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2020年2月23日 (日)

有明海と諫早干拓堤防

  2020年2月18日(火)、長崎県諫早市の小長井町に行き、牡蠣焼きを食べ諫早湾干拓堤防道路をドライブ。

 

 諫早市の市街地を車で通り抜け、長崎本線と平行に走る国道207号線を佐賀方面に向かって北上。やがて有明海を右手に見ながら、諫早市街からおよそ30分ほどで、佐賀県との県境に近い諫早市小長井町遠竹。

 有明海を望む。左手の島は、佐賀県藤津郡太良町の竹崎島。周囲4Kmの火山島だという。

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 11:00頃、「牟田商店」の牡蠣小屋に入る。

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 「牟田商店」は、自家製粕漬けや海鮮の販売、海鮮の炭火焼や釜めしの食事処。

 手前にある牡蠣は、1かご1,000円。

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 昨秋の台風の影響で、小ぶりだという牡蠣やサザエなどを堪能する。

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 12:10牡蠣小屋を出て、元来た国道207号線を南下する。

 諫早市高木町で左折し島原・雲仙方面へ、諫早干拓の潮受け堤防の上を走る道路を進む。この堤防道路は、「雲仙多良シーライン」と呼ばれる国道251号線で、諫早市高木町と雲仙市吾妻町を結ぶ。

 諫早干拓堤防の北部排水門。

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 12:35、堤防の中央付近に駐車場やトイレのある休憩所がある。展望所へ渡る歩道橋もある。

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 展望所から南東の方角、島原半島の雲仙方面を望む。堤防の右手の濁った色が「調整池」、左手が有明海。

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 雲仙岳の主峰・普賢岳(標高1359m)が見える。

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 反対側は北西の方角、佐賀県との県境の多良山系。左手は「調整池」。

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 中央がテレビ塔が建つ五家原岳(標高1057m)。右手奥が多良岳(標高996m)だろうか。昨日の雪で冠雪している

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 休憩所には、ちょうど菜の花が咲いていた。秋には彼岸花が咲くという。左手が「調整池」。

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 南西の方角、「調整池」の向こうに干拓地、諫早市街。堤防で仕切られた広大な「調整池」は、「池」といっても「湖」のよう。

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 休憩所には、諫早湾干拓事業のや関連施設の説明板が立っていた。

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 説明板によると、事業に農地創設は672ha(主に畑作)、「調整池」の面積は2,600ha。諫早湾は元々遠浅だったところなので、「調整池」の水深は深い所でも約3.5mしかないそうだ。

 説明板の内容を要約すると、以下のようである。

 有明海は浅い海で、潮の満ち引きの差も6mと大きく、干潮時には沖合へ5~7Kmほどの干潟が現れるという。干潟には多いところで年々5cmの「ガタ土」が溜まるため、陸地の排水が難しくなるそうだ。有明海は、江戸時代以前から干拓が行われており、干拓と同時には排水をよくする取り組みが続けられてきた。

 しかし大雨や台風にょる高潮などで、これまで陸地では浸水、洪水の被害を受けてきた。諫早干拓の潮受堤防は、「調整池」を標高-1mに保たれていて、満潮や高潮の時も陸地の排水が出来るように排水門を開閉して水位を調整するという。

 更に堤防道路の南部水門を取り過ぎ、島原半島へ進む。

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 12:55、全長8Kmの干拓堤防道路を渡り切り、雲仙市吾妻町。島原鉄道に沿った国道251号線を走り、諫早市街へ。

 

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 「雲仙・普賢岳2015」 2015年11月10日投稿

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 「雲仙・普賢岳」 2011年11月3日投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-fc3f.html

   

 ★ ★ ★

●小長井町(こながいちょう)

 北高来郡小長井町は2005年(平成17年)3月、諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、高来町と合併して新しい諫早市となり、自治体としての小長井町は消滅した。そもそも小長井は、1889年(明治22年)に小川原浦村・長里村・井崎村の3村が合併し、それぞれの頭文字を取って北高来郡小長井村が成立。1966年(昭和41年)町制施行し、小長井町となった。 

 国道207号線沿いには、フルーツをかたどった「フルーツバス停」を散見した。地元ではお馴染みのこのバス停設置のきっかけは、1990年に開催された「長崎旅博覧会」で、長崎県の玄関口として訪れる人たちの心を和ませるため、当時の小長井町が整備したもの。

 グリム童話のシンデレラに登場するカボチャの馬車が、このアイディアのヒントになったという。イチゴ、メロン、ミカン、スイカ、トマトの5種類16基のフルーツを模したバス停が、国道沿いを中心に設置されているそうだ。

 インスタ映えするので写真を撮る観光客もいるようだが、撮りそびれたのでウィキペディア・コモンズから転用する。

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●高来町(たかきちょう)

 高来町は、長崎県北高来郡にあった町。2005年(平成17年)3月、諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、小長井町と新設合併し、新市制による諫早市の一部となり、自治体としての高来町は消滅した。

 そもそも高来町は、1889年(明治22年)の町村制施行により、北高来郡のうち、湯江村(湯江村・宇良村が合併)、小江村(小江村・犬木村が合併)、深海村(深海村・藤田尾村が合併)の3村が発足。1955年(昭和15年)、湯江村が町制施行し湯江町となる。1956年(昭和31年)、湯江町、小江村、深海村が1町2村が合併し、高来町となった。山域に多良岳県立公園が含まれる。

 

●吾妻町(あづまちょう)

 吾妻町は、長崎県の島原半島にあった町で、南高来郡に属した。2005年10月に周辺の国見町、瑞穂町、愛野町、千々石町、小浜町、南串山町の6町と合併し、雲仙市として市制施行。吾妻町は自治体として消滅した。現在、旧吾妻町役場に雲仙市役所本庁が置かれている。

 そもそも吾妻町は、1889年(明治22年)の町村制施行により南高来郡のうち、守山村(守山村・三室村が合併)、山田村(単独村制)の2村が発足。1954年(昭和29年)に守山村と山田村が新設合併して吾妻村が発足。村名の由来は、地域内にある吾妻岳にちなむ。1963年(昭和38年)、 吾妻村が町制施行し、吾妻町となった。特産品は、雲仙牛、ブロッコリー。

 

●諫早湾干拓事業

 干拓と埋め立ては違う。干拓は干潟や水深の浅い海を堤防で囲い込み、排水してやがて干上がり、陸地が開かれる。埋め立ては、堤防で囲った水を抜きながら、土砂や廃棄物を埋めて土地をつくる。干拓地は干上がった後、時間をかけて塩分を抜いて農地に、埋め立て地は工場や住宅地に利用される事が多い。干拓地は、特に満潮時には海水面より低い。

 諫早湾は、有明海の中央西岸に位置する。その湾を横断する干拓堤防道路「雲仙多良シーライン」は、諫早湾の干拓事業に伴って湾を締め切る為に造られた潮受堤防の上を走る道路で、2007年に開通。地元では「ギロチンロード」とも呼ばれるようだ。

 そもそも諫早湾の干拓事業が動き始めたのは、まだコメ不足や食糧難という事が叫ばれていた戦後間もない1952年(昭和27年)。当時の長崎県知事西岡竹次郎が、山が多い長崎県の平地を広げ、当時の食糧難を解決するために「長崎大干拓構想」として発案。

 広大な干拓地が得られ、農地の冠水被害(塩害)を防ぎ、農業用水も確保されるとされた。諫早を流れる本明川は数年に1度の頻度で氾濫、住民は水害に悩まされたと聞く。1957年(昭和32年)には500人以上が犠牲になった「諫早大水害」は記憶に残る。当時諫早市内には、水害を防ぐために多数の水門が備えられていた。見張り役が立って水門を開閉をしていたが、台風襲来時などは危険な仕事だった。また干潟では川の排水を促すために、大勢の住民が人力で「みおすじ」と呼ばれる溝堀り作業が行われていた。

 当初の計画では、諫早湾の11,000haを締め切って巨大な干拓地を造るものであった。しかし予算の関係で規模を1/3に縮小、農水省が実際に工事に着工したのは1989年(平成元年)。もはやコメ不足どころか減反政策により、米の生産調整がされるような時代。公共事業が一度動き出すとなかなか止められないのが国のやり方、「無駄な公共工事」と叫ばれている事例も全国各地にある。諫早湾には潮受堤防が建設され、1997年(平成9年)4月に堤防の水門が閉じられた。その10年後の2007年(平成19年)11月に完工式が行われ、12月に堤防道路が開通した。

 当然、干拓事業によりその恩恵を受けている農業者も多い。干拓堤防道路の休憩所にあった「諫早干拓事業」の説明板を見れば、大雨や高潮などの災害から地域を守るという大きな役割があるのは確かだろう。しかし一方で、諫早湾や有明海の環境破壊、生態系の大きな変化など、漁業者など被害を受けている人も多い。

 「開門だ」、「開門するな」、被害賠償支払い請求、制裁金支払い請求などの裁判の争いは、今もなお続いている。干拓事業の推進派、反対派、どちらが正しかったのか。干拓事業はどうあるべきだったのだろうか。いずれにせよ、何十年も争いが続く国の政策や事業は、成功したとは言えないのではないか・・・、考えさせられる。

 

2020年2月22日 (土)

ミライon図書館

 2020年2月15日(土)、昨年10月に開館した「ミライon図書館」に行く。
 

 「ミライon(みらいおん)図書館」は、「長崎県立長崎図書館」と「大村市立図書館」の共同運営図書館。

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 「長崎県立長崎図書館」は、1912年(明治45年)に創設。1960年(昭和35年)に建て替えられた後、老朽化が進み年々増加する資料の保管の能力をはるかに超えたため、新たな建設が望まれていた。

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 長崎市にあった「長崎県立長崎図書館」を移転して、大村市の「大村市立図書館」や「大村市民会館」の敷地に県立・市立一体型の図書館施設「ミライon図書館」として2019年1月竣工、同年10月5日にオープンした。

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 都道府県と市町村が共同運営する図書館は、高知県の「オーテピア高知図書館」以来の全国では2例目だそうだ。九州の県立図書館としては、収蔵能力最多の202万冊を誇る。開館時の蔵書数は、約125万冊でうち開架図書は25万冊。

 

 10:00頃入場。

 建物は6階建だが、一般利用者の入館は4階まで。天井や書架には長崎県産の木材が使われていて、優しく温かみのある雰囲気。

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 1階は、こども室(児童書の書架4万冊、閲覧席101席)、多目的ホール(200名収容)、カフェ「cafe miraino」、「大村市歴史民俗資料館」など。

 2階は、学習スペース(104席)、研修室(76名収容)、グループ学習室(6名×4室)など。

 下の写真は、吹き抜けの3階から撮影。下半分は2階の学習スペース、上半分は1階のこども室。

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 3階は、一般資料の開架・閲覧スペース(一般書約21万冊、閲覧席231席)。

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 4階は、資料閲覧スペース(閲覧席116席)など。

 

 石井筆子が愛用した「天使のピアノ」のレプリカが、1階のサブエントランスに設置されている。

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 エントランスの壁には、近代を拓いた大村の人々のパネル展示。

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 右から黒板勝美(教育)、荒木十畝(美術)、長岡半太郎(科学)、石井筆子(教育)、長岡安平(造園)、長与専斎(医学)、楠木正隆(政治)、渡辺清・昇(政治)。

 

 1階に併設の「大村市歴史資料館」。 

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 「大村市歴史資料館」は、大村藩や大村家関係の古文書等を保管・展示するため、1973年(昭和48)に開館。以後、大村に関する歴史資料の収集、調査、展示を行っている。所蔵資料は、1万数千点。

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 資料館は、「プロローグ展示」、「シアター」、「常設展示室」と「企画展示室」から構成されている。

 「プロローグ展示」は、多くの人を引き寄せ賑わい作り出す資料館の入口。床には、大村湾を中心とした大村藩に相当するエリアの航空写真(写真なし)。

 「シアター」では、デジタルコンテンツ「南蛮屏風図 天正遣欧少年使節」を映写。

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 戦国時代の長崎などでの南蛮貿易を描いた南蛮屏風をモチーフに、織田信長、豊臣秀吉や大村純忠などの歴史上の人物たちが登場する。コンテンツに触ったり、スマホを使って遊んだりと参加して楽しむことができるそうだ。

 また、映画「遥かなる天正遣欧少年使節」を毎時00分と30分から、8分間上映。バチカンロケを行った天正遣欧少年使節のドラマ「MAGI-遣欧天正少年使節」(2019年公開、野村周平主演)のダイジェスト版のようだった。学芸員の話では、少年使節が実際にローマ教皇に謁見を行った「帝王の間」の撮影は、国内初だという。

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「常設展示室」は、説明パネルや歴史資料のほか、ジオラマや映像、情報検索システムなどがある展示室。大村の歴史全体を楽しく知ることができる。

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 「企画展示室」では、「新収蔵品展」が1月11日(土)~2月24日(月)で開催中。

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 近年収集した坂本龍馬や桂小五郎から薩長同盟に尽力した大村藩士・渡辺昇にあてた手紙(渡辺清の交友関係を知る資料)、江戸時代に世界の人々を描いた「万国人物図」など初公開を含む展示。

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 11:30頃一旦退場して、館外で昼食。12:30過ぎに、再び入館。

 

 13:30~15:10、館内の多目的ホールで郷土史講演会「ミュージアムの将来~社会の中のミュージアム」を聴講する。

 ・報告「大村市歴史資料館の整備について」 大村歴史資料館 館長 今村明 氏 

 ・講演「ミュージアムの現在とこれから」 長崎県立美術館 館長 米田耕司 氏

  主催は、大村史談会、大村歴史資料館。

 15:30~学芸員による「大村市歴史資料館」の展示案内。

 

 学芸員の話で「ミライon図書館」から徒歩5分の「プラットおおむら」に、別館の「大村市近代資料室」があるという。

 「ミライon図書館」を退館して、アーケード街(旧長崎街道)の中心市街地複合ビル「プラットおおむら」の5階に行ってみる。16:30、「大村市近代資料室」に入場(入場料無料)。

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 明治から終戦後まで、近代大村の歩みを伝える新しい展示施設。

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 歩兵第46連隊や海軍航空隊、第21海軍航空廠と昭和17年の大村市誕生など、近代化の道を進んできた大村市の歴史的資料を展示。

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  16:45、退場。

 ★ ★ ★

●石井筆子について

 石井筆子(1861~1944年)は、渡辺清の娘。清は幕末の坂本龍馬や木戸孝允と交流があった志士で、明治政府では福岡県令や元老院議官などの要職を歴任し、男爵に叙せられた。

 筆子は、オランダやフランスに留学するなど優れた語学力を生かし、女性の教育と権利向上に貢献した。また、日本初の知的障害児社会福祉施設「滝乃川学園」(東京・国立市)の創立者・学園長の石井亮一と再婚、2代目学園長としても活躍した。

 「天使のピアノ」は、現存する日本最古のアップライトピアノだそうだ。演奏者の目の前に位置する上前板に、2人の幼児を抱いた天使がデザインされている。筆子はこのピアノでクリスマスなどに演奏を披露したとされ、現在でも同学園で使われているという。

 2007年には、石井筆子の生涯を描いた映画『筆子・その愛天使のピアノ』(常盤貴子主演)が製作・公開されている。

●大村市歴史資料館

 以前の「大村市立図書館」に併設された資料館がどんなものだったか知らないが、新しい資料館は郷土史を知る上では非常に分かりやすく、楽しく歴史を学ぶことができ、素晴らしかった。

 大村の歴史は、それぞれの時代の特徴的なポイントは、

 ・原始・古代:富ノ原の環濠集落遺跡、彼杵荘(そのぎのしょう)、仏教文化の隆盛、竹松遺跡。

 ・中世:大村氏の登場、戦国の世を生き抜いた大村氏、大村純忠と天正遣欧少年使節、キリシタン王国の時代。

 ・近世:大村藩260年間の歴史、隠れキリシタンと宗教政策、捕鯨で財をなした深澤義太夫、藩校の五教館、幕末を駆け抜けた大村藩士。

 ・近代:城下町から軍都大村へ。陸軍歩兵連隊、海軍航空隊、海軍航空工廠。

 などがあげられる。

 大村氏のはじまりは、大村家の系図では伊予国(愛媛県)から藤原純友の孫の直澄が、大村にやってきて大村と名乗ったと伝えられていた。昔読んだ郷土史や観光パンフレットには、そう書いてあった。どこか大村家の出自(しゅつじ)を権威づけるような系図は、捏造めいた感じがした。

 しかし最近の研究では、大村家は平安時代の藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)の原一族と考えられているという。資料館の説明パネルでは、原一族は藤津郡から彼杵郡へと勢力を伸ばし、大村と名乗って大村を本拠地に有馬氏と争ったと書いてあった。

 

●ミュージアムの将来

 「ミライon図書館」の特徴は、閲覧や学習のスペースが多くとられていることだそうだ。その数はおよそ550席もあって、席ごとに(一部を除いて)専用の電源コンセントが目についた。パソコンを持ち込んで、勉強や仕事をするのにも便利。もちろんWi-Fiも完備。また1階のエントランスでは、お昼時になると飲食をしている人たちがいたのは驚いた。

 午後からの「長崎県立美術館」の米田耕司館長の講演は、面白かった。ミュージアムは、「市民のリビングルーム」であるべきだと言う。忙しい日常の中で、ホッとする場である。例えばミュージアムに、食事ができるカフェが必要だと主張。これまでの第一世代、第二世代のミュージアムに対して、「第三世代の博物館像」を提唱されている。話を聞いて目からウロコが取れる思いがした。

 例えば、第1世代は保存志向、第2世代は公開志向だったが、第3世代は参加・体験志向だという。これまでの閉鎖的で、難しくて、堅苦しい、暗いイメージは、最近あちこちのミュージアムを訪問した経験では、確かに変わって来つつあるのに気がつく。市民に参加してもらって、地域社会に開かれた、くつろげる自由なミュージアム。まさしく 「大村氏歴史資料館」や「ミライon図書館」もその将来を先取りした施設だった。ここでは、1階エントランスとカフェでは、食事が可能とパンフレットに書いてある。

 「文化芸術基本法」は、文化芸術に関する基本法として2001年(平成13年)に制定された。国や地方自治体は、文化芸術の充実を図る責務が定めるられたという。その実現のために「果報は寝て待て」ではなく、「果報は練って待て」と講演で米田氏は言う。ミュージアムは、地域の振興、活性化を果たす役割を担っているのだ。

 

2020年2月12日 (水)

国立歴史民俗博物館(中世~現代)

 2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」の続き。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代から近代・現代まで、考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前にここを訪れた時は、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため閉室。今回は、午前中「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧した。

 昼食後の13:00~14:00、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)は復習のつもりでわずか1時間でザッと見て回った。

 

■第2展示室(中世)13:00~

 平安時代の半ばから戦後期時代にかけて、テーマは、王朝文化(10〜12世紀)、東国と西国(12〜15世紀)、大名と一揆(15〜16世紀)、民衆の生活と文化(14〜16世紀)、大航海時代のなかの日本(15〜17世紀)、印刷文化(8〜17世紀)。

 王朝文化:入口からの展示風景。中央は、屋根飾りの「鴟尾(しび)」。右手は、藤原道長の邸宅「東三条殿」模型。

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 御帳台(右)と王朝貴族の服装。左から十二単(女性)、束帯(そくたい、男性の正装)、白の直衣(のうし、日常着)。

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 京都の町並み。四条室町付近。

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 大航海時代の日本:御朱印船の模型(17世紀)

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 民主の生活と文化:芸能と職人。手前は田楽の装束。奥は大鋸(おが)引き。初めて製材か可能となり建築に一大革新をもたらした。

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■第3展示室(近世) 13:15~

 近世は、江戸時代を中心(16世紀末~19世紀半ば)に、人びとの生活や文化を紹介。テーマは、国際社会のなかの近世日本、都市の時代、人と物の流れ、村からみえる「近代」、絵図・地図に見る近世、寺子屋「れきはく」。

 都市の時代:江戸橋広小路の模型。日本橋と江戸橋の間の南側一帯。江戸の中心部の町。

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 人と物の流れ。多くの道しるべが建てられた。

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 北前船は、大阪と蝦夷地を結ぶ長距離航路で活躍。

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■第4展示室(民俗) 13:25~

 人びとの生活のなかから生まれ、幾多の変遷を経ながら伝えられてきた民俗文化を展示。テーマは、「民俗」へのまなざし、おそれと祈り、くらしと技。

 おそれと祈り:右は、能登の宇出津(うしつ)あばれ祭りの神輿。中央は、沖縄県八重山地方の西表島節祭(しち)では中国伝来の龍船競争も行われる。

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 死と向き合う:佐渡の五十回忌棚飾り。奥に見えるのは、安らかなくらし:移動式の神前結婚式祭壇(東京、明治の終わり頃)。

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 なりわいと技:カツオ一本釣り漁船「竜王丸」。

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 里のなりわいと技の展示。

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■第5展示室(近代) 13:40~

 19世紀後半の近代の出発(明治)から 1920年代(大正~昭和初期)までを、文明開化、産業と開拓、都市の大衆の時代の3テーマで構成。

 文明開化:山梨県に建てられた擬洋風建築の小学校。人々の献金で建てられた。

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 文化住宅の台所。関東震災以後に中流向け家庭のために造られたアパートの台所。水道・ガス完備。

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 都市の大衆の時代:大正~昭和の浅草の町並み。

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■第6展示室(現代) 13:45~

 1930年代から1970年代(昭和5年~昭和45年)までを、戦争と平和、戦後の生活革命の2テーマで構成。

 戦時生活:人生画訓

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 占領下の生活:闇市、露天の実物大の模型。

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 戦後の生活革命:1964年東京オリンピックポスター(左)、1960~70年代おもちゃ(右)。

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 14:05、「歴博」を退場。

 14:15「歴博」の駐車場を出発、佐倉の城下町を巡る。

 本ブログ記事「城下町佐倉」に続く。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 

国立歴史民俗博物館(先史・古代)

   2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代からの第1展示室、そして現代の第6展示室までの考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前に「歴博」を訪れた時、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため、残念ながら閉室していた。今回、「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧する。

 

 9:50四街道インターで東関東道を降り、10:07「歴博」の駐車場に到着。

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 10:15、入館(入館料600円)。

 

■第1展示室(先史・古代)のエントランス。

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 1983年の開館以来、はじめて第1展示室の「原始・古代」展示を大幅に見直し、2019年3月19日に「先史・古代」と名称を改めリニューアルオープンした。

 プロローグ: 人類の進化の様子を猿人、原人、旧人、新人の段階に分けた概念図。

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 この第1展示室は、以下のテーマから成る。

 Ⅰ 最終氷期に生きた人々
 Ⅱ 多様な縄文列島
 Ⅲ 水田稲作のはじまり
 Ⅳ 倭の登場
 Ⅴ 倭の前方後円墳と東アジア
 Ⅵ 古代国家と列島世界

 副室1 沖ノ島
 副室2 正倉院文書

 

Ⅰ 最終氷河期に生きた人々

 4万年前の最終氷河期の森。ナウマン象もいた。

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  列島に到達した最初の人々。沖縄県の港川で見つかった2万年前の「港川1号人骨」。

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 狩猟採集民とその遊動生活。皮をなめしたり石器づくりの人々のリアルな模型。

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Ⅱ 多様な縄文列島

 縄文文化の時代:縄文人のすがた・かたちは、男162cm、女149cm、手足が長く丸顔、鼻が高く、あごのエラが張っている。

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 縄文人の登場:縄文人は丸顔で彫りが深い等の特徴を持つが、同時期に中国大陸にはこれらの特徴を持つ人は確認されていない。

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 縄文文化の地域性:定住生活により西と東で土器の形が違うなど、地域ごとの文化が発達した。

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 定住生活の進展:縄文人のメジャーフード。季節ごとに何を食べ何を貯蔵するか、計画的に食料を調達していた。

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 縄文人の家族と社会:縄文人の一生。13~18歳で成人儀礼を受け、成人の証しの抜歯や入れ墨。16~20歳で結婚。50歳くらいで一部の人は集落のリーダーとなり、60歳くらいで第一線を退いた。

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 三内丸山遺跡(青森市)の家屋の復元模型。6000年~4500年前。

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 縄文人の祖霊祭祀:一度埋葬された遺体を一個所に寄せ集めて祖霊を祀り、人々のつながりを強化した。

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 縄文人の「おそれ」・「いのり」・「まつり」の展示。

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 輪になるように石や石棒が立てられ、「いのり」の場として使われた。

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Ⅲ 水田稲作のはじまり

 紀元前10世紀後半、新天地を求めて朝鮮海峡を渡って、北九州や薩摩半島にやって来る人々が現れた。

 水田耕作は北九州でしばらく留まった後、紀元前8世紀末頃から南へ、北へと日本列島に一気に拡散した。

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 出土した頭の骨を元に、当時の女性を再現。

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Ⅳ 倭の登場

 弥生時代の人々、つまり倭人が1、2世紀頃の中国の歴史書に登場する。

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 倭が、「漢委奴国王」の金印を手にする。(写真は、パンフから転載)

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Ⅴ 倭の全方後円墳と東アジア

 3~7世紀に築かれた約5,200基もの前方後円墳は、日本の様式だが朝鮮半島にも似たような古墳があったという。

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 倭の境界と周縁:北縁の岩手県中部から北は縄文文化を続ける人々がいたり、南縁の南九州は独自の文化が見られる。 

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Ⅵ 古代国家と列島世界

 仏教が伝来し、寺院の建立によって権力を表すようになり、古墳時代は終末を迎える。 

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 飛鳥京、難波京、藤原京の王宮が出現。

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 平城京を象徴する「羅城門」の模型。701年大宝律令が制定、古代国家が誕生する。

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 古代国家の北、多賀城は政庁と外郭(城柵)から構成された。

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 古代国家の南には、太宰府を設置し西海道を支配した。左下は、太宰府政庁の鬼瓦。

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副室1: 沖ノ島

 福岡県の孤島「沖ノ島」では、4~9世紀(500年間)に航海の安全を祈る祭りが行われた。2017年に世界遺産に登録。

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 島には海外から宝物が運び込まれており、盛んな国際交流があった。実物大の祭祀遺跡の模型で、当時を体感できる。

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副室2: 正倉院文書

 役所の文書や文具まで残されている奈良・東大寺正倉院の模型。左端は、国の平安を祈り写経を奉納する写経生の模型。

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 「正倉院」は、奈良・天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物。1997年に国宝に指定、翌1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産登録。

 12:00前に、駆け足だったが2時間かけて、第1展示室(先史・古代)を見終わる。

 12:00~12:50、レストラン「さくら」で昼食(古代カツカレー1,030円)、休憩。午後から、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)を観覧することにする。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(中世~現代)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 「歴博」のパンフレットによれば、「先史・古代」を対象とする時代は、3万7千年前に日本列島に人類が出現してから、7世紀末~8世紀初頭に古代国家が成立後、10世紀に中世の姿を見せ始める(「平安時代」中期)迄だという。「歴博」の先端的研究が明らかにした先史時代の新しい年代観にもとづき、リニューアル後は約3500年さかのぼった土器の出現、約500年さかのぼった水田稲作のはじまり、開館時には明らかにされていなかった調査成果をふまえた新しい歴史展示になっているという。

 また「歴博」の民衆生活・環境。国際交流という3つの基調テーマ、そして多様性・現代的視点という2つの視点をもとに、中国・朝鮮や北海道・沖縄との関係を重視した展示になっていたのは、目新しい。

 「歴史時代」(有史時代)以前の歴史区分に、「先史時代」というのは昔からあった。しかし昔の学校教科書には「原始時代」と書かれていた。「原始」とは、人類の進化・発展段階において一番初期の段階で、文明社会に対する未開・野蛮というニュアンスもあった。現在は「原始」という概念は学術的には使われず、「先史時代」または「原史時代」などと呼ばれていて、改めて認識する。また「原始人」という表現も、アウストラロピテクス属などと人類の属名を用いて分類するように変わっているそうだ。

 また日本史の「古代」は、古墳時代または飛鳥時代から平安時代までとされていた。古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐっては、見解が分かれており、3世紀、5世紀、7世紀の各説があるそうで、今でもはっきりしない。「中世」は武士の時代と思っていたが、中世の初め、つまり「古代」の終りも様々な見解があるとは知らなかった。政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的な特徴が出現する11世紀後半(鎌倉時代の開始前)までというのが主流だそうだが、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)とする意見もある。「平安時代」を「古代」と「中世」のどちらに分類するかは、いまだに議論が分かれるそうだ。

2020年2月11日 (火)

城下町佐倉

 2020年2月1日(日)、城下町佐倉(千葉県佐倉市)を巡る。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」(・・・現在、公開準備中)の続き。

 

 千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行った後、市内の「佐倉順天堂記念館」、最後の佐倉藩主だった堀田正倫の「旧堀田邸」、武家屋敷「旧川原家住宅」、「旧但馬家住宅」と「旧武居家住宅」を巡る。

 

●佐倉市立美術館 (佐倉市新町、14:20~14:25)

 市の中心部にある「佐倉市立美術館」に行く。

 1918年(大正7年)建築の「旧川崎銀行(現・三菱UFJ銀行)佐倉支店」のエントランスホールを保存・活用した美術館。設計者は、矢部又吉。千葉県指定文化財(有形文化財)。写真は、ウィキペディア・コモンズから転載。

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 ここは浅井忠のほか、荒谷直之介、香取秀真、津田信夫など佐倉市と房総ゆかりの作家を中心に収蔵している、というので興味があった。

 受付に行くと、入館料800円と高い。常設展は無料のはず。よく見ると、2020年1月25日(土)〜3月22日(日)、2階・3階の展示室で企画展「メスキータ展」が開催中。メスキータは初めて聞く名前だが、19世紀末から20世紀はじめにかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーだそうだ。  

 館内は、1階がロビー、喫茶コーナーと売店。2階は、原則的には常設展示室。3階は市民ギャラリー。ただし、企画展の実施時には2階・3階は企画展の展示室となるようだ。4階はハイビジョンホール、映像による絵画紹介。

 企画展の開催中は、常設展はなし。美術館を諦め、「佐倉順天堂記念館」へ移動する。

 なお佐倉には他に、3年前に観覧した印刷インキのDIC株式会社が運営する「DIC川村記念美術館」や、日本刀を専門に展示する「塚本美術館」などの美術館がある。

 

●佐倉順天堂記念館(佐倉市本町、14:35~15:17)

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 記念館の冠木門(かぶきもん)をくぐると、庭には順天堂の創始者・佐藤泰然(たいぜん、1804-1872)の胸像がある。

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 武家屋敷・旧堀田邸・佐倉順天堂記念館の3館を見学できるお得な「三館共通入館券」540円を購入して入館。ガイドの案内で見学。

 長崎で蘭方医学を学んだ佐藤泰然は、1838年(天保9年)江戸で蘭医学の「和田塾」を開く。1843年(天保14年)に弟子の林洞海に「和田塾」を譲り、佐倉に移住し蘭医学塾兼外科診療所「順天堂」を創設する。

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 佐倉に移住したのは、蘭学を奨励していた佐倉藩主・堀田正睦の招きのよるものとされる。泰然は、町医から藩医となる。

 「順天」とは、中国古書にある「天道に順(したが)う」、つまり「自然の理に従う」の意味。

 泰然は進歩的で行動力に富んでいて、書物だけの知識ではなく実際の診療に役立つ技術を習得する教育を目指し、多くの優秀な近大医学の門人が育った。また天然痘の新しい予防法の導入に力を入れ、普及させた業績も評価されている。

 手術道具の複製。(原品は、順天堂大学所蔵) 

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 手術の様子。当時はまだ麻酔は使ってなかった。

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 「療治定」の複製模型。つまり治療別の料金表。現在の外科、眼科、産婦人科に相当する。

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 佐倉順天堂の復元模型。「順天堂」の業績は全国に知られるようになり、全国各地から医学を志す者が多く集まった。

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 泰然は1859年(安政6年)病気を理由に、家督を優秀な弟子で養子の佐藤尚中(たかなか、1827-1882)に譲り隠居する。

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 尚中は、1861年(文久2年)長崎に留学、オランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。明治維新後の1869年(明治2年)、政府から要請されて大学東校(東大医学部の前身)に出仕、大学大博士 (学長) となる。また明治天皇の侍医をつとめた。1872年(明治5年)辞職し、翌年東京下谷(したや)に「順天堂」を開き、1875年(明治8年)に御茶の水に移した。 (現在の順天堂大学 )

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●旧堀田邸 (佐倉市鏑木町、15:17~16:00)

 最後の佐倉藩主だった堀田正倫(まさとも、1851-1911)の「旧堀田邸」に行く。

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 「旧堀田邸」の玄関棟。

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 明治の建築様式を残した旧大名家の純和風の木造住宅。玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、2006年(平成18)に国の重要文化財に指定された。

 堀田正倫は、幕末の佐倉藩主で老中・堀田正睦(まさよし)の四男。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争により排斥されたため、家督を譲られて藩主となった。

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 1871年(明治4年)の廃藩置県により佐倉を離れ、東京に移住した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。

 明治23年(1890年)佐倉に戻って、私立の農事試験場を設立し農業の振興や、佐倉中学校(現在の県立佐倉高等学校)の教育発展に寄与するなど地域の振興に尽力した。

 ちなみに長嶋茂雄は佐倉市生れで、佐倉高校の出身でよく知られているが、女子マラソンの小出義雄監督も佐倉市の出身、順天堂大学を卒業して佐倉高校でも教鞭を執っていた事は、初めて聞く。

 展示されていた写真は「堀田家農事試験事務所」とその前庭。庭園を含む一帯は、「旧堀田正倫庭園」(さくら庭園)として、2015年(平成27年)に国の名勝に指定された。

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 「旧堀田邸」と「堀田家農事試験場」の模型。

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 「旧堀田邸」は、農事試験場の敷地を含めると3万坪もあったという。現在の「旧堀田邸」と「さくら庭園」の敷地は、その1/3ほどの広さ。

 座敷棟の客座敷。「旧堀田邸」の各棟の床の間の裏に、トイレ(雪隠)があるのは珍しいそうだ。

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 座敷棟の向かいは、先ほど通って来た玄関棟。

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 座敷棟から庭園に続く。

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 他に、居間棟(1階)を見学。居間棟の2階部分、書斎棟は非公開。

 近代化の波が押し寄せた時代、旧大名家の上級住宅の多くは洋風または和洋折衷であった。「旧堀田邸」のように純和風の旧大名家住宅は、全国で三例(他に松戸市の戸定邸(旧水戸藩別邸)、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸))のみとも言われている。豪商や豪農のように華美に流れず、質実堅牢な建築とされる。

  

●武家屋敷 (佐倉市宮小路町、16:13~16:35)

 「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」(国登録有形文化財)の3棟が公開されている。いずれも江戸時代後期の建築。城下町佐倉の面影を今に残す土塁と生垣の武家屋敷通りに面して、3棟が並ぶ。

 もともと「旧但馬家住宅」が、当時よりこの場所に建っていた。「旧河原家住宅」と「旧武居家住宅」が、それを挟んで移築されたという。

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  旧武居家住宅の裏手の駐車場に車を止め、武家屋敷通りを通って順路の旧川原家住宅に入る。

 

・旧河原家住宅(千葉県指定文化財)

 「旧河原家住宅」は、300石以上の藩士が住む大屋敷。

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 右手前は、井戸。

 

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 土間と畳縁(たたもべり)のない質素な茶の間。

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 「旧河原家住宅」は、市内に残る武家住宅の中で最も古いそうだ。

 座敷には畳縁がある。奥が客間。

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・但馬家住宅(佐倉市指定文化財)

 「旧但馬家住宅」は、100石以上の藩士が住む、規模は中屋敷。

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 「旧河原家住宅」に比べ、少し簡素な門。

 「旧但馬家住宅」だけが、もともとこの場所に建っていたもので、植栽や建物の形も当時のままだという。

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 垣根の左側は、菜園があったのだろうか。

 本物の甲冑が飾られていた。

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・旧武居家住宅(国登録有形文化財)

 「旧武居家住宅」は小知(しょうち)と呼ばれる藩士の小規模な屋敷で、門も更に簡素。小知とは少しの知行、わずかな扶持(ふち)のこと。

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 門が閉まっていて、「旧但馬家住宅」に庭から移動する。

 「旧武居家住宅」の建物は、良い写真が撮れなかったので、ウィキペディア・コモンズより転載。

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 移築・復元の時に茅葺き屋根だったが、維持の問題で銅葺きに変えられたそうだ。

 床の間に飾られた佐倉藩士の肖像写真。

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 移築復元の様子の写真や、出土した茶碗や皿など資料(写真にない)が展示してあった。

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 武家屋敷を後にして、16:45佐倉インターから東関東自動車道、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

・堀田正睦

 以前から、順天堂大学や順天堂病院の発祥の地が、佐倉というのは聞いたことがあったが、今回初めて詳しいことが分かった。蘭方医の佐藤泰然が佐倉に来た理由は諸説があるらしいが、堀田正睦が佐藤泰然を江戸から招聘したのは当然の事だろう。

 佐倉藩主で老中の堀田正睦は、老中首座の水野忠邦を補佐して「天保の改革」を推進したが挫折、忠邦と共に辞任する。正睦は、蘭学に傾倒して「蘭癖(らんぺき)」と称された。藩政改革を行い、藩校を拡充して蘭学の導入を図る。佐倉は関東の蘭学の拠点となり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた。

 老中に再任、老中首座を阿部正弘から譲られて開港問題でハリスと日米通商交渉に対処。朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。一方将軍の継嗣問題では、一橋慶喜を支持する一橋派であった。紀伊派(徳川慶福を支持)の井伊直弼が政治工作により大老に就任、正睦は老中を罷免される。家督を正倫に譲り隠居、佐倉城で蟄居(ちっきょ)を命じられる。1864年(元治元年)3月、佐倉城三の丸の御殿において死去。享年55歳であった。

 

・佐藤家の系図

 優秀な泰然の弟子だった佐藤尚中は、養子となって家督と「順天堂」を継ぐ。一般には実子を後継にしがちだが、優秀な弟子を養子とする選択は、尚中の後も続き順天堂を発展させる一因となったという。記念館には佐藤家の系図が貼ってあって、主な人物の業績がパネル展示されていた。

 佐藤舜海= 尚中の隠居後に養子となって3代目として「佐倉順天堂」を任され、病院の近代化を図る。後に東京鎮台佐倉営所の軍医。

 佐藤恒二= 舜海の三女の婿養子。舜海が亡くなった後「佐倉順天堂」の4代目院長となり、分院を設けるなど地域医療の拠点になった。

 林薫(ただす)= 泰然の5男。幕府医官の林洞海の養子。外交官として活躍、日英同盟を締結。その後外務大臣・逓信大臣を歴任。伯爵。

 松本良順= 泰然の次男。幕府医官の松本良甫の養子。近代医学に貢献、初代陸軍軍医総監、貴族院議員。男爵。

 佐藤進= 尚中の養子となり佐倉藩医。東京の順天堂医院で外科を担当、日本初の医学博士の学位。日清・日露戦争の陸軍軍医総監。男爵。

 佐藤志津= 尚中の長女で佐藤進と結婚。横井玉子らが創設し経営難となった私立「女子美術学校」(現・女子美術大学)を再建、校長となって発展させた。女子教育発展の功績により、津田梅子(父は佐倉藩出身の農学者・津田仙)らとともに勲六等宝冠章。

 

・佐倉の武家屋敷

 江戸時代の武家屋敷の多くは、藩が所有して藩士に貸し与えたという。身分、石高によって、屋敷の規模や様式が細かく定められていた。武家屋敷は、主に城下の主君の居所の周囲に形成された。

 基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は、藩主の居所の近隣に住むことも多かったが、一方身分の低い藩士は町屋や村に近い場所に住んでいた。佐倉の武家屋敷の身分の違う3棟が移築して並んでいるが、一般的には隣接することないようだ。

 石高の違う3つの武家屋敷の様式などを、比較して見られたのは興味深い。佐倉城は、石垣でなく土塁で守られているが、武家屋敷も土塁というのは、共通の理由があるのだろうか。

2020年1月30日 (木)

東急池上線沿線-その2

 2020年1月19日(日)、大田区の洗足・池上・馬込界隈を巡る新春ウォーク。本ブログ記事「東急池上線沿線界隈-その1」から続く。


 洗足池を一周したあと洗足池駅に戻り、11:39発の東急池上線で11:49池上駅下車。駅から北へ、「池上本門寺」に向かう池上本門寺通りを歩く。

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 駅から3分、蕎麦処「ますだや」で昼食(11:55~12:30)、天ざる1,000円。

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●池上本門寺(大田区池上) 12:36~13:30

 「池上本門寺」は、日蓮宗の総本山。日蓮聖が1282年(弘安5年)10 月13 日に、日蓮聖人が61歳で入滅(臨終)した霊跡。

・総門と此経難持坂

 「総門」(大田区指定文化財)をくぐる。江戸時代中期、元禄年間(1688~1704)建造。扁額の「本門寺」は寛永の三筆として著名な本阿弥光悦の書。

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 総門の先、加藤清正の寄進により慶長年間(1596~1615)に造られたと伝わる96段の石段「此経難持坂」(しきょうなんじざか、東京都指定史跡)を登る。名前の由来は法華経宝塔品「此経難持…」の文字数(96字)による。

・日蓮聖人説法像

 石段を登り切るとすぐ右手に、巨大な「日蓮聖人説法像」が建つ。1983年(昭和58年)に奉納されたもので、長崎・平和祈念像などで有名な彫刻家・北村西望の作品。

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 日蓮の著書『開目抄』の一文が、台座に刻まれている。

  我 日本の柱とならん
  我 日本の眼目とならん
  我 日本の大船とならん

・五重塔(重要文化財)

 本門寺仁王門の右手に「本門寺五重塔」がある。江戸幕府2代将軍秀忠の乳めのと母・岡部局(おかべのつぼね)の発願により、秀忠が1608年(慶長13年)に寄進した。関東に残る最古の五重塔。

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 高台にある「池上本門寺」の境内は、太田区立「池上会館」の屋上につながっていて、更にその屋上の展望台に上がる。

 北の方角は、「池上本門寺」の境内と五重塔。

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 南西の方角の川崎、横浜方面を遠望。眼下の左は、池上会館の屋上庭園と右手は区立「池上小学校」。

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・大堂(だいどう、祖師堂(そしどう))

 立派な大堂には、鎌倉時代の1288年(正応元年)に造立された日蓮聖人尊像、第二祖日朗聖人像、第三世日輪聖人像を奉安する。1964年(昭和39 年)再建。天井画「未完の龍」は、川端龍子(後述)の絶筆だそうだ。

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・本殿(釈迦殿)

 気がつかず、拝観せず。本師釈迦牟尼仏・四菩薩・祖師像を奉安する。1969年(昭和44 年)建立。写真は、ウィキメディア・コモンズより転載。

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・多宝塔(重要文化財)

 1831年(天保2 年) の日蓮聖人550 回遠忌(おんき、年忌のこと)を記念して、日蓮聖人御荼毘所(おだびしょ)跡(火葬に付された所)に建立。屋外に建つ宝塔形式の木造塔としては日本唯一の遺構。毎年10 月のお会式に、特別開帳が行われる。

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・大坊本行寺(だいぼうほんぎょうじ)

 日蓮聖人の御入滅の霊場で、有力信徒の池上宗仲の邸宅跡。東京都史跡。御臨終の間には、日蓮聖人がお寄り掛かりになった柱を格護している。毎年9月8 日に宗祖御入山会が行われる。

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 日蓮聖人に帰依しこの地の領主・池上宗仲が、法華経の字数に合わせて約7万坪の寺域を寄進、日蓮聖人の高弟・日朗聖人によって基礎が築かれた。以来、当山は東国における日蓮宗の中核寺院として発展、江戸時代には将軍や大名諸侯を始め広く江戸市民の信仰を集め、大伽藍が整備された。昭和20 年の空襲により大きな被害を受けたが、今に見る伽藍の復興が果たされたという。

 第二京浜国道の池上本門寺入り口交差点当たりに出て、右折し南馬込4丁目に向かって進む。
 

●熊谷恒子記念館(大田区南馬込) 13:55~14:30

 熊谷恒子(くまがいつねこ、1893-1986)の太田区立「熊谷恒子記念館」は、生前住んでいた自宅を改装、1990年(平成2)年4月に開館。

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 熊谷恒子は、京都生まれ。現代女流かな書の第一人者として活躍した。1986年(昭和61年)9月30日死去。93歳。日展審査員・評議員、大東文化大教授。勲四等宝冠章。記念館は、1936年(昭和11)年に建てた自宅の雰囲気をそのままに、恒子の書や蔵書を観覧出来る。(館内撮影禁止)

 「(臨書)寸松庵色紙」1945年(昭和20年)頃の作。「熊谷恒子記念館」パンフより。

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 馬込桜並木を通って、次の「龍子(りゅうし)記念館」へ向かう。

 
●龍子記念館(大田区中央) 14:31~14:54

 日本画の巨匠・川端龍子(りゅうし、1885 - 1966年)の大田区立「龍子(りゅうし)記念館」に入館。

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 龍子は、「健剛なる芸術」の創造を唱え、大衆に訴える作品を描き続けた日本画家。初め洋画を学ぶが、渡米帰国後、日本画に転じる。のち「青龍社」を主宰し、画壇の雄として名を馳せた。文化功労者、文化勲章受章。1966年(昭和41年)4月10日没、81才。

 《海洋を制するもの》1936年 「身体のありか」パンフ表紙(作品の一部)より。

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 造船所の職工を不動明王に見立て三尊形式(仏像の配置)で描いた。 

 《山葡萄》1933年 「身体のありか」パンフより転載。

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 やわらかな曲線で、豊満な女性の美を表した作品。

 展示室では、天井に届くような大画面に描いた迫力のある日本画作品に圧倒された。(館内撮影禁止)


●川端康成・石坂洋次郎解説板(大田区南馬込) 14:50

 環七通りに向かう途中で左折して、「臼田坂」を上る。

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 「臼田坂」の標識の裏には、「この坂の付近に「臼田」を姓とする人が多く住んでいた関係から、この名が起こったといわれている。」という説明が書いてある。「川端康成・石坂洋次郎解説板」は、「臼田坂」の途中にある。

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 環七通りの下をくぐり、池上通りを北上する。
 

●馬込文士村レリーフ 15:24~15:29

 JR大森駅の山王口前の池上通りは「八景坂」と呼ばれ、この坂の西側にある「天租神社」に向かう石段の石垣に「馬込文士村」に住んでいた文士たち43名のレリーフが設置されている。「馬込文士村」は、大正末期から昭和初めにかけて文士や芸術家が暮らしていた馬込・山王地域。江戸時代までは農村だったが、1876年(明治9年)に大森駅が開業により、東京近郊の別荘地として開発。明治の終わり頃、詩人や芸術家が住み始めた。この武蔵野の面影を残す風情を気に入り引っ越して来た尾崎士郎が、多くの人を勧誘したことにより一気に発展、文士村が形成されたという。

 その面々は「馬込文士村レリーフ」にあるように、小説家では石坂洋次郎、稲垣足穂、宇野千代、尾崎士郎、川端康成、倉田百三、高見順、広津和郎、村岡花子、室生犀星、山本周五郎、山本有三、吉屋信子。詩人の北原白秋、萩原朔太郎、三好達治。日本画家では川端龍子、小林古径をはじめとしたそうそうたる顔ぶれ。

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 文士村ではモボやモガ(モダンボーイ、ガールのこと)の時代、頻繁にダンスパーティ、麻雀、相撲などが行われていて、石垣にはそれらの様子が描かれた10枚ほどのレリーフとその説明板が並ぶ。

 「馬込文士村の時代、それは女性活躍の時代でもあった」と刻まれたレリーフには、左から片山広子、宇野千代、村岡花子、吉屋信子、佐多稲子。

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 石段の上の「天租神社」にお詣りして、池上通りへ戻る。

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 JR大森駅山王口の前を通り過ぎ、「大森貝塚」に向かう。

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●大森貝塚 15:34~15:40

 大森駅前から池上通りを300m程歩くと、「大森貝塚入口」の標識や案内板がある。

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 池上通りから右手(線路側)のNTTデータのビルとザ・山王タワーのビルの間の通路と階段を下りていくと、「モース博士と大森貝塚」の説明板。「大森貝塚」は、アメリカ動物学者モースによって発掘された。

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 狭いスペースに「大森貝墟」の石碑が建つ。

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 石碑は、崖の下にある。京浜東北線のあたりは、当時は海だったのだろうか。電車の中から、この石碑には気がつかない。

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 15:46大森駅へ戻る。15:50大森駅発、田町駅乗り換え、16:32池袋駅着。

 16:45~19:40、池袋駅東口の居酒屋で新年会。

 

 ★ ★ ★

■日蓮について

 日蓮と北条時宗を中心に元寇を描いた『日蓮と蒙古大襲来』(1958年公開、長谷川一夫主演、勝新太郎、市川雷蔵らが出演)という映画があった。子供の頃、父親にねだって一緒に映画館に行った記憶がある。実家は浄土宗であったが、何故日蓮を讃える映画を観たかったのか、よく覚えてない。製作の永田雅一(大映社長)は、熱心な日蓮宗信者だった。なお永田は、1979年に再び『日蓮』(萬屋錦之介主演)を制作している。

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 日蓮(1222-1282)は鎌倉時代、日蓮宗(法華宗)の開祖。安房国長狭郡(千葉県鴨川市)の漁村に生れる。11歳の時、当地の「清澄寺」に入り天台宗を学ぶ。16歳で出家し、20歳ごろから「比叡山」など各地へ修行し、既存宗派の教義に盲従せず、経典を基準に主体的な思索を続けた。やがて『法華経』にこそ、末法の時代を救う最高の経典であると確信。31歳の時、「清澄寺」に戻る。「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、自身の教えの説法を行ったが、受け入れられず「清澄寺」を去る。

 以後、日蓮と名乗り、日蓮宗(法華宗)を開き、鎌倉を中心に布教活動を行う。38歳の時、『立正安国論』を北条時頼に進言したが受け入れられず、その後、伊豆へ流されるなど苦難の日々を送る。伊豆から戻ってからも幕府や他宗派を批判、蒙古国書をめぐって片瀬竜ノ口(神奈川県藤沢市)で処刑されかけるが、寸前に助命されて今度は佐渡へ流される。この法難(弾圧)は、処刑寸前に雷光が起こり難を免れた奇跡として伝承された。52歳の時に赦免、その後「身延山久遠寺」(山梨県)を開山、唱題(題目を唱えること)と説法に一生を送った。61歳で死去。

 日蓮は天台宗の教えを踏襲、大乗仏教の代表的な経典『法華経』を重んじ、特に仏の教えは一つ(真理は一つ)、誰もが平等に仏となり得るという「一乗思想」と、永遠の生命そのものである「久遠実成(くおんじつじょう)」の仏への帰依を説いた。『法華経』は、聖徳太子の時代に仏教とともに伝来した大乗経典のひとつで、『妙法蓮華経』とも呼ばれる。日蓮は、『法華経』の題目「南無妙法蓮華経」の7文字をひたすら唱えることにより、すべての人を救済し、個人の悟りである「即身成仏」も、国家や社会の安泰である「立正安国」も実現できるとした。

 日蓮は、相手意見や誤りを徹底的に非難し、改宗させるという「折伏(しゃくぶく)」を積極的に行った。政治的・社会的関心が強く、幕政に批判的で、他宗派へも排他的だったので反発が多かった。『立正安国論』は、日蓮が説いた法華経の正しい教えに帰依することによって、この世の安泰が得られるという。天変地異は、誤った教えを信じているためであり、それらを正さなければ、内乱や外国の侵略が起きると訴え、幕府の政策は、国家の安泰の対策が不十分であると批判した。

 代表的著書 『開目抄』においては、日蓮とその門弟たちが弾圧され、死と隣り合わせの逆境の中で、法華経の信奉実践者が何故かくも受難するのかとの自問する。そして自らが法華経を布教する使命を担った「行者」であると決意。「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」は、日蓮の三大誓願として有名。

 そして流罪の5か月後の元寇(蒙古襲来)は、日蓮の予言通りだったとして人々は受け入れた。日蓮の教えは、日蓮自身の不屈の精神と献身的な実践が評価され、しだいに民衆に広がっていった。

■熊谷恒子について

 現代女流かな書の第一人者として活躍した熊谷恒子は、美智子皇太子妃(現上皇后)にご進講されたことでも知られる。記念館は、1936年(昭和11年)に建てた自宅の雰囲気をそのままに恒子の優美な書を観覧出来る。周辺には庭を持つ日本家屋が多く、かっての馬込文士村 の雰囲気を偲ばせている。春夏秋冬それぞれの季節の作品展が行われ、作品約100点のほか、書道関係の書籍などを収載している。

 熊谷恒子が書の道を志したのは、35歳ごろだという。京都の名家・江馬家から銀座鳩居堂の支配人・熊谷幸四郎に嫁ぎ、子どもの習字のついでに、自分も習うようになったのがきっかけだった。

 鳩居堂は、日本を代表する香と書道用具の老舗。生家の祖父は書家としても高名、父は書の愛好家。自ずと書の道を歩み始める。かな書を学ぶうちに、その元となった漢字を学ぶことも必要だと感じるや岡山高蔭に弟子入り、漢字を通してかな書への理解を深めた。こうして恒子の書は、豊かさと美しさを増していったという。

 「大田区立熊谷恒子記念館」パンフより転載。
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 熊谷恒子が用いたかな書の技法「散らし書き」は、散らす”かな”とともに現れる余白の美しさを表現した恒子の独特な技法。散らし方に法則は無く、平安古筆を基調とした和歌とその歌に秘められている叙情を読み取り、行の頭などを揃えず、また草仮名(万葉がな・ひらがなの原形)や平仮名(現在のひらがな)を混ぜたり、墨の濃淡、文字の大小、筆の太さや細さなどを固定せず、思いのままに散らして意気込みや心情を豊かに表現しているという。
 

■川端龍子について

 日本画家・川端龍子は、1885年(明治18年)和歌山市生れ。本名は昇太郎。10歳の頃で家族と上京。東京府立中学を中退して、白馬会などで洋画を学んだ。東京内国勧業博覧会や文展に油絵を出品。またこの前後に『国民新聞』に勤め、挿絵を描いて名を知られるようになった。

 1913年(大正2年)アメリカを旅行し、ボストン美術館で日本画の意義を自覚、帰国後は「无声会」 (むせいかい) に加わり日本画へ転向した。その後、再興院展にたびたび入選して頭角を現し、1917年(大正6年)に日本美術院の同人となった。しかし大胆な表現が異端視されるようになり、1928年(昭和3年)脱退。翌年「青龍社」を主宰して「会場芸術主義」を唱え、伝統的技法や奇抜な内容と豪放で動感に富む作風の大作で、常に画壇をにぎわした。「会場芸術主義」は、作品は床の間に飾るものではなく、会場に展示されて観るものという考え。

 帝国美術院会員や帝国芸術院会員に推されたがいずれも辞退、野にあって画業に専念。1962年(昭和37年)には、文化勲章受章と自身の喜寿を記念して、自作100点余を陳列する「龍子記念館」を東京大田区の自邸内に設立した。自身の設計で建てたもので、作品を展示する記念館と、道を挟んだ向かい側に「龍子公園」がある。公園に保存されたアトリエや旧宅も龍子の設計によるもの。武蔵野の風情を感じさせる庭園もある。

 1991年から大田区が区立「龍子記念館」としてその事業を引き継いでいる。約140点あまりの龍子作品を所蔵、多角的な視点から龍子の画業を紹介している。

2020年1月27日 (月)

東急池上線沿線-その1

 2020年1月19日(日)、東急池上線沿線、大田区の洗足・池上・馬込界隈をめぐる新春ウォーク。

 

 JR山手線の五反田駅から、東急池上線に乗りかえ。

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 五反田駅9:48発の蒲田行き、洗足池駅に9:54着。

 10:08、洗足池駅からウォーキング開始。

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 3分ほどで、勝海舟別邸「洗足軒」跡に到着。

●洗足軒(大田区南千束) 10:11

 江戸時代末期、鳥羽・伏見の戦いで敗れた江戸幕府は、官軍側の西郷隆盛と交渉するために、官軍が本部を置いていた「池上本門寺」へ勝海舟を出向かせた。その結果、江戸の町は戦禍に飲み込まれることなく、江戸城は無血開城した。

 海舟は本門寺へ行く際、通りかかった「洗足池」の景色にひかれ、のちに農学者・津田仙(津田梅子の父)の仲介で当地・千束村に土地を求め、1891年に別邸「洗足軒」を建てた。写真は、「洗足軒」跡の説明板。

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 「洗足軒」は茅葺風の民家であったが、戦後まもなく焼失。跡地は現在、大田区立大森第六中学校となっている。
 

●袈裟掛けの松(大田区南千束) 10:14

 「妙福寺(御松庵)」の山門をくぐる。

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 ここは、1282年(弘安5年)、日蓮聖人が池のたもで休憩した地。霊場として「御松庵」として開創されたという。身延山(山梨県)から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。

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 この言い伝えからこの松を「袈裟掛けの松」と称し、また千束池は「洗足池」とも呼ばれるようになったとされる。なお現在ある松は、3代目だそうだ。

 
●勝海舟記念館(大田区南千束) 10:20~11:00

 太田区立「勝海舟記念館」は、国有形文化財の「旧清明文庫」を保存活用し、昨年9月に開館したばかり、海舟にゆかりの資料が展示。

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 収蔵品は勝直筆の手紙、日記、印章、袴や大礼服など45点。特に幕府に軍艦建造などを説いた『海防意見書』の草稿、無血開城を巡って福沢諭吉と論争になった「痩せ我慢の説」の往復書簡、咸臨丸の航海日記などの史料を所有。

 2階へ進むと、貴賓室として使用された部屋には勝海舟の胸像。

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 2階展示室の全体の様子。正面のモニターでは、「東京はこうして生まれた」「洗足池の四季」「若き日の海舟」を放映。

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 別荘であった洗足軒のジオラマで晩年の暮らしぶりを紹介する。

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 勝海舟記念館として活用している旧・清明文庫の模型と当時の講演の様子。

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●海舟夫妻の墓、西郷隆盛の留魂詩碑(大田区南千束) 11:02~11:08

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 海舟は1899年(明治32年)9月に65歳で死去。洗足池やその周辺の形式を愛し、富士が見える処で眠りたいとの遺言で此処に夫妻の墓が置かれた。大田区文化財。

 海舟夫妻の墓所の隣には、海舟が西南戦争で逝去した西郷隆盛(南州)を悼み、3回忌に自費で建てた「南洲留魂詩碑」。

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 その隣には、海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑「南州海舟両雄詠嘆之詩碑」が建立されている。

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●洗足池(大田区南千束) 11:10~11:35

 「洗足池」は、江戸時代に歌川広重の名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』にも描かれた水辺の景観の面影を今も残す。ウィキメディアコモンズから転載。

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 池の広さは都内屈指の湧水池。春は桜、秋には紅葉でにぎわい、渡り鳥の楽園。ボート乗り場、散策スポットとして勝海舟夫妻の墓所、南州留魂碑、徳富蘇峰の詩碑ほか、池月橋、水生植物園のほか、名馬池月像などがある。

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 水生植物園の遊歩道。

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 千束八幡神社の傍に建つ「池月号の像」。「池月」は源頼朝が所有していた馬の名前。頼朝がこの地に泊まっていた際、突如現れた美しい馬を気に入り、「池月」と名付けて愛馬としたという。

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 三連の太鼓橋「池月橋」を渡って、池をほぼ1周。

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 上野公園の不忍池にもいたが、海にいる白いカモメが淡水の池にも多く飛来しているは不思議な気がする。

 11:35洗足池駅に戻り、11:39発の東急池上線で11:49池上駅下車。

 

 本ブログ記事「東急池上線沿線界隈-その2」へ続く。

 

 

 ★ ★ ★

■勝海舟記念館について

 「勝海舟記念館」は、大田区が「旧清明文庫」の建物(国有形文化財)を整備して、2019年(令和元年)9月7日にオープンしたばかり。

 「清明文庫」の創設は、東洋思想や仏教思想を普及させる団体として知られていた1920年(大正9年)設立の財団法人「清明会」が、1923年(大正12年)10月に勝海舟の没後使われなくなっていた「洗足軒」を、清明会の講堂として譲り受けたことに始まる。翌1924年には「清明会」が勝家から別邸の隣の土地の寄贈を受け、勝海舟の遺蹟保存とゆかりの図書を蒐集し公衆の閲覧に供えることを目的として、「清明文庫」が設立され、1928年に講堂兼図書館である建物が完成した。

 戦後の1954年、建物は学習研究社のものになり「鳳凰閣」という名前になった。2012年(平成24年)には大田区が所有、勝海舟の業績を顕彰する記念館整備事業が行われ、「勝海舟記念館」として開館した。

 なお勝海舟の生誕の地は、両国小学校のそばの「両国公園」の中で、「勝海舟生誕の地」の石碑がある。次のブログ記事を参照。

 「両国・お茶の水界隈-その1」 2015年1月29日投稿 
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/125-f2e1.html

 

