目: 11月6日(日) 10Kmコースとパレード

 この日も秋晴れ。最高気温も20℃くらいだが、冬型の天気配置で前日よりも風が強くて、少し肌寒さを感じる。中央会場から唐子(からこ)中央公園を経由する10Kmコース。その後バレードに参加して、中央会場で解散。

 
 東松山駅から中央会場(市内松葉町)まで10分ほど歩く。

 中央会場のスタートの列。

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 ステージでは、歌手「Tomo_Yo(知世)」さんのミニコンサート。歌でウォーカーを見送る。(写真は、東松山市ホームページ「日本スリーデーマーチ」から転載。)

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 9:30出発。市内松葉町の商店街を歩く。

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 市内箭弓町の住宅街、東武東上線の踏切前で渋滞。10Kmは人気のコースで、昨日の20Kmにくらべて参加者も多い。

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 唐子中央公園(市内下唐子)の唐子地区体育館前に11:10到着。中央公園は、スタートから6Km地点。体育館前には屋台が並び、「第39回唐子地 区商工祭」が開かれていて、音楽演奏や踊り、歌などで賑わっていた。ここの児童公園に行って昼食。

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 公園の先では地元の人たちや中学生が、この地域を舞台にした打木村治の児童大河小説『天の園』を、NHKテレビの朝のドラマに取り上げてもらおうと署名活動。

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 市内石橋の田園地帯を歩く。

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 ​12時半、東松山市立南中学校(市内石橋)で休憩。昨年ノーベル物理学賞を受賞した東大の宇宙線研究所長・梶田教授は、この中学校の出身者。今年は、校舎の前に受賞記念碑が建っていた。

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 ひょうたんの形をしているものは、氏が研究していたニュートリノの観測設備「カミオカンデ」の光電子倍増管の模型。「ニュートリノは極小の素粒子の世界と極大の宇宙とを結ぶかけ橋」という直筆が刻まれ、経歴が紹介されている。

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 同じ記念碑が、出身の野本小学校と市内の二つの駅前にも建っているそうだ。

 南中学校を出て、13:00頃田園の中のあぜ道を歩く。あと30分ほどで市街地。

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 14時ころから、街中のバレード(約1Km)に参加。

 ​メインストリートの沿道では、和太鼓チームが力強い太鼓の演奏。山車の上から祭り囃子(写真左)、比企広域消防本部の音楽隊や県立松山高校吹奏楽部の歓迎演奏が流れる。 

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 パレードは1時半から始まった。市内にキャンパスのある大東文化大学の吹奏楽団を先頭に、主催者側の東松山市長や東松山観光大使「ピオニメイツ」、埼玉県警の音楽隊、埼玉県マーチングリーグなど・・・・、学校、団体、企業、ウォーキングクラブや自治会など、のぼりや旗を掲げて約1千人が続いていたそうだ。

 14時35分、中央会場(市内松葉町)に到着。​会場は、ゴールした人も含めてごった返している。

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 今年も、知人がやっている会場内の出店に行って、ウィンナーをつまみにドイツビールを一杯飲んで会場を出る。

 ​帰る途中、市役所の向かいにある総合会館(市内松葉町)に寄って、ノーベル賞受賞の梶田先生の展示コーナーを見学。

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 メインストリートを通って、15:30頃東松山駅に到着。この日の歩数計は、28,000歩、17Km。

 翌朝の新聞では、この日のウォーキング参加者は3万3678人。3日間好天だったので、この大会には延べ8万7150人が参加したそうだ。​
 

 「ものみ・ゆさん」の日本スリーデーマーチの関連ブログ記事 

  「日本スリーデーマーチ2015」 2015/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

  「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-ba9a.html

  「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ba9a.html
 

 

 ★ ★ ★

 最近各地で、ウォーキングの大会が開かれるようになった。全国には、およそ3000くらいの大会があるそうだ。主催者も参加者も費用をあまりかけず、またマラソンなどに比べ、年令を問わず誰でもが手軽にできるスポーツとして定着してきた。しかし、近隣からうるさがられたり、交通整理やコース整備の費用や人員の手配がうまくいかなかったりで、中止になった所もあるとも聞く。

 もともとこのような歩く大会は、平地が多いオランダが発祥だそうだ。毎年7月、ナイメーヘンで4日間開催される「国際フォーデーマーチ」は、世界最大規模。100年以上の歴史があり、もともとは軍隊の大会であったが、今は一般市民が中心となっているという。

 埼玉県東松山市を中心として、今年で39回目を迎えた「日本スリーデーマーチ」は、日本で最も古いウォーキング大会。毎年11月行われ、参加者はなんと8万人以上で、世界で2番目の規模を誇る。日本全国、世界各地からもウォーカーが集まる。

 「日本スリーデーマーチ」は、3日間別々のコースがあり、5キロから50キロまでの自分の体力に合った距離を選べる。都心に近く交通の便も良いが観光地化してなくて、のどかな田園風景や川や小高い丘があって、貴重な武蔵野の自然が残る点が、この大会の特徴だろう。

 健康志向の高まりで、各地でウォーキング大会が多く催されてきているので、「日本スリーデーマーチ」の最近の参加者数は、減少気味なのではと思った。しかし、データを見ると、ここ20年間の参加者数は、3日間の天候でも変わるが、通年8万人以上、5年ごとの記念大会では10万人以上、だいたい横ばい状態のようだ。

 来年の「日本スリーデーマーチ」は第40回の記念大会、11月のちょうど3連休で開催される。

 

2016年10月31日 (月)

コスモスまつりと秋バラまつり

 10月23日(日)、埼玉県鴻巣市の「コスモス・フェスティバル」と伊奈町の「秋バラまつり」へ行く。

 

 この日は、薄い白い雲が広がる秋の空。荒川河川敷の「吹上コスモス畑」(埼玉県鴻巣市)と「伊奈バラ園」(埼玉県伊奈町)へ。

 8:00、集合場所からから乗用車3台で出発。最初に鴻巣市吹上の「コスモスアリーナふきあげ」に向かう。

 

●吹上コスモス畑(8:50~9:50) 鴻巣市明用

 前日の22日に続き、同じコスモス畑にやって来た。22日(土)と23日(日)の2日間、コスモス・フェスティバルが開催中。朝早めに着いたので、駐車場は空いていた。

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 「コスモスアリーナふきあげ」周辺の荒川河川敷の6.3haの畑に、1,000万本のコスモスが咲き誇る。赤、ピンク、白のほか、珍しい黄色のコスモスもある。近くには日本一長い真っ赤な「荒川水管橋」、天気が良ければ遠くには秩父連山や富士山を見ることができるそうだ。

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 次は国道17号線を南下し、「伊奈バラ園」(埼玉県伊奈町・町制施行記念公園)に向かう。

 
 
●伊奈バラ園(11:10~12:00) 北足立郡伊奈町小針内宿

 昼近くになって、公園の駐車場は混んでいる。

 約1.2ヘクタールのバラ園に、木バラ、つるバラなど300種4800株を超えるバラが植えられている。この日は、「秋バラまつり」が開催されていた。

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 秋バラは、春に比べると花は小さいが、色合いが良く、香りも強くなるそうだ。また気温が低いため花持ちが良ので、春よりも長く花が咲いている。ここは、春のバラ園への入園は有料だが、秋は無料。

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 昼食にうどんを食べるため、国道122号線を北上して埼玉県加須市へ。

 

●加須うどん(12:40~13:20)

 手打ちのそば・うどん処「こぶし」(加須市久下)に入店する。

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 県内B級グルメ・グランプリを受賞した「肉みそうどん」(860円)を注文。

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 2010年(平成22年)11月に開催された「第7回埼玉B級ご当地グルメ王座決定戦」で、「加須市みんなで考えた肉みそうどん」が優勝した。現在、市内10数店舗のうどん店で食べられる。加須の手打ちうどんに肉みそをかけ、温泉卵をのせたもので、かき混ぜて食べる。店によって、肉みその味やトッピングが異なるそうだ。

 この店の「肉みそうどん」は、オリジナルのピリ辛肉みそと温泉たまごが絡み合うおすすめメニュー。一見、暖かいうどんかと思ったが、冷たいもりうどん。肉みそが辛くて、刺激が効いていて美味しい。定番のうどんを超えた、違う麺を食べているようだ。ピリ辛肉みそのジャージャー麺にも似ている。

 食事後、帰路へ。14:10、出発時の集合場所に到着。

 

 「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事

  「荒川コスモス街道」 2016年10月24日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-dfe3.html
 

 

 ★ ★ ★

 香川県の讃岐うどんに次ぎ、意外にも埼玉県はうどんの生産量が全国第2位のうどん県。特に有名な「加須うどん」は、加須市とその周辺地域で生産され食べられている郷土料理。「加須の手打ちうどん」とも呼ばれる。

 この地域は川の氾濫により肥沃な土が運ばれ、小麦に適した土地で、昔から米より小麦の栽培が盛んだった。江戸時代半ばに、加須市にある関東三大不動のひとつ「不動ヶ岡不動尊總願寺」の門前で、うどんを参拝客に振る舞ったのが始まりとされる。

 加須を含む北埼玉地方では、江戸時代末期ころから「青縞織り」という藍染の綿織物が特産品として生まれ、明治中期には加須で定期的に市が開かれていた。関東一円から人が集まるようになると、織物職人や商人等の昼食や土産物として加須うどんが広がったそうだ。また、古くから家庭でも、冠婚葬祭やハレの日は、うどんが作られていた。

 手ごね、足踏みと寝かせの作業を通常の2倍以上行い、包丁で切った後に短い時間棒に掛けて干す。加須の手打うどんの特徴は、コシが強く加水率が高く、ツルツル・シコシコとした口当たりとのど越しの良さだそうだ。

 店では冷たい盛りうどんを、あっさりしたつゆで食べるのが一般的。西日本の人たちには、ちょっと馴染めない。加須市内には、約40のうどん店があるそうだ。

2016年10月30日 (日)

白馬山麓・八方尾根

 10月18日(火)、白馬山麓の八方尾根トレッキング。

 

 前日の長野観光ツアーは、夕方ホテル五龍館に戻り、連泊。

 

 10月18日(火)、5:40起床。外を見ると濃い霧が漂っている。7:00からの朝食の頃は、霧は晴れたが、空には雲が低く広がっている。

 ホテルに不要な荷物を預け、トレッキング希望者12人は、7:45にホテルを出発。ゴンドラの八方駅(標高770m)まで、徒歩で約10分。

 八方駅から「八方池山荘」(第一ケルン)までは、「八方アルペンライン」と呼ばれ、ゴンドラとリフトを利用する。往復乗車券は、大人2,900円。2,610円のリピーター割引券があったが、ホテルに置き忘れてしまった。モンベルカードやJAFカードの提示でも、割引があるようだ。

 下の乗車券の写真は、北アルプスと八方尾根の「八方池」

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 ゴンドラは、8:00から営業。8:10、6人乗りの八方ゴンドラリフトの「アダム」に乗りこむ。

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 ゴンドラは紅葉の中をぐんぐん高度を上げ、アッというまに下界の白馬村は雲の下へ。

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 8分で「兎(うさぎ)平」(標高1440m)に着くと、次は4人乗りのアペンクワッドリフトに乗り継ぐ。

 7分で、「黒菱(くろびし)平」(標高1680m)に着く頃には、霧が出て来た。

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 黒菱平から、更に4人乗りのグラートクワッドリフトに乗り継ぐ。所要時間は5分。霧は出たり消えたり。

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 8:50、リフトを降りると目の前に標高1830mの山小屋「八方池山荘」とトイレあり。右手に少し行くと、標高1820mの「第一ケルン」がある。

 八方池山荘の前から、ゆるやかな坂道を登る。大きい石がゴロゴロした道は歩きにくい。

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 所々に、歩きやすい整備された木道もある。

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 「第二ケルン」が見えて来た。

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 9:40、標高2005mの第二ケルンに到着、ここで5分休憩。

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 目の前に見えるはずの北アルプスの峰々は、雲で全く見えない。

 見上げると、向うに「八方ケルン」が見える。ここから神秘の池といわれる「八方池」までは片道30分、帰りのバスの時間の余裕を見て下山することに。

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 八方池山荘(第一ケルン)から黒菱平を経て、兎平へとリフトで降りる。黒菱平から下は、霧が晴れている。

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 10:45、兎平に到着。見上げると黒菱平は、もう雲に包まれている。右の建物「うさぎ平テラス」に入り、レストランで昼食。

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 兎平には、動物とのふれあいや餌やり、乳製品の手作り体験ができる「天空牧場」があるそうだ。またパラグライダーのテイクオフ(離陸)場にもなっている。

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 うさぎ平テラスに併設された天空の展望台「オープンテラス」から、パラグライダーを見上げ、白馬村を見下ろす。

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 オープンテラスからは、晴れていれば正面に戸隠連峰や浅間山、南に美ヶ原や八ヶ岳連峰が見渡せるという。気持ちよさそうなパラグライダーの飛行や下界のパノラマをしばし眺める。

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 11:30うさぎ平を出て、ゴンドラで八方駅へ下る。

 ホテルまでの帰り道から、紅葉の八方尾根を見上げる。すでに、兎平までも雲が降りて来ていて、紅葉も色あせて見えるのは残念。

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 ホテルの近くの道すがら見えた白馬ジャンプ競技場。

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 12:10、ホテル着。預けた荷物を引き取り、帰りの準備をしてしばらくロビーで休憩。

 13:20、ホテルの送迎バスが出発。13:40発の長野駅東口行きの特急バスで帰る8名は白馬八方バスターミナルへ。

 残りの乗用車組の4名は、特急バス組とホテルで別れる。途中で県道31号線沿い道の駅「おがわ」でお土産に「おやき」(一個150円)を、長野インター前の土産やの「おぎのや」で「峠の釜めし」(1000円)を買って、上信越道から帰路へ。

 

 ★ ★ ★

 「八方尾根」は、白馬連峰の「唐松岳」(2696m)から四方八方に尾根が延びていることから名付けられた。八方池までのトレッキングコースは、百名山11峰が見渡せる絶景スポットが点在。また、黒菱(くろびし)平から上部は中部山岳国立公園に指定され、貴重な高山植物をはじめ特別天然記念物の日本カモシカやライチョウなどの動植物が生息している。

 雨は降らなかったがあいにくの曇り空、素晴らしい北アルプスの眺望が望めなかったこと、限られた時間で八方池まで行けなかったのは、残念だった。

 今年はまだ気温の低下が遅く、急な冷え込みがあまりなかったのか、全国的に紅葉の最盛期が遅れているようだ。志賀高原も八方尾根も紅葉は始まってはいたが、鮮やかな色の、素晴らしい紅葉にはお目にかかれなかった。

 29日の朝日新聞夕刊には、「栃木県日光市の中禅寺湖周辺で紅葉が見頃を迎えている。湖畔ではカエデやナナカマド、カツラなどの木々が赤や黄色に色づき・・・・・。先週末の冷え込みで一気に色づいたという。」という記事と写真があった。日光周辺の紅葉も例年より1、2週間遅れているようだ。

 12日には白馬三山で初冠雪が確認されたが、その後気温が上がってしまったようだ。八方尾根トレッキング翌日の19日、八方尾根の黒菱平で初雪が降ったそうだ。今頃の秋晴れの白馬村で、北アルプスの冠雪の白、山麓の紅葉の赤、針葉樹の緑色の三色が織りなす奇跡の絶景「白馬三段紅葉」が見られるのだろうか。

 

2016年10月28日 (金)

長野市周辺と白馬の旅-その2

 10月16日(日)白馬山麓のホテルに前泊、17日(月)長野市とその周辺の観光ツアーに行く。

 

 16日(日)志賀高原の池めぐりが終わって、志賀高原総合会館98を13:15車で出発。

 国道292号、志賀中野有料道路(100円)、県道29号、上信越道の信州中野IC入り長野ICで出る(510円)。長野市街を通り西の方角へ、国道19号、白馬長野有料道路(210円)を経て県道31号、県道33号を走る。途中、道の駅「おがわ」で休憩。

 

 15:55、白馬八方温泉「ホテル五龍館」に到着。

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 ホテルは、JR白馬駅より北西に車で5分。近くに徒歩10分の八方尾根スキー場や白馬ジャンプ競技場がある。ここは、今年3月にも宿泊したところ。



