2026年1月27日(火) 上野毛、等々力、自由が丘界隈を歩く新春ウォーク。
東京メトロ副都心線で自由が丘駅9:58着、東急大井町線に乗換え10:02発、東急上野毛駅で10:08下車。
●五島美術館 10:20
上野毛駅から上野毛通りを多摩川方向へ進み、電柱の案内標識で右折して150mほど先に「五島美術館」の正門がある。東急グループをつくった実業家・五島慶太の美術コレクションを保存・公開するために設立。五島が亡くなった翌年1960年(昭和35年)に開館。
日本や東洋の古美術を中心に、約5000件の作品を所蔵。国宝が5件、重要文化財が50件も含まれている。国宝『源氏物語絵巻』が特に有名。美術館の敷地は、五島邸の敷地の一部が提供され、庭園を含めて約6000坪。公益財団法人「五島美術館」が運営。同財団が「大東急記念文庫」も管理している。開館には、東急・京急・小田急・京王が出資した。美術館には 入館せず、外観や周辺だけを見学。
「五島美術館」の通りを逆に戻り上野毛通りを横断すると、すぐに左手に真言宗智山派に属する古刹「覚願寺」と「覚願寺鈴蘭幼稚園」が見えてくる。

●上野毛自然公園 10:35
幼稚園の手前が、質素な看板の「上野毛自然公園」の入口。10:35入口を入ると敷石が敷かれており、かつてこの場所が庭園として使われていた名残だそうだ。その先には、桜の林のある開放感のある広場で、幼稚園児が遊んでいた。

世田谷区立「上野毛自然公園」は、多摩川が10万年以上かけて台地を削り出した「国分寺崖線」の上に位置する公園で、地形そのものが大きな見どころ。広場の下の深い緑に覆われた斜面には、木々の間を縫うように長い階段が続く。

都会の緑の中は夏には涼しくて、多様な昆虫たちが見られるという。階段を降りきった先には、多摩川沿いの低地が広がり、崖線からの湧き水を利用して造られた水生植物園もある。崖線に沿うように小さな「丸子川」が流れていて、この自然公園の端はこの「丸子川」で終わる。
●上野毛稲荷神社 10:45
「上野毛自然公園」の北側の上野毛通りは、かなりの急坂で「稲荷坂」という。この坂の途中の左手の崖を切り崩して「上野毛稲荷神社」が鎮座している。旧社格は無格社で、旧上野毛村の鎮守のうちの一社、現在は上野毛全域の鎮守。
稲荷神社の北に隣接する「五島美術館」の敷地内には「稲荷丸古墳」、南東には「上野毛稲荷塚古墳」、更に南東の「玉川野毛町公園」内には「野毛大塚古墳」という古墳があり、これらを「野毛古墳群」と呼び、「国分寺崖線」上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる古墳群となっていて古代から人の定住があったという。
この稲荷神社のすぐ下に、日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を私財をなげうって運営してきた歌手で女優の宮城まり子(2020年、93歳で死去)の自宅があった。作家・吉行淳之介(女優・吉行和子の兄)とは、彼の死まで事実婚の関係だった。また、上皇・上皇后とは皇太子・皇太子妃時代から、40年の親交があったという。
●二子玉川公園 10:55
世田谷区立の都市公園「二子玉川公園」は、2013年(平成25)4月にオープン。世田谷区玉川(二子玉川)に位置し、再開発エリアである二子玉川ライズに隣接して整備。公園は、「国分寺崖線」の豊かな緑と多摩川の水辺に接し、自然環境に恵まれた立地にある。二子玉川駅から徒歩9分でアクセスも良好。

区立公園として初の本格的な日本庭園「帰真園」が整備、その一角に登録有形文化財「旧清水家住宅書院」を復元。また、区民と共に植樹した約1,400本の苗木が育つ「世田谷いのちの森」、ボール遊びができる「子ども広場」、幼児向けの「遊具の遊び場」など多様な世代が利用できる。さらに、公園は震災時の防災拠点としての機能も備え、避難民1万人の収容と応急仮設住宅132戸の建設を想定している。二子玉川ライズタワー&レジデンス(億ション)を望む。
多摩川の下流に向かって岸辺を歩く。
●影光山 善養寺 11:25
「善養寺」は、国分寺崖線沿いの世田谷区野毛にある真言宗智山派の寺院。正式の名を「影光山仏性院 大毘廬遮那殿(だいびるしゃなでん)善養密寺(ぜんようみつじ)」。
江戸時代以前には、この寺は深沢村(現・世田谷区深沢)にあったという。この寺の僧侶だった祐栄阿闍梨が、本山の京都・智積院で修行を積み、深沢村へと戻ってきたが不在の間に寺は荒廃していた。慶安年間(1648-1651年)に祐栄は、下野毛村に寺を移転したと伝えられる。
「善養寺」入口、 丸子川にかかる赤い橋(大日橋)を渡ると山門前には巨大な石像。この寺には、ユニークな石像が多い。