■名馬「池月」について

 伝承によれば、平安末期の1180年に源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉に向かう途中で、千束郷の大池(現在の「洗足池」)の近く八幡丸の丘(現在の千束八幡神社のことか?)に宿営した。或る月明の夜にどこからか一頭の駿馬が陣営に現れ、家来たちがこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体はたくましく、その青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかったので、これを「池月」と命名し頼朝の乗馬としたという。

 京都・宇治川の合戦(1184年)で敵の矢が降り注ぐ中、頼朝の重臣・佐々木高綱が渡川の先陣を争い、この時に高綱が頼朝から拝領して乗っていた馬が当地出身の「池月」だった。この地の付近に「馬込(まごめ)」という地名があるが、古来から馬の育成が盛んな所で、名馬を輩出したらしい。

 高綱は、軍功により筑後国の鯵坂(あじさか)庄に所領を賜り、名馬「池月」とともに住んだ。3年後に鎌倉幕府の命によって、息子・利綱と池月をこの地に残し鎌倉に帰った。利綱も父の意思を継ぎ、名馬「池月」を我が子のように大切にし、領民たちもこの名馬「池月」をこの上もなく愛し、領地をかけめぐる「池月」を仏の再来として信仰した。名馬「池月」が死亡すると、その遺体を当地(現小郡市八坂)の塚に葬り「名馬池月塚」と称したという。

2020年1月22日 (水)

葛西臨海公園と若洲臨海公園

 2020年1月17日(金)、「葛西臨海公園」の水族園と東京ゲートブリッジを望む「若洲臨海公園」に行く。

 

 10:30、最寄り駅前をバスは参加者14人を乗せて出発。11:45、「葛西臨海公園」第1駐車場に到着。ここに来たのは、7年ぶり。

 12:20、公園内の「葛西臨海水族園」に入園。天気は晴れていて、歩くと少し汗ばむくらい。この日の東京の最高気温は、11℃。

 次の写真の中央の円形部分が水族園の本館、下のの建物はチケット売り場。ウィキペディアコモンズから転載。

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 「空の広場」の「ガラスドーム」から入館。

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 「空の広場」からは、南の方角の東京湾を望む。左手にかすかに東京湾アクアラインを遠望。

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 東の方角、江戸川の河口を挟んで「東京デズニーリゾート」が見える。

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●「大洋の航海者 イワシとサメ」のエリア

 ガラスドームからエスカレータで2Fに下りると、サメとイワシの水槽

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●「大洋の航海者 マグロとカツオ」のエリア

 マグロとカツオの水槽。

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●「世界の海」エリア 

 太平洋、インド洋、大西洋、カリブ海、深海、北極海・南極海に分けて展示。

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 ニューヨークからカリブ海、ブラジルまでの西部大西洋熱帯、温帯域に棲息するグレーエンジェルフィッシュ(ネズミヤッコ)。 

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 シロガネアジ(アジ科、英名:ルックダウン)は平べったくて、光の加減で魚の肌は金属のように光る。

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 水槽の下でじっとして目玉だけを動かす魚。名前は分からない。

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 子供に人気のクマノミ。

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 紅海、西インド洋に生息するイエローバー エンゼルフィッシュ。

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 ペルシア湾を除くインド洋、太平洋、紅海に分布するクマカイ。一般的な全長は190cm。最大の全長270cm、最大体重は400Kgもあるそうだ。

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●「ペンギンの生態」エリア

 フンボルトペンギン、オウサマペンギン、イワトビペンギン、フェアリーペンギンの4種を屋外で飼育。

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 水の中を勢いよく泳ぐフンボルトペンギン。

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 人の指先に興味を示すペンギン。

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 ペンギンの行列。

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 水槽のアクリルガラスを清掃するダイバー。

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 子供たちが驚いて反応する。

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●「東京の海」エリア

 浮遊する水クラゲは、照明が幻想的な雰囲気を作る。

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 13:55~、セルフサービス方式のレストラン「シーウィンド」で遅い昼食。一番人気メニュー「鮪カツカレー」(880円)を注文。

 14:20、水族園の外に出てメインストリートを海の方へ向かうと、展望レストハウス「クリスタルビュー」。陽が傾くにつれ曇り空。

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 展望広場から南側の海の方を望む。右手の塔は、「葛西臨海公園」と「葛西海浜公園」(西なぎさ)を結ぶ「葛西渚橋」。対岸は「若洲海浜公園」、「東京ゲートブリッジ」が見える。

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 15:25、「葛西臨海公園」の駐車場を出て、15:40「若洲臨海公園」の江東区公園駐車場へ到着。

 「若洲臨海公園」から「東京ゲートブリッジ」を望む。

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 ブリッジを染める夕焼けや、ブリッジの向こうに沈む夕陽を見たかったが、雲が厚くて残念。この日の日の入りは、16:52頃。

 暗くなった17時頃、ライトアップが始まるが、そろそろ帰る時刻。

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 17:05、「若洲臨海公園」を後にして、19:05、出発地に帰着。

 

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  「葛西臨海公園」 2012年9月17日投稿

    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-cd94.html

  

 

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●葛西臨海公園

 「葛西臨海公園」は、江戸川区に所在する東京湾に面した都立公園。東京都建設局が所管する。園内には日本有数の水族館や大観覧車があるほか、鳥類園やバーベキューなどを楽しむことができ、行楽地として賑わっている。面積は約81万平米で、上野恩賜公園(53万平米)や新宿御苑(58万平米)より大きい。公園は、次のゾーンから成る。

「水族園ゾーン」は公園中央部東寄り、「葛西臨海水族園」がある。

「鳥類園ゾーン」は公園東部、広大な森の中に「上の池」(淡水)と「下の池」(汽水)があり、「ウォッチングセンター」のほか野鳥観察の施設が点在。

「芝生広場ゾーン」は公園西北部、宿泊施設「ホテルシーサイド江戸川」、「蓮池」、日本第二の大きさの大観覧車がある。大観覧車付近には「芝生広場」、その南側には「バーベキュー広場」がある。

「汐風の広場ゾーン」は公園南西部~南中部の海に面し、丘の上にはガラス張りの展望レストハウス「クリスタルビュー」があり、海を一望。

 水路を隔てて隣接する人工島「葛西海浜公園」には人工干潟「西なぎさ」があり、「葛西渚橋」で渡ることができる。 初夏は潮干狩り、夏には水遊び、元旦は早朝に開放され初日の出参拝客でも賑わう。「東なぎさ」は、鳥類保護のため立ち入り禁止。

 

●葛西臨海水族園

 「葛西臨海水族園」は、1989年(平成元年)に開園。ペンギンがいるが、イルカもアシカのショーもない。ドーナツ型の大水槽で悠々と泳ぐ大量のマグロが有名。マグロを群泳させているのは、日本でも世界中でも、この水族園しかないそうだ。

 2014年11月以降に原因不明のマグロの大量死があり、ニュースとなった。約160匹いた魚たちは2015年3月には1匹になってしまった。ウィルス感染、照明設備、水槽の清掃・浄化、水槽壁への衝突等の調査が行われたが原因究明には至らず。水族園では専門家との協議の結果、マグロ遊泳復活に向けて効果があると思われる複数の対策をとり、まず2015年3月にアカシュモクザメ、4月にタカサゴ、5月にハガツオ21匹とスマ29匹と、段階的に種類の近い魚を入れて水槽内の環境を確認した。

 そして2015年6月に全長80~90cm、体重10~13Kgのクロマグロ約80匹を水槽に投入。現在、2014年以前に近い態勢に戻っているが、以前のような大量死の傾向は見られない。2016年4月に「葛西臨海水族園」は最終的な調査結果を発表、大量死は単一の要因によるものではなく、直接的・間接的な複数の要因が重層的・複合的に作用したという見解を示した。

 「大洋の航海者 マグロとカツオ」エリアは、ドーナツ型の2,200トン水槽。1階、2階がつながった巨大水槽だが、イワシとサメとは別の水槽。クロマグロ、スママグロ、ハガツオ、オキザヨリ、シノノメサカタザメ、イタチザメを展示。「アクアシアター」と名づけられた空間には、ゆったり見られるよう座席が設けられている。

 残念ながら、この水族園の目玉のマグロ水槽を撮るのを失念した。よって以下の写真を掲載する。

  マグロのアクアシアター。ウィキペディアコモンズ(2007/11/24)より転載。

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 本ブログ記事「葛西臨海公園の夕陽」 2012年12月12日投稿(2012年12月8日撮影)より転載。

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●若洲海浜公園

 「若洲臨海公園」は、東京都港湾局所管の海上公園。江東区若洲三丁目にある。ゴルフ場、ゴルフ練習場、海釣り場、キャンプ場、サイクリングロード、貸し自転車、ヨット訓練場などのレジャー施設がある。

 2006年(平成18年)4月より、公園一部のキャンプ場、貸し自転車、多目的広場などの部分が港湾局から江東区に移管され、江東区立「若洲公園」となった。

 「葛西臨海公園」と「若洲臨海公園」のいずれも、東京湾岸におけるゴミの埋立地である。

 

2019年12月17日 (火)

映画「決算!忠臣蔵」

 2019年12月11日(水)、映画『決算!忠臣蔵』 を観る。

 
 東京大学史料編纂所教授・山本博文の著書『「忠臣蔵」の決算書』 は、2012年11月16日に新潮新書として刊行された。
 
 2019年11月22日 、『決算!忠臣蔵』のタイトルで劇場公開。年の瀬の国民的ドラマ「忠臣蔵」を題材に、限られた予算の中で仇討を果たそうとする赤穂浪士たちの奮闘を描いた時代劇コメディ。中村義洋監督、主演は堤真一と岡村隆史。
 
 映画『決算!忠臣蔵』のポスター。

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 時は元禄14年(1701年)3月14日。清廉・潔白な播州赤穂藩主・浅野内匠頭(阿部サダヲ)は、かねてから賄賂まみれで横柄な高家筆頭の吉良上野介の態度に据えかね、江戸城・松之廊下で斬りかかる。通常であれば喧嘩両成敗となるはずが、吉良にはお咎めなし。即日、浅野家お取り潰しと内匠頭の切腹が決まり、突然にも赤穂藩士たちは路頭に迷うこととなる。今で言えば、優良企業の倒産事件。威勢のいい者たちは、裏方の地味な仕事を軽んじるが、実際の仕事には役に立たず右往左往する。
 
 筆頭家老・大石内蔵助(堤真一) は、勘定方・矢頭長助(岡村隆史) の地道な力を借りて、財源の確保と残務整理に努める。やがて幕府への取次も虚しく、お家再興の思いは絶たれてしまう。浪人となった赤穂藩士の一部や、江戸庶民たちは、吉良への仇討ちを熱望する。しかし、討入りするにも多額の予算が必要。しかも討ち入りのチャンスは、1回だけだ。

 勘定方は、軍資金およそ800両(現代に換算して9,500万円)を溜め込んでいた。討入りか、討入らないのか、迷っているうちに予算はどんどん減っていく。果たして赤穂の浪士たちは「予算内」で、「仇討ち」という大プロジェクトを無事に「決算」することができるのだろうか。
 
 
 ★ ★ ★

 元禄時代の「赤穂事件」を題材とした人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎を始め、近代・現代でも講談、浪曲、演劇、映画、テレビドラマ、小説など、色々な解釈や視点、脚色を入れた多くの「忠臣蔵」が創られてきた。しかし、本作品のように「予算」をテーマにして描いたものは、かつてなかったと思う。

 原作は、小説ではなく「元禄赤穂事件」の一級史料を読み解いた『「忠臣蔵」の決算書』。実際に大石内蔵助が残した決算書を基に、「討ち入り」のための金の動きと人の動きを解説したものだが、映画はそれをコメディとしてドラマ化した。
 
 原作の山本博文著『「忠臣蔵」の決算書』の表紙。(映画鑑賞の同日購入)

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 中村義洋監督が時代劇を撮るのは、『殿、利息でござる!』(2016年)、『忍びの国』(2017年)に続き今回で3作目、コメディ時代劇に定評があるという。出演は、堤真一、岡村隆史、阿部サダヲのほか、濱田岳、横山裕、妻夫木聡、荒川良々、竹内結子、石原さとみ、西川きよし、大地康雄、木村祐一、西村まさ彦、橋本良亮、寺脇康文、上島竜兵、堀部圭亮、山口良一、鈴木福、千葉雄大、滝藤賢一、笹野高史と豪華キャスト。

 最近の松竹の時代劇映画は、『武士の家計簿』(2010年)、『武士の献立』(2013年)、 『超高速!参勤交代』(2014年)、 『殿!利息でござる』(2016年)、 『引っ越し大名!』(2019年)など、史料データを基にした作品が出てきて面白い。

 新潮新書『「忠臣蔵」の」決算書』の帯。

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 映画のエンディングロールで、企画・配給は「松竹」だが制作幹事として「松竹」と「吉本興業」の名前が並んで出て来る。なるほど、吉本興業の芸人が何人かが出演している。 

 コメディで、ボケ・つっこみの漫才調だ。 台詞は、すべて現代語の関西弁というか大阪弁。内蔵助の奥方・りく(竹内結子)は良いとしても、 江戸詰め赤穂の侍も、そして江戸から出たことのないはずの浅野内匠頭の正室・瑶泉院(石原さとみ)も関西弁なのはおかしい。赤穂といえば兵庫県の西部、関西には違いないが、この地域には播州弁というのがあるらしいが・・・。

 討ち入りのイメージのシーンは出てくるが、実際の討ち入りの場面がない忠臣蔵。しかも松の廊下も浅野内匠頭だけで、吉良上野介はスクリーンには出てこない。

 城の明け渡しに「籠城だ!」、主君の仇に「討ち入りだ!」と声高に叫び、戦う事しか脳がない「番方」(武官系)たち。それでいて元禄の時代、彼らは実戦経験などはない。ふだんは彼らから下に見られている「役方」(文官系)の勘定方(財務担当)が言い返す。
 
 「銭の勘定できん侍は、何をさしても”でくの坊”」

 勘定方の矢頭長助の息子は、矢頭右衛門七(えもしち、朝ドラ「なつぞら」の鈴鹿央士)。討ち入りした中で、大石内蔵助の息子・主税(ちから、子役で有名な鈴木福)の次に若い。父親が亡くなった後、母妹の世話に苦難したことで知られる。右衛門七は、主税と仲が良い。父親同士の長助と内蔵助は、同年齢で幼なじみという設定。二人の身分や石高は、月とすっぽん。しかし幼なじみのせいか、長助は家老の内蔵助にズケズケものを言う。

 矢頭長助は史実でも、赤穂城の明け渡し後も大石内蔵助のもとで藩政の残務処理にあたった。残務処理が終わった後、矢頭一家は大坂の堂島へ移ったが、この頃から父は病に冒され寝たきりになった。その後は17歳の右衛門七が、父親の代理として同志グループに加わる。長助は元禄15年(1702年)8月、討ち入りを待たずに病気で亡くなっている。しかし映画では、討ち入りに反対する浅野家親戚筋の刺客に、内蔵助と間違われて駕籠の中で殺されてしまう。

 昔から日本人は「滅びの美学」、「忍耐のドラマ」、「アンハッピー・エンド」が好きだ。日本人のDNAなのか、そんなドラマに心に響き、共感を得る。「源義経」、「楠木正成」、「赤穂浪士」、「真田幸村」、「白虎隊」・・・。外国人には、理解しにくいストーリーだ。 しかしイギリスには、「フランダースの犬」という悲しい物語のがある。
 
 吉良邸討ち入りを明日未明に控えた日(元禄15年12月14日)、大石内蔵助は降りしきる雪の中、赤坂の南部坂上にある亡き主君の正室・瑶泉院が居る三次浅野家邸を訪れる。「討ち入りの日時の定まりしことか?」と問われて答えず、瑶泉院を怒らせてしまう。この「南部坂雪の別れ」の場面は、創作だ。

 実際は、内蔵助は討ち入り費用の使途明細帳である11月29日締めの『預置候金銀請払帳(あずけおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)』 と手形(領収書)を12月14日に使いの者が届けているが、その宛名は用人の落合与左衛門殿となっていてる。

 また内蔵助が討ち入りのため、立花左近(または垣見五郎兵衛)になりすまして江戸に下る「大石東下り」の場面も、創作だそうだ。これらの場面は、この映画『決算!忠臣蔵』には出て来ない。



 ★ ★ ★

 史料『預置候金銀請払帳』 (箱根神社所蔵)の表紙。映画『決算!忠臣蔵』のパンフレットから転載。
 
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     元禄十五年 
   預置候金銀請払帳 
        大石内蔵助
     午 十一月

 討ち入り費用総額は、映画では800両、現代の価値に換算して9,500万円。しかし新書『「忠臣蔵」の決算書』では700両、(約8,400万円)とある。映画が100両多いが、何故だろうか。映画では大石が討ち入りの前、瑶泉院のもとに決算書を持って行くが、お目通りはかなわず、用人の落合与左衛門にこの決算書を渡す。しかし内蔵助が帰った後、決算書の入っていた小箱の中から100両の現金が出て来る。それは浪士の子供たちの助命嘆願のための資金という「落ち」だ。瑶泉院の働きもあって、島流しとなった子供たちは、わずか3年で帰宅が許されたという。

 新潮新書『「忠臣蔵」の」決算書』によると、預り金(収入)総額は金貨に換算して691両。支出総額は、697両1分2朱。不足分約7両1分は、内蔵助が私費で支払いをしたと書かれている。江戸時代の貨幣制度は、金(小判=一両、一分金、二朱金)、銀(丁銀、豆板銀)、および銭(寛永通宝の銅貨)という基本通貨が流通した。それらの換算がややこしくて、現代人にはピンと来ない。

 金貨、銀貨と銭貨の間には両替商により、互いに変動相場で取引された。ほかに藩札などの紙幣も地方で流通していたが、全国で通用しなかった。金貨の通貨単位は両、小判1両=4分=16朱。重さ不定の丁銀と豆板銀は、天秤で目方を定めて通用する通貨で、通貨単位は重さの単位である貫(かん)、匁(もんめ)および分(ふん)が用いられたが、500匁毎に和紙で包んだ包銀として用いられることが多かったそうだ。

 銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分。金貨と銀貨の換算率は日々変動していたが、元禄時代のこの請払帳では、1両=銀56匁としている。銭は、百文として麻紐に通した96文=銀15匁。
 
 決算書に書かれているの入金(軍資金)の内訳は、複雑なので省略するが、大まかには次の2つである。

 ①化粧料・・・ 瑶泉院の嫁入りの時の持参金(化粧料)を赤穂の塩問屋に貸し付けていたが、お家取り潰しのため元金を引き上げ、瑶泉院に返金した残りを拝領した。
 ②藩の余り金・・・ 藩の財産をすべて処分し、藩士への割賦金(退職金)を払った残り。
  
 一方、支出の内訳(金に換算)は、割合の高い順に並べると次の通り。

 ①旅費・江戸逗留費・・・・・ 248両(35.6%)
  上方~江戸の宿泊費他の旅費総額は、1人片道3両(30万円)ほど。
 ②生活補助費・・・・・・・・・・ 132両1分(19.0%)
  生活に困窮した同志たち(主に下級武士)への生活補助費。 
 ③仏事費・・・・・・・・・・・・・・ 127両3分(18.4%)
  京都瑞光に内匠頭の墓を建立し山を寄付した100両の他、法事費用。 
 ④江戸屋敷の購入費・・・・・・ 70両(10.1%)
  同志の宿舎(アジト)にするため古屋敷を購入、後に火事で焼失。
 ⑤御家再興の工作費・・・・・・ 65両1分( 9.4%)
 ⑥討入り装備費・・・・・・・・・・・ 12両( 1.7%)
 ⑦会議通信費・・・・・・・・・・・・・ 11両( 1.6%)
 ⑧その他・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31両1分2朱( 4.2%)

 旅費・滞在費と生活費補助の①と②を合わせ、50%を超える。米価換算で1両は、現代で約12万円。支出総額は8,400万円ほどになる。
 
 映画では赤穂の火事装束が、ある場所に保管されていて人数分の討ち入り装束の購入経費が助かったとある。忠臣蔵の討ち入り時の火事装束は、歌舞伎の世界で創作されたものだそうだ。実際は、黒い小袖を着用し、股引・脚絆・草鞋(わらじ)という出で立ちとする申し合わせだったようだ。装束は赤穂浪士のそれぞれ個人によって異なっていたが、全体的には薄黒い色で、火事装束に似ていたものだったらしい。
 
 先立つお金がなければ、忠義だけでは討ち入りは達成できなかった。『決算!忠臣蔵』では、コメディとはいえ内蔵助や勘定方が、いかにお金に苦労したかがよくわかる映画だった。

2019年12月14日 (土)

比企・奥武蔵の紅葉スポット

 2019年12月6日(金)、埼玉県の比企、奥武蔵地域の紅葉スポットを巡る。
 

●岩殿観音正法寺(東松山市)10:00~10:40
  
 正法寺は、真言宗智山派の寺院。山号は巌殿山(いわどのさん)。坂東三十三箇所の十番札所で、「岩殿観音」の通称で知られる。
 
 寺伝によれば718年(養老2年)、 沙門逸海が岩殿山の岩窟に千手観音を安置して開山。鎌倉時代に源頼朝の命で比企能員が復興。頼朝の妻・北条政子の守り本尊と伝わる。能員が北条時政のために自害をせまられて死去すると、その嫡子時員は追手を逃れて出家し、この寺を守ったという。1591年(天正19年)に、徳川家康から寺領25石の朱印地を与えられる。

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 境内の大銀杏の黄葉まだこれから。

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 樹齢700年を超える大銀杏は、市指定文化財天然記念物。

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 大銀杏は周囲は11mあり、埼玉県内でも最大級の大きさ。江戸時代には「養老木」と呼ばれ、安産・子育守護の対象として信仰された。

 境内の周りの石崖には、四国八十八ヶ所の写本石仏が安置。四国八十八ヶ所を参拝したのと同じ御利益が得られるのだそうだ。

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 観音堂は、寛永・天明・明治と3度の火災に見まわれ、現在の観音堂は明治12年に高麗村(現在の飯能市)の長念寺から移築されたもの。

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 観音堂の本尊である千手観音菩薩座像(室町時代の作とされる)は秘仏のため、厨子の扉は閉ざされ、普段は脇に控えた写本尊を拝む。午年に御開帳があるという。 

 参道からの石段の途中にある「巌殿山」の額を掲げた仁王門。右手に本堂があり、長い石段の先に観音堂がある。ガラスの中の仁王像は、運慶作とされたが江戸時代に焼失し、文化年間に再建されたもの。

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 物見山(標高135m)の山腹の急傾斜地を切り崩したような場所にあり、山寺の雰囲気が漂う。仁王門から延びる表参道の両脇には家が建ち並んでおり、かつての門前町の面影を残す。現在、寺の裏手には県道212号線が通っているため、正法寺への参拝者も表参道よりも、この県道から観音堂へ来る人がほとんど。

 

●東郷公園秩父御嶽神社(飯能市)11:50~12:45
 
 公園や境内の美しいモミジやカエデは、埼玉県でも有数の紅葉の名所。 

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 11月15日~30日が「もみじまつり」。期間中の入山料100円、駐車場500円。前夜祭11月23日(祝)、本祭は24日(日)に行われたようだ。

 「もみじまつり」が終わり、カエデやモミジの紅葉は盛りを過ぎている。

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 秩父郡坂石(現:飯能市坂石)の百姓庄吉の長男の鴨下清八は、久保新衛門、井上頼圀に師事して国学を修め、17歳のとき母の危篤で木曽御嶽の信徒となって修行。母が平癒したため、その神徳を深く信じた。

 清八は、1894年(明治27年)に「秩父御嶽(おんたけ)神社」を創建。信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その分霊を祀る御嶽信仰の神社。生涯を賭して、東郷公園として整備した。

 公園の名前となった東郷元帥の銅像が建つ。

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 清八は日露戦争後、東郷平八郎元帥の精神を普及させようと銅像の建立を発案し募金を行い、何度も元帥の自宅を訪れ銅像建立の許可を求めた。当時は、元帥の徳を慕い銅像建立の許しを願う者が後を絶たなかったが、元帥は断じてこれを許すことはなかった。清八は、元帥と親交のある陸軍予備役・堀内文次郎中将を通して説得。ついに元帥の銅像が完成、1925年(大正14年)4月17日の除幕式には東郷元帥のご臨席を仰ぎ、堀内中将、衆議院議長、海軍幹部らが参列した。 

 秩父御嶽神社の境内は1万5千坪、 東郷元帥像が建てられてからは「東郷公園」と呼ばれている。公園内にはほかに、乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省から下賜された記念品、乃木神社、東郷神社が点在する。 

 東郷元帥が乗っていた戦艦「三笠」のロシア戦艦から攻撃を受けた被弾甲板。

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 公園内は迷路のような坂道、やっと秩父御嶽神社への長い石段をみつける。

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 この石段を登るには、相当な覚悟は必要。 紅葉も終わっているし、右手の坂道を上り、急階段を登ると秩父御嶽神社の「祈祷殿」。

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 この辺りには、洋風の別荘のような「至誠館」、小さな祠の「乃木神社」、日本海海戦の古びた絵が掲げてある殺風景な「東郷神社」がある。

 ともかく、山自体が公園(境内)、参道は急な坂道、石段が続き、体力勝負。公園内に植えられたモミジやカエデは、春の新緑時期(4月上旬)、秋の紅葉時期(11月中旬)には、多くの参拝客が訪れるという。

 飯能の市街地へ下りて、「ガスト飯能店」にて昼食。 




●天覧山能仁寺(飯能市)14:25~15:20

 仁王像が建つ山門から境内に続く参道のモミジ・カエデの紅葉は、ここでも盛りが過ぎている。
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 天覧山(標高197m)の南麓に建つ「能仁寺」の創建は、室町時代中期。飯能地方の領主・中山家と黒田家の菩提寺となり、江戸時代には将軍家の庇護のもと栄華をきわめたという。1868年(慶応4年)の「飯能戦争」の本陣となり建物と多くの宝物や古文書が焼失している。
 
 1936年(昭和11年)に本堂が再建、1976年(昭和51)年から復興を続け、現在では山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成している。

 山門からの石灯籠が並ぶ砂利道の参道は風情があり、秋の紅葉の頃は撮影スポットで有名だそうだが、すでに葉は枯れていて残念。広大な境内は、手入れが良くゆきとどいている。本堂の北庭には桃山時代(1573~1615)の造園とされ、市の指定文化財の日本名園百選の「池泉鑑賞式逢庭園」(本堂拝観料300円)があるそうだ。

 能仁寺の本堂。
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●武蔵丘陵森林公園(滑川町)16:45~18:00

 12月1日(日)で「紅葉見ナイト」は終わり、6日(金)から「スターライト・イルミネーション」が始まる。

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●追記

 1週間前(11月29日)の武蔵丘陵森林公園の「紅葉見ナイト」

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2019年11月28日 (木)

会津若松と須賀川

 2019年11月20日(水)~21日(木) 、会津若松市と須賀川市をめぐる1泊2日のバス旅行。


 11月20日(水)、7時45分に出発したバスは、参加者22名を乗せて東北道へ。天気は晴天だが、冬型の気圧配置により冷え込みが厳しいとの予報。いつもより厚手の服を着込んで来た上に、これまでの旅行と違って小さめバスで、車内は少し窮屈な感じ。

 東北道から福島県の磐越道を西へ走る頃、外気温は5~6℃。一時、灰色の雲が空を覆ってみぞれが降り出し、やがて雪がパラパラ。

 

●猪苗代地ビール館(12:10~13:00)

 12:00猪苗代ICを降り、猪苗代湖の湖畔、雄大な磐梯山を望む煉瓦造りの「猪苗代地ビール館」に12:10到着。

 2階のレストランで、美味しい地ビールを頂きながら昼食。

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 「猪苗代地ビール館」の向こうは、雪をかぶって雲に覆われた磐梯山。

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 「猪苗代地ビール館」の1階は、「猪苗代お菓子館」。同じ敷地に「世界のガラス館」がある。

 猪苗代湖畔を走る国道49号線を走り、会津若松市内に入る。
 

●飯盛山(13:45~14:15)

 飯盛山は、会津若松市中心街から北東に位置する。飯盛山の入口付近のお土産屋の駐車場に到着。

 長い石段と並行する「動く坂道」(スロープコンベア、250円)を利用して、13:45飯盛山の中腹にある「白虎隊霊場」へ。

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 この広場が、白虎隊自刃の地「白虎隊霊場」。

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 1928年(昭和3年)、白虎隊士を讃えてローマ元老院と市民からとして、当時のイタリア首相ムッソリーニから「白虎隊とイタリアのファシスト党とは、一脈相通じるものがある」と贈られた「イタリア記念碑」。

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 この石碑は、ポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱、上に青銅の鷲が羽を広げている。碑文には、”ファスケス”(古代ローマの権威を表す斧を複数の棒で束ねたもの)が4角にそれぞれ4本、更に鷲が1本握っていた。斧は武をあらわし、束ねた棒は団結を示す。第二次世界大戦後のアメリカ進駐軍に持ち去られ、碑文も削りとられて碑は倒されてしまった。1985年(昭和60年)、碑文だけは三代目墓守の飯盛フミの代に復元された。

 「イタリア記念碑」の右手には、白虎隊精神を賛美して1935年(昭和10年)に寄贈された「ドイツ記念碑」もある。

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 この地に来て、白虎隊士の行動に感動したドイツ大使館フォン・エッツドルフが、寄贈した。石碑には、ナチスのマークとドイツ語で「会津の若き少年武士に贈る」と刻まれている。こちらも進駐軍より碑文とマークを削られ撤去を命ぜられたが、当時の二代目墓守が自宅に隠し、1953年(昭和28年)に同じ場所に戻された。

 戊辰戦争時、自刃や討ち死にした武家の婦女子230名余の霊を慰める石碑の「会津藩殉難烈婦碑」。

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 この慰霊碑は、1928年(昭和3年)元白虎隊士で東京帝大総長を務めた山川健次郎らの篤志家によって建てられた。

 「白虎隊十九士の墓」に黙礼。今も線香を手向ける人も多いという。

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 飯盛山に落ち延びた白虎隊20名の中でただ一人生き残った飯沼貞吉の墓のほかに、藩主・松平容保の弔歌の碑、白虎隊碑、白虎隊観音などもある。

 展望台から、会津若松市内を一望。

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 下の写真中央、鶴ヶ城(会津若松城)を望遠レンズで撮影。

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 白虎隊は、城下の煙と炎に包まれた鶴ヶ城を見て、いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶っていったという。

 飯盛山の広場から石段を降りると、らせん型の「さざえ堂」がある。

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 この「さざえ堂」の正しい名称は、「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)。1796年(寛政8年)に飯盛山正宗寺の第12世郁堂和尚(いくどうおしょう)によって建立、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂。階段のない螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築様式で、国の重要文化財に指定されている。高さ16m。

 さざえの殻に似ていることから俗に「さざえ堂」と呼ばれるが、江戸時代後期の東北~関東地方に多く見られた。現存するこのような建物は、全国に数カ所以上ある。

 白虎隊が抜け道に使った「戸ノ口堰洞穴」。

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 天保年間に会津平野の灌漑用水として猪苗代湖より通水した洞穴。戊辰戦争の折、白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴を潜った。現在でも農業や工業用水に使われている。

 飯盛山の麓には、白虎隊を中心に戊辰戦争や会津藩に関する武具・調度品・写真・絵図などの資料を展示している「白虎隊記念館」や「白虎隊伝承史学館」があるが、入館せず。

 

●鶴ヶ城(14:30~15:50)

 飯盛山の麓の土産屋で買い物・休憩後、「鶴ヶ城」とも呼ばれる「会津若松城」までバスで10分ほど。

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 城内に掲げられていた「会津藩十の掟」の看板。

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 「鶴ヶ城」の本丸広場から天守閣を望む。 

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 戊辰戦争で損傷した鶴ヶ城は、1874年(明治7年)までに天守をはじめとする建造物は総て解体された。三の丸の一部に陸軍練兵場が設置されたが、本丸、二の丸、三の丸の一部や付属する壕などは保存された。第2次大戦後、1960年(昭和35年)までに本丸は現在の形状に復旧。1965年(昭和40年)には、鉄筋コンクリート造による天守閣が復興された。

 天守は通常の黒の瓦を使用していたそうだが、瓦が寒さで凍み割れてしまうことから、江戸中期頃に耐性のある赤瓦が使われるようになったという。前回ここに来たときは、黒瓦だったような気がする。2010年(平成22年)の改築により、写真のような解体以前の赤色の瓦に葺(ふ)き替えられた。

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 天守閣の内部内部は、「若松城天守閣郷土博物館」として公開されている(入場料410円)。戦国時代の芦名氏、伊達氏、蒲生氏から江戸時代の保科・松平氏までの歴史資料が展示されていた。館内は撮影禁止。

 天守閣から、雲に隠れた磐梯山(左手、標高1816m)と右手の丸い小山が飯盛山(314m)。

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 国道118号線を南下し、会津若松の奥座敷、阿賀川の渓流沿いの芦ノ牧温泉「丸峰観光ホテル」に16:20到着。

 紅葉を眺めながら天然温泉で疲れを癒やし、18:00からお楽しみの大宴会。

 

 

 翌21日(木)、9時出発。肌寒いが、朝からいい天気。周囲の山々は中腹までは紅葉、山頂付近の木々は柔らかな白い綿をまとったようで、霧氷だろうか。11月下旬のこの地方の季節は、晩秋というより、もう初冬だ。

 

●円谷英二ミュージアム(10:55~11:40)

 バスは東北道を南下し須賀川ICを降り、福島県須賀川市の立派な「須賀川市民交流センター」(愛称Tette)に入館。

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 この施設の設立目的は、市民の生涯学習の推進、市民活動の支援、市民交流を促進。東日本大震災により甚大な被害を受けた市街地中心部に賑わいと活気を取り戻し、震災からの創造的復興の実現を図るとしている。昨年7月竣工、今年1月に開館。 

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 須賀川市は、東日本大震災によって甚大な被害を受け、市内の全壊家屋のうち約半数が市街地中心部に集中、市庁舎や総合福祉センターをはじめ多くの公共施設も使用不能となった。市街地の再生・活性化は、震災復興の最重要課題の一つであり、新たな公共施設としてこの市民交流センターが整備されたという。

 この建物の5階に、「円谷英二ミュージアム」がある。

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 今年1月にオープンしたばかりのミュージアムは、4つのコーナーに分かれている。一部を除き撮影禁止だったのは残念。

 「円谷英二クロニクルボックス」コーナーでは、ゴジラやウルトラマンなど「特撮の神様」と称された円谷監督の68年間の足跡をパネル、映像や造形物を展示。

 「特撮スタジオ」は、多くの作品を手がけた東宝撮影所の特撮スタジオでの撮影風景をミニチュア模型で再現。

 「空想アトリエ」では、子供たちへの学びの大切さを伝えるため生物学、機械学、環境学、天文学などのテーマの関連図書と、そのテーマに関連付けた怪獣「モスラ」、「へドラ」のフィギアや兵器などメカ模型を展示。

 特に、高さ2m、重さ100キロの初代ゴジラのスーツ(着ぐるみ)は、ミュージアムの目玉。

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 モニターに、自分の顔の宇宙人が現れる。

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 「円谷英二ネットワークウオール」には、パーツを組み合わせオリジナルの怪獣をスクリーンに作る「クラフトかいじゅうだいこうしん」。 

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 11:55~12:00、須賀川市内の寿司店「あづま」で昼食。

 この後、直売所でリンゴを買った方が安いということで果樹園の予定を変更、12:50~20分ほどJA直売所「はたけんぼ」に寄ってリンゴ購入。

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 午後1時過ぎ須賀川を後にして、帰路へ。16:40出発地の駐車場に、予定より20分早く到着。

 今回の旅行は、参加人員が少ない場合は諸費用の面で中止という前提で計画された。22名の参加を得て開催出来、寒い日だったが天気に恵まれた楽しい研修旅行だった。

 

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  映画「シン・ゴジラ」 2016年10月 3日投稿
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 ★ ★ ★ 

●白虎隊と三国同盟

 慶応4年・明治元年~明治2年(1868年~1869年)の戊辰戦争で、会津藩では15歳~17歳の少年340名余りで『白虎隊』を編成した。その中でも士中二番隊は、会津藩校の日新館に学ぶ中でも優秀な隊であった。彼らは明治元年8月、戸の口原での戦いで決定的な打撃を受け、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。

 だがこの山から眺めた城下の煙と炎に包まれた鶴ヶ城を見て、いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶ったという。戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために、明治政府は白虎隊の遺体をそのまま放置しておくよう命じた。この場所で風雨に晒される少年たちの遺体は酷い状態で、不憫に思った当時の山主の飯盛正信は、村の有志らと夜な夜な骨を拾い集め、飯盛山の広場の一角に仮埋葬した。しかし、このことが新政府軍に知られ、遺体は掘り起こされ元の場所へ投げ捨てられ、正信らは処罰された。白虎隊の埋葬許可がおりたのは、後の明治2年のことだったという。

 一般に白虎隊は鶴ヶ城周辺の火災を目にして、落城したと誤認してしたとされている。しかし、生き残った飯沼貞吉が生前に伝え残した手記によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うか、敵陣に斬り込んで玉砕するかで激論となるが、いずれにせよ敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、武士の本分として自刃したという。

 「イタリア碑」と「ドイツ碑」の2つの碑は、第2次世界大戦で日本と三国同盟を結んだ国から、白虎隊の武士道に対する賞賛だった。碑には、ファシスト党紋章やナチスのマーク(ハーケンクロイツ)が刻まれているは、違和感がある。10年以上も前だったろうか、この地を訪れた時は、何故かこれらの碑に気がつかなかった。改めてこの碑を見ると、戦前には白虎隊が武士道=軍国主義として利用されたことがよくわかる。

 「白虎隊記念館」前にある白虎隊の碑、ウィキメディア・コモンズから転載。

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 山本八重(後の新島八重)の生涯を描いたNHK大河ドラマ『八重の桜』は、2013年1月~始まった。会津藩の砲術指南の山本家に生まれ、会津の女として育った八重は、鶴ヶ城から新政府軍に対し最新のスペンサー銃を撃つ。その年には、テレビ東京の新春ワイド時代劇『白虎隊~敗れざる者たち』(2013年1月2日)や、NHK歴史秘話ヒストリア『妻たちの会津戦争~反骨の家老 西郷頼母と家族の悲劇~』(2013年6月19日)が放映され、視聴した。

 新政府軍の侵攻が迫り、城下は早鐘が鳴らされた。家老・西郷頼母の妻・千重子は、夫と長男・吉十郎の入城を見送った後、家族・親類一同を居間に集める。「女子供は足手まといになる、自刃して国に殉じる」として、幼い子供は自らの手で刺し、家族・親戚の婦女子一同が自害したという。飯盛山にあった「会津藩殉難烈婦碑」を観て、ドラマのこの悲劇のシーンを思い出した。

 
●蘆名氏(芦名氏)から会津松平家まで

 戦国時代になって会津地方で勢力を広げた蘆名(あしな)氏は、もともと桓武平氏系統の三浦氏から興った相模国三浦郡蘆名(現在横須賀市芦名)の氏族・蘆名氏だった。芦名氏、葦名氏とも表記されるようだ。「芦」は、「蘆」の字を簡略にしたもので同じ漢字。

 「蘆(芦)」と「葦」は、いずれも同じくイネ科の植物の「アシ」のことで、植物的にはアシの穂が出たものが「葦」で、穂がで出てないものが「蘆(芦)」だそうだ。蘆名氏、芦名氏、葦名氏は、時代によって表記が違うとか、諸説があって資料でもまちまち。よくわからないが、どれも正しいようだ。現代では、「蘆」という漢字はほとんど使われてないが、植物のアシは「葦」、「芦」は芦川や芦屋などと名字や地名によく使われている。
 
 蘆名氏は、仙台の伊達氏と長年争っていたが、伊達政宗は豊臣秀吉の制止を聞かず蘆名義広を攻め滅ぼした。しかし政宗はその後、秀吉に臣従したため会津を取り上げられ、蒲生氏その後上杉氏と替わる。徳川の天下になると、西軍に付いた上杉は退けられて、再び蒲生氏。その後加藤氏が入封するも改易され、三代将軍家光の異母弟・保科正之が23万石で入封する。保科家は、その後明治維新まで会津松平家(保科を改名)として鶴ヶ城を居城とした。
 

●円谷英二とゴジラ

 写真は、ウィキメディア・コモンズから転載。

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 円谷英二は、20世紀が始まった1901年(明治34年)、当時の福島県須賀川町の麹屋を営む商家に生まれた。円谷少年は、絵を描くがうまく、模型作りが好きで、飛行機乗りに憧れた。「日本飛行学校」に入学するも飛行機事故があって休校になり、飛行機乗りの夢は破れる。東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)に入学、この頃玩具会社で玩具考案や発明の委嘱や特許収入で学費を稼ぐ。

 1919年(大正8年)18歳、ひょんな事から映画会社の人と知り合い、薦められて映画界に入る。やがてカメラマンとして活躍。撮影手法や撮影機器や映画セットを工夫し、映画は次々に大成功する。一方他のカメラマンたちは、円谷の先進的な撮影技術には冷ややかだった。1933年(昭和8年)アメリカ映画『キングコング』の試写を観て、この特撮に大きな衝撃を受け、その撮影技術を分析・研究する。

 1939年(昭和14年)38歳、陸軍の依頼で航空学校の教材映画を制作するが、やがて特撮技術を使った戦意高揚映画を次々に制作・企画する。戦後は公職追放によって戦争映画に加担したとして、映画界から退職・失職する。1952年(昭和27年)公職追放解除。

 1954年(昭和29年)53歳の時、日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』を制作。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たった。満を持して公開された『ゴジラ』は、空前の大ヒット。

 1954年公開の『ゴジラ』のポスター、ウィキメディア・コモンズから転載。

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 円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞。1955年(昭和30年)54歳、『ゴジラの逆襲』で、世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。その後、『地球防衛軍』『宇宙大戦争』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などなど・・・、怪獣・SF映画において特撮技術を監督。1963年(昭和38年)62歳、東宝の出資を受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立する。

 1966年(昭和41年)65歳。テレビ特撮番組『ウルトラマン』の放映開始。変身する巨大ヒーローは、さらに怪獣ブームとなって広がった。これらのヒットによって「円谷英二」の名は、子供から大人まで全国隅々にまで知れ渡ることとなり、以後日本の特撮に多大な功績を残した「特撮の神様」になっていく。1970年(昭和45年)逝去、享年68歳。

 「円谷英二ミュージアム」は、ゴジラ、ウルトラマン、怪獣や特撮などのマニアにとっては、夢のような場所である。須賀川市の町おこしにはもってこいであるが、東日本大震災の復興事業の一つとしても、市外・県外からの来館者もあってすばらしい。

 英二の死後、特撮映画をめぐる環境は大きく変化している。現在はフルCG(コンピュータ・グラフィックス)で製作されるようになった。CGやVFXといった技法が多用され、現実ではあり得ないリアリティのある、より鮮明な映像を作り出すことができるようになった。テレビで、人間が着ぐるみ入ってミニチュアの都市の中で暴れ回っていたウルトラマンや怪獣にはあまり興味がなかったが、初代の頃のゴジラ映画はとても懐かしい。

2019年11月20日 (水)

映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」

 2019年11月18日(月)、映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を観る。

 

 明治時代、近代日本で初めての女性医師・荻野吟子の苦悩と愛、闘いの生涯を描いた伝記映画。主演は若村麻由美、共演に山本耕史。ほかに賀来千香子、佐野史郎、柄本明らが出演。メガホンをとったのは、『石井のおとうさんありがとう 岡山孤児院石井十次の生涯』、『筆子・その愛 天使のピアノ』、『母 小林多喜二の母の物語』など、87歳の山田火砂子(ひさこ)監督。「現代ぷろだくしょん」制作。劇場公開は、2019年10月26日から。

 株式会社「現代ぷろだくしょん」は、俳優集団からスタートした独立系の映画製作会社。五社協定がなくなった後も独自の製作・配給活動を続けてきた小規模の映画会社。社会派の作品が多い。山田典吾(てんご)が1951年に創設し、代表取締役、監督。舞台女優だった妻の火砂子は、映画プロデューサ、監督、山田典吾の没後、代表取締役を兼任。

 「一粒の麦」とは、新約聖書「ヨハネ伝」第12章で、地に落ちることによって数多(あまた)の実を結ぶと説いたキリストの言葉から、人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人、またその行為をいう。

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 1851年(嘉永4年)、武蔵国幡羅郡俵瀬村(はらぐんたわらせむら、現在の埼玉県熊谷市俵瀬)の名主の五女として生まれた荻野吟子は、幼いころから聡明で、勉強好きだった。しかし、女に学問はいらないと隣村(上川上村)の名主・稲村家の長男・貫一郎と17歳(1868年、慶応3年)で結婚。そこで夫から性病(淋病)をうつされると、今度は子どもの産めない嫁はいらないと実家に帰されてしまう。

 地元の医師の紹介で、大学東校(後の東京大学医学部)の付属病院に入院。生死をさまようほどの病状だった。入院中、この無情な現実に泣いた吟子は、女医の必要性を痛感し、自分自身が女医となる決意をする。 19歳(明治3年)で離婚、故郷に戻って本格的に学問を始める。

 儒学者・寺門静軒が妻沼村(熊谷市妻沼)に開塾した「両宜塾」を継承した松本萬年に師事、22歳で上京して国学者・井上頼圀の私塾「神習舎」に入る。その翌年には女性私塾の助教として甲府に赴くが、休校となり東京に戻る。明治7年(24歳)、女性の教育養成を目的とした「女子高等師範学校」(後の「東京女子師範学校」、「お茶の水女子大」の前身)に一期生として入学。明治12年(28歳)同校を首席で卒業、女医を目指すため医学校への入学を希望した。

 医学校は、当時は女人禁制とされ断られたが、男装して私立医学校「好寿院」で医術を学ぶ。男子学生の女性差別やいじめに耐え、31歳で優秀な成績で卒業する。医術開業試験の願書を幾度となく提出するも、女医は前例がないとことごとく却下される。決して諦めずに支援者の協力を得て、内務省衛生局長・長与専斎を紹介され面会。日本の古代にも女医がいた文献があることを資料にし、紹介状に添えたともいう。ようやく、女性の受験が認められた。

 明治18年(1885)34歳の時、医術開業試験に合格、女性として初めて医籍に登録された。同年、東京本郷で「荻野医院」を開業。この頃、キリスト教婦人矯風会に参加する。婦人参政権、廃娼運動など女性解放のための運動に熱心に取り組んだ。

 明治23年(1890)、同志社の学生で新島襄から洗礼を受けた13歳年下の敬虔なキリスト教徒・志方之善(しかたよしゆき)と、周囲の反対を押し切り再婚する。明治24年(1891)、岐阜県の濃尾大地震では、娼婦として売られる女子の孤児たちを保護するために立ち上がった石井亮一(日本の知的障害児福祉の創始者、石井筆子の夫)に賛同し、「荻野医院」を子供たちのために開放、自らも孤児たちの世話を行った。

 写真は、映画『一粒の麦』のパンフから転載。

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 志方は、理想郷インマヌエル(北海道今金町)開拓のため吟子を残し、単身で北海道に渡る。明治27年(1894)、吟子は医院を閉めて志方のいる未開地インマヌエルに入植して同居、夫とともにキリスト教の理想郷を目指す。この頃、夫の姉夫婦が乳児のトミを残して死去したため、吟子はトミを養女にする。

 しかし理想郷建設は、困難を極め様々な事情で撤退を余儀なくされた。吟子は瀬棚(函館市せたな町)で医院を開業するが、志方は同志社に再入学して神学を学び、北海道に戻って 浦河教会の牧師になるなど、吟子とは別居の生活が続いた。しかし明治38年、志方が41歳で病死する。この時、吟子54歳。

 吟子は、夫の死後しばらく北海道に留まっていたが、熊谷の9 つ年上の姉・友子のすすめで、明治41年57歳で帰京。東京・本所で再び医院を経営、友子と養女トミと晩年を過ごした。大正2年(1913年)、脳溢血で死去。友子やトミ、親戚に看取られて波乱多き一生を閉じた。62歳だった。葬儀は本郷教会で行われ、親戚・友人や吟子を尊敬する若き女医たちが見送った。墓は、東京・雑司ヶ谷霊園に建てられている。

 

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 荻野吟子の肖像写真。ウィキメディア・コモンズから転載。

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 ★ ★ ★

●埼玉県の三偉人

 荻野吟子は、塙保己一、渋沢栄一とともに、埼玉ゆかりの三偉人として知られている。塙保己一(はなわほきいち、本庄市児玉町)は、江戸時代の国学者で、『群書類従』『続群書類従』を編纂した。全盲で鍼灸を習ったが不器用で実家に戻され、国文学の分野を学んだという。渋沢栄一(深谷市)は、日本資本主義の父と呼ばれ、多くの企業設立や教育に貢献。2021年に放送されるNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公に、また新一万円券の肖像に決まった。

 

●小説・テレビ・舞台

 荻野吟子の生涯を題材にした渡辺淳一の小説『花埋み(はなうずみ)』が1970年に発表された。1971年に大空真弓主演のテレビドラマが制作され、ポーラ名作劇場(ANN系列)で放送された。山本陽子が1980年、舞台『花埋み』を主演。三田佳子が1998年、舞台『命燃えて』で主演した。

 その以前の1964年4月~1965年9月、NHK総合でオムニバスのテレビドラマ「風雪(ふうせつ)」が放送されたが、その第29話「女医記」が1964年10月29日、小山明子の主演で荻野吟子が取り上げられている。また、NHK歴史秘話ヒストリア「あなたを助けたい~女医第1号 荻野吟子の恋~」が 2013年11月20日放送された。

 

●山田火砂子監督

 最高齢の女性監督としても知られる山田火砂子監督は2007年(平成19年)、江戸末期から昭和初期にかけて女性教育や障害児教育に尽力した石井筆子を描いた映画『筆子 その愛-天使のピアノ』を制作する際、筆子と親交があった吟子の偉業に触れ、強く興味を持って荻野吟子の映画化構想を温めていたとのこと。本映画では、筆子の夫で知的障害教育の石井亮一や内務省衛生局長の長与専斎も描かれている。

 山田監督は、「荻野吟子が、みんなに反対された志方との恋がなかったら、女子医大の3つや4つ作っていただろう。でも志方がいなかったら、吟子の人生はあまりにもかわいそうな人生だったろう。」と語っている。また「世の女性に対して、女性としての生き方を考えるきっかけにしてもらいたい。荻野さんの志に触れて何か感じてもらえれば」と話している。

 吟子が、夫に病気をうつされず、離縁されずに幸せな結婚生活を送っていれば、女医1号の誕生はもっと後の時代になっていただろう。吟子が、東京で医療活動や社会運動を続けたなら、社会はもっと進んでいたかもしれないと思う。2 度も結婚した荻野吟子の生涯は、実に波瀾に満ちたものであった。

 

●女性医師

 江戸時代末期から明治にかけて、西洋医学を学んだ初めての女医(産科医)として、シーボルトの娘・楠本イネがいた。医術開業試験がなかった頃には、女性の医師がほかにも何人か開業していたそうだ。荻野吟子は初の国家資格を持つ女医である。彼女が医術開業試験に合格した頃、イネはすでに57歳。イネは受験を諦め、産婆として活躍したという。

 現在、6万7千人の女性医師がいるが、全医師で女子の割合はおよそ2割。先進国の中では、非常に少ない方だという。昨年、東京医科大学が女子受験生の入試結果を減点して、女子の合格者数を3割以下に抑えようとしていたことが、明らかになった。同大学では、2010年の一般入試合格者数で女子が約4割となったことから、女子受け入れの総量規制が始まったと言われている。現在でも、根深く女性差別の問題は残っている。

 日本女医会は、荻野吟子の偉業を称えて、1984年(昭和59年)に、「荻野吟子賞」を設置したという。
 

●順天堂医院

 夫から病気をうつされた吟子は、上京して診察を受け入院する。映画の中では、「順天堂医院」の看板が掛かった赤煉瓦の病院だった。「順天堂医院」に入院という資料もがあるが誤りで、正しくは「大学東校」(現在に東大医学部)だそうだ。「順天堂医院」が東京神田に開院したのは、1973年(明治6年)、湯島に移転したのが1875年(明治8年)。吟子が入院した時期とは合わない。

 

●文部科学省選定

 本映画は、「文部科学省」選定、「カトリック中央協議会広報」推薦とある。後援には、日本赤十字社、日本医師会、日本女医会、日本看護協会、キリスト教団体、労働団体、社会福祉団体、埼玉県熊谷市、群馬県千代田町、北海道せたな町などなど数多くの団体名が並ぶ。

 そうか、子供も見られるような映画に仕立ててあって、物語や台詞がどこか小中学校の学芸会的、いや舞台演劇のような感じがする。ストーリーがやや平板で、山場や感動シーンが無かったのが残念。しかし、荻野吟子の波瀾万丈の生涯を知るには、とても良かった。

2019年11月 2日 (土)

台風19号と日本スリーデーマーチ

 2019年10月12日(土)午後から、埼玉県内では台風19号の大雨による避難勧告・避難指示が発令。河川の氾濫などによる甚大な災害が発生した。
 


●台風19号の進路

 マーシャル諸島近海で生まれた台風の卵は、5日3時に熱帯低気圧に発達。6日3時には南鳥島近海で台風(1,000hPa)となって、気象庁は第19号を付番、アジア名をハギビス(Hagibis)と命名された。台風19号は、平年よりも高い海水温の領域を通過しながら急速に発達し、猛烈な勢力(中心気圧915hPa)に発達した。

 勢力を維持したまま小笠原諸島に接近し、10日21時に非常に強い勢力となり、12日19時前に大型で強い勢力(中心気圧は955hPa、最大風速は40m/s) で静岡県伊豆半島に上陸。その後は関東地方と福島県を縦断し、13日12時に三陸沖東部で温帯低気圧に変わった。

 【気象庁】台風19号の進路。12日19時頃、伊豆半島に上陸。

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 台風19号の特徴は、北上しても低い中心気圧の勢力を保ったままであったこと、強風域が本州の半分以上を覆うほどの大型であったことである。その理由は、日本より南方沖の海水温が27℃以上(平年より1℃~2℃高い)もあって、水蒸気を多く取り込んで強力なエネルギーとなったためとされる。

 なぜ関東地方を直撃したのか。気象庁によると、太平洋高気圧が例年より強く張り出していて、その周囲を回るように台風が北上した後に、偏西風の影響で東に進路を変えたため。

 台風の接近により、静岡県、関東甲信地方、新潟県、東北地方では、各地の降水量が観測史上1位を更新するなど、観測記録を塗り替えるような大雨になった。これらの地域では、台風が上陸する前から活発な雨雲が断続的に生じ、広範囲で強い雨が降り続けた。

 気象庁は12日、まだ台風が上陸する前の15時30分、大雨特別警報を静岡県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、山梨県、長野県の7都県に対して発表。さらに、19時50分に茨城県、栃木県、新潟県、福島県、宮城県に、13日0時40分に岩手県にも発表した。半日で13都県での発表は、気象庁が特別警報の運用を開始して以来、最多の発表数となったそうだ。

 12日午後に会見した気象庁の予報課長は、台風19号の特徴について「台風の中心の北側に非常に発達した広い雨雲があり、記録的大雨となった」と説明した。台風の接近・上陸に伴い、東や南東からの暖かく湿った風が、関東の秩父、丹沢や伊豆半島、東北南部など山々にぶつかることで上昇気流が生じ、広い範囲で雨雲が次々と発生したという。


●台風19号の被害

 大型で強い台風19号は、各地で激しい雨を長時間降らせ、河川の氾濫による家屋の損壊・浸水や道路の冠水、土砂災害など広範囲な大きな傷痕を残した。神奈川県箱根町では、12日の降水量が922.5mmに達し、国内最高記録を更新した。

 荒川は、秩父山地を水源に埼玉県の中央部から東京都の東部を流れて東京湾に注ぐ一級河川。

 12日のNHK総合テレビ【ニュース7】では、国交省関東整備局の情報として埼玉県の荒川支流の都幾川(ときがわ) で水が堤防を越えて氾濫が発生した、とのニュースを全国に流した。その後は都幾川のほか、越辺川(おっぺがわ)や九十九川(つくもがわ)など荒川の複数の支流、複数の箇所でも氾濫した。

 【国土地理院】都幾川と越辺川の合流部付近の被災前と被災後(10月13日航空写真)。

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 【国交省関東整備局】荒川水系の都幾川右岸0.4k付近(10月14日ドローン写真)。

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 都幾川の灌漑用水路の破堤(10月14日筆者撮影)。

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 都幾川流域で、暴風によるものか氾濫した濁流によるものか倒れた大木を散見(10月14日筆者撮影)。

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 都幾川と越辺川の合流部付近、畳など片付けが済んだ集会場の内部(10月17日筆者撮影)。

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 都幾川と越辺川の合流部付近、被災ゴミの集積場(10月17日筆者撮影)。

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 知人2人が被災したため、両宅の土砂や災害ゴミの撤去、浸水した家財の片付けなど延べ4日間、災害ボランティアとともに支援を行った。

 

 その後、関東から台風が北上するにつれて、長野県、福島県などでも大規模な洪水が発生した。

 【国土地理院】長野市で発生した千曲川の破堤(10月13日ドローン撮影)。

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 【国土地理院】福島県郡山市の阿武隈川と手前を横切る東北新幹線(10月13日航空写真)。

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 台風の影響で、交通機関は相次いで、12日の計画運休を事前に発表。「ラグビーワールドカップ2019」では、12日の2試合、13日の1試合が中止となった。ラグビーワールドカップの試合中止は史上初。10月22日の「即位の礼」のうち祝賀御列の儀が11月10日に延期された。そのほか、各地の多くのイベントが、相次いで中止または延期された。

 政府は台風19号の10月11日~14日の被害を、「激甚災害」のほか「非常災害」に指定した。「非常災害」指定は、2013年に東日本大震災を受けて「大規模災害復興法」に基づく制度で、2016年の熊本地震に次いで2例目。

 なお台風19号の大雨により13都道府県で88人が死亡、7名が行方不明、7万7329棟の住宅被害があったという。国土交通省の調べでは、7県の71河川140カ所ので堤防決壊、20都県の690カ所で土砂災害が確認されている。このような台風通過による大雨で、東日本の極めて広範囲にわたる甚大な災害は、我々の記憶にはない。


●日本スリーデーマーチの中止

 2019年11月2日(土)~4日(月)に開かれる予定だった「第42回日本スリーデーマーチ」は、台風19号による影響のため中止となった。

 「日本スリーデーマーチ」は、東松山市、市教委、日本・県ウオーキング協会、県、朝日新聞社が主催。埼玉県東松山市を主会場には毎年延べ約8万人が参加する国内最大のウォーキング大会。3日間にわたって5キロから50キロまでの6コースから、参加者の体力に応じて歩く。

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 主催する東松山市のホームページ、10月18日付のお知らせによると、

 「コース各所での参加者の安全確保が難しいことから、大会の開催中止を決定いたしました。 開催地としても災害復旧に全力で取り組んでまいります。大会を楽しみにされていた方、関係する皆様にご迷惑をおかけすることをおわび申し上げます」とあった。

 各地で甚大な被害を出した台風19号の影響で、堤防の決壊による歩行コースの浸水被害などがあり、被災した開催地としても災害復旧に全力で取り組んでいきたいことから、中止としたようだ。中止となるのは今回が初めて。


 「ものみ・ゆさん」の日本スリーデーマーチ関連のブログ記事

  「日本スリーデーマーチ2018」 2018/11/8日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/2018-0edb.html

  「日本スリーデーマーチ2017」 2017/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-24a0.html

  「日本スリーデーマーチ2016」 2016/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-89c3.html

  「日本スリーデーマーチ2015」 2015/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

  「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-ba9a.html

  「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ba9a.html


 

 ★ ★ ★

 今年は長い梅雨、そして暑い夏がいつまでも続くと思ったら、台風が立て続けにやって来た。そして台風19号で、東日本の広範囲で甚大な台風被害が出た。その影響で、11月2日から開幕する「日本スリーデーマーチ」は中止。40数年開催してきて、中止になるのは今回が初めて。10年近く前から、筆者は毎年2日間を参加しているので、今年の3連休は家で過ごす。

 最近、秋が短くなったとか。いや全体的に気温が上がっているので、季節がずれてそう感じるだけだという。秋にも夏のような汗ばむ暑い日が続き、冬が昔ほど寒くなくなったと言われている。彼岸花が2週間も遅く咲き、9月に来る台風のコースが、今回19号として1ヶ月遅れの10月にやって来たということだ。

 10月29日付の朝日新聞オピニオン欄で「秋、短くなった?」という特集で、気象予報士の森田正光氏は「危機を感じる季節のずれ」と題し、「秋の始まりは遅くなっていますが、むしろ遅くなっているのは「冬」です。・・・このように季節が激変している原因は、おそらく地球温暖化にあります。」と述べている。

 温暖化の影響で近年、これまで経験したことのないとか、観測史上初といった気候の変化で、甚大な災害を生じさせていることが知られている。しかし日本で声高に叫んでいる叫んでいる政治家はいない。環境保護活動家のスウェーデン人少女が、ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットで気候変動問題について、各国の首脳は行動を起こしてないと怒りの演説を行った。核兵器や原発の廃止の問題、気候変動(地球温暖化)の問題は、「人類の叡智」を結集して解決する道はないのだろうか。将来の子孫のために、持続可能な地球、持続可能な社会がこのまま実現出来なければ、人類は滅亡するのか、原始時代に戻るのか、それとも「猿の惑星」になるのだろうか。