 ホテルの前から見える北アルプスの「白馬三山(しろうまさんざん)」。左から「白馬鑓ヶ岳(しろうまやりがたけ)」(標高2,903m) 、「杓子岳(しゃくしだけ)」(2,812m) 、「白馬岳(しろうまだけ)」(2,932m)。 12日には、初冠雪があったと聞く。

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 ホテルから見える白馬八方尾根。18日に八方尾根のトレッキングを予定。

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 16:30、白馬ジャンプ競技場へ行って見る。

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 1998年(平成10年)の長野オリンピックで使用されたジャンプ競技場。左はノーマルヒル、右はラージヒル。今年3月には、リフト(往復料金460円)に乗り地上約140mのスタート地点から眺めた白馬村の風景は、素晴らしかった。

 ちょうどジャンプの練習中だった。

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 今日から2泊3日、全国各地から21名が参加して、年に一度のOB会。

 入浴後の17:45~22:00、懇親会と2次会は盛会だった。22:30就寝。

 

 ★ ★ ★

 10月17日(月)、6:00起床。7:00~朝食。8:50、参加者21名は、観光バスでホテル出発。

 中野市でリンゴ狩り、小布施町で「北斎館」の観覧と「栗おこわ」料理の昼食、長野市の信濃美術館、善光寺を貸切バスでめぐる観光ツアー。 

 今日は朝から雨。終日雨の予報であったが、りんご園に着く頃には雨は止む。

 

●小野りんご園」(中野市)でりんご狩り(10:30~11:00)

 料金500円で、直接木からもぎ取って食べ放題。1個はお持ち帰りできる。

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 シナノスイートは、甘くてシャキシャキの人気品種。下の写真はふじ。

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●「北斎館」(小布施町)に入館(11:45~12:30)。入館料1,000円。

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 江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の肉筆画を紹介。北斎の生涯と小布施ゆかりの作品が展示されている。

 写真は、北斎館のパンフの表紙。北斎が描いた天井絵のある祭り屋台。

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  1976年(昭和51年)以来、開館40周年を記念して特別展「氏家コレクション-肉筆浮世絵の美」が開催中。故氏家武雄氏が蒐集した作品の中から、北斎をはじめ菱川師宣、喜多川歌麿、歌川広重などの傑作50点を展示してある。

 氏家コレクションの展示室。

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 北斎の肉筆画展示室。

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 北斎は『富嶽三十六景』の浮世絵版画で有名だが、肉筆画をこんなに多く描いているとは知らなかった。肉筆浮世絵は版画浮世絵よりも、精密で色も鮮やか、絵師の力量が問われるという。また版画と違い、肉筆画は一品制作である。

 祭り屋台展示室には、長野県宝に指定された2基の祭屋台が展示。

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 小布施町の東町祭屋台には北斎筆の『龍と鳳凰』、上町祭り屋台には、男波・女波と呼ばれる『怒濤』の二枚の天井絵がある。

 

 北斎館を出て、小布施のまち歩き。

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●おぶせの里「いなか家」(小布施町)で昼食(12:45~13:20)。

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 無病息災を願って、六つの皿の「六皿息災料理」。器の配置は、信州の武将・真田幸村の家紋「六文銭」にあやかっているそうだ。左下の黒い器は、「栗おこわ」。栗は小布施の名産。右下は、きのこ汁。

 

●信濃美術館「東山魁夷館」(長野市)に入館(14:20~15:15)。入館料500円。

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  東山魁夷の本名は、東山新吉。1908年(明治41年)横浜に生まれ、3歳で神戸に転居。第二神戸中学から東京美術学校日本画科を卒業。昭和を代表する日本画家の一人で、文化勲章受章。1999年(平成11年)没。

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 御射鹿池(みしゃかいけ)という溜め池が、長野県茅野市にある。東山魁夷の1972年(昭和47年)の作品「緑響く」のモチーフとして有名な池である。今でも、多くのアマチュア写真家が、この溜め池の前に三脚を並べる。東山魁夷の絵画に、影響を受けたという写真家は少なくはない。

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 日展への出品作など代表作の多くを、東京国立近代美術館と長野県に寄贈。長野県は、信濃美術館に「東山魁夷館」を1990年(平成2年)に増設し、常設展示している。

 東山魁夷は、「信州の豊かな自然を描くことが多く、風景画家として一筋の道を歩いてきた。私の作品を育ててくれた故郷とも言える長野県にお願いした。」と寄贈の理由を述べている。

 その他にも、魁夷ゆかりの地の「兵庫県立美術館」、「香川県立東山魁夷せとうち美術館」、市川市立「東山魁夷記念館」、「東山魁夷 心の旅路館」(岐阜県中津川市)にも作品が寄贈されている。

 本館の「信濃美術館」の方は、月曜日は休館だった。

 

 
●「善光寺」(長野市)参り(15:20~16:30)。

 善光寺は、信濃美術館からすぐ近く。仲見世の土産や「丸八たきや」の駐車場(本堂西側)にバスを駐め、お店のガイドの案内で、歴代の「回向柱(えこうばしら)納所」、工事中の「経蔵(きょうぞう)」、「本坊大勧進」を見て、「山門」へ。

 重要文化財の「山門(三門)」は、二層入母屋造り。

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 1750年(寛延3年)に完成。2007年(平成19年)に修復工事がなされ、檜皮葺き(ひわだぶき)になっていた屋根が、創建当初の栩葺き(とちぶき)に改められた。

 楼上に掲げられている「善光寺」と書かれた額は、通称「鳩字の額」と呼ばれ、3文字の中に鳩が5羽隠されている。また「善」の一字が牛の顔に見え、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を物語っているという。山門の内部が公開されていて、500円で2階まで上がれる。

 本堂は、江戸時代中期を代表する仏教建築として、国宝に指定。

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 本堂は、創建以来10数回焼失したが、その都度全国の信徒からの浄財で復興した。現在の本堂は、1707年(宝永4年)の再建。国内有数の規模の木造建築で、T字型の棟の形から「撞木(しゅもく)造り」と呼ばれる。屋根は、総檜皮葺き(ひわだぶき)。

 「戒壇巡り」が500円で体験できる。本堂の床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている「瑠璃壇」という小部屋の真下にある錠前に触れると、死後に極楽浄土へ行けるとされる。

 参道の仲見世に向かう。

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 善光寺の入口となる「仁王門」には、善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられている。

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 仁王門は、1752年(宝暦2年)に建立されたが二度焼失、現在のものは1918年(大正7年)に再建。仁王像と背後の三宝荒神・三面大黒天は、ともに高村光雲と米原雲海の作。

 

 この日は朝から雨で心配したが、現地に着く頃には雨も止んだ。寒くもなく、午後からは晴れ間もあり、予定のツアーは無事終了した。

 予定の30分遅れで、17:45「ホテル五龍館」着。

 18:00~20:00、二度目の懇親会。入浴後、21:00~23:00二次会。23:30就寝。

 

 

 「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事

  「信州松代の史跡巡り」 2012/06/20投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-3d01.html

  「長野市周辺と白馬の旅」 2016/03/26投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-937b.html


  「志賀高原の池めぐり」 2016年10月26日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-ad52.html

 

 ★ ★ ★

 「北斎館」がなぜ小布施町にあるのか、北斎が小布施の出身かと思っていたら違っていた。

 北斎は、1760年(宝暦10年)、江戸・本所(現在の墨田区)で生まれた百姓の子であった。幼い時に幕府御用達の鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のちに実子に家督を譲り家を出る。貸本屋の丁稚や木版彫刻師の徒弟となって苦労を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画家の道を志す。

 1778年(安永7年) の18歳の頃、浮世絵師・勝川春章の門下となったが、1794年(寛政6年)破門される。狩野派、土佐派、琳派(りんぱ)、洋風画など和漢洋の画法を取得し、司馬江漢などの洋風銅版画にも関心を寄せるなど、貧しくて破天荒な修業生活を送る。

 若い時から意欲的で何でも描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。奇行が多く、逸話も多い。また改号や転居が頻繁で、春朗・宗理・可候・北斎・画狂人など30以上の号を用い、転居は生涯で90回を超えた。

 『北斎漫画』と『富嶽三十六景』は、北斎の名を後に世界中に広めることとなった代表的な作品。『北斎漫画』は、絵手本として発行したスケッチ画集。1814年(文化11年)北斎が55歳の時に初編を手掛けた以降、その人気は北斎が亡くなっても衰えることなかった。

 『富嶽三十六景』は、1831年(天保2年)~1833年(天保2年)頃にかけて刊行された46枚シリーズの風景画・浮世絵。北斎の絵師としての地位は、この作品により不動のものとなり、風景画に新しい分野を切り開いた。その頃の北斎の年齢は、すでに72歳~74歳。修業を始めてから、50年が過ぎた頃であった。 

 

 信州・小布施村で酒造業を主とした豪農商の高井鴻山は、陽明学などの学問にも通じ、多くの文人とも交流があった江戸時代末期の一流文化人であった。江戸での遊学の折、北斎と知り合いその門下となった。この縁によって、数年後の1842年(天保13年)秋、旅の道すがら83歳の北斎が、小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、自邸に一間のアトリエを新築し、北斎を厚遇した。

 当時の小布施は、千曲川を利用した舟輸送により北信濃の商業・交易の中心として繁栄していた。北斎や一茶をはじめ、文人を引きつける魅力のある町だった。北斎の当地への訪問は4度にわたり、滞在中は鴻山の全面的な援助のもとで、肉筆画の独自の画境に没頭した。このとき描かれたものが、小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、曹洞宗・岩松院の天井絵である。1849年(嘉永2年)、北斎は卒寿(90歳)で没する。 

 

 小布施町内には「北斎館」をはじめ、12の美術館・博物館がある。小布施町は、歴史的町並の修景事業が行い、上信越道の須坂長野東IC開通、北陸(長野)新幹線の開業などに伴い、北信濃の人気観光スポットとなった。

 長野県内には多くの美術館・博物館があり、その数は東京都に次ぐともいわれている。その中でも長野県信濃美術館は、県立の美術館として半世紀の歴史を刻んでいる。 

 

 「牛に引かれて善光寺参り」で有名な「善光寺」は、無宗派の単立寺院で、檀家も持っていない。全国各地の信者の浄財で支えられていて、年間600万人以上の参拝者が来るそうだ。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。現在、セクハラ疑惑騒ぎで信徒から辞任を要求されている住職は、「大勧進貫主」の方である。

 日本最古と伝わる「一光三尊阿弥陀如来」を本尊とし、御開帳が行われる7年に一度、丑年と未年に多くの参拝者が訪れる。御開帳は、秘仏の本尊の身代わりとして、まったく同じ姿の「前立本尊」を本堂に移してお参りするという儀式。本堂の前には、45cm角で高さ10mもある杉材の新しい「回向柱」(えこうばしら)が建つ。直近では、2015年4月5日~5月31日の間、御開帳が開催された。

 善光寺の建立の詳細は不明とされているが、奈良後期から平安前期にはかなりの規模の大寺院だった。江戸時代には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われていた。

2016年10月26日 (水)

志賀高原の池めぐり

 10月16日(日)、志賀高原の池めぐりハイキング。

 

 

 

 15日(土)、JR長野駅善光寺口前の長野第一ホテルに前泊。すぐ近くの駐車場に車を駐める。

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 16日(日)、5:30起床。7:00~ホテルでは信州そばといなり寿司2個というユニークな朝食。

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 7:10、自家用車で志賀高原に向け出発。

 上信越道(須坂長野東IC~信州中野IC、330円)、県道29号、志賀中野有料道路(100円)を経て、国道292号へ。

 うっかり目的地を通り過ぎて時間をロスしてしまい、予定より20分遅れの8:35「志賀高原総合会館98」に到着。

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 総合会館98は、1998年長野冬季オリンピックの年に開館した複合公共施設。世界的な音楽指揮者・小澤征爾氏の監修のもとで完成した音楽ホールがあり、またスポーツ合宿、学習合宿やシンポジウムなどにも利用されている。総合会館98の駐車場に車を駐める。

 道を挟んで、旧ロープウェイ駅だった観光施設「志賀高原ゲートウェイステーション」( 山の駅)の前にバス停がある。すぐそばには、睡蓮が浮かぶ「蓮池」。向うの山々は、「鉢山」か「志賀山」か、確認できない。

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 この湖畔は、紅葉の美しいスポットだが、まだ時期が早いようだ。

 湯田中温泉の駅前からやって来た渋峠行きの長野電鉄バスは、3分遅れで到着。8:40、何とか予定のバスにギリギリ間に合った。 硯川(ほたる温泉)バス停で、9:00下車(運賃400円)。ここは、標高1695m。

 ここからは、前山サマーリフト(所要時間5分、片道400円)に乗る。

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 眼下には熊の湯・硯川のホテル群、正面には特徴のある尖った形の「笠ヶ岳」 (標高2075m)。

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 9:10、リフトを降りると、「前山」の山頂。標1810mの山頂は、風もあってか肌寒い。

 遊歩道の両側に「前山湿原」が広がる。やがて浮島のある「渋池」へ。池周辺や浮島にはモウセンゴケが多く生育している。この標高でのハイマツは珍しく、氷河時代の名残とされえいる。池の向うは、志賀高原で二番目に高い「横手山」(標高2,305m)。

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 針葉樹林の森を進み、9:35分岐に着く。左は「志賀山」(標高2036m)と「裏志賀山」(2040m)の登山コース。分岐を右へ、直接「四十八池湿原」へ向かう。

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 森が突然開け、尾瀬ヶ原のような高層湿原の「四十八池湿原」が現れる。

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 9:55、湿原の前のベンチ付きの東屋に到着、10分ほど休憩。

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 湿原は、志賀山と火口 湖のある鉢山(標高2041m)に囲まれた標高1890mの所にあり、面積3.8ヘクタール。この中に60余りの池沼がある。向うに見える山が、志賀山と裏志賀山。春・夏には、ミズバショウ、ヒメシャクナゲ、ミズギク、ワタスゲなどの花が咲くが、この時期は草もみじ。

 5分ほど歩くと、「志賀山神社」の額のある鳥居。志賀山の登山コースの出口。

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 眼下に「大沼池」が見えて来た。エメラルドグリーンの色の青さに息を飲む。この先は、きつい下り坂は長い。

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 山道が平坦になって、大沼池のレストハウスが見えて来た。

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 10:55、レストハウス「エメラルド大沼」着、ここは標高1730m。

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 大沼池は火山のせき止め湖で、 周囲5.5km。志賀高原で最も大きな湖。

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 火山性の強酸性池で、魚や水草は生息していない。畔で見ると、意外と透明度が高い。正面の山は志賀山。

 20分後に出発、池の周囲に沿って歩く。大沼池はの色は、見る場所、角度や天候で微妙に変わる。

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 11:30、大沼池の出口「池尻」に到着。この池を農業用水の溜め池として使用しているのか、堤が築いてある。

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 「吉田桜山翁碑 大正十三年修築 八ヶ郷耕地整理組合」と読める大きな石碑が建つ。大沼池を下流の村々のために、1924年(大正13年)堤の修築に尽力されたのだろうか、詳細は不明。強酸性の水は、農業用水に使えるのだろうか、気になる。

 

 この先は、林道となって緩やかに下る。大沼池入口バス停から、大沼池へに登って来る人達とすれ違う。

 12:00、分岐あり。林道に沿って直進すると清水口バス停へ(約1.2Km、約20分)。右の小道は、「逆池」を経由して清水口バス停へ(約1.7Km、約30分)とある。

 どちらにしても同じ場所に至るが、右手の山道の方が近道のようだ。「清水口バス停」がどこのことか分からなかったが、後で「大沼池入口バス停」と同じだと知る。全く紛らわしい道標だ。「逆池」を経由する山道を選ぶ。

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 狭くて急坂の山道をひたすら下る。道の左手に見えるはずの「逆池」がなかなか出て来ない。分岐から15分後、やっと道の谷側の樹間に大きな水たまりのような池が見えたが、これが「逆池」だったのだろうか。

  

 分岐から20分後、更に清水口バス停へ(約0.2Km、約5分)と清水名水公園(約0.1Km、約2分)の分岐に出る。
 
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 とりあえず舗装された道路を歩いて、「清水口バス停」へ行って見る。このバス停は駐車場やトイレもあり、屋根付の「大沼池入口バス停」のことだった。次の蓮池行きへのバスは、この時間帯は本数が少なくて、次の出発まで1時間以上もある。