石段を上ると、迫力のある「海駝」(かいだ)の坐像一対が見える。海駝は、架空の神獣で火除けの神といい、世界でも5つしかない珍しいものという。「像」の下の立て札には、「獬豸」(かいち)と書いてある。
「獬豸」(かいち)は、中国に伝わる伝説の神獣で、正義・公正・法治を象徴する存在として知られ、日本の狛犬の起源の一つとも考えられている。朝鮮半島へ伝わり、「獬豸」は「ヘテ」または「ヘチ」と発音され、漢字で表記する際は「海駝」という字が当てられた。中国の「獬豸」との違いは、羊や牛の姿ではなく獅子のような姿をしている点と、多くは頭に角がない。日本では、「獬豸」は「神羊」(しんよう)という別名でも呼ばれて、日光東照宮では麒麟や白澤と共に、拝殿の杉戸に装飾が施されている。
本堂の前(山門の右手に見える)にあるカヤの大木「善養寺のカヤ」は樹齢700年とも800年ともいい、1964年に東京都の天然記念物に指定されている。樹高は22.6m、幹の周りは5.3mに達している。
本堂は、奈良の「唐招提寺金堂」を模したもので、鴟尾(しび)一対が載った瓦葺き、寄棟造りの屋根が特徴。 石像は、仏像の他、蟹、ライオン、カッパ、象、亀などの動物が多い。
本堂の右前の「大日尊」の座像は、彩色してあるが石像のようだ。この寺のユニークな石像の中で、この石像は普通の仏像なので逆にどこか違和感がある。
本堂内には、本尊である「大日如来坐像」(木彫漆塗り、高さ約1.2m)が祀られているそうだ。本堂の前のこの石像は、本尊の「御前立ち」(本尊の代わりに、近くで拝めるように置かれた仏像)だろうか。
●等々力渓谷 11:55
「善養寺」から北東の方向へ、住宅街の中を進むと、右側に「等々力渓谷」内「日本庭園」の正門。正門の左に、渓谷の「谷沢川」に降りる長い階段がある。
「等々力渓谷」は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、世田谷区にある延長約1Kmの23区内唯一の渓谷。等々力駅からは、南に歩いて3分ほど、谷沢川に架かるゴルフ橋脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川が流れ、豊かな自然に囲まれた遊歩道が整備されていて、四季折々の風景を楽しみながら散策できる。「等々力」という地名は、滝の音が響き渡り、轟いたことからついたとの言い伝えがある。
夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出ている。晩秋には紅葉も楽しめるようだ。
階段を降りて渓谷の遊歩道に出た後、下流側の冠木門から「日本庭園」に入る。みかん林の斜面を登る。
日本庭園では、早咲きの桜が満開。メジロが来ていたが、うまく撮影出来なかった。
再び、遊歩道に降り、等々力渓谷の谷沢川は護岸整備されていて渓谷の自然の川とは趣が違う。この時期、水量は少ない。
2023年年7月に渓谷内で倒木が発生、他の樹木も倒木の可能性があるため、この谷沢川に架かる「利剣の橋」辺りから等々力駅方面への上流に向かう遊歩道が通行止め。橋を渡ると、「不動の滝」がある。どんな滝かと思ったら、崖からの湧水が滝壺にチョロチョロと落ちていた。古来から滝に打たれる行をする人々が各地から訪れていたそうだ。
●等々力不動尊 12:05
「不動の滝」から石段を登った渓谷南端には、桜の名勝として知られる「等々力不動尊」。正式には「瀧轟山(りゅうごうさん)明王院」。真言宗智山派の寺院「満願寺」(北へ700m離れた等々力三丁目)の別院。開基は真言宗中興の祖・興教大師と伝えられている。
本尊は不動明王で、寺に残る伝承によれば、約800年前に興教大師が夢のお告げを受け、武蔵国に不動明王像を安置する霊地を探し求めていたところ、当時は水量豊かに流れていた当地の滝を見て霊地と悟り、この地に不動堂を創建したという。
●稚児大師御影堂 12:15
渓谷の北斜面、弘法大師誕生1200年記念として昭和50年(1975年)に奉修された「稚児大師御影堂」がある。