2019年10月28日 (月)

さくら堤の彼岸花

 2019年10月2日(水)、埼玉県吉見町の「さくら堤公園」へ彼岸花を見に行く。
  

 吉見町の「さくら堤公園」 は、もともと田園風景が広がる中を南北に延びる1本の堤防、そこに1977年~1978年(昭和52~53年)に当時の青年団が、ふるさと歩道の設置とともに約200本の桜の苗木を植栽した比較的新しい桜の名所。

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 一般的な公園のように広場や遊具があるわけではなく、長さ約1.8kmの桜堤の公園。

 春には桜、土手には菜の花。秋には一面に彼岸花が咲く。

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 堤の上には舗装された遊歩道が整備され、さいたま市の秋ヶ瀬公園と滑川町の武蔵丘陵森林公園とをつなぐ総延長46kmのサイクリングコースの一部となっている。

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 今年になって、さくら堤の西側土手と農業用水路の文覚川との間にも遊歩道が整備された。

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 3日後の5日(土)にもう一度行って見ると、盛りを終えて枯れている花が目立っていた。

 

 本ブログの関連記事は、以下の通り。

 「吉見さくら堤公園」 2017年4月14日投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-f28d.html

  

 「高麗の里山」 2015年9月10日投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-b75c.html

 


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 「彼岸花」の名前は、秋の”彼岸”の頃から開花することに由来する。稲作の伝来時に中国大陸から直接または間接的に、持ち込まれたものと考えられている。別名の「曼珠沙華」は、 古代インドのサンスクリット語の「赤い」の意で、manjusaka の音写。『法華経』などの仏典に由来し、「天上の花」という意味がある。

 彼岸花の群生は、この世のものとは思えない鮮やかな色で、我々を別世界へと誘う。しかし異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花、幽霊花、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)などと呼んで、日本では不吉な花と忌み嫌われることもある。

 

 

 埼玉県内に彼岸花が群生している有名な名所がいくつかあり、最近は観光客が押し寄せて大変混み合っている。

●埼玉県日高市の巾着田(きんちゃくだ)

 「巾着田」は、500万本もの彼岸花が咲き誇る国内有数の群生地。ここは、緩やかに蛇行する高麗川が巾着のように大きくカーブさせた場所にできた水田だった所。

 下の写真は、日和田山から望む「巾着田」(ウィキメディア・コモンズから転載)

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 直径約500m、面積約17haの平地の「巾着田」には、春の訪れとともに菜の花が一面黄色に染め、秋は群生した彼岸花が岸辺を真紅に染める。また10月上旬からは、巾着田の中央で約2haのコスモス畑も見頃を迎えるそうだ。

 下の写真は、「巾着田」に群生する彼岸花(ウィキメディア・コモンズから転載)

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 「巾着田」の最寄り駅である西武線高麗(こま)駅に臨時列車が停車すると、駅からは「巾着田」まで観光客の人波ができるほどだそうだ。高麗川沿いの群生地を真っ赤に染め、右手に川の流れを見ながら、林の中の遊歩道を散歩できる。

 今年の彼岸(秋分の日)は9月23日、26日が彼岸明け。「巾着田」の「曼殊沙華祭り」は、9月14日から29日。しかし、肝心の彼岸花が咲いたという声はなかなか聞こえない。

 10月2日(水)の朝日新聞埼玉版には、「巾着田曼珠沙華公園」では秋の訪れを告げる500万本の「赤いじゅうたん」が、見頃を迎えていると出ていた。今週いっぱいは楽しめる(5、6日ごろ)とある。今年は、長い梅雨の後に猛暑が続いたため、開花は例年より2週間ほど遅れたという。また公式facebook「巾着田曼珠沙華情報」によると、9月30日頃に全体的に見頃を迎えたそうだ。入場料は300円。

 

●埼玉県幸手市の権現堂堤

 「権現堂堤」は大正時代から関東でも桜の名所として有名だったが、1937年(昭和12年)頃より水仙や紫陽花、そして彼岸花も植えられ(現在は500万本)、四季を通じて花を楽しめる。この辺りは江戸時代から水郷で、利根川支流だった権現堂川は江戸川とつながっていて廻船問屋が多く集まっていたという。今では川は消え、堤だけが当時の面影を残している。

 春の「権現堂堤」(ウキメディア・コモンズから転載)

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●埼玉県横瀬町の寺坂棚田

 棚田の畦に100万本の彼岸花が咲く。県内最大級の棚田で、全体面積が約5.2ha、うち田んぼは約4ha。武甲山を中心に連なる秩父の 山々を背景に、初夏の田植、初秋には黄金の稲穂、秋には赤い彼岸花など、里山の風景が楽しめる。7月上旬土曜日には「寺坂棚田ホタルかがり火まつり」が開催。
 

●秩父市金室の荒川河川敷

 10月2日の朝日新聞埼玉版に掲載された新しい彼岸花名所。 6年前から地元の人たちによって河川敷に彼岸花を植栽、周囲を整備し、昨年から本格的な観光地スポットとして売り込み始めた。背景に、秩父市で有名な「秩父公園橋」が見える。

 

 

 全国の彼岸花の名所は、枚挙にいとまがない。講談社発行『週刊 花百科』2004.9.16号で、彼岸花の名所全国ベスト10というのがあるらしいが、あえていくつかの資料から、埼玉県以外の20名所をピックアップしてみた。彼岸花の名所は、昔から自生していた所のほか、最近では町おこしのため、地元の人たちが植栽したり移植した所も少なくない。

●宮城県大崎市古川の羽黒山公園

 「羽黒山公園」は、東北地方の中でも有名な彼岸花のスポット。公園内の丘、南側の斜面約5,000平方mに約15万本の彼岸花が赤じゅうたんを敷き詰めたように咲き誇る。

●栃木県鹿沼市の常楽寺

 「常楽寺」は、関東地方で花が有名な寺院を集めた『東国花の寺百ヶ寺』にも選ばれた花の名所。50mほどの距離がある参道の両脇には、真っ赤な彼岸花が咲き誇り、周囲の豊かな自然とのコントラストが美しい。

●長野県松川町の嶺岳寺(れいがくじ)

 「嶺岳寺」は、天竜川を望む高台にあるお寺。境内には約3万株の彼岸花が咲き、赤色のほかに白色や黄色い彼岸花も楽しむことができる。

●東京都青梅市の塩船観音寺

 国の重要文化財(室町時代)の建造物がある1300年余りの古い歴史を誇る「塩船観音寺」は、つつじの名所として知られる。紫陽花、萩、コスモスなど四季折々の花が咲く。中でも秋には山門から阿弥陀堂に至る参道脇に赤い彼岸花、また隣接する「霞丘陵自然公園」には、赤のほか白や黄色の彼岸花が入り乱れて咲く。

 下の写真は、「塩船観音寺」境内のつつじ祭り(ウィキメディア・コモンズから転載)

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●神奈川県伊勢原市にある日向薬師(ひなたやくし)付近

 丹沢大山国定公園の東端、緑豊かな山々に囲まれた関東有数の古刹「日向薬師」の参道入口付近や、近隣の田んぼの畦や野辺などに彼岸花の群生地が点在。「彼岸花の里」として知られ、山の緑、黄金色に実った稲穂とのコントラストが見事。

 下の写真は、「日向薬師堂」の本堂(ウィキメディコモンズから転載)

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●愛知県半田市の矢勝川堤防

 半田市は、『ごんぎつね』の作者・新美南吉の出身地で、その童話の舞台として有名。市内の岩滑地区を流れる「矢勝川」沿いに、地元の人達に育てられた300万本もの彼岸花が約2Kmに渡って咲く。開花期に合わせて「ごんの秋まつり」が開催。近くに新美南吉記念館がある。

●岐阜県海津市の津屋川堤防

 養老山に水源を求める「津屋川」堤防 3kmにわたり10万本の彼岸花が自生。養老山地を背景に川面に深紅の花が写り込み、漁をする小舟とのコラボを楽しめる。

●京都亀岡市の穴太寺(あなおじ)周辺

 安寿と厨子王丸の伝説で、厨子王丸をかくまったといわれる「穴太寺」までの道端や田んぼの畝に、群生する彼岸花が真っ赤に色づく。

 下の写真は、「穴太寺」の本堂(ウィキメディア・コモンズから転載) 

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●奈良県明日香村の稲淵棚田

 「日本の棚田百選」に選ばれている明日香村の稲渕地区では、畦などにたくさんの彼岸花が咲く。ほかにも石舞台の周辺や橘寺・飛鳥寺の周辺が見事。花の時期には「彼岸花祭り」が開催、中でも「案山子コンテスト」は黄金色の稲穂を背景にユニークな創作案山子が立つ。のどかな里山に咲く彼岸花に日本の原風景を感じながら、明日香村の飛鳥時代の史跡探索を楽しめる。

●奈良県御所市の葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)周辺

 「葛城一言主神社」周辺には、のどかな田園風景が広がり、田んぼを守るように咲く彼岸花の姿が見られる。

 下の写真は、葛城一言神社の拝殿と銀杏の古木(ウィキメディア・コモンズから転載)

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●奈良県宇陀市の佛隆寺(ぶつりゅうじ)

 「佛隆寺」 は、三重県との県境に近い宇陀市榛原(はいばら)の伊勢街道と「室生寺」への旧道の分岐する山の麓にある。秋になると山門へと続く約200段の小さい石段の両側を、彼岸花の大群生が真っ赤に覆い尽くす。寺は大和茶の発祥地で、空海が帰朝の際にその種子をもたらし寺内で栽培したという。

 下の写真は、佛隆寺の境内(ウィキメディア・コモンズから転載)

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●滋賀県高島市の桂浜園地

 琵琶湖沿いにある高島市今津町の「桂浜園地」は、関西屈指の彼岸花の名所。琵琶湖を背景に咲く彼岸花の姿は素晴らしい。

●兵庫県加古川市の円照寺

 加古川市にある「円照寺」は花の寺として有名で、秋には5色の彼岸花が楽しめる。例年の開花予定は、珍しい紫の彼岸花は8月下旬から、ピンクは9月の上旬、黄と白は9月上旬から中旬、そして赤は9月下旬。

●兵庫県多可町(たかちょう)の間子(まこ)

 兵庫県の山間にある多可町間子では、水田の周辺、「思い出川」の堤防沿いなど、あちこちに彼岸花が群生。特に思い出川沿いに作られた水車の近くでは、3色の彼岸花が鑑賞できる。

●広島県三次市(みよしし)吉舎町(きさちょう)辻の馬洗川沿い

 中国地方随一と言われ、2,000平方mほどの「馬洗川」沿いの土地に彼岸花が群生。『週刊 花百科』2004.9.16号(講談社)で彼岸花の名所全国ベスト10に選ばれた。

●福岡県うきは市のつづら棚田

「日本の棚田百選」にも選ばれている約400年に築かれたという歴史ある美しい石垣の棚田に、棚田を守るように50万本もの彼岸花が咲く。開花に合わせて「棚田inうきは 彼岸花めぐり&ばさら祭」が開催。

●福岡県築上町の正光寺

 「正光寺」は、鎌倉から戦国時代にかけて宇都宮信房(初代)が豊前の地に入国する時、一族の守り本尊の文殊菩薩を招来させ開基した寺。境内には白い彼岸花約4000本。これだけの白い彼岸花の群落も珍しい。「正光寺」周辺の田んぼの畦には、真っ赤な彼岸花の群生も見られる。また紅白の彼岸花が見られる地域は、九州でも珍しいそうだ。開花時期に「白い彼岸花まつり」が開催。

●大分県竹田市の七ツ森古墳

 国の史跡にも指定されている「七ツ森古墳」の周辺の広大な敷地に、約20万本とも言われる彼岸花が一斉に花を咲かせる。映画のロケ地としても使われた彼岸花の名所で、多くの観光客が訪れる。

 七ツ森古墳群の彼岸花(ウィキメディア・コモンズから転載)

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●宮崎県小林市野尻町の萩の茶屋

 「萩の茶屋」は、1964年(昭和39年)宮崎交通が野尻町の国道268号沿いにドライブインとして開業。日南海岸とえびの高原を結ぶ中間に位置し、霧島連山を眺める観光施設だった。1998年(平成10年)利用客減少により、飲食施設を閉店。現在は展望所として利用されている。4月には3万本のつつじと2千本の八重桜、6月紫陽花、9月は萩と100万本もの彼岸花が咲き誇る名所。

●長崎県大村市の鉢巻山展望台

 大村湾を見下ろし、360度の眺望が広がる標高334mの「鉢巻山」山頂に、約100万本の彼岸花群落が咲く。赤だけでなく白やクリーム色の彼岸花も多い。今から十数年前に田んぼの基盤整備を行なう際、農家の人たちが眺めの良い「鉢巻山」に移植したのが始まり。夕日スポットとしても知られる。開花に合わせて「鉢巻山ひがん花まつり」が開催される。 

 

2019年9月14日 (土)

湯元温泉と戦場ヶ原

   2019年9月1日(日)、奥日光の湯元温泉から戦場ヶ原を散策する。

 

 本ブログ記事「日光白根山」の続き。湯元温泉の温泉寺や源泉を散策。バスで赤沼バス停に移動し、湯川に沿って戦場ヶ原、小滝、湯滝を経て、湯ノ湖をめぐる。

   

 前日、標高2578mの「日光白根山」に登り、標高1,480mの奥日光湯元温泉の旅館「湯守釜屋」に宿泊。

 朝6:00起床。7:30~朝食。8:40旅館を出発。

 レンタカーは旅館「湯守釜屋」に駐めさせてもらって、バスの発射時刻まで湯元温泉の北のはずれ「温泉寺」と「湯元温泉源泉地」を散策。

 「日光山温泉寺」は天台宗の寺院で、世界遺産「日光山輪王寺」の別院。

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 「温泉寺」は、日光を開山した勝道上人(しょうどうしょうにん)が、788年(延暦7年)にこの温泉を発見、病苦を救う薬師瑠璃光如来を祀ったのが始まり。その後、薬師信仰のもとで庶民の療養延年の名湯として知られるようになり、江戸時代には「輪王寺」の直轄寺院としてその名が広まった。

 昔、「温泉寺」は「薬師堂」という名前で別の場所にあったそうだ。1966年(昭和41年)、台風の土砂崩れで直径5mもの大岩が落下し、「薬師堂」は潰れた。だが如来像は、その落下した大岩の上に無傷で鎮座していたそうだ。この奇跡に、地元の人々は益々信仰を篤くし、お堂の再建を発願、1973年(昭和48年)源泉の近くの現在地に「温泉寺」として建立されたという。

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 庫裏(くり)には、源泉から温泉を引いて浴場が作られている。温泉に参篭(さんろう、こもること)のできるお寺は珍しい。薬師如来の「健康増進・延命長寿」のご利益があるという。 4月下旬~11月下旬の期間、8時~17時受付。参篭(入浴)は1時間で宿泊は不可。志納金と呼ぶ入湯料は、大人 500円。

 温泉寺の東に隣接した「湯ノ平湿原」を経て「湯元温泉源泉地」に行く。

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 『湯ノ平湿原』の説明板によると、「湯ノ平湿原」は元は「湯ノ湖」の一部であったが、周辺の沢から運ばれた土砂が堆積して湿原となったそうだ。現在の湿原は温泉水のほか、周囲からの湧水、伏流水が供給され、「湯ノ湖」に流れている。冬でも湿原は、温泉水で凍結しないため、ニホンザル、ニホンジカ、コガモなどが餌を求めて訪れるという。

 湿原の北側が、源泉地となっている。

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 硫黄の匂いの乳白色の温泉水が、各旅館の小屋から湧き出ている。

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 湯元温泉バスターミナルから、9:15発の日光駅行き東武バスに乗車。

 バスは国道120号線(日本ロマンチック街道)を南下、光徳温泉を経由して9:35赤沼バス停。ここで下車。

 

 赤沼は標高1,395m。徒歩5分ほど赤沼分岐。ここから直進すると「小田代ヶ原(おだしろがはら)」。右折して「戦場ヶ原」を流れる湯川に沿った遊歩道(戦場ヶ原自然研究路)を「湯滝」に向かって北上する。

 9:45湯川赤沼橋の上から、湯川の上流を望む。湯川は、「竜頭(りゅうず)ノ滝」を下って「中禅寺湖」へ流出する。

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 ピンク色の花の大群落、ホザキシモツケ(穂咲下野)はバラ科シモツケ属の落葉低木。

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 奥日光のランドマーク「男体山」(2486m)と「戦場ヶ原」を見渡せるスポット。

 「男体山」の左側の裾野の奥に、「大真名子山(おおまなこさん)」(2375m)と「小名真子山」(2323m)。その奥にある「女峰山(にょほうさん)」(2483m)は見えない。

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 「男体山」の左側に目をやると、中央に「太郎山」(2368m)、その左「山王帽子(さんのうぼうし)山」(2077m)、左端の波形の山は「三岳」(1945m)。

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 真名子(まなこ)は、「男体山」と「女峰山」という両親を持つ愛子(まなご)、「男体山」の北には「太郎山」を擁し、火山一家を成しているというから、誰が名付けたのか面白い。 

 「戦場ヶ原」と日光連山のパノラマ写真。(クリックすると拡大表示します。)

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 日本百名山の「男体山」の山頂(火口)にかかる雲が切れた。

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 足下には杉本真人の歌でも有名なワレモコウ(吾亦紅)。バラ科・ワレモコウ属の植物。

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 山地の湿地帯に生えるエゾリンドウ(蝦夷竜胆)は、リンドウ科リンドウ属の多年草。

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 「日光白根山」の登山道でも多く見られたアキノキリンソウ(秋の麒麟草)。キク科アキノキリンソウ属の多年草

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 樹木のトンネルの中、木道を進む。

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 さらに湯川をさかのぼって戦場ヶ原自然研究路を歩いて「青木橋」を渡る。

 湯川でマス釣りをする人を見かける。湯川はキャッチ&リリースの河川で、釣った魚は放すこと。

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 ヤマシロギク(山白菊)の別名を持つシロヨメナ(白嫁菜)は、キク科シオン属の多年草。

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 この辺りから湿原が終わり、緩いアップダウンが続く山道になる。

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 「泉門池(いずみかどいけ) 」 の手前の分岐を直進。左に折れると「小田代ヶ原」。

 11:15「泉門池」のそばに設置されたテーブルで10分ほど休憩。「泉門池」は、光徳牧場付近にある「光徳沼」と同じように、湧水による池。正面の山は「太郎山」か。

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 この先の「小田代橋」を渡ると、国道120号線の光徳入口バス停に向かう分岐。「湯滝」方向に向かう。

 11:50湯川に架かる木橋から「小滝」を正面から見る。

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 急階段の遊歩道を上り、「小滝」を上から見る。やがて「湯滝」の水が落ちる音が聞こえ始める。

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 12:00「湯滝レストハウス」前の鹿フェンスをくぐると、目の前に轟音とともに迫力ある「湯滝」が現れる。

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 「湯ノ湖」から湯川に落ちる落差50m、幅25mの滝。「華厳の滝」と「竜頭の滝」に並んで、「奥日光三名瀑」と呼ばれる。

 地図で見ると、この先の「湯ノ湖」の湖尻に行くには湯滝駐車場を抜け、国道120号線の湯滝入口バス停から10分ほど歩く。しかし「湯滝」のすぐ側面に、急階段の近道があるのに気が付き、ここを上って行く。

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 ジグザグの急階段の横を流れる「湯滝」。樹間に斜面を流れ落ちている様子がよくわかる。

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 急階段を上り詰め、12:20「湯ノ湖」から「湯滝」の落ち込み口を覗く。

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 湖尻から「湯ノ湖」を見渡す。ここから「湯ノ湖」の東湖畔に沿って、遊歩道(湯ノ湖一周コース)を歩く。

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 よく整備された遊歩道は、アップダウンがほとんどなく歩きやすい。

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 ウサギの耳の形をした「兎島湿原」への分岐付近から「湯ノ湖」を望む。

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 12:50、標高1,480mの湯元温泉側の湖畔に到着。貸しボート屋があって、釣り客や観光客が利用している。

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 「湯ノ湖」では、明治以降に多くの種類の魚が放流され、ヒメマス、カワマス、ニジマス、ホンマス、コイ、フナ、ワカサギ等が棲んでいるという。

 13:00~湖畔の「日光湯元レストハウス」で昼食。ざるそば750円。

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 レンタカーを駐めていた旅館「湯守釜屋」の駐車場へ戻る。

 13:25、駐車場を出発。往路を逆に国道120号線を北上、丸沼高原を経て、関越道沼田インターから帰路へ。

 

 本ブログの関連記事

 「栃木県北部の冬景色」 2015年2月5日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-81a2.html

 
 「戦場ヶ原と日光滝巡り-その2」 2013年8月24日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-3885.html
    
 「戦場ヶ原と日光滝巡り-その1」 2013年08月24日投稿 
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-d8e5.html

 

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 標高1400~1480mの日光湯元・戦場ヶ原は涼しくて、自然に触れながら気持ちの良い散策だった。「中禅寺湖」、「竜頭ノ滝」、「戦場ヶ原」や「光徳牧場」の奥日光へは、これまで2,3回以上訪れているが、「湯滝」から「湯ノ湖」の遊歩道を経て湯元温泉へは初めてのコースだった。「竜頭ノ滝」への散策も当初計画したが、昼食と帰りのタイミングを考えると、ちょうど良い散策時間。歩程は、10キロくらいだったろうか。

 

2019年9月12日 (木)

日光白根山

 2019年8月31日(土)、奥日光の「日光白根山」に登る。朝から曇り、山頂は霧。下山後晴れる。

 「白根山」は、栃木県日光市と群馬県利根郡片品村の境界にある標高2,578m。関東地方以北の東北、北海道を含めて最高峰を誇る。日本百名山。日本各地に同名の山があるため、「日光白根山」と呼ばれる。また、隣にそびえる「前白根山」に対して「奥白根山」とも呼ばれることもある。 

 

 7:00関越道の沼田インターを降り、国道120号線(日本ロマンチック街道)を北上、7:55丸沼高原の「日光白根山ロープウェイ」駐車場に到着。

 センターステーションには、ショップ、ロープウェイ切符売り場、日帰り温泉、休憩所などがある。

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 8:13山麓駅を出発。ロープウェイ利用料金は、往復2,000円。高低差600m、所要時間は15分。

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 8:28山頂駅を降りると、正面の木道が山頂喫茶「しらね」に続き、その先に登山口と「二荒山神社」に向かう。

 ここは、標高2,000m。ここから「日光白根山」の山頂まで標高差578m。山容が眼前にそそり立つはずだが、厚い雲で見えない。

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 「二荒山神社」の赤い鳥居くぐる。

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 「二荒山神社」の前を通り過ぎると鹿の侵入を防ぐフェンスがある。

 鹿フェンスの扉をくぐって8:40登山開始。扉には、開けたら必ず閉めることと表示されている。

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 しばらくなだらかな針葉樹の林の中。所々に整備された木道を歩く。

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 やがて登山道が厳しくなってくる。

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 登山道にある大日如来の石像。木製の祠は新しいが、石像はいつの頃からここにあるのだろうか、歴史を感じる。

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 登山道にはほかにも「大日如来」、「不動明王」、「六地蔵」など、山岳信仰にまつわる文化財が残されているという。

 『大日如来』の説明板には、次のように書かれている。

 『如来とは真実の世界から生まれてきた覚者、すなわち真如来生を略しもので、大日、釈迦、薬師などが一般的に知られている。密教の根本教主であり、その光明は昼夜の別ある太陽の威力を上まわる意から大日といい如来の中でも最高の智恵と威力の位にあるとされる。
                         (中略)
  山岳信仰の中心には大日如来があって、ここ白根山でも同様に大日如来を中心に諸仏諸尊が祀られ、古来から“道”を極める人々の修行研鑚の場所となって来ました。』

 登山道に咲く見慣れない白い花は、カニコウモリ(蟹蝙蝠)。キク科コウモリソウ属の多年草。名の由来は、葉の形が蟹の甲羅に似たコウモリソウ。そもそもコウモリソウは、葉の形がコウモリ(蝙蝠)に似ているからだそうだ。

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 9:20「七色平」にある避難小屋への分岐を直進、山腹を南に巻く登山道を進む。

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 木の根のある登山道は、やがてゴロゴロの岩とさらに厳しくなる。休憩を何度も入れながら喘ぎながら登る。

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 高度を上げると、樹間にロープウェイ山頂駅が眼下に見える。

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 11:00森林限界を過ぎると、高山植物のお花畑が広がる。花は咲いてないが、ハクサンシャクナゲも多い。霧や雲がなければ、展望も良いのだが。

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 アキノキリンソウ(秋の麒麟草)は、キク科アキノキリンソウ属の多年草。

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 ハクサンフウロ(白山風露)は、フウロソウ科フウロソウ属の多年草。

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 お花畑から、霧の晴れ間に現れた山頂付近を見上げる。標高2,375m。気温17℃。

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 ここから先は急勾配。岩屑や小石、砂を敷いたような滑りやすい「ザレ場」、岩がゴロゴロと積み重なった歩きにくい「ガレ場」が続く。落石に注意。

 山頂の少し下の場所に、「白根神社」奥社の祠がある。

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 この辺りから、巨石が散乱したピークがいくつもあって、どれが頂上だかわからない。

 11:50、近くに三角点や山頂標識がある溶岩ドームの山頂2,578mに到着。

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 山頂からは雄大な山々が広がる360度のパノラマのはずだが、霧と雲で展望なし。

 時々霧が晴れて、右手に「中禅寺湖」、山頂が雲に隠れた「男体(なんたい)山」、その麓の湿原が「戦場ヶ原」の一部。

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  山頂から少し下の風の当たらない場所に移動して昼食。

 12:30下山開始。登りとは別の「弥陀ヶ池」へ向かう北斜面のガレ場の急坂を下る。

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 眼下の「弥陀ヶ池」。

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 二つの沼に見えるが、つながっている「菅沼」。湖畔には、菅沼キャンプ村がある。

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 中央に「弥陀ヶ池」、その左「菅沼」、左端は「菅沼」より大きい「丸沼」。

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 ガレ場の急坂が、延々と続く。スリップや落石に注意。

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 「白根山」と「五色山」、「前白根山」に囲まれ、コバルト色の水をたたえる「五色沼」。火口湖と思ったが、堰止湖と考えられている。

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 北の方角、尾瀬の双耳峰「燧ヶ岳(ひうちがだけ)」(2,356m)が顔を出す。

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 13:40「弥陀が池」の鞍部の分岐で休憩。「七色平」に向かう。

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 14:30「七色平」の避難小屋。その先の分岐で、往路に戻る。

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 「七色平」とは珍しい地名だが、説明板には以下のように書いてあった(要約)。

 山岳信仰、修行の場であった山は、俗世間と遮断され浄土や地獄に例えて地名が名付けられた。「七色平」は、浄土の虹のような場所と推測され、極楽浄土行き願う人々の憧れの場所であったとされる。

 深田久弥の『日本百名山』には、「七味平という気持ちのいい小草原まで下ると、そこはもう樹林帯で・・・」と書かれていて、「七味平」は「七色平」のことと思われる。

 15:05往路では気がつかなかった大きな一枚岩の「不動岩」。これも不動明王から名前が付けられたのだろうか。

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 15:15、ロープウェイ山頂駅近くの「二荒山神社」、無事の下山を感謝して参拝。 

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 ロープウェイ山頂駅付近から、東の方角。朝見えなかった「日光白根山」の威容がくっきり見える。

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 山頂駅近くの山頂喫茶「しらね」で休憩後、15:45「天空の足湯」のある西の方角の展望台(天空テラス、天空カフェも隣接)へ。

 雲が多くて、展望なし。残念。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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 写真右手の大きな三角形の山は、「四郎岳」(標高2,156m)。その右手に山頂が雲に隠れた「燧ヶ岳」(2,356m)。晴れていれば四郎岳の後方には「平ヶ岳」が頭を出し、写真中央付近に「至仏山」がそびえ、その左に遠く「巻機山」、「谷川岳」、「苗場山」、「武尊山」、「草津白根山」、「四阿山」、「浅間山」を眺望できるという。

 15:50ロープウェイ山頂駅を出発、ゴンドラの中から「日光白根山」を振り返る。16:05山麓駅に到着。

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 ゴンドラから、丸沼高原スキー場のサマーゲレンデ(麓駅付近)を見下ろす。グラススキーを楽しむ人たちも見える。

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 16:15ロープウェイ駐車場を出発、国道120号線の金精トンネル(金精峠)を抜けて、硫黄の匂いが漂う奥日光湯元温泉へ。

 16:50旅館「湯守釜屋」に到着。

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 「湯守釜屋」は江戸時代中期、日光「輪王寺」より寺役の「湯守」の任を受け240余年。明治元年に湯宿として創業。以来150年「湯守」を名乗り、掛け流しの白濁食の湯を宿泊客に提供しているという。いかにも温泉らしい硫黄泉の香りと色は、癒やされる。

 入浴後、19:00~夕食。21:30就寝。

 翌日は、「戦場ヶ原」を散策する。 

 

 ★ ★ ★

 「日光白根山」は日光火山群のひとつだが、狭義には白根火山群に属する。最高峰の「日光白根山(奥白根山)」(標高2,578m)は、「座禅山」(2,317m)、「前白根山」(2,373m)、「五色山」(2,739m)、「白根隠山」(2,410m)を外輪山とする二重式の活火山、溶岩ドームである。約5300年前以降、複数回の大規模噴火があり、周辺に堆積物を残す噴火は4回以上と考えられている。最近では1952年(昭和27年)に噴煙を上げ、地震活動があったそうだ。

 「日光白根山」は別名「二荒山(ふたあらさん)」と呼ばれ、「男体山」とともに「荒れ山」の総称。この両山の火山活動によって、日光側に「中禅寺湖」、「湯ノ湖」、片品側に「丸沼」、「菅沼」などの多くの湖沼や「華厳の滝」、「竜頭の滝」、「湯滝」など多くの滝が生まれ、また豊富な温泉に恵まれている。

 

 「日光白根山」の山頂に至る主な登山道は、①湯元温泉から外山尾根・天狗平・前白根山を経由する、②菅沼から弥陀ヶ池を経由する、③金精峠から五色山・弥陀ヶ池を経由するコースがある。しかし近年は、④群馬県片品村の丸沼高原スキー場から日光白根山ロープウェーで標高2000m付近まで行けるようになり、他のコースより比較的楽に登れるようになった。

 これまで「日光白根山」には、③金精峠からのコースで2,3回ほど登ったことがあったが、丸沼高原のロープウェイを利用したのは初めて。楽なコースと想像していたが、やはり百名山だけあって、厳しい山であった。

 8月27日から29日にかけて対馬海峡から九州北部にかけて秋雨前線が停滞。北上と南下を繰り返し、”線状降水帯”が長時間続き、集中豪雨による災害が発生した。この影響で、関東でも不安定な天候が続き、31日の山行が心配された。しかし当日は、曇り空で雨には降られず、暑くもなく、まずまずの天気だった。


  
 栃木県日光市にある「二荒山(ふたらさん)神社」は、宇都宮市の「二荒山神社」と区別するために「日光二荒山神社」と呼ばれる。ユネスコ世界遺産では、「日光の社寺」の構成資産の一つとして登録。日光連山の日光三山をご神体として祀る神社で、本社(日光市山内)、別宮(女峰山登山口)、中宮祠(中禅寺湖畔、男体山表登山口)、奥宮(男体山山頂)から成る。日光三山は、「男体山」(古名は「二荒山」)、「女峰山(にょほうさん)」、「太郎山」から成り、「二荒山神社」ではそれぞれに神をあてて祀っている。

 「二荒山神社」は、古来より修験道の霊場として崇敬された。江戸時代に幕府によって「日光東照宮」が造営されると「二荒山神社」も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財となる主な社殿が造営された。また、国宝や多数の重要文化財の刀剣などを現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包含されている。 

 「男体山」など奥日光の山々は、勝道上人が発見して以来、信仰の聖地として山伏達が修業の場としていた。「日光白根山」の山頂にも、1429年(永享元年)に「白根山神社」が祀られた。祭神は、「二荒山神社」と同じ大己貴命(おおなむちのみこと)、すなわち大国主命(おおくにぬしのみこと)。永い年月で老朽化し倒壊したままだったので、土地所有者の日本製紙(株)が「二荒山神社」から歓請、2003年(平成15年)に山頂駅に新しく「二荒山神社」を建立したという。また、白根山の山頂の少し下の場所には、「白根神社」奥社の祠がある。

 

 群馬県片品村にある丸沼高原スキー場の運営会社は、日本製紙(株)のグループ会社である日本製紙総合開発(株)。日光白根山ロープウェーが基本的に通年運行しており、冬以外でも日光白根山などへの登山、自然散策に利用できるほか、サマーゲレンデ、サマーリュージュ、オートキャンプ場、ツリーアドベンチャー(木登り)、バーベキュー、星空鑑賞、日帰り温泉といった多種多様なレジャー施設を営業している。



 本記事の最後に、『日本百名山』の37奥白根山の項について、深田久弥の名文を以下に引用したい。

 「奥日光に遊ぶ人は、すぐ前にある大きい男体山や太郎山に眼を奪われて奥白根山に注目する人は極めて少ない。中禅寺湖畔から戦場ケ原の一端に立つと、原を距(へだ)てて左手に連なる前山の上に、奥白根山の尖端が僅かに見えるが、進むに従って姿を消し湯元では全く見えない。だから日光白根山と言っても、誰の眼にも親しい山ではない。

 この山をよく眺めるには、男体山や皇海(すかい)山、あるいは武尊(ほたか)山や燧(ひうち)岳、それら東西南北の山々から望んだ時、真に日光群山の盟主にふさわしい威厳と重厚をそなえた山容が得られる。かつて平ケ岳の頂上から眺めて、連山を抜いて一きわ高く豪然とそびえている、その立派な姿に驚いたことがある。上信越国境では最高の峰である。浅間よりも高い。

 麓からその全容を捕えるのに困難な山であるが、遠く離れるとよく見える所がある。それは上野から高崎へ行く汽車の窓からで、赤城が見えだした頃その右手に、整った円錐形の男体山、それと並んで更に高くヴォリュームのある白根山が眺められる。関東平野が冬ざれの一色に塗られている時、その果てに純白の雪を光らせる。」

 

2019年8月11日 (日)

川の博物館

 2019年8月8日(木)、埼玉県立「川の博物館」(大里郡寄居町)に行く。


 「川の博物館」は、川のテーマパーク。埼玉の母なる川「荒川」を中心に、河川や水と人々のくらしについて展示や体験学習ができる。1997年(平成9)8月「埼玉県立さいたま川の博物館」として開館。2006年(平成18)4月には県立博物館等の再編に伴い、長瀞町にある「埼玉県立自然史博物館」と統合して「埼玉県立自然と川の博物館」として再編され、現在の名称となった。略称は、「かわはく」。

 

 9:00開場と同時に入場。駐車料金300円。入場料金は、一般410円、学生200円、中学生以下無料 。

 

●レストハウス(9:00~)

 レストハウス(写真手前の建物)の1階は、休憩ホール、ミュージアムショップ。2階は大水車を望むレストランとなっている。

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●大水車

 大水車は1997年(平成9年)「かわはく」の開館に合わせて作られた。当時は直径は23m、日本一の大きさを誇ったが、2004年(平成16年)に岐阜県で直径24mの大水車が完成、「日本一」の座を譲る。

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 2015年(平成27年)、老朽化により木部が腐食し一部破損するなどしたため回転を停止。2017年(平成29年)から改修工事が行われ、2019年(令和元年)7月に直径24.2m、再び「日本一の大水車」が完成した。

 

●荒川わくわくランド(9:30~)

 水のアスレチック施設。入園料:一般210円、中学生以下100円。利用時間1時間で入れ換え、予約制。

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 スイスイアメンボ、ふらふらフロートなどのオリジナル遊具にチャレンジしながら、水の流力・浮力・圧力・抵抗の学習ができるという。

 

●水車小屋広場

 埼玉県内に残っていた水車2棟を解体して、「かわはく」敷地内に復元した。

・玄米の糠(ぬか)を取り除き、白米にする精米水車。

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 東秩父村大内沢で1945年(昭和20年)頃まで稼働していたが、その後花園町の旧家で庭園の一部として保存されていた。

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 水車の回転を横棒が伝え、2本の杵(きね)で地面下の臼を突き精米する。

・コンニャクのアラコ挽きの水車

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 皆野町の下日野沢で1960年(昭和35年)頃まで使用されていた水車。薄く切ったコンニャク芋を乾燥させ、その乾燥荒粉を水車で挽いてコンニャク粉にする。「荒川」支流の「日野沢川」から水を引いて水車を回していた。鉄製の水輪は直径が7.3m。建物は、実際とは異なっていたそうだ。

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 鉄製の水車、木製の歯車やプーリベルトなどの近代的な機械要素と、杵や臼などの昔ながらの部品がうまく組み合わされているそうだ。

 

●本館の建物(11:00頃~)

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・本館1階の第二展示室

 2019年9月1日(日)まで特別展「根・子・ねずみ~ネズミワールドへようこそ~」が開催中。古代から現代までの人とネズミの関わりやネズミ生態など、絵画や民芸品、剥製や骨格標本などで紹介。

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 ネズミは、人家付近に生息するクマネズミ、ドブネズミ、ハツカネズミといった「家ネズミ」はよく聞く。しかし、野山にもカヤネズミやアカネズミ、ヒメネズミなどの「野ネズミ」がいるのは、あまり知られてない。

 荒川の河原にも、カヤネズミやアカネズミが多く生息しているとは、初めて知る。ネズミの剥製、写真などの資料の展示のほか、カヤネズミが飼育展示されていた。

 カヤネズミとススキに作られた巣。(写真が撮れなかったので、ウィキペディアコモンズから転載)

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 ・本館2階~1階の第一展示室(常設展示)

 「荒川と人々のくらしとの関わり」がメインテーマ。鉄砲堰(てっぽうぜき)の実演、荷船(にぶね)、船車(ふなぐるま)などの展示。正面スクリーンでパノラマ映像の上映。江戸時代の荒川は、多くの船が行き交い、海上輸送が発達していたことを改めて学ぶ。

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 鉄砲堰(下の写真)は、木材運搬(流送)のために使われた堰(せき)。

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 河川の流量が比較的大きい場所では、筏(いかだ)流しが行われたが、上流の急流部の渓流では丸太で堰(ダム)を建設し、水を貯めてから破堤させ木材を下流に流送した。実際に水を流す実演があるがスキップ。

 中央の小屋(下の写真)は、船車(ふなぐるま、水車船)。岸辺に船を繋ぎ、水車を川の流れで回して穀物などを挽く。

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・本館3階の展望塔

 展望塔に上ると、駐車場の向うに実際の「荒川」が流れる。 

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 冬になると、この展望塔から「谷川連峰」、「赤城山」、「男体山」を眺めることもできるそうだ。

 眼下に屋外展示の「荒川大模型173」が見える。右手が荒川の下流にあたる。

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 12:00~、レストハウスに戻り昼食。

 

●荒川大模型173(13:00頃~)

 荒川の総延長は173km。この模型は、「荒川」の源流(甲武信岳)から河口(東京湾)までの流れと地形を、1/1000に縮小した「日本一」の大きさの地形模型。以前、テレビ朝日の番組「タモリ倶楽部」でも、取り上げられていた。

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 山梨・長野・埼玉の三県の県境に位置する「甲武信岳」(こぶしだけ、標高2,475m)から、「荒川」の下流方向を望む。「甲武信岳」東斜面の標高2,200mにある赤丸の標識が、「荒川」の「源流点」。その先の黄色い標識が、国交省が定める「起点」。(写真をクリックすると拡大表示)

 秩父山地から水を集め、秩父盆地を流れる荒川。右岸にオレンジ色の秩父市街地。

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 荒川に架かる橋は、手前から「秋ヶ瀬橋」(県道40号と県道79号)、JR武蔵野線の鉄橋、東京外環道路の「幸魂大橋」、国道17号の「笹目橋」と「戸田橋」、JR東北本線の鉄橋、国道122号線の「新荒川大橋」・・・と続く。

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 グリーンは河川敷の公園など。荒川と並行する赤茶色のラインは堤防。オレンジ色は川口市、ピンクの部分は東京都。

 写真上部のグリーン部分、写真では分かりにくいが、「新荒川大橋」の先(川口市と東京都の境界付近)に「岩淵水門」、その下流に「隅田川」が蛇行して流れる。

 「荒川」本流(荒川放水路)は、下の写真左上で東京湾に注ぐ。その河口の少し先にあるグリーンの公園(若洲海浜公園)の端にある黄色い標識が、「荒川」の「終点」。写真中央を流れるのは、「荒川」と分かれた「隅田川」。

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●渓流観察窓

 荒川に棲息する川魚が観察出来る。写真は、イワナとヤマメの水槽。

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●大陶版画「行く春」

 本館の外壁に、明治から昭和にかけて活躍した日本画家・川合玉堂(1873-1957)の筆になる重要文化財「行く春」(六曲一双屏風)を、長さ22m、高さ5mの大陶板画(信楽焼)にして複製展示。屋外に展示した日本画の大型美術陶板としては、「日本一」の大きさ。 

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 「行く春」は、1916年(大正2年)に長瀞(ながとろ)・寄居方面を訪れた玉堂が、桜咲く長瀞の「荒川」に浮かぶ三隻の船車(ふなぐるま、水車船)を描いている。第10回文展出品作。現在は東京国立近代美術館が所蔵、重要文化財に指定。

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●アドベンチャーシアター(14:00~14:30)

 上映作品は、「荒川 森と海を結ぶ旅」と「小さな世界はワンダーランド」の2本。鑑賞料金:一般430円、中学生以下210円。

・「荒川 森と海を結ぶ旅」(約20分)

 荒川の源流域に降った「一粒の水」が、荒川の源流域から東京湾までの173kmを動物・植物・地形などの自然、歴史や祭りに出逢う旅をする。映像にあわせて座席が動き、荒川の流れや空からの眺めを疑似体験する。

・「小さな世界はワンダーランド」の一部 (約12分)

 アリゾナの砂漠に暮らす小動物(マウス)が自然界で成長していく3D映像の物語(BBCアース制作)。

 

 15:30頃、「かわはく」を退場。

 この日の寄居町は晴れ、最高気温37℃。連日の「猛暑日」であった。

 

 本ブログの関連記事

 「武州寄居七福神めぐり-後半編」 2012/4/10 投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-75a9.html

 

 ★ ★ ★

●荒川の歴史

 「荒川」は古くから「利根川」の支流で、関東平野に出た後、現在の熊谷市近辺で「利根川」と合流していた。合流後は、5,000年前頃までは現在の「荒川」の流路を通ったが、3,000年前頃からは現在の加須市方向へ向った後、南下して東京湾へ注いでいたそうだ。「利根川」と「荒川」の川筋は安定せず、また次第に並行した流路となり、両者の合流点は次第に下流へ移動した。「荒川」の名は「荒ぶる川」を意味し、有史以来数知れないほど洪水を繰り返し、下流域は未開の低湿地であった。

 今から約400年前の家康が関東にやって来た頃、「荒川」は現在の「元荒川」の川筋を通り、現在の越谷市・吉川市付近で「利根川」と合流して東京湾に注いでいた。徳川幕府は洪水の被害を防ぎ、かつ多くの耕作地を造りだすため、「利根川」と「荒川」の流路を変更することを考えた。

 1629年(寛永6年)幕府の関東郡代・伊奈忠次らが、現在の熊谷市久下で「荒川」の流路を締切り、「入間川」に流れるように付け替えた。元の流路は、熊谷市で「荒川」から離れて吉川市で「中川」と合流する「元荒川」となった。一方で「利根川」は、東に瀬替え(「利根川東遷」)して「渡良瀬川」に付け替え、「古利根川」流路から「江戸川」の流路を流れるようになった。なお江戸時代の「利根川東遷」事業は、約60年間にわたって少しずつ東へと流れを移し、それまで東京湾に向かっていたが、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになった。

 付け替え後の「荒川」(元の「入間川」)は、下流で現在の「隅田川」の流路を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を浸水した。しかし「荒川」の河川舟運にとっては、この瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたのだった。

 1910年(明治43年)8月、関東地方では長雨と台風が重なり、「荒川」(現「隅田川」)を含む「利根川」や「多摩川」などの主要河川が軒並み氾濫、埼玉県内の平野部全域を浸水、東京下町にも甚大な被害を出し、明治以降最大の関東大水害が発生した。長年、豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)政府は根本的な首都の水害対策を利根川や多摩川に優先し、「荒川放水路」の建設を決定する。
 

●荒川放水路

 内務省によって調査と設計準備、用地買収を進められ、放水路の開削工事に着手したのは1913年(大正2年)。この工事は、当初10年という予定を大幅に超え、関連工事の完了まで17年間という歳月、予算の2.5倍にも及ぶ莫大な工事費を費やした。また、工事の出水や土砂崩れなど多くの災害により30名近くの犠牲者も出した。工事中にも幾度も台風に襲われ、工事用機械や船舶が流出したほか、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成した橋梁の崩落、更に第一次世界大戦に伴う不況や物価高騰も難工事に追い打ちがかかった。

 1924年(大正13年)の「岩淵水門」完成により放水路への注水が開始され、関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)。「荒川放水路」は荒川のうち、「岩淵水門」から江東区・江戸川区の区境の「中川」河口まで掘削された人工河川。全長22 km、幅約500 m。それ以後、東京は大洪水に見舞われることは無くなった。「荒川放水路」は、1965年(昭和40年)に正式に「荒川」の本流とされ、それに伴い「岩淵水門」より分かれる旧「荒川」が「隅田川」となった。

 「荒川」と「隅田川」の分岐にある「岩淵水門」は、運用を終了し、「新岩淵水門」(ウキペディアコモンズ)が1982年(昭和57年)に竣工。

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 「荒川」の本流となった「荒川放水路」と「清砂大橋」(ウキペディアコモンズ)。

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 「荒川」河口近くに架かる「清砂大橋」は、東京メトロ東西線と東京都道・千葉県道10号東京・浦安線が通る。
 

●カスリーン台風

 1947年(昭和22年)9月、カスリーン台風により山間部の土石流や河川の氾濫が相次ぎ、「荒川」と「利根川」堤防の一部が決壊、明治以来の大洪水被害で戦後間もない関東地方で甚大な被害が発生した。これを機会に政府は、水害による大都市への被害を防ぐことを目的に、本格的な治水事業に乗り出す。荒川・利根川を始め全国10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定、ダムによる計画的な洪水調節を計画。「二瀬ダム」は、荒川流域に最初建設された多目的ダムで、1953年(昭和28年)着工、1961年(昭和36年)に完成した。「かわはく」に展示されている「荒川大模型173」には、「二瀬ダム」のほか「滝沢ダム」、「浦山ダム」、「合角ダム」、「玉淀ダム」の5つのダムを見つけることが出来る。


●荒川の川幅日本一

 荒川の中流域は、堤外地(堤防に挟まれ川が流れて側)が広くとられている。これは、洪水時に遊水地としての役割を果たす。最も広いのは、吉見町と鴻巣市を結ぶ「糠田(ぬかた)橋」と下流の「御成(おなり)橋」の中間付近で、「川幅日本一」の2,537 m(堤防から堤防までの距離) 。このため河川改修によって堤外地に多数の集落が取り残された。これらの集落は、さらに水害の被害が増したため集団移転するなど、徐々に堤内地への移転が進んだ。しかし、付近に農地を持つ住民にとっては先祖からの土地から離れることを拒んだ。そのため、危険を冒して堤外地に住み続ける住民や、堤外地であるが横提(増水時に流れを滞留させるため川に向かって直角に突き出た堤防)の上に移住した住民も多いという。この付近の航空写真をGoogleマップで見ると、その様子がよく分かる。

●埼玉県立のミュージアム

 埼玉県立の博物館、美術館、動物園、水族館などの県内の文化施設を調べたら、意外に多くて主なもので次のようであった。

 ・近代美術館(さいたま市浦和区)、さいたま文学館(桶川市)
 ・自然の博物館(秩父郡長瀞町)、川の博物館(大里郡寄居町)
 ・歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区)、さきたま史跡の博物館(行田市)、嵐山史跡の博物館(比企郡嵐山町)
 ・平和資料館(東松山市)、埼玉伝統工芸会館(比企郡小川町)
 ・こども動物自然公園(東松山市、鳩山町)、 さいたま水族館(羽生市)

2019年7月22日 (月)

信州塩田平-その2

 2019年7月13日(土)、信州塩田平と別所温泉の歴史探訪。


 本ブログ記事「信州塩田平-その1」に続き、塩田平の別所温泉を巡る。

 別所温泉は塩田平の西、標高約570mの山あいの地にある。信州最古と伝わる温泉地で、日本武尊が7か所に温泉を開き「七苦離(ななくり)の温泉」と名付けたという伝説から「七久里の湯」とも呼ばれる。

 

 上田市前山の「中禅寺薬師堂」から「山王山公園」駐車場に戻り、およそ車で10分で上田市別所温泉に移動する。

 「安楽寺」の黒門を車で通り抜け、12:00境内の駐車場に車を駐める。

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 駐車場から歩いてすぐの温泉街にへ行き、食事処を探す。

 

●日野出食堂 12:15~12:50

 温泉街に出て、「北向き観音堂」の入口を右へ坂道を登ると、共同浴場「石湯」の対面に「日野出食堂」がある。

 玄関を入ると土間にテーブル席が一つ。靴を脱いで座敷の座卓席に上がり、昼食、休憩。

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 建物は古いが、内部はみぎれい。来店した有名人のサインだろうか、壁に色紙が何枚か貼ってある。昔懐かしいタイプの階段があり、2階にも客席の部屋だろうか。もともと何かの店舗か、住宅を食堂にしている感じ、素朴な昭和の雰囲気の店。さるそば700円を注文。帰ってから気がついたが、この辺りは「馬刺し」や馬肉の「肉うどん」が有名で、メニューにあったのを思い出した。

 

●安楽寺 13:00~13:40

 「安楽寺」の駐車場で、観光ガイドと待ち合わせ。参道の石段を上ると、山門がある。

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 山門の先をまっすぐ石畳の上を進むと本堂。

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 参道の右手は、立派な鐘楼。左手には、座禅堂(写真なし)。

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 「安楽寺」の本堂。寺号は「安楽護聖禅寺」。曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。

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 「安楽寺」は、鎌倉の「建長寺」などと並んで、日本では最も古い臨済禅宗の寺院の一つ。奈良時代の天平年間(729~749)とか、平安初期の天長年間(824~834)に開かれたと伝えられるが判然としない。鎌倉時代中期にはすでに相当の規模をもった禅寺であり、「信州の学海」の中心道場だった。中興開山は、惟仙(いせん)和尚とされる。鎌倉北条氏の保護によって栄え、多くの学僧を育てていた。北条氏滅亡(1333年)後は衰退したが、国宝・重要文化財など数多くの鎌倉時代の文化遺産を有して、信州最古の禅寺の面影を残しているという。安土・桃山時代の1588年(天正16年)ころ、曹洞宗に改められたという。

 本堂の屋根の上部には、北条氏の家紋の「三つ鱗」。前山の塩田北条氏の菩提寺「龍泉寺」でも、見ることが出来た。

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 「安楽寺」の国宝「八角三重塔」は、本堂の裏を登った裏山の中腹にある。本堂左手の入口から、塔拝観料の300円を払って入場。

 裏山に登る杉林の山道の途中に、六地蔵が並ぶ。

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 また山道の途中にある「伝芳堂」には、寺宝である1329年(嘉暦4年)制作の木造「惟仙和尚坐像」と木造「恵仁和尚坐像」が安置されている。(写真がうまく撮れなかった、「安楽寺」のパンフレットから転載)

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 1923年(大正12年)に、国の重要文化財に指定された。惟仙(いせん)和尚は、鎌倉時代中期に中国・宋に渡って修行した後、当地で隠遁し安楽寺を中興開山した。また恵仁(えにん)和尚は、惟仙和尚に従って来朝した中国僧で日本に帰化、安楽寺の第2代となった。

 「安楽寺」の国宝「八角三重塔」が、緑に中に重厚なたたずまいを見せる。

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 「八角三重塔」は塔高18.75m。日本に現存する唯一、日本最古の八角塔として極めて貴重な事から、1952年(昭和27年)に国宝に指定。松本城とともに、長野県で最初の国宝となる。中国宋時代の禅宗様を採用したもので、鎌倉時代後期の1290年代に建立されたと推定される。領主だった塩田北条氏が、寄進したものと考えられている。

 

 「安楽寺」を出て「常楽寺」に向かう途中、南東方向の展望。塩田平と遠くに上田市街地、上信越の山々。雲がかかって山頂が見えないが、中央のピークが「湯の丸山」近隣の「烏帽子岳」(えぼしだけ、2066m)、右端に「浅間山」(2568m)、左端に「四阿山」(あずまやさん、2354m)。

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●常楽寺 13:50~14:15

 「常楽寺」は「北向観音」が建立された825年(天長2年)、「三楽寺」の一つとして比叡山延暦寺の座主・慈覚大師(円仁)により開山したと伝えられる天台宗の寺院。「北向観音堂」の本坊であり、本尊は阿弥陀如来。鎌倉時代には、天台教学の道場として大いに栄えた。なお「山楽寺」は、「長楽寺」「安楽寺」「常楽寺」の三寺を指す。長楽寺は焼失し廃寺となった。

 石段を上がると茅葺の本堂が現れる。無人のポストに拝観料100円を入れ、境内に入る。

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 本堂は、平成15年に修復工事を行った際、建立当時の建築様式に改められたという。

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 本堂前にある、樹齢350年といわれる「御舟(みふね)の松」 。

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 この船は、宝船の形に見えるそうだ。この宝船で阿弥陀様が、極楽浄土へとお連れする。

 境内には、歴史がありそうな石仏がいくつも並んでいる。

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 本堂裏には柵に囲まれて、苔むした安山岩の「石造多宝塔」がある。国指定の重要文化財。高さ2.85m。

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 「多宝塔」というのは、上下二層の屋根がある塔。下の屋根の上に饅頭形という丸いふくらみがあって、その上に丸い塔身があり、二つ目の屋根がその上に載っている。更にその上に、相輪という柱が立っている。

 この「石造多宝塔」は、1262年(弘長2年)に建立されたもので、銘文にはこの地が北向観音様が出現した地で、建立した経緯が刻まれている。隣接する高さ1.63mの「石造多層塔」は、1924年(大正13年)別所温泉「大島屋旅館」裏から発見されたものの一つて、上田市有形文化財に指定されている。

 

●岳の幟(たけののぼり)

 温泉街にも幟(のぼり)を目にしたが、「北向観音堂」に向かう道路脇に、色鮮やかな幟がいくつか立っていた。「岳の幟」は、別所温泉に伝わるめずらしい雨乞いのお祭りで、国の重要無形民俗文化財。

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 7月15日に一番近い日曜(2019年は14日)に、別所温泉で雨乞いの行事「岳の幟(のぼり)」が行われる。室町時代の1504年(永正元)年、干ばつで村人が夫神岳(おがみ)の山の神に雨乞いをしたら雨が降ったので、各家で織った布を奉納するようになったのが始まりと言われ、以来500年も続いているという。

 温泉街の4地区の100人以上の住民達が、交替で数十本の色とりどりの反物と竹竿でできた長さ約6mの幟のぼりをかつぎ、標高1250mの夫神岳の山頂から別所神社まで温泉街を練り歩く神事。練り歩きの途中では、笛や太鼓のリズムに合わせて、花笠童女(小学生女子)たちが2本の竹を竹を打ち鳴らす「ささら踊り」や、若衆の「三頭獅子舞」を奉納する。

 「北向観音」前の広場では、何やらお祭りの準備中。あとで調べると、この日は「祇園祭り」。

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 「岳の幟」の前日(今年は7月13日)、つまりこの気にの当日、「別所温泉祇園祭」が行われる。昼間は、子供神輿。夕方からは3基の勇壮な神輿が、笛と太鼓の演奏とともに別所温泉内を練り歩くそうだ。 

 また街にあるポスターを見ると、「別所温泉つるし飾りまつり」が、2019年7月1日〜8月16日まで行われている。江戸時代後期の上田藩では、初節句を迎えた女の子の健やかな成長と幸せを願い、厚紙を絹などで包み刺繍を施した桜の花、鶴亀、海老や鳳凰などの「つるし飾り」を贈る風習があったそうだ。この「上田のつるし飾り」は幕末期頃に途絶えてしまったが、近年別所温泉では有志によって盛んにつるし飾りが作られ、別所温泉の各所に展示してあるそうだ。 
 

●北向観音堂 14:25~14:40

  「北向観音堂」は、別所温泉街の中心にある。参道の両側にお土産屋、食事処が軒を連ねる。

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 「北向観音堂」は近隣にある「常楽寺」が本坊で、その伽藍の一部として同寺が所有・管理している。

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 寺伝によれば、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山延暦寺座主の慈覚大師(円仁)により開創された霊場。平安時代後期の安和年間(968~970年)、信濃守に就任した平維茂(たいらのこれもち)が「常楽寺」や「北向観音堂」など大伽藍として大改修を加え、また別所温泉の開発に尽力したという。1189年(寿永元年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまうが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、1252年(建長4年)に北条国時により再興された。

 厄除け観音として全国の人々とから信仰を集め、多くの著名人も参拝に訪れている。本堂が北に向いているのは、国内ではほとんど例がないという。「北向観音堂」は千手観音様を御本尊として、現世利益を願う。また長野市の「善光寺」は、ちょうど向き合う南向きに建立され、阿弥陀様を御本尊として未来往生を願う。現在と未来の片方だけだと「片詣り」と言われ、向き合う両方をお詣りしたほうが良いとされる。

・愛染かつら(市指定文化財

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 樹齢300~1200年(諸説ある)、幹囲5.5m、樹高22mの老木。伝説によると平安時代初期825年(天長2年)、大火の際どこからなく現れた千手観音様が、このカツラの木の上でひしめきあう避難民を救ったという。北向厄除け観音の霊木といわれている。境内の東隅にある「愛染明王堂」(写真なし)とこのカツラの木に因んで、第一回直木賞受賞作家の川口松太郎(1899 - 1985)が『愛染かつら』を執筆したことは有名。ヒロインの高石かつ枝が津村浩三(映画の配役は、田中絹代と上原謙)が、カツラの木の下で永遠の愛を誓う。若い人たちに「縁結びの霊木」として親しまれ、1939年(昭和14年)長野県の天然記念物に指定された。

・護摩堂(不動堂)

  1983年(昭和58年)に、本堂の傍の護摩堂が再建された。護摩祈祷が行われ、不動明王が祀られている。

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・温泉薬師瑠璃殿 (るりでん)

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 内部には温泉薬師信仰から薬師如来が祀られてい。この温泉薬師は、伝説では行基菩薩の創建、慈覚大師の再建とされている。以前の薬師堂の位置は、別所温泉「大師湯」の西隣りにあったようだ。今の建物は、江戸時代の1809年(文化6年)に湯本講中の積立金により再建された。

・北原白秋の歌碑

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 「観音のこの大前に奉る 絵馬は信濃の春風の駒」

  1923年(大正12年)に家族と別所温泉へ遊びに来た北原白秋は、わずか数日で162首の短歌を詠んだという。1962年(昭和37年)、この歌碑の前で白秋の法要が営まれ、遺族、歌碑建立賛助者が参列して除幕式が行われた。

・新派の俳優・花柳章太郎の供養碑

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 「北向にかんのん在す 志ぐれかな 章太郎」

 花柳章太郎は、白粉(おしろい)が肌に合わずに悩んだが、北向観音に願をかけたところ快癒することができたという。1965(昭和40)年、晩年に詠んだ句と言われ、供養碑の建立発起人に大映社長の永田雅一や川口松太郎の名もある。

 観光ガイド終了。

 

●共同浴場「石湯」 14:45~15:20

 池波正太郎の歴史小説『真田太平記』には、別所の湯がしばしば登場する。入口の左側に石碑「真田幸村公 隠しの湯」(池波正太郎の筆) が建つ。入浴料150円。

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 別所温泉には3ヶ所の共同浴場(温泉銭湯)がある。入浴料は安いが、岩風呂の浴場は小さいくて、洗い場は数人程度でシャワーなし。石鹸・シャンプーが置いてなく、タオル、髭剃りなどと共に石鹸(50円)も帳場で販売していた。温泉でで汗を流し、気分もサッパリ。外に出ると、こども神輿が街に繰り出していた。

 別所温泉を後にして、16:05東部湯の丸IC通過。16:35、横川SAで休憩し、夕飯用の「峠の釜めし」を購入。

 18:00、出発地に到着、解散。

 「塩田平ウォーキングマップ」というパンフレットがあった。ここには、「遊歩百選」認定コースというのがる、ウォーキング・コース。しかし思ったよりも坂道が多くて、少しハードなウォーキングだった。この日の万歩計では、1万5千歩、9Kmほど歩いていた。

 