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 少しここでブラブラして時間つぶしをしていたが、清水公園へ行ってみることに。12:50、公園らしきところに「志賀高原清水公園、志賀の源水、標高一、五五〇メートル」の木柱が建っている。

 公園といっても、道路沿いの斜面から清水が流れ、ベンチがあるだけの小さな公園。大きなポリタンクを持った地元の人だろうか、「水道水より美味しいので・・・」と言って、清水を汲んでいた。ここで休憩、昼食。

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 大沼池入口バス停に戻り、13:15発の蓮池行きの長野電鉄バスに乗車。総合会館98バス停には停車しないので、手前の蓮池バス停で下車(220円)。

 ここからは総合会館98バス停までの300mほど歩き、13:25に着く。「志賀高原ゲートウェイステーション」( 山の駅)の前から見る蓮池は、朝見た景色とは違った顔をしていた。

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 総合会館98の駐車場から、13:45に車で出発。次の目的地・長野県白馬村のホテル五龍館へ向かう。

 

 往路と逆順に、国道292号、志賀中野有料道路(100円)、県道29号、上信越道に信州中野IC入り長野ICで降りる(510円)。

 長野市街を通り、西の方角へ国道19号、白馬長野有料道路(210円)、県道31号を経て、道の駅「おがわ」で休憩。更に県道33号を通って、15:55ホテル五龍館に到着。所要時間は休憩を入れて、約2時間10分だった。

 

 ★ ★ ★

 志賀高原では、大沼池の古くからの「大蛇伝説」にちなんで、毎年8月下旬の3日間に渡り「大蛇祭り」が行われている。祭りのメイン会場は、蓮池と総合会館98周辺。大沼池の水神前で「入魂祭」、大蛇を小舟に乗せて湖上渡り、花火大会、お練り行列、大蛇のお嫁さんを選ぶ「ミス志賀高原コンテスト」など、各種イベントが行われるそうだ。

 大蛇伝説とは、信濃中野(現在の中野市)を拠点とした戦国武将・高梨政盛の美しい娘・黒姫に恋した大沼池の大蛇が、小姓に化けて近づくが正体を知れてしまう。怒った大蛇は暴風雨で村に大洪水を起こす。悲しんだ黒姫は大沼池に身を投じ、大蛇を鎮めたという悲話。

 そういえばNHK大河ドラマ『真田丸』に、後世の高梨家が登場する。真田家の重臣・高梨内記(配役:中原丈雄)は、昌幸(草刈正雄)の側近として真田家を支えて、高野山幽閉や大坂の陣にも従う。内記の娘・きり(長澤まさみ)は、信繁(堺雅人)の生涯のパートナー(史実では側室か?)。幼馴染時から大坂の陣まで、波乱の信繁の人生に寄り添う。

 

 「志賀高原」は、「ユネスコエコパーク」(生物圏保存地域)に指定されている。ユネスコエコパークは、1976(昭和51)年から実施されている。地域の豊かな生態系や生物多様性を保全し、自然に学ぶと共に、文化的にも経済・社会的にも持続可能な発展を目指す取り組みである。

 「世界自然遺産」が、自然地域を保護・保全するのが目的であるのに対し、「ユネスコエコパーク」は、生態系の保全と持続的な利活用の調和を目的としており、自然と人間社会の共生に重点が置かれているという。

 現在、ユネスコエコパークの登録件数は世界120か国で669件(2016年3月現在)、日本の登録件数は、次の7件である。

 志賀高原、白山、大台ケ原・大峯山、屋久島、綾、只見、南アルプス。

 志賀高原エコパークは、1980年(昭和55年)に登録された。志賀山を中心とした大沼池や四十八池湿原を含む約1,000haは、長期的に保護を図っていくため「核心地域」と定め、それを囲むエリアを環境教育や学習、エコツーリズムなど自然環境の保全を優先しながら利用する「緩衝地域」としている。

2016年10月24日 (月)

荒川コスモス街道

 10月22日(土)、埼玉県鴻巣市の「荒川コスモス街道」を歩く。

 

 写真は、荒川水管橋見学会でもらったカード。

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 この時期の荒川コスモス街道は、800万本とか1千万本という鮮やかなコスモスが見頃だ。この日はどんよりとした曇り空だが、天気予報の通り終日雨は降らなかった。

 JR高崎線吹上駅の南口付近に車を停め、10:45ウォーキング開始。

 吹上小学校、富士電機工場のそばを通り、西の方角へ住宅街を抜け荒川堤防に向かって歩く。

 11:10、途中の道路わきに「中山道 榎戸(えのきど)村」の石柱が立つ。

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 石柱の裏面には、次のような説明が刻まれている。

- ここは旧榎戸村の上方。村は中山道に面して東西五丁南北六丁余の小村だが、江戸以来、吹上、大芦村から糠田村に至る八ケ村へ田用水を供給する元荒川の「榎戸堰(えのきどせき)」があり、風光明媚な所として知られた。 -
 

 すぐ近くには、「榎戸堰公園」という小さな公園があり。その横には、元荒川の流れを調節するコンクリート製の現在の榎戸堰。元荒川はその昔、荒川と利根川が合流していた時代の荒川の本流であった。

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 榎戸堰公園の積上げられた石山の上に、立派な「代田仙三郎翁顕彰の碑」が建つ。

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 レリーフの人物は、この村の名主で1899年(明治32年)から第2代吹上村長を務めた代田仙三郎翁。翁は、村長時代に関係の村々や県を説得し、元荒川の治水・堰堤工事などの公共事業に奔走した。難工事のために費用は予算を遥かに超過したが、私財を投じて完成させたという郷土の名士。

 下流の田畑に用水を供給した榎戸堰は木造だったが、レンガと石材で近代的な用水堰に造り替えられた。村々は毎年くり返された修復普請の苦労から解放され、安定した用水を得られるようになったという。

 この堰から下流へ桜並木が続き、今は鴻巣市の桜の名所となっているそうだ。

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 11:15、荊原(ばらはら)地区にある荒川堤への上り口、吹上宿から熊谷宿に向かう中山道沿いに地蔵堂と二宮尊徳の石像がある。

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 地蔵堂の横に、市教育委員会の「権八地蔵とその物語」と題する説明板がある。「権八地蔵」は、この地蔵堂に安置される石地蔵で、「権八延命地蔵」とか「物言い地蔵」などともいう。

 鳥取藩士の平井権八は、同僚を殺害したため脱藩して江戸へ向かった。途中で金がなくなった権八は、この辺りで通りすがりの上州の生糸商人を辻斬りして300両を強奪。傍に立っていたこの地蔵に賽銭をあげ、「今の事は他言してくれるな」と手を合わせた。地蔵は、「わしも言わぬが、おぬしも言うな。」と口をきいたという伝説がある。

 平井権八は歌舞伎の演目『鈴ヶ森』の登場人物・白井権八にあたるそうだ。史実の平井権八は、1679年(延宝7年)鈴ヶ森刑場(品川区大井)で磔(はりつけ)の刑に処されている。なお地蔵堂の隣に、なぜ二宮尊徳像があるのかわからない。

 

 11:20、ここから舗装された荒川堤防の上を、南に向かって歩き始める。時折、サイクリング車が追い抜いて行く。

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 辺りの空には、パラグライダーが飛び交っている。どこかでエンジン音がする。山の上からフライトするのとは異なり、エンジンを背負ってプロペラの推力で平地から離着陸できるという「モーターパラグライダー」だ。(写真をクリックすると拡大表示)

 11:35、「荒川パノラマ公園」に着き、10分ほど休憩。ローラー滑り台付きの地上18mの展望台がある。

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 11:50、県道66号線(行田東松山線)が通る「大芦(おおあし)橋」の下をくぐる。

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 日本で一番長い、荒川に架かる美しい水道橋「荒川水管橋」が近づいてきた。

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 県企業局では県営水道を知ってもらうために、普段は立ち入ることができない荒川水管橋を実際に渡る見学会を、「コスモス・フェスティバル」に合わせて初めて開催。

 水管橋を歩く見学者が見える。

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 12:00、水管橋の下を通過。

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 水管橋の下にテントがあって、見学の受付をしていた。予約制のため、キャンセル待ちをエントリーして、先に進む。


 12:25、「コスモス・フェッティバル」荒川堤の会場に到着。

 22日(土)・23日(日)の2日間は、「コスモス・フェスティバル」が開催されている。「コスモスアリーナふきあげ」(旧吹上町民体育館)の前に屋台が並び、大勢の客で混雑している。歌や踊りなどのイベントが行われていて、指定場所でのコスモスの摘み取りもできるとそうだ。

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 堤防から河川敷に降りると、6.3ヘクタールの「吹上コスモス畑」が広がる。荒川水管橋を背景に、色とりどりのコスモスを鑑賞。

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 ピンクや白のほか、黄色いコスモス(イエローキャンパス)畑の一角がある。

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 12:45、堤防の斜面でコスモスを見ながら昼食。

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 今年は、台風10号の影響で河川敷が冠水したため、コスモスの生育が悪いそうだ。

 

 13:30フェスティバル会場を出て、水管橋に戻る。運良くのキャンセルがあって、水管橋を渡ることができる。

 見学コースが二つあって、「2Kmコース」は水管橋の端まで行って帰って来る往復40分のコース。途中までで帰って来る、往復20分の「400mコース」に参加することに。

 14:00ヘルメットと軍手を装着して、5、6階建てビルの高さにある2本の送水管(直径1.2m)に並行したメンテナンス用通路まで階段を上る。

 案内の職員の後を追って、一人分の幅しかない通路をゆっくりと歩く。

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 水管橋から左手を見ると、河川敷には遠くにコスモス畑、左手の建物(体育館)の前がフェスティバル会場。手前の芝生は、グランドゴルフ場。

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 右下の河川敷には、サッカー場。

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 終了後、おみやげに記念カードと「埼玉県のおいしい水道水」のペットボトルをいただく。

 

 この荒川水管橋は全長1.1Kmと日本一の長さを誇る水道用水の供給のための施設。1984年(昭和59年)に荒川に架けられた。埼玉県企業局が管理。

 利根大堰で取水された水はいったん行田浄水場へ送られ、そこで水道水へと生まれ変わる。浄水場からは地下パイプを経由して、荒川水管橋まで送水されている。利根川の水が荒川の上を越えて、県の西部地域の水道事業者(市や町)へと供給されるのだ。

 

 更に荒川堤防を日枝神社の小谷(こや)地区までコスモス街道は続くが、水管橋の見学で時間を費やしたため、ショートカットして吹上駅に向かうことに。

 14:30、水管橋を出て、北東方向に伸びる田園地帯と住宅街の中のまっすぐな道を歩く。

 14:50、吹上駅前着。この日の歩程16,000歩、約9.6Kmのウォーキングだった。

 

 

 ★ ★ ★                           

 「荒川コスモス街道」は、かつて埼玉県北足立郡の吹上町にあったが、2005年(平成17年)に川里町とともに町は鴻巣市に編入され、市域の一部になった。

 街道には春には菜の花やポピー、秋にはコスモスが咲き誇り、ウォーキングやサイクリングのコースとして利用されている。1985年(昭和60年)に吹上町の誕生30周年を記念して、荒川堤防沿いやコスモスアリーナ周辺の花畑に地元の人達がコスモスの手入れを始めたという。

 荒川コスモス街道の全長は、荊原(ばらはら)地区から小谷(こや)までの約3.1Km。吹上駅を起点・終点にすると、徒歩で約11Km、約3時間。

 ネットで写真を見ると、コスモスアリーナ前の河川敷だけでなく、堤防に沿って大芦橋や水管橋のたもと等にもコスモスが咲いている。以前この街道を歩いた人からも、堤防にもっと咲いていたと聞く。

 今回歩いてみて、なぜ堤防沿いに咲いてないのだろうか、花の手入れを止めたのだろうか。疑問が残る。

2016年10月 3日 (月)

映画「シン・ゴジラ」

 9月30日(金)、映画『シン・ゴジラ』を観る。

 

 第1作の『ゴジラ』が1954年(昭和29年)に公開されてから、もう60年余りが経つ。『シン・ゴジラ』は、東宝製作のゴジラシリーズの第29作目。海外作品を除き、2004年(平成16年)公開の『ゴジラ FINAL WARS』以来、実に12年ぶり。

 総監督・脚本は庵野秀明、監督・特技監督は樋口真嗣。主演は、長谷川博己。

 2016年(平成28年)7月29日に公開され、この夏の大ヒット作。すでに公開から2ヶ月を過ぎたが、近隣の劇場では10月初旬には上映終了となるようだ。

 「シン」という言葉には、「新」しい、「真」の、「神」のゴジラという複数の意味があるそうだ。

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 メインキャスト。左から石原さとみ、長谷川博己、竹野内豊。(『シン・ゴジラ』パンフレットから転載。)

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 【ネタバレあらすじ】

 東京湾で大量の水蒸気が噴出、海底を通る東京湾アクアラインではトンネル崩落事故が発生。総理官邸では原因究明の会議が開かれ、総理大臣(大杉漣)、内閣官房長官(柄本明)、総理大臣補佐官(竹野内豊)らは、海底火山か海底熱水噴出との見解に傾く。内閣官房副長官の矢口(長谷川博己)は、ネット情報などから巨大生物の存在を示唆するが、取り合ってもらえない。

 間もなくテレビの生中継で、海面に現れた巨大生物の尻尾が映される。総理は、巨大生物は上陸することはないと、一方的な情報を国民に伝える。しかし、多摩川河口から船や橋を破壊しながら、巨大生物は大田区蒲田に上陸、品川方面に向かう。人々は大パニックに陥り、逃げ惑う。

 政府では自衛隊に対して、災害派遣か防衛出動か、武力使用について議論。結局総理は、自衛隊初の防衛出動の決断を下す。攻撃ヘリが現場に到着するが、逃げ遅れた住民が発見され攻撃は中止。巨大生物は突然進行を止め、京浜運河から東京湾へと姿を消す。被害地域では多数の死者・行方不明者を出し、微量の放射線量の増加が確認された。

 巨大生物の再襲来に備え、矢口を事務局長とした「巨大不明生物特設災害対策本部」が設置される。米国から大統領特使カヨコ・アン・パタースン(石原ひとみ)が極秘に来日、矢口に接触する。太古から生き延びた生物が海洋投棄された放射性廃棄物を食べて進化したこと、米エネルギー省ではコードネームを「ゴジラ (Godzilla)」と名付けていること等の情報が矢口に提供される。矢口は、各分野のスペシャリストを招集し、特別チームを作る。

 特別チームは、ゴジラが原子炉のような体内器官を有し、それによってエネルギーを得て生じる熱は血液循環によって背びれから放熱していると推測。血液循環を止めれば、ゴジラは生命維持のため体内原子炉を停止、急速冷却を行い活動停止するはずと結論づける。そして、血液凝固剤投与によってゴジラを凍結させる矢口プランが発案された。

 ゴジラは鎌倉に再上陸、横浜・川崎を抜けて都内へ向け歩行する。自衛隊は、ゴジラの都内進入阻止のため、攻撃ヘリ、戦車、ロケット弾、戦闘機による実力行使を行う。

 (写真は、ゴジラを攻撃するヘリ。東宝の予告編動画から切り取り)

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 しかし全く歯が立たず、自衛隊の作戦は失敗に終わる。

 政府は日米安保条約に基づき、米国に支援を要請。港区に進撃してきたゴジラに、米爆撃機は大型貫通爆弾を投下して傷を負わせる。しかし、ゴジラは口から火炎や熱線を吐きビル街を焼き尽くし、背中からは幾筋もの熱線を空に放射して爆撃機を撃墜した。

 官邸から避難する総理大臣ほか閣僚たちが乗ったヘリコプターも熱線を浴び、全員死亡。やがてゴジラは、東京駅構内でエネルギーが切れたのか、突然活動を停止。政府機能は立川に移転、総理大臣臨時代理(平泉成)が指名され、矢口はゴジラ対策担当大臣に任命される。

 (写真は、熱線を放射するゴジラ。『シンゴジラ』パンフレットから転載。)

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 ゴジラの組織片の分析から、無生殖によりネズミ算式に増殖、更に進化により小型化し、飛翔能力を得て大陸間を超えて拡散する可能性が出て来た。ロシア・中国は、米国だけでなく国連でゴジラを退治すべきと主張。安保理で核攻撃が決議され、都民360万人の避難が始まる。チームは、日本への3度目となる核使用を避けるため、矢口プランによるゴジラ凍結を提案、避難の間にその準備を進める。