 ★ ★ ★

 「別所温泉」は景行天皇の時代、日本武尊が東征の折に発見されたと伝えられている。また平安時代中期、清少納言『枕草子』にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の「七久里の湯」が、起源ではないかという説もある。「別所」という地名が初めて歴史に登場するのは13世紀。信濃の守の平維茂(たいらのこれもち)が、この地に別業(古代貴族の別荘のこと)を建て、「別所」と呼んだことが由来とされる。12世紀に入ると「別所」は、木曽義仲が信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院が灰になってしまった。その後、焼失した寺院は源頼朝、次いで塩田北条氏によって再建されたという。

 近代以降、有島武郎や川端康成ら多くの文人が訪れた。川端は『花のワルツ』(1936年刊行)を別所温泉の旅館「臨泉楼 柏屋別荘」(2017年で閉館)で執筆している。その旅館には、1923年北原白秋も逗留して百首以上の歌を詠み、後年歌碑が建てられた。旅行記や随筆に取り上げたり、別所温泉に関わる史実や伝承を取り入れた作品も少なくない。

 吉川英治は『新平家物語』で、木曽義仲が愛妾を連れて別所温泉「大湯」に入湯する場面を描いている。史料上の根拠はないが、「大湯」の傍らには吉川の文学碑も建てられている。また真田昌幸・信之・幸村の作品を数多く執筆した池波正太郎は、取材のため別所温泉を度々訪れた。代表作の一つ『真田太平記』においては、若き幸村が「石湯」に頻繁に入浴に訪れるなど、重要場面にしばしば登場している。これも、史料上の根拠はない。『新平家物語』同様にフィクションであるが、「石湯」は「真田幸村公隠しの湯」と宣伝され、池波の筆による石碑が建てられている。

 小説・映画で有名なメロドラマ『愛染かつら』のカツラの大木を、「北向観音堂」で初めて見たが、愛染明王の「愛染堂」はどこにあったのか、気がつかなかった。作者の川口松太郎は昭和10年頃、「北向観音」がある別所温泉の老舗旅館「かしわや」に小説執筆のため滞在していた。部屋からはこのカツラの木がよく見えたため、この木をモチーフにした恋愛ドラマを着想したという。

 別所温泉には、源泉や共同浴場の「大湯」「大師湯」「石湯」、足湯の「ななくり」「大湯薬師の湯」、そのほか13ヶ所の住民用の洗い場(洗濯場)を所有・管理する公共団体として、「別所温泉財産区」がある。別所温泉の所有者は「別所温泉財産区」で、管理者は上田市長である。1997年長野新幹線開業や1998年長野オリンピックなどで大型投資をして施設拡充した事業者が多いが、このところ長引く地方の不景気で借入金負債が経営を圧迫し、歴史ある別所温泉でも倒産や廃業する老舗旅館も出て来て、現在2軒の旅館が売りに出されているそうだ。

 鎌倉時代、塩田平には仏教文化が根付き、教育施設が充実、優れた指導者もいたであろう。学問を志す多くの人は、塩田平を修業の地に選び、集まって来た。信濃の生んだ名僧に、無関普門(むかんふもん)という僧がいた。のちに京都随一の名刹「南禅寺」を開山し大明国師と呼ばれた。いわば日本最高の地位にあった高僧は、若いころこの塩田平で学んだという。そのころ、塩田平は「信州の学海」といわれ、学問・宗教に志すものは、遠方からたくさんやって来た。別所の「長楽寺」「常楽寺」「安楽寺」の三楽寺や、前山の「中禅寺」「前山寺」などがその道場になっていたようだ。

 

 

2019年7月18日 (木)

信州塩田平-その1

 2019年7月13日(土)、信州塩田平と別所温泉の歴史探訪。

 

 塩田平(しおだだいら)は、長野県東信地方の上田盆地、千曲川の左岸にある河岸段丘。かつては「塩田北条氏」三代の居城「塩田城」があり、その周りには神社仏閣が点在、「信州の鎌倉」と呼ばれ、現在なおその面影を残す。

 「生島足島神社」(上田市下之郷)、「前山寺」(上田市前山)と「安楽寺」(上田市別所温泉)の駐車場に車を駐め、それぞれ周辺の名所旧跡を徒歩で巡る。

 

 7:20、レンタカーに参加者が同乗して出発、関越道、上信越道を走る。

 8:55、上信越道の東部湯の丸ICで高速を降り、千曲川を渡って上田市下之郷の「生島足島神社」の駐車場に車を駐める。

 
●生島足島(いくしまたるしま) 神社 9:15~9:50

 万物を生み育て生命力を与える生島大神(いくしまのおおかみ)と国中を満ち足らしめる足島大神(たるしまのおおかみ)を祀る。

 「生島足島神社」は少なくとも平安時代からの古社で、戦国時代には武田氏や真田氏などの信仰を受け、また江戸時代は上田藩主の厚い庇護を受けた。

 「神池」という池の中の小島「神島」に「御本社」がある。「神島」に渡るための屋根付きの朱塗りの「御神橋」。

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 「御池」に浮かぶ「神島」に鎮座する「御本社」。

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 「御本社」に行くには、「御神橋」の左手にある「参橋」を渡る。

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 本殿に参拝。本殿内殿の土間(大地そのもの)が御神体だそうだ。

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 摂社「諏訪神社」(下宮)は、上宮の「御本社」と向かい合う位置にある。

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 上の写真の右隅に、樹齢800年の「夫婦欅(めおとけやき)」と呼ばれる御神木がある。この「諏訪神社」の本殿は、1610年(慶長15年)に真田信之が再建した。

 境内には、江戸期農村歌舞伎の姿を残す「歌舞伎舞台」がある。

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 「せり上がり」や「廻り舞台」装置があり、観客席は舞台前の平地で、花道は左手に架設されたという。江戸~明治時代にかけて建築された農村歌舞伎舞台として、県内では最大規模、全国でもトップクラスだそうだ。

 「生島足島神社」には、国指定重要文化財の武田信玄の必勝を神に祈った「願文(がんもん)」、家臣団に忠誠を神に誓わせた「起請文(きしょうもん)」、真田昌幸・信幸親子が神社に与えた公文書「朱印状」など、数多くの古文書を所蔵する。「歌舞伎舞台」の館内には、これら文書のコピーが常設展示されていた。入館無料、撮影禁止。


 上田市下之郷の 「生島足島神社」から10分ほど、次の目的地の上田市前田の「前山寺」に近い「山王山公園」駐車場に10:00車を駐める。8年前に行った戦没画学生慰霊美術館の「無言館」は、この近くにある。ここから塩田平の田園の見晴らしが良い。

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●前山寺(ぜんざんじ) 10:05~10:20

 「山王山公園」駐車場に車を駐めたが、「前山寺」により近い所に、空いている駐車場が2ヶ所ほどあった。

 5分ほど歩くと、立派な黒い冠木門(かぶきもん)。冠木門とは、門柱に貫(ぬき)をかけただけの屋根を持たない門。

 冠木門から先は結界(聖と俗を分ける堺)とされ、緩やかな石畳の坂と赤松や欅(ケヤキ)の巨木に囲まれた参道並木が100mほど続く。

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 参道の左手に建つ「信濃デッサン館」は、休館日。

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 「信濃デッサン館」は、1979年(昭和54年)に館主・窪島誠一郎(父は小説家・水上勉)によって設立。夭折(若くして亡くなった)の画家達の作品約1000点を所蔵、展示している。1997年(平成9年)に分館として、戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館。2015年末館主が病気となり、また来館者減少や財政上などの理由から、「無言館」を存続させ、「信濃デッサン館」を2018年3月から「無期限休館」としているという。

 急階段を上ると、薬医門(やくいもん)の先の左手に、木造茅葺の本堂がある。入山料200円。薬医門は、2本の本柱に控え柱を立て屋根を持つ門。

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 「前山寺」は、 独鈷山(とっこさん、標高1266m)の麓にある古刹で、真言宗智山派、本尊は大日如来。平安時代初期(812年)、空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられている。鎌倉時代の1331年、讃岐国「善通寺」より長秀上人が訪れ、「正法院」を現在の地に移し、「前山寺」を開山したとされる。「塩田城」の鬼門に位置し、その祈祷寺として塩田北条氏の信仰も厚かった。

 正面に重要文化財で有名な「前山寺三重塔」。

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 寺の縁起によれば、鎌倉時代の建立と伝えられているが、建築様式から室町時代初期と推定されるという。塔は高さ19.5m、屋根は柿葺(こけらぶき)。二層目と三層目に、何故か窓も扉もなく、また回廊(かいろう)も勾欄(=高欄、手すり)がないため、「未完成の完成塔」といわれる。

 案内標識に従って、「塩田城跡」に向かう。

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●塩田城跡 10:35

 坂道を上り、塩田城跡の主要部への入り口の「塩田城跡」の石碑の前を通過する。

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 「塩田城跡」は、独鈷山の分脈である弘法山(842m)の山麓にあり、塩田平を一望できる。鎌倉時代に北条義政が、鎌倉から塩田の地に入った時に居城として築いた。土塁や石垣が若干残っていて、昭和50年(1975年)頃に発掘調査が行われたそうだ。

 「塩田城跡」の石碑の前の「あじさい広場」で、 ちょうど地元自治会の「あじさい祭り」が開催されていた。子ども達の和太鼓、女性達のオカリナ演奏、焼き鳥やソフトドリンクの販売など。塩田北条氏が、鎌倉に向かう「鎌倉街道」は「あじさい小道」として整備されている。「前山寺」から「塩田城跡」の石碑の前を経て、「塩野神社」までの1.5Kmほどの小道に、3万株のあじさいが満開だった。

 「あじさい小道」を歩き、観光施設の「塩田の館」の前を経て「龍光院」へと進む。


●龍光院 10:40~10:50

 「黒門」と称される門の前には、樹齢600年というケヤキの大木と石標が立っている。右側は「曹洞宗 龍光院」。左側には「山門禁葷酒」、つまり臭みのある野菜、生臭い魚や肉は、修行の妨げになるから持ち込み禁止という意味。

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  門を抜けると、その先は石段の参道が長く延びている。参道の右側には車道が沿っていて、山門前の駐車場まで続く。

 参道を上りきると、右手に立派な山門が建つ。

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 山門から石畳が真直ぐ延びた先に、どっしりした寄棟・銅板葺きの本堂がある。江戸中期(享保年間)に再建されたという。中央に「龍光禅院」と金文字で書かれた扁額。本尊は釈迦如来。

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 1282年(弘安5年)、北条国時が父である義政の菩提を弔う為、臨済宗「仙乗寺」として創建。塩田北条氏の菩提寺として庇護され、「信州の鎌倉」の中心的寺院として隆盛する。その後1333年(元弘3年)新田義貞が鎌倉を攻め、幕府側についた塩田北条氏一族が滅びたため衰退する。1601年(慶長6年)、当初の寺号を「龍光院」と改め曹洞宗に改宗、再び興して現在に至る。

 本堂の左側には、選佛場が建っている。選佛場(せんぶつじょう)とは、座禅の修行をする禅堂。本堂や門の屋根には、「三つ鱗」の家紋が飾られており、北条氏の菩提寺であったことがうかがえる。「三つ鱗」は、正三角形を3つ山形に積み上げた図案の家紋。

 参道には初代義政の墓が、また近くの塩田城跡には国時、俊時父子の供養塔が建立されているそうだ。

 「あじさい小道」、ため池の「塩野池」の前を通り、「塩野神社」へ。

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●塩野神社 11:00

 時間の都合で、「塩野神社」の参道入口を通過。

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 「塩野神社」は、独鈷山(とっこさん)の山麓に位置し、大きな森につつまれた古社。出雲大社の分霊を、独鈷山の山頂付近の鷲岩という巨石に祀ったのが始まり。後に、人里近いこの場所に遙拝所が建てられ、そのうちに本殿もこの地に移されたという。「塩野神社」は、水の神様。神社の前に太鼓橋が架かっており、その下には独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れ、やがて産川(うぶがわ)と合流して塩田平を潤しているそうだ。

 古来この地方の信仰の中心で、塩野北条氏、武田氏、真田氏などの統治者は、この神社を厚く崇敬した。境内の森の荘厳さには定評があり、また太鼓橋、拝殿の楼閣造り、本殿の彫刻など、見るべきものが多いそうだ。時間がなくて残念。

 案内標識に従って、再び坂道を上って次の「中禅寺」へと進む。

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●中禅寺薬師堂 11:05~11:15

 無人の受付があって、拝観料200円を箱の中に入れる。

 仁王門には、木造金剛力士立像。阿形、吽形像は、県宝に指定。像高は2m余り。

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 「中禅寺薬師堂」は、中部日本(中部・関東地方)最古の木造建築物。本尊の薬師如来座像は、神将(しんしょう)像とともに、国の重要文化財に指定。薬師堂では「方三間宝形作り」という様式で建築されていて、様式の面から平安未期か鎌倉初期の創建とされている。

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 薬師堂の扉の格子から拝観すると、暗い堂内に木造薬師如来坐像が安置されている。像高は1m弱のカツラの寄木造り、国の重要文化財。鎌倉時代初期の製作と考えられている。薬師堂の様式、仏像が安置されている位置など、平安末期の平泉・金色堂と同じだそうだ。

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 薬師像の右下に、1躰の神将(しんしょう)像が安置されている。像高70cm弱、ヒノキの寄木造り、これも木造薬師如来坐像と共に、国の重要文化財。腕や左足先が失われており、薬師如来を守護する武神・十二神将のうちの1躰だけが残ったのか、別のお堂から移されて来たのだろうか。

 「中禅寺」は、真言宗智山派の寺院。平安初期、空海による創建と伝えられるが不詳。平安末期から鎌倉初期の仏像があることから、この頃までには伽藍があったようだ。 写真は、「中禅寺」の本堂。

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 車を駐めた「山王山公園」駐車場へ、歩いて戻る。

 11:50、駐車場を出発、西の方角の別所温泉に向かう。

 この後は、本ブログ記事「信州塩田平-その2」に続く。

 

 「上田城」、「真田の郷」、「無言館」についての本ブログの関連記事は、次の通り。

  「真田の郷」  2017年9月17日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-4c3e.html

  「紅葉の信濃路の旅」  2016年11月30日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8ad4.html

  「国宝・松本城と無言館」 2011年11月 2日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-a829.html



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 千曲川の東岸は、戦国時代に真田氏が築いた「上田城」とその城下町、北東の山間部には真田氏発祥の地「真田の郷」がある。一方で千曲川左岸の「塩田平」は、鎌倉時代に塩田北条氏の所領の田園が広がり、山の麓には塩田城跡、国宝・重文などの文化財が残り神社仏閣が残っていることが、よく分かった。


 信濃国小県(ちいさがた)郡の塩田郷は、古代には国府・国分寺も置かれ、「塩田平」と呼ばれるように肥沃な耕地を有し、信濃国における要地とされた。平安時代に建春門院に寄進され「塩田荘」となった。(建春門院は、平清盛の妻・時子の妹・滋子で、後白河天皇の寵愛を受け、平氏一門の繁栄の基となる高倉天皇を産んだ。)

 鎌倉時代には、幕府により島津忠久が地頭職に任命されるが、「比企能員(ひきよしがず)の変」に連座したので北条氏の所領となる。塩田北条氏は、2代執権・北条義時の三男・重時(極楽寺流)の五男・義政を祖とする北条氏の一門。重時以降の極楽寺流という一族は、北条氏一門の中でも北条家宗家に継ぐ家格を持ち、その子孫は幕府重職に就き、また嫡流の正室にも入っている。

 塩田北条氏の祖の義政は、鎌倉幕府の連署(執権に次ぐ役職)として8代執権・北条時宗を支える要職にありながら36歳で突然出家、信濃国善光寺に遁世して、その後「塩田荘」に籠居。以後この家系は、「塩田(または塩田流)北条氏」と称し、塩田荘の実質的な権益が継承されていった。義政が居住した「塩田荘」は、その子の国時、孫の俊時の三代で、「信州の鎌倉」と呼ばれる中世文化が開かれた。鎌倉陥落の際には宗家に殉じ、国時とその子の俊時と藤時が、一門と共に自害した。

 北条が滅んだ後は村上氏が長く支配したが、戦国時代には武田氏や真田氏の所領となる。江戸時代は、「塩田三万石」と称される上田藩の穀倉地帯となった。


 「塩田平」は、千曲川の支流である浦野川と産川(うぶがわ)の河岸段丘と低い丘によって形成された平坦地。かつて湖であったが、2つの川によって埋め立てられたものと考えられている。「塩田平」は、全国有数の雨の少ない地域で、ため池が多い。耕作地は浦野川や産川の河岸段丘の上にあるため、江戸時代から「塩田平3万石」と言われる900haの水田に、大小合わせて100ヶ所のため池を作り、灌漑に使用されている。2010年には「塩田平のため池群」として農林水産省の「ため池百選」に選定されている。

 1956年(昭和31年)、長野県西塩田村・東塩田村・中塩田村と別所村が合併して塩田町が発足したが、塩田町は1970年(昭和45年)に上田市に編入された。また真田発祥の地や菅平高原で知られる真田町は、2006年(平成18年)に上田市に編入されている。

 

 

 

那須塩原-その2

 2019年7月10日(水)~11日(木)、栃木県那須塩原の1泊2日の宿泊旅行。

 本ブログ記事「那須塩原-その1」の続き。

 

 2日目の7月11日(木)、5時半起床。

 6時半からラジオ体操。このホテルは、毎朝2階フロント前で宿泊者向けのラジオ体操がある。日替わりで、標準語、青森弁、岩手弁、茨城弁、京都弁、大阪弁、土佐弁、博多弁、鹿児島弁…など各地の方言を使ったラジオ体操第一をビデオで流す。

 この日は、ウチナーグチ(沖縄)。掛け声がさっぱり分からないが、数を数えるのは何となくわかる。

 ティーチ(1) ターチ(2) ミーチ(3) ユーチ(4) イチチ(5) ムーチ(6) ナナチ(7)ヤーチ(8)。ちなみに9はククヌチ、10はトゥー。

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 20人ほどの参加者には、ミネラルウオーターが配られた。PETボトル500mLの「 麗( うるわ)しずく 」。環境省の名水百選にも認定されている長良川中流域の地下天然水をボトリング。カラダに吸収されやすいとされるpH7.3、硬度27の軟水、とても美味しい。

 ラジオ体操の後は、朝風呂へ。前日の迷子になりそうな「湯仙境」ではなく、西館の地下1階にある「岩風呂」に入り、気分爽快。体も脳も活性化。

 7時45分から朝食。この時刻はちょうど混み合う時で、列に並んでやっと8人掛けのテーブルに着席。朝食は、60数品目(ドリンクを除く)もあるという。

 誰もが那須塩原の正確な地図を持っていない。あるのは観光地図で、道路をデフォルメして書いてあるので、距離感がつかめなない。とりあえず、今日の予定は塩原渓谷の有名な滝と大吊橋。お昼は、那須で適当なステーキ店を探すことに。行きあたりばったりの旅。


 10時、「ホテルニュー塩原」を出発。時折、雨がパラパラ。箒川(ほうきがわ)に沿った国道400号線を下る。

 10時15分、国道沿いに塩原の代表的な滝である「竜化(りゅうげ)の滝」入口にある駐車場に到着。

 

●竜化の滝 那須塩原市塩原字東山国有林 10:15~10:55

 案内板には、ここから700m、山道を歩いて片道20分とある。箒川(ほうきがわ)に注ぐ沢をさかのぼる。

  山道を登ると、この辺りは材木岩と呼ばれる柱状節理を見ることができる。

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 沢を渡る橋から、下流側に滝らしい流れがある。そこから全体は見えないが、これが案内板にあった「抛雪(ほうせつ)の滝」か。

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 国道400号線の「澄鮮橋(ちょうせんはし)」からだと滝全体が見えるらしいが、澄鮮橋付近には駐車場も路肩もないそうだ。しかも国道は道幅が狭くカーブが多い上に交通量も多いので危険、見学は無理。

 沢に沿ってよく整備された遊歩道を登る。雨で濡れていて滑り易く、急な坂道が続く。

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 案内板にあった2番目の滝の「風挙(ふうきょ)の滝」は、沢が少し開けた所にある。落差は約10m。

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 コンクリートのトンネルの中で、遊歩道の行き止り。ここが観瀑台。

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 観瀑台の眼前に、迫力のある「竜化の滝」。落差60m、三段になって流れる様子が、竜が登っているように見えるそうだ。

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 次の目的地は、大吊り橋。「竜化の滝」駐車場から国道400号の約4㎞先、途中に長さ1.5Kmの「がま石トンネル」を抜ける。

 

●もみじ谷大吊橋 那須塩原市関谷 11:10~12:55

 レストラン、ショップ、トイレのある「森林(もり)の駅」の駐車場に着く。塩原ダム湖に架かる全長320m、歩道吊り橋としては本州最大級の「もみじ谷大吊り橋」。通行料は大人300円、小中学生・高齢者(65歳以上)は200円。

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 特に紅葉の時期なら、雄大な塩原渓谷の自然に囲まれた吊り橋の景観が楽しめそうだ。

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 対岸がダム公園になっていて、展望台がある。また2013年に「恋人の聖地」として認定され、この谷の周辺に生息するクマタカのつがいのモニュメントが設置されていて、恋人たちの記念撮影スポット。また人間国宝の宮大工・西岡常一(1908年~1995)の唯一の内弟子・小川三夫氏が制作したという立派な祠(ほこら)が、何故かここにある。


 大吊り橋から国道440号を南下し北西に進路を変え、那須郡の那須町へ。

 

●和牛ステーキ桜 那須高原店 那須郡那須町高久甲 13:05~14:40

 那須街道(県道17号那須高原線)を走り、昼食のステーキの店を探す。しかしどこも高級店でランチで5千円以上。お子様ランチなら、それなりの値段で肉が食べられそうだが…。

 「和牛ステーキ桜 那須高原店」の店を覗く。

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 ここはランチのステーキが5千円前後。ちょっと手が届かないが、国産牛ハンバーグなら150gで1,800円、200gで2,300(いずれも税抜き)。これにサラダ、スープ、パンまたはガーリックライス、デザート、コーヒーまたは紅茶が付く。

 全員これで手を打ち、入店。ちょうど8人が入れる個室に案内された。ハンバーグのサイズ、パン・ライスなど、各自好みのものを注文。ステーキはあきらめたが、ハンバーグも十分美味しくて全員が満足。

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●チーズガーデン那須本店 那須郡那須町高久甲 14:45~15:00

 「チーズガーデン那須本店」に寄り、チーズケーキを購入。

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 「御用邸チーズケーキ」1,350円。

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 帰りは、東北道の佐野SA(サービスエリア)で休憩、買い物。

 「御用邸の月」(6個入り)884円

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 「皇室御用達」ではないと思うが、那須高原に皇室の御用邸があることに因んだ「御用邸」ブランドのお土産は、なんとなく気品があって、手に取ってしまう。

 

 佐野SAを出て間もなく本格的な雨が降り出した。梅雨時期の今回の旅行は、晴れることはなかったが、何とかここまで雨が降らず助かった。

 17時過ぎに出発地に到着。

 

 ★ ★ ★

 「那須塩原市」は栃木県北部の都市で、2005年(平成17年)1月に黒磯市、西那須野町と塩原町の合併により発足。なお東那須野村というのがあったが、1955年に当時の黒磯町と合併している。

 那須塩原市は、人口11万6千人(2019年7月)で県内で第6位、面積は日光市に次いで県内第2位。大田原市、矢板市、日光市、那須郡那須町、塩谷郡塩谷町と隣接する。

 日本最大級の扇状地「那須野が原」の大部分を市域とする。明治政府の「那須野が原」開拓事業により形成された比較的新しい都市で、山間部に塩原温泉や板室温泉などの観光都市も併せ持つ。酪農も盛んで、生乳の粗生産額が本州第1位(全国第4位)。

 

 那須、那須塩原、那須高原、那須野が原、那須温泉郷など、混同し易く、分かりにくい。以下に整理してみる。

・「那須」:おおよそ旧那須郡を指す。那珂川の上流(支流も含む)一帯の地域名。

 行政区画では、大田原市、那須塩原市、那須烏山市、那須郡の那須町と那珂川町が相当する。

 地形的には、那須岳の南麓地域の「那須高原」と複合扇状地の「那須野が原」から成る。

 観光地としての「那須」は曖昧だが、一般的には那須町の「那須岳」、その麓の「那須高原」や「那須温泉郷」を指す場合が多いようだ。

・「那須塩原」:黒磯市、那須郡西那須野町の那須の一部地域と、那須に含まれない塩原町が合併した「 那須塩原市」のこと。

・「那須高原」:那須岳の南麓地域。那須岳の標高千数百mの地域より、東北本線や国道4号が通る標高300m辺りまでの緩やかな斜面。那須御用邸がある。

・「那須野が原」:「那須」地域にある日本最大級の複合扇状地。那須連山や大佐飛山地の山麓部から、箒川と那珂川の合流部にかけて広がる標高150~500m程度の緩やかに傾斜した台地。南の箒川と北の那珂川で区切られる。中央に扇状地特有の水無川の「熊川」、「蛇尾川(さびがわ)」がある。日本三大疏水の一つ「那須疏水」(用水路)が流れる。 

・「那須温泉郷」:那須岳の南麓に位置する那須町を中心に散在する温泉の総称。

・「塩原」:那須塩原市の塩原地区(旧塩原町)を指し、塩原温泉郷が有名。

・「塩原温泉郷」:旧塩原町の箒川(ほうきがわ)沿いの谷間を中心に点在する11の温泉の総称。

 なお「箒川」は、大佐飛山地(那須塩原市塩原)を源流として塩原渓谷を形成して塩原温泉郷を流れ、「那須野が原」の南端を流れて大田原付近で1級河川の那珂川に合流する。「那珂川」の本流は、那須岳山麓(那須町)を源流として「那須野が原」の北端を流れて、茨城県ひたちなか市で太平洋に注ぐ。

 

 

2019年7月16日 (火)

那須塩原-その1

 2019年7月10日(水)~11日(木)、栃木県那須塩原の1泊2日の宿泊旅行。

 

 1日目の7月10日(水)。10:00、参加者8名、最寄り駅前を車2台で出発。東北自動車道を走る。

 佐野SA(サービスエリア)で1回目の休憩。2回目は、12:25~上河内SAで休憩。昼食は、レストラン「和食 九尾」で天ぷら蕎麦980円。

 西那須野塩原インターで高速を下り、国道400号沿いの「千本松牧場」へ。

 

●千本松牧場 (那須塩原市千本松) 13:35~15:00

 肉料理の店「ミレピーニランチョ」の前の駐車場に車を駐める。入場料・駐車場無料。

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 「那須千本松牧場」は100年以上の歴史があり、東京ドーム178個分の広大な広さ(全面積834ha)を持つ牧場&レジャー施設。ホウライ株式会社が運営。

 牧場内で育てている乳牛は約500頭、1日約8トンの生乳を敷地内の工場で生産。

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 「ジンギス館」で牛乳1杯無料券を使って新鮮な牛乳を頂き、隣のソフトパーラー「まきば」でチョコミント380円。

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 牧場内を散策。

 スポーツ施設、遊戯施設を左右に見ながら桜並木を350mほど歩くと十字路。右に折れて、左手に動物ふれあい広場、牛舎・放牧場、乳業工場(ホウライ)が続く広い道路を650mほど進むと、「萬歳閣」がある。

 千本松牧場内にある「萬歳閣」は、内閣総理大臣・松方正義の旧別邸。

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 明治36年に建てられた木造2階建て洋館。1階の外壁が石造り。

 建物とその周辺敷地は、現在も松方家とその関係者が利用しており、外観のみ見学。

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 政府の要職を離れていた松方正義は、1893年(明治26年)この地に広大な農場を開設、大型機械を導入し欧米式農場経営を行った。

 

 資料用のトウモロコシ畑の巨大迷路やいちご園ハウスの反対側の林の中に、「千本松温泉」がある。源泉かけ流しの日本庭園風の露天風呂。

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 「千松神社」は、日本三大稲荷の一つ「笠間稲荷神社」より、1953年(昭和28年)蓬莱殖産株式会社(現ホウライ株式会社)の開運・招福・火伏の守護神として分霊。笠間稲荷大神は元来、食物の神、農業の神様として崇敬されていた。

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 食事処「もみじ亭」のそばを通って、駐車場に戻る。

 「千本松牧場」から次の目的地「乃木神社」(那須塩原市石林)まで約20分ほど。

 国道400号を南下し、東北道をくぐり、国道4号線を横切り、東北新幹線の高架をくぐる。

  

●乃木神社 (那須塩原市石林) 15:25~16:20

 「千本松牧場」から20分ほどで「乃木神社」へ到着。

 日清戦争後に乃木大将が閑居した別邸の敷地内にある「乃木神社」。左手に将軍像が立つ。

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 主祭神は乃木希典将軍、静子夫人。乃木希典は長州藩の支藩長府藩士の出身、日露戦争の英雄とされている。乃木希典が明治天皇の崩御により殉死したのち、1916年(大正5)に創建された。

 拝殿で参拝。

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 神馬舎。皇太子時代の大正天皇から乃木将軍が賜った白馬の実物大模型がある。

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 皇太子殿下にちなんで「殿号(しんがりごう)」と名付けられた。乃木将軍夫妻の殉死後の1914年(大正3年)、この地の別邸で没した。

 「宝物館」には、乃木希典の遺品が展示されている(入館せず)。入口に、中国馬車が展示。

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 この中国馬車は、複数の馬で引き悪路に堪えられるよう堅牢に造られている。昭和初期に奉納されたそうだ。右の一回り小さな車輪(前輪)が、左の車輪(後輪)と重なっていて、おかしい。ネットで見つけた写真を見ると、この馬車は屋根の付いた別の場所に置かれていて、前輪は台車のもっと右手に取り付けられていた。

 森に囲まれた境内の奥には、乃木夫人の静子が杉の苗を植えたという「静子林」やたくさんの鯉が泳ぐ「静沼」がある。その奥に、乃木将軍の別邸が保存されている。「静沼」は、元は乃木家の水田だったそうだ。

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「乃木希典那須野旧宅」は、「乃木将軍」として親しまれている乃木希典(まれすけ)が、1891年(明治24年)、石林の地に約14haの土地を求め、静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎)が所有している土地と家屋を譲り受けた。

 枝折戸(しおりど)を入ると、左手に石造り書庫があり、正面に旧宅(別邸)。

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 石蔵庫。現在は乃木希典に関する書籍等が展示されている「石林文庫」。

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 愛馬「殿号」(しんがりごう)の厩(うまや)。

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 左の藁葺屋根は、農具舎。右は別邸、正面に風呂や井戸、その奥には納屋がある。

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 乃木将軍の別邸。こちらが正面で玄関がある。内部は公開されていない。

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 当初は住宅1棟と納屋があったが、明治25年(1892)、乃木将軍は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。栗の木の板を小さく切って重ねた栗小羽葺き(後に瓦葺き)の平屋で、延べ面は約189平方m。関西間風の間取りで建坪は53坪(関東間に換算すると約57坪)。土間と囲炉裏があり、畳の部屋は8畳間・6畳間など合計6つ、その他物置場・屋根裏部屋等があるそうだ。

 前庭の納屋の前にも、乃木将軍の石像が建っていた。

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 乃木将軍は生涯に4度の休職をした。別邸を建ててからは、休職中の延べ48か月の多くをここで晴耕雨読の生活を送った。村人とも親しく交わったという。別邸は、放火により1990年(平成2年)に焼失、1993年(平成5年)に復元された。

 

 箒川(ほうきかわ)に沿った国道400号を北上して、宿泊地の塩原温泉へ向かう。

 17:10、大江戸温泉物語グループの「ホテルニュー塩原」に到着。

 
 

●ホテルニュー塩原 (那須塩原市塩原)17:10~

 「ホテルニュー塩原」は西館(本館、下の写真)のほか、B&H(ビューティ&ヘルス)館(新館)、湯仙峡(リニューアル館)の3館で構成されている。

 西館2階のフロントでチェックイン。宿泊は、西館8階の和室2部屋。

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 入浴は、8階からエレベーターで4階で降り、そこから箒川を渡る通路橋を通って対岸の「リニューアル館」のエレベーターに乗り換え、地下1階で降りるとそこが「湯仙峡(ゆせんきょう)大浴場」。

 18:30~20:15、西館1階の食事会場「オーロラ」で夕食(バイキング)。体育館より広い会場だが、平日なのに会場いっぱいに宿泊客が食事に集まっていることに驚く。料理の種類は、80種類以上(ドリンクは除く)とか。デザートもドリンクも豊富。

 

 8:45~21:30、西館2階の劇場「塩原 鳳凰座」で、「逢川まさき」歌謡ショーを観覧する。宿泊者の観覧は無料。

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 劇場には、客席の半分ほど約100名ほどの観客が入っている。司会の紹介のあと、逢川まさきが登場、まずデビュー曲の『港たずねびと』を披露。小銭を紙に包んで投げるお捻り(おひねり)の代わりに、客は一本500円のレイを買って、客席を握手して回る歌手の首にかける。「追っかけ」らしいおばさんたちも散見する。

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 そのほか持ち歌を数曲、カバー曲を数曲。中孝介の『花』のカバー曲を、9月CD発売に先駆けて披露。アンコールは、懐メロの森田公一の「青春時代」を観客と一緒に歌ってお開き。客のお見送りでは、逢川まさきが自ら、CDとサイン色紙やグッズを売っていた。

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 このホテルの歌謡ショーは、2日~5日で出演者が変わるようだ。逢川まさきは、今週火曜から金曜までの4日間の出演の予定。

 ちなみに昼の部は、大衆演劇により13:30~14:30 お芝居、15:00~16:00 舞踊ショー。夜の部は、19:00~20:00舞踊ショーだった。7月中は、中野加津也座長の公演で、これも月ごとに出演劇団が変わる。

 

 歌謡ショーの後は、参加者が部屋に集まって歓談、12:00頃就寝。

 

 ★ ★ ★

●松方正義

 松方正義(1835~1924)は、薩摩出身の明治の元勲。大蔵卿、大蔵大臣を長年務め、2度の内閣総理大臣(第4代、6代)を任じられた。日本銀行の創設、財政金融政策を確立するなど、財政金融面の業績を残した。那須の別邸は赤松林の中にあり、松方が新たに牧羊を始めるに当たって建設された。この地を「千本松」と名付け、別邸は当初「松茂山荘」と呼ばれていた。

 翌年、塩原御用邸(戦後廃止された)に滞在中の皇太子(後の大正天皇)がこの別邸に行啓された折り、日露戦争の遼陽陥落の報が届き「万歳」を唱え祝杯を挙げた事から、「萬歳閣」と呼ぶようになったという。

 松方正義は、女好きで子沢山、早世した2男も含めて15男11女の26子もあったそうだ。明治天皇がら絶大な信頼を得ていたが、子供の数を尋ねられて即答できなかったというエピソードがある。

 写真は、ウキペディアコモンズから転載。

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 子供たちは、男子の多くが高学歴で実業家や政治家として活躍、また女子はそういった家に嫁いでいる。特に三男の松方幸次郎は、川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)を務めたが、美術収集家としても著名だ。日本の本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は「松方コレクション」の名で知られており、その一部は「国立西洋美術館」に所蔵、展示されている。

 

●乃木希典

 乃木希典(のぎまれすけ 1849~1912)は、長州藩の支藩・長府藩士、軍人(階級は大将)、教育者、また多くの詩歌を遺した文人でもあった。明治45年(1912年)7月30日明治天皇が崩御され、その「大葬(たいそう)の礼」が行われた9月13日夜、乃木夫妻は殉死(自刃)した。享年62歳。乃木の殉死の理由は、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うためとか、日露戦争において多くの天皇の兵士を失ったことなどが挙げられている。戦前は「乃木大将」、「乃木将軍」と親しまれ、東京の「乃木坂」の地名の由来でもある。

 日露戦争における旅順攻囲戦では第三軍司令官として指揮を執った。旅順要塞は「難攻不落」とされ、日露戦争における最激戦であったため、日露戦争を代表する将軍として日本海海戦の東郷平八郎と共に、その武功が国際的に評価された。また、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も世界的な賞賛の対象となり、軍人としての人格も評価されている。

 また乃木は日露戦争で2人の息子を戦死させてしまった事から、国民的な同情を寄せられた。明治天皇は、子息を亡くした将軍の心中を思い、将軍を学習院院長に任じ、裕仁親王殿下(後の昭和天皇)の教育係りも委ねた。

 写真は、ウキペディアコモンズから転載。

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 しかしながら旅順要塞攻略に際しては、延べ6万人の戦死者を出した。特に激戦地だった203高地では、11日間の戦闘で約5千名の戦死者、約1万1千名の負傷者を出し、戦いには勝利したが大きな犠牲を払った。旅順攻囲戦での戦略的な誤りや、明治天皇崩御に際し前時代的な殉死について、司馬遼太郎ほか多くの文化人からの批判も多い。名将であったとする主張と愚将だったとの批判とで、乃木に対する評価は大きく分かれる。

 乃木は殉死に当たって静子夫人に宛てた遺書を残している。夫人の殉死の遺志は、直前まで将軍に伏せられいたため、乃木は一人で死ぬつもりだったそうだ。将軍夫妻の墓所は、東京・青山霊園にある。

 

 「乃木神社」は、乃木希典を軍神として祀った神社。乃木の出身地の下関市や別邸のあった那須塩原市など、国内ゆかりの地に複数の「乃木神社」がある。

 栃木県那須塩原市・・・日清戦争後に乃木が閑居した別邸の敷地内にある。
 京都市伏見区・・・明治天皇陵の麓にある。
 山口県下関市長府・・・乃木の郷里。
 東京都港区赤坂・・・乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地にある。

 そのほかにも、滋賀県近江八幡市、香川県善通寺市、北海道室蘭市、埼玉県飯能市などにも「乃木神社」があるそうだ。

 

●逢川まさき

 プロ歌手の「逢川まさき」は、声も良いし歌もうまい。ちょっと出た月並みの歌手とどこか違う良さを持っている。しかしこういった歌手は、日本中にたくさんいるのだろう。本名前田将邦、熊本県八代市出身、1980年3月生まれの39歳。日本クラウン株式会社所属。事務所は、個人事務所の「オフィスアイカワ」。

 高校生の時にNHKのど自慢へ出場、2001年名古屋で開かれたカラオケ大会でグランプリを受賞。大会関係者にスカウトされて上京 、6年後の2008年『港たずねびと』で歌手デビュー。2010年はは第2弾シングル『しのび逢い』で全国キャンペーン行い、初めてのソロコンサートを東京で開催した。

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 27歳の遅いデビューで12年目、クラウンレコードから何枚かCDを出し、カラオケにも何曲か入っているそうだ。しかしテレビで見たり、聞いたりするようなヒット曲は、まだないようだ。

 デビューの時のキャッチフレーズは「甘い艶のある低音の響きを持つ新人」。本人の弁では、若い頃はプロゴルファーの石川遼に似ていることから「歌謡界のハニカミ王子」、しかし最近は俳優の香川照之に似て来たという。声は美川憲一似だそうだ。

 

 本ブログ記事「那須塩原-その2」に続く。

 

2019年6月26日 (水)

秩父・熊谷のアジサイ名所

 2019年6月24日(月)、埼玉県秩父地域と熊谷市内のアジサイ名所をめぐる。

 
 昨夜から続く雨の中、アジサイめぐりを決行したのは7人、車2台に分乗。今日は終日、雨の予報。

 7:50関越道の花園ICを降り、西へ。秩父郡皆野町へと向かう。

 

●美の山公園 8:40~9:45 

 皆野町と秩父市にまたがる蓑山(みのやま、標高586m)の山頂一帯にある「美の山公園」。山頂付近には、駐車場、エントランス広場、イベント広場、展望台(3ヶ所)、インフォメーションセンター、売店、トイレなどの設備がある。

 土砂降りの雨の中、「美の山公園」の山頂付近の広場。

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 「美の山公園」の東斜面に広がるアジサイ園地。園全体の開花は、まだ3~4割程度か。

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 遠景は霧でよく見えない。

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 インフォメーションセンターの内部。秩父の写真を展示中。

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  「美の山公園」は、秩父盆地や奥秩父、外秩父の山々、赤城や日光連山が一望でき、8,000本のサクラのほか、3,500株のヤマツツジ、4,500株のアジサイ、紅葉、雲海や夜景が見どころ。ハイキングコースもある。

  蓑山に10年の歳月をかけて桜を植栽、1979年(昭和54年)に開園した広さ41haの県立の自然公園。環境省より国民休養地に指定された総合野外レクリエーション施設。

 

 県道44号線(秩父児玉線)を北上、「萩神社」と廃校になった「金沢小学校」(現在「デイサービスももとせ学校」)の前を通り過ぎ、信号あるT字路の突き当りは、赤い屋根の小さいお堂。道路標識は、道なりが県道44号(その先のY字路を右折すると国道140号線)、左折は行き先の表示がない。左折して西へ山道を進み、株式会社「上武」の採石場前を通過。やがて道は狭くなりT字路の標識は、右折「上武基幹林道 神泉村 吉田町」、直進「浦山地区 行止り」とある。直進して、浦山に向かう。



●皆野町金沢地区浦山 10:20~11:20 

 皆野町の金沢地区浦山の「カタクリの里」には、約4,000株の色とりどりのアジサイが植栽されており、梅雨時期には「美の山公園」と並んで、人気のアジサイスポット。「美の山公園」のアジサイに比べ、開花はやや遅いそうだ。

 金沢浦山の杉林の中、アジサイ園の入口。車2~3台を駐められる駐車場とトイレの建物。

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 雑木林の霧の中に咲くアジサイが幻想的。細い山道を登りながら鑑賞。

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 白と青のアジサイがほとんどで、彩りが少ないのが残念。

 「美の山公園」と皆野町金沢浦山のアジサイは、土砂降りの中でカッパを着て傘を差しても、濡れながらの鑑賞だった。

 


●そば処「別品屋本店」 11:40~12:20 

 秩父郡長瀞町野上、国道140号線の射撃場入口交差点付近の「別品屋(べっぴんや)本店」で昼食。

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 温かい、天ぷらそば850円を注文。

 天気予報に反して、昼ころから空は少し明るくなり小雨。国道140号線を西に進み、熊谷市街から国道407号線を北上、熊谷市妻沼に向かうころには、雨は止む。

 あじさい寺の「能護寺」に行く前に妻沼名物の「妻沼のいなり寿司」を買うため、「妻沼聖天山」に先に行く。

 

●妻沼聖天山(歓喜院)  13:15~13:55

 「歓喜院(かんぎいん)」は、熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の寺院。一般には「妻沼聖天山(しょうてんざん)」、地元では「聖天さま」と呼ばれる。日本三大聖天の一つで、特に縁結びの御利益で知られる。夫婦の縁をはじめ、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結んでいただけるという。

 雨が上がった「妻沼聖天山。3つある門のひとつ「仁王門」。

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 社伝によると、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将・斎藤実盛(さねもり)が、1179年(治承3年)に守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を当地に建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。

 その後、1670年(寛文10年)の妻沼の大火で焼失。現存する聖天堂(本殿)は、1735年( 享保20年)から1760年(宝暦10年)にかけて、棟梁・林兵庫正清・正信の親子らによって建立された。彫刻技術の高さに加え、漆の高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またこのような建物が権力者でなく民衆の力によっての建設されたことが、文化史上高い価値を有すると評価され、2012年(平成24年)に聖天堂(本殿)は国宝に指定された。

 妻沼聖天山 の拝殿。

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 彩色豊かな彫刻で装飾された本殿は、透塀(玉垣)内にあり、拝観入場券が700円 。時間の都合で入場せず。(文末の関連ブログ記事を参照)

 門前にある「妻沼のいなり寿司」の店「聖天寿司」は、この日は定休日。

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 二百数十年前、妻沼郷が聖天山の門前町や利根川の宿場町として栄えた頃から、「妻沼のいなり寿司」が妻沼の名物だったという。油揚げを煮込むタレも独特で、コクのある風味と細長く大きな形のいなり寿司、そしてのり巻がセット。庶民の味、ふるさとの味として親しまれ、今もその人気は根強く、遠方からもこの寿司を目当てに、足を運ぶ人も多いという。

 写真は、「聖天寿司」(妻沼いなり寿司)。ウィキペディアコモンズより転載。

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 「聖天寿司」の店のほか、「妻沼のいなり寿司」は「聖天山」周辺の「小林寿司」と「森川寿司」の2軒の店で売られているそうだ。行って見ると、月曜日は定休日。近くの407号線沿いの「道の駅めぬま」でも売られていると聞き、そちらに行って見ることに。

 

●道の駅めぬま 14:00~14:15

 「道の駅めぬま」にも「妻沼のいなり寿司」が売られてていて、名前は「吟ぎん寿司」。 妻沼出身の日本で初の女医・荻野吟子にちなんだ商品名で、「道の駅めぬま」の地域振興施設「めぬぱる」の管理・運営会社「有限会社メロード」が製造元。

 なお、丸い建物の地域振興施設「めぬぱる」の1階部分は、地元にかかわる品物の売店。2階はレストランと、女医第1号の荻野吟子をはじめとする日本の女性第1号のパネル展示がある。

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 残念ながら、「吟ぎん寿司」も売り切れ。店員に聞くと、この日は「聖天山」周辺の店が休みで、参拝客がこの道の駅に多く買い求めて来たそうだ。

 ちなみに、道の駅の中の「めぬまアグリパーク」では、約400種2000株のバラが植えられている(入場無料)。例年5月中旬~6月上旬、秋バラは10月中旬~11月下旬が見ごろ。すでにこの時期、咲いているバラはわずか。

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 「めぬまアグリパーク」のバラ園に建つ荻野吟子の像。

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 施設の名前がいろいろあって、分かりにくい。整理すると「道の駅めぬま」は、駐車場と「めぬまアグリパーク」と「めぬま物産センター」を合わせた施設全体を指すようだ。「めぬまアグリパーク」は、丸い2階建ての地域振興施設「めぬぱる」とバラ園。「めぬま物産センター」は、直売所と食堂から成るようだ。
 
 

●能護寺 14:30~15:00 

 熊谷市永井太田のあじさい寺「能護寺」は、国道407号線を挟んで、「妻沼聖天山」の西に直線3キロほどの距離にある。

 高野山真言宗の寺院で、743年(天平15年)行基上人が開山し、後に弘法大師(空海)が再建したと伝えられる。近年、妻沼の「あじさい寺」として親しまれ、毎年6月上旬~下旬頃は、境内に50種類800株をこえる色とりどりのアジサイが咲き誇る。

 山門で拝観料300円を払って、入山。

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 鐘楼の鐘は、1701年(元禄14年)に鋳造、市の文化財に指定。建物は1902年(明治35年)に再建された。

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 現在の本堂は1814年(文化11年)に再建。本堂内部は見てないが、奥(内陣)に本尊の大日如来、手前(外陣)に阿弥陀如来を安置。堂内の格天井に16羅漢図、格天井や板戸に花鳥獣が色鮮やかに描かれているそうだ。

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 虚空蔵堂(下の写真)には、丑・寅生まれの守り本尊で、智恵と福徳を授ける虚空蔵菩薩が安置されているという。

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 「能護寺」のアジサイ鑑賞の頃には、曇り空だがすっかり明るくなって、熊谷地方の最高気温は22℃だった。

 15:00、現地で散会。

 

 女医第1号の荻野吟子と「妻沼聖天山」について、関連ブログ記事は以下の通り。

  「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012年1月29日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

  「妻沼聖天山」 2012年12月13日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-8470.html

  「利根川サイクリングロード」 2013年12月14日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/2013-47a1.html

 

 

2019年6月22日 (土)

吉見朝観音2019

 2019年6月18日(火)、恒例の「吉見観音朝詣り」で早朝ウォーキング。

 

 坂東三十三箇所11番札所、関東八十八箇所75番札所の「安楽寺」(埼玉県比企郡吉見町)は、古くから「吉見観音」と呼ばれて地元の人々に親しまれている。毎年6月18日は、吉見観音の御開帳に当って開催される「厄除け朝観音御開帳」。朝早くにお詣りすると、ご利益があるそうだ。午前2時頃から参拝客で賑わいを見せるという。

 早朝、ウォーキングの会の参加者が集合場所の市民センターに早朝がそろったところで、午前5時出発。往復8Kmの道のりを歩いて「吉見観音」に参拝する「吉見観音朝詣り」の早朝ウォーキング。

 まだ車の往来の少ない市街地、国指定史跡の「吉見百穴」(ひゃくあな)の前を経て、田園風景の中へ、いつものルートを歩く。

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 ショーカットのあぜ道を歩く。

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 「吉見観音」(安楽寺)の仁王門。

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 「吉見観音」に到着し、さっそく観音様にお詣りする頃、6時の打ち上げ花火が鳴り響く。境内には名物の厄除け団子を売るテントの前に、買い求める参拝客の行列が出来、参道にもいくつか屋台も並ぶ。

 「吉見観音」の境内の様子。

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 「吉見観音」に参拝。

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 現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に建築されたもの。本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。

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 なお、本堂、三重塔、仁王門は、埼玉県指定文化財。仁王像は、吉見町指定文化財。

 厄除け団子を買って、参道を帰る参拝客。

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 古くから吉見観音の参道で店を開いている茶店「どびんや」は、本日の「厄除け団子」が売り切れたのか、この日も通りかかった午前6時過ぎには店が閉まっていた。

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 車で駆け付けた会員を含めて、参加者は25人。参拝を済ませた後は、近くの資材置き場の空き地に集まり、朝食の弁当とお茶が幹事から配られた。

 朝食後の6時45分、散会。参加者はお土産の厄除け団子を手に、また来た道を歩いて帰る。

 お土産の厄除け団子。

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 7:45、集合場所の市民センターに到着。
 

 まだ薄暗い早朝の空は雲が多めだったが、陽が昇るにつれ青空も広がり、やがて日差しも出てきた。

 この日午後の最高気温は28℃、夏日だった。
 
 

 

 本ブログの関連記事

  2018年ブログ記事「吉見朝観音2018」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/2018-5e74.html

  2017年ブログ記事「吉見朝観音2017」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/618-b1a2.html

  2016年ブログ記事「吉見朝観音2016」は、こちら。
      http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-8047.html

  2015年ブログ記事「吉見朝観音2015」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-aef0.html

  2014年のブログ記事「吉見朝観音2014」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-8047.html

  2013年のブログ記事「吉見朝観音2013」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-8047.html

  2012年のブログ記事「吉見朝観音2012」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-8047.html

 

2019年6月21日 (金)

初夏の赤城自然園

 6月13日(金)、群馬県渋川市の「赤城自然園」に行く。
 

 「赤城自然園」は赤城山の西麓、標高600~700mにある。「人間と自然との共生」の実現を目指し、四季を織りなす美しい自然を感じることができる森。約120ヘクタール(約36万坪)、一般開園エリア約60ヘクタール(約18万坪)。運営は、株式会社クレディセゾン。
 

 国道17号線のバイパスである熊谷バイパス、深谷バイパス、上武道路を北上、前橋市を経て渋川市へ。

 森の中に木造の建物が、公園の出入口の「総合案内所」。

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 10:20、「赤城自然園」に入園。

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 「総合案内所」の向かいにある「展示棟」。

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 園内案内図(図をクリックすると拡大表示します)。

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 入口からゆるい坂の遊歩道の途中にある「シャクナゲ園」、わずかに咲いていたシャクナゲ(石楠花、ツツジ科)の花。

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 「シャクナゲ園」にある池の周りのシャクナゲの花は、終わっている。

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  サクラマンテン(桜マンテン、ナデシコ科)は、桜マンテマ、桜マンテなどいろいろ呼び名があるようだ。

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 咲いているツツジ(躑躅、ツツジ科)も少ない。シャクナゲとツツジの花の季節は終わっている。

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 ミヤコワスレ(都忘れ、キク科)。

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 ミヤマヨメナ(深山嫁菜)はキク科、春に開花する野菊の一つで、ミヤコワスレは本種の園芸品種だそうだ。 

 リュウノウギク(キク科)。

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 日差しは強いが、新緑の木陰は涼しくて気持良い。遊歩道には、樹皮を粉砕したパークチップを敷いてあって、足元が心地よく歩き易い。

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 「ナナフシ橋」を渡ると、左手に東屋(あずまや)がある。12:00頃、東屋のベンチに腰掛け、持参した弁当でランチ。

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 東屋付近の マムシグサ(サトイモ科)。茎に紫褐色のまだら模様があり、この模様がマムシに似ているという。

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 東屋付近の エビネ(海老根、ラン科)。根が海老に似ているそうだ。

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 測量の基点となる標高675mの三等「三角点」。「丸塚」と呼ばれる場所。

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 「昆虫広場」(休憩広場)には、昆虫のトラップや蜂の巣の標本がある。

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 カブトムシが好きなコナラ(小楢、ブナ科)やクヌギ(椚、ブナ科)の「カブトムシの森」。

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 森の中の湧水の泉、神秘的な「ミズスマシの池」。アメンボが時々水面に輪を作る。

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  ミズスマシは甲虫目ミズスマシ科の昆虫、池の水面をくるくる回って泳ぎ、長卵形でゲンゴロウの形をしていて黒褐色。一方、アメンボは、半翅(はんし)目アメンボ科の昆虫、池の水面を6本の足だけで浮いて滑走する。関西ではアメンボをミズスマシと呼ぶことがあり、古語のミズスマシはアメンボのことを指すこともある。ミズスマシとアメンボは、混同し易い。

 木の枝にモリアオガエル(森青蛙、アオガエル科)が産み付けた卵塊。あちこちの池の上にせり出した木の枝で見かける。

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 夏から秋にかけてトンボがたくさん飛ぶという「トンボの池」。

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 「昆虫館」では、昆虫の標本を展示。建物の前には休憩所がある。

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 4月の最盛期には、カタクリ(片栗、ユリ科)が一面に咲くという「カタクリの林」。

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 季節は初夏、この日も夏日。予想通り咲いている花は少なかったが、山麓の森は涼しく、森の癒しを体感した。

 14:40、公園を退出。

 

 ★ ★ ★

 「赤城自然園」には、初めて行った。入園料は、大人(高校生以上)1,000円、但しセゾン・UCカードの提示すると500円でお得。こども(中学生以下)は無料。駐車場(400台)は無料。

 開園時間は、9:00~16:30(入園は15:30迄)。4月~11月は、火曜定休。火曜が祝・休日の場合は、開園し翌日休み。5月は無休。12月~3月は、毎週土・日曜のみ開園(年末年始除く)。

 園内をざっと1周すると、2時間程度だそうだ。今回は花をじっくり観察していたので、全部は回れなかった。レストランなどの飲食設備はないので、弁当を持参すること。無料のガイドツアーが、毎日10時と13時の2回開催されているという。

 

 「赤城自然園」は、公共の公園ではなさそうだと思っていたが、調べてみると運営は、「株式会社クレディセゾン」。「次世代を担うこども達に、豊かな自然を引き継ぐ」ため、企業の社会貢献活動のひとつとして「赤城自然園」を2010年から運営している。

 1980年代に西武セゾングループの堤清二氏が主導となって、「人間と自然との共生」を目的として開発された森。子ども達が、デパートの屋上でカブトムシやオタマジャクシを初めて目にする姿に、氏がショックを受けたことが開発のきっかけのひとつとも言われている。

 「花を育てるのではなく、環境を整えることで植物が育つ手助けをする」。総合自然観察園を目指し、およそ30年の歳月をかけてマツやスギの雑木林の植生を入れ替え、環境を整備し続けて植物が生き生きと育ち昆虫や小動物が 棲みやすい環境づくりを続け、豊富な樹木や花々が生きる豊かで自然に近い森に再生したそうだ。

 「多くの子どもたちが自然に触れ、感性を育むことで豊かな社会にしていきたい」という思いに賛同する様々な個人、企業、団体からのサポートを受けて、運営しているという。オフィシャルスポンサーとして、30社ほどの企業がリストアップされている。

 

 ほとんどのカエルは水中に産卵するが、モリアオガエルは水面上の枝や草の上などに卵塊を産みつける。繁殖期になると、まずオスが産卵場所に集まり、鳴きながらメスを待つ。メスが産卵場所にやってくると、オスが背中にしがみつき産卵行動が始まる。受精と同時に粘液が分泌され、オス・メスが足でかき回し、300~800個の受精卵を含んだ直径10~15 cmほどの白い泡の塊を作る。卵塊の形成が進むに連れ、1匹のメスに数匹のオスが群がる場合が多いという。

 1週間ほど経って、卵が孵化する。孵化したオタマジャクシは泡の塊の中で雨を待ち、雨で溶け崩れるとともに下の水面へ次々と落下する。イモリは、その真下で待ちかまえていて、落ちてくる幼生をパクパク食べるのだそうだ。

 

 

2019年6月18日 (火)

大谷石とカルビー

 2019年6月5日(水)、栃木県宇都宮市へ日帰りのバス旅行。
 

 この日は、朝からどんよりとした曇り。関東地方は大気の状態が不安定で天気の急変に注意という予報だが、午後から日差しも出て蒸し暑い夏日となった。

 バスは午前7時半、集合場所の駐車場を出発。参加者24名を乗せ、圏央道から東北道へ。車中でカラオケを楽しむうちに、バスは宇都宮インターを降り、10時半の「大谷資料館」着。

 

●大谷資料館 (宇都宮市大谷町)

 昨年10月に行った時(文末の関連記事を参照)は、「大谷石資料館」の建物から大谷石採石場跡の地下30m、2万平方メートルの巨大地下空間へ長い階段を歩いて降りた。しかし、地下空間へバスに乗ったまま直接行くこともできる。参加者の希望通りバスは、地下への狭い通路で車体を擦るのではないかとハラハラしながら、真っ暗な地下空間へ入る。

 バスを降りると、薄灯りの地下で目が慣れるまでしばらくかかる。

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 壁にある温度計を見ると、坑内気温9℃。半袖シャツでは肌寒い。年間平均気温は、夏は外気より涼しく12~13℃、冬は暖かく1~2℃くらい。

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 地下空間を移動。

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 地下空間から地上に通じる階段。

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 ガイドの案内で地下の採石場跡を巡り、大谷の地質、大谷石の特長、採掘方法、手掘りと機械掘り跡などの説明く。

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 華道家・假屋崎さんの花アートの前。 

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 最初に人の手で地下に開けられた穴だそうだ。

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 この地下空間は、最近ではテレビや映画のロケ、コンサートや結婚式などのイベントに利用されている。

 地下空間を利用したイベントのフォトギャラリー。

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●平和観音像 (宇都宮市大谷町)

 11時過ぎ「大谷資料館」を出て、バスはすぐ近くの「大谷公園」の市営駐車場に移動。

 戦後、太平洋戦争の戦没者供養と世界平和を祈って、大谷石採石場の壁面を利用して「平和観音像」が刻まれた。 

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 また「平和観音像」の左側の階段から登る展望所から、観音像の目線で名勝「御止山(おとめやま)」や大谷の景観などの眺望を楽しむことができる。

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 大谷公園は、元々は大谷石を産出する採石場だった。公園の中央には、大岩が2個ある。

 よく見ると、左の親ガエルと右の子カエルが、向き合っているように見える。

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 この「親子がえる」の説明板には、次のように書いてある。

 「その昔ある聖僧が仏教を広げるため各地を歩いておりますと、このあたりに蜂の大群が住みつき、住民を苦しめているとの話を耳にされました。聖僧は住民を助けようと、当地で三七・二十一日の苦行を重ねて、観音様を作りあげました。そのとき、蜂の大群がこの村に攻めてきました。するとどこからともなく「親子がえる」が現われ、岩肌にしがみつき蜂の大群と戦い、身をもって住民を守ったといわれています。それ以来、住民はかえるに感謝し、今も地守神様として子孫に言い伝えております。宇都宮観光コンベンション協会」
 

●宇都宮餃子館 (宇都宮市徳次郎町)

 11時45分「大谷公園」を出発、12時ちょうど「宇都宮餃子館 健太餃子」宇都宮インター店に到着。

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 焼き餃子、蒸し餃子、水餃子、揚げ餃子の餃子づくしの定食で満腹になって、13時「カルビー株式会社」へ向け出発。
 

●カルビー工場 (宇都宮市清原工業団地)

 「かっぱえびせん」や「フルグラ」でお馴染み、カルビー清原工場に午後1時半到着。

 工場の案内係員から、商品と工場の概要を聞き、ビデオを視聴。

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 徹底した衛生管理、商品が出来るまでの工程などの説明を聞き、自動化した梱包ラインなどを窓越しに見学。

 「かっぱえびせん」が出来るまでの説明パネル。写真をクリックすると、拡大表示します。

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 原料として使用されている小エビは、アカエビ、サルエビ、キシエビ、アマエビの4種類。広島で水揚げの瀬戸内海産との説明だったが、現在は中国、アメリカなど海外産のエビも使っているようだ。

 原料の小麦粉、でんぷん、塩などと、ミンチにした数種類のエビ(頭から尻尾までそのまま)を混ぜ合わせる。蒸してこねると、餅のような生地ができる。これを薄くのばし、「かっぱえびせん」の形にカット。ここまでは広島工場で加工される。清原工場に運ばれたカットされた生地は乾燥させ、そして塩で煎ることで生地が膨らみサクサクした食感が生まれるという。油で揚げてはないが、のど越しを良くするため、味付けの時に適量の油を吹き付け、舌触り・のどごしをまろやかにしているそうだ。 

 ”かっぱえびせん”の歴史のパネル。

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 「かっぱえびせん」は、1955年に発売されたスナック菓子「かっぱあられ」が原点。昭和20年代、清水崑の漫画『かっぱ天国』が大人気で、かっぱのキャラクターをパッケージに使ったためこの名前になったそうだ。

 「フルグラ」は、フルーツ・グラノーラを略した商品名。清原工場では、焼き上げたオーツ麦やライ麦といった穀類を主原料とし、ドライフルーツなどを混ぜた大人気「シリアル食品」(後述)の「フルグラ」を主力に製造している。工場の中のあまい香りは、「フルグラ」の原料を焼く匂いだそうだ。

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 製造工程は、細かくした穀物類にシロップを加え混ぜ合わせ、機械にかけて平たく延ばして1枚のシート状にする。長さ40mもあるオーブン設備で、シート状のまま香ばしく焼き上げる。焼いた後に砕くことで大小の粒となって、ザクザクした食感が得られるそうだ。アーモンド、ココナツ、いちご、りんご、パパイヤ、レーズン、かぼちゃの種などのドライフルーツを加えて混ぜ、包装する。

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 試食タイムでは、「かっぱえびせん」の3種類の味の中から、好きな味を選んで自分で味付け。「フルグラ」に、牛乳のほか、フローズン・ヨーグルトとすりおろしたリンゴを加えて、美味しい食べ方を教わる。

 カルビー商品詰合せのお土産を抱え、15時30分工場をあとにした。

 帰りのバスの中でもカラオケ。18時前に出発地に無事到着。今回も楽しい、有意義な研修旅行であった。
 
 

 本ブログの関連記事
  
  「宇都宮と大谷石」 2018年10月22日投稿

    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-46a2.html


 
 ★ ★ ★

 「カルビー株式会社」は、スナック菓子やシリアル食品(グラノーラ)などを製造・販売している。1949年(昭和24年)、松尾孝が広島市で「松尾糧食工業株式会社」として設立。1955年(昭和30年)現在の会社名のカルビーに変更した。「カルビー」という名前は、当時の日本人に不足しているとされたカルシウムの「カル」と、ビタミンB1の「ビー」を組み合わせたもの。

 1964年に発売された、瀬戸内海の小海老を使った「かっぱえびせん」がヒット商品となり、カルビーの名が知られるようになる。「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のキャッチコピーのCMは、誰でもが知っている。

 現在販売されている「かっぱえびせん」。

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 1971年、スナック菓子「仮面ライダースナック」が発売。テレビドラマ『仮面ライダー』を題材としたカードがおまけとして付属したことで、爆発的な人気が出た。1975年、「ポテトチップス」を発売。その翌年、当時14歳だった藤谷美和子を起用したテレビCMで、

 「100円でカルビーポテトチップス買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません。あしからず。」

は面白くて大評判となり、同社はポテトチップス市場でトップに躍り出たという。当時筆者も、おどけた藤谷のファンになった。

 現在販売されている「ポテトチップス」と「サッポロポテト」。

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 現在販売されているその他のスナック菓子の一部。

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 1973年、本社を広島から東京に移転。2005年には3代続いた同族経営を止めて、創業家外の社長が就任。その後も「カルビー株式会社」は 、積極的な経営革新を続け、現在に至っている。

 

 シリアル(Cereal)とは、穀物または穀物の加工食品のこと。長期保存に適した形状に加工、加熱調理した簡便食。主に牛乳やヨーグルトなど、乳製品をかけて食べることが多い。

 シリアル食品の代表的なものには、コーンを焼き上げ薄い形状にした「コーンフレーク」、これに砂糖をまぶしたものが「コーンフロスト」。食物繊維がたっぷり含まれている小麦外皮(ブラン)を焼き上げた「オールブラン」。大麦、小麦、オーツ麦などを焼き上げたものが「グラノーラ」。またオート麦の実を潰して乾燥させたもので味が無い「オートミール」は、加熱調理して食べる。更に「オートミール」にドライフルーツやナッツなどを混ぜ合わせ、食べやすくしたものが「ミューズリー」。

 

 グラノーラ(Granola)は、シリアル食品の一種。オーツ麦や、麦、玄米、とうもろこしなどを主とした穀物加工品と、ココナッツ、ナッツなどを砂糖、蜂蜜、メープルなどのシロップや植物油とで混ぜ、オーブンで焼いたもの。さらにドライフルーツなどが混ぜられることも多い。オーブンで焼く途中に何度かかき混ぜる、または焼き上げた後に破砕することで、適当な粒状でサクサク感のある食品が出来る。日本では主に、カルビー、日清シスコ、日本ケロッグが販売。

 グラノーラは、ヨーグルトや牛乳をかけて朝食としたり、おやつとしてそのまま食べる。軽くて持ち運びやすく栄養価が高いため、アウトドアの携帯食にも向いている。グラノーラを棒状に固めたグラノーラ・バーも人気があるようだ。栄養価が高い半面で、糖質(炭水化物)が低めなため、「低糖質ダイエット」に利用されるなど、人気の理由にもなっている。ただし、食パンなどと比較してもカロリーは低くないので、食べ過ぎに注意すべきという。
 

2019年6月16日 (日)

足利学校と足利氏

 2019年6月1日(土)、栃木県足利市に行く。

 

 足利市は、栃木県の南西に位置する歴史の街。室町幕府を開いた、源氏の流れをくむ足利尊氏の先祖が住んでいた足利氏発祥の地。この辺りは、昔から養蚕が盛んで、織物でも知られていた。足利市には、2015年「あしかがフラワーパーク」に行ったことがある。

 ワゴン車のレンタカーに参加者6人同乗。渡良瀬川に架かる「中橋」を渡って、9:35足利市観光協会の「太平記館」(足利市伊勢町)に到着。休憩後、車を駐車場に置き、歩いて数分の国指定史跡「足利学校」(足利市昌平町)へ。

 

●足利学校(10:10~11:10)

 「足利学校」の創建は奈良時代、平安時代、鎌倉時代など、諸説ある。「坂東の大学」と称され、室町時代から戦国時代にかけては、関東における事実上の最高学府であった。

 国道293号線の歩道橋の上から「足利学校」の全景を望む。

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 足利学校の「入徳(にゅうとく)門」から入場。

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 受付で参観料420円(JAFカード提示で340円)。入学証をいただく。

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 「足利学校の歴史」という紹介ビデオ(約15分)視聴したあと、「学校門」をくぐる。

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 「旧遺跡図書館」は「足利学校」が廃止になった後、明治36年(1903年)に開設。「足利学校」の書物を引き継いだ図書館。

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 「庫裡(くり)」は学校の台所、食事など、日常生活が行われたところ。

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 建物内部に入ると、「足利学校」の歴史を中心に、ゆかりの資料が展示されている。

 「足利学校」の模型。堀と土塁に囲まれている。中央の建物が「方丈(ほうじょう」。その手前L字形の建物が「庫裡」、その右の黒い屋根「書院」。

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 「方丈」は、学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された。「書院」は、庠主(しょうしゅ=学長)の書斎、応接室。学生への個人授業も行われた。

 「足利学校」の教育内容は、儒学が中心。孔子は儒学の祖。1535年に造られた日本で最も古い「孔子坐像」が祀られている。

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 「足利学校」の蔵書に見る元号「平成」と「令和」の出典。国宝『宋版 尚書正義』(中国南宋時代)と『万葉集』(文化2年(1805年)刊)。写真をクリックすると拡大表示します。
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 「足利学校」跡の東半分は、小学校の敷地になっていたそうだ。1990年(平成2年)、江戸時代中期頃の「方丈」や「庫裡」、書院」の建物や庭園が復元された。下の写真は、「方丈」の建物と奥に「庫裡」の建物。

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 「方丈」の南側にある池と築山の「南庭園」。発掘調査と、江戸時代の絵図を元に復元された。

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 同様に「方丈」の北側にも、復元された築山、池と中島の「北庭園」がある(写真なし)。

 「南庭園」の築山越しに見る「方丈」と「庫裡」の建物。

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 「杏壇(きょうだん)門」と、その先の孔子を祀る孔子廟。改修中のため入門禁止。

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 孔子廟の建物は「大成殿」と呼ばれ、1668年(寛文8年) に造営。様式は、中国明代の古廟を模したものと伝えられている。

 8年前の東日本大震災の影響で傾いてしまったため、2018年11月から改修工事が始まった。屋根瓦を下ろし、回廊や柱を解体する大工事で、創建された1668年以来、記録に残る限り初めての工事だという。工事の終了は2020年3月の予定、総工費・調査費など計9千万円。

 「足利学校」の伝統行事である「釋奠(せきてん)」は、足利市指定の民俗文化財に指定され、毎年11月23日に孔子廟で行われるそうだ。

 工事前の孔子廟「大成殿」での「釋奠」の様子。パンフレット「日本最古の学校 国指定史跡 足利学校」の写真を転載。

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 孔子とその儒学の弟子たちを祭るこの儀式は、古代中国に起源をもち、現在は国内でも数ヶ所でしか行われていない。

 「釋奠」の終了後、庠主(学長)の講話や記念講演も行われるという。今年の11月は、まだ工事が行われているが、「釋奠」行事はどうするのだろうか。 

 「足利学校」から参道「石畳通り」を通って、正面の「鑁阿寺(ばんなじ)」(足利市家富町)の山門に向かう。

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●鑁阿寺(ばんなじ)(11:25~11:50)

 堀に架かる太鼓橋を渡って、立派な山門をくぐる。
 
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 「鑁阿寺」は「足利学校」に隣接し、1196年(建久7年)足利義兼(よしかね)によって創建された真言宗の古刹。足利氏の氏寺。坂東八十八ヶ所霊場十六番札所。この地は足利氏の館(やかた)跡で、国指定の史跡。四方に門が設けられ、境内は堀と土塁がめぐらされているのは、鎌倉時代前後の武士の館の面影を残しているという。

 本堂は国宝。御本尊は大日如来。

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 参拝で正面を見ると、祭壇はシンプルで鏡が置いてある。お寺のイメージが無くなぜ鏡なのか、本堂にいたおばさんに聞くと、「よく参拝客に聞かれるけど・・・」と前置きして「神仏習合の名残り」だそうだ。御本尊は、鏡の後ろの幕の裏に安置されているとのこと。

 国指定重要文化財の経堂(きょうどう)。経堂は経典を納めておくところ、経蔵(きょうぞう)ともいう。

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 栃木県指定重要文化財の西門。

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  国指定重要文化財の鐘楼。

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 「鑁阿寺」の山門を出て、参道へ。

 参道沿いの小公園に建つ「征夷大将軍 足利尊氏公像」。室町幕府を開いた尊氏は、足利氏の始祖・義康(源義家の孫)から数えて八代目にあたる。

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 尊氏は、七代目貞氏の次男として、側室・上杉清子との間に生まれた。生誕地は母の実家で、上杉氏の丹波の国上杉荘(京都府綾部市)とされる。過去、尊氏は足利荘(足利市)で出生したとされていたが、30年ほど前からこの説は否定されているそうだ。尊氏は、鎌倉や京都に住み、足利には来なかったとも聞く。足利一族は、二代目義兼が頼朝挙兵に参加したことや、義兼は母が頼朝のいとこ、妻が北条政子の妹・時子(つまり頼朝の義理の弟)という関係で、鎌倉幕府で優遇されていた。北条家とも代々婚姻関係を結んでいて、尊氏の正妻も北条家の出身だった。

 

●めん割烹「なか川」(11:55~12:55)

 「鑁阿寺」の 参道「石畳み通り」に面して、めん割烹「なか川」(足利市通2丁目)がある。足利市出身の書家・相田みつをの縁(ゆかり)のこの店で昼食。

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 店のお薦め「天ぬきそば御前」(2,100円)を注文。盛り蕎麦、天ぬき、ニシンの甘露煮、炊込みご飯、デザートの水わらびもちのセット。”天ぬき”とは、”天ぷら蕎麦”から蕎麦を抜いたもの。温かいつゆに入った天ぷらでゆっくりと日本酒を飲み、〆に盛り蕎麦を残ったつゆにつけて食べるのが、通の食べ方だそうだ。そんなことも知らずに、まず生ビールで乾杯の後、日本酒を飲みながら天ぷらも蕎麦もニシンも一緒に食べていた。ちょうど昼時で店は満員。地元の人達というより観光客が相手なのか、2,100円はちょっと高かかった・・・・。

 店内には相田みつをの書が、いくつも飾ってあった。

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 めん割烹「なか川」は1945年(昭和20年)、旅館「なか川」として創業した。その頃訪れた相田みつをの作品に対する思いと夢を聞き、支援を始める。「なか川」は、個人では相田みつを作品の日本一の所有者、店内にも季節に応じて作品を展示しているという。
 

 レンタカーを駐めておいた「太平記館」に戻り、お土産購入。

 足利土産は、香雲堂本店の和菓子。日本最古の学校「足利学校」、足利氏の氏寺「鑁阿寺」の古印、足利出身の画家・田崎草雲の落款に因んだ方形の最中(7個入り1,080円)。

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 13:00、レンタカーで出発。「鑁阿寺」の北東方向にある発掘・復元中の「史跡樺崎寺跡」(足利市樺崎町)へ行く。



●史跡樺崎寺(かばさきじ)跡 (13:10~13:35)

 「樺崎八幡宮」の石段下の駐車場に、レンタカーを駐める。

 「樺崎寺」は、「鑁阿寺」の開基で足利氏二代目の義兼によって、1189年(文治5年)に創建。義兼は1195年(建久6年)に出家、1199年(正治元年)に没した。三代目の義氏が、父義兼の霊をなぐさめるため廟所を造り、「赤御堂」と称した。あわせてお堂を建て、八幡神を勧請して義兼を合祀したことが、「樺崎八幡宮」のはじまりとされている。

 「樺崎寺」は、鎌倉時代後期から南北朝にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代になって足利氏が力を失うと「樺崎寺」も衰退し荒廃。明治維新後の神仏分離令により、廃寺となった。旧境内域の一部には、「樺崎八幡宮」のみが現在も残る。

 八幡山を背景に、「樺崎八幡宮」が建つ。

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 八幡神は、清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰されたが、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源義家は、石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗ったことでも有名。

 本殿は、江戸時代の天和年間(1681〜83年)に再建され、1989年(平成元年)に修復された。

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 「樺崎寺」跡は、1984年(昭和59年)から発掘調査が行われた。旧境内は西側の八幡山を背にし、東を正面として伽藍が営まれていた。山麓には廟所「赤御堂」のほか、多宝塔などがあった。これらの東側には、大日如来を安置する「下御堂」(または「法界寺」)と呼ばれる堂宇があり、浄土式庭園が築かれていた。

 多宝塔の礎石。

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 足利氏御廟の礎石建物跡の案内板。写真をクリックすると拡大表示します。

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 浄土式庭園は、平泉の藤原氏の庭園をまねたものだそうだ。写真は、復元工事中の浄土庭園と池。

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 「樺崎寺」は、「鑁阿寺」と並ぶ足利を代表する寺院であり、鎌倉時代の浄土庭園を持つ寺院として貴重であることから、2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。

 次の目的地「ココ・ファーム・ワイナリー」は、 「史跡樺崎寺」から北西の方向、関東自動車道の下をくぐって、足利市田島町へ。

 

●ココ・ファーム・ワイナリー (13:45~14:30)

 1958年(昭和33)、特殊学級の中学生達と担任教師・川田昇によりブドウ畑を開墾。川田は、1969年(昭和44)障がい者支援施設「こころみ学園」を設立し、そして賛同する園生の家族の方々と1980年(昭和55)有限会社「ココ・ファーム・ワイナリー」を創立した。

 平均斜度38度という南急斜面のブドウ畑。ブドウには、日当たりがよく、水はけも良いという。

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 ワインショップ&カフェで休憩。

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 ワインの醸造タンク。

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 ワイナリーはカルフォルニアから専門家を呼んで指導を受け、200年沖縄サミットや2008年洞爺湖サミットで振る舞われ、国際的のも高い評価を受けているという。障がい者支援施設「こころみ学園」は現在140名の園生がおり、88歳を筆頭に約半数が高齢の知的障がい者。園生みんなが、何らかの形でワイン作りに携わっているそうだ。
 
 最後の目的地「織姫神社」は、「ココ・ファーム」から南西の方向、再び北関東自動車道の下をくぐって足利市西宮町へ。「織姫神社」に最も近い織姫駐車場に車を駐める。

 

●足利織姫神社(14:45~15:15)

 織姫山に広がる「織姫公園」、その南端に建つ朱塗りの美しい神殿は足利名勝のひとつ「足利織姫神社」。1300年の歴史と伝統を誇る、足利織物の守護神が奉られている。

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 旧社殿は1879年(明治12)に焼失したため、1937年(昭和12)に再建された。2004年(平成16)には国の登録有形文化財に認定。

 境内から市街地を展望。正面の山は、「足利富士浅間神社(男浅間神社)」。その手前に「女浅間神社」と渡良瀬川に架かるトラス構造の橋「渡良瀬橋」。

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 富士山を眺望、関東平野を遠望できるというが・・・。織姫公園からは「天狗山ハイキングコース」などが整備されている。

 織姫公園の駐車場からでなく、県道40号線の織姫神社交差点から一の鳥居をくぐり、229段ある石段を昇って参拝すると願いが叶うとされている。

 15:15、織姫公園の織姫駐車場に戻り、帰路へ。案内してくれたIさんに感謝。

 

 ★ ★ ★

●足利学校

 「足利学校」の創建については、奈良時代の教育機関という説、平安時代の小野篁(おののたかむら)が創設したという説、鎌倉時代の初期に「鑁阿寺」を開いた足利義兼が建てたという説がある。明らかなのは、室町時代の上杉憲実(のりざね)が学校を再興したという。学校を整備し、孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍(多くは現在、国宝)を寄進。鎌倉から禅僧・快元(かいげん)を招き、初代の庠主(しょうしゅ:校長)とし、学生(僧)の養成に力を注いだ。その後は、代々禅僧が庠主になったという。

 室町時代には儒学、特に「易」について学校に学んだ僧は非常に多く、永正年間(1504~1520)から天文年間(1532 ~1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり大いに発展した。フランシスコ・ザビエルは1549年、「日本国中最も最大にして有名な坂東の大学」と世界に紹介した。

 江戸末期には役割を終え、書籍も散逸の危機に陥った。南画家の巨匠・田崎早雲などの尽力で保存され、1903年(明治36)に「遺跡図書館」が造られた。1921年(大正10)、「足利学校」跡は孔子廟、学校門などの建物を含め国指定史跡となった。1982年(昭和57)の「足利学校」の東半分にあった小学校の移転を契機に史跡の保存整備事業に着手、1990年(平成2年)に江戸中期の絵図を基に「方丈」や「庫裏」、庭園などが復元された。

 室町時代から戦国時代にかけて、関東の最高学府と言われる「足利学校」がどんなものかが、よく分かった。明治以降に廃校になってしまったが、その直後に書籍などの文化財を保存しようという有志たちは立派。10年の歳月と15億円をかけて、やっと今の形に復元されたそして足利市の熱意も素晴らしい。

 「足利学校」の「杏壇門」の扁額と「大成殿」の建物。 パンフレット「日本最古の学校 史跡足利学校」の表紙を転載。

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●足利市と足利氏の歴史 

 足利市は、足利氏発祥の地であり、源義家(八幡太郎義家)の孫の義康(よしやす)が源姓足利氏を名乗り、この地を治めたことが始まり。鎌倉時代には、足利氏二代目の義兼が居館を現在の「鑁阿寺」に置き、義兼の子孫も足利に住み、多くの寺社を建てたことから、市内には足利氏ゆかりの社寺が点在する。

 足利は、昔から織物業で栄えた。その歴史は奈良時代まで遡り、絹織物が税として朝廷に納められたとある。大正から昭和初期にかけては「足利銘仙」の生産が盛んで、安価な銘仙は日本中の人々に愛用された。足利銘仙は足利市を大きく発展、銘仙業者の手で「足利織姫神社」も立派に再建された。戦後はトリコット(縦編みメリヤス)生産が盛んで、昭和30年代には日本一の産地に成長。現在では、アルミや機械金属、プラスチックなどの工業が中心となっている。

 平成の時代になって「足利学校」の復原が完成、NHK大河ドラマ「太平記」(足利尊氏が主人公の物語)の放映(1991年)など、足利市は観光のまちとして有名になった。現在では「足利学校」や「鑁阿寺」をはじめとする社寺、「あしかがフラワーパーク」、「栗田美術館」などの名所旧跡に多くの観光客が訪れる。

  足利市は1921年(大正10年)に市制施行、現在の人口は約15万人。栃木県の南西部に位置し、東京から北へ約80km、栃木県佐野市、群馬県桐生市・太田市・館林市・邑楽郡に接している。

 

●森高千里の「渡良瀬橋」

 足利市の中央を渡良瀬川が流れる。「渡良瀬橋」は、この川に架かる県道5号線(足利太田線)、東武足利市駅から西へ約500mほど先、「中橋」の上流にあるトラス橋。足利市は、歌手の森高千里が1993 年に発表した名曲『渡良瀬橋』の歌詞に登場したことによって、ファンの間で全国的に知られるようになった。

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  50万枚に迫る大ヒットとなったこの曲は、リリースした翌月に足利市から森高に感謝状が贈られ、地元の人から愛された。橋の上から望む夕日の美しさは、森高の曲に歌われるほど。2007 年には「渡良瀬橋」と夕日が一緒に見える場所に、歌碑が建立されたそうだ。

 

●ペタンコ祭り(初山祭り)

 この日の足利市街では、打ち上げ花火が1時間おきに聞こえ、どこやらでお祭りの様子。街では、額に朱印が押された幼児や乳児を目にする。6月1日に開催される「ペタンコ祭り」は、400年以上も前から始まったとされ、足利市の指定民俗文化財。その昔、足利地方に起こった洪水・疫病・飢饉で多くの子供が苦しんでいた時、「足利富士浅間(せんげん)神社」の浅間山(標高108m)から見事な龍が立ち上り、子供たちが救われたという伝説があるそうだ。

 「ペタンコ祭り」は、この1年に生まれた新生児を連れて参拝し、御朱印を赤ちゃんの額に”ペタンコ”と押してもらい(御朱印代500円)、無病・息災・開運を祈願する。男の赤ちゃんは男浅間神社(「足利富士浅間神社」の上宮)へ山道を登り参拝。御朱印は、桜の花の形の中に浅間神社と書かれている。女の赤ちゃんは、男浅間神社より低い山の女浅間神社(下宮)に登って参拝。御朱印は、2cm角の角印で山の形と浅間神社と書かれている。

 必ずしも1歳未満の赤ちゃんではなくても、参拝・祈願出来るそうだ。兄弟姉妹がいる家庭もあるので、どちらの山に登ってもそれぞれの神社で、両方の御朱印が用意されている。渡良瀬川右岸の河川敷には臨時駐車場が設けられ、屋台も出て参拝客で大賑わいだという。

 なお、全国に1300余の富士山信仰の浅間神社があるが、御神体は富士山、御祭神は木花佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)。初めて霊山に登り参拝することを「初山参り」と呼ぶが、このように1歳未満の子供が毎年決まった日(山開きの日?)に、「初山参り」や「初山祭り」の祭事を行うところが、他にも北関東の一部にいくつもあるようだ。

 

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  「紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション」 2015年11月16日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/1113-d746.html
   

2019年6月11日 (火)

神話のふるさと日向の国-その3

 2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。

 

 旅の最終日 5月26日(日)、宮崎市街から南へ、日向灘に面して美しい海岸線が続く。昭和40年代は新婚旅行のメッカともいわれたトロピカルな「日南海岸」をドライブ。ここにも神話の舞台が点在する。

 6:00起床、7:00~朝食。

 8:10、「ホテルマリックス」を出発。宮崎市のメインストリート橘通りから南へ、国道220号線を走る。 
        

●堀切峠

 青島の前を通過し、8:45国道220号の旧道の峠道を上ると、突然視界が開け太平洋が広がるところが「堀切峠」。

 あいにく曇り空で、海は水平線がはっきりしない、ボンヤリとした灰色。

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 眼下には、波状岩の「鬼の洗濯岩(板)」。

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 波状岩は、約700万年くらい前に海中で出来た水成岩(固い砂岩層と軟らかい泥岩層が積み重なった地層)が隆起し、長い間に波に洗われ、砂岩層だけが板のように見える。  

 「堀切峠」を1kmほど下るとすぐに、「道の駅フェニックス」。

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 ここで休憩、9:10出発。ひたすら国道220号線の日南海岸を南下する。

 「サンメッセ日南」の前を通り過ぎ、新鵜戸トンネルの手前で左折し、国道220号の旧道を進む。

 

●鵜戸神宮

 鵜戸神宮には「八丁坂参道」、「自動車参道」、「新参道」の3つ参道と、3つのの無料駐車場がある。

 国道220号の旧道の鳥居から入り、海岸を通る「自動車参道」を利用すると、鵜戸神宮に近い第1駐車場(50台)と第2駐車場(250台)がある。「観光バス駐車場」(40台)からは、トンネルのある「新参道」もあるが、昔ながらの「八丁坂参道」(本参道)を歩いて行くため、9:35そこに車を駐める。

 「八丁坂参道」の入口は、分かりにくい。駐車場から階段を上る途中、左手にいくつかの石碑とその奥に赤い鳥居があった(下の写真)。

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 昔の風情が残る石積みの「八丁坂参道」(本参道)は、「鵜戸神宮」の神門まで数100m(8丁=872m)。登り坂はやがて下り坂となり、小さな山の峠を越える感じ。

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 石段を下り終えると視界が開け日向灘、左手に進むと「鵜戸神宮」の神門(随神門)。

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 楼門は、ウィキペディアコモンズから転載。

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「鵜戸神宮」の本殿は、日向灘に面した断崖の大きな岩窟(海食洞)の中にある。

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 10:00~、本殿で予約していた神職に案内してもらう。山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)は、海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結ばれ岩窟に産屋を建てたが、鵜の羽で屋根を葺き終わらないうちに御子(御祭神)が誕生、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト、神武天皇の父)と名付けた。

 岩窟内の本殿は、観光客が多くて撮影出来なかったため、2015/10/4に撮影したものを掲載。

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 本殿の裏にある乳房に似た2つの突起「おちちいわ」があったが、暗くてうまく写真が撮れなかった。豊玉姫が御子の育児のために、自らの乳房をくっつけたものと伝えられる。御子はそこから滴り落ちる「お乳水」で作った飴(おちちあめ)を母乳代わりにしたという。現在も安産や育児を願う人々から信仰されているそうだ。

 鵜戸神宮の境内や本殿には、ウサギの像が多い。主祭神・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の「鵜」の字から、「卯」と「兎」へと転じ、ウサギが神使となったという。

 洞窟内は、天井の岩が剥離して落盤しないか心配になるが、定期的に天井の岩を検査しているという。岩の割れ目を接着剤を充填した後が所々に見られる。

 日南市で春季キャンプを行っている広島カープも、毎年ここに必勝祈願にやって来るそうだ。

 帰りは、トンネルのある近道の「新参道」を使って「観光バス駐車場」へ。11:00、駐車場を出る。
 
 

●サンメッセ日南

 国道220号線の来た道を戻るとすぐに、日向灘を見下ろす丘の上の広い公園「サンメッセ日南」。「太陽と南洋浪漫」のテーマパーク。

 11:10入場(大人700円)、園内を散策。

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 復刻されたイースター島の7体のモアイ像。

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 クレーンメーカーの(株)タダノ(高松市)が1992年、イースター島の倒されたままのモアイの修復を実施することを発表。奈良国立文化財研究所、及び古い石を扱う飛鳥建設(株)とモアイ修復委員会を立ち上げ、大型クレーン1台と1億円を拠出。

 飛鳥建設(株)社長で石工の左野勝司氏の指導により、1995年モアイ15体を再現した。そして、そのお礼としてイースター島の長老会(市長を含む議会)は、日本のチームに世界で初めて日本でのモアイ復刻を許可。日南海岸にモアイ像7体の完全復刻することができたという。モアイ像の高さは5.5m、重さは1体18~20トン。

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 南国の日差しは強いが、海風が心地よい。木陰でしばらく、のんびりと休憩。

 ここで最初にカート(5人乗り)を借り、丘の頂上近くまで上って施設を見学し、センタープラザの「南洋レストラン」で食事する予定だったが省略し、早めに切り上げて青島周辺で食事することにする。

 11:40「サンメッセ日南」を出て、国道220号線を再び北上し、最後の目的地「青島」へ。
 

●青島と青島神社

 「青島」の参道入口の陸橋近くの大駐車場(駐車料500円)は、日曜日のせいか観光客も多く、すでに満車。駐車場所を探し、「P」マークの看板を持つおじさんが立つ「おみやげのすぎた」(1階が駐車場、2階は土産屋)に入る。駐車料は無料だが、全員で合計3,000円以上の買い物をするという条件。観光地の駐車場を持つみやげ屋が、よくやっている商売のパターン。

 車をみやげ屋に駐め、近くの海鮮料理「鬼扇(おにせん)」で12:20~昼食。魚フライ1,080円。

 13:10、陸橋近くのおみやげ&レストランの「青島屋」前で、観光ガイドボランティアと待ち合わせ。

 「青島」は、宮崎を代表する日南海岸の観光スポット。周囲1Kmほど、熱帯・亜熱帯植物のビロウ樹で覆われ、国指定天然記念物の波状岩「鬼の洗濯板」で囲まれた島。熱帯・亜熱帯植物も、国の天然記念物。

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 熱帯・亜熱帯植物のビロウ樹で覆われた「青島神社」は、兄の釣り針を失くした山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)が海神宮(わたつみのみや)から戻った所。青島全体を境内とする。

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 古くから青島自体が霊域として崇められ、全島が禁足地とされていた。江戸時代の1737年(元文2年)から、一般人に渡島しての参拝が許されたという。

 青島神社に参拝。山幸彦とその妃・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、そして塩筒神(シオズノカミ)の3柱を祀る。塩筒神は、塩竈(しおがま)明神とも言い、日本神話の神で潮流を司る神、航海の神、製塩の神としても信仰されているという。

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 青島神社の元宮に向かうジャングルのような手つかずの森に中の参道。

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 山幸彦が居を構えたとされる場所にある元宮(もとみや)。

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 ビロウ樹と鬼の洗濯岩を見ながら、島の遊歩道を一周する。

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 遠くに見えるのは、青島に渡る「弥生橋」。

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 「青島神社」の冬祭は、山幸彦が海神宮から帰還した際に、村人が装束をまとう暇もなく裸で出迎えたという故事から起こったという。かつては旧暦12月17日の夜を徹して、近在の若い男女が真裸になって参拝していたため、「裸参り」とも呼ばれ、この行いは千日参詣に等しいとされた。現在は1月の成人式の日、全国から男女約数百名の人々が神社の前の海で禊(みそぎ)を行い、身を清めて神社に参拝するそうだ。

 後に兄弟が争い、山幸彦に追われた海幸彦がたどり着き居を構えたと伝えられる場所は、全国で唯一の海幸彦を祀る「潮嶽(うしおだけ)神社」。ここから南西に17Km先の山間部(日南市北郷町北河内) にある。

 

 参道入口まで戻り、14:20~35 駐車場を借りた「おみやげのすぎた」で買い物。        
        
 14:55、空港前の「バジェットレンタカー」でレンタカー返却。        

 15:05、宮崎空港着。空港売店で買い物。       

 16:55発のソラシドエア66便に搭乗、18:25羽田空港着。

 

 3日間続けて最高気温が30度を越す真夏日の中、歩いたのは通算3万8千歩、距離にして23キロほどだった。自分で作ったスケジュールがハードで時間管理が大変だったが、計画した所はだいたい回ることが出来た。

 「西都原古墳群」と「県立西都原考古学博物館」、それに「高千穂神楽」は、今回が初めてだった。各スポットで観光ガイドを頼んでいたので、知らなかった面白い話が聞けて良かった。事故もなく、無事に終わってホッとした。レンタカーの運転、会計係りの友人には感謝したい。ただ時間に追われて、適時適当な写真が撮れなかったのは残念だった。    
 

 ★ ★ ★

 山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)が、兄・海幸彦(火照尊、ホデリノミコト)の釣り針を探しに海神宮(わたつみのみや、龍宮)に行き、海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結ばれた。3年後、釣り針を探し当てた山幸彦が海から帰った後、身重になった豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」と鵜戸の地(現在の鵜戸神宮)にやって来た。

 山幸彦は、急いで産殿を造ったが、鵜(う)の羽で屋根を葺(ふ)き終わらないうちに御子が誕生した。豊玉姫は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。絶対に産屋の中を見ないように。」と山幸彦に言う。しかし山幸彦は不思議に思って、産屋の中を覗いてしまう。そこには、豊玉姫がワニ(鮫)の姿でなってもだえていたのを見て逃げ出したという。

 生まれた御子(御祭神)は、鵜葺草葺不合尊(ウカズフキアエズノミコト)と名付けた。 豊玉姫は、山幸彦に覗かれたことを恥じて悲しみ、御子を置いて海に帰ってしまう。そして御子を養育するために、妹の玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を遣わした。「おちちいわ」は、豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご岩窟にくっつけて行ったと伝えられる。

 やがて成人した鵜葺草葺不合尊は、豊玉姫の妹である乳母の玉依姫命(つまり叔母)と結婚し、4人の御子を授かる。その末の御子が、後に初代天皇の神武天皇となる神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)だそうだ。
 
 

 「鵜戸神宮」の本殿前から海を見下ろした所に、亀の形をした霊石「亀石」がある(写真の右下)。しめ縄で囲んだ60cm四方の穴に、男性は左手、女性は右手で願いを込めて「運」の文字が記された「運玉」を投げ入れると、願いが叶うとされている。 

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 「亀石」は、豊玉姫が海神宮から来訪する際に乗った亀が、姫が海に帰ったも知らず待つ間に石と化したものと伝えられる。かつては貨幣を投げ入れる風習であった。しかし子供たちがそれを拾いに下に降りて危険なので、1954年(昭和29年)から鵜戸小学校の児童らが、粘土を丸めて作った素焼きの「運玉」が使われることとなったという。5個で100円。

 

 「鵜戸さん詣り」の「シャンシャン馬」の風習は、江戸時代の中期から明治中頃まで行われていたそうだ。新婚夫婦が、七浦七峠と呼ばれる険しく厳しい日南海岸の道中を、花嫁を馬にのせ花婿が手綱を取り、馬の首にかけられた鈴を「シャンシャン」と鳴らして「鵜戸神宮」へ向かい、宮詣りをしたあと我が家に帰るという新婚旅行であった。

 現在はこの風習はなくなったが毎年、新婚夫婦や婚約カップルの参加者を募集して「シャンシャン馬道中鵜戸詣り」を再現する行事や、「シャンシャン馬道中唄」の民謡全国大会、宮崎神宮大祭の「ミス・シャンシャン馬」行列などのイベントとして行われている。写真は、宮崎神宮大祭のミス・シャンシャン馬(ウィキぺディアコモンズ)。

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  「宮崎県日南市」 2014年11月2日 投稿

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 ★ ★ ★

●いもがらぼくと

 「いもがらぼくと」や「日向かぼちゃ」の言葉は、地元の人たちは何気なく使っていてそのニュアンスはよく分かっているが、いざ他県の人からその意味はと聞かれると、即答できない場合もあるようだ。

 「日向かぼちゃ」は色が黒くて小ぶりで、見た目は派手さはないが、美味しい。芯はしっかりした働き者の日向女性を例えているという。「いもがらぼくと」は、「里芋の茎で作った木刀」のことで、見かけは立派だが役に立たない、お人よし、というように理解していた。しかし今回ある観光ガイドから、「サツマモのツル」のことで何の役にも立たないことだ、という話も聞いた。

 どれが本当かではなく、諸説あるということだろうか。それに、こういった言葉は時代と共に解釈がだんだん変わったりするものだ。「いもがらぼくと」のほかに、熊本の「肥後もっこす」、青森の「津軽じょっぱり」、高知の「土佐いごっそう」、鹿児島の「薩摩隼人」は、どうだろうか。

●サボテン公園

 日南海岸が新婚旅行のメッカだったころに、「サボテン公園」という植物園があった。今は、宮崎市から日南市への国道220号線を南下し、伊比井川を過ぎ、富士川を渡るとすぐに、国道はまっすぐに「日南富土トンネル」へと向かうので、昔「サボテン公園」があった場所には気がつかない。トンネルの前で左折し、海岸に沿った旧道沿いの岬の丘陵に、かつて「サボテン公園」があったのだ。

 宮崎交通の初代社長の岩切章太郎が、「青島」と「鵜戸神宮」との間に新しい観光名所を設けるため「サボテン公園」として開園したのが1951年(昭和26年)。1955年(昭和30年)には、「日南海岸」が「国定公園」に指定された。1960年代になって新婚間もない皇太子と美智子妃殿下夫妻(現上皇・上皇后)がご来県、NHK連続テレビ小説で宮崎が舞台の『たまゆら』が放送されるなど、「日南海岸」は全国に知れ渡り、昭和40年代の「新婚旅行ブーム」を迎えたのだった。そして「サボテン公園」は、「日南海岸」の観光名所としての一翼を担った。海岸の丘陵斜面を埋め尽くす百数十万本ものサボテンの景観は圧巻で、異国情緒に溢れ、大きく広がる太平洋を一望、訪れる人にも新鮮なインパクトを与えただろう。

 やがて「新婚旅行ブーム」も過ぎて宮崎観光が斜陽の時代を迎え、「サボテン公園」の客足も当然落ちた。施設や設備を増築・改築し「サボテンハーブ園」としてリニューアルされた後も、昔のような客足が戻ることはなかった。そして2004年夏に「サボテンハーブ園」は台風で大きな被害を受け、2005年3月をもって休園、閉園へと至ったのだ。開園から68年間、4,500万人の来場者があったという。

 「日南海岸」の国道220号線を車で通れば、かつては必ず「サボテンハーブ園」の横を通りるはずだった。筆者は「サンメッセ日南」が出来たと聞いて、てっきり「サボテン公園」の跡地に出来たのかと、思い違いをしていたことがあった。新しい「日南富土トンネル」が開通して、国道は公園をバイパスして行くようになった。かつて「日南海岸」観光の一翼を担い、多くの観光客で賑わっていた時代の「サボテン公園」が懐かしい。

●天皇のふるさと

 梅原猛は、著書『天皇家の“ふるさと”日向を行く』の中で、日向の各地を回り「これらの伝承はたいへん古いもので、八百年も千年も前に『古事記』や『日本書紀』を読んで、この片田舎に記紀神話の舞台をデッチ上げた知恵者がいたとは思われない。」と書いている。何故、日向の国や出雲の国の地名に因んだ神話があって、大和の国ではないのだろうか。梅原猛が言うように、古代の日向の国に渡来人たちがやって来て、何らかの出来事があって、それを元に伝承が作られたのではないかという説に納得できる。 

 しかし史実は史実、神話は神話である。フィクションや観光用とは、明確に区別して理解するなり、子供たちに伝えなければならないと思う。神道は日本人の心であり、その起源は日本人の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に自然と生まれた宗教で、教祖はいない。聖書やコーランにあたる聖典が『古事記』、『日本書紀』とされている。しかし神話によって天皇が神格化され、国家神道や軍国主義に利用された時代があったことを忘れてはならない。誤った歴史認識や復古主義に対して批判や、歴史の真実を追求する姿勢は大切なことであると思う。

 現代語訳の由良弥生著の『眠れないほど面白い古事記』(王様文庫)の中の「日向神話」の部分を読んだ。『古事記』は、愛と欲望、ホラーにエロスが渦巻く世界。記紀では、こんな人間味臭い話でなく天皇家の祖先をもっと厳粛に、尊厳深く描かなかったのか、あるいは日本人は如何に優れた民族であるかを書かなかったのか不思議だ。戦前はこんな物語を、美化して都合の良い面だけを切り取って、国民や子供たちに教えたのだろう。

 神話は、考古学的な古代史とは別だ。しかし神話には、いろいろな解釈があったり、いろいろ自由に推測したり、想像したりできる。鹿児島に行くと、この日向神話は少し解釈が違ってくる。薩摩国、大隅国を含んだ南九州を「日向国」という時代もあったようだ。天孫降臨の地も、また宮崎県以外の別の所にあったりする。ニニギノミコトの墓も(宮内庁管理)も、鹿児島県内にもある。明治政府の薩摩出身役人が、我田引水したという話もあるが・・・。

2019年6月 4日 (火)

神話のふるさと日向の国ーその2

 2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。

 

 旅の2日目5月25日(土)、山々に囲まれた自然豊かな神々の舞台・高千穂。そして宮崎市内へ戻り、神話ゆかりのスポットを巡る。

 

 5:30高千穂市内の「旅館大和屋」で起床、7:00~朝食。

 午前中、高千穂を案内してくれる観光ガイドと一緒にレンタカーに乗り、8:15旅館を出発。最初の目的地の「高千穂峡」へ。

 9:25、高千穂峡の御塩井駐車場(駐車料500円)に到着。

 朝早くて観光客はまだ少なかったが、駐車場近くの貸しボート乗り場には、8:30~の受付開始を待つ観光客が列を作っていた。


●高千穂峡

 太古の昔、阿蘇の火山活動で噴出した火砕流が五ヶ瀬川に沿って流れ、急激に冷やされ柱状節理となり、浸食されて渓谷となった。80~100mの断崖が東西7km続く。国の名勝、天然記念物。渓谷に沿って、約1Kmの遊歩道が整備されている。

・真名井(まない)の滝
 高千穂峡で良く知られた滝で、日本の滝100選に選定されている。天孫降臨の際、この地に水がなかったため、アメノムラクモノミコト(天村雲命)が水種を移した「天真名井(あまのまない)」の水が滝となって流れ落ちているとされる。ボートから見上げる滝は、迫力満点だそうだ。

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・七ツヶ池(写真なし) 
 「高千穂神社」の祭神、十社大明神であるミケヌノミコト(三毛入野命) は、神武天皇の皇兄。皇弟の神武天皇とともに宮崎から大和に向ったが、伝説では再び故郷の高千穂へ帰って来た。高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この一帯を治めたとされている。
 
 ミケヌノミコトが散歩されると、水鏡に映る美しい娘が映っていた。この娘こそ鬼八が奪って来た鵜ノ目姫(うのめひめ)。ここ「七ツヶ池」は、十社大明神が鵜ノ目姫に一目惚れされた場所と伝えられている。

・鬼八の大石
 「鬼八の大石」は、鬼八がミケヌノミコトに投げ、力自慢をしたという石。力石の重さは、約200トン、凝灰岩の巨石。

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・仙人の屏風岩 
 遊歩道対岸に高くそび立つ高さ約70mの屏風のような岩は、「仙人の屏風岩(びょうぶいわ)」と呼ばれている。切り立った柱状節理(ちゅうじょうせつり)は、そのスケール・迫力に圧倒される。

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・槍飛び
 高千穂峡の中で最も川幅の狭いところ。1591年(天正19)高千穂の三田井氏が延岡の領主・高橋元種に三田井城を攻められ、落城。城を脱出した三田井氏の家来達はここまで逃げて来た。橋がないので槍の柄を突いて渡ったという。「手前の岩に槍を突いた者は無事飛び渡ることが出来たが、向こう側に突いた者は川の中に転落した」と伝えられており、ここを「槍飛び」と言うようになった。「槍飛び橋」の上から撮影。

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・高千穂三段橋
 高千穂峡から見える3つの橋は、「三段橋」と言われる見どころ。手前から、「神橋(しんばし)」(昭和22年竣工:橋長31mの石橋)、「高千穂大橋」(昭和30年竣工:橋長96mの鋼橋)、「神都高千穂大橋」(平成15年竣工:橋長300mのコンクリート橋)。「神橋」は、大正時代に作られた石橋と言われることがあるが、大正時代に架かっていた橋は木橋だったそうだ。

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・おのころ島
 「おのころ池」の真ん中に「おのろこ島」が浮かぶ。「おのころ島」は、『古事記』の中でイザナギノミコトとイザナミノミコトの「国生み神話」で最初に生まれた島。両神が持つ天の沼矛(あめのぬぼこ)という剣の先からしたたり落ちたしずくが固まってできたと伝えられ、両神が結婚式をあげたところとも言われている。「高千穂神社」の大祭では、神輿がこの池を3回廻って禊(みそぎ)をする。池の中には、コイやチョウザメが泳いでいた。

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 ちなみに、『古事記』の「国生み神話」に出てくる「おのころ島」は、架空の島とする説と実在するという説とある。諸説あるが、淡路島周辺の小島であっただろうという説が有力と考えられている。

・玉垂(たまたれ)の滝
 「おのころ池」の上側、道路沿いの柱状節理の岩壁から、いく筋もの岩清水が出ている。

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・月形・日形(写真なし)
 「玉垂れの滝」の上に生い茂る木の間の岩肌ある半月の岩形を「月形」という。スサノオノミコト(須佐之男命)の乱暴により天照大神が天岩屋にお隠れになったとされる「岩戸神話」の後、スサノオは神々の裁きを受けて、高天原を追放されて出雲へ行く。その時に詫びの印として天照大神を表す「日形」と、その半分の存在もない「月形」で自分を表現したと言われている。現在「日形」は崩壊し「月形」のみが残っているそうだ。

 9:25御塩井駐車場を出て、9:25「高千穂神社」着。
 

●高千穂神社

「高千穂神社」は、1900年前に創建されという古社。

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 高千穂皇神(たかちほすめがみ、日向三代と称される皇祖神とその配偶神の総称)と十社大明神(神武天皇の皇兄ミケヌノミコト(三毛入野命)とその妻子神9柱の総称)を祀る。本殿は、国指定の重要文化財。

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 源頼朝が、天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して、多くの神宝を奉納した。この時重忠によって鉄製鋳造狛犬1対(重要文化財)が献納され、境内にある「秩父杉」も重忠自らが植えたという。文永・弘安の役には、元寇の降伏祈願のために勅使が派遣されたそうだ。

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 「高千穂神社」の主祭神の一柱であるミケヌノミコトが鬼八を退治する彫刻像が、本殿の回廊東側にある。

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 前日の24日(金)夜、ここで「高千穂神楽」を観賞した神楽殿。

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 高千穂の夜神楽は、毎年11月中旬から2月上旬にかけて、町内のおよそ20の集落でそれぞれ氏神を民家等に迎えて奉納される。秋の実りに感謝し、来年の豊穣を祈願するため、神々に33番の神楽を奉納する。ここ「高千穂神社」の神楽殿では、年間を通じて毎夜観光客向けに代表的な4番を演じている。

 10:00「高千穂神社」を出て、10:15「天岩戸神社」(西本宮)前の駐車場に到着。
 

●天岩戸神社

 現代的な容貌の天照大御神の像が、「天岩戸神社」の鳥居の前で我々を出迎える。

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 「天岩戸神社」は、天照大神がお隠れになった天岩戸の洞窟を御神体として祀る。

 10:30から神職の案内で、他の観光客と共に遥拝殿から、天岩戸を参拝する。
 
 (以下の2枚の写真は、2017/10/24に撮影したもの) 

 西本宮の遥拝殿。

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 「天岩戸神社」の神楽殿の前で神職の説明を聞く。

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 「天岩戸神社」の神楽殿は、「高千穂神社」の神楽殿で見た舞台の飾りつけと当然のことながら同じだ。神楽が奉納される舞台を神庭(こうにわ)と言い、四方に飾られる紙飾を彫り物(えりもの)と呼ぶらしい。彫り物は、陰陽(月・日)、五行(木・火・土・金・水)や十二支などが和紙にデザインされ、切り絵になっている。神楽は純粋に神道と思いがちだが、仏教や陰陽五行思想などの影響を受けている。

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 一般向けに「高千穂神社」の「神話の高千穂夜神楽まつり」(11月22・23日)や、ここ「天岩戸神社」でも「天岩戸夜神楽33番大公開まつり」(11月3日)として神楽が披露されるそうだ。

 御神木の招霊(おがたま)の木(モクレン科)。アメノウズメノミコト(天鈿女命)が、天岩戸の前で実を付けたこの枝を持って踊ったという。これがよく巫女さんが持っている神楽鈴の起源であると伝わる。例年春先に白い小さな花が咲き、秋には赤い堅い実を結ぶそうだ。

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 おがたまの実(梅原猛著『天皇家のふるさと日向を行く』より引用)。

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 天岩戸神社の前を流れる岩戸川の川上には、八百万(やおよろず)の神々が集まり相談したという「天安河原(あまのやすかわら)」がある。

 天岩戸神社から、川沿いの遊歩道を川上に向かって10分ほど歩く。

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 この洞窟のある河原が、天岩戸伝説で神々が話し合いをしたとされる「天安河原」。

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 11:30、天岩戸神社で観光ガイド終了。観光ガイドと別れ、国道218号線を延岡方面へ向う。

 途中、日之影町の「道の駅清雲橋」で、 12:05~12:55昼食(鶏ごぼううどん600円)。

 

 北方ICを通過、東九州自動車道を南下して西都ICで降りて、国道219号、国道10号を通って宮崎市街へ。

 14:35、境内に北側に位置する県総合博物館駐車場に車を入れる。


●宮崎神宮

 14:55、観光ガイドと宮崎神宮の二之鳥居で待ち合わせ。

 扁額が無く単純な形をした”神明造り”の鳥居。

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 神武東征で神武天皇が乗った船「おきよ丸」(全長12m、重さ2トン)は、県産杉で作られ境内に安置されている。

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 この「おきよ丸」は、神武東征に登場する古代船のレプリカ。2005年(平成17)の「宮崎神宮大祭」から登場した。伝承によると、美々津(宮崎県日向市)に着いた神武天皇一行は、船を建造する。船も仕上がり出航予定日に備えていた頃、天候が良くなったというので急遽日程を変更して出航を早めるよう命じられた。寝ている人々を慌てて「起きよ、起きよ!」と起こしていった事から、「おきよ丸」という船名がつけられたという。美々津の港には、「日本海軍発祥の地」と書かれた巨大なモニュメントが、1942年(昭和17年)に竣工している。

 「おきよ丸」は、「宮崎神宮大祭」で催される「神武さま」と呼ばれる御神幸(ごしんこう)の行列で、市内を引き廻される。

 「おきよ丸」の乗員は20名程度、西都原古墳群で発掘された舟形埴輪をモデルに製作されたという。神武天皇一行は、親族のみが乗船した1隻のみだったのだろうか、多くの兵士を引き連れる水軍ともなれば、数隻~数10隻の船団であったのか気になる。

 宮崎神宮の神門。

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 拝殿の前にある拝所。扁額は中央に「宮崎神宮」、右に「神武天皇」、左に「鵜葺草葺不合尊 玉依姫命」とある。「宮崎神宮」は、神武天皇を主祭神とし、父・鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)の2柱を祀る。

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 宮崎神宮の創建は不詳。社伝によれば、神武天皇の孫にあたるタケイワタツノミコト(健磐龍命、熊本・阿蘇神社のご祭神)が、九州の長官に就任した際、祖父の遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられているそうだ。

 現在の社殿は、明治40年に建て替えられたもので、銅板葺きの古代の神社様式とされる”神明造り”。本殿など建物11件が国の有形文化財。

 境内の敷地は、明治神宮の半分くらいだそうだ。1940年(昭和15年)に植林し、現在の境内の森の姿になったという。 

 神武天皇が45歳で大和に東征するまで、ここに都が置かれていたとされる。社務所玄関には、神武天皇が東征に向けた軍議を3人の兄と共に練っている様子が描かれた絵が掲げられている。平澤定人・画の『宮崎の宮』で、戦時中にこの地で描かれたという。外の景色は、高千穂の峰がある霧島連山。

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 16:40、駐車場を出て、16:45平和台公園。
 

●平和台公園

 宮崎市の丘陵地にある県立公園。紀元2600年記念事業として、当時の相川県知事の提案により「八紘一宇の塔」が建設された。

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 塔のデザインは彫刻家の日名子実三氏で、御幣をイメージしているそうだ。「八紘一宇」の文字は、秩父宮雍仁親王の揮毫。日本の支配下にあった世界の国々から、石が持ち込まれたという。1939年(昭和14年)5月から工事開始。翌1940年(昭和15年)11月日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われた。 

 戦後GHQにより、侵略思想の象徴として「八紘一宇」の碑文と軍人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去され、「平和の塔」に改称。しかし、1962年(昭和37年)に荒御魂像、1965年(昭和40年)に「八紘一宇」の文字が復元された。
 

 18:00 、宮崎市内の繁華街に立つビジネスホテルの「ホテルマリックス」着。 

 荷物を置いて、18:15ホテルを出る。     
  

●宮崎市の繁華街。

 18:25~20:15、中央通りの居酒屋「もも鐡本店」で、鶏もも炭火焼き、カツオのたたき、メヒカリ等の郷土料理を味あう。 

 宮崎の繁華街(西橘通り、一番街、中央通り)を散策、20:25~1時間半ほどカラオケ店へ。    

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 やはり宮崎市は人口の割には、確かに飲み屋が多いようだ。土曜日だったこともあり、人通りの多さ、賑やかさにびっくり。

 21:00過ぎ、「ホテルマリックス」着。入浴後、23:00頃就寝。

 

 ★ ★ ★

 高千穂には、鬼八にまつわる話が多く残されているという。また阿蘇地方にも、鬼八にまつわる似た話があるそうだ。

 梅原猛著の新潮文庫『天皇家のふるさと日向を行く』によれば、記紀神話では神武天皇の長兄は生駒山の戦いで矢傷を受けて亡くなり、次兄は「熊野の海に入った」、そして三兄のミケヌノミコトは「常世(とこよ=あの世)の国へ行った」ことになっている。しかし高千穂の伝説では、ミケヌノミコトは地元に帰ったことになっている。東征の留守中に鬼八という土着の勢力が高千穂を支配していたが、これを退治したという。荒振る神である鬼八は「霜宮」といい、霜の災いを擬人化したもので、今では農耕や厄除けの神として尊敬され日向、肥後地方の人々の信仰を集めているそうだ。

 梅原氏の著書を引用すると、「戦前から戦中にかけて、日向神話の真実性が声高に叫ばれた。日向の地は、やれ天孫降臨の地とか、やれ八紘一宇の根源地とか、やれ海軍の発祥地とか言われたが、それはほぼ近代日本の国家主義的な政策に沿うものに限られていた。・・・戦後は、それに懲りて、逆に神話を歴史から抹殺してしまったのである。」

 宮崎の神話は、明治以降の戦前まで都合の良いところだけ取り上げて、天皇崇拝、国家主義、プロパガンダに利用された。戦後それらは否定されたが、今でも復古主義者たちが、神話を戦前のように利用しようとしている。

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 しかし鬼八のような伝説について、梅原氏は別のインタビューで「こうした事柄を見ていくと、記紀神話が単なるフィクションであるはずない。むしろほぼ事実といえるようなことが、古代の日向で起こったに違いないと確信しています。」と述べている。

 今年1月12日、梅原猛氏が93歳で逝去された。今回の「神話のふるさと日向の国・宮崎探訪の旅」の計画を始めてから、改めて『古事記』の日向神話について学び、そして『天皇家の“ふるさと"日向をゆく』(新潮文庫)を買って読み始めたところで、その訃報を聞いた。憲法9条を守る「九条の会」は、梅原猛氏をはじめ大江健三郎氏、澤地久枝氏、鶴見俊輔氏、井上ひさし氏など9人が呼びかけ人となって10数年前に発足したが、梅原氏の死去で呼びかけ人9人のうち、これで7人が亡くなったことになる。

 昔、梅原猛氏のことを、「国立民俗学博物館」を創設した梅棹忠夫氏の子息かと、勘違いしていたことがあった。宮城県出身で京都大学哲学科を卒業し、立命館大学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長、日本ペンクラブ会長などを歴任された。哲学者で、日本古代史研究やスーパー歌舞伎など、幅広い活動でも有名だ。

 天孫降臨の地をめぐっては、江戸時代以降「臼杵高千穂説」と「霧島高千穂説」の高千穂論争が続いている。降臨にふさわしい、雲にそびえる高千穂峰(標高1574m)の「霧島高千穂説」の方が、有力のように思える。なお「臼杵高千穂説」の中でも天孫降臨の地は、高千穂町内のくしふる峰(標高は低い)、五ヶ瀬町との町境にある二上山(標高1082m)、大分県との県境に位置する祖母山(1756m)などの解釈があるそうだ。
 
 しかし近年、梅原氏が本居宣長(江戸時代の国学者)の唱えた「高千穂移動説」を再評価したことから、この考え方が注目されつつあるという。また、直木賞作家の長部日出雄氏は、梅原説とは逆の移動説を唱えているという。

  梅原氏は、著書の中で本居宣長説を踏まえ、ニニギノミコト(すぐれた稲作技術や養蚕技術を持った渡来人たち)は、鹿児島県の野間半島の笠沙御崎(かささのみさき)に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から更に霧島へ移動したとしている。

 『天皇家の“ふるさと日向をゆく』は、梅原氏が南九州を訪ねて回る古代史研究の紀行文。『古事記』の神話や地元の伝承から、氏の日本古代史論からこれら独自の解釈は、何度読み返しても興味深い。

 
  

【 時間の都合で旅行計画から漏れたその他の見どころ】

・くしふる神社(高千穂町)
 『古事記』にニニギノミコトが降り立った所を「筑紫(九州)の日向の高千穂のくじふる峰」と記されている。その場所と考えられている「くしふる峰」の中腹にあるのが「槵觸(くしふる)神社」。
    
・国見ケ丘(高千穂町)
 標高513mの国見ヶ丘は、雲海の名所として有名。東に五ヶ瀬川に沿って広がる高千穂盆地、西に阿蘇山、北に祖母山をはじめとする連峰、そして南に霊峰「二上山」に続く椎葉の山々を一望できる絶景スポット。
     
・あまてらす鉄道(高千穂町)
 「あまてらす鉄道」は、高千穂鉄道の廃線をうけ2008年に創立。旧高千穂駅~高千穂鉄橋の5.1㎞を往復、所要時間30分。1,300円。
    
・皇宮屋(宮崎市)
 「皇宮屋」(こぐや)は、神武天皇の東征前の皇居跡。神武天皇は、高原郷狭野原(現在の高原町狭野)で誕生、15歳で皇太子となって宮崎へ移り、東征に向かう45歳までここで過ごしたという。現在は宮崎神宮の摂社・皇宮神社となっている。
     
・江田神社(宮崎市)
 「江田神社」は、日本神話に最初に登場する夫婦神イザナギノミコト、イザナミノミコトを祀る。北へ徒歩5分に、けがれたイザナギノミコトが禊(みそぎ)をしたという「みそぎ池(御池)」がある。
    

 


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 「宮崎市と神話のふるさと」2014/11/01 投稿
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2019年5月31日 (金)

神話のふるさと日向の国ーその1

 2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。

 

 1日目の5月24日(金)は、宮崎空港から北へ、300基余りの古墳が点在する西都原古墳群、天孫降臨の高千穂で夜神楽鑑賞。
 

 羽空港発9:45のソラシドエア55便に友人5人と一緒に搭乗、宮崎ブーゲンビリア空港着11:25。

 空港ターミナルビルで、見上げれば藤城清治が日向神話を描いたステンドグラス(縦3m、横21m)設置されている。

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 日本を代表する影絵作家、藤城清治(95歳)の美術展「藤城清治 愛 生きる メルヘン展」が、宮崎県立美術館(宮崎市)で開かれている。来年に県内で開催される「国文祭・芸文祭みやざき2020」のプレイベントに位置づけられ、約120点が展示されているという。会期は、4月13日~5月26日。

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 11:40~12:10、ターミナルビル3Fのそば処「萩之茶屋」で昼食(蕎麦定食820円)。

 12:20、バジェットレンタカー宮崎空港店。予約していたレンタカー(トヨタNOH)に6人が同乗し、12:30出発。

 宮崎ICから清武JCTまで宮崎自動車道を西へ。清武JCTからは、東九州自動車道を北上。西都ICを出て、西都市の中心街へ国道219号、県道24号を走る。西都市は、宮崎県のほぼ中央部に位置し、「西都原古墳群」で知られる。

 

 西都原古墳群のガイダンスセンター「このはな館」の駐車場に13:15、予定より30分早く到着。しばし休憩。

 「西都原古墳群」は、東西2.6㎞、南北4.2㎞、標高70m程度の丘陵地域に319基の古墳が分布する。日本最大級の規模を誇る国の特別史跡。

 13:45~15:35、予約していた観光ガイドボランティアの案内で、古墳群を見学する。

 

 「鬼の窟」(おにのいわや、206号墳)は、石室の中に入ることが出来るが、車で通過する。

 (写真が撮れなかったので、ウィキメディアコモンズから引用)

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 鬼の窟は、直径37m、高さ7m の円墳、墳丘の周囲に高い土塁(外堤)と二重の濠(外濠と内濠)を有し、「西都原古墳群」 では”横穴式石室”を有する唯一の古墳。最後の首長の墓とされている。6世紀末~7世紀初めに造られたもので、この形式は朝鮮半島や中国を源流とする新形式の古墳、国内では「石舞台古墳」(奈良県明日香村)と類似するそうだ。