 国連軍の核攻撃開始が間近に迫る中、矢口プランは「ヤシオリ作戦」という日米共同作戦が開始される。爆弾搭載の新幹線を無人運転でゴジラに衝突させ、米軍の無人飛行機による攻撃でゴジラのエネルギーを消費させる。周囲の高層ビルをゴジラに向け爆破・倒壊させて、ゴジラが転倒。そこに数台のコンクリートポンプ車が近づき、ポンプ車のアームから血液凝固剤をゴジラの口に注入、ゴジラの凍結に成功する。日本は救われた。

 放射能汚染も短期間で消え、東京復興の希望も見えてきた。しかし、万一凍結したゴジラが復活した場合には、核攻撃の秒読みが再開される。東京駅脇に凍りついたままのゴジラが立ちつくす。

 ラストシーンでは、ゴジラの尻尾の骨が露わになった先端がアップになって、人の形をした複数の生命体が取り付いていた・・・。筆者はこのシーンを良く確認できなかったが、これは何を暗示しているのであろうか。

 

 ★ ★ ★

 初代のゴジラは特撮映画と言って、人間がゴジラの着ぐるみ入って、ミニチュアの都市の中で暴れ回っていたが、現在はフルCG(コンピュータ・グラフィックス)で製作されている。シン・ゴジラのスタイルは、初代にかなり似せているが、黒い溶岩のような皮膚の間から、赤い筋肉のような、灼熱のマグマのようなものが見えて、気持ち悪くて怖い。エンディングロールでは、伊福部昭(いふくべあきら)作曲の初代『ゴジラ』のテーマ曲が流れた。

 初代映画は、戦後の水爆実験に対するアンチテーゼであった。今回のゴジラは、3.11の東日本大震災、それに伴う福島原発事故が意識されているようだ。

 1954年公開の初代『ゴジラ』のワンシーン(出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 実力や人気のある俳優・女優など、300名を超えるという豪華なキャストにびっくり。有名なのにチョイ役だったり、セリフがほとんどない出演者も多い。防衛大臣が女性(余貴美子)という設定は、現実の小池元防衛大臣を意識したのか、意外だった。元AKBの前田敦子は、避難民の役だったようだが、どの場面にいたのか気がつかなかった。

 狂言師の野村萬斎が、ゴジラ役を演じている。といってもぬいぐるみを着ているわけではない。萬斎の動きを、デジタル的に記録するモーションキャプチャーが使用され、フルCGで作成したゴジラに反映させている。すばしっこいティラノサウルスのような恐竜でなく、神の化身か、重厚な怪獣のようなシン・ゴジラの動きを、狂言や能の所作で表現したそうだ。
 
 

 ★ ★ ★

 『週刊朝日』9月6日号の連載コラム「田原総一朗のギロン堂」に、氏は「政治映画である『シン・ゴジラ』が映し出す日本政治の現実」というテーマで論じている。確かに本作を観ると、政治家や官僚、学者、そして自衛隊のリアリティが追及されている。

 この映画が単なるSF映画、怪獣映画や娯楽映画でなく、フィクションの巨大生物をテーマとしながら、大臣や官僚の無責任な言動、中途半端な会議、総理官邸の機能喪失、外交関係などの描き方は、残念ながら現実味を帯びていて興味深い。

 

 政界の軍事通で知られる前地方創生担当大臣、元防衛大臣の石破茂氏が、自身のオフィシャル・ブログ8月19日と8月26日付の記事で、劇中の自衛隊の防衛出動について、異を唱えている。

 「ゴジラに対する自衛隊の防衛出動は、理解できない」、「害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当」とし、「災害派遣でも武器の使用も武力の行使も出来る」と論じている。また「このような極限事例について考えることは、一般的な法律の思考回路を錬成する意味において、有意義なものだと思っています。」とも述べている。このブログ記事は各方面で話題になり、多くのマスコミにも反響があった。

 『週刊朝日』9月9日号には、「シン・ゴジラに学ぶ日本の危機管理」の見出しで、石破氏がこのプログに関して取材を受け、危機管理の持論を述べている。この映画から受けた教訓はという質問に、「あらゆるリスクを考えて、政策を進めないといけない。」と答えている。

 

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 民衆がパニックになって逃げ惑うシーンは、これまでのゴジラ映画に付きものであるが、スマホで写真を撮ったり、SNSで情報が飛び交う所は目新しい。

 解決のために奔走するのは、もちろん主役の矢口内閣官房副長官であるが、決して個人プレーではなくチームプレーである。ヒーローが一人で活躍するアメリカ映画とは違って、ここが日本人らしいというか、日本映画らしい。しかし、霞が関や永田町のエリート集団が中心で、民間人や庶民がほとんど登場してないのは残念。

 牧悟郎という変わり者の日本人学者が、渡米して巨大生物ゴジラを研究していた。日本に帰って、海で行方不明になった。牧が残した謎の暗号化資料が、米国大統領特使カヨコから日本側に提供され、その暗号を特別チームが解読する・・・という話は、どうも分かりにくい。ストーリーの中に、この話は無くても良いような気がする。
 

 フィクションといえ、映画の背景には有事における安全保障や危機管理の問題との見方がある。日本の存亡というナショナリズムを煽って、愛国心を強める「右傾エンタメ」とは違うし、集団的自衛権、憲法改正や軍国主義復活の問題に発展させて論評する映画ではなさそう。むしろ東日本大震災と福島原発事故をゴジラになぞらえた危機管理と考えた方が、しっくりする。

2016年9月26日 (月)

比企西国札所巡り-その4

 9月23日(金)、埼玉県比企地域の「比企西国三十三札所」を巡るウォーキングシリーズの4回目。
 

 
 比企西国札所33ヶ所のうち、一昨年暮れの第1回は7ヶ所、昨年暮れの第2回は4ヶ所、今春の第3回では8ヶ所を回った。今回の第4回は、比企郡川島町の6ヶ所を巡る。

 この日の天気は、前線が本州南岸に停滞していて関東は雨や曇り、気温は平年並みの予報。9時35分東松山駅発の川越駅行東武バスに乗車、国道254号線旧道を南下し伊草坂下バス停に10時ちょうど到着。

 

 ここから旧道を北へ200mほど歩いた所に、13番札所「金乗院」(川島町上伊草)がある。鎌倉後期、1297年(永仁5年)に開創されたという立派な寺院。本堂は、2012年(平成24年)に建て直されたばかり。

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 廃寺となった12番「蓮花院」の聖観音も、この寺の本堂に安置されているそうだ。また14番「観音院」の観音堂は、この寺の境内に移されている。観音堂の入口には、札所十四番の板札が掛かっているのを確認。

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 観音堂の祭壇前は、8畳ほどの広さ。良く見えなかったが、正面の仏像が14番観音院の十一面観音なのだろうか。

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 次は、旧道を更に北上し圏央道の高架をくぐり20分ほどの距離、川島西中学校そばの11番「淵泉寺」(川島町吹塚新田)跡がある。10:35に到着する頃には雨がパラパラ降りだす。この寺は廃寺になっていて、ご本尊は行方不明だそうだ。

 跡地は墓地や空き地になっている。墓地の入口(左手)に、数体の地蔵?(石仏)が立っている。

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 この石仏を覆っている簡単な覆堂(ふくどう、おおいどう)には、確かに札所十一番の板札が掲げられている。

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 墓地の一角には、江戸時代の頃と思われる石や墓石が集められていて、歴史を感じる。

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 この後、田園地帯と物流会社の倉庫群を右手に見ながら北へ15分ほど歩き、番外の「金剛寺」(川島町中山)に立ち寄る。この寺は札所ではないが、鎌倉時代の豪族・比企氏の館跡に比企一族の菩提寺として建っている。境内の大日堂と比企氏の墓所を見学。

 11:00、比企氏の位牌が納められているという大日堂。

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 竹林の中にある比企氏の墓所。

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 金剛寺の本堂は、2010年(平成22年)に建て直された。

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 本堂前に建つ「本堂新築記念碑」に刻んである勧募者御芳名を見ると、比企家の9人が金1,000万円から金100万円まで、合計5,200万円を寄進。

 

 金剛寺のすぐ北には、廃寺となった9番「能性寺」(川島町中山上郭)跡がある。小雨の中の住宅街を次の目的地に向かう。

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 11:20、能性寺の跡地に到着。跡地は天神社の敷地となっていて、天神様のお堂に並んで、一回り小さいお堂(右手)が建っている。

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 扉の右側に札所九番の板札を確認。十一面観音が安置されているのだろうか。

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 能性寺のすぐ南側には10番「正泉寺」(川島町中山)。11:15、山門を入るとすぐ右手に聖観音のお堂。ここにも十番札所の板札が掛かる。

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 中を窺う(うかがう)ことが出来ないが、安置されている木像聖観音坐像は南北朝期の作とされ、川島町の有形文化財(彫刻)に指定されている。ここで昼食、しばし休憩。

 正泉寺のひっそりとした本堂。入口のガラス戸から内部を覘くと、広間の先にまた引き戸があって祭壇が見えない。

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 天台宗の埼玉教区寺院紹介や埼玉県の宗教法人一覧を見ると、6番札所「超福寺」と同様、10番「正泉寺」の電話番号や代表役員(住職のことか)が東松山市高坂(西本宿)の「常安寺」のと同じ。正泉寺の仏事は常安寺が執り行っていて、いわゆる兼務寺のようだ。

 

 正泉寺を出る12時頃には、とうとう本降りの雨。国道254号線の南園部交差点から北の方角、東松山駅までは約7Km。国道に沿って、両側に夏草の茂った歩道をひたすら歩く。

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 出発地の東松山駅前には、午後2時過ぎに到着。流れ解散となったが、この日の歩程は約12Km。

 

 江戸時代、各地に西国札所や坂東札所をまねた観音霊場がつくられ、遠出しなくても巡礼がより身近なものになった。しかし明治の廃仏毀釈により、廃寺となった札所も少なくない。往時の庶民たちの観音信仰に想いを馳せながら、秋雨の中のウォーキングだった。

 

 関連ブログ記事

  「比企西国札所巡り-その1」 2014年12月18日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-e8ac.html

  「比企西国札所巡り-その2」 2015年12月13日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-cf25.html

  「比企西国札所巡り-その3」 2016年03月24日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-4eaf.html

 

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 日本全国には現在、7万数千にも及ぶ寺院が存在するらしい。コンビニの数が、5万店余りだそうだから、その数をしのいでいるのに驚く。しかし、常駐住職が居なくて別の寺の僧侶が住職を兼ねる「兼務寺」や、住職が居ない「無住寺」の数は1万2千とも、2万を上回るともいう。

 比企西国三十三札所巡りで分かったことは、江戸中期に比べていかに寺院の数が減ったのかがよく分かる。つまり江戸時代は現在の数倍以上、全国津々浦々、村々の隅々にお寺があったのだ。

 それは江戸幕府の宗教統制政策から生まれた「檀家制度」(寺請制度)。仏への信仰と家を中心に祖先の崇拝。人々はすべて檀家として特定の寺に所属し、葬祭・供養の一切を委託し、お布施を払う。一般の庶民たちである檀家たちが、寺院の経済を支援していた。

 明治初期の神仏分離令に基づく廃仏毀釈の影響が大きかったが、また戦後は農村の過疎化、都市集中化、少子高齢化、核家族化や仏教離れによる檀家の減少、住職の後継者不足など、今後は更に「空き寺」や「お寺の消滅」が加速するだろう。仏像などの有形文化財、先祖代々の墓の維持、葬儀や法事、お盆など伝統行事、地域のコミュニティーも次第に消えてゆく。

 こういった問題に行政は、政教分離の原則からタッチできない。この危機的状況に、仏教界における現代の「宗教改革」は起こらないのだろうか。

2016年9月 8日 (木)

立山-その3

 8月27日(土)~29(月)の2泊3日の立山山行。本ブログ記事「立山―その2」のつづき。

 

 2日目の8月28日(日)8:35、雄山(おやま)に登頂。立山神社峰本社でお祓いを受けた後、9:20下山開始。

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 10:25、「一ノ越山荘」に到着。

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 登山中に見つけた高山植物。白い小さな花のイワツメクサ(岩爪草)は、登山道の所々で石の間に群生。紫色のイワギキョウ(岩桔梗)は、山頂の日当たりの良いところに花を横向きにして咲いていた。

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 「一ノ越山荘」からの室堂平へ。振り返ると、昨日は雨と霧で全く見えなかった山頂の雄山神社の社務所が良く見える。
 
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 11:30~11:55、立山室堂山荘前のベンチで、雄大な立山と「山崎カール」を眺めながら、山小屋弁当(700円)の昼食。おにぎりと思いきや、包装紙を開けると海老のてんぷら、唐揚げ、昆布の佃煮、ふりかけと御飯の弁当だった。質素な弁当だが、山の上では美味しい。

 室堂平の遊歩道を散策しながら、「みくりが池」に向かう。

 室堂平から東の方角の立山を見上げる、左端のピーク「富士ノ折立」(ふじのおりたて、標高2999m)、中央は「大汝山」(おおなんじやま、3015m)、右が「雄山」(3003m)。立山の前面は、氷河がえぐった跡の「山崎カール」。建物は、「立山室堂山荘」。

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 12:10、立山火山の火口湖「みくりが池」に到着。池の水は、修験者の神水とされていた。日本最高所の温泉宿である「みくりが池温泉」が、左手の畔にある。周辺には、「みどりが池」や「りんどう池」、「血の池」などの火口湖群が点在。

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 室堂平から北東の方角の立山連峰。左からやや雲がかかった「劔御前」(つるぎごぜん、標高2776.8m)、そのすぐ右が「別山乗越」(2792m)、次が「別山」(2880m)、中央の凹みにあるコブが「真砂乗越」(2750m)、その右手の斜面のピークが「真砂岳」(2861m)。更にその右には、写ってないが立山の主峰が連なる。

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 室堂平の高山植物。バラ科のワレモコウ(吾亦紅)とキク科のゴマナ(胡麻菜) 。

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 室堂ターミナルで、13:00発の立山高原バスに乗車。予定より1時間遅れで美女平へ。帰りも霧で、車窓からの「称名滝」(しょうみょうたき)は見えず。13:50、美女平からケーブルカーに乗るころは、山々の頂に霧が降りて来る。

 14:08発の富山地方鉄道・電鉄富山行き。晴れ渡った午前中と比べ、午後からは雲が多くなってきた。行きと同じく、千垣鉄橋を渡るとき列車は速度を落とすが、川の向こうの立山連峰は雲で見えなかった。

 15:12、電鉄富山駅に到着。コインロッカーから荷物取り出し、登山靴を履き替え。   

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 宿泊先の「呉羽ハイツ」の無料バスの発車時刻まで、JR富山駅周辺を散策。駅正面CiCビル5階にある観光と物産の施設「いきいきKAN」で時間をつぶす。

 16:30富山駅前発の無料バスに乗車、「呉羽ハイツ」に16:45に着く。

 「呉羽ハイツ」は、呉羽丘陵の城山の山頂近くの眺望の良い場所にある。宴会・研修・法要などにも利用され、大浴場や展望露天風呂のある多目的の宿。財団法人「富山勤労総合福祉センター」が運営。ガラス張りの展望風呂からは、富山市街、富山平野、富山湾、遥か能登半島を望める抜群の展望。写真を撮れなかったのが残念。

 18:30~夕食。下山を祝って乾杯、富山の郷土料理を味わう。23:45頃就寝。

 

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 3日目の8月29日(月)、5:30起床。朝風呂、7:00~朝食バイキング。

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 8:40発の送迎バスで、9:00富山駅前着。不要な荷物を、富山駅南口のコインロッカーに預ける。今日も天気は良い。

 富山駅北口から「環水公園」までの両側の歩道は、とても広くよく整備されて綺麗。散策しながら「富岩(ふがん)水上ライン」の乗船場に向かう。

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 広々とした「環水公園」の運河に架かる公園のシンボル施設「天門橋」。

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 「富岩水上ライン」は、環水公園から岩瀬を結ぶ運河クルーズ。定期運航する県のソーラー船「sora」と「fugan」(ともに定員55名)、市の電気ボート「もみじ」(定員11名)がある。 ソーラー船は、太陽発電のエネルギーを充電し、電気モーターだけで推力を得るエコな船。船長の話では、電力を消費しないようにうまく操船するのだそうだ。