 平成7(1995)年度の調査によって、石室の中から木棺の鉄釘、馬具、須恵器(すえき)、土師器(はじき)などが出土し、調査終了後現在の形に整備された。

 コノハナノサクヤヒメ(木花佐久夜姫)を嫁にと願う悪鬼が、父の山の神・オオヤマツミカミ(大山祇神、大山津見神)から岩屋をつくる様に命じられ、一夜で完成させたという伝説がある。

 車を降りて周囲を見渡すと、大小の古墳があちこちに点在する。言われないと気がつかないような、小さな古墳もある。

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 こういった小さな古墳までが、千数百年を経て残っていることに驚く。普通は破壊されて畑にされてしまいそうだが、神話と伝説が残るこの地の人々が代々、これら遺跡を大切にしてきたと観光ガイドは言う。

 西都原古墳「13号墳」は、全長79.4m、高さ8.9m。前方部・後円部ともに3段で構成される柄鏡形(えかがみかた)と呼ばれる前方後円墳。

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 4世紀後半ごろに造られたとされ、大正時代の調査で国産の三角縁三獣鏡や勾玉、武器などが出土。1996年(平成8)~1997年(平成9年)に再調査され、墳丘の表面が全体が、河原の小石を利用した葺石(ふきいし)で覆われていることが判明したそうだ。この古墳の手前には葺石を再現した1/20のミニチュアが造られている。

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 現在は、墳丘保護のため葺石の上に土をかぶせ、芝で覆ってある。出土品は、「西都原考古博物館」に展示されていた。

 「13号墳」内部の礫(れき、小石)で覆われた粘土槨(ねんどかく)。中に入って、見学する。

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 粘土槨は、古墳の上から掘られた穴(土坑内)の粘土床に小石を並べその上の木棺を粘土で覆って埋め戻した埋葬施設のことで、石室とは異なる。粘土床は、被葬者を邪気から守るため、赤いベンガラ(酸化第2鉄)が塗られている。粘土床には、副葬品のレプリカが置かれていた。

 観光ガイドの薦めで、予定してなかった「宮崎県立西都原考古博物館」を見学することにする。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 14:45~15:30、博物館(入場無料)内を、学芸員に案内してもらう。

 弥生時代の展示。瀬戸内系の土器。当時は、九州東岸から瀬戸内海を経て近畿への交易ルートがあった。

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 石器を実際に土器や石器を触れることが出来る展示(ハンズオン展示)もある。

 騎馬像と馬具、装飾品の展示。

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 中央にあるものは軽石製組合式石棺。右側は、地下式横穴墓の出土品。

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  西都原古墳「170号墳」から出土した子持家形埴輪。展示はレプリカで、本物は東京国立博物館にある。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 「170号墳」から出土した舟形埴輪。展示はレプリカで、本物は東京国立博物館にある。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 えびの市島内の地下式横穴墓群の出土品。赤いのはベンガラか。

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 西都原古墳群「4号地下式横穴墳」のレプリカと、被葬者が横たわっている姿を三次元ホログラムで見る(写真なし)。今にも埋葬したばかりの被葬者の三次元ホログラムのリアル感は凄い。

 地下式横穴墓は、地面に竪坑を掘り、そこから横穴を掘って死者を葬る玄室が作られた墓。5世紀〜6世紀の古墳時代の南九州特有の古墳。

 その他、古人骨や鉄製品の収蔵した「収蔵展示室」をガラス越しに見る。(写真なし)

 「男狭穂塚」(おさほづか、右)と「女狭穂塚」(めさほづか、左)の模型。

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 「男狭穂塚」(長さ176m、高さ19m)は、日本最大の帆立貝形古墳。「女狭穂塚」(長さ176m、高さ15m)は九州最大の前方後円墳。両者は、南九州古墳文化の頂点とされ、西都原古墳群の中心的存在だそうだ。

 広大な古墳群、充実した展示(しかも無料)の考古学博物館は、予想外でとても短時間で十分見きれない。旅行のスケジュールで十分時間を取れなかったのは残念だった。
 

 「このはな館」から考古学博物館へ車で行く道で、左手に里山のような森があったが、残念ながらその時は「男狭穂塚」と「女狭穂塚」とは気がつかなかった。これらは、ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメの御陵と伝わり、宮内庁が管理する陵墓参考地、立ち入り禁止。

 柵で囲まれた「女狭穂塚」。(写真は、ウィキペディアコモンズ)。

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 「男狭穂塚」と「女狭穂塚」の入口。左手に、宮内庁の立入禁止の立て札がある。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 西都ICにもどり、東九州自動車道を延岡方面へ北上する。

 門川本線料金所からは無料区間。延岡南道路、延岡南ICから東九州自動車道、延岡JCTから九州中央自動車道と続く。

 北川ICから高速を降り、国道218号線バイパスを走り高千穂方面へ。かつて延岡市から高千穂町まで、旧国道218号線と並走していた高千穂鉄道は、2008年廃線となった。 

 17:25、本日宿泊する「大和屋旅館」(西臼杵郡高千穂町)に到着。

 18:30~夕食後、旅館から「高千穂神社」まで5分ほど歩いて行く。

 

 20:00~21:00、「高千穂神社」の神楽殿で「高千穂神楽」を鑑賞(700円)。

 「高千穂神社」では多くの観光客のため、 夜神楽の一部を抜粋した「高千穂神楽」を毎晩、奉納している。本来は夜を徹し舞う夜神楽が、20時より1時間、三十三番の神楽の中から代表的な四番「手力雄の舞」「鈿女の舞」「戸取の舞」「御神体の舞」を抜粋して披露。

 「手力雄(たじからお)の舞」 手力雄命(たぢからおのみこと)が、天照大神が隠れている天岩戸を探し当てるところを表現した舞。

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 「鈿女(うずめ)の舞」 天の岩戸の所在がはっきりしたので、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が岩戸も前で面白おかしく舞い、天照大神を岩戸より誘い出そうとする舞。

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 「戸取(ととり)の舞」 手力雄命が天岩戸を開き、天照大神に再び出て頂き、世の中に光が戻る。先の手力雄命は、白面であるのに対して「戸取」で用いるのは赤面。これは岩戸を取り除くため渾身の力をこめ、顔が紅潮した状態を表しているそうだ。

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 「御神躰(ごしんたい)の舞」 イザナギノミコトとイザナミノミコトの2神が酒を作って仲良く飲んで抱擁し合い、夫婦円満を象徴した舞。

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 高千穂に伝承される夜神楽は、古くからこの地方に伝承された神事。「高千穂の夜神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定。毎年11月中旬から翌年2月上旬にかけて、町内20の集落のあちこちの神楽宿と呼ばれる民家や公民館で、夜を徹して三十三番の神楽を奉納する。

 旅館に戻り、22:30就寝。
 

 本ブログ記事「高千穂と宮崎タウン」に続く。
 

 ★ ★ ★

 特別史跡「西都原古墳群」は宮崎県のほぼ中央、一ツ瀬川の右岸、西都市街地の西「西都原台地」とその周辺の中間台地や沖積地に位置し、その範囲は南北4.2km、東西2.6kmに及んでいるという。史跡指定の面積は、58haを超える。

 「西都原古墳群」は、3世紀末から7世紀にかけて築造され、その数は陵墓参考地の「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」を加えた319基が現存、内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基。また古墳群には、墳丘をもつ古墳に加えて、南九州に特有の地下式横穴墓12基や、全国に広く分布する横穴墓10基が確認されている。

 大正元年(1912年)から大正6年(1918年)にかけて、日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名。大正3年(1914年)、出土品を収蔵するため「宮崎県立史跡研究所」が設立された。後に市に移管され、昭和27年(1952年)博物館法指定で「西都市立博物館」となる。現在は「宮崎県立西都原考古博物館」(2004年4月開館)。

 

 なぜ西都原に古墳が多いのか、以前から疑問だった。それについては、西都原観光ガイドの話も含め、資料を読むと以下のような説がある。

 神話では、天照大神の孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は日向の高千穂の峰に降臨した後、居を構えたのが現在の西都市であったとされる。古墳群の周辺に、「都萬神社」(つまじんじゃ、都万神社)があり、天孫ニニギの妃であるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)を祀る。「都万(つま)」は「妻(つま)」、「妻万(つま)」とする説が古くからある。律令期には、現在の西都市の中心部の妻地区に、日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地(西の都)として栄えたという。

 これはヤマト王権と深い関係があったことの証しと考えられている。その理由の一つが、日向出身の后(きさき)が多かったことだという。古事記と日本書紀には、12代景行天皇、15代応神天皇、16代仁徳天皇がそれぞれ日向から后を迎え、皇子や皇女をもうけたとある。

 それでは、なぜ日向から后を迎えたのか。日向は古代、海上交通の重要なルートであった。九州東岸から瀬戸内海を通過し近畿に至るルートも確認された。また日向が当時貴重であった名馬の産地であることが広く知られてる。さらには、ヤマト王権が日向を重要視したのは、中国大陸や朝鮮半島との盛んな往来で一大勢力を誇っていた北部九州勢力に対し、地政学的なけん制の意味もあったのではないかともいう。

 巨大古墳の多くは4世紀後半から5世紀後半に造られた。あくまでも推測であろうが、そのころに地理的特性をいかして歴代天皇と姻戚関係があったこの日向国の「西の都」(?)の豪族たちが、大型古墳を作ったのではないだろうか。

 ちなみに現在の「西都市」は、1924年(大正13)に下穂北村が町制を施行し「妻町」、1955年(昭和30)上穂北村との対等合併で「西都町」、1958年(昭和33)三納村と都於郡村を編入し「西都市」となった。更に1962年(昭和37)三財村と東米良村の一部を編入している。
 
 

 「記紀の道」(ききのみち)は、西都原古墳群の東側にある全長約4km(徒歩約1時間~1時間半)、いつの頃か散策路として整備された。記紀とは『古事記』・『日本書紀』のこと。これらの文献に記される日向神話にゆかりのあるとされる伝承地を、この道はつないでいる。日向国の総社とされる「都萬神社」から、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが知りあって、新婚生活を送ったとされる伝承地などを経由し、西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚(陵墓参考地)に至る。

 「記紀の道」をつなぐ伝承地は、以下の通り。

 1.都萬神社=前述

 2.御舟塚(みふねづか)=高天原から高千穂の峰に来降した天孫ニニギノミコト一行の舟が、到着した場所。

 3.逢初川(あいそめがわ)=ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメが出会った場所。

 4.八尋殿跡(やひろでんあと)=ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと暮らすために、縦横八尋(約15m)の御殿を作られたという。

 5.無戸室(うつむろ)=コノハナノサクヤヒメが一夜の契りで妊娠したことを知ったニニギノミコトは、自分の子ではないと疑う。
  ヒメは、身の潔白の証として出入口のない産室を作らせて火を放ち、「ミコトの子ならば無事に生まれましょう」と三皇子を無事に産む。

 6.児湯(こゆ)の池=無戸室で生まれたホオリノミコト(山幸彦)、ホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコトの産湯を汲んだ池。

 7.石貫(いしぬき)神社=コノハナノサクヤヒメの父の山の神・オオヤマツミカミ(大山祇神、大山津見神)を祀る。

 8.大山祇塚(おおやまつみづか)=コノハナサクヤヒメの父オヤマツミノカミの御陵と伝わる柄鏡式前方後円墳。90号墳とも呼ばる。

 9.鬼の窟=前述

 10.男狭穂塚・女狭穂塚=前述

 西都原にこれだけの伝承地がうまくつながっているのは、ちょっと話が出来過ぎた感じがする。例えばニニギノミコトの墓は、ここ西都原のほかに、延岡市北方、鹿児島県川内市にも墓があり、宮内庁が管理している。また、ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメが出会った逢初川は、宮崎県高千穂町にもあると聞くし、古事記には笠沙御前(かささのみさき)がその出会いの場所とも記されており、その場所が鹿児島の野間半島だとする説もあるようだ。

 天孫降臨の地が、宮崎県北部の高千穂町と鹿児島・宮崎県境にある「高千穂の峰」の2説があるように、宮崎県内や鹿児島県には同じ物語の舞台とされている場所がいくつか存在し、これらの伝承地を確定することは難しい。


 

 

 

 

2019年5月 2日 (木)

奥多摩・三頭山

 4月20日(土)、奥多摩三山の一つ「三頭山」(みとうさん)に登る。
 

 三頭山は、東京都(奥多摩町、檜原(ひのはら)村)、山梨県(上野原市、小菅村)との県境にあり、標高1,531mの山。日本三百名山。「奥多摩三山」の最高峰で、多摩川最大の支流・秋川の源流の山でもある。

 
 3つの頂上があるので「三頭山」と言う。西峰(1,527m)・中央峰(1,531m)・東峰(1,528m)があり、三角点は東峰に置かれている

 三頭山周辺は「檜原都民の森」として整備され、登山道が造られている。山頂周辺には都内で唯一、ブナ林の原生林が残っている。
 

 レンタカーに7人同乗、8:10 レンタカー店を出発

 圏央道あきる野ICから檜原街道を通って、10:00 「檜原(ひのはら)都民の森」駐車場着。ここは標高1000m。 

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 10:15、出発。森林館に向かう舗装された急坂と階段を登る。

 右側の野草花壇に、カタクリ(片栗)。ユリ科に属する多年草。

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 かつてはこの球根から抽出したデンプンを片栗粉として利用した。精製量がごくわずかであるため、近年は片栗粉にはジャガイモやサツマイモから抽出したデンプン粉が用いられている。全国各地にカタクリの群生地があり、近年観光名所となっていことが多い。

 ヤマシャクヤク(山芍薬)の花は未だ。ボタン科の多年草。

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 花は、茎の先端に直径4~5 cmの花を1個つけ、上向きで咲く。落葉広葉樹林の下などの山地帯に生え、シャクヤクに似ていて山野草として栽培される。なおシャクヤクはボタンに似た花が咲くが、シャクヤクは草本でボタンは樹木。

 10:20「森林館」(標高1043m)に着き、登山開始。

 なだらかな巻道「大滝の路」を進む。ウッドチップを敷き詰めた道は、エコで歩きやすく楽だ。 

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 10:40、「けやきの路」、「かおりの路」への分岐の東屋(あずまや、標高1080m)を通過。

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 10:45、落差33mの「三頭大滝(みとうおおたき)」(標高1115m)を 吊り橋の「滝見橋」から望む。

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 三頭山を源流とする南秋川は檜原役場付近で北秋川と合流、秋川となってここから30数Km離れた昭島市で更に多摩川と合流、東京湾に注ぐ。

 この先は、「ブナの路」。よく整備された石段の登山道。この石段も登り易く出来ている。

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 沢を渡る。

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 釣鐘状の紫の花がうつむきかげんに咲くハシリドコロ(走野老)は、ナス科の多年草、有毒植物。中毒すると走り回って苦しむのでつけられたという恐ろしい名前。キンポウゲ科のハンショウツル(半鐘蔓)に似ているが、それはつる性の低木。

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 キクに似た花のキクザキイチゲ(菊咲一華)は、キンポウゲ科の多年草。落葉広葉樹林の林床などに生育する。

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 ブナ林の登山道をひたすら登る。

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 初めて見たヨゴレネコノメソウ(汚れ猫の眼草、ユキノシタ科)。黄色の部分は花ではなく葉で、中央の小さい粒々に見えるところが花だそうだ。

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 後で資料を見ると、この写真ではわからないが花が果実となり上部が開いて種子を見せている様子が、昼間の細めた猫の目に見えることから、「猫の目草」と名づけられたという。ヨゴレ(汚れ)とは、かわいい花にちょっとかわいそうな名前。葉の表面にある白い斑点が、汚れのように見えるからだそうだ。

 12:15 、ムシカリ峠(1430m)に到着、休憩。左手(南)の方向は避難小屋から大沢山(1482m)へ、右手(北)の三頭山へ向かう。

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 この先は、尾根道。道の左手は山梨県、右手は東京都。

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 面白い樹形のブナの幹。どうしてこんな形になったのか。他にもいろいろな形のブナがあった。

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 12:40、三頭山の西峰(1524.5m)に到着。広場になっていて、ここで13:15まで昼食・休憩。

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 西峰から富士山の頭が見える。

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 13:20、三頭山で最も高い中央峰(1531m)。

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 13:25、三頭山の東峰(1527.5m)。三角点はここにある。

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 すぐその先に展望台。

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 展望台から東北から東の方角の見晴らし。左手ピークが奥多摩三山の一つ「御前山」(1405m)、中央のピークが同じく「大岳山」(1265.5m)。右手に「馬頭刈山」(まずかりやま,884m)。

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 下りは、「ブナの路」の周回ルートへ。

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 14:00、見晴し小屋(1397m)。 ここからの見晴らしは、三頭山東峰の展望台と同じだった。

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 杉林のジグザクの下り坂。

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 14:45、鞘口(さいくち)峠、1142m。直進が御前山、左手が奥多摩湖方面への分岐。右手の都民の森の方に進む。

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 14:55、都民の森の「木材工芸センター」に到着。

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 工芸センターの木工教室などを見学。森林館を経て、15:10都民の森駐車場着。

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 15:25、都民の森駐車場を出発。檜原街道をもどる。

 15:35~16:30、桧原温泉センター「数馬の湯」(檜原村数馬)で汗を流す。料金は、JAF割引で720円。
 
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 18:10、出発地点に到着。

 

 ★ ★ ★

 東京都の「檜原都民の森」は、檜原村にある東京都檜原都民の森管理事務所が管理をしている施設。東京都の西端にある三頭山の山腹、奥多摩周遊道路沿いに位置する。他県では「県民の森」と呼ばれるが、自然を生かし自然に親しむために、1990年に設立された。数多くの植物や野生生物が生息する。

 都内で唯一のブナの原生林が残り、水源林として水源の森百選に指定。標高1000m~1500mの高地にあり、200ヘクタールの敷地に「出会いの森」、「生活の森」、「冒険の森」、「野鳥の森」、「ブナの森」の5つのゾーンに別れ、5つのハイキングコース・散策路が整備され、避難所、休憩所や東屋、炭焼き小屋、野鳥観察小屋などが設置されている。
 
 中心となる「森林館」、「木材工芸センター」は、展示や体験・研修の施設。「森林館」から三頭大滝までの「大滝の路」は、都民の森の中でも一番勾配が少なく、ウッドチップが敷き詰められて歩きやすく、「森林セラピーロード」に認定されている。

 都道206号線の一部、奥多摩湖に架かるに三頭橋(多摩町川野)から南下して都民の森に接して南秋川に架かる九頭竜橋(檜原村数馬)
までは、「奥多摩周遊道路」と呼ばれていて、昔は有料道路だった。また、あきる野市五日市から都道33号線、206号線を通って檜原村数馬までの道路は、都が定めた通称「檜原街道」と呼ぶ。   

2019年5月 1日 (水)

新宿御苑と上野動物園

   4月18日(木)、新宿御苑と上野動物園に行く。

 

 この日は、上着いらずの初夏並の陽気。久しぶりの新宿御苑へ。

 9:55、JR新宿駅着。10:10、新宿御苑の 新宿門に到着。

 新宿門入口付近にあるインフォメーションセンターもアートギャラリーでは、2018新宿御苑フォトコンテスト入賞作品展がが開催中。

 10:30過ぎに入門、「大温室」に入る。

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 熱帯のスイレンの池。

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 熱帯植物の面白い葉に注目。

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 他にも接待植物のユニークな葉がたくさんあったが、以下省略。

 江戸時代の内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る「玉藻池」。紫色の花は、ハナダイコン(花大根)。

 大根の花や菜の花にも似ていて、同じアブラナ科。

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 「フランス整形式庭園」のプラタナス並木。秋に落葉するが、新しい緑の葉をつけ始めている。プラタナス並木は、やはり枯れ葉の方が似合う。

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 プラタナス並木の隣はバラ花壇。春のバラの見頃は5月中旬から6月初旬なので、まだつぼみの芽を出し始めた程度だった。

 新宿御苑の盛春はソメイヨシノなどの花見客で大混雑するが、この時期は晩春、八重桜が花盛り。

 八重桜の一種、フクロクジュ(福禄寿)の大木。樹形も大輪の花姿も美しく豪華。

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 フクロクジュの先の 芝生は、「イギリス風景式庭園」。

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  「日本庭園」にある歴史的建造物の「旧御涼邸」。

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「旧御涼邸」から日本庭園を見る。

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 新宿御苑を出て、14:50上野動物園に入園。
 

 表門から入場するとすぐ右手がパンダ舎。

 パンダ舎へ入場の行列は、20分待ちと知り、パスする。週末は60分以上の待ちになるという。

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 パンダ舎の隙間から覘いてみる。ここからはパンダは見えないが、見学者は左手の屋外放飼場を右手の観覧通路から見ている。

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 ゾウのすむ森。ゾウは、檻が邪魔してどうも撮りにくい。

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 サル山。

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 ホッキョククマとアザラシの海。

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 もちろん2つのプールは、別れている。

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 ゴリラ・トラの住む森。

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 テナガザル。

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 クマたちの丘。熊は動き回ってじっとしてない。

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 プレーリードッグは、しぐさが可愛い。

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 檻が邪魔になったり、動物は動き回っているし、じっとしていてもカメラの方を向いてくれなかったり。

 なかなか思ったように、いい写真は撮りにくい。

 動物園の中に何故か五重塔。

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 この五重塔は、1631年(寛永8年)に寛永寺境内である上野東照宮内に、堂宇の一つとして建設された。当時は神仏習合の考えがあったので、寺の境内に神社(東照宮)があるのは珍しくなかった。

 明治になって、神仏分離により寛永寺の所有物になり、1958年(昭和33年)に東京都に寄付されたそうだ。

 動物園の「東園」だけ回って16:00、キリンやカバのいる「西園」に行く時間がなく退園。

 

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  「再び雨の新宿御苑」2012/06/18投稿
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  「雨の新宿御苑」 2012/04/19 投稿
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 上野動物園は、正式には「東京都恩賜上野動物園」、「上野恩賜公園」(通称上野公園)内にある。上野動物園は、1882(明治15)年に農商務省の博物館付属施設として開園した日本初の動物園。1886(明治19)年には宮内省所管となり、1924(大正13)年には皇太子(昭和天皇)のご成婚を記念して、上野公園と共に東京市に下賜された。現在、年間入園者でみると上野動物が日本1位。2位は、北海道旭川市の旭山動物園。

 三代将軍・徳川家光が、江戸城の北東の方角、すなわち鬼門を封じるためこの地に寛永寺を建てた。以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇った。現在の上野公園のほぼ全域が、寛永寺の旧境内であった。武蔵野台地末端に位置することから「上野の山」、「上野の森」とも呼ばれた。上野の山は幕末の1868年(慶応4年)、旧幕府軍の彰義隊が立て籠もったため新政府軍との戦場(上野戦争)となり、その時寛永寺の主要な堂宇は焼失、焼け野原となった。

 明治維新後には、寛永寺の境内地は没収されて公園用地になった。1875年(明治8年)、寛永寺は規模を大幅に縮小して復興。現在、その地には博物館、美術館、動物園、東京芸術大学、上野高校などの文化・芸術・教育施設が集中している。また西郷隆盛像や不忍の池があることでも有名。

2019年4月 9日 (火)

映画「ダンボ」

 2019年4月5日(金)、ディズニー映画「ダンボ」<2D吹き替え版>を観る。


 笑いものにされた“大きすぎる耳”が、翼になって子象「ダンボ」が空を飛ぶ。1941年製作のディズニー・アニメの古典的な名作映画『ダンボ』をティム・バートン監督のメガホンをとって実写とCGで映画化。母を助けるため大空を舞うダンボのファンタジー・アドベンチャー。そして、ダンボを取り巻く人間物語。2019年3月29日(金)より全国公開。上映時間112分。

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 舞台は、1919年のおんぼろサーカス団。団長のメディチ(ダニー・デヴィート、吹き替え: 浦山迅)が買った象の「ジャンボ」に、かわいい赤ちゃん象が誕生した。“大きすぎる耳”をもった子象は「ダンボ」と呼ばれ、ショーに出演すると観客から笑いものに。

 サーカス団の乗馬ショーで元看板スターだったホルト(コリン・ファレル、西島秀俊)は、第1次世界大戦で片腕を失って帰還し、ダンボの世話係を任された。ある日、コリンの子供ミリーとジョーが、悲しむダンボを元気づけるため遊んでいると、ダンボがその“大きな耳”で飛べることを発見する。
 
 “空を飛ぶ子象”の噂は瞬く間に広がる。ダンボを利用し金儲けをたくらむ大物興行師・ヴァンデバー(マイケル・キートン、井上和彦)は、メディチのさびれたサーカス団を彼の遊園地「ドリームランド」に吸収。そしてダンボは母親のジャンボと引き離されてしまう。母を想うダンボに心を動かされたホルトの家族とサーカス団の仲間たちは、ダンボの母を救い出す作戦をはじめる・・・。

 映画「ダンボ」のパンフの表紙

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 最初は耳(翼)をバタバタさせて飛び上がるが、そのうちに不器用ながらもなんとか飛翔する。しかし着地が難しい。次第に羽ばたいたり滑空したり、減速して着地したり出来るようになる。子象ながら、まるで雛鳥の巣立ちのようだ。

 サーカス団の空中ブランコの曲芸師・コレット(エヴァ・グリーン、沢城みゆき)がダンボに乗る。このスクリーンでダンボが飛ぶ躍動感は、まるで自分が目前で体感しているようだ。オリジナルのアニメのダンボの飛翔シーンを、今回は現代のVFX(視覚効果)を使ってメインの見せ場にしているという。それはダンボのコンプレックスから解放される自由と喜びを表現している。

 ニューヨークにあるという未来をテーマにした大規模な遊園地「ドリームランド」は、1930年代の建築をイメージして、実際にスケール感あふれるセットが作られたそうだ。どこか現代のテーマパーク「ディズニーランド」を想像してしまったが、実際はニューヨークのコニ―アイランドにある遊園地がモデルらしい。当時コニ―アイランドは、現在のラスベガスのような場所だったという。映画では、メディッチのサーカス団は家族的で温かく、ドリームランドは未来的だが冷たいというイメージで対比させてあるらしい。

 オリジナル映画では、ダンボはサーカスの花形スターとなって、母親と再会するという設定。しかし今回の映画の最後は、驚くような意外で壮大なラストシーン。こんな結末が待っていたとは・・・。

 挿入歌「ベイビー・マイン」(Baby Mine、私の赤ちゃん)は、オリジナルにもあるバラードの曲。日本版エンドソング「ベビーマイン」を歌うのは、聞いたことのある声だと思ったら、竹内まりやだった。

 映画のエンディングロールには、キャストのほか製作側のVFXスタッフの名前が延々と続く。いったい何人のスタッフが働いていたのだろうか。こういった映画の製作には、多くのVFXアーティストの人材が欠かせないようだ。
 

 オリジナルの『ダンボ』(原題:Dumbo)は、ウォルトディズニー製作のアニメーション映画作品(上映時間64分)。アメリカでは、欧州で第二次大戦が始まっていた1941(昭和16年)年10月に公開された。日本では『空飛ぶゾウ ダンボ』という題名で、戦後の1954年(昭和29年)3月に公開されている。

 1941年のアニメ映画(オリジナル予告編動画より)出典:ウィキメディア・コモンズ 

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 2018年のミュージカル・ファンタジー映画『メリー・ポピンズ リターンズ』(原題:Mary Poppins Returns、主演エミリー・ブラント)は、1964年のディズニー映画『メリー・ポピンズ』(主演:ジュリー・アンドリュース)の続編。日本では2019年2月1日に公開された。見たいと思っていたが、見逃してしまった。気がついた時は、次の映画「ジャンボ」が公開されていた。
 

 最近の映画はCGやVFXが多用され、現実ではあり得ないがリアリティのある映像を作り出すことができるようになった。

 SFX、CG、VFXについて述べる。

ーSFXは、特殊効果(Special Effects)を意味し、特殊撮影(特撮)とも呼ばれる。古くは〝活動写真”の時代から"トリック撮影”とも呼ばれた。フィルム、ビデオ映像に対して特殊な視覚効果を施す。

 SFXは、美術や舞台の"装置”によるものと、撮影技術や光学処理による"技術”に分けられる。具体的な"装置”は、ミニチュア・着ぐるみ・スーツアクター・特殊メイク・火薬・ワイヤーアクションなどが、具体的な"技術”には以下のようなものがある。

 ・バレットタイム(タイムスライス)撮影は、被写体の周りに複数台のカメラを並べて撮影する技法。
 ・ブルーバック撮影は、合成に用いる映像素材を撮影する際に、青い布などの背景を用いる技術。
 ・スクリーンプロセスは、半透明のスクリーンに裏側から映写し、これを背景としてスクリーンの前の演技を撮影する。

 1980年代以降は、CGなどで映像を後から加工する技術が生まれ、それらはSFXに対してVFXと呼ばれている。

-CGとはコンピュータグラフィックス(Computer Grphics)のことで、コンピュータ(デジタル)によって制作された映像のこと。アニメ映画やゲームなどに用いられる3D-CGアニメーションのことを特にCGと呼ぶことが多い。

-VFXは、視覚効果(Visual Effects)という意味。CG(コンピュータグラフィックス)または合成処理によって、違和感のないように実写映像を加工すること。撮影現場での効果を特殊効果(SFX)と呼ぶのに対し、撮影後の作業段階に付け加えられる効果をVFXと呼ぶ。

 映画業界ではSFXとVFXは別々のものとしてはっきりと区別するが、一般には混同されることが多いそうだ。

2019年4月 7日 (日)

春の秩父路

 2019年3月27日(水)、春の花を求めて秩父路へ。
 
 
 27日の関東地方は高気圧に覆われ、朝からすっきり晴れ。日差しと共に気温も上昇し、最高気温は東京都心20度、千葉と横浜で19℃、熊谷と秩父は22℃。春本番の暖かさで、昼間は上着いらずの陽気だった。


 7:30、駅前で参加者15人を乗せてマイクロバスは出発。

 関越道花園ICを出て、国道140号線を南西へ向かう。長瀞町、皆野町、秩父市街を経て、秩父市荒川上野田の「清雲寺」駐車場に8:45到着。
 

●清雲寺の枝垂れ桜

 「若獅子神社」に隣接して「清雲寺」がある。有名な枝垂れ桜は、まだ3分咲き。

 観光客でにぎあう時期になると駐車は有料(普通車500円、マイクロバス1,000円)となるが、まだ準備中で無料で済んだ。

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 境内には、30本ほどの桜がある。その中でも、樹齢約600年といわれるエドヒガンザクラは樹高は15m、幹回りは3mの巨木。埼玉県の天然記念物に指定。1446年(文安3年)当寺開創の折、開山した楳峯香(ばいほうきょう)禅師が手植えされたものと伝えられる。

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 ここ「清雲寺」の近く、歩いて行ける距離に秩父札所29番「長泉院」の山門に古木の枝垂れ桜、さらに里道を歩いて「昌福寺」には枝垂れ桜が5本ある。いずれもまだ開花してないとの事前情報があって、中止。

 「清雲寺」を9:45出発、国道140号線に戻る。荒川に架かる橋を渡り北上、秩父市内の吉田久長へ。
 

●白砂公園カタクリの里

 この公園は、道の駅「龍勢会館」から1Kmほど北東の場所にある。

 「白砂公園カタクリの里」の無料駐車場に10:15着。駐車場そばにあった公園の案内板(写真をクリックすると拡大表示)。

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 案内板によると、

 「この公園は医師石川貞蔵氏が私財を寄付し、憩いの場として整備した公園です。県内でも珍しい奇岩で白砂砂岩と呼ばれ、第三紀牛首峠層に属する花崗岩砂岩です。松・ツツジ・カタクリなど園内全体が県の自然環境保全地域に指定されています。」

 とある。

 鳥居をくぐり、諏訪神社の裏側から竹林の急な山道を登る。

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 山道から右手の木造の急階段を降りる。公園には木橋の遊歩道が整備され、北向きの斜面1,000平方mの広さに約5,000株というカタクリが群生。

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 この時期3月下旬は、カタクリの花がちょうど見頃。

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 ゆるい登り坂になっている木橋の遊歩道を渡って行くと、最後は急な階段。小高い丘(巨大な岩山)の頂上に着く。

 南向き斜面には砂岩が露出し、丘の上から眼下の景色を眺める。

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 南の方向。三角形の山は、石灰岩の採掘がおこなわれている「武甲山」(標高1,304m)。

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 滑らないよう注意しながら砂岩の丘を下ると、もと来た山道に戻りこれが周回の散策コースとなっている。

 眼下中央の広場左手に駐車場。乗って来たマイクロバスが見える。

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 カタクリの後は、4月は桜や5月のツツジが美しいそうだ。

 カタクリの里の駐車場を11:00発。南下して再び荒川を渡り、秩父市山田の秩父四番札所「金昌寺」に11:35着。

 

●金昌寺の石仏

 秩父三十四ヶ所観音霊場の中で、札所4番・金昌寺(きんしょうじ)。

 ここは1,300体の石仏のあるお寺として名高い。また秩父札所の中でも、紅葉スポットとしても知られている。

 立派な二層式の山門には、一対の大わらじ。

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 境内の石仏は、宝永年間から江戸、北陸、山陰、山陽を問わず全国的に 分布する信者により菩提供養のため奉納されたそうだ。奥の院から山門まで一巡して拝観できる。本堂に向かう道の両側にも、石仏が配されている。

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 石仏群は、県指定民族資料。本堂は三間四面、様式は唐風の江戸中期の建築。本尊は、高さ107cmの 十一面観世音立像(石像)で、室町時代の行基菩薩の作といわれている。行基は、室町時代ではなく、奈良時代の僧侶だったはずだが・・・。

 本堂右手には、江戸の豪商が寄進した「子育て観音像」(慈母観音)の石仏が安置されている。

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 膝に抱く赤子に乳房をふくませようとする観音様は、現実世界の母子の姿に似て珍しい。やさしいまなざしは、見る者の心を癒してくれる。子宝、子育、婦人病などにも御利益があるそうだ。

 本堂に掲げられた金昌寺の縁起図「荒木丹下」。

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 悪人・荒木丹下を観世音菩薩が娘巡礼に身を変えて仏の慈悲を教えて改心させ、大善人とならしめた。不思議な霊験なり。

 本堂裏の石仏。

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 「金昌寺」を11:55発。ここから、1Kmほど県道11号を北に走った先、横瀬川沿いの「秩父茶屋」に12:00着。

 昼食、十割蕎麦天ぷら膳1,320円。

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 「秩父茶屋」を13:00発、ここから北上して外秩父の山域を越え、東秩父村の大内沢へ入る。
 
 
●大内沢の花桃の郷

 「花桃の郷」の近くの駐車場に13:45着。ここから先は、マイクロバスが通りにくい、狭い坂道。バスから降りて700mほど登ると、南向き斜面に広がる「花桃の郷」。ここにも無料の駐車場があるが、乗用車しか入れない。近くに東屋や長い階段のある展望台。

 「桃源郷」と称される東秩父村の代表的な春の名所「大内沢の花桃の郷」。

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 地域農民が荒廃した農地を活用して始め、現在5,000本の花桃が植えられているという。

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 花桃のほかに、周囲には黄色いヤマブキや赤い花を咲かせる樹木が目立つ。

 あとで調べると、この花は瓜に似た実をつけるのでボケ(木瓜)。

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 ボケはバラ科で、3~4月に開花。桜・梅・桃と同時期なので、間違えやすいそうだ。花の色は赤、白、ピンクなど、枝にトゲがある場合とない場合があるという。

 「花桃の郷」を14:40発、県道11号を南下。


●和紙の里

 「和紙の里」に14:50着、ここで休憩20分。

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 東秩父村は、ユネスコ無形文化遺産に登録された、1,300年の伝統を有する手漉き和紙「細川紙」の産地。

 ここ東秩父村の和紙の里は「道の駅 和紙の里 ひがしちちぶ」として、2016年(平成28年)にオープン。休憩や地元のそば・うどんなどの食事処、手漉き和紙体験やワークショップ、そば・うどん打ち体験、和紙製品などの特産品や農産物の買い物を楽しめる。

 江戸時代末期に建てられた紙漉き家屋を移築・復原した建物(写真中央の茅葺の家)は、土間に入り見学ができる。

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 和紙の里を15:20発、出発地の駅前に15:45着。

2019年4月 3日 (水)

奥武蔵・棒ノ嶺

  2019年3月23日(土)、奥武蔵の棒ノ嶺に登る。


 「棒ノ嶺」(ぼうのみね)は、東京都奥多摩町と埼玉県飯能市の境、奥武蔵と呼ばれる1,000m前後の山域にある。奥多摩側から登るコースもあるが、アクセスの良い飯能側から登る。もう若い時に登って以来の山で、標高は969m。

 棒ノ嶺は別名、棒ノ折山(ぼうのおれやま)とも呼ばれる。鎌倉時代初期の有力御家人で坂東武士の畠山重忠が、鎌倉幕府への道中の山越えで使っていた杖がここで折れたという伝説に因む。

 強い寒気の影響で23日は各地で気温が下がり、関東地方では5月下旬並みの暖かさとなった22日から一転して最高気温が15度前後低くなり、真冬並みの寒さとなったところもあった。
 

 8:00、参加者4人は乗用車に乗り合わせて出発。途中、日高市内のコンビニで昼食の弁当購入。飯能市街から入間川に沿って上流へ向かって、県道70号線を西へ、県道53号線を北上する。
 9:25、下名栗の「さわらびの湯」近く、お休み処「かわせみ」の駐車場に到着。トイレあり、登山装備の準備、すtれっち。

 9:35、登山開始。舗装された車道を進むと、やがて石を積み上げた「有間ダム」が現れる。

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 ダム堤頂から名栗湖を望む。

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 堤頂道路を歩き、湖面を右手に見ながら湖岸道路を進む。

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 ダムの取水口。
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 10:05、道路の左手に白谷沢登山口。ここは、標高331m。登山開始。気温は8℃。

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  この「白谷沢コース」の登り始めは、急斜面の杉林が続く。

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 やがて左手に白谷沢を見ながら登ると10:35、3つある滝の一つ「藤懸の滝」が現れる。ここで休憩。

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 この先は、険しい渓谷を急登。奇岩が両岸から迫る。

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 鎖やロープを伝って登る。

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 水量が少なかったせいか、「天狗の滝」と白いクジャクが羽を広げたような「白孔雀の滝」は、気がつかなかった。

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 白谷沢を抜け、白い物がチラホラ降りだす。林道を渡りベンチで休憩。

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 休憩後、再び急勾配の木立の登山道をひとしきり登る。
 
 11:55、5mほどもある巨岩の「岩茸石」(いわたけいし)で休憩。ここは標高793m。気温4℃まで下がる。

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 「岩茸石」で3方に分かれる。東側が「名栗温泉」へ下る道、北東側(岩茸石の裏側)が帰りに通る「さわらびの湯」方面。西側の登り道を進む。

 気温が下がっているのは、高度が上がっているせいもあるが、低気圧が近づいているようだ。白いものは霰(あられ)のような粒雪。 

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 丸太の階段は、土砂が雨で流され歩きにくくほとんど使えない。

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 12:30「ゴンジリ(権次入)峠」、893m。気温は3℃、寒い。木立の間から名栗湖が眼下に。

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 この先は尾根道。登山道の左手は東京都の杉やヒノキの林、右手は埼玉県のカエデなどの雑木林。 

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 あられが強く降りだし、登山道を白く覆い始める。

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 最後のきつい急坂を登りきれば、12:50棒ノ嶺の山頂969m。ベンチ、テーブルや東屋(あずまや)のある公園のような広場。
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 気温は1~2℃。寒い中震えながら、昼食。

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 寒くて眺望を楽しむ余裕がなく、25分ほど滞在して下山開始。

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 「岩茸石」の分岐まで戻り、岩の裏側をまわり、登りとは別ルートの「さわらびの湯」(河又)方面へ。長い杉林の「滝の平尾根」の急坂を下る。

 いつの間にか雪は止んでいて、風が吹き出す。
 
 杉木立の中をしばらく歩くと「白地平」。木々の間から名栗湖の湖面がよく見えるが、息が上がっていて写真と撮る余裕が無い。

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 木の根が露わな長い杉林の急坂の下りも、楽ではない。そのうちに膝に負担がかかって、膝が痛くなり踏ん張れなくなる。  

 15:40、やっと民家の裏庭に出る。ここが河又か? 気温はだいぶ上がってきて、8℃~10℃。
   
 15:45、「さわらびの湯」近く、お休み処「かわせみ」の駐車場に到着、登山靴を履き替え10分休憩。
    
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 15:55、日帰り天然温泉「さわらびの湯」で汗を流す。入浴料800円。

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 17:20、「さわらびの湯」を出て帰路へ。

 18:55、帰宅。
 

 渓谷美、沢登り、眺望が満喫できるという「棒ノ嶺」。名栗湖を経て、長い杉林の急斜面が少し飽きたころ、奇岩のある渓谷を急登。鎖・ロープもあってスリル満点の岩登り。岩ゴロゴロの山道、杉の根の露わな山道など、変化に富んだコースだった。山頂では気温が下がってあられが強くなり、眺望を楽しむ暇なく下山した。秩父・奥武蔵の山々、視界が良ければ榛名山、谷川岳、赤城山、北に男体山などの日光連山。東に川越・所沢の市街、遠く池袋・新宿などを遠望できるそうだ。 

   
 ★ ★ ★

「さわらびの湯」は、名栗村体験交流センターとして村営日帰り温泉だった。名栗村は、埼玉県の南西部に位置する入間郡の村だったが、2005年1月に飯能市に編入合併された。現在、名栗さわらびの湯共同事業体が運営しているようだ。圏央道狭山日高ICから車で約45分、西武池袋線飯能駅からバスで約45分、さわらびの湯バス停下車。 

 温泉は、無色透明、無臭のアルカリ性単純泉。地元「西川材」を使った木の香り漂う木造(ロッジ風)の建物。食事のサービスが無いが、持ち込みで食事は可能だそうだ。登山帰りに利用できる素朴でシンプルな施設。入館料800円。

 

 関連ブログ記事

 「奥武蔵・蕨山」 2014年4月30日投稿

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2019年3月15日 (金)

森林公園の早春ウォーク

 2019年3月13日(水)、「国営武蔵丘陵森林公園」(埼玉県滑川町)の早春の花を探してウォーキング。

 

 この日の天気は、晴れ。最高気温は17℃で、4月上旬から下旬の暖かさ。天気予報では、強い風と花粉に注意とのこと。

 東武東上線森林公園駅の北口前に集合。お昼の弁当が配られ、9時ウォーキングスタート。駅北口前から、まずは「武蔵丘陵森林公園」の南口を結ぶおよそ3キロの遊歩道を歩く。

 9時55分に公園南口から入園、公園の梅林(花木園)までは約1キロ。梅林に向かう途中、菜の花と寒桜が咲いている。

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 10時10分頃、梅林に到着。ここは約120品種500本の梅林。梅林全体としての最盛期は2月下旬ごろだそうだが、品種が多いため、一斉には咲きそろわない。早咲きの紅梅は1月から、遅咲き品種は3月半ばまで開花するそうだ。

 梅は、バラ科サクラ属の落葉小高木。中国原産で、日本へは奈良時代に渡来した。

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 「御所紅(ごしょべに)」は、梅の栽培品種の1つ。京都御所より伝わったとされる。樹高は3~6m。葉は楕円形で、互い違いに生える。紅色をした八重咲きの中輪(花径20~25mm)。

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 「紅千鳥(べにちどり)」は、花びらが衰え、やや見頃を過ぎていた。飛び出た旗弁(雄しべが花びらのように変化したもの)を千鳥に見立てた栽培品種。樹高は3~6m。葉は楕円形で、互い違いに生える。明るい紅色をした一重咲きの中輪(20~25mm)。

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 白、ピンク、紅色の梅林の中、「サンシュユ(山茱萸)」の黄色い花がアクセント。

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 サンシュユは、ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。江戸時代に朝鮮経由で種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになったという。

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 足元には、黄色の「水仙」や「福寿草」の花も色を添える。

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 梅林の「クロッカス」。アヤメ科の球根植物。原産地はヨーロッパ南部や地中海沿岸から小アジア。黄色・白・薄紫・紅紫色・白に藤色の絞りなどがある。

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 梅林の斜面を散策しながら様々な品種の梅の花を観賞し、平日で静かな「運動広場」に10時50分頃移動。木製のテーブルを囲んで、早めの昼食。11時25分頃、この場で解散。

 

 この後は、「アイスランドポピー」(写真なし)がチラホラ咲き始めた運動広場のポピー畑を散策。更に、公園中央口の先、遠く植物園のあたりまで足を延ばす。 

 植物園展示棟前の「クリスマスローズ」。花に見える部分は、萼(がく)片という部分。花びらのように散ることが無いため、鑑賞期間が比較的長い。

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 ヘレボルスは、キンポウゲ科クリスマスローズ属に分類される植物の総称。「クリスマスローズ」という呼称は、クリスマス時期にバラに似た花を咲かせるヘレボルス・ニゲルという品種だけに付けられた名前だそうだ。日本の園芸市場では、ヘレボルスの他の品種も「クリスマスローズ」の名前で呼ばれているという。多くの品種は、クリスマスのころではなく、春に開花する。花色、花形のバリエーションが多い。

 植物園展示棟では、150品種の色とりどりのツバキの写真を展示。(写真をクリックすると、拡大表示)

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 植物園花木園の「アカシア」。マメ科ネムノキ亜科。熱帯から温帯にかけて、特にオーストラリア大陸、アフリカ大陸に多数の種が分布するという。

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 日本においては、明治時代に輸入された「ニセアカシア」を当時「アカシア」と称していたことから、現在でも混同されるそうだ。

 公園・庭園樹園のチューリップの一部が開花。見頃は、3月末頃からか。花畑の半分は、ピンク色の「クリスマスパール」。

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 公園・庭園樹園の「クリスマスローズ」。

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 渓流広場の「クロッカス」。

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 野草コース入口を経て、展望広場下の椿園(花木園)に行く。

 椿園にはm11月から4月に開花する1000本、400品種以上のツバキが植えられている。江戸で生まれた「古典江戸椿」も100品種以上あるという。

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 といっても、桜や梅よりも品種による開花時期に幅があるため、この時期に咲いている花はわずか。

 気品のある華やかな椿の「唐錦(からにしき)」は、品種としての歴史が古く、江戸椿の銘花とされている。淡桃地に紅色の小絞りや吹掛け絞りの八重大輪花。

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 この日は心配した強い風もなく、少し汗ばむくらいの暖かな日差しの中で、早春を感じながらのウォーキング、およそ13Kmを歩いた。

 

 公園南口からはさすがに足が疲れていて、14:30発の森林公園駅行きの路線バスに乗って帰る。

 帰宅すると、久しぶりの筋肉痛。おまけに花粉に終日さらされていたためか、症状が悪化してしまった。

 

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  「森林公園の観梅ウォーク」 2018年3月19日投稿
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  「森林公園の早春の花」 2017年3月15日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-0609.html

 

 ★★★

 3月14日(木) 午後7時30分から、NHK番組『ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!』で、「桜と花見のおなまえ」というテーマを放映していた。

 日本の「花見」は、奈良時代に中国から伝来したばかりの梅が、貴族の行事として鑑賞され始めたのが起源。しかし平安時代には、それが桜に代わってきた。『万葉集』には梅を詠んだ歌が110首、桜を詠んだ歌が43首だった。それが150年後の『古今和歌集』になると、梅が18首に対し桜が70首と大逆転した。
 
 そして「花見」は、桜を鑑賞することを言う、梅を鑑賞する言葉には「観梅」というのがある。一般的に、「桜」はサクラの花を指し、実は「サクランボ」。「梅」はウメの実を指し、花は「梅の花」と言うのは面白い。「花」が桜の代名詞として使われ、女性の美しさが桜に例えられるようになるのもこの頃からだそうだ。

  しかし古風な「ウメ」や「梅子」という女性の名前はよく聞くが、「サクラ」という名前はあまり聞いたことはない。桜が短命であることや、散る桜、武士道、大和魂のイメージから、あまり女性の名前に使われなかったようだ。

 最近になって、「さくら」にちなんだ女性の名前が急激に多くなったという。2000年(平成12年)4月発売の桜を歌った福山雅治の『桜坂』がヒットしてから、森山直太朗、コブクロ、いきものがかり・・・等々の「さくらソング」が流行。桜のイメージが変わって来たお陰というNHKの説明は、とても納得した。

2019年3月 3日 (日)

国立西洋美術館「ル・コルビュジエ展」

 2019年2月24日(日)、午後から「国立西洋美術館」(台東区上野公園)の特別展の「ル・コルビュジエ展」と「林忠正展」、常設展を観覧。

 午前中は、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)の常設展を観覧。両国駅前で昼食後、上野へ。

 13:30~16:00、「国立西洋美術館」を観覧する。

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 ル・コルビュジエが設計した「国立西洋美術館」本館は、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録された。美術館入口の”ピロティ”と呼ばれる柱で支えられた空間も、ル・コルビュジエ建築の特徴の一つ。

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●[本館] 国立西洋美術館開館60周年記念 

 特別展「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ― ピュリスムの時代」 観覧料1,600円。

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 20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した「国立西洋美術館」の開館60周年を記念して本展覧会が開催。

 ル・コルビュジエは、第一次大戦の終結直後の1918年末、故郷のスイスを離れて芸術のパリで「ピュリスム(純粋主義)」の運動を始めた。絵画、建築、都市計画、出版、インテリア・デザインなど多方面に渡った約10年間の活動を振り返り、ル・コルビュジエとピカソやブラックなど同時代の作家たちの美術作品約100点に、建築模型、出版物、映像などの多数の資料を展示。

 (建築模型以外の絵画や資料は、撮影禁止。以下5枚の写真は、ル・コルビュジエ展のパンフから転載。)
 

①ピュリスム(純粋主義)の画家ジャンヌレ

 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ(ル・コルビュジエの本名) 《多数のオブジェのある静物》 1923年 油彩/カンヴァス 

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 若き、ル・コルビュジエの日常生活と希望をうかがわせるテーブルの上の静物。

 アメデ・オザンファン 《和音》 1922年 油彩/カンヴァス

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 オザンファンはジャンヌレに油絵の技法を教え、ピュリスムの理論を作るにあたっても主導的な役割を務めた。
 

②キュビスム(立体派)との対峙

 ジャンヌレは、ピカソ、ブラック、レジェらのキュビスム(立体派)を批判するが、ピュリスムと同じ方向であることを知り、認識を改め理解を深める。やがてキュビスムは、ル・コルビュジエの絵画以外の建築造形に影響を与える。

 パブロ・ピカソ 《静物》 1922年 油彩/カンヴァス

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 ジョルジュ・ブラック 《食卓》 1920年 油彩/カンヴァス

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 フェルナン・レジェ 《サイフォン》 1924年 油彩/カンヴァス

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③絵画から建築家へ-総合芸術家ル・コルビュジエの多彩な活動

 ル・コルビュジェ 「メゾン・ドミノ」 1/30模型 2005年模型製作。

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 柱と床面で建物の加重を支え、階段で上下階をつなぐという構造の考え方。

 ル・コルビュジェ 「画家オザンファンのアトリエ・住宅」 1/30模型 1922-23設計、1988年模型製作

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 (下の写真はその内部で、ル・コルビュジエのパンフから転載。)

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 ル・コルビュジェ 「スタイン=ド・モンヅィ邸」 1/30模型 1988年模型製作

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 ル・コルビュジエ 「イムブール=ヴィラ」 1/100模型 1988年模型製作

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 ル・コルビュジエ 「国立西洋美術館」の本展示室(実物) 1959年完成

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 建築模型を展示している本館ホールの吹き抜け、柱と梁、三角の明り取り窓。

 ル・コルビュジエ 「サヴォア邸」 1928-31年設計 (写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 ル・コルビュジエの建築の中でも最も有名な作品の一つで、世界遺産。
 

 

●[新館 版画素描展示室] 特別展「林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」

 「林忠正展」のポスター。

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 林 忠正(1853 - 1906)は、明治時代に西洋で日本美術品を商った初めての美術商。

 日本でフランス語を習得、1878(明治10)年のパリ万国博覧会に通訳として渡仏。日本の絵画や工芸品が大きな人気を博していた時代、万博終了後もパリに留まり、当地でそれらを商う店を構えた。

 また1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では、日本事務局の事務官長を務めた。

 (写真は、「林忠正展」作品リストの表紙)

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 本展は、林忠正の孫の夫人で歴史作家・木々康子氏の所蔵品を中心に、万博などとの関わりや、日本と西洋との交友、コレクションなど、林忠正の生涯にわたる活動を展示。
 

 

●[新館] 常設展「中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画とフランス近代彫刻」

 常設展示室には、中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画と、ロダンを中心とするフランス近代彫刻を年間を通じて展示してある。

 クロード・モネ 《船遊び》 1887年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 クロード・モネ 《睡蓮》 1916年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 クロード・モネ 《陽を浴びるポプラ並木》 1891年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》 1872年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《帽子の女》 1891年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《横たわる浴女》 1906年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 ジョアン・ミロ 《絵画》 1953年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 パブロ・ピカソ 《アトリエのモデル》 1965年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 藤田嗣治 《座る女》 1929年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 ラファエル・コラン 《詩》 1899年 油彩、カンヴァス 2015年購入

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 ラファエル・コラン 《楽》 1899年 油彩、カンヴァス 2015年購入

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 オーギュスト・ロダン 《説教する洗礼者ヨハネ》 ブロンズ 1880年(原型) 1944年(鋳造) 松方コレクション

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●屋外(前庭)の彫刻展示 
(2017/11/09撮影)

 オーギュスト・ロダン 《考える人》(拡大作) 1881-82年(原型) 1902-03年(拡大) 1926年(鋳造) ブロンズ 松方コレクション

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 オーギュスト・ロダン 《カレーの市民》 1884-88年(原型) 1953年(鋳造) ブロンズ  松方コレクション

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 エミール=アントワーヌ・ブールデル 《弓を引くヘラクレス》(習作) 1909年 ブロンズ 松方コレクション

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 17:15~19:00、川越駅東口の居酒屋「テング酒場」にて、本日ミュージアム巡りの反省会。

 

  「国立西洋美術館」には、過去何回か行ったが、本館が常設展示、新館が特別展展示だった。今回は、ル・コルビジエが設計した本館で「ル・コルビュジエ展」を開催するため、常設展示と特別展示が入れ替っていた。

 この入れ替えにより、常設展の中世時代の絵画の展示が少なくなっていたようだが、良く知られているモネ、ルノアール、ゴーギャン、ピカソなど20世紀初頭の作品が多く展示されていた。順路通りに回らなかったので、戸惑って館内でうろうろしてしまったが、やはり本記事の順のように、特別展から常設展を見るのが順路だったようだ。

 当日午前中は「江戸東京博物館」、午後から「国立西洋美術館」とミュージアムをハシゴして、かなり疲れてしまった。ミュージアム巡りは、今回までのように2ヶ所以上を効率良くハシゴするのが良いのか、1日かけて1ヶ所をゆっくり見るのが良いのか、悩ましい。



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  東京都美術館「ゴッホ展」 2017/11/27 投稿
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  国立西洋美術館「ホドラー展」 2015/01/13 投稿
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 ★ ★ ★

 「国立西洋美術館」は、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために設立された。「松方コレクション」は、松方幸次郎(1866~1950)が収集した美術コレクション。パリに残されていた一部は、第二次世界大戦でフランス政府に敵国人財産として管理され、その後フランス国有財産となったが、日仏友好のため返還寄贈された。

 返還寄贈に当たって、仏政府は新設美術館を要求、日仏間の国交回復の象徴として、20世紀を代表する建築家の一人であるフランス人建築家ル・コルビュジエの設計により、1959(昭和34)年3月に竣工した。
 

 明治の美術商・林忠正は、19世紀末のパリに本拠を置き、ヨーロッパ・アメリカ・中国などを巡って、日本から仕入れた浮世絵などの絵画や工芸品など日本美術品を販売した。彼は美術商としてだけではなく、日本の文化や美術の紹介にも努め、芸術家や研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理に携わったりした。

 林の活動は、商品に関する知識と共に、西洋の日本美術を愛好する芸術家たちに大いに受け入れられ、”ジャポニスム”ブームの大きな力になった。このことは、本ブログ記事の「国立西洋美術館『北斎とジャポニスム』」でも明らかだ。

 浮世絵からヒントに、新しい画風を創りろうとした印象派の画家たちと親交を結び、また日本に初めて印象派の絵画を紹介した。エドゥアール・マネと親しくなった日本人は、彼一人であるとされている。 

 そういった林の文化的貢献に対し、フランス政府は1894年(明治27年)に「教育文化功労章2級」を、1900年(明治33年)には「教育文化功労章1級」及び「レジオン・ドヌール3等章」を贈っている。

 美術館の文化的役割の重要性を認識していた林は、日本での初の美術館建設を夢見て、西洋美術品収集を少しずつ充実させていた。1905年(明治38年)の帰国に際し、500点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で”西洋近代美術館”を建てようと構想・計画したがその翌年、東京で没した。52歳という早すぎる死によって、夢は果たされることなく、、また彼のコレクションも散逸してしまったという。

 林は、浮世絵などの大量の日本美術品を国外に流出させた人物として、批判されることもある。しかし一方で、芸術を通じて海外文化交流に尽した功績を評価されるべきという意見もある。

2019年3月 2日 (土)

江戸東京博物館

 2019年2月24日(日)、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)の常設展を観覧する。
 

 JR両国駅を出るとすぐに「両国国技館」を左に見て歩き、広い長い階段を上がると高床式の倉をイメージしたという「江戸東京博物館」。9:20、チケット売り場がある「江戸東京ひろば」に着く。

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 「江戸東京ひろば」は、「江戸東京博物館」の3階。この建物には2階と4階はない。

 ひろばから「両国国技館」を振り返る。

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 9:30、3階からエスカレータで5階を経て、6階まで上る。6階の常設展示室の入口には、日本橋の実物大の模型。

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 10:00~、ボランティアガイドの案内で館内を巡る。

 日本橋の大きさは全長15m、幅8m。その北側半分が復元されている。床板だけでも、いかに大きい木材が使われたか分かる。日本橋は1603年(慶長8年)に架けられ、諸街道の起点。一帯には魚河岸、米河岸、材木河岸などが造られた。

 日本橋を渡り、「江戸ゾーン」(江戸城と町割り)へ。

 寛永の町人地。江戸初期、日本橋北詰付近。左手前の大きな建物は、現在の三越日本橋店。敷地が広く多くの建物が建っていた大名屋敷に比べ、町人の家は一戸一戸がきわめて狭かった。

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 江戸城の中心部である内堀に囲まれた内郭は、本丸・二丸・西丸・吹上御庭などから構成され、本丸・二丸・西丸にそれぞれ御殿があった。

 この模型は、本丸御殿(奥の方)と二丸御殿(手前)の幕末期における様子を1/200で復元。

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 本丸御殿には御玄関に始まり、表(幕府の政庁)、奥(将軍の執務と日常生活)、大奥(御台所と奥女中が生活)があった。大奥に隣接して天守台があった。

 1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」で消失するまで、江戸城には全高は60mほどもある日本最大の天守閣(写真右上)があった。城下の復興再建を優先、また天下泰平の世になっていたため、以後は天守閣が再建されることはなかった。

 江戸城本丸御殿、諸大名が将軍に拝謁する大広間。最も高い位置に将軍が座る。右奥は勅使との対面などに用いられた白書院。

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 大広間(左手)と白書院(右手)を結ぶL字型の松の廊下。

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 江戸城本丸大手門の前に建てられた、越前福井藩主・松平忠昌の桃山風の上屋敷。明暦の大火により焼失、以後このような華麗な大名屋敷は姿を消した。

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 寛永の町人地と同じ縮尺で復元。大名の敷地は広く、多くの建物が建っていた。

 豪華な松平忠昌の屋敷の門。

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 「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)のレプリカ。

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 木造徳川家康坐像(芝東照宮所蔵)のレプリカ。

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 大名や公家が乗るの豪華な乗物(のりもの)。質素な駕篭(かご)とは区別された。

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 5階に下りると、「江戸ゾーン」(庶民の文化)が展示されている。

 棟の前後で部屋を分ける形のものを「棟割長屋(むねわりながや)」と呼んだ。火事のこともあって、着物や家財道具はあまり持たず、「損料屋」というレンタル屋で借りた。

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 火消は、幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)、大名に課役として命じられた大名火消と、町人によって組織された町火消の3系統があった。

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 町火消は、第8代将軍吉宗の時代に始まる町人による火消。消火活動は、延焼を防ぐため建物を破壊していくという破壊消防が主で、一般の町人よりも鳶職人で構成された。竜吐水は木製の手押ポンプで水を15mほど飛ばすことができたが、継続的に水を供給することが難しく、それほど消火の役に立たなかったそうだ。

 読み・書き・そろばんの寺子屋の風景。当時から日本人の識字率は高かった。

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 上水井戸。江戸市中には、道路下に上水を通す樋(ひ)が埋設され、上水を供給。長屋に設けられた上水井戸を通して、人々に届けられた。

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 絵草紙屋の店内。庶民が楽しんだ草双紙や錦絵といったさまざまな書物や刷り物も出版された。

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 寿司屋の屋台。現代に比べ一貫が大きい。ネタを赤酢に浸したものを使用したため米が赤っぽかったそうだ。

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 江戸で代表的な呉服店の「三井越後屋」江戸本店。

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 現代のような「店先売り」や「現銀掛値無し」といった、店頭販売や現金取引による新たな商取引が始まった。

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 「神田祭り」の行列の様子。代表的な山車(だし)や神輿(みこし)などを抜粋して復元。

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 「神田祭り」の山車を原寸大で復元。

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 江戸時代9月15日の神田明神の祭礼の日には、神輿の前後に30数台の山車とさまざまな練物(ねりもの)が従い、隔年に江戸城に繰り込み、将軍が上覧したという。この山車は、江戸末期の須田町のものを再現。人形は中国の三国時代の武将・関羽。こういった山車は、明治以降に電線敷設の影響で、東京の祭りから山車が消え、神輿中心になったという。

 江戸の盛り場、両国橋の西詰。

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 両国橋の西詰の広小路には、歌舞伎などの見世物小屋、髪結床(かみゆいどこ)、水茶屋などがいくつも立ち並び、寿司・てんぷら・うなぎなどの屋台、すいか売り、朝顔売りなどの物売りや大道芸人も集まっていた。隅田川は、小舟や屋根舟、屋形船が行きかい、夏には花火大会で賑わった。

 江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」の舞台を展示。

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 「助六」は、歌舞伎十八番の一つで、「助六ゆかりの江戸桜」の通称。1713年(正徳3年)に2代目市川団十郎が初演。助六(左、実は曽我兄弟の曽我五郎)は、失われた銘刀・友切丸を探すため吉原へ出入りするが、花魁・揚巻(中央)に横恋慕する髭の意休(いきゅう、右)の所持する刀が友切丸と知り、取り戻すという筋。

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 なお「助六寿司」は、稲荷寿司と海苔巻き寿司を折り詰めにしたもの。花魁・揚巻の”揚げ”が油揚げ、”巻き”は海苔巻きのことから由来する。

 歌舞伎などの芝居見物は、町人や武士といった身分に関係なく、江戸の人々にとっては最大の娯楽だった。

 代表的な歌舞伎の芝居小屋である「江戸三座」の一つ「中村座」の正面部分。

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 「江戸三座」は、江戸時代中期~後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが次第に整理され、中村座、市村座、森田座、山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められた。最終的に、山村座が取りつぶされ三座となった。

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 「江戸ゾーン」を見終わると、もう11:55。
 

 この後、同じ5階にある明治以降の常設展示の「東京ゾーン」、企画展「春を寿(ことほ)ぐ ―徳川将軍家のみやび―」やミュージアムショップは、時間がなくて省略。

 

 両国駅前の商業施設「両国江戸NOREN」の2階「築地食堂 源ちゃん」で、昼食(~13:00)。「旨味・源ちゃん丼」980円は、松前漬けと天かすが入った海鮮丼の定食。

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 午後から「国立西洋美術館」(台東区上野公園)へ移動。

 

 ★ ★ ★

 「江戸東京博物館」の常設展は、一般600円、65歳以上300円。当日2月24日(日)は「天皇陛下御在位三十年記念式典」が行われる日で、観覧料がだれでも無料。チケット売り場に行かず、直接6階常設展示室入口から入る。

 ちなみに、「天皇陛下御在位三十年記念式典」は内閣府が主催で首相が式典委員長を務め、天皇、皇后両陛下のご臨席の下で、国立劇場(東京都千代田区)で開かれた。「国民でお祝いする式典」だそうだが、一般国民は参加できず、新聞・テレビで見るだけ。

 前回「江戸東京博物館に行ったのは、NHK大河ドラマ『利家とまつ』が放送されていた頃、2002年だと思う。17年も前のことで、ずいぶん前のことだ。日本橋の実物大模型や芝居小屋、文明開化、関東大震災や太平洋戦争中の庶民の生活などの展示を憶えている。特別展だったかどうか、『利家とまつ』にちなんだ加賀百万石の展示もあったようだ。

 今回の江戸の展示は、奥が深くて興味深い内容が多く、またガイドの話も面白くて分かり易く、2時間以上かけても全部は見終わらなかった。機会があれば、「東京ゾーン」も含めてもう一度ゆっくり見たい。

2019年2月28日 (木)

ハウステンボス

 2019年2月18日(月)、長崎県佐世保市にあるテーマパーク「ハウステンボス」に行く。

 

 ハウステンボスは、オランダ語で「Huis Ten Bosch」、略称はHTB。佐世保市の針尾島ハウステンボス町にある。地図を見ると針尾島は、佐世保市の南西部に位置し、大村湾をふさぐように佐世保湾との間に浮かぶ島。

 オランダの街並みを再現し、テーマはヨーロッパ。東京ディズニーリゾート(東京ディズニーランドと東京ディズニーシーの合計)の1.6倍の敷地面積、単独テーマパークとして日本最大。

 

 佐世保行きの「快速シーサイドライナー」に乗車。

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 10:26、川棚駅を通過する佐世保発長崎行きの”幻”の豪華客車、JR九州 SWEET TRAIN「或る列車」に運良く遭遇。

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 SWEET TRAIN「或る列車」は、JR九州が運行する観光列車。車内で軽食やスイーツのコース料理を提供しながら、約2時間半前後をかけて運行する列車。

 2015年(平成27年)8月から運行開始。時期によって 佐世保駅~長崎駅間の「長崎コース」と大分駅 - 日田駅間を久大本線経由で運転する「大分コース」がある。長崎、大分コース以外にも、九州内で特別企画のコースもあるそうだ。予約制のパッケージツアーで、金~月曜を中心にのみ運行する。今年の長崎コースは、1月19日~5月12日。1日1往復、大人一人25,000円~37,000円。

 10:36「快速シーサイドライナー」がハウステンボス駅に到着すると、ホームには出発待ちの博多行き10:43発の「特急ハウステンボス12号」が停車中。

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 ハウステンボス駅ホームから、「針尾橋」の向う、ハウステンボスの入口にある「ホテルオークラ JRハウステンボス」。

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 手前は川のように見えるが、大村湾と佐世保湾をつなぐ海峡「早岐瀬戸」。

 一方、「西海橋」と「新西海橋」が架けられている「針尾瀬戸」は、佐世保市の針尾島と西彼杵半島の西海市との海峡で、渦潮が有名。

 ハウステンボス駅を出ると、すぐに「針尾橋」を渡る。

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 早速チューリップがお出迎え。

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 ハウステンボスの入場口「ウェルカムゲート」。

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 チケットは、入場+約50のアトラクション施設利用の「1DAYパスポート」が大人7,000円、シニア6,500円。入場のみタイプの「散策チケット」は、大人4,500円。そのほか夜だけ入場のタイプや、2DAY、3DAY、年間パスポートなど多種あり。

 

●運河クルーズ船

 1DAYパスポートで利用できる「カナルクルーザー」に乗る。「ウェルカムゲート」からすぐの所に船乗り場がある。船上から街の景色を楽しむ。

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●タワーシティ

 「カナルクルーザー」は、タワーシティに到着。

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 高さ105mのシンボルタワー、地上85mの「ドムトールン展望台」にエレベータで上がる。 

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 展望台は思ったより狭い。ここから園内のイルミネーション全体を眺望できそうなので、混み合うに違いない。

 東の方角は、ハウステンボス駅の方向。左はアートガーデン、中央はアトラクションタウン、手前はアムステル広場。

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 右上の赤い屋根の戸建てやその奥にマンションが並ぶ。入園者は入れないそうだが、住宅や別荘に利用されているワッセナーと呼ばれる居住区もある。

 南の方角。大村湾とハーバ―タウン。黒船を復元した帆船「観光丸」を以前来園した時に見たが見当たらない。

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 西の方角。手前のビルは、ホテルヨーロッパ。中央は池のあるフォレストヴィラ。その奥はオランダの宮殿を模したパレスハウステンボス(内部は美術館)。写真をクリックして拡大表示すると、右奥の三本の塔「針尾無線塔」が見える。右手の施設は、園外の米軍基地住宅。

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 「針尾無線塔」は、太平洋戦争の開戦を告げる「ニイタカヤマ ノボレ」が送信されたと言われているが、真偽のほどは確かではないそうだ。

 展望台を降り、タワーシティのレストラン「とっとっと」で昼食。オムライス、ハンバーグ、ナポリタン、コロッケがセットになった長崎名物のミックストルコライス1,450円。何年かぶりに食べたが、ボリューム満点で、けっこう味が濃い。

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 レストランやフードコートには、長崎卓袱(しっぽく)料理、ちゃんぽん、皿うどん、佐世保バーガー、五島うどんなど長崎名物が目を引く。

 

●アムステルダム広場

 100万本の大チューリップ祭り。ここアムステル広場のほか、パレスハウステンボス、フラワーロード、ホテルヨーロッパ内でもたくさんのチューリップが咲き誇っているらしい。

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 アムステルダム広場ではカーニバルの舞台。仮装を楽しむ参加型の「仮面舞踏会パーティ」が開催されていた。

 

●アトラクションタウン

 噴水広場。この上に、イルミネーションの「光の天空ツリー」がある。

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 「ミューズホール」では、13:20~ミュージカル「THE SHOW MUST GOON」~ショービジネスの栄光と挫折の物語を観賞。館内は撮影禁止。

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 そのほか「ミューズホール」では、「ハウステンボス歌劇団」による歌劇「古代浪漫レビュー~ヤマトタケル」と「天翔けるブーツ~長崎での竜馬」も開催中。

 カラフルな彩られた傘のアーケード通り「アンブレラストリート」。夜はイルミネーションが楽しめる。

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 「スーパートリックアート」に入館、錯覚を利用した面白い写真が撮る(写真の掲載は省略)。

 「ホライゾン・アドベンチャー・プラス」では、800トンの水の大洪水の猛威を体験する。館内は撮影禁止。

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 「ロボットの館」と「Kirara(キララ)」の建物。

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 「ロボットの館」の正面には、映画「THE NEXT GENERATION パトレイバー」で撮影に使用された実物大立像タイプ(高さ9m)の機動警察パトレイバーが立っている。

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 「ロボットの館」の内部。ロボットのミュジアムでショップもある。

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 ロボットを操縦、対戦できるコーナー。

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 「Kirara(キララ)」では、大迫力の映像「もしも月がなかったら」を鑑賞する。館内は撮影禁止。

 2005年(昭和」17)の愛知万博で人気パビリオンだった「三菱未来館@earth(アット・アース)」のテーマ「もしも月がなかったら」を譲り受け、2006年 (平成18)7月からアミューズメント施設「Kirara(キララ)」として公開しているそうだ。

 ここは、機動戦士ガンダムスペシャルシアターとして、ガンダムの全容と魅力を巨大な三面スクリーンとミラー貼りされた天井、床、壁にまで広がる無限の映像で紹介していたそうだが、そのイベントは2017年(平成29)3月に終了したようだ。

 

●フラワーロード

 風車と色とりどりのチューリップのある風景。

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●光の王国

 イルミネーションイベント「光の王国」。イルミネーションは、世界最大の1300万球だという。これまで、これほどの規模のイルミネーションは、見たことは無い。

 6:50頃、アトラクションタウンの噴水広場、「光の天空ツリー」に灯が点っている。

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 スリラーシティのビルのイルミネーション、音と光の点滅。

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 アムステルダムシティからタワーシティに渡る橋から、観覧車の方向を望む。

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 アートガーデンでは、ファイヤーパフォーマンスが行われていた。

 火を操るスペシャリストのパフォーマンスと光のドラゴンロボットのショー。全長13m高さ6.5mのドラゴンロボットが、本物の火を吐き、自身をいろいろな色に発光させるというが、現場に着いた時には、残念ながらちょうどパフォーマンスが終わっていた。

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 アートガーデンから、タワーシティを望むと「光の滝・ブルーウエーブ」。高さ60mの滝から流れる光は、広大な海に広がる。

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 観覧車に乗って見るイルミネーションが最高だっただろうが・・・。

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 アートガーデンから見る「光と音楽の運河パレードショー」。次々とクルーザーやカヌーが通り、運河が虹色に輝き噴水が吹きあがる。

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 船のデッキではミュージシャンたちが生演奏。

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 フラワーロード近くの水上噴水ショー「ウォーターマジック」。音楽に合わせて躍動する光と水。

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 フラワーロードの夜のチューリップ。

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 光のチューリップガーデン。よく見るとチュリップは本物ではなく、花の中LEDが仕組まれている。

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 この日の天気は曇り、最高気温は12℃。比較的暖かだった。

 夜になって時折雨粒が落ちて来て心配したが、何とか本降りにならずに済んだ。着込んで来たものの、思ったよりも寒くはない。

 まだほかにもハウスパレステンボスなどで、3Dプロジェクションマッピングや光のオーケストラなど夜のショーは22時まで続くが、19:30頃に退園。

 

 ★ ★ ★

 20年以上も前、ハウステンボスに行ったことがあった。豪華なオランダ風の建物や風景を見て回った。いかにもオランダに来たかのような雰囲気だった。エイチ・アイ・エスの社長に変わってから、経営が良くなったという。うわさに聞いていたが、インフラはオランダ風だが、内容は「何でもあり」だった。

 アトラクションやイベントは、どちらかといえば若者向け、子供向け。「楽しければ何でもあり」という感じで、全体としてのテーマ性が無いように見える。アジアからの観光客は多かったが、オランダ人はここを訪れてどう思うだろうか。

 例えばヨーロッパに「ジパング村」というテーマパークがあったとする。そこでは、天守閣のあるお城、神社仏閣、日本庭園があり、武家屋敷、町屋や長屋がある。建物や町並は確かに江戸時代の町。しかしアトラクションは、忍者パフォーマンス、歌舞伎のほかに、ミュージカルやバレー、西部劇もやっている。レストランには、寿司やうどん・蕎麦などのほかに中華や韓国料理、ハンバーガーなどのファーストフードがある。。そこに行った日本人は違和感を持つ人も多いと思う。しかし楽しければ、それはそれでも良いか・・・。

 アメリカの日本食レストランに行った時、内装は日本風だったが、中国風の寺の写真が飾ってあったり、韓国服を着たコリアンらしきのウエイトレスがいた。メニューに日本食のほか中華や韓国料理もあった。でも安くて美味しければ、許される。

 

 ハウステンボスを創業したのは、神近義邦氏。1942年(昭和17)生まれで、長崎県西彼町(現在の西海市西彼町)の出身、長崎オランダ村やハウステンボスの社長を歴任した。1962年(昭和37年)西彼町役場へ就職、農業指導を担当。長崎県庁出向後、1973年(昭和48)役場を退職した。その後、土地買収問題がきっかけで東京の料亭「一條」の経営再建に手腕を発揮、またベアリングのミニベア株式会社の役員にもなった。

 1979年(昭和54)ヨーロッパ出張に行き、そこで見たオランダの風景に感動。その後、自らの観光果樹園を基礎として「人と自然の調和」を主題にした自然動植物公園「長崎バイオパーク」を1980年(昭和55)に開園、ハウステンボスの前身となる「長崎オランダ村」を1983年(昭和58)にオープンさせ、順調に観光客を集め発展した。長崎県が造成したが分譲が進んでなかった針尾工業団地に飛びつき、巨大リゾート・ハウステンボスにつながる計画案をまとめた。

 ハウステンボスは、昔は水田だった土地に新たに運河が掘削された。水際は、動植物に対し自然の生態系が形成されるように、砕石や土、木を利用。運河護岸はコンクリート壁を使わず、動植物と馴染む石積みとした。

 オランダ400年の国づくりに学びながら、時代を先取りする環境都市となっていくストーリーを作り、「人と自然が共存する新しい街」を目指してつくられたという。オランダの文化と豊かな自然が息づかせ、ハウステンボスで生活する人々や訪れる人々につかの間の余暇と、本格的な充実したリゾートライフを提供することを目指している。オランダ政府の協力や助言のもとに、実在する建物を忠実に再現する方法で造られており、建物に付属の石像もオランダの文化財修復家が製作に当たったという。またハウステンボスには、ワッセナーという居住区があって、マンション、戸建ての住宅が建ち生活もできる。

 

 ハウステンボスは1992年(平成4)にオープン。初年度から九州でも最大級の集客実績を上げたが、神近の建設時のこだわりも一因となった莫大な初期投資(約2,200億円)が負債となって、苦しい経営が続いた。そしてバブル崩壊後に続いた景気後退が集客減少を招き、ハウステンボスの経営は悪化した。2000年(平成12)、神近はハウステンボス社長を辞任した。その後ハウステンボスは興銀主導での再建を模索したが、2003年(平成15)に会社更生法の適用を申請。出資していた多くの地元企業の経営も大打撃を被っている。

 ハウステンボスのコンセプトは素晴らしかったが、経営としてはうまく行かなかった。2010年(平成22)、経営再建のために旅行業の株式会社エイチ・アイ・エスが支援、事業主体のハウステンボス株式会社を子会社化し、エイチ・アイ・エス社長の澤田秀雄氏が社長となった。18年間赤字だったハウステンボスを一気に黒字に転換、現在に至っている。

 今やハウステンボスは、九州旅行の定番となり、「楽しければ何でもあり、客が集まるなら何でもあり」というテーマパーク。オランダというテーマにこだわった神近氏の理想を引き継ぎながら、ロボットなどの新たなテーマ性を創造し、現実的な経営を進める澤田氏のユニークな経営でますます評価されているようだ。

 ただ、ディズニ―ランドのように、園内に入ると夢の国と異なり、園外の景色が見えてしまうこと。また宅配便のトラックが園内を走っていることなどが現実の世界に引き戻される。しかしディズニーのまねをする必要はない、独自の方向に進んでほしい。

2019年1月29日 (火)

高輪・目黒界隈

 2019年1月19日(土)、高輪・目黒界隈を巡る新春ウォーク。

 

 天気は晴れ、最高気温は11℃。12キロほどを歩く。

 10:00、地下鉄南北線「白金高輪駅」着。10:10、1番出口をスタート。

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 桜田通り(国道1号線)を南下、5分ほど歩くと右手に「覚林寺」がある。

 

❶覚林寺(港区白金台1丁目、10:18~10:23)

 加藤清正公を祀る日蓮宗の寺院。この地はかつて肥後熊本藩細川家の中屋敷であった。

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 地元では「白金の清正公さま」と親しまれる。毎年、5月4、5日の大祭では、葉菖蒲入りのお守りが授与される。勝負の守り神として信仰。江戸最初の七福神巡りとされる元祖山手七福神の一つ、毘沙門天を祀る寺でもある。

 桜田通りに沿ってその先に、「明治学院大学」、「明治学院高校」も敷地がある。明治学院前交差点付近の正門から入門。

 
❷明治学院大学(白金台1丁目、10:28~10:40)

 「明治学院」の起源は、1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」。のちに男子部は「明治学院」、女子部は「フェリス女学院」となる。ヘボン塾は後に「一致英和学校」と改称。1887年、「一致英和学校」、「英和予備校」、「東京一致神学校」の3校を統合して最古のキリスト教主義学校として「明治学院」が設立された。

 「明治学院記念館」、「インブリー館」、「明治学院礼拝堂」という明治末から大正初めにかけて建てられた歴史的建造物が三棟残っている。

 「明治学院記念館」は、1890年(明治23)神学部校舎兼図書館として創建。東京都港区有形文化財。

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 「明治学院礼拝堂」(チャペル)は、1916年(大正5年)に落成したイギリス・ゴチック様式の礼拝堂。2008年(平成20年)に大規模保存修理を実施。東京都港区有形文化財。

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 「インブリー館」は、1889年(明治23年)ごろ創建。国の重要文化財に指定(明治学院旧宣教師館)。

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 明治20年、教師である宣教師のため築造された複数の住居棟の一つ。この建物に宣教師のウィリアム・インブリーが居住していたことから「インブリー館」と呼ばれる。都内最古の宣教師館で、19世紀後半のアメリカ住宅様式を反映している。現在は改装されて1階に小チャペルと2階に会議室などがあるそうだ。

 白金小学校を右手に見ながら、「桑原坂」を登る途中に「八芳園」の正門。

       
❸八芳園(はっぽうえん、白金台1丁目、10:50~11:13)

 「八芳園」は、広大な敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場。庭園の名称は、「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。

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 江戸時代前期、一部が旗本・大久保彦左衛門の屋敷、その後薩摩藩の屋敷を経て、明治時代以降に有力者の手に渡る。現在の「八芳園」は、株式会社八芳園により運営され、結婚式場やパーティなどにも広く利用されている。広大な庭園を散策でき、約1万坪の庭園には樹木、池、滝、茶室などが点在。
    
 八芳園の和室宴会場。

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 この季節も、結婚式が何組か行われていた。

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 日吉坂上交差点から、目黒通り(都営312号線)を南下する。 


❹自然教育園(白金台5丁目、11:30~12:20)

 大都会の中にあって、手づかずの豊かな自然を残しているオアシスのような緑地。国立科学博物館付属の「自然教育園」。

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 入園料310円。65歳以上および18歳未満は無料。

 広大な敷地の遊歩道を歩く。

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 室町時代、この地には白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたと考えられ、その名残の土塁が園内にみられる。江戸時代には高松藩主松平氏の下屋敷として用いられた。

 明治時代に入ると陸海軍の火薬庫、1917年(大正6年)に宮内省帝室林野局に委譲され、「白金御料地」となった。1949年(昭和24年)に全域が天然記念物および史跡に指定され、同時に「国立自然教育園」として一般公開。

 まんりょうの赤い実。

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 シイの巨木と右下のせんりょうの赤い実。

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 水鳥の沼。

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 6万坪の園内には、原生林や四季折々の草花生い茂り、草原や湿地、沼池、小川など武蔵野の自然を残す。

 樹齢300年の「大蛇(おろち)の松」。松平氏の下屋敷の面影を残す。

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❺東京都庭園美術館(白金台5丁目、12:22~12:46)
  
 「自然教育園」に隣接する。庭園のみの入園料200円。65歳以上100円。

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 1933年(昭和8年)に朝香宮邸(香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王)として建てられ、1947(昭和22)年皇籍離脱まで暮らした邸宅。この土地は高松藩松平家の下屋敷があったが、明治になって陸軍の火薬庫が一時置かれ、後に「白金御料地」と呼ばれ、皇室財産となっていた。民間に払い下げられたが、1881年(昭和56年)東京都が買い取り。

 アール・デコ様式の本館と内部装飾そのものが芸術品で、その空間を活かして展覧会等に利用。緑豊かな庭園が調和したユニークな都立美術館。1983年(昭和58年)に開館。

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 美術館ではあるが所蔵品の常設展示はなく、企画展示が年に5 - 6回行われている。

 茶室と築山や池を備え、起伏に富んだ日本庭園。

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 今回は展覧会が開催されていないので茶室と日本庭園、西洋庭園のみ見学。

 本館や茶室、正門などが国指定の重要文化財。

       
       
 JR目黒駅に向かう。駅周辺の「中華食堂・日高屋」で昼食(12:50~13:18)。中華そば390円。

 目黒駅を抜け、「行人坂(ぎょうにんざか)」を下る途中、「目黒雅叙園」がある。 

 

❻目黒雅叙園(目黒区下目黒1丁目、13:45~14:30)

 「目黒雅叙園」は、結婚式場、レストラン、ホテルの複合施設。石川県出身の創業者・細川力蔵が、1931年(昭和6年)に目黒に「目黒雅叙園」と名付けた料亭を開業したのが始まり。

 「目黒雅叙園」の車寄せ(ウィキペディアコモンズ)。

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 「目黒雅叙園」の百段階段の雛人形。館内は撮影禁止であるが、許可されたエリアのみを撮影。

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 展覧会場は、1935(昭和10)年に建てられた目黒雅叙園で現存する唯一の木造建築、東京都指定有形文化財の「百段階段」。食事や宴が行われた7部屋を、99段の長い階段廊下で結ばれている。各部屋はそれぞれ趣向が異なり、天井や欄間には当時屈指の著名な芸術家達が創り上げた彫刻、工芸、美術など美の世界が描かれている。

 毎年テーマとなる地域を変えて、日本各地の歴史ある雛人形を紹介する「百段雛祭り」。今年は、「青森・秋田・山形ひな紀行」と題し、大名や豪商、旧家に伝わる雛人形の名品を「百段階段」のその部屋で展示。入場料は、早割チケット1,000円(当日売りは1,500円)。

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 「目黒雅叙園」のエントランスに向かう歩道脇に「お七の井戸」がある。

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 「目黒雅叙園」のエントランスから庭園にかけて、明治18年頃まで「明王院」という大きなお寺があったという。「明王院」には、放火のため火刑にされた八百屋お七の恋人・吉三が出家し、名を西運と改めた僧侶がいた。

 西運は、「目黒不動」と「浅草観音」に、隔夜一万回の日参念仏行を行った。この井戸は、西運が念仏行に出かける際に、水垢離(みずごり=冷水を浴びて心身を清める事)をとったといわれている。

 

 「行人坂」を下り、桜で有名な目黒川にかかる「太鼓橋」を渡って山手通りに出る。

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❼目黒不動尊(下目黒1丁目、14:48~15:05)

 「瀧泉寺(りゅうせんじ)」は、不動明王を本尊とし、一般には「目黒不動(目黒不動尊)」の通称で呼ばれる天台宗の寺院。関東最古の霊場。江戸三大不動・江戸五色不動の一つ。
江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。

 仁王門をくぐる。

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 「目黒」の地名はこの「目黒不動」に由来するという説もある。童謡「七つの子」「赤い靴」「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」で有名な本居長世、思想家の北一輝、甘藷先生の記念碑、顕彰碑ほか、青木昆陽の墓があることでも知られる。

 急な石段を登った先の一段高い土地に建つ大本堂。

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 大本堂の背後にある露座の銅製仏像「大日如来像」。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で、天和3年(1683年)の作。

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 本堂裏手の道を右方へ進んだ先、飛地境内の墓地内に立つ青木昆陽の墓。

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 昆陽が生前に立てさせたものという。昆陽は、江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物として知られる。国の史跡に指定。
 

 再び目黒川にかかる「太鼓橋」を渡って目黒雅叙園の前を通り、「行人坂」を登る途中に「大円寺」がある。

 

❽大円寺(下目黒1丁目、15:20~15:25)
     
 釈迦如来が本尊。元祖の山手七福神の大黒天を祀る。小さなお寺だが、除夜の鐘を突く。

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 江戸時代初め、寛永年間(1624-1644)の創建。江戸初期1772年(明和9年)の「明和の大火」(「行人坂大火」ともいう)で当寺が火元となったため、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。

 幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。大火の犠牲者三千余百人を供養する五百羅漢像が並ぶ。

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 「行人坂」を上りきり、終点のJR目黒駅に15:30着。         

 池袋駅で下車、池袋東口の居酒屋「楽宴」で打ち上げ(16:30~19:00)。 

 

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 歌川広重が「江戸名所百景」(1857年)にも描いた目黒川に架かる 「太鼓橋」と「行人坂」の浮世絵。

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 「太鼓橋」は、1769年(明和6年)に完成。当時としては珍しい石造りで、長さ8間3尺(約15.3m)、幅2間(約3.6m)であり、名前の通りいわゆる太鼓の形をしていた。

 「行人坂」は、目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂。目黒川の窪地から白金の台地に向かう急な勾配で、江戸時代「明和の大火」の火元になった「大円寺」や結婚式場の「目黒雅叙園」があることで知られる。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝で、富士見の名所としても知られた。また八百屋お七の恋人とされる吉三(出家して名を西運と改め)の墓もあり、江戸の大火に縁のある坂。
 


 朝起きると喉に軽い痛みがあった。風邪のようで大事をとって休もうと思ったが、咳も熱もないのでウォーキングに出かけた。昼過ぎからだんだん体がだるくなって、足取りが重い。最後の目黒駅前の「行人坂」を登るのは、さすがに辛かった。

 池袋の居酒屋で一杯飲んで、帰宅途中に寒気がする。

 自宅に20:15着。体温を測ると38.6℃。翌日の1月20日(日)は、高熱で風邪薬を飲んで終日伏せていた。

 月曜日には熱も下がったが、2,3日は安静にしていた。考えてみると、風邪で38度以上の熱が出たり寝込んだりしたことは、ここ数年以上記憶がない。

2019年1月20日 (日)

長瀞アルプスと宝登山

 2011年2月13日(月)、埼玉県の「長瀞(ながとろ)アルプス」、「宝登山(ほどさん)」縦走。

 

 本ブログ記事は、8年ほど前の2011年2月14日作成の「長瀞アルプス・宝登山・蠟梅園 2011年2月記録」と、2011年2月15日製作の写真集「2011年2月 宝登山ハイク」から再構成して公開。

 ご当地アルプスの一つ埼玉県・秩父の「長瀞アルプス」から「宝登山」山頂を目指すプチ縦走ハイキング。参加者は3人。

 

 9:50、秩父鉄道野上駅で下車。ハイカーが多いのにびっくり。9:59、野上駅前を出発。

 昨日までの雪は打って変わって、今日の空は晴れ渡りすがすがしい。駅から住宅街を経て、平坦でのどかな農村を歩く。

 10:10、「萬福寺」の前を左折すると、ここが登山口。「長瀞アルプス起点、宝登山2時間」の道標がある。

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 谷沿いの緩やかな登り坂、やがて杉林の急坂を登り、10:23尾根道に着く。3分休憩、上着を脱ぐ。左手に野上の街並み。

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 尾根道を緩やかに登ると、「御嶽山」を経て「天狗山」(標高342m)へと続く「天狗山分岐」を10:40に通過。道幅狭く、右側は急斜面。

 一旦下り、再び急坂を登る。道標通り左に進み、コナラの森の中を歩く。明るく開けた長瀞アルプスの尾根歩き。

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 登山道のところどころに残雪があり、滑りやすい。 

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 コナラの林の中を、10:53道標に従い左折し、「野上峠」に向かう。

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 少し下ったところの「氷池分岐」に10:58到着。7分休憩。

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 「氷池」では天然氷を作っている。ここから片道15分だそうだ。

 見通しの良い長瀞アルプスの尾根道を進む。雪が融けたのか、だんだん登山道がぬかるんできた。

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 11:11、「野上峠」を通過する。この後の登り・下りが繰り返し続く。 

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 「野上峠」から明るく開けた尾根道をまた登る。

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 春は小鳥のさえずりが聞こえるという「小鳥峠」を11:18に通過。

 11:20、舗装された林道本山根線にぶつかる。 左手は長瀞駅へ、右手の宝登山に進む。

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 緩やかな舗装された林道は、歩きやすいがところどころ凍結や残雪。圧雪に注意しながら登る。

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 11:33、「毒キノコに注意」の看板の脇が、宝登山の登山口。 雪で滑りやすい急坂を登る。

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 宝登山頂上まで続く階段や急坂は、さすがにきつい。

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 11:59、宝登山の山頂(497m)に到着。ここまで休憩含め約2時間。

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 山頂はハイカーで賑わう。見晴らしの良い南側に向かう。 

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 山頂南側から秩父市街と「武甲山」、眼下の「蠟梅園」を眺めながら昼食。

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 山頂から「両神山」も遠望。

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 昼食後、12:48「蠟梅園」を散策。寒桜は散っていたが、黄色い花の蠟梅が見頃だ。

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 甘い香りがするらしいが、近づくも匂わず・・・。 

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 一面、黄色に染まった「蠟梅園」。

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 12:51「蠟梅園」をあとにして、近くの宝登山神社奥宮に向かう。 

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 12:55、山頂の林の中にある宝登山神社奥宮を参拝。

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 宝登山神社奥宮の案内板。1900年前、日本武尊がここで神霊を拝したとある。

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 奥宮に参拝した後、すぐ下の「梅百花園」とロープウェイ山頂駅周辺を散策。

 梅百花園」では、紅梅がチラホラ。

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 13:02、園内の花壇には早春の花フクジュソウ(福寿草)が開花。 

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 13:08、マンサクの花も咲いている。

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 すぐ近くの宝登山遊歩道から下山。圧雪で滑りやすいところが数か所あり、こわごわ下る。
       
 遊歩道を40分ほど下り、舗装道路になるとすぐに宝登山神社に到着。

 鳥居をくぐり階段を上って、13:48本殿に参拝。

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 宝登山神社から参道を歩くと、長瀞遊覧の「こたつ船」の幟(のぼり)が並ぶ。

 14:04、白い大鳥居をくぐり国道を横断すると、14:04長瀞駅前を通過。岩畳通りの土産屋を覘きながら、14:11長瀞岩畳へ下りる。岩畳で一休み。

 (この写真は、2013/3/7撮影のもの)

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 この季節は、水量が少なく「長瀞ライン下り」は休止中、「こたつ舟」が運航しているらしい。

 岩畳通りに戻り、14:17秩父蕎麦「はやし」に入る。

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 しゃくし菜の漬物と煮込みおでんを肴に、ビールと熱燗で、15:55まで本日の打上げ。

 帰りの岩畳通りの土産屋「大沢屋」で、「そら豆の甘納豆きな粉あえ」(450円)を買おうと思っていたが、残念ながら売り切れ。

 

 本日のハイキングは、徒歩約8.6km、約2.5時間(休憩含めず)。

 長瀞駅から16:01発の秩父鉄道・羽生行き急行(急行券200円)に乗車。帰路へ。
 
 天気予報通り晴天で、最高気温8℃、暖かくて気持ち良いハイキングを満喫。蠟梅、紅梅や福寿草など、早春の花も楽しめた。

 残雪は少なかったが、圧雪で滑りやすい場所もあり、特に下りは注意を要した。蠟梅の見頃と晴天の日曜日のせいか、ハイカーが多くて驚いた。日程変更で、参加者が少なかったのが残念だった。

 

 ★ ★ ★

 「長瀞アルプス」は、全国に50もあるという「ご当地アルプス」の一つ。野上駅から萬福寺、御嶽山、天狗山、野上峠を経由し、宝登山頂に至る。地元山岳会が、半年をかけてルートを拓いたという低山のハイキングコース。

 そもそも「アルプス」は、ヨーロッパ中央部に位置する山脈だが、日本の中央部にも巨大な山脈群、日本を代表する山々が肩を並べる「日本アルプス」がある。日本の屋根と言われる三つの山脈「飛騨山脈」、「木曽山脈」、「赤石山脈」は、それぞれ「北アルプス」、「中央アルプス」、「南アルプス」と呼ばれている。

 しかし、日本で「アルプス」と呼ばれる山はこの三つ以外に、全国各地にご当地の「アルプス」の愛称を持つ山がある。資料によっては、そのリストや呼称が異なる。埼玉県には、ほかにも「小鹿野アルプス」、「奥武蔵アルプス」、「飯能アルプス」などと呼ばれるコースがあるようだ。

2018年12月 1日 (土)

映画「日日是好日」

 2018年11月20日(火)、映画『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』を観る。

 茶道教室に通った約25年について書いた、森下典子のエッセイを映画化。2018年10月13日公開。

 母親の勧めで茶道教室へ通うことになった大学生が、茶道の奥深さに触れ、成長していく。監督は、大森立嗣。主人公の典子を黒木華、彼女と一緒に茶道を学ぶ従姉・美智子を多部未華子、茶道の武田先生を樹木希林が演じる。(映画『日日是好日』のポスターから転載。)

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 原作は、森下典子『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』。飛鳥新社から2002年1月に単行本が出版。

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 やりたいことを見つけられずにいた大学生の典子(黒木華)は、ひょんなことから母親に茶道を勧められる。気が進まないまま、積極的な従姉の美智子(多部未華子)と一緒に、タダモノではないと噂の武田のおばさん(樹木希林)の茶道教室に通うことになる。

 以下3枚の写真は、映画『日日是好日』のパンフから転載。

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 意味も理由も分からない「お茶の世界」の決まりごとや、初めての作法に四苦八苦しながらも奮闘する。一生をかけられるような何かを見つけたいという典子は、見つけられないまま就職に失敗。そして失恋、父の死という悲しみのなかで、いつも不安で自分の居場所を探し続けた。

 大学卒業と同時に貿易会社に就職、二年後には会社もお茶も辞めて開業医と結婚、子供も授かって、どんどん前を進んでいく美智子を羨ましく思う。そして一人でお茶を続けて10年、お点前の正確さや知識で後輩にも抜かれて、不器用な典子は限界を感じて来る。

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 やがてその向こうに、見えてきた自由。通い続けた茶道教室は、「ここにいるだけで良い」という心の安息。いつしか雨が匂うこと、雨の一粒一粒が聴こえること、季節を五感で味わう歓びと感動を知る。お茶を習い始めて二十五年、気がつけば自分のそばに「お茶」があった。

 雨の日には雨を聴く。雪の日は雪を見る。夏には暑さを、冬には身の切れるような寒さを味わう。……どんな日もその日を思う存分味わう。修行は死ぬまで続く。道は終わることはない。頭で覚えたものは忘れやすいが、体で覚えたものは一生ものだ。

 失恋した時、美智子が結婚した時、父を亡くした時も、映画・原作では詳しく表現することもなく、淡々と日常が続く。大きな変化もなく、波瀾万丈やドラマティックでもない物語。お茶の所作、茶道具、茶碗、茶花、和菓子、掛け軸など、お茶を知らない人も知っている人も、その世界に引き込まれる。
 

 森下典子は、1956(昭和31)年横浜市生れ。日本女子大学文学部国文学科卒業。

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 大学時代からアルバイトの取材記者として活躍。筆者は、1978年から始まった「週刊朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」を毎週笑いながら愛読した。京都の舞子さん修行の体験をまとめた『典奴(のりやっこ)どすえ』(角川書店)を、1987年に出版。女一人で中東へ往くタンカーに乗り込んだ『典奴ペルシャ湾を往く』(1988年、文芸春秋)のノンフィクションは、面白かった。

 ルポライター、エッセイストとして、数々の著書がある。しばらくその活躍ぶりを忘れていたが、茶道を続けていたとは知らなかった。『日日是好日』の映画の評判を聞き、森下典子のことを久しぶりに思い出した。

 森下典子が舞子さんの踊りを皆の前で披露した時、「踊る姿がウルトラマンかロボットが、指をピュッと出しているように感じて・・・」と、「デキゴトロジー」で一緒に仕事をした当時漫画家の夏目房之介が対談で語っている。映画では、武田先生から茶の作法で「手がごつく見えるわよ」と指摘され、典子が落ち込むところがある。どこか彼女の不器用さが、目に浮かぶ。

 今では表千家教授の資格を得て、茶道の魅力を伝える講演も行っているらしい。今回の映画製作では、お茶のシーンのアドバイスや指導をしたという。お父さんを亡くして、お母さんと二人暮らし、猫を飼っている。

 『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』は、10年前の2008年11月に新潮文庫からも文庫版が発売された。今でもロングセラーを続けているという。

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 筆者は、映画を観る前日の11月19日この文庫版を購入、映画を観たしばらくした25日に頁をめくった。映画は、原作に忠実に制作してあって、映画のシーンを思い出しながら読了。全く茶の知識も経験の無い者にも、いくらかでも「茶の世界」のことがボンヤリ分かったような気がする。

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 ★ ★ ★

 この映画・原作の中には、お茶の先生と原作者の名言がいくつかある。

・世の中には、すぐわかるものと、すぐわからないものの二種類がある。‥‥すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる。

・意味なんかわからなくていいの。お茶はまず形から。先に形を作っておいて、後から心が入るものなの。

・頭で考えないで、自分の手を信じなさい。

・苦手だった掛け軸は、文字を頭で読むのではない。絵のように眺めればいいんだ。

・柄杓を握る込む時の手が、ごつく見えるのよ。そろそろ工夫というものをしなさい。

・お湯の”とろとろ”という音と、”キラキラ”と流れる水音が分かるようになった。

・正月の「初釜」で先生が、「毎年同じことが出来る幸せ。」

・先生が本当に教えていることは、目に見えるお点前の外にある。

・「一期一会」は、千利休の言葉。何度も亭主と客が集って茶事を開いたとしても、一生に一度だと思ってやるという意味。利休が生きた信長・秀吉の時代、昨日元気だった友達が今日殺されたなんてことがいっぱいあって、この人に会うのも今日が最後になるかもしれないという切迫感がいつもあった。

 ・「日日是好日」は、禅語の一つ。「毎日毎日が素晴らしい日だ」という意味。そして、「毎日が良い日となるよう努めるべきだ」、または「日々の良し悪しを考えるのではなく、常にこの日が大切なのだ」とする解釈があるそうだ。典子は、「人間は、どんな日でも楽しむことが出来る」という意味だと気付く。

 

 森下典子『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』の続編となる『好日日記―季節のように生きる』の単行本が、出版社・ パルコから2018年10月7日に発売されたようだ。

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 この映画の公開前の2018年9月15日、樹木希林は全身癌のため75歳没。2018年公開の映画では、沖田修一監督『モリのいる場所』、是枝裕和監督『万引き家族』(カンヌ国際映画祭最高賞受賞)、そして本作品『日日是好日』の3本に出演した。2019年公開予定の『エリカ38』が、彼女の遺作となる。

2018年11月24日 (土)

昭和記念公園の紅葉・黄葉

 2018年11月22日(木)、「国営昭和記念公園」に紅葉・黄葉を3年ぶりに見に行く。
 
 

 この日は、どんよりした曇り。低気圧が通過し、関東では昼前後に所々で弱い雨との予報。最高気温は前日より2、3℃低く14℃前後、12月上旬並みの寒さ。

 車で西立川口駐車場前に9時頃に着くが、駐車場が開門してない。開園は9時半から、駐車場は9時から利用可能と聞いていたが。駐車場の開門9時半まで待ち、「国営昭和記念公園」(東京都立川市・昭島市)に西立川口から入園。

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 11月3日(土・祝)~25日(日)は、公園の「紅葉・黄葉まつり」。
 後で気がついたが、入門すると「立川まつり国営昭和記念公園 花火大会」の看板があった。

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 西立川口をまっすぐ進むと「水鳥の池」。寒々としてボートに乗る人は少ない。

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 「うんどう広場」横にある有名な「かたらいのイチョウ並木」は、イチョウ98本、並木300m。残念ながら見頃を過ぎていて、枯れ枝が多い。といっても、地面への落葉は多くは無い。

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 渓流広場レストラン付近のブナやモミジの紅葉。

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 トンボの湿地付近のモミジの紅葉。

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 「みんなの原っぱ」では、何やら工事中。

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 「日本庭園」の入口。

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 「日本庭園」のモミジ300本。池の周りを一周。

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 「日本庭園」を出て再び「みんなの原っぱ」に行くと、大量の椅子や簡易トイレを運ぶトラックなど駐車、屋台もいくつか並んでいて、明日23日の花火大会の準備中だった。

 囲いの中は、椅子席が並ぶ有料観覧席のようだ。

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 12:00、西立川口付近に戻り、おにぎりの昼食。雨がポツリポツリ、そのうちに止む。

 午後から、立川口のイチョウ並木の方に行く。

 「カナール(庭園の水路)のイチョウ並木」も、枯れ木が目立つ。イチョウ106本、並木200m。

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 11月19日(月)の夕刊に「金世界」の見出しで、「国営昭和記念公園」のイチョウ並木の写真と記事があったが、この日のイチョウは見頃も過ぎている。10月の台風の影響で葉っぱが少なく、予想より早く散ったそうだ。この日は平日で寒くて、来園者はさほど多くなかったが、モデル撮影やアジア系の観光客が目立つ。

 この後雨が降り出すこともなく、14:00頃退園。
 

 

 ★ ★ ★

 11月17日(土)、18日(日)は、8:30~の特別早朝開園(通常は9:30開園)が行われたそうだ。この頃はイチョウが見頃で、来場者で混み合ったのだろうか。また11月23日(金祝)~25(日)17:00~20:00では、カナールのイチョウ並木のライトアップがあるそうだ。

 11月23日(金・祝) 18時~19時、「立川まつり国営昭和記念公園花火大会」が行われた。主催は、立川市・立川商工会議所・立川観光協会・昭和記念公園管理センターなどの6団体で構成する花火大会実行委員会。

 夏の風物詩である立川花火大会が、台風12号の影響で中止となったので、この秋に開催されたそうだ。メイン観覧場所は、南北約400m、東西約300mの広大な「みんなの原っぱ」で、東京ドームが2つ入る広さで、約11ha。これほど平らで開放的な芝生の広場は珍しい。広大な芝生にシートを敷いて、くつろいで楽しむ事ができ、また場所取りの必要ない有料観覧席も設置されているという。

 1954年(昭和29)から開催されている立川花火大会は、今回は第60回の節目となる。打上数が5,000発から6,000発に増やし、都内ではなかなかお目にかかれない尺玉、一尺五寸玉といった大迫力の花火などのほか、様々な演出で盛り上げたらしい。

 都内では人気度8位という立川花火大会は、打上数が多い方ではないし、18:00~19:00の1時間では少し短い気がする。有料観覧席チケットが、レジャーシート付2名席6000円、椅子席1名4000円、団体シート10名4万円 というのは、ちょっと高い気がする。

 

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2018年11月23日 (金)

常磐道の周辺を巡る旅

 2018年11月13日(火)~14日(水)、1泊2日の茨城県、福島県の常磐道周辺の観光スポットを巡るバスの旅。

 

 13日(火)、7:50出発。参加者20名を乗せたバスは、圏央道を東へ走る。
 

●筑波宇宙センター 10:05~10:50

 圏央道つくば中央インターで高速を降り、10:05宇宙研究航空開発研究機構(JAXA)の見学施設「筑波宇宙センター」(茨城県つくば市)へ。

 屋外にあるH-Ⅱロケットの実機の前で記念写真の後、展示館「スペースドーム」に入館(入館料無料)。

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 ドーム入口の100万分1の地球。

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 歴代ロケットの1/20模型。左から4番目のロケットがH-Ⅱ型、右へH-ⅡA型、H-ⅡB型、一番大きいのが次世代のH3型。

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 H-ⅡA及びH-ⅡBロケットの第1段エンジンLE-7A。

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 顔出し撮影用の宇宙服。後方は、国際宇宙ステーションに水・食料・衣料などの生活物資、研究用資材、交換用バッテリなどの機器を輸送する補給機「こうのとり」。

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 国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の実物大模型。

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 船内実験室の内部に入り、その大きさを体感。大型バスくらいの大きさ。

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 宇宙で組み立てられた国際宇宙ステーションISSの模型。左右の電池パネルの中央部分の一部に、日本実験棟「きぼう」がある。 

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 国際宇宙ステーションは、米国・ロシア・欧州・カナダなど世界15ヶ国が参加する国際協力プロジェクトで、日本はその一部となる日本実験棟「きぼう」を開発、プロジェクトに参加している。

 桜土浦インターから常磐道を北上、水戸インターで降りて11:30~12:20、「水戸ドライブイン」で昼食・休憩。
 

 
●日鉱記念館 13:10~14:35

 次の見学先は、日立中央インターで降り日立鉱山(現JX金属)の歴史資料を展示した「日鉱記念館」(茨城県日立市)。13:10到着。入館料は無料。

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 この記念館は、創業80周年を記念して日立鉱山の跡地に建てられた。係員から日立鉱山の概要を聞いた後、「大煙突の旅」というビデオを視聴。

 日立鉱山の大雄院製錬所の排煙に含まれる亜硫酸ガスが、地域の山林や農作物に害をもたらした。その煙害への補償金が企業の経営を圧迫し、操業中止を求める住民の声は強まる一方であった。

 写真は大正初期、煙害がひどかった時期の大雄院精錬所(写真は、ウィキペディアコモンズより転載)。

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 1914年(大正3)に「大煙突」という巨大な煙突(高さ156m)を建設し、被害を激減させたという(写真は、ウィキペディアコモンズより転載)。

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 「大煙突」は日立のシンボルとして市民に親しまれたそうだ。

 本館には、日立鉱山(現JX金属)の歴史資料を展示。

 創業者の久原(くはら)房之助の胸像。1905年(明治38)日立鉱山を開業し、数年で日本四大鉱山の一つに成長させ、日立市発展の原点となった。

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 創業者・久原房之助が日立鉱山を開業してから100年余の歴史をパネルや資料で紹介。日立鉱山をはじめ、日本全国・世界各国から産出された鉱石、日立鉱山の鉱床の模型も展示。

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 本館地階には鉱山の坑内の様子を再現した模擬坑道。手掘りから機械掘りまでの採掘技術の変遷を人形を用いて紹介。

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 1944年(昭和19年)に建てられた木造のコンプレッサー室を利用した「鉱山資料館」。

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 多種の削岩機を展示。

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 大正7年に設置され閉山(昭和40年)まで稼働したという、削岩機などにエアーを送る450馬力の空気圧縮機は興味深い。

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 屋外にある竪抗(たてこう)の櫓(やぐら)。手前は、1906年(明治39)~1981年(昭和56年)まで活躍した第1竪抗。後方は、1951年(昭和26年)開削開始した第11竪抗。

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 14:35、「日鉱記念館」を後にして、常磐道へ向う。

 「大煙突」は1993年(平成5年)、3分の1を残して自然に倒壊した。常磐道日立中央インターの入口付近、バスの車窓から見える「大煙突」。

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 日立中央インターから常磐道を走る途中、車窓から日立市街が見えた。
 

 

●石炭・化石館「ほるる」 15:35~16:15

 常磐道を更に北上、福島県いわき市のいわき湯本インターを出て15:35、「いわき市石炭・化石館『ほるる』」(福島県いわき市)に到着。常磐炭田の歴史と市内で発掘された化石のほか世界の化石を展示。入館料650円。

 有名な「フタバスズキリュウ」の復元模型。ちょうど周囲が工事中だった。

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 フタバスズキリュウ(首長竜の新種)の骨格模型。1968年(昭和43年)にいわき市内の大久川河岸で約8,500万年前の白亜紀地層から、高校生によってその化石が発見された。

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 イワキクジラは、いわき市内で見つかったクジラの総称で、クジラの種類ではない。

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 化石展示室。写真中央は、全長22mの巨大な草食恐竜・マメンチサウルス(産地:中国)

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 プリオサウルス(産地:ロシア)

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 アンモナイトの化石は本物だが、触ることが出来る。

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 トリケラトプス(産地:アメリカ)

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 肉食恐竜として有名なティラノサウルスの後ろ肢と頭蓋(産地:アメリカ)。

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 左は北米に生息していたゾウ類のアメリカマスドン(複製)。右は、南アジアから日本にかけて生息していた小型の象・ステゴロフォドンの下顎(産地:いわき市)

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 地下600mの模擬坑道に竪坑エレベータで入坑する疑似体験の後、人形を用いた常磐炭鉱の採炭状況の歴史を知る。

 1856年(安政3年)から明治初期まで、家族で小規模な採掘。男性がツルハシを使って堀り、女性が熊手で石炭を回収。狸の巣穴のようなので「狸掘り」と呼ばれた。

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 1872年(明治5年)頃になると写真のように、男性が手ハンマーで穴を掘って、そこに女性が作った火薬を埋め込んで発破するやり方に発展する。

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 昭和初期から圧縮空気を動力にした削岩機で深い孔を掘り、発破を仕掛ける採掘。

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 太平洋戦争の頃、トロッコにによる石炭の搬出。この頃も女性が裸で働いている。

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 1960年(昭和30年)頃、坑内の詰め所(事務所)。現場の指揮や外部との連絡。

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 1962年(昭和37年)、掘った石炭を回収するキャタピラー付きの搬送車「サイドダンプローダー」。

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 昭和40年代、ロードヘッダーやダブルレンジングドラムカッターなど様々な機械化、合理化が進み、坑内の安全性も高まる。

 鉱山救護隊。全国の炭鉱では、しばしばガス爆発が起き、死傷者が出ていた。

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 生活館では、昭和30年(1955年)頃の共同炊事場と世話所を復元。

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 生活館には、労働組合の展示もあった。エネルギーが石油に移行し、全国に炭鉱閉山が進むと労働組合は反発、また再就職を求めて山を離れて行った。常磐炭田は、1976年(昭和51年)閉山した。

 

 

●いわき湯本温泉

 16:20、宿泊先のいわき湯本温泉「ホテル美里」に到着。18時から夕食・宴会。

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 翌日14日(水)、6:40起床。7:00~朝食。8:45、ホテルを出発。

 常磐道を南下し高萩インターで降り、国道461号線を西へ。
 

 

●永源寺 10:50~11:50

 花貫ダム、花貫渓谷、袋田の滝といったスポットの付近を走り、山を2つ、3つ越えながら茨城県久慈郡大子町の常陸大子駅前に10:50到着、バスを駐車。

 駅前から10分ほど歩くと、曹洞宗「永源寺」(茨城県大子町)。ここは通称もみじ寺と呼ばれ、観光客で賑わっていた。石像が多い。

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 大子町の久慈川のほとりにある公共の宿国民宿舎「リバーサイド奥久慈 福寿荘」で、12:00~12:50、昼食。

 

 

●那珂湊おさかな市場 15:00~15:30

 国道118号線を南下して、途中久慈川のほとりにある道の駅「常陸大宮市-かわプラザ」で13:25~13:50休憩、ひたちなか市へと向かう。

 ひたちなか市の那珂湊漁港に隣接する「那珂湊おさかな市場」で、海産物の買い物。

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 水戸大洗インターから東水戸道路、北関東道を経て、友部ジャンクションで常磐道へと乗り継ぎ、帰路へ。今回は例年よりやや参加者が少なかったものの、事故なく旅行は無事終了。
 

 

 ★ ★ ★

久原房之助は、1869年(明治2)7月山口県萩の生まれ。1885年(明治18)に東京商業学校(現一橋大学)を、1889年(明治22)に慶應義塾(現慶應義塾大学)を卒業した。貿易を志して森村組に入るが、1991年(明治24)に叔父の藤田組に移る。秋田の小坂鉱山に赴任し、業績を拡大する。藤田組支配人、小坂鉱山事務所長などを務める。

 1903年(明治36)に藤田組を退社。1905年(明治38)に茨城県の赤沢銅山を買収し、日立銅山と改称。1909年(明治44年)久原鉱業所(後に日本鉱業と改名、現在のJX金属)を創立し、各地の鉱山を買収、成功をおさめた。1910年(明治43)には、日立鉱山付属の修理工場(後の日立製作所)を設立。

 1924年(大正3)、第一次大戦景気で鉱山経営を足がかりにして企業を拡大し、造船業・肥料生産・商社・生命保険を傘下とする久原財閥(これらは後の鮎川財閥、日産コンツェルンに発展)を形成する。日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として、「鉱山王」の異名を取った。しかし、大戦後の恐慌で大打撃を受ける。

 

 この機に政界へ進出。1927年(昭和2)田中義一首相の特使としてスターリンに会見。会社を義兄の鮎川義介に委ね、1928年(昭和3)年政友会に入り衆院議員に当選、田中内閣の逓信大臣を務めた。1929年(昭和4)立憲政友会の分裂の際は政友会正統派に属し、1939年(昭和14)第8代総裁となった。

 「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して1936年(昭和11)の二・二六事件に深く関与したという。第二次大戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放を経て、1932年(昭和27)政界に復帰。日中・日ソ国交回復国民会議議長などを歴任。衆議院議員通算5期。1965年(昭和40年)1月、95歳で没。

 

 

 「いわき市石炭・化石館」は、常磐炭鉱の繁栄の歴史と、いわき市内では多くの化石が発掘されることで有名であることから建設された。有名なフタバスズキリュウの白亜紀の化石は、今から50年も前の1968年(昭和43年)、いわき市大久町入間沢の大久川河岸で露出していた「双葉層群」から、当時高校生だった鈴木直によって発見された。

 この頃、大陸に比べて小さい日本列島では、首長竜や恐竜など中生代の大型爬虫類の化石が発見されることはないと考えられていた。フタバスズキリュウの発見により、こうした定説が覆され、各地で専門家やアマチュア研究者による化石発掘が盛んになった。発見から38年後の2006年(平成18)、国立科学博物館などの研究者チームによってようやく新属新種の首長竜と判明、「フタバサウルス・スズキイ」という正式な学名が記載された。

 なお、恐竜化石の一大産地である福井県勝山市には、恐竜に関する国内最大級で、地質・古生物学博物館として「福井県立恐竜博物館」があるそうだ。ジュラ紀から白亜紀の地層である「手取層群」が福井県に存在、恐竜化石が見つかりやすいという。福井県が、恐竜化石発掘量で全国一なのは、福井県勝山市が恐竜化石に早くから目をつけ、町おこしの一環として積極的に大規模発掘を行ってきたことが大きな要因だという。

 

 

 

 

 

 

2018年11月18日 (日)

川舟流しと倉紡記念館

 2018年10月22日(月)~24日(水)、2泊3日の岡山県倉敷の旅。

 

 23日(火)と24日(水)、「倉紡記念館」を観覧。24日(水)、川舟で倉敷川を遊覧。

 本ブログ記事「倉敷美観地区」の続き。

 

 

 23日(火)、「倉敷アイビースクエア」に連泊。24日(水)6:30起床、7:15~朝食。昨日の雨は止み、この日は晴れの良い天気。

 「倉敷アイビースクエア」をチェックアウトし、荷物を預ける。9:00~中庭に集合、今年のOB会はこれで解散。
 
 

●くらしき川舟流し 9:30~9:50
 
 かつて倉敷川は、物資を積んだ川舟の往来でにぎわっていた。その風情を味わえる観光川舟が、2艘運行している。ゆったりと進む舟から、視線を低くして白壁の町並みを眺める。

  倉敷川畔にある川舟乗船場の少し下流にある「倉紡製品原綿積み降ろし場跡」のチケット売り場で、9:30発の乗船チケット購入。料金は1人500円。

 川船は、始発が9:30〜最終便17:00、30分おきに出発している。1艘6人乗り、所要時間約20分。

 乗船すると船はゆっくりと、まず下流の「高砂橋」の方向に向かう。

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 現在の倉敷川の川幅は10m程だが、船による物資の輸送がされていた頃には、川幅20m程あったという。

 右岸の街並み。

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 左端の建物のデニム専門店「倉敷デニムストリート」と隣の建物は箸専門店「倉敷のお箸やさん 遊膳」。その間の路地に入り、「倉敷デニムストリート」の2F部分に「星野仙一記念館」があるようだ。左から3番目の建物は、天然石とアクセサリーの店「凸凹堂 倉敷」。

 潮留めのある「高砂橋」。ここで川船はUターン。

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 「高砂橋」は、江戸時代末期に建てられた元の「今橋」。1926年(大正15年)に「大原美術館」前に現在の「今橋」が架けられた時に 旧高砂町(現在の中央二丁目)に移され、「高砂橋」と改名された。1967年(昭和42年)に倉敷用水や美観地区の整備によって、現在のこの場所に移されたという。

 上流の「中橋」の方向に進む。右岸に大きな看板の備前焼の店「陶慶堂本店」と、その先に「日本郷土玩具館」。

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 さらに舟が進み、右岸の2棟は「倉敷民芸館」。

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 「倉敷民芸館」は、江戸時代後期の米蔵を改装。日本だけでなく、世界各国の暮らしに役立つ民芸品(民衆的工芸品)15,000点を所蔵。右端の「倉敷館」(観光案内所)は、工事ネットで囲われ休館中。

 「中橋」の下をくぐる。

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 「中橋」は土橋、板橋を経て、1877年(明治10年)に現在の石橋に架け替えられた。橋げたが一枚石の太鼓橋で、アーチ状に設計されている。

 左岸、旅館「鶴形」の庭にある樹齢400年以上ともいわれる松の木が見える。

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 「大原美術館」と「旧大原家住宅」とを結ぶように架かっている「今橋」。

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 「今橋」は大正15年(1926年)に、皇太子であった昭和天皇がこの地を訪問するのに合わせて、架け替え工事が行われた。

 架け替えは大原孫三郎によってなされ、児島虎次郎がデザインした。菊のご紋と龍(孫次郎の干支)の彫刻が彫られている。また、橋げたの形を半円にして、水面に映る半円の影と併せて満月を眺めることができるという。

 「旧大原家住宅」(大原家本邸、左)と「有隣荘」(右)。

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 「有隣荘」は、1947年(昭和22年)に昭和天皇が倉敷に行幸された折、お泊りになった大原家の別邸。

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 再び「中橋」をくぐる。

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 「中橋」と「倉敷考古館」。

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 「倉敷考古館」は、江戸時代の米蔵を改装し、1950年(昭和25年)に開館した。吉備地方を中心とした考古学資料や古墳から出土した石器・土器・埴輪・刀剣など1,500点を展示。古代ペルー・アンデス文明、イラン、中国の文化財なども展示されているという。

 「倉敷アイビースクエア」の敷地に戻り、再び「倉紡記念館」に行く。
 

 

●倉紡記念館 10:00頃~11:00前

 「倉紡記念館」には、前日の23日(火)15:20~16:00に観覧した。

 「倉敷アイビースクエア」の宿泊優待券の提示で、入館無料。前日は、提示を忘れ入館料250円を払ったので、この日に返却してもらい、再度無料で入館。

 倉紡創立当時に建てられた原綿倉庫を、1969年(昭和44年)のクラボウ(倉紡)の創立80周年の記念館として改装し、建設された。

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 順路に従い、写真・模型・文書・絵画などで、クラボウ(倉紡)の歴史が分かるようになっている。

 

・第1室 明治時代【1888~1912】

 明治期の紡績機械や、創業当時の文書等を展示。手前は手織り機、その先の提灯と車輪を備えた消防器具、その奥は英プラット社製の紡績機械。

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 1867年(慶応3年)5月、薩摩藩によって鹿児島に日本初の紡績工場が創設、明治になって全国各地に紡績工場が設立された。