 10:10発の観光船「Sora」に乗船。運賃1,500円(10%割引券あり)は、帰りの路面電車ライトレールを含む。北前船で栄えた下流の岩瀬まで、女性ガイドさんの分かり易い説明を聞きながら運河クルーズを楽しむ。
   
 古くから商業が盛んであった岩瀬港は、富山城のある富山市中心部までは遠くて不便であった。「富岩運河」は、1930年(昭和5)に運河のほか区画整理、街路や公園の整備を同時に行う都市計画事業として着工。5年後完成。

 クルーズの最大の見どころは「中島閘門(こうもん)」。船が近づくと観音扉のゲートが開く。

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 上流のゲートが閉まり、閘室(こうしつ、前後を扉で仕切って船を収容するプール)の水がゆっくりと抜かれる。下流と水位が同じになると、下流のゲートが開き、船は閘室を出て行く。写真は、上流側のゲート。

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 「中島閘門」は、富岩運河の建設にあわせて、昭和9年(1934年)に造られた。 水位差を二対の扉で調節するパナマ運河方式。昭和の土木技術の粋を集めた構造物として全国で初めて、国指定重要文化財に指定された。

 閘室の水の排出、流入をポンプのような動力で行っていると思いきや、上流・下流の高低差を利用して給排水すると聞き、納得する。

 中島閘門を出てしばらくすると、やがて観光船は運河から富山港の海に出る。

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 11:10、岩瀬カナル会館前での乗船場で下船。カナル会館に立ち寄る。

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 11:25、岩瀬橋の上から立山連峰を望む。下船したソーラー船「sora」が、次の客を乗せて上流の環水公園に向かう。 

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 岩瀬橋を渡り、旧北国街道の大町通りを歩く。通りに面して馬場家や森家のほか北前船(きたまえぶね)の廻船問屋や海商の旧家が建ち並ぶ岩瀬の歴史的町並み。

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 北前船は、江戸時代から明治の頃まで、北海道から日本海を経て瀬戸内海の大阪までの航路で、米や昆布・ニシン、酒や塩を載せて往復した。地元では「バイ船」と呼ぶ。

 11:35~12:15、北前船の廻船問屋「森家」(国指定の重要文化財)に入館。

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 名調子のガイドの説明に耳を傾けながら、繁栄を極めた北前船廻船問屋「森家」を見学。森家の財力を示すように、全国から取り寄せた贅を尽くした建築材料と京から呼んだ宮大工の技巧を凝らした重厚な町屋(商家)で、1878(明治11)に建てられた。

 囲炉裏や吹き抜けのある風格のある部屋。畳に敷き方も面白い。右手に北前船の模型が展示されている。

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 奥の座敷で中庭の説明を聞く。

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 中庭の向うに鏝絵(こてえ)が描かれた土蔵がある。

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 こんな貴重な物を見て、解説を聞いて入場料100円とは安い。岩瀬の町屋の特徴に、竹を使ったスダレ「簾虫篭(スムシコ)」がある。中から外が見えて、外からは中が見えないのだそうだ。また、黒塀と見越しの松の家が目立った。

 森家を出て通りを150mほど南に歩き、銘酒「満寿泉」の桝田酒造を覘いてみる。(写真なし)

 1893年(明治26)、舛田酒造の初代の亀次郎は、妻と共に北前船に乗って北海道旭川で酒造業を創業、12年後に岩瀬に戻る。 「満寿泉」は昭和初期に桝田の苗字にちなむ銘柄で地元で親しまれ、昭和40年代後半に育てた「吟醸満寿泉」は全国にその名を馳せたという。

 

 まち歩きをしながら、路面電車のライトレール東岩瀬駅まで行く。

 東岩瀬駅から、12:33発のライトレールに乗車、12:55富山駅北に到着。

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 「富山ライトレール」は、車いすやベビーカー等のバリアフリーに配慮した低床式の路面電車。安全で安心、環境にもやさしいという公共交通機関だそうだ。富山駅北口の富山駅北と岩瀬浜の約7Kmの区間を、約24分で運行。運賃は均一で200円。車両は「ポートラム」という愛称がある。 

 13:05~13:35、駅南口前にある富山湾食堂「撰鮮」で昼食。サケとイクラの親子海鮮丼、1,280円。

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 富山駅構内の売店でみやげを購入、朝預けた荷物をロッカーから取り出す。

 14:19発の北陸新幹線「はくたか566号」・東京行に乗車。これで2泊3日の立山・富山の旅を終わる。

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 昨日登頂した「雄山」から見た峻険な岩峰「剱岳」(つるぎだけ)は、日本百名山で国内で最も危険な山とされる。新田次郎の小説とこれを原作とした同名の映画『劒岳 点の記』で有名。

 物語は明治末期、日本地図の完成のために陸軍参謀本部の陸地測量部(現在の国土地理院)によって、立山連峰の危険で困難な山岳測量に命をかけて挑んだ男たちの実話に基づく。映画は、2009年(平成21年)6月公開。監督・撮影は木村大作。山案内人の香川照之、測量手・浅野忠信、その妻・宮崎あおい、測量助手の松田龍平らが出演した。

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 日本アルプスの山々が登り尽くされる最後まで、この山は人を寄せ付けない霊峰として残った。古来から山岳信仰の対象であり、雄山神社の祭神の一柱のご神体として信仰を集め、また立山連峰の他の頂きから参拝する山であって、登拝することは許されなかった。弘法大師が草鞋(わらじ)千足を費やしても登頂できなかった、という伝説もある。
 
 1906年(明治39年)、陸軍陸地測量部の測量手・柴崎芳太郎に剱岳への登頂と測量の命令が下る。それは日本地図最後の空白地帯を埋めるため、三等三角点をを設置するという重要だが困難な任務であった。山麓の山案内人・宇治長次郎とともに測量に挑んだ男たちは、信仰から剱岳を畏れる地元民の反感、ガレ場とそそり立つ岩稜、悪天候や雪崩などの大自然の過酷さ、初登頂を試みる民間の日本山岳会との先陣争い、今日に比べて未熟な登山装備と測量技術など、さまざまな苦難と闘った。

 1907年(明治40年)7月13日、測量部隊はついに頂に到達した。ところが前人未踏と思われた山頂で、槍の穂と錫杖(しゃくじょう、僧が用いる杖)の頭を発見する。以前から、数例の修験者の登山伝説が存在はしていた。これらの遺物は、奈良時代後半から平安時代初期にかけての修験者のものと考えられた。山頂近くの岩屋には、古い焚き火跡も見つかったという。

 測量隊は登頂の困難さから、重い三角点標石(石柱)とやぐらを組む丸太を運び上げることができず、三等三角点の設置を断念、山頂には標石のない四等三角点を置いた。三等以上の三角点設置の記録、つまり「点の記」は作成されなかった。当時の陸軍上層部からは、彼らの業績は何も賞賛されずに終わったのだった。

 山頂にあった遺物は、立山修験者の貴重な証しとして重要文化財に指定、現在は立山町にある富山県「立山博物館」に展示されているそうだ。

 

 
 『日本百名山』の著者である深田久弥は、「剱岳」について以下の様に評価している。

 「北アルプスの南の重鎮を穂高とすれば、北の俊英は剱岳であろう。層々たる岩に鎧(よろ)われて、その豪宕(ごうとう)、峻烈(しゅんれつ)、高邁(こうまい)の風格は、この両巨峰に相通じるものである。」(『日本百名山』48剱岳より)

 また『万葉集』に見る「立山(たちやま)」について、これは今の「立山」ではなく「剱岳」のことであろうという自説を述べている。

 「昔は、立山も劔も一様に立山と総称されていたのに違いない。越中の平野から望むと立山は特にピラミッドにそびえた峰でもなければ左右に際立った稜線をおろした姿でもなく、つまり一個の独立した山というより波濤(はとう)のように連なった山という感じである。ことに富山あたりからではその前方に大日岳が大きく立ちはだかっていて、立山はその裏に頭を出しているだけなので、山に詳しい人でなければ立山を的確に指摘することはできまい。」(『日本百名山』49立山より)

2016年9月 7日 (水)

立山-その2

 8月27日(土)~29(月)の2泊3日の立山山行。本ブログ記事「立山―その1」のつづき。

 

 2日目の8月28日(日)、「一ノ越山荘」(標高2700m)で5:30起床。すでに夜は明けている。

 昨日の雨から打って変わって、朝からすばらしい快晴。昨夜は、星空を見たという人の話も聞く。外に出て見ると、なんと眼下に室堂平、正面に「大日岳」(左、標高2501m)と「奥大日岳」(右、2611m)、遠く富山湾が朝焼けに浮かぶ。

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 室堂平の中央の池が、「みくりが池」とその右に「みどりが池」。左端に室堂ターミナルとホテル立山の建物。右手には「地獄谷」の白い噴煙が上がる。ちょうど大日岳の山頂に朝日が当たる。

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 雄山へ尾根伝いの登山道。手前の建物は、チッブ制の公衆トイレ。

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 6:00~山小屋の質素な朝食。生卵は、卓上の鍋で目玉焼にする。

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 軽い高山病か、頭痛がするという者も含め6名が、7:00登山開始。1名は足の故障で山小屋で留守番。不要な荷物は、山小屋の乾燥室に置いて行く。

 最初はなだらかな登りだが、だんだん急坂となる。大小の石が混在する登山道が続く。浮石、落石に注意。山小屋のある一ノ越から、二ノ越、三ノ越・・・、山頂が五ノ越。それぞれに小さな祠やケルンがあるが、標識は無い。

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 南の方角、正面の尖った特徴的な山「槍ヶ岳」(標高3180m)がはっきり見える。

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 振り返ると、「一ノ越山荘」が眼下に。山小屋からの向うの尾根の頂点が「浄土山」の南峰(標高2830m)、富山大学の立山研究所がある。その左の半円形の岩頭は、「龍王山」(2875m)。

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 南東の方角、雲海の向うに左側に「八ヶ岳連峰」のシルエット。

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 峻険な「槍ヶ岳」のズームアップ。その後方の山々は雲が覆う。

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 雄山の山頂にある「雄山神社」」立山頂上社務所が見えて来た。

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 7:55、ここが「三ノ越」と思われるが、その標識らしきものはない。しばし休憩。

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 ここから更に険しくなり、登山道もはっきりしないガレ場。ストックをザックにしまい、手袋を装着、大岩を掴みながら登る。単調なガレ場の直登は、かなり負荷がかかる。酸素も薄くなっているのか、息を切らしながら進む。

 「槍ヶ岳」の後方から雲が去り、日本第3位の高峰「奥穗高岳」(3190m)ほか穂高連峰が姿を現す。「槍ヶ岳」の左前方が「野口五郎岳」(2925m)、右端が「水晶岳」(標高2986m)。更にその稜線に続く右手には、写ってないが「黒部五郎岳」(2840m)がある。

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 「一ノ越山荘」は、すっかり見えなくなった。こんな急坂をよく登って来たものだ。正面の左から「龍王山」、「浄土山」の南峰(標高2830m)、北峰(2831m)が並ぶ。

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 南の方角。雲海の向う左手遠景に、目を凝らしてみると日本三霊山の雄「富士山」のかすかなシルエットが浮かぶ。右手遠景は、南アルプス。中景の左端の丸いピークは「餓鬼岳」(がきだけ、2647m)、右端のピークは、「燕山」(つばくろさん、2763m)。

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 標高差が約500mとなった室堂平と大日連峰はまるで箱庭の様。

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 黒部湖の一部が見えて来た。黒部ダムは、左手の方向にある。

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 8:35、「雄山」の山頂に到着。一等三角点は標高2991.8m。社務所の建物には神社関係者の宿舎が併設され、登山客用のトイレもある。

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 「雄山神社峰本社」が、この先の標高3003mの岩頭に鎮座する。きつい登山だったが、山頂の景色と展望に感激する。

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 雄山神社立山頂上社務所(授与所)。ちゃんと巫女さんがいて、お守り、お札、記念バッジ等が並んでいる。

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 山頂の東側は、氷河が造った「サルノ又カール」。白い所は、夏でも融けない雪渓。

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 鳥居をくぐると、3003mのピークに立つ峰本社への登拝受付所。登拝料は、500円。

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 山頂から見下ろす社務所の屋根の方向に有峰湖(ありみねこ)、確認できないがその遥か遠くに日本三大霊山の一つ「白山」があるはず。

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 北の方角。左手に小説・映画『劒岳 点の記』の舞台となった「剱岳」(つるぎだけ、標高2999m)の岩峰。その手前はなだらかな「別山」(2874m)、右手の岩は「富士ノ折立」(ふじのおりたて、2999m)。

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 険しい岩山の「剱岳」のズームアップ。その手前のピークが「別山」、そのまた手前の稜線上のなだらかなピークは「真砂岳」(2861m)。

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 山頂からの展望を満喫した後、登拝者は12人ほどのグループになって、神殿前の玉砂利の上に脱帽して座る。神主から、峰神社の御由緒の話を聞く。神主は、太鼓を叩き祝詞をあげた後、登拝者は頭を垂れてお祓いを受ける。祭神は、厄難消滅・家内安全、職業繁栄・開運招福の守り神。最後に一人一人、お神酒を頂く。

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 この後の下山からは、次のプログ記事に続く。

 

 ★ ★ ★ 

 「立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽(あか)ず 神からならし」(『万葉集』巻17)

 - 立山に降り積もった雪は、夏に見ても見飽きることがない。この山が神の山だからにちがいない。 -

 8世紀(奈良時代)、越中の国主として赴任した大伴家持(おおとものやかもち)は、神々しい立山の雄大な景観に感動し、その姿を詠んだ。

 

 立山は、「雄山」(標高3003m)、「大汝山」(おおなんじやま、3015m)、「富士の折立」(ふじのおりたて、2999m)の三つの峰の総称。その中で、雄山神社峰本社がある「雄山」が狭義の立山。これに「浄土山」、「別山」を加えて「立山三山」といい、その周辺の山々を含めて「立山連峰」というが、富山平野から見える北アルプスを総称して広く「立山」、「立山連峰」ということもあるのでややこしい。

 古くは「たちやま」と呼ばれ、「たてやま」は中世以降になってから。『万葉集』に詠まれた「たちやま」は、「劔岳」(つるぎだけ、2999m)を中心とした一帯を指すとも言われる。

 

 雄山神社の社伝によると、701年(大宝元年)に景行天皇の後裔と伝えられる越中の国司・佐伯有若(さえきのありわか)の嫡男・佐伯有頼(ありより、後の慈興上人)が、白鷹に導かれて、立山の奥深く入って岩窟に至り、神示により立山を開山したと言われている。

 この峰本社の神殿は、加賀藩主前田家によって代々造営が行われていた。明治以降、造営は途絶えていたが、1996年(平成8年)に136年ぶりに建て替えられたそうだ。雄山神社は峰本社のほか、麓の立山町にある中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)と前立社壇(まえたてしゃだん)の三社をもって成す。

 

 今回アクセスに利用した、「立山黒部アルペンルート」は、富山県立山町の立山駅と長野県大町市の扇沢駅とを結ぶ大規模な山岳観光ルートで、1971年(昭和46年)に全通した。立山駅から扇沢駅までは、ほぼ西から東に 直線距離25 km足らずだが、高低差は 2,000mほどもある。

 我々は、富山市から電車で立山駅、立山駅から立山ケーブルカー、立山高原バスを乗り継いで室堂まで来た。この先、室堂から扇沢まで行くには、立山トンネルを通るトロリーバス、立山ロープウェイ、黒部ケーブルカー、黒部ダムの堰堤上の徒歩、関電トロリーバスの様々な乗り物を乗り継いで移動する。

 一般利用よりも観光客を相手にしているので、料金は高い。なお広義の「立山黒部アルペンルート」は、富山地方鉄道の電鉄富山駅(富山市)からJR信濃大町駅(大町市)までとされる。

 

 深田久弥の著書『日本百名山』は、1964年(昭和39年)に新潮社から刊行された。氏は、立山の頂を誰よりも数多く踏んだと自負し、立山は天下の名峰であることを疑わない。氏の時代は、まだこのアルペンルートはなかった。富山駅~立山駅は鉄道が開業していたが、その先はどうやって移動したのだろうか。