 岡山県の3人の若者が、米と綿花以外に産業の無い貧村の倉敷村の将来のため、紡績工業を興すことを提案、資金提供を地元の大地主・大原孝四郎に依頼した。

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 初代社長の大原孝四郎の肖像画(児島虎次郎画1919)。

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 天保5年(1834)の天領代官所の模型。

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 1988年(明治21年)倉敷紡績所が創立した。初代社長に、大原孝四郎が就任。

 1989年(明治22年)代官所跡地に倉敷紡績工場が造られた。写真は、明治25年(1892)頃の倉敷紡績工場の模型。

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・第2室 大正時代【1912~1926】

 労働理想主義を具現化していった倉紡の発展期の資料を展示。

 手前の模型は従業員の寄宿舎の模型。それまでの集合宿舎を改善して分散式家族的寄宿舎とし、家庭的な生活が出来るようになった。

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 倉紡の2代目大原孫三郎社長は、石井十次の「岡山孤児院」を援助し、また大阪に「石井記念愛染園」を設立した。

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 「倉紡中央病院」の設計に当たって、孫三郎は次の3項目を指示した。

 1.設計はすべて治療本位にすること。2.病院くさくない明るい病院にすること。3.東洋一の立派な病院を造ること。時代を先取りしたような孫次郎の先見性にには感服。

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 倉紡の女工さんの人生双六。

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 入社がスタート。寄宿舎、仕事、学校、裁縫、生け花、バレーボール、テニス、観劇、遠足、踊り、実家へ送金、模範女工として表彰、良縁があり帰省、上がりは結婚。当時の時代背景がうかがえ、また福利厚生が充実していたことが分かる。
 

・第3室 昭和時代(戦前・戦中)【1926~1945】

 不況と戦争期の時代背景とクラボウの変遷を展示。

 正面は、大原總一郎が後援していた棟方志功の戦時中の書画。その手前は、1950年(昭和25年)昭和天皇が国内最新工場の北条工場へ御臨幸された時にお座りになった椅子。

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 (この写真のみは、「倉紡記念館」パンフから転載。)
 

・第4室 昭和(戦後)・平成時代【1945~】

 戦後の復興以後、紡績産業と、クラボウの事業の多角化の歩みを展示。

 敗戦により大打撃を受けたが、朝鮮戦争特需で繊維産業は、日本の経済をけん引する産業となった。しかしやがて化繊などの普及、繊維不況の時代は、事業の多角化へと経営を転換する。

 手前は、紡績以外のスポーツや教育向上にも注力した安城工場の模型。特に女子ソフトボールチームは有名。紡績以外の多角化経営のため新事業ポリウレタン加工の寝屋川工場。

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 1988年(昭和63年)、100周年を迎え本社ビル竣工、「クラボウ」を正式社名とした。
 

・第5室 年表コーナー

 明治から現在までの総まとめのコーナー。ビデオと写真映像、書籍の展示空間。

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 「倉敷アイビースクエア」の受付で、預けた荷物を引き取る。

 11:00頃~ショッピングしながら、本町通りを経て、えびす商店街、えびす通り商店街、センター街のアーケードを通って、倉敷駅へ向かう。12:00頃~駅付近の寿司・和食の店「しば田」で昼食。刺身定食1,600円。

 13:53倉敷駅発、山陽本線・岡山行に乗車。14:11岡山駅着。

 14:23岡山駅発、新幹線ひかり474号・東京行に乗車。18:33 品川 駅着、所要時間4時間40分(乗車時間4時間28分)。山手線から帰路へ。

 

 

 

 ★ ★ ★

 大原孫三郎の肖像画(個人蔵、大原美術館寄託、児島虎次郎画1915)

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 (写真は、ウィキペディアコモンズから]引用)

 大原孫三郎は1880年(明治13年)、倉敷の名家・大原家の三男として生まれた。二人の兄が相次いで若死にしたため、孫三郎が大原家の跡継ぎとなった。1897年(明治30年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学したが、大富豪の息子として放蕩な生活を送り、莫大な借金を抱えた。父親から東京専門学校を中退させられ、倉敷に連れ戻されて謹慎処分を受けた。

 日本の児童福祉の先駆者であり、「岡山孤児院」の創設者である石井十次との出会いが孫三郎の人生を変えたという。キリスト教信者であった石井の影響で、1905年(明治38年)自らも洗礼を受けた孫三郎は、1906年(明治39年)孝四郎の跡を継ぎ倉紡2代目の社長となった。

 石井の影響で、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、「大原社会問題研究所」、「労働科学研究所」、「倉紡中央病院」などを次々と設立した。孫三郎にとっては「大原美術館」の創設も社会貢献の一環だった。

 

 

 美観地区のどの建物だったか忘れたが、瓦屋根に生えている不思議な植物を見つけた。

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 あとで調べると、本瓦葺きの屋根に生育するツメレンゲだそうだ。ベンケイソウ科の多年草で、野生では暖地の日当たりが良く乾燥した岩の上、街中では古い瓦屋根に生育するという。

 岡山県では主に県中部~南部の岩崖地や古い石垣、本瓦葺き(土を敷いた上に瓦を葺く)の屋根の瓦の隙間などに生えるそうだ。かつては茅葺きの屋根でも、生育していたという。

 倉敷美観地区では本瓦葺きの古い建物が保存されているため、屋根を見上げながら歩くと、見つけることが出来るそうだ。

 

 

2018年11月17日 (土)

倉敷美観地区

 2018年10月22日(月)~24日(水)、2泊3日の岡山県倉敷の旅。23日(火)、「倉敷美観地区」を巡る。

 本ブログ記事「大原美術館」の続き。

 

●食事処「カモ井」 12:00~12:35

 10月23日(火)、「大原美術館」の絵画鑑賞を終わり、和食の食事処「カモ井」で昼食。

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 定番の「カモ井定食」1,728円(税込)は、岡山名物ちらし寿司(ばら寿司)をメインに鮮魚のお造りや煮物、酢の物、お吸い物付。

 

●旧大原家住宅 12:40~12:55

 今年から大原本邸の一部が公開された「旧大原家住宅」に入館。入館料500円。

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 玄関を入ると土間。天井からの文字は、大原家五代目以降の当主が残した言葉。

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 蔵を改造した展示室。大原家の約300年の歴史年表。

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 実業家、社会事業家、風流人であった大原孫三郎は、10年先が見えた人だったそうだ。

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 外に出ると、本格的な雨が降り出した。

 

 13:00~観光ガイドの案内で美観地区を巡る。

 「大原美術館」裏庭の東屋で雨宿りしながら、観光ガイドから明治以降倉敷の発展に尽くした大原孝四郎、大原孫三郎、大原總一郎の大原家三代の歴史などの話を聞く。


 

●大原美術館

 観光ガイドの案内で、「大原美術館」の「本館」、本館裏にある「新渓園」、「分館」、「工芸館・東洋館」の館外を回る。「新渓園」は1893年(明治26年)に大原家別邸として建てられ、現在は遊心亭(茶室)、敬倹堂(大広間)、庭園として市民の憩いの場となっている。

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 「大原美術館」では、2回絵画の盗難に遭ったそうだ。1963年(昭和38年)にコローの『ナポリの風景』がすり替え盗難に遭い、現在も行方不明だという。

 1970年(昭和45年)に本館に展示されていた絵画5点の大量盗難があった。犯人グループは1972年(昭和47年)に逮捕、無事回収された。事件発生後、本館1階側面にあった窓は全ては塞がれ、警備体制が強化されたそうだ。

 大原美術館の中庭には、モネの睡蓮がある。2000年(平成12年)、フランス郊外のクロード・モネの庭の池から、大原美術館に睡蓮の株が送られたもの。

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 詳細は、本ブログ記事「大原美術館」を参照。

 

●旧大原家住宅

 「旧大原家住宅」は、倉敷美観地区内の倉敷川に面して建つ。「大原美術館」から倉敷川に架かる「今橋」を渡った対岸にある。

 1795年(寛政7年)に主屋(おもや)を着工、大正期にかけて座敷や蔵を増築。敷地は約2,200㎡(670坪)。白壁や格子を備えた倉敷の代表的町家。主屋は、1階の格子や2階の窓のデザインに特色があり、それぞれ「倉敷格子」、「倉敷窓」と呼ばれている。

 1971年(昭和46年)、主屋をはじめ10棟が国の重要文化財に指定。1982年には土地が重要文化財に追加指定されている。2018年春から、一般公開されている。(前述の「旧大原家住宅」の項を参照。)

 

●有隣荘(ゆうりんそう)

  大原家別邸の「有隣荘」は、1928年(昭和3年)に大原孫三郎が、病弱な妻を気遣い「落ち着いた住まいを」と本邸(旧大原家住宅)の隣に建設した。

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 (写真は翌日24日、倉敷川の河船から撮影)

 泉州堺の瓦職人に特別注文し、独特の製法で焼かれた瓦は見る角度によって艶やかな緑色に光るという。現在の価格で瓦1枚3万円程だったといわれ、地元では「緑御殿」とも呼ばれているそうだ。

 大原家別邸の後は、来賓館として使用された。 昭和天皇が宿泊されたこともある。長く非公開とされてきたが、1997年(平成9年)から年に春秋2回、「大原美術館」主催の特別展示室として公開されている。

 ちょうどこの時期、三瀬夏之助の水墨画展の特別展をやっていて、入館料は1,000円。「大原美術館」に入館する時、大原美術館1,300円と有隣荘のセット券だと1,800円と窓口で言われたが、「有隣荘」のことが分からず買わなかった。
 
 

●旅館鶴形

 倉敷美観地区の中心部に位置する料理旅館「鶴形」は、徳川八代将軍吉宗の時代に建てられた商家。

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 玄関横にある古い説明板には、次のように記されている。

 「この建物は一七四四年 徳川八代将軍吉宗の時代に建てられた商家で 重要文化財大原邸等と共に 倉敷に現存する最も古い建物です 庭内の松は樹齢四百有余年を誇り 厨子二階の大広間は往時の繁栄を偲ばせます 旅館 鶴形」

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 旧小山家住宅で、1970年(昭和45年)に旅館として保存、再生。江戸中期町屋の厨子二階造りの風格ある構えを今にとどめている。
 

●旅館くらしき

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 「旅館くらしき」は、江戸期の屋敷と蔵を改装した老舗旅館。お座敷やレストランで懐石料理など頂くことが出来る。

 昔の玄関口らしい土間に入ると、アンティークな調度品のほか、石の式台の上には珍しい下駄が置いてあった。

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●倉敷アイビースクエア

 現在の「倉敷アイビースクエア」と「倉紡記念館」は、倉敷紡績株式会社の発祥工場跡地にある。経産省認定の近代産業遺産。

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 江戸時代、天領倉敷の代官所だった。

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 代官所時代の井戸。

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 説明内板には、以下のように書いてある。

 「この建物は倉敷紡績の発祥工場で、明治二十二年(一八八九)に建設された。設計は、日本の最初の紡績工場(鹿児島紡績所)を建設した石河正龍らによるもので、今日我が国に現存する最も古い紡績工場の代表的な一つとなっている。
 純英国風といわれる鋸型の屋根、赤いレンガの外壁、半円形の窓など当時の面影をそのままとどめている。
 この工場は昭和二十年(一九四五)終戦と共に長年に亘る操業(綿紡績)などに終止符を打ち、休止工場として保存されていたものを昭和四十九年(一九七四)に改装した。」

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 「倉敷アイビースクエア」の中庭の池にも、モネの睡蓮が「大原美術館」から株分けされている。

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 詳細は、本ブログ記事「倉敷アイビースクエア」を参照。



●井上家住宅

 「井上家住宅」は、美観地区では代表的な大型町屋の一つ。古くから倉敷の中心通りである本町通り(街道)に面して建っている。

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 国指定の重要文化財で、平成24年度~平成34年度の予定で全解体して保存修理を行っており、公開を中止している。

 工事着手前の建物と工事中の内部。

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 「井上家住宅」の特徴は、二階外壁の7つの「倉敷窓」と呼ばれる窓に、防火用の土扉が付いている。倉敷では少なくとも江戸時代後半には大火が無かったので、こうした町屋の形式が残っているのは井上家だけだという。今回の解体修理に伴う調査で、主屋は享保6年(1721年)に上棟されたことがわかり、倉敷美観地区内では最古の町屋であることが判明した。
 

 

●林源十郎商店

 倉敷生活デザインマーケット「林源十郎商店」は、“豊かな暮らし”のあり方を探求する場として、2012年(平成24年)にスタートした商業複合施設。“

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 本館3Fに屋上展望テラスがあり、エレベータで上がって倉敷の街並みを眺める。

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 本館2Fに「林源十郎商店記念室」があった。急いで通り過ぎたのであまり記憶が無いが、1657年(明暦3年)からこの地で薬種業を営み、倉敷村の健康・福祉に尽力してきた林家の林源十郎商店の精神に触れることができるという。

 

●倉敷物語館

 建築年代は江戸期とされる「倉敷物語館」は、 長屋門や土蔵などが当時の風情を伝え、また倉敷の歴史や情報を展示する観光・文化施設。

 倉敷周辺の干拓と川の歴史。

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 倉敷を含む岡山県南部の平地は、古代は海が広がり児島、早島、鶴形山などの島が点在。戦国時代から干拓が進んだ。何度も洪水が引き起こしていた高梁川(たかはしがわ)は、明治末期から14年に渡る改修が行われた。

 倉敷美観地区の歴史と変遷

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 江戸時代初期、幕府直轄となった倉敷は発展を始める。倉敷川の両岸に屋敷が立ち並び、やがて倉敷川以外の水路も整備され水運が発達、新興商家が台頭する。

 館内には展示室のほか、和室・多目的ホール・会議室が貸室として利用されている。現在ここは、臨時観光案内所となっている。倉敷観光のビデオを視聴。

 1917年(大正6)に倉敷町役場として建てられた観光案内所、無料休憩所の「倉敷館」(登録有形文化財)は、現在工事中のため2020年(平成31)8月まで休館。
 

 観光ガイド15:00頃終了。

 

●倉紡記念館 15:20~16:00

 「倉敷アイビースクエア」の敷地にある「倉紡記念館」に行く。

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 「倉紡記念館」は翌日24日も観覧したので、本ブログ記事「倉紡記念館」を参照。
 


●富来屋本舗 17:00~19:00

 今回OB会の2回目懇親会は、アイビースクエア近くの「富来屋本舗」で行う。

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●夜の倉敷美観地区 19:00~20:00

 「富来屋本舗」を出て、夜の倉敷美観地区を回る。

 世界的な照明デザイナー石井幹子氏がプロデュースした夜間景観照明。雨の中の街のあかりは、幻想的でレトロな風情を増し、癒される。

 「富来屋本舗」を出て右手、北の方角の街並み。

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 倉敷川の左岸、川舟乗り場付近から「中橋」の方向の街並み。

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 右手に白壁は「旅館鶴形」、その先は食事処の「カモ井」。

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 「大原美術館」のライトアップ

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 「中橋」と後ろの建物は、左から「カモ井」、「倉敷考古館」、「旅館くらしき」。

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 「高砂橋」の上から倉敷川の右岸、中央は工事中の「倉敷館」。

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 アイビースクエア近くの白壁通りを歩くと、デズニ―映画『101匹わんちゃん大行進』を思わせる、屋根の上のおびただしい数のビクターの犬。車のライトに照らされて、闇の中から浮かび上がる。

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 もちろん店は閉っているが、店内をガラス越しに覗いてみると、ごちゃごちゃした骨董品屋か。興味があって翌朝入ってみようと思っていたが、忘れてしまった。

 後で調べると、右上の看板にあるように1階はアンティークショップ。2階がブリキ、陶器、鉄などさまざまな貯金箱が展示されている「倉敷貯金箱博物館」。入館料300円。明治時代から現代のものまで、約2,000個の日本製の貯金箱を展示してあるそうだ。
 

 20:00過ぎに「倉敷アイビースクエア」に戻り、連泊。

 23:00頃就寝。
 

 本ブログ記事「川舟流しと倉紡記念館」へ続く。

 

 

 ★ ★ ★

 江戸時代、天領だった倉敷では「古禄」と呼ばれた旧来の商人勢力に対して、新田・塩田開発と倉敷川水運の利を生かして新興商人の「新禄」の勢力が台頭してきた。その中でも大原家と大橋家が筆頭格であった。大原家は、江戸時代中期に綿の仲買や米穀問屋を営んで倉敷の有力商人となり、庄屋を務めるほどの大地主にもなった。大原家は倉敷川の終点に位置し、河岸の両側に店舗と蔵を構えた。

 1889年(明治22)、大原孝四郎は倉敷紡績(現クラボウ)の設立に参加。そして経済活動はもちろん、倉敷の文化や町づくりなど、地元の発展に大きな影響を与えた。これらをさらに財閥として発展させたのが孫三郎。そこで得た富で、息子の總一郎と共に「倉紡中央病院」(現・倉敷中央病院)や「大原美術館」等々、数々の社会・文化事業の施設を造った。
 

 

 林源十郎は、江戸時代から続く、倉敷の薬種問屋の第11代当主。倉敷のまちづくり、今日に続く地域社会活動を行った実業家・大原孫三郎に、多大な影響を与えた人物として知られている。キリスト教徒の林源十郎は、「岡山孤児院」創設者の石井十次と大原孫三郎を引き合わせた。大原孫三郎は、石井十次や林源十郎の地域社会貢献、福祉の精神に触れながら、まちづくりを実践したという。

 1950年(昭和25)、「株式会社林源十郎商店」をこの地に設立。現在の「林源十郎商店」は、前身の商家を改装したもの。広い敷地には、木造三階建ての本館の他、主屋、離れ、4棟の蔵、中庭があり、「豊かな暮らし」を探求する衣食住に関連するショップやカフェ、展示室等が入っている。

 中でも人気なのが、本館1Fの「倉敷意匠 アチブランチ」という。倉敷意匠のほぼ全てのアイテムを常設販売する他、作家やアーティストによるワークショップも不定期で開催しているそうだ。ちょっと気になったショップは、蔵にあるデニムスーツの店「inBlue(インブルー)」と離れの「HEART MADE BASE(ハートメイドベース)」の直営店。「HEART MADE BASE」は、デニムなど多種の生地の企画から縫製、販売まで一貫して行う児島のものつくりの店。

 

 「倉敷美観地区」は、倉敷市の美観地区景観条例に基づき定められたもので、広義の美観地区の面積は21ha、うち倉敷川周辺の伝統的建造物群保存地区(第一種美観地区)が15ha、伝統美観保存地区(第二種美観地区)が6haである。

 前者は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 「倉敷美観地区」では、「倉敷帆布のバッグ」や「倉敷デニム」、「マスキングテープ」、「キャンドル」、「倉敷ガラス」・・・といった特産品の人気が高い。こうした伝統的な手仕事や倉敷ブランドの商品を扱うショップが軒を連ね、多くの観光客で賑わいをみせている。

 数十年ぶり来てみて、美観地区と呼ばれるエリアがこんなに広くて、しかも伝統的な建築物や街並み保存されていることに感動。美術館・博物館、食べ物や買い物のショップがこれほど多く、観光客の多さにも驚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年11月14日 (水)

大原美術館

 2018年10月22日(月)~24日(水)、2泊3日の岡山県倉敷の旅。23日(火)午前中、「大原美術館」に行く。

 本ブログ記事「倉敷アイビースクエア」の続き。

 

 

 10月22日(月)、「倉敷アイビースクエア」に宿泊。

 23日(火)、6:30起床。7:00~朝食。9:00集合、記念撮影後、美観地区へ繰り出す。天気は、雨になりそうな曇り空。

 9:40、「大原美術館」の敷地に入場。

 

 「大原美術館」は、倉敷紡績(現クラボウ)二代目社長・大原孫三郎が1930年(昭和5年)に創設した日本で最初の近代西洋美術館。創業当時の作品を収集したのは、孫三郎の援助で渡欧した岡山出身の画家・児島虎次郎だった。

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 ギリシャ神殿のような古典様式の「大原美術館 本館」。

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 「本館」入口の右手に、ロダン作『カレーの市民 ジャン・ダール』1890年。イギリス・フランス間の百年戦争(1337~1453)のエピソードをもとに制作された。

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 左手は、ロダン作『洗礼者ヨハネ』1880年。聖ヨハネは、キリストに洗礼をさずけた人物。

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 入館料(本館/分館/工芸・東洋館含む) 一般1,300円、音声ガイド500円。

 館内は撮影禁止のため、主な作品をウィキメディア・コモンズから転載。
 

 シャヴァンヌ『幻想』1866年 四点の装飾画の一つ。 天馬は人間の想像力、花摘む少年は美への感受性を暗示しているという。

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 セガンティーニ『アルプスの真昼』(1892年) スイスの平和な、明るい太陽の光をいっぱい浴びた放牧の風景。

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 セザンヌ『風景』1885 - 95年頃 セザンヌは、印象派として活動していたが、1880年代から独自の絵画様式を探求。20世紀美術に多大な影響を与えたことから、「近代絵画の父」とされる。

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 ゴーギャン 『かぐわしき大地』1892年 ゴーギャンが、オセアニアのタヒチ島に渡って、間もなくしてからの作品。

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 ロートレック『マルトX夫人の肖像、ボルドー』1900年 気品のある落ち着いた雰囲気と的確な明暗表現が、印象深いとされる作品。

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 アマン=ジャン『髪』1912年頃 児島虎次郎が収集した最初の西洋画。二人の優美な色彩や親密な雰囲気の描写、あたかも化粧風景を覗き見てしまったような臨場感の作品。

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 ルノワール 『泉による女』1914年 印象主義を追求した明るい太陽の光のもとの裸婦画。

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 モネ『睡蓮』1906年頃 浮世絵を部屋に飾るなど親日家のモネの邸宅を、児島虎次郎が訪ねて譲り受けた作品だそうだ。 

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 モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテリヌの肖像』1919年 ジャンヌ・エビュテルヌはフランスの画家で、モディリアーニのお気に入りのモデルであり、内縁の妻だった。

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 エル・グレコ『受胎告知』17世紀初頃 天上から雲に乗って突然現れた天使を、本を読んでいた聖母マリアが視線を合わせ、告知を受け止めているという名画。純潔の白百合の花、精霊の鳩が描かれている。

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 「分館」が「本館」の裏側にある。

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 前庭芝生の左手に、ロダン『歩く人』(1877年)。

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 前庭右手に、ムーア『横たわる母と子』1975-79年。

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 芝生には、他にイサム・ノグチ『山つくり』1982年
 
 「分館」内には、日本の洋画家の作品や現代美術の作品を展示。

 

 岡田三郎助『イタリアの少女』1901年 岡田のあのフランス留学中の作品。パステルの筆あとに、少女の肌のやわらかさを表現。

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 青木繁『男の顔』1903年 青木の代表作は『海の幸』。名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世。この絵は、20歳の頃の自画像か。

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 関根正二『信仰の悲しみ』1918年 極貧であった関根は、この作品を描いた翌年、わずか20歳でこの世を去った。

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 小出楢重『Nの家族』1919年 日本独特の洋画を構築しようとする大正期洋画界の動向を示す作品。自分と家族を描いた。

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 岸田劉生『童女舞姿』1924年(本資料のみ「大原美術館」パンフより転載) 岸田は、娘・麗子をモデルにした作品を多く手掛けている。

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 児島虎次郎『自画像』1922年頃 大正11年、児島の41歳の頃の作品か。

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 児島虎次郎『里の水車』1906年 外光を逆光として取り入れ、明暗を生かした構図。美術学校卒業後、ヨーロッパ留学前に描かれた。

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 児島虎次郎『ベゴニアの畠』1910年 フランスからベルギーに移った児島は、ベルギー印象派の点描技法を身につけた。

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 児島虎次郎『睡れる幼きモデル』1912年 椅子にもたれてまどろむ幼い少女。明るい色彩があふれる、洋風の室内の様子がていねいに描写されている。

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 児島虎次郎『朝顔』 1916 - 1921年 『朝顔』の作品は3枚あるうちの1枚。朝顔に囲まれた浴衣の少女が、下駄で爪先立ちで水遣りをしている。この絵が好きな女子が多い。

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 児島虎次郎『アルハンブラ宮殿』1920年 フランスからスペイン旅行中に描いたグラナダの風景。

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 「工芸館」には、河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉の陶器、棟方志功の木版画、芹沢銈介の染色などが展示。

 「東洋館」は、児島虎次郎の収集を中心とした東洋の古代美術品を展示。

 なお、「工芸館」と「東洋館」は、もとは大原家の米蔵を展示館に改装したものだという。

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 12:00頃、退館。

 本ブログ記事「倉敷美観地区」へ続く。
 

 

 ★ ★ ★

 「大原美術館」は、倉敷の実業家・大原孫三郎(1880–1943)が、資金援助していた洋画家・児島虎次郎(1881–1929)に依頼して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年(昭和5年)に開館した。近代西洋美術を展示する美術館としては、日本最初。

 大原孫三郎は、倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、倉敷毛織、銀行、電力会社などの社長を務め、大原財閥を築き上げた。 昭和初期、一地方都市にすぎない倉敷に、このような美術館が開館した先見性に驚愕する。

 氏は、岡山孤児院を設立した石井十次の社会福祉事業の影響があったためか、工員の教育や環境改善、農業改善のほか、社会・文化事業にも熱心に取り組んだ。倉紡中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所、私立倉敷商業補習学校を設立した。その大原美術館の創設も、社会貢献の一環だったようだ。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど、注目度が低かったそうだ。



 倉敷は、美術館・博物館が多いことで知られている。「大原美術館」の近くにあって、お土産屋のような建物は、「加計美術館」。

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 昨日、目について気になっていたが、例の「もりかけ」問題で批判を浴びている加計学園の美術館らしい。あとで調べると、大学関係者の作品や学生の卒業制作などが展示されているようだ。
 

 

 ある旅行サイト「フォートラベル(株)」での、倉敷の美術館・博物館クチコミ・ランキングを引用する。

 ①大原美術館 ②大原美術館 分館 ③倉紡記念館 ④倉敷民藝館 ⑤倉敷考古館 ⑥桃太郎のからくり博物館 ⑦大原美術館 工芸・東洋館 ⑧星野仙一記念館(野球選手・監督の星野仙一は倉敷出身)

 ⑨オルゴールミュゼ・メタセコイア ⑩加計美術館 ⑪いがらしゆみこ美術館(いがらしゆみこは北海道出身) ⑫日本郷土玩具館 ⑬アイビー学館 ⑭倉敷市芸文館 ⑮大山名人記念館(将棋の大山名人は倉敷出身) ⑯倉敷市立美術館

 ⑰倉敷市立自然史博物館 ⑱ライフパーク倉敷科学センター ⑲林源十郎記念室 ⑳倉敷貯金箱博物館 ㉑倉敷科学センター ㉒真備ふるさと歴史館 ㉓まきび記念館 ㉔倉敷刀剣美術館 倉敷刀剣美術館

 

 

 

 

 

 

2018年11月12日 (月)

倉敷アイビースクエア

 2018年10月22日(月)~24日(水)、2泊3日の岡山県倉敷の旅。「倉敷アイビースクエア」に宿泊。
 

 

 10月22日(月)、品川駅9:10発の新幹線ひかり465号・岡山行に乗車。13:19岡山駅着。13:29、山陽本線・福山行の普通列車に乗り換え、13:45倉敷駅の到着。所要時間は、4時間35分(乗車時間4時間25分)。

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 駅南口から商店街を抜け、柳並木の倉敷川のほとり(美観地区)を散策しながらホテルへ向かう。天気は曇り。美観地区とは、倉敷市の町並みの保存・観光地区のこと。

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 白壁、なまこ壁のレトロな街並みが続く。

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 観光地図では、駅南口から徒歩15分とあったが、美観地区をブラブラしながらお店を覘き、45分かかって14:30、宿泊予定のホテル「倉敷アイビースクエア」に到着。

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 蔦(つた)の絡まるレンガ造りの「倉敷アイビースクエア」の中庭。

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 15:00頃、ホテルを出て再び美観地区を散策。

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 美観地区のすぐそばの小高い丘「鶴形山公園」に登る。

 最初、間違えて「井上家住宅」横の小道を進むと、「本栄寺」の裏山(鶴形山の中腹)に行ってしまった。ここから倉敷市街を展望。

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 手前の大きい屋根が「本栄寺」。その右上の白い建物は「倉敷公民館」。中央に大原家別邸の「有隣荘」と「大原美術館」の屋根が見える。(写真をクリックすると拡大)

 元の場所に戻って鶴形山隧道(写真右手)入口に行くと、「観龍寺」の参道石段に「鶴形山公園 頂上まで300m」の標識を見つける。

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 「鶴形山」の山頂の「阿智神社」。ここからの倉敷市街の眺望も素晴らしい。

 薄暗くなった17:25、「倉敷アイビースクエア」に戻る。

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 18:30~20:30、「倉敷アイビースクエア」の「コーラルの間」でOB会の懇親会。

 21:00~22:00、同ホテル内で二次会。23:10、就寝。 

 明日は「大原美術館」の絵画鑑賞、倉敷美観地区を観光ガイドの案内で回る。

 

 本ブログ記事「大原美術館」へ続く。

 

 ★ ★ ★

 倉敷美観地区を訪れたのは、何十年ぶりだろうか。川のほとりの柳と白壁の街並み、大原美術館のぼんやりとした記憶しかない。倉敷市は瀬戸内海に面した大都市、人口が48万人(中国地方で第3位)と聞いて驚く。かつて倉敷は、天領として物資輸送の集積地だった。瀬戸内海につながる川沿いに、町家や白壁土蔵造の街並みが形成され、現在まで大切に守られてきている。

 江戸時代には商人の町、明治になって繊維産業が発展。そして近年は、倉敷市内の倉敷は行政と観光、工業都市の水島、ジーンズや学生服の児島、貿易港と新幹線駅を有する玉島、そのほか庄、茶屋町、船穂、真備などといった地理や歴史の異なるエリアで形成されている。瀬戸内海の漁業や温暖な気候を利用した農業も盛ん。


 

 「倉敷アイビースクエア」は、旧倉敷紡績(現クラボウ)の発祥工場を改修、再生したホテル・文化施設をあわせもつ複合交流施設。蔦(つた=アイビー)の絡まる赤レンガの象徴的な建物。ウェディング、会議・宴会、レストラン、ショップ、陶芸教室などの施設のほか、倉敷紡績の史料を展示した「倉紡記念館」もある。

 蔦は、当時の倉敷紡績社長の大原孫三郎が「自然と調和しながら健康的な労働環境を」という信念の元に、紡績工場内部の温度調節のために植えられたそうだ。夏は赤レンガを覆って暑さをしのぎ、冬は落葉して太陽の暖かさを受けられるようにしたという。
 

 

 「阿智神社」は、美観地区の北東にある小高い丘「鶴形山」(標高40m)の上に鎮座。古代、「亀島」、「鶴形島」などと呼ばれていたこの地に、住み着いた阿知使主(あちのおみ)の一族が作った庭園が元となったとされる。阿知使主は、応神天皇時代の漢人系渡来人。

 かつては島であった児島半島と本土との間は、多数の島が散在し「吉備の穴海(あなうみ)」と呼ばれ、当時は窪屋(くぼや)郡阿智郷であった。現在の倉敷市鶴形山周辺は、瀬戸内海航路の要衝で、海上交通の守護神である「宗像三女神」を祀ったと考えられている。

 

 

 

 

2018年11月10日 (土)

秋の富士山麓と箱根仙石原

 2018年11月7日(水)、秋の富士山麓と箱根仙石原に行く。

 

 参加者13人が駅前に集まり、7:30マイクロバスで出発。

 関越道、圏央道、中央道と高速道路を走って、9:10河口湖インターで降りる。河口湖大橋を渡り、河口湖北岸のもみじ街道、湖北ビューライン(県道21号線)を通って、「大石公園」(山梨県富士河口湖町)へ。

 

●大石公園 9:20~10:20

 「大石公園」といえば春の芝桜、夏のラベンダー、秋のコキアが有名。しかし赤くなったコキアの見頃は10月中旬~下旬とか。茶色に枯れたのが数本あったが、抜いてしまったのかほかに見あたらない。

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 来年美しい花を咲かせため、剪定されたラベンダーの株が、整然と並ぶ。正面の建物は、「大石公園」の河口湖自然生活館。

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 富士山と河口湖が一緒の絶景ポイント「大石公園」。この日は雲が多くて、河口湖越しに見える富士山も、太陽もほとんど姿を見せず。

 カモが泳ぐ河口湖の対岸に見えるのは、雲の下の富士山の裾野だけ。河口湖は、「富士山世界文化遺産」の構成資産の一つ。

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●もみじ街道

 湖北ビューライン(県道21号線)、もみじ街道を戻る。バスの中から見るもみじ街道の紅葉がきれい。

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 沿道の近くでは「もみじ回廊」を中心とした「河口湖もみじ祭り」をやってたが、混雑していて車が駐められないのでスルー。祭りは、2018年11月1日(木)~ 23日(金祝)まで。ライトアップもある。

 「もみじ回廊」のほかに、祭りの会場からは車で約15分ほどの距離に、人気の「紅葉トンネル」という紅葉名所もあるそうだ。
 

 河口湖北岸から、新倉河口湖トンネルを抜けて富士吉田市へ。更に鳥居地トンネルを抜けて忍野村へ入る。
 
 

●忍野八海(おしのはっかい) 10:50~11:40

 河口湖から南東に下って、富士山の伏流水の湧水池が8つある「忍野八海」(忍野村)。みやげ屋・食事処「ひのでや」の駐車場に車を駐める。

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 「忍野八海」は、富士山信仰にのための巡拝地として、八海それぞれに八大竜王を祀っている。富士登拝を行う行者たちは、ここの水で穢(けが)れを清めたという。国指定の天然記念物。

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 上の二つの写真は、コバルトブルーの美しい池、水深10mで透明度が高い。忍野八海の中心にあって、池の周りに土産屋や食事処が集中しているため、一番賑やかだ。

 澄み切った池にコイが泳ぐ。池の底にはコインがたくさん沈んでいるのが見えるが、環境保全のため「お金投げ入れ厳禁 罰金千円」の看板が、日本語のほか英語、中国語で書いてあった。

 残念ながら後で調べたら、この池は人工池の「中池」で、「忍野八海」の八つの池に含まれてなく、「富士山世界文化遺産」の構成資産ではなかった。

 下の「湧池(わくいけ)」は、「忍野八海」の一つで、富士山の構成遺産の一部として認定されている。

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 中国人観光客が大勢来場していた。富士山に関わる名所に関心があるようで、富士山吉田口の五合目には中国人ツアー客が大勢で行くのだろう。

 

●旭日丘(あさひがおか)湖畔緑地公園 12:00~12:45

 忍野八海から更に国道138号線を南東に下り、山中湖の南岸を走ると、沿道はちょうど紅葉が見頃。紅葉を車内から撮影。

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 「旭日丘湖畔緑地公園」(山中湖村)の紅葉が美しい。

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 山中湖の湖岸には、白鳥ボートが並ぶ。白鳥の形をした遊覧船「白鳥の湖」も運行している。山中湖は、「富士山世界文化遺産」の構成資産の一つ。

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●浅間(せんげん)茶屋 山中湖店 12:50~13:35

 旭日丘の公園から山中湖南岸(138号線)を2Kmほど戻った所、ほうとうの店で昼食。

 山梨名物ほうとう専門店の山中湖店(山中湖村)。

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 浅間茶屋の本店(富士吉田本店)は、「富士山世界文化遺産」の構成資産である「北口本宮(きたぐちほんぐう)富士浅間神社」のすぐ近くにある。

 注文の「名物かぼちゃほうとう」は、1,130円。ひとり鍋で、茶碗に移して食べる。だしは味噌仕立て、南瓜や芋などの野菜がたっぷりで、食べきれないと思ったが、美味しくて完食。(写真は、浅間茶屋のホームページから転載)

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 国道138号線を南下、山中湖村から小山町、御殿場市へ。東名高速の高架をくぐり。乙女道路、乙女トンネルを通って、静岡県箱根町の仙石原へ。
 


●長安寺 14:30~15:15

 仙石原交差点で左折、細い道を進むとすぐに曹洞宗「長安寺」、大門の先に駐車場がある。参道の水屋の後ろには、澄んだ水の放生池にコイが泳いでいる。

 山門をくぐり、本堂の賽銭箱の横に「長安寺」のパンフが置いてあり100円。賽銭100円を入れて参拝。ここは駐車料、拝観料とも無料。

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 本堂北側の裏山には、モミジなどの林の中が「五百羅漢場」。

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 林の中に羅漢様が点在する。

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 五百羅漢は、1985年(昭和60年)より建立、現在進行中とパンフにある。苔むしたりしているが、なるほど羅漢像の表情や加工は現代的。

 最近になって境内の新緑や紅葉が有名になったようなお寺で、見学者が多い。紅葉しているもみじもまだ少なくて、見頃はこれからのようだ。「東国花の百ヶ寺」としても知られている。

 「東国花の寺」は、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、2001年(平成13年)3月に発会。仏教の教えを基に心に花を咲かせてほしいという願いを元に、現在は103ヶ寺の寺院が加盟しているそうだ。
 

 
●仙石原のすすき草原 15:20~16:10

 長安寺から、仙石原交差点を直進、800mほど進むと「箱根湿生(しっせい)花園」がある。更に600mほど先、仙石原浄水センター入口に臨時駐車場(無料)があった。

 駐車場から約600m、10分ほど歩くと、「仙石原のすすき草原」の入口。

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 すすき野原はどこにでもあるが、これほど広大なすすき草原は初めて見た。その広さ(16ha)に驚き、圧倒される。やはり毎年3月には野焼きが行われていて、自然体系が守られているという。

 箱根仙石原には、「箱根ラリック美術館」、「ポーラ美術館」、「星の王子さまミュージアム」、「箱根ガラスの森」などの美術館も多い。
 
 

 帰りに「鈴廣かまぼこ」御殿場店で買い物し、御殿場インターから東名高速、帰路へ。家に着いたのは19時過ぎ。

 帰ってから歩数計を見たら、7Kmほどを歩いていた。富士山が全く撮影出来なかったのは残念だったが、紅葉はまあまあ撮れた。

 この日は終日曇り、富士山麓や箱根は寒いかと思っていたが、この日は例年より暖かかったそうで防寒具を着るほどではなかった。

 

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  「富士山周辺の花巡り」 2015/07/20 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-b645.html

  「箱根周遊」 2013/10/27 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-1cfc.html

 ★ ★ ★

 「富士山世界遺産」の構成資産について

 富士山は当初、「世界自然遺産」として登録を目指した。しかし、ゴミなどによる環境悪化や開発により自然が保たれていないなどの理由で、「文化遺産登録」を目指す方針に転換。2013年(平成25年)6月、富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」の名山として、世界文化遺産に登録された。古来より日本の象徴として、山岳信仰や北斎らの浮世絵の題材にもなり、その文化的が意義が評価されたのだった。

 構成資産は、山体だけでなく、古から富士山と関わりを持つ周囲の神社や登山道、風穴、溶岩樹型、湖沼など。以下の通り全部で25箇所。

① 富士山(富士山域)-静岡県・山梨県; 標高約1,500m以上の山域に、以下9件の構成要素がある。

 (1) 山頂の信仰遺跡群-静岡県・山梨県; 火口壁に沿って神社など宗教関連施設が分布、山頂部で宗教行為が体系化。

 (2) 大宮・村山口登山道(現 富士宮口登山道)-富士宮市; 富士山本宮浅間大社を起点とする登山道。

 (3) 須山口(すやまぐち)登山道(現 御殿場口登山道)-御殿場市; 須山浅間神社を起点とする登山道。

 (4) 須走口(すばしりぐち)登山道-小山町; 富士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂に至る登山道。

 (5) 吉田口登山道-富士吉田市/富士河口湖町; 北口本宮冨士浅間神社が起点。18世紀後半以降、最も多く利用。

 (6) 北口本宮(きたぐちほんぐう)富士浅間神社-富士吉田市; 浅間大神を祀った遙拝所が起源。富士講との繋がりが強い。

 (7) 西湖(さいこ)-富士河口湖町; 9世紀の噴火で溶岩が流れ込んで出来た湖。西側に青木ヶ原の樹海や溶岩洞窟がある。

 (8) 精進湖(しょうじこ)-富士河口湖町; 9世紀の噴火で溶岩が流れ込んでできた。富士五湖で最も小さく、逆さ富士が美しい。

 (9) 本栖湖(もとすこ)-身延町/富士河口湖町; 富士山との構図が美しく、紙幣の図案など芸術作品になることが多い。

② 富士山本宮(ほんぐう)浅間大社-富士宮市; 富士山を浅間大神として祀ったことを起源とする浅間神社の総本宮。

③ 山宮(やまみや)浅間神社-富士宮市; 富士山本宮浅間大社の前身。本殿がなく、富士山を臨む遙拝所を設けている。

④ 村山浅間神社-富士宮市; 12世紀頃に富士山で修行する人々が現れ、14世紀初頭に修験道が成立、その中心となった。

⑤ 須山(すやま)浅間神社-裾野市; 日本武尊の創建とされる。須山口登山道の起点となり南東麓からの登拝に重要な場所。

⑥ 冨士浅間神社(須走浅間神社)-小山町; 須走口登山道の起点となる神社で、富士講信者が多く立ち寄った。

⑦ 河口浅間神社-富士河口湖町; 9世紀後半に起こった噴火を契機に、北麓側に初めて建立された浅間神社とされる。

⑧ 富士御室(おむろ)浅間神社-富士河口湖町; 富士山中の最古の神社であるといわれ、本宮と里宮が合祀されている。

⑨ 御師(おし)住宅(旧外川家住宅)-富士河口湖町; 富士講信者が登拝を行う際、宿や食事などの世話をした御師の家。

⑩ 御師住宅(小佐野家住宅)-富士吉田市; 北口本宮冨士浅間神社の御師を務め、当時の宿坊の形態を残している。

山中湖-山中湖村; 富士山の火山活動によってできた湖。富士講の開祖・長谷川角行が水行を行った湖沼の一つ。

河口湖-富士河口湖町; 富士五湖のうち最も標高が低く、湖岸線が長い。

⑬ 忍野八海(出口池)-忍野村; 富士登山を目指す行者たちは、この湧水を「清浄な霊水」と呼び、穢(けが)れを祓った。

⑭ 忍野八海(お釜池)-忍野村; 忍野八海の中で最も小さな池。ガマガエルが娘を引きずり込んだ伝説から大蟇(がま)池とも。

⑮ 忍野八海(底抜(そこなし)池)-忍野村; 池に物を落とすと底を通り抜け、お釜池に浮かび上がったという。

⑯ 忍野八海(銚子池)-忍野村; 阿原川沿い脇の草地の中にある池。若い花嫁が身を投げたという伝説が残る。

忍野八海(湧池(わくいけ))-忍野村; 湧水量が豊富で水深4m。忍野八海を代表する池。

⑱ 忍野八海(濁(にごり)池)-忍野村; 行者が一杯の水を求めたのを断った途端に、池が濁ったというのが名前の由来。

⑲ 忍野八海(鏡池)-忍野村; 部落内でもめごとが起きると、両者が池水を浴びて身を清め、平穏を祈ったという。

⑳ 忍野八海(菖蒲池)-忍野村; 池では大きな菖蒲が生息し、伝説ではこの菖蒲を身体に巻くと病気が治るという。

㉑ 船津胎内樹型(じゅけい)-富士河口湖町; 溶岩が流れる際に、樹幹の跡が空洞となった洞穴に浅間大神が祀られた。

㉒ 吉田胎内樹型-富士吉田市; 樹木が重なり合った複雑な樹型の洞穴。女性の胎内に例えられている。

㉓ 人穴(ひとあな)富士講遺跡-富士宮市; 富士講の開祖・長谷川角行が16~17世紀に修行し、入定したと伝えられる聖地。

㉔ 白糸ノ滝-富士宮市; 湧水が幅約200mにわたり噴出している滝。富士講を中心とした人々の修行場。

㉕ 三保松原-静岡市; 『万葉集』以降多くの和歌の題材や、天女と漁師の交流を描いた『羽衣』の舞台にもなった。

2018年11月 8日 (木)

日本スリーデーマーチ2018

 2018年11月3日(土)、4日(日)、「第41回日本スリーデーマーチ」に参加。

 
 埼玉県の比企丘陵を舞台に繰り広げられるウォーキングの祭典「日本スリーデーマーチ」は第41回を迎え、11月2日(金)に開幕。4日(日)までの3日間開催された。

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 (クリックすると拡大表示)

 

●11月3日(土)

 「吉見・森林公園ルート」の20キロコースに、7人のグループで参加。

 東松山駅前を9時頃に出発。途中、古墳時代後期の遺跡「百穴(ひやくあな)」(比企郡吉見町)に寄る。「百穴」は現在219個あり、古代人の横穴墓群とされる。

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 東松山市の滑川に架かる野田橋付近(県道391号線)。
 
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 東松山市野田の農道を歩く。

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 東松山市大谷の大岡コミュニティセンターで休憩。隣接する「東松山ぼたん園」を通過。1990年(平成2年)開園、拡張工事を経て今では関東有数のぼたん園。春には150種、65,000株、市の花である「ぼたん」が咲き誇る。最近、ぼたん畑の西側に、芝生のエリア(写真)が出来た。

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 芝生エリアの野外ステージ上には、秋ぼたん。後方は新しい大型遊具。

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 一般的な品種の春ぼたんは、4月下旬~5月上旬に開花する。バラは春のほか秋にも咲くが、秋に咲くぼたんは初めて見た。春と秋に花をつける二季咲きの変種「寒ほたん」というのがあるそうだが・・・。

 12:00~12:30障害者支援施設「あかつき園」(東松山市大谷、社会福祉法人青い鳥福祉会)の休憩所。けんちん汁250円を購入し、事前にコンビニで買ったおにぎりで昼食。

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 「国営武蔵丘陵森林公園」(比企郡滑川町)の中央口から入場、南口から抜ける。この日の入場料は無料。

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 森林公園駅前を経て、東松山の市街地へ。東松山市松山町の住宅街を通る。小さい子供たちは、10キロコースのようだ。

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 15:25、東松山市松葉町の中央会場(松山第一小学校)のゴールに到着。オレンジのベストを着た中学生ボランティアが「ゴール」のシールを貼っている。

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 ゴールしたウォーカーで賑やかな中央会場で休憩。とりあえず会場の出店で買った生ビールで乾杯。

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 帰りの東松山駅までの「まるひろ通り」では、「よさこい陣屋祭り」の演舞。


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 16:10~名物の「やきとり」屋で打ち上げ。

 昔は気にならなかったのに、最近長く歩くと足の裏が少し痛む。靴が合わないのか、歳のせいか。良い天気で汗ばむほどのウォーキング日和で、参加者も多かった。

 この日の歩数計は、3万7千歩、22km。


●11月4日(日)

 「日本スリーデーマーチ」の最終日、都幾川・千年谷公園ルート。

 朝起きると、昨日の足の痛みが少し残っていたが、大丈夫。

 11月2日、3日の関東地方は高気圧に覆われ、秋晴れのウォーキング日和だった。3日目のこの日は、気圧の谷が通過するとかで朝からどんよりとした曇り空。

 

 10キロコースは、都幾川や千年谷公園までは行かず、唐子中央公園まで行ってスタート地点へ戻る。午後から、市内パレードに参加する。

 9時頃に中央会場(松山第一小学校)に行くと、10キロコース出発式(8:45~9:00)が終わり、出発ゲートに向かってウォーカーの行列が出来ていた。

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 30名弱のウォーキング・グループは、中央会場近くの松山中学校前に集合。9時半、旗を持った幹事を先頭に出発。

 今年はコースと少し変わってようで昨年のような渋滞もなく、住宅街を抜け青鳥小学校(東松山市石橋)付近の小道を歩く。

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 関越道の陸橋を渡り、再び住宅街を歩き、第1休憩所の唐子中央公園(東松山市下唐子)に向かう。

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 やがて中間地点、唐子中央公園に11:10到着。ここでは毎年、唐子地区商工祭が開かれていて混雑していた。

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 公園内の空いている子供広場の芝生に集まり、昼食・休憩。天気予報では午後から降水確率30%、そのうちだんだん雲行きが怪しくなり、今にも降りだしそうな様子。11:45、公園を出発。

 しばらく広い田園風景を右に見ながら歩く。10キロコース以外の他のコースからの合流もあって、ウォーカーの長い列が続く。

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 関越道の下のトンネルをくぐると、12:25に第2休憩所の南中学校に到着。この中学校は、ノーベル物理学賞受賞の梶田隆章先生の母校。

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 再び田園の農道を歩いていると、雲間から青空が少し顔を出し、雨の心配はなさそう。

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 途中から10キロコースから外れ、パレード集合場所に13時半までに集合。

 地元の和太鼓隊のほか、高校吹奏楽部などがパレードを歓迎演奏。

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 立正大学吹奏楽部の演奏の隊列。

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 パレードは、大学の吹奏楽部や小学校の鼓笛隊、地元自治会、各種団体、企業など、横断幕、のぼりや提灯を掲げたり、そろいの帽子、法被(はっぴ)やユニホームを着たりして、約1,500人が盛大に行進したという。

 14:00頃からパレードに参加、約1.5Kmを行進して14:30中央会場に到着。会場では森田市長、中村教育長、観光大使のピオニメイツが出迎え、。

 14:40流れ解散。前日と同様、会場の出店で生ビール一杯。

 会場を出るころ、閉会のセレモニーだろうか、国会議員・県会議員や関係市町の代表者がひな壇に並んでいた。

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 この日の歩数計は、2万2千歩、16km。

 

 今年もスリーデーマーチに参加して、歩きの楽しさを共感した1日だった。

 参加者は、1日目は2万2千434人、2日目が3万733人、3日目は2万9千92人。3日間でのべ人数は、8万2千259人だったそうだ。

 第42回大会は、来年11月2日(土)~4日(月祝)に開催される予定。

 

 「ものみ・ゆさん」の日本スリーデーマーチ関連のブログ記事 

  「日本スリーデーマーチ2017」 2017/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-24a0.html

  「日本スリーデーマーチ2016」 2016/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-89c3.html

  「日本スリーデーマーチ2015」 2015/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

  「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
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  「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
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2018年10月22日 (月)

宇都宮と大谷石

 2018年10月14日(日)、栃木県の宇都宮市へ行く。大谷石採石場跡や宇都宮城址をめぐり、多気山(たげさん)に登る。

  
 レンタカー(ハイエースワゴン)に参加者8人を乗せ、東北道を北上。8:55宇都宮ICで高速を降りる。国道293号線を南下、宇都宮の中心街から北西の方角7Kmほどに位置する大谷石(おおやいし)のふるさと・大谷町に着く。

 ここは、日本最古といわれる磨崖仏(まがいぶつ)の「大谷観音」や、大谷石の地下採石場「大谷資料館」がある。宇都宮市を代表する歴史文化資源である「大谷石文化」をテーマとして、今年(平成30年)5月に「日本遺産」の認定を受けた。
 

 9:10、市営大谷駐車場に車を駐め、予約していた観光ガイドと合流。ガイドの案内で県道188号線(大谷街道)を横断、大谷石を利用した石畳の参道を歩くと「大谷公園」。ここは、大谷石を産出する露天の採石場であった。

 大谷石に彫刻された高さ27mの「平和観音」像。

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 この辺りは、独特の地形と松や広葉樹の樹木と相まって、趣のある景観をかもしだしている。地質は、 日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火し火山灰や砂礫が海水中に沈殿し、それが凝固してできた凝灰岩とされる。

 参道の途中には、天狗が投げたという「天狗の投石」という奇岩がある。

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 他にもカエルの後姿に似た大岩「親子かえる」、巨大な磨臼(すりうす)のような「スルス岩」などがあった。

 「平和観音」像を正面から見る。

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 観音像は、太平洋戦争の戦死戦没者の供養と世界平和を祈って造られた。1948年(昭和23年)から大谷観光協会と地元の熱心な後援のもとに採石場の壁面を利用し、岩肌に観音像が刻まれている。東京芸大・飛田朝次郎教授が彫刻を指導、6年の歳月をかけ大谷の石工達が製作、1954(昭和29年)に完成したという。

 「平和観音」は、背後にある「大谷寺」の「大谷観音」の御前立(おまえだち)として、建立された。

 9:40、「大谷観音」のある「大谷寺」の仁王門をくぐる。拝観料400円。仁王門が工事中でネットで覆われていたので、看板の写真を撮影したものを掲載。後ろの奇岩の山は、「御止山(おとめやま)」。

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 「大谷寺」の観音堂は、坂東三十三箇所の第19番札所。葵の御紋がある。「大谷寺」は、国の特別史跡および重要文化財に指定されている「大谷磨崖仏=大谷観音」の所有者。

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 「観音堂」は、洞穴に潜り込んだような造りの洞窟寺院。写真は、ウィキメディアコモンズ。

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 入堂すると、「大谷観音」と称するご本尊の千手観音(高さ4m)が、岩肌に彫り出されている。

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 千手観音は、平安時代(810年)弘法大師の作と伝えられている。昔は、朱や漆を塗り、表面には金箔が押され、金色に輝いていたそうだ。最新の研究では、バ―ミヤン石仏との共通点が見られることから、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻したと考えられている。シルクロ―ドの世界が「大谷寺」に生きているという。

 脇堂には、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像などの磨崖仏が並ぶ。

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 本尊の千手観音と脇堂の仏像の合計10体の石仏は、西の臼杵磨崖仏(大分県)に対して東の磨崖仏として知られている。堂内は撮影禁止で、上の2つの写真は、「大谷寺」パンフレットより転載。

 次に宝物殿を見学するが、ここも撮影禁止。

 特筆すべきは、「大谷寺」の洞窟で発掘された古代遺跡。古代人が生活した痕跡が認められている。洞穴内の深さ3mの地層からは、屈葬されたほぼ完全な形の縄文人の人骨が出土した。

 このことから、「大谷寺」の洞窟は元々縄文人の横穴式住居であったものと考えられている。この人骨は20代くらいの男性で身長154cm。1998年(平成10年)にお茶の水女子大松浦秀治助教授らの学術調査で、縄文時代草創期(約1万1千年前)の人骨とされている。

 宝物殿の外に出ると庭園、池には赤い弁天堂があり、白蛇が祀ってある。

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 「大谷寺」を出て、徒歩で「大谷資料館」に向かう。

 「大谷寺」のすぐ北隣には、山の神・大山祇命(おおやまつみのみこと) を祀る「大山阿夫利(おおやまあふり)神社」。鳥居、祠などすべて大谷石で造られている。山の仕事(採石作業)の安全を祈ったのだろうか。

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 大谷石奇岩群の「御止山」(おとめやま)の断崖。右手は、大谷景観公園。

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 「大谷資料館」前の駐車場。団体観光客も多い。

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 10:40、「大谷資料館」に入場。ここは、大谷石の地下採石場の入口。入場料800円。

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 展示室には、大谷の地質、手掘り時代の採掘道具、露天掘りや坑内掘りの採掘形態、大谷石の搬出・輸送の移り変わり、機械化した採掘機などが展示・解説されている。

 地下30mの巨大な地下空間、階段を降りて大谷石地下採石場跡を進む。

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 ツツハシを持った手掘り作業の人形。

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 現在は、この空間が美術展やコンサート映画撮影、結婚式などのイベントなどに利用されている。

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 機械掘りの跡。

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 この空間は、運搬用のトラックが入る通路につながっている。

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 地下水が溜まっている場所。

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 切り出した大谷石の集積場。

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 採石用の機械。

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 まるで地下神殿。

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 宇都宮には「大谷石」の採石場がたくさんあって、昭和の時代まで 掘り出して出来た巨大な地下空間があちこちに残っている。この地下採石場は、平均で深さ30mくらい、空間の広さはあわせて2万平方m、野球場くらいあるそうだ。地下の平均気温は8℃だそうだが、この日は13℃だったが、上着が欲しくなる。
 

 1時間ほどの見学の後、11:40「大谷資料館」を退出。市営大谷駐車場に戻る。

 そこから車で5分ほどで、「多気山(たげさん)不動尊」の参道沿いの「桃畑茶屋」に着く。

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 12:00~12:50、「桃畑茶屋」で昼食。うどんや蕎麦を注文、名物のだんごも味合う。 

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 ここから、狭い参道を更に車で上ると、多気山(標高377m)の山腹に「多気山不動尊」(多気山持宝院)があり、不動明王を祀られている。822年(弘仁13年)の創建だという古刹。

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 不動尊の駐車場に車を駐め、13:00「多気山(たげさん)」へ登山開始。

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 杉林の中をひたすら登る。

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 13:25、「多気山」の山頂に到着。

 「多気山」は下野の霊場でもあり、また山域一帯は戦国時代に宇都宮氏が出城や居城として使用したが、改易とともに廃城となった。山頂は、平らな本丸跡で、東屋(あずまや)がある。

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 多気山の山頂(標高377m)から宇都宮市街を展望。

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 「多気山」の山名は、「たけ」(岳、嶽、嵩)が濁ったとされる。動詞の「たける」(長ける)で高所、高山を意味するという。また一説に、霊気が多い山ということから名付けられたとも。

 13:40、下山開始。

 

 「多気山不動尊」の駐車場から、約10Km、市の中心街の「宇都宮城址公園」西側の市役所東駐車場に車を駐める。14:40、公園の入場。イベントをやっているらしく周辺は混み合っている。

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 宇都宮城址の本丸の北半分が復元されている。土塁の上の清明台櫓。

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 清明台櫓に上り、富士見櫓を望む。

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 本丸広場では、第13回「うつのみや食育フェア」が開催中だった。

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 宇都宮城本丸の模型。土塁に囲まれた本丸の中央の御成御殿(写真中央)に日光東照宮参拝の将軍が宿泊した。藩主の屋敷は、本丸の外側の二の丸にあったそうだ。

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 宇都宮城は、関東七名城の一つ。平安時代に築かれ、鎌倉時代以降は宇都宮氏の居城だった。しかし豊臣秀吉に滅ぼされ、次に徳川家康の懐刀の本田正純が入城し、城や城下の改修などを行った。しかしその後の城主は、譜代大名がこまめに入れ替わっている。

 なお宇都宮氏族は、全国に分布している氏族だそうだ。本流の下野宇都宮氏のほか、庶流に九州の豊前宇都宮氏と筑後宇都宮氏、四国の伊予宇都宮氏などが有名。

 

 宇都宮城址公園を出て、徒歩10分(15:25)で大谷石で造られた「カトリック松が峰教会」に到着。「ブラタモリ」でも放映していたが、ここにはパイプオルガンが設置されていて、大谷石の音響効果がとても良いという。

 この日15時から、毎年恒例のパイプオルガンコンサートを開催中のため、予定していた聖堂内部の見学ができなかった。

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 この教会は、近代ロマネスク建築。1931年(昭和6年)に着工、翌年完成した鉄筋コンクリート造り、大谷石仕上げ、2つの尖塔部は銅板葺き。コンクリート製の教会では、日本で最も古いとされる。

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 市役所東駐車場に戻り、15:45出発。

 東北道鹿沼ICから帰路へ。

 

 ★ ★ ★

 餃子で有名な宇都宮は、栃木県の県庁所在地で人口50万人の大都市。東京から直線で100Km、新幹線で50分。

 9月22日(土)、午後7時30分〜放送されたNHK番組『ブラタモリ』#112を視聴した。テーマは、「宇都宮~宇都宮は“江戸”に欠かせない町?」。

 「二荒山(ふたあらやま)神社」が、下野国(しもつけのくに)の最も格式の高い神社である意味の「一の宮(いちのみや)」と呼ばれていたのが、訛ったというのが宇都宮の由来。しかし、他にもいくつか説があるそうだが。

 まずタモリは「二荒山神社」へ行く。この神社は、宇都宮市中心部の高台(標高135m)に鎮座、つまり宇都宮丘陵の突端に位置する。江戸から仙台に向かう街道と会津・米沢に向かう街道の分岐点であり、江戸の北への守りの拠点だったと聞いて納得。宇都宮は、二荒山神社の門前町であり宿場町しても発展してきた。つまり、宇都宮は関東平野の”ヘリ(縁)”にあるのだ。

 将軍が日光東照宮に参拝するために、宇都宮城の本丸御殿に宿泊したという。そのため、城主は二の丸に居住したというのは面白い。将軍に随行するお供たちが宿泊するため、高台にある日光街道沿いに町が栄え、普通はお城よりも低い場所に造られる”城下町”だが、宇都宮では町が城よりも上にあるという”城上町”となっているのも面白い。これらのことから、江戸幕府が宇都宮を重視し、副題の”江戸”に欠かせない町だとの理由がわかった。

 次にタモリは、大谷石で造られた「カトリック松が峰教会」に入る。大谷石が、教会のパイプオルガンの音響に効果的なことは想像できた。味わい深い表面と柔らかく加工し易い高級石材の大谷石は、帝国ホテルや築地本願寺など明治以降の東京の町づくりを支えた石材であったという。

 そしてタモリは、大谷石の地下採石場に入り、ゴムボートに乗って地底湖を探検。採石のためなぜ坑道が斜めになっているか、”ミソ”と呼ばれる大谷石の不純物の話を聞いて納得。その地下空間の冷水を汲み上げ、ビニールハウスで特産品の「とちおとめ」の栽培に生かされていることは、初めて知った。

 

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