 美女平のブナ原生林や立山杉の巨木、壮大な「称名滝」(しょうみょうたき)、弥陀ヶ原の広大な湿原と池塘、室堂平の高山植物(お花畑)、蒸気を吹き出す荒々しい地獄谷、神秘的なミクリガ池。何日もかけて俗界から旅してきた先人たちは、こんな自然の姿から、極楽浄土と地獄を見たに違いない。そして室堂から険しい立山への登拝。この頃の立山は、白装束の修験者や立山詣の登拝者たちの神の山であった。

 やがて多くの信仰の山と同じように、明治以降の立山は登山の対象となっていく。そして深田氏は、都会の服装のままの観光客のために、現代の立山は観光開発された「山上遊園地」と皮肉っている。

 

 本ブログ記事「立山―その3」につづく。

2016年9月 1日 (木)

立山-その1

 8月27日(土)~29(月)の2泊3日の立山山行。

 

 立山は、北アルプスの北部にある立山連峰の主峰で、中部山岳国立公園を代表する山。日本百名山。雄山(おやま、標高3,003m)、大汝山(おおなんじやま、3,015m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999m)の3つの峰の総称。古くから信仰の対象とされ、富士山、白山と共に「日本三霊山」の一つとして有名。

 二泊三日の山行は、室堂(むろどう)から立山稜線上にある山小屋「一ノ越山荘」へ。2日目に雄山登頂、下山後は富山市内の「呉羽ハイツ」泊、3日目は富山の史跡見学の予定。

 迷走していた大型台風10号が、本州に接近中。27日の立山(室堂)の天気は、曇か霧、一時雨。30日には、関東に上陸との予想。

 

 1日目の8月27日(土)、7人のパーティが乗った北陸新幹線「はくたか553号」は、10:38JR富山駅に到着。まずは隣接するビル2階の電鉄富山駅乗車券センターに行って、鉄道とあわせた室堂までのアルペンルート乗車券(往復6,710円)を購入する。

 JR富山駅に戻り、構内売店で昼食の駅弁「富山湾弁当」(1,080円)を購入。ほたるいか、白エビかき揚げ、ぶり大根、幻魚(げんげ)、ばい貝、ますのすしの入った富山郷土料理。電鉄富山駅の待合室で、早めの昼食。コインロッカーに登山に不要な荷物を預ける。

 

 富山地方鉄道本線の11:34発立山行きに乗車する。2両編成のボックス席。市街地を抜けると黄色くなり始めた稲穂が垂れる田園地帯の富山平野を行く。寺田駅から本線と分岐し立山線となり、やがて徐々に高度を上げて常願寺川に沿った渓谷を走るころには雲行きが怪しくなる。

 常願寺川の渓流を跨ぐ千垣鉄橋を渡る。川の向こうの立山連峰は望めないが、この鉄橋上で観光サービスのためか、列車は速度を落として通過する。

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 12:38、立山駅に到着。ここは、標高475m。

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 2階に上がると、立山黒部貫光(株)立山ケーブルカーの立山駅。外を見ると雨が降り出している。このケーブルカーは、黒部ダムの工事用運搬車ために造られたそうだ。美女平まで1.3Km、高低差487mを所要時間7分で一気に昇る。

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 美女平駅は、標高977m。駅前には伝説の巨木・美女杉がそびえ立ち、近くにはブナ林や立山杉の原生林が広がって、樹林の間に遊歩道があるそうだ。

 13:20、美女平で立山高原バスに乗り換え、室堂に向かう。バスの運営は、立山黒部貫光。

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 室堂までは、トレッキングコースのある阿弥陀ケ原や天狗平を経由して約50分、23Km。途中でバスを止めて、350 mという日本一の落差を誇る「称名滝(しょうみょうだき)」を見せてくれるのだが、霧にため全く見えない。

 称名滝は、立山連峰を源流とし弥陀ヶ原台地から称名川に一気に流れ落ち、やがて常願寺川に注ぐ。国指定の名勝、天然記念物、日本の滝百選に選定されているという。

 

 14:10、標高2450mの室堂ターミナルに到着。立山黒部アルペンルート観光・登山の拠点。ターミナル内で、雨具を着て登山準備。

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 ターミナルの3階部分から外へ出ると、「玉殿の湧水」の給水場がある。雄山直下の地下水で、立山トンネル開通と共にその一部が湧出した。全国名水百選に選ばれている。

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 立山三山、剱岳(つるぎだけ)、大日連山など、3,000m級の山々を望めるはずだが、今日は雨と霧で何も見えず。14:30出発、小雨と霧の中の室堂平を歩く。

 やがて「立山室堂山荘」が霧の中に浮かぶ。江戸時代中期に建てられた日本最古の山小屋(国の重要文化財指定)がある。手前の一面黄色い花が咲いたように見えるのは、イワイチョウの葉。

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 雨と霧の中、緩やかな登山道を登る。一ノ越までの登山道は、石をコンクリートで固めた石畳が続く。

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 途中に1カ所、雪渓がある。春はこの雪渓が登山道を埋め、アイゼンが必要となる。

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 チングルマ(稚児車)の実とイワイチョウ(岩銀杏)の黄色い葉。

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 チングルマは、7月上旬~8月上旬に梅の花のような白い花が咲くが、花が散ると風車のような実をつける。イワイチョウは、7月中旬~8月上旬に白い花を咲かせる。花が散った後に残る葉っぱが黄色く色付き、遠くから見ると黄色の花が咲いているように見える。

 高山植物のヤマハハコ(山母子) とミヤマアキノキリンソウ(深山秋の麒麟草)

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 ヤマハハコは、ハハコグサ(春の七草のオギョウのこと)に似ているが、山地に生え、花は白。ミヤマアキノキリンソウは、秋の花で別名コガネギク。
 

 ナナマカドとその赤い実。ナナカマドは、秋にはいち早く紅葉する。

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 15:30頃、登山道そばの石の上に立つライチョウに遭遇。

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 しばらく他の登山客と一緒に観察する。近くの草むらにヒナが2羽ほどいて見え隠れする。親鳥は、逃げずに外敵(人間)を見張っているように見える。

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 写真に撮れなかったが、イタチの仲間のオコジョも室堂平で見かけた。オコジョは、可愛い顔をしているが、気性が荒くノネズミなどを捕食する他、自分の体よりも大きいノウサギやライチョウを食べることもあるそうだ。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ )

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 15:40、標高2520mにある「祓堂(はらいどう)」。立山信仰で、下界と神域との境界とされる小さな祠。

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 やがて前方を見上げると、霧の中で鞍部に山小屋らしき建物が霞む。

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 最後の急坂を登ると、標高2700mにある「一ノ越山荘」。室堂から続いた石畳の登山道は、ここで終わる。

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 「一ノ越山荘」の対面に見える峰の先に目指す雄山がある。この雨では、明日登れるだろうか。

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 一ノ越山荘の中に入ると売店があって、右手奥に受付がある。この山小屋は、150人収容。1泊2食付9,300円。翌日昼の弁当(700円)を注文する。

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 6畳の個室、1部屋に3~4人が泊まる。

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 17:45~夕食。意外と質素でヘルシー。

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 山荘からは、北アルプスや、室堂、富山湾の夜景が展望できるが、今日は何も見えない。消灯は21:00だが、明日の天気を心配しながら、疲れていたので20:00頃には就寝。

 ぐっすり寝て目が覚めると、まだ夜中の22:00頃。その後は、朝までウトウト。

 

 本ブログ記事「立山―その2」につづく。

2016年8月 6日 (土)

尾瀬アヤメ平

 7月31日(日)、尾瀬アヤメ平への日帰りハイキング。

 

 「アヤメ平」は、尾瀬ヶ原の南側にある標高約1900~1969mの高原。群馬県北東部の片品村に属する。

 アヤメ平ハイキングは、鳩待峠と富士見峠の間の「鳩待通り」と呼ばれる尾瀬ヶ原南側の外輪山の尾根道を歩くコース。アヤメ平は、尾根道北側のなだらかな斜面にある。尾瀬ケ原と違って、天空庭園のような湿原と池塘(ちとう)が広がる。尾瀬の両雄、「燧ケ岳」(ひうちがたけ)と「至仏山」(しぶつさん)のほか、関東の山々が見渡せる360度の展望。

 

 午前5時半出発、関越道沼田インターから、今話題のNHK大河ドラマ『真田丸』で出てくる沼田(群馬県)を経て、国道120号線を北上。7時半、尾瀬戸倉の大駐車場へ到着。

 7:50発のシャトルバス(930円)に乗り換え、約30分で鳩待峠に着く。

 8時半登山開始。至仏山と反対方向、樹林の中の急坂を登る。

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 15分ほどで、笹と樹林に囲まれた緩やかな登りの木道。

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 出発して約1時半後の9:55、急に視界が開けたところは「横田代」の湿原。

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 後ろを振り返ると、なだらかな山の「至仏山」(2228m)とその左手に「小至仏山」(2162m)が目の高さに見える。

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 北の方角には、台形の形の「平ヶ岳」(ひらがたけ、2141m)。その右手前は、「景鶴山」(けいづるやま、2004m)。いずれも上越国境(群馬と新潟の県境)にある。

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 右側にある至仏山の稜線から連なる尖った三角形の「笠ヶ岳」(かさがたけ、2057.5m)。

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 笠ヶ岳の更に左手、南西の方角にあるギザギザの山が「上州武尊山」(じょうしゅうほたかやま、2158m)。赤城山(1827.6m)は、遠くて確認できなかった。

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 再び樹林の中に入りしばらくすると、10:40ピークの「中原山」(なかのはらやま、1986m)を通過。熊笹の中に立つ標識がなければ、ここがピークとが気がつかない。

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 再び開けた湿原をゆるやかに下る。この辺りはもう「アヤメ平」か。

 南東の方角の眺望がすばらしい。左のピークは、関東の最高峰「日光白根山」(2578m)。右手のピークは「皇海山」(すかいさん、2144m)。

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 真夏の青空と雲が広がっている。下界が気温35℃くらだとすれば、ここは25℃くらいか。日差しは強いが、爽やかな風で涼しくて心地よい。

 草原の向こうの空に向って、遠く木道が伸びてゆく。

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 険しい山容の尾瀬の雄、「燧ヶ岳」(ひうちがだけ、2356m)が姿を現す。

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 所々に湿地を復元した跡に気がつく。

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 後ろを振り返ると、至仏山。

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 池塘は、空と雲を映す。

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 10:55、「アヤメ平」の標識とベンチに到着。ここはアヤメ平の最高点(1969m)、早めの昼食をとる。

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 「アヤメ平」についての由来と湿原回復の説明板。(写真をクリックすると拡大されます。)

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 説明板には、次のように書いてある。

 ■昔、この周辺に群生するキンコウカの葉をアヤメと間違えたため、アヤメ平と呼ばれるようになりました。昭和30年代に「雲の上の楽園」と言われ、多くの入山者が訪れ、踏み荒らされたため、裸地化してしまいました。

 ■昭和44年から、ミタケスゲなどの種をまくなど、湿原を回復するための作業を行っております。再び自然を破壊しないよう、湿原には絶対に立ち入らないようにしてください。

 TEPCO(東京電力)

 

 「アヤメ平」と聞けば、アヤメが咲き乱れる湿原かと思われるが、こういう由来があったというのは有名な話。実際には、アヤメよりキンコウカの葉の長さが短いので、間違えるはずはないのだが。

 ベンチのそばに、「アヤメ平の緑を取り戻すために」という湿原回復の詳しい説明板。(写真をクリックすると拡大されます。)

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 ここからもう15分(約1Km)ほど下れば、セン沢田代と富士見田代を経て「富士見峠」。そこには「富士見小屋」があり、尾瀬ヶ原、尾瀬沼、戸倉に至る分岐点となっている。

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 11:30、アヤメ平から、もと来た道を引き返す。

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 尾瀬といえば、尾瀬ヶ原のコースがメジャー。日曜とはいえ、アヤメ平のコースではすれ違うハイカーは多くはなかった。

 

 ピンぼけ写真だが、湿地に咲いていた主な高山植物を掲載する。

 左から、湿原に多く群生するキンコウカ(金黄花)。暗紅色の花穂となるワレモコウ(吾亦紅)。オトギリソウ(弟切草)と見分けが難しいがたぶんイワオトギリ(岩弟切)。

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 左から、細い葉が菖蒲に似ているイワショウブ(岩菖蒲)。春に白い花が咲き夏は風車のような果穂となるチングルマ(稚児車)。ラッパ型のコバギボウシ(小葉擬宝珠)。

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 左から、食虫植物のモウセンゴケ(毛氈苔)。木道のそばにあったサワギキョウ(沢桔梗)。穂先に白い花をつけるコバイケイソウ(小梅蕙草)は、葉だけが目立っていた。

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 朝から天気は良かったが、だんだん雲が多くなって来る。予報では夕方頃から小雨とあったが、午後1時頃には、雨がパラパラ。下山を急ぐ。

 13時10分、鳩待峠に到着。雨は止んでいるが、山の方には黒い雨雲が広がっている。

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 13:25、シャトルバスに乗車。13:50、尾瀬戸倉の第2駐車場に着く。

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 往路の国道120号線を南下、群馬県立尾瀬高校(沼田市利根町平川)のあたりのY字路 から県道64号線を約5kmほど北上。片品村が設立した日帰り温泉「花の駅片品・花咲の湯」(群馬県片品村花咲)に立ち寄る。

 14:30~15:15、「花咲の湯」で汗を流し、疲れを癒す。入館料金650円。

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 16:00、沼田インターから関越道へ。日曜日の夕方とあって、途中で高速道路が渋滞するが、予定より早い午後6時半には帰宅。
 
 

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 沼田城(群馬県沼田市)の城主となった真田信幸が、1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦の年に戸倉に関所を設け、尾瀬を通る「沼田街道」を整備したそうだ。江戸時代、群馬県沼田市から片品村、三平峠、尾瀬沼、沼山峠、福島県桧枝岐村を経て会津若松市へ至る道は、群馬側からは「会津街道」、福島側からは「沼田街道」と呼ばれ、会津と上州を結ぶ交易路として盛んに利用されたという。

 現在、沼田市と会津若松市を結ぶ国道401号線は、片品村と桧枝岐村間で分断している。数年前、地元の人が尾瀬沼周辺の遊歩道を「国道」と呼んでいたのを聞いて驚き、後になってその意味を知った。

 

 明治に入ると、豊かな自然を持つ尾瀬は、幾度となく開発の危機にさらされた。登山道の整備や尾瀬沼湖畔に「長蔵小屋」を建設した桧枝岐村出身の平野長蔵氏は、尾瀬の自然保護を訴え、多くの人に呼び掛け続けた。

 明治から昭和にかけて、当時の電力会社による尾瀬ヶ原、尾瀬沼のダム化など利水開発計画が次々と浮上してきた。長蔵氏とその志を継いだ子・長英氏や学者、登山家、文化人らは、開発反対運動を展開。1944年(昭和19年)「尾瀬保存期成同盟」、1951年(昭和26年)「日本自然保護協会」を結成して自然保護運動に取り組んだ。

 一方で、1934年(昭和9年)尾瀬が「日光国立公園」の一部に、1953年(昭和28年)には国立公園の特別保護地区に、また1960年(昭和35年)には国の特別記念物に指定された。現在尾瀬は独立して、「尾瀬国立公園」となっている。

 長蔵・長英親子らの反対運動にもかかわらず、1944年(昭和19年)尾瀬沼の取水工事が始まり、1949年(昭和24)に竣工した。高度成長の時代になると、観光バス道路の開発計画が持ち上がり、戸倉~鳩待峠、桧枝岐~沼山峠が開通する。更には沼山峠から三平峠まで尾瀬に車道を通そうしたが、長英氏の長男・長靖氏は反対し、署名集めや環境庁長官への直訴などの活動を展開、1971年(昭和46年)建設中止となった。

 尾瀬の利水計画とそれに伴う車道整備計画は、「日本自然保護協会」の運動もあって、1996年(平成8年)東京電力の尾瀬ヶ原水利権の放棄によって、完全に白紙化した。

 嘘か本当か、バブル期には尾瀬ヶ原にゴルフ場やリゾート施設を作るという話も聞いたことがある。

 

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 1949年(昭和24年)、NHKラジオ番組で「♪夏が来れば思い出す~遥かな尾瀬・・・♪水芭蕉の花が咲いてる・・・」と石井好子が歌う江間章子作詞、中田喜直作曲の『夏の思い出』が放送された。1954年(昭和29年)には、藤山一郎が歌ったレコードも発売。1962年(昭和37年)のNHK『みんなのうた』でも紹介された。後には、多くの音楽の教科書にも取り上げられている。

 尾瀬の歌は、多くの日本人の心をつかみ、”水芭蕉の尾瀬”が全国に知られることとなる。この歌によって観光地となった尾瀬には、急激に入山者が増え、昭和30年代には「尾瀬ブーム」が起こる。

 歌の通りせっかく夏に尾瀬に来ても、ミズバショウは咲いていない。尾瀬の雪解けは5月中旬。5月中旬~6月下旬に、ミズバショウの白い花が咲く。作詞の江間氏は、「尾瀬で水芭蕉が最も見事な5、6月を、私の中では夏と呼ぶ。それは歳時記の影響だと思う。」と述べている。俳句では、水芭蕉は夏の季語。

 旧暦は、月の運行に基づく太陰暦に太陽暦の要素を加えた「太陰太陽暦」だが、1年12ヶ月を春夏秋冬の四つに分け、1月~3月を春、4月~6月を夏、7月~9月を秋、10月~12月を冬としている。若い人には、この季節のずれは理解できないだろう。

 

 以前の尾瀬のメインルートは、富士見峠から約20分ほど登った美しい「アヤメ平」へのコースだった。至仏山や燧ヶ岳の眺望も良く、「天上の楽園」と呼ばれた。昭和30年代には、『夏の思い出』に感化された多くのハイカーが押し寄せた。

 当時のアヤメ平は、まだ木道が整備されておらず、また自然や環境に対するマナーや考え方も確立していなかった。湿原を自由に歩き回ったり、フォークダンスをしたり、ビニールシートを敷いて食事したり。その結果、またたく間に湿原植物が踏み荒され、湿地の泥炭層が露わになって雨や雪で流失、踏み固められたグランドのようになったそうだ。アヤメ平の美しい姿は、すっかり失われてしまったのだ。

 このような荒廃した植生を復元させるための取り組みは、「植生復元」と呼ばれる。1966年(昭和41)年から、福島県と群馬県が植生復元活動を始めた。主にアヤメ平では、1969年(昭和44年)から東京電力の子会社・尾瀬林業が、植生復元活動を開始した。

 その方法は、健全な植物群落をブロック状に切り取り荒廃地に移植する、健全な湿原からミタケスゲの種子採取して播く、雨水等のよるミタケスゲの種子流出を防ぐためにワラゴモで覆う、泥炭の流出を防止する土留め作る、 発育しやすい土壌をつくるために泥炭に粉灰(木炭の粉)を混ぜ合わせる、などの作業が続けられた。現在も、緑の回復がまだ十分でない場所を中心に、計画的な作業が進められているという。

 アヤメ平の荒廃と植生復元の話は知ってはいたが、復元作業が始まってからすでに40数年が経つ。今回初めてアヤメ平を歩いてみると、ほとんど緑が戻っていて、嬉しい限りだ。しかし、一目で復元跡とわかる不自然な湿地が点在していて、痛々しさが残る。 

 現在も尾瀬の各地で、各関係機関による植生復元活動が行われている。何にしても自然を破壊するのは、短期間、低コストにして簡単であるが、自然を復元するには長い期間と膨大なコストが掛かり、いかに大変なことだと思い知らされる。

 

 関連ブログ「燧ケ岳-その1」 2013年8月22日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-7e66.html

 関連ブログ「燧ケ岳-その2」 2013年8月23日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-11b8.html

2016年7月16日 (土)

古代蓮の里

 7月11日(月)朝、埼玉県行田市の「古代蓮の里」公園へ行く。

 

 6月下旬から8月上旬にかけて、公園内では古代蓮(行田蓮)を含め42種類12万株の蓮の花を見ることができるそうだ。蓮の花びらは朝に開き、午後になると閉じてしまう。開花から4日を過ぎると、花びらが一枚ずつ散っていくそうだ。朝6時半に家を出る。

 7時45分ころから10時頃まで、公園内の「古代蓮池」を巡り、「展望タワー」に昇り、田んぼアートを見る。

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 行田市は、市の天然記念物で市の花である古代蓮(行田蓮)が自生する付近に、ふるさと創生事業の一環として「古代蓮の里」を1992年から2000年(平成4年~12年)にかけてを整備した。2001年(平成13年)には、園内に「古代蓮会館」が開館。

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 この原始的な形態を持つ古代蓮は、公共施設建設工事の際の掘削地の池で、蓮の種子が自然発芽し開花したもの。出土した遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1400年から3000年前のものと推定される。

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 園内には古代蓮池の他にも、世界の蓮園、水生植物園、水鳥の池、牡丹園、梅林、桜のお花見広場など四季の花を、そして冒険遊び場や見晴らしの丘などがあり、家族連れで楽しめる。

​ 園内にある古代蓮会館の展望タワー(地上50m)に昇る。行田の市街地や田園風景の素晴らしい眺望。ただし遠くの空が霞んでいて、残念ながら富士山、浅間山などの甲信の山々はもとより、関東の山々もよく確認できず。

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 北西の方向。手前は「古代蓮の里」公園、行田浄水場、遠くに赤城山がかすかに見える。

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 西の方向の行田市街。中央の森に行田市役所、忍(おし)城址がある。

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 北東の方向。中央の那須岳は見えない。右端は羽生市街。

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 南西の方向。中央の富士山や左手の丹沢山系は見えない。右端は吹上方面。眼下はこの公園の駐車場と古代蓮うどん店の建物。

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 南東の方向、眼下の「田んぼアート」は有名で、さすがに大きい。

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 「田んぼアート」は、田んぼにいろいろな色彩の稲を植えてアートにしたもので、2008年から始められ、毎年テーマが変わるそうだ。今年は、30年もの間人気が続いているゲーム「ドラゴンクエスト」が描かれている。

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 行田市の「田んぼアートコメづくり推進事業協議会」は、田植え体験(今年は6/12終了)や秋の稲刈り体験の参加者を募集している。

 2015年には「最大の田んぼアート」として、ギネス世界記録(27平方m)に認定されたそうだ(写真下)。

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 梅雨とはいえ、今日も真夏の暑さ。午前10時過ぎには公園を出て、昼前に帰宅。

 

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 1951年(昭和26年)、千葉市花見川区の東京大学検見川厚生農場(現・東大検見川総合運動場)で、およそ2000年前の縄文時代の地層から丸木舟などと蓮の実3個が発見された。この実の1個は、翌年に発芽して順調に生育、立派な花を咲かせたそうだ。発見者の大賀一郎博士にちなんで「大賀蓮(オオガハス)」と命名され、1954年には「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定。花弁数は14~20枚の一重咲きで、花色は鮮やかなピンク色。

 

 1971年(昭和46年)、埼玉県行田市小針地区の焼却場建設工事によって、地中深くに眠っていた多くの蓮の種子が偶然掘り起こされた。その2年後の1973年(昭和48年)、種子は自然発芽して、池に一斉に開花したのが発見された。このように多くの古代蓮の種子が発見され、一斉に開花した例は、珍しいという。

 行田市教育委員会が依頼した蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授は、1974年(昭和49年)から翌年にかけての調査研究で、工事現場で採取した種子や出土した木片を年代測定したところ、およそ1400年前のものだったという。

 この結果、行田蓮は大賀蓮の例を参考に、約1400年から3000年前の古代蓮とされている。ただし、開花した種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できないという説もある。

 行田蓮の花は、濃いピンク色の一重咲き。花径は25~28cmで大型だが、花弁は13~18枚と少ない。つぼみは楕円形で、葉心角(葉を逆にして笠の形の角度)は120度~130度と小さいのが特徴で、植物学的に貴重なものだそうだ。

 

 タイムカプセルのような蓮の実が、千年以上の時を経て、堅い殻を破って甦り、大輪の花を咲かせるというロマンに心が躍る。まるでキリストの復活、いや仏陀の復活のようだ。

 全国各地で大賀蓮が移植された池や沼が十数カ所あるそうだ。行田市のほかにも、埼玉県白岡市では、1991年~1992年(平成3~4年)の土地改良工事で、蓮の実が発見された。その後近所の農家の方が繁殖に成功したものを、現在の調整池に移植し生育している。年代的には不明だが、専門家の鑑定でこれも古代蓮とされている。

 素人目には古代蓮と現代蓮の花の区別はつきにくい。素人考えだが、古代蓮が全国に拡散して現代の蓮と自然と交雑していけば、いずれは純粋な古代蓮のDNAは無くなってしまうような気がする。

 自然災害、経済崩壊、戦争、気候変動などから農作物の種子を守るため、「ノアの箱舟」と呼ばれる国際種子保存施設がノールウェイにある。そんな大げさなものでなくても、学術的な意味で、古代蓮の初代種子は保存されているのだろうか、気になった。

2016年7月 1日 (金)

あやめの潮来と小江戸佐原

 6月23日(木) バスで行く「あやめの潮来と小江戸佐原」の日帰り旅行。

 

 この日は朝からあいにくの雨。目的地に着く昼前には止むという天気予報を期待して、バスは午前7時40分出発。参加者32名。関越道、圏央道、東北道、外環道、常磐道、圏央道を走る。

 幹事や会長の挨拶のあと、お茶やビール、つまみが配られ、車中はにぎやかにカラオケも始まる。出発から1時間後の東北道久喜インター付近を走るころには、雨が止んでいるのに気がつく。

 

●愛友酒造(茨城県潮来市)

 最初の訪問先は、江戸末期の創業で200年以上の歴史のある酒造会社「愛友酒造」(茨城県潮来市)。午前10時50分に到着。

 酒蔵の見学の後、試飲コーナーでは樽酒などの利き酒を楽しむ。

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 潮来は、霞ヶ浦や北浦、常陸利根川などに面した水郷のまち。東北地方から江戸へ行き交う水上交通の港町として栄えた。現在は、あやめの咲く六月は観光客で賑わいを見せる。米栽培を中心とした農業が盛んだそうだ。

 

●水郷潮来あやめ園(茨城県潮来市)

 次の見学先は「水郷潮来あやめ園」に11時45分到着、食事処で昼食。

 少しバラパラの雨が降りだしたが、あやめ園を散策する。ここは去年の6月に来たところ。水郷を巡る遊覧船(30分1,000円)で楽しむ者もいる。

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 潮来が一躍有名になった花村菊枝の「潮来嫁さん」の歌碑。

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 橋幸夫の「♪潮来の伊太郎・・・」で有名な「潮来笠」の歌碑もある。

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 園内には、約500種100万株のあやめ(花菖蒲)が植えられていて、「水郷潮来あやめまつり」が26日(日)まで開催中だが、あやめはすでに見頃を過ぎていて残念。観光客もチラホラ。

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 潮来で見られるあやめは、実際は花菖蒲。地元では、花菖蒲もあやめと呼ぶそうで、まつり名、公園の名も「あやめまつり」、「あやめ園」と言うそうだ。

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●小江戸佐原(千葉県香取市佐原) 

 次は、香取市佐原へ移動し、午後1時30分から1時間ほど、佐原のまち並みを散策。小江戸佐原は、小野川沿いとその周辺に古い商工業者が軒を連ねる歴史的な建物の残る水郷のまち。

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 佐原は水運が発達し、「江戸優り(えどまさり)」と呼ばれるほど、江戸の文化をいち早く取り入れ、更にそれを独自の文化が発達したという。その面影を残すまち並みが小野川沿岸や香取街道に残っている。

 小野川に架かる「樋橋(とよばし)」。

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 小野川は、佐原を東西わけて流れる。「樋橋」は、江戸時代に小野川上流でせき止めた農業用水を西の田に送るため、小野川に架けられた大きな樋(とよ)であった。この樋の上に板を渡して、人が通れる橋となった。樋から小野川に落ちる水の音から「ジャージャー橋」と呼ばれる。
 
 江戸後期に全国を測量した伊能忠敬の旧宅(国の史跡)は、去年も入館した。入館料無料。

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 忠敬は家業や村政に励みながら学問を学び続け、隠居して50才になって江戸に出て、本格的な天文学、暦学などを学ぶ。老齢の55才から17年間にわたり全国測量を行った。生涯ロマンと情熱を持ち続け、生涯現役を続けた忠敬には、「中高年の星」として多くの人々から称賛されている。

 旧宅から小野川の対岸に、「伊能忠敬記念館」もある。昨年は観覧する機会がなかったので、今回は入館(大人500円)する。

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 香取市(旧佐原市)の施設と思われるが、館内の展示は立派だ。

 伊能忠敬の50歳までの半生、隠居してからの勉学、全国測量の行程、伊能図などが紹介。忠敬の人間像と生涯、実測による正確な日本地図を完成した科学的業績が、余すことなく展示されていて、感動する。

 伊能忠敬が残した資料は、代々の子孫が大切に保存してきたという。資料は佐原市(現香取市)に寄贈され、記念館はこれらを公開するために1998年(平成10年)に開館した。伊能忠敬関係資料は、重要文化財から国宝に指定された貴重なものである。

 

●道の駅「水の郷さわら」(香取市佐原)

 午後2時40分から30分ほど、国道356号線沿いにある道の駅「水の郷さわら」で買い物。

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 道の駅は、利根川に面しており、道の駅の隣には川の駅もある。

 左手に小野川の水門。河川マリーナや観光船乗り場がある。

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 往路を逆順に走り、カラオケを楽しみながら、6時15分出発地に無事帰着。

 

 この日は、目的地に着くころには雨が止むという、梅雨時期にしては天気に恵まれた1日だった。次回は11月頃に宿泊旅行を計画したいと、幹事からの話があった。

 

 関連ブログ「水郷の佐原と潮来」 2015年6月16日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b018.html

 関連ブログ「深川界隈」 2013年1月27日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-189d.html

 

●伊能忠敬のヒストリー

【少年時代】

 伊能忠敬は1745年(延享2年)、上総国(かずさのくに)の山辺郡小関村(今の千葉県九十九里町小関)のイワシ漁の網元で、名主をつとめる小関家の次男として生まれた。幼名は三治郎。母は小関家の娘、父は婿養子だった。

 三治郎が6才の時に母が亡くなり、母の弟が小関家を継いだ。父は、幼い三治郎を小関家に残して兄と姉を連れ、生家の武射郡(むさのこおり)小堤(おんづみ)村(現在、横芝光町小堤)の神保家に戻って居候した。父の実家の神保家も名門で、酒造業を営んでいる大地主だった。やがて父は神保家から分家し、三治郎を10才の時に引き取った。

 三治郎は、小さい時から学問好きで、算術に優れていた。父も分家してから塾を開くような知識人で、三治郎も父からも学問の基礎を教わった。持ち前の勤勉さから、幅広い教養を身につけ、16歳の時には佐忠太と名乗った。

 近くの村で土地改良工事があり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、現場監督を務める。この時の仕事ぶりを親戚の目に留まり、佐原の伊能家への婿入りが決まった。1762年、佐忠太17歳、妻のミチは21歳であった。

 

【佐原の時代】 

 伊能家は、主人があいついで若死し、当主不在の時代が長く続いていた。佐忠太が伊能家に来た時は家業は縮小し、衰退していた。忠敬は倹約を徹底、本業の酒造の販路拡大、薪問屋や米穀取り引きなどの事業拡大で、10年間ほどのうちに経営を立て直した。やがて、格式を高めるために林大学頭の門に入り、忠敬の名をもらう。29歳の時の伊能家の年間収益は、351両=約3,500万円だった。

 下の写真は、伊能忠敬記念館パンフより転載。佐原時代、伊能忠敬50歳までの前半生を紹介。

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 忠敬は伊能家当主となって18年目の32歳の時、奥州の仙台・塩釜・松島方面へ、妻ミチと二人の従者を連れて観光旅行に行った。妻との最初で最後の旅であった。

 36歳で名主となる。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財を投げ打って米や金銭を分け与えるなど地域救済に尽力、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかったという。

 名字帯刀を許され、翌年の1784年(39歳)には、名主から村方後見に昇格した。村方後見は、地頭から任命されるもので、名主の上座にいて村役や村方全体を監督する立場にあった。佐原は天領だったが、旗本の津田氏が地頭職を務める知行地だった。

 1783年(天明3年)の浅間山大噴火の飢饉、1786年(天明6年)利根川洪水の対策に奔走していた年の暮れに、長年連れ添った妻ミチが42歳で亡くなる。この4年後、内縁の妻を迎え、二男一女をもうけた。最初の子の秀蔵は、後に全国測量に同行し助手として働くことになる。しかし2人目の妻は、結婚4年後の1790年に26歳で亡くなり、その後の3人目の妻も病弱で結婚5年目の1795年に亡くなっている。

 天明の大凶を乗り切って一息ついた時、忠敬は自分が40歳の峠を越していることに気づく。跡取りの長男・景敬は、すでに20歳を過ぎていた。1790年(寛政2年)、45歳で忠敬は隠居を決意、村方後見の役を免じてもらうべく地頭に願い出る。しかし、地頭も忠敬を頼りにしていたため、なかなか許可がもらえない。その間、忠敬は佐原で暦学書を読んだり、機器を買い込み天体観測を行なったり、独学の日々を送った。

 1793年(寛政5年、48歳)の伊能家の収益は、1264両(約1億2640万円)、29歳の時の3.6倍にまで増えていた。この年忠敬は、凶作や飢饉が続いて延び延びになっていた伊勢神宮参拝の旅に出かけた。近隣の有力者らとの一行10名は、江戸から東海道の名所旧跡を訪ね、伊勢参宮を果たした後、奈良・大坂・京都などの近畿方面を見物、3ヶ月以上の大旅行だった。この旅では、磁石や望遠鏡を携行し、測量・観測記事もある旅行記を残している。

 

【第二の人生】

 この旅の翌年1794年49歳の時、忠敬は幕府の改暦事業についての噂を耳にし、再び隠居願いを地頭に提出し、やっと許可が下りる。忠敬は、すべての家業を長男に譲り、長男や親戚の同意を得て江戸に住み込み、若い頃から関心のあった天文学を本格的に勉強することになる。1795年(寛政7年)、江戸深川に居宅を構えた。時に、忠敬50歳だった。

 浅草には、星を観測して暦(こよみ)を作る幕府の天文方暦局があった。忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき、当時31歳)が幕府の天文方に登用されていた。至時は、大阪で西洋天文学・暦学の大家で町医者の麻田剛立(あさだごうりゅう、当時61歳)の一門の1番弟子だった。

 忠敬は高橋至時に弟子入りする。当初、至時は20歳も年上の忠敬を「年寄りの道楽」と期待してなかったが、他の弟子より熱心に勉強する忠敬の姿に感動する。忠敬は巨費を投じて、自宅を本格的な天文観測所に改造、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。

 1797年、高橋至時は新たな暦(寛政暦)を完成させた。しかし至時は地球の正確な大きさが分からず、暦の精度に不満足だった。オランダの書物から、地球が丸いことを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里などの説があった。

 忠敬は、2つの地点で北極星を見上げる角度を観測し、その差から緯度の差がから、2地点の距離が分かる、そうすれば地球の外周が割り出せると提案した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましいと至時はアドバイスした。

 当時は幕府の許可が無ければ、蝦夷地には行けない。そこで至時が考えたのが地図の制作、つまり暦制作が本来の目的だが、地図制作は移動の自由を得るための口実だった。この頃、蝦夷地ではロシアが上陸して通商を要求しており、国防のために正確な地図が必要だった。結果的には幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す。ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。伊能家の3万両=約30億円ともされる資産が役立った。

 1798年から、忠敬は最後の妻(内縁)と江戸で暮らしている。彼女は聡明な女性で、忠敬の地図つくりを手伝ったりした。

 こうして1800年、伊能忠敬の第1次蝦夷を皮切りに全国測量が始まる。第2次測量で、忠敬は、子午線1度の距離を28.2里(110.75Km)と導き出した。

 下の写真は、伊能忠敬記念館パンフより転載。全国測量へ、隠居してから勉学と全国測量の行程を紹介。左側には、象限儀(しょうげんぎ)という天体観測器具が展示。測量地の緯度を求めるために、北極星などの高度を観測した器具。その下の筒状のものは望遠鏡。

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 第4次測量が終わり忠敬が江戸に戻ると、至時は西洋の天文書の解読作業をしていた。緯度1度の距離が記載されていて、忠敬の28.2里にほぼ近いことがわかり、二人は手を取り合って喜んだ。1804年(文化元年)、忠敬の師・高橋至時が40歳で亡くなる。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保(かげやす)を天文方に登用した。

 5次測量からは幕府の直轄事業となり、測量隊員も増員、手当も増額された。測量先の藩も忠敬らに協力するようになった。忠敬の子・伊能秀蔵は、14歳のとき蝦夷地測量(第1次測量)に参加してから第6次測量まで従事した。数学や測量が不得意で、不行状から、1815年(文化3年)に父忠敬に勘当された。

 10次の測量が終わった時は、忠敬71歳。17年かけて歩いた距離は、実に4万Km、つまり地球を一周したことになる。こうして蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、いいよ全日本地図の作成作業が始まった。

 1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを、間宮林蔵が持って来た。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだが、地球は球面のため平面に修正する計算が大変だった。だがこの場面になって、忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎に冒されてしまう。

 1818年(文政元年)、忠敬は弟子に見守られながら73歳で世を去った。高橋景保や弟子たちは、この地図は伊能忠敬が作ったと世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。忠敬の死から3年後の1821年。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり、15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。大図214枚、中図8枚、小図3枚という、とてつもない大きさの地図だった。

  
 

 ★ ★ ★

 地頭から許可が下りず延び延びになったが、忠敬は50歳で隠居した。江戸時代は平均寿命が30~40歳だったというデータがあるが、乳幼児の死亡率が高かった時代の統計なので、あてにならない。「人生50年」という言葉もあったが、江戸時代では成年になった人の平均寿命は60歳くらいだったとされる。忠敬の祖父は45歳、父は44歳で隠居している。人によって異なるが、隠居はだいたい平均45歳前後だったようだ。

 ということは現代は、江戸時代よりも15歳~20歳くらい若くなっている。忠敬を現代人に置き換えれば、65歳で本格的な天文学・暦学の勉強を始め、70歳から86歳まで、全国を歩き回ったことになる。

 飽くなき学問に対する情熱、誰もなしえてない日本地図を作るというロマン、そしてなんというパワーと不屈の精神の持ち主だったのだろうか。現代の多くの高齢者に、大きな勇気を与えている。

2016年6月29日 (水)

渡良瀬遊水地ウォーク

 6月19日(日)、渡良瀬遊水地ウォーク。

 

 「渡良瀬遊水地」の自然と歴史を訪ね、東武日光線の藤岡駅から板倉東洋大前駅まで約15Km歩く。 

 「渡良瀬遊水地」は、わが国で最大の面積を誇る遊水地。茨城県古河市の北西に位置し、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県の4県にまたがり、総面積33km²(3300ha)にもなる広大な調節池。これは、山手線で囲まれた面積の半分に相当するというから、いかに大きいかが分かる。
 
 JR東北線宇都宮行きに乗り、栗橋駅で東武日光線に乗り換える。

 10:23、東武日光線の藤岡駅着。
   

 
●藤岡駅(スタート)

 10:40、藤岡駅前を出発。参加者6人。

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 駅前には、小さいタクシー会社以外は何もない。

 駅から住宅街を南に約2km、15分ほど歩くと繁桂寺の白壁と古い山門がある。

    
●繁桂寺(はんけいじ) 10:55~11:05

 正式には「潜龍山・繁桂禅寺」と称する曹洞宗の寺院。本堂は、コンクリート造りで新しい。

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 平安時代1145年頃の建立で、室町時代1628年(寛永5年)にこの地に移ったという歴史をのある古刹。境内には、藤岡城主の藤岡佐渡守、漢学者の森鴎村、実業家の岩崎清七などの墓がある。境内にある藤棚が有名で、5月上旬に紫色の花が垂れ下がるという。

 11:10、コンビニに寄って、昼の弁当購入。

 コンビニを出ると立派な栃木市藤岡体育館が建っていて、その隣に「栃木市藤岡遊水会館」がある。 

 

●藤岡遊水池会館 11:25~11:45

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 遊水池会館に入館(無料)。1階は、渡良瀬遊水地と湿地に関する情報提供、資料の公開、展示などを行う。半円形のコーナーに、渡瀬遊水地を感じられるようなパノラマ写真が設置。また栃木市のイベント、観察会、講座などの紹介を行っている。

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 遊水館のスタッフから、簡単な説明を聞く。

 2階は、貸出用の大会議室と栃木市の遊水地課事務室となっているそうだ。

 

 渡良瀬遊水地に向かって歩く。

 堤防に上ると、一面がヨシ(又は葦、アシ)原に覆われた広大な遊水地。その中に樹木や芝生が植栽されているゴルフ場「渡良瀬カントリークラブ」がある。写真では見えないが、遠くには筑波山が霞む。

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 堤防の上に作られた舗装された遊歩道を南に向かって歩く。時々サイクリングの自転車が、追い越して行く。

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 遠くに見えるビルは、古河の市街地。

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 ヨシ原は、遊水地総面積の半分を占めるという。3月下旬には、自然環境保全のため「ヨシ焼き」が行われる。

 しばらく堤防の上の遊歩道を歩くと、堤防の外に「旧谷中村合同慰霊碑」がある。

 

●旧谷中村合同慰霊碑 12:10~12:40 

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 足尾鉱毒事件に端を発した公害対策として、谷中村は1906年(明治39年)廃村となり藤岡町に合併。1973年(昭和48年)、旧谷中村の墓地を集め、納骨堂を兼ねた合同慰霊碑が建立された。

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 並べられた石塔には、「十九夜」や「十九夜供養」の文字と上部に観音様のような像が彫られている。これは、月待塔と呼ばれる民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として建てた塔。

 月齢の十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などがあり、「講中」と称する仲間が集まり、飲食のたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。十九夜講はほとんど女人講で、祈願も安産や育児、婦人の病などが多いそうだ。如意輪観音を祀る。

 このほか、庚申講の庚申塔なども集められている。合祀を拒んだ一部子孫の墓地は、この合同慰霊碑に移設されず、延命院跡などの墓地に残されているという。

 こで昼食・休憩。

 

 12:42、北エントランス(写真下)を通過。車で入る遊水地の入口(エントランス)は2か所あり、もう一つは中央エントランス。

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 北エントランス付近から、堤防の遊歩道を左に折れ、遊水地の中の直線道路を1.4kmほど歩く。

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 「谷中村遺跡を守る会」が立てた「横堤跡」の看板。

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 どこか特定できないが、この辺りに横堤という集落があったようだ。一軒一軒に当時の住居者の氏名(写真をクリックすると拡大表示)が書かれている。

 ここに来るまでに、ヨシ原の中にこんもりと盛り上がった丘に樹木が茂っている場所を2、3ヶ所見た。それが横堤の屋敷跡だったのかは確認できない。

 T字路に「谷中村遺跡入口」の道標。右に折れると、9時30分~17時までと表示のあるゲートがある。

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 ゲートを抜けると、その先右手に「ウォッチングタワー」(展望台)が建っている。

  
   
●ウォッチングタワー 13:10~13:30

 遊水地を一望、好天なら富士山のほか、浅間山、男体山や筑波山などの関東の山々も見晴らせるという。ここでしばし休憩。

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 眼下の道路は、左手の方向から歩いて来た。

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 谷中湖にそそぐ水路。この先の谷中湖の入口には水門がある。

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 水路の左手のアシ原は、「ヨシ原浄化施設」。ヨシの自然浄化機能により、生活雑排水や窒素・リン等を含む河川水をきれいな水にして谷中湖に流す。

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   バーベキューも楽しめる「子供広場ゾーン」(芝生広場)、大駐車場、レンタサイクルセンター、売店を通って、谷中湖の湖畔に着く。

 
●体験活動センターわたらせ 13:45~13:55

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 遊水地、湿地を見て触れて感じる体験、学習活動の支援を行う場。

 このセンターのスタッフから、遊水地や谷中湖の説明を聞く。

 
   
●史跡保存ゾーン 14:00~14:05 

 少し高台になった谷中村役場跡は、今は更地になっていて東屋が建っていた。

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 谷中村史跡保存ゾーンには、旧谷中村の役場跡、邸宅跡などには、住居者の氏名が書かれた碑が建てられいる。また、地図や谷中村廃村までの経緯が書かれた案内板で詳しく知ることができる。行かなかったが、他に雷電神社跡、延命院跡、屋敷跡などの史跡がある。

 
   
●谷中湖

  ハート形の人工の谷中湖は、面積4.5平方キロ、周囲9.2Kmにおよぶ巨大な貯水池。大雨時に貯水し、洪水を防ぐ目的で作られたが、栃木・埼玉・千葉・東京の生活用水池としても大きな役割を果たしているそうだ。

 谷中湖が、ダムだとは知らなかった。日本最初の平地型ダムだそうだ。写真は、国交省関東地方整備局利根川上流河川事務所のパンフから転載。

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 広々とした谷中湖は3つのブロックに分かれ、北ブロックではウインドサーフィンなどのウォータースポーツで賑わい(写真下)、谷中ブロックと南ブロックでは、魚釣りが楽しめる。

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 谷中湖の湖畔と湖上の遊歩道を約1/4周する。写真は、谷中湖の西岸から見る「北橋」。

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 「北橋」から見る谷中ブロックの人工浮島と「東橋」。

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 谷中ブロックの湖面には人口浮島を造り水質の改善を行い、水鳥の休息地や魚のすみかになっている。また、谷中ブロックに隣接して野鳥観察のできる「野鳥観察台」がある。

 写真は「西橋」を谷中湖の西岸から見る。

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 この後、「下宮橋」を渡って遊水地を出、県道9号線を横断、南西に20分ほど歩き東武日光線の柳生駅がゴール。

 しかし我々は、「下宮橋」を渡らず、ここから谷中湖の湖岸に沿って2km(約35分)ほど北上し、1つ先の駅の板倉東洋大前駅を目指す。

 15:17「思い出橋」を渡り、遊水地の外に出る。ここから、約2Km先に板倉東洋大前駅がある。板倉町立東小学校の脇を抜けると、駅の近くに「わたらせ自然館」があった。

 

●わたらせ自然館 15:30~15:35

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 入館無料。遊水地の立体模型、植物の写真・標本、昆虫標本などが展示。 ここは、群馬県板倉町の施設。

 
   
●板倉東洋大前駅(ゴール)

 15:45、東武日光線の板倉東洋大前駅に到着。駅の西口側には、東洋大のキャンパスが広がっている。

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 ここまで歩程約15Km、25,000歩。休憩含め約5時間だった。

   
 16:04板倉東洋大前駅発、南栗橋行き。栗橋でJR宇都宮線伊東行に乗り換え。16:53、大宮駅で下車。

 17:30~19:35、大宮駅東口一番街の居酒屋「鰓(えら)呼吸」で反省会。

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 大宮駅で解散。

 

 ★ ★ ★

 北関東を流れる利根川水系の渡良瀬川に、思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)が合流する辺りは、広大な湿地帯となっていた。

 ここは明治時代、渡良瀬川上流の足尾 銅山から出る鉱毒で渡良瀬川は汚染され、やがて田中正造が明治天皇へ直訴するという「足尾鉱毒事件」の舞台となった場所。日本の公害の原点となった。

 当時政府は、谷中村を廃村としたうえ鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に、渡良瀬川下流の周辺湿地帯を含めたこの地域を貯水池化するために造られたのが「渡良瀬遊水地」。大半が栃木県栃木市(旧藤岡町)に属し、残りの部分が栃木県小山市、栃木県下都賀郡野木町、茨城県古河市、埼玉県加須市、群馬県邑楽郡板倉町に属する。

 その一方で利根川水系は、台風などの大雨時に堤防を決壊、大洪水 を発生させたため、1963年(昭和38年)以降は洪水対策として、渡良瀬貯水池が段階的に整備され、関東地域の洪水調節・都市用水の需給に役割を果たしている。

 また2012年(平成24年)、渡良瀬遊水地は水鳥や多様な湿地の生態系を守るために制定された「ラムサール条約」に登録された。

 人工の谷中湖(渡良瀬貯水池)は、1976年に着工し2002年に完成した。湖がハート形をしているのは、ハートの凹みの部分に谷中村の遺跡があり、1972年の造成時にブルドーザーに身を挺して守った谷中村の子孫たちの闘いの結果だという。

 
   
 関連ブログ「尚仁沢湧水と足尾銅山」 2015年8月6 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-f3d8.html

 関連ブログ「渡良瀬遊水地」 2014年3月28日 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-6b27.html
   

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