壁のないお堂に祀られている像は、おかっぱ姿の子供。稚児大師は弘法大師の幼い時の呼び名。大師像の金箔は、生誕1250年記念の寄進によって貼られたもので、数年前は黒い地肌のままだった。場所は「等々力不動尊」の境内で、石碑や掲示物にも「等々力不動尊」や「満願寺」と記されている。
等々力渓谷を出て、等々力駅に向かって歩く。都道311号(環八通り)の「玉沢橋」から「等々力渓谷」の下流側を見下ろす。写真にはないが、渓谷の左手には古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々力渓谷3号横穴」がある。
12:45、等々力駅北口付近にある蕎麦店「やぶ森」に入店。山菜蕎麦を注文。看板には「生蕎麦 やぶ森」と書いてあるようだが、なかなか読めない。
東急大井町線等々力駅13:15 発に乗車、上り二駅目の九品仏駅13:18下車。
●九品仏(くほんぶつ)浄真寺 13:20
「九品仏駅」 を出て北へ進み「等々力通り」横断すると松並木の真っ直ぐな「浄真寺」の参道。9体(九品、くほん)の阿弥陀佛を安置している事から「九品仏」として知られている。
「浄真寺」の総門を抜け、すぐ左手に「閻魔様堂」。その先で折れると二階建ての立派な仁王門(紫雲楼)。
「九品仏浄真寺」は、世田谷区奥沢にある珂碩(かせき)上人が開山した浄土宗の古刹。山号は「九品山」、正式名称は「九品山唯在念佛院淨眞寺」。「九品仏」とは、同寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のこと。一般には同寺の通称や地名となっている。
境内の下品(げぼん)堂、中品(ちゅうぼん)堂、上品(じょうぼん)堂には、それぞれ3体ずつの阿弥陀様が納められている。写真の中央が上品堂、左に下品堂、右には中品堂がある。
下品堂、2体の下品阿弥陀如来像。左の1体は、順次、修繕事業が実施されているため不在。
上品堂、3体の上品阿弥陀如来像。
中品堂、3体の中品阿弥陀如来像。
本堂は、「龍護殿」と呼ばれる。靴を脱いで本堂(龍護殿)の祭壇に進み、釈迦牟尼仏を拝観、参拝。
本堂内の賓頭盧尊者(びんずる様)の像。お釈迦様の弟子の1人であり、さらに十六羅漢の1人。神通力を持ち、特に病を治す能力に長けていた。
びんずる様は「なで仏」と呼ばれ、自分の体の悪い部分と同じ所を撫でると、病気やケガが治るとされている。
「浄真寺」の地は、もとは世田谷吉良氏系の「奥沢城」であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、1675年(寛文5年)に当地の名主七左衛門が寺地として徳川幕府より貰い受け、1678年(延宝6年)、高僧・珂碩が同地に「浄真寺」を開山した。境内には古木が多く、カヤの大木は樹齢800年以上、イチョウは樹齢300年ともいわれており、また周囲の土手はこの地がかつて「奥沢城」であった名残で、鎌倉期における「土塁」の形態を示すものとして貴重な資料になっている。
●自由が丘駅周辺 14:30
「自由が丘」は、目黒区の自由が丘(1〜3丁目)と世田谷区奥沢にまたがる住宅・商業地域で、東急自由が丘駅を中心に発展した人気の街。交通の便が良く、高級住宅街として知られる一方、洗練されたヨーロッパ風の街並みが女性を中心に支持され、「住みたい街」上位の繁華街でもある。
南部の駅周辺は「丘」という地名ながら、低地となっている。北部には丘が多いが、南に九品仏川(くほんぶつがわ)があり、そこへ流れ込んだ雨水が地面を削っていったため。1974年(昭和49年)、九品仏川は蓋掛けして暗渠となって、長さ約921.4mの「九品仏川緑道」となった。
自由が丘駅の正面口前は、何やら騒がしい。ものものしい警察官や緑色のジャンパーを着た運動員が大勢いる。衆議院東京都第26選挙区「今岡うえき」候補の街頭演説。財務省出身で自民党の新顔。片山さつき財務大臣が、選挙カーの上でちょうど応援演説中だった。
14:40目黒区自由が丘にある「熊野神社」。平安〜鎌倉期に熊野信仰が広まる中で、和歌山県の熊野本宮大社・那智熊野神社から 分祀された神社。地元では「谷畑」と呼ばれた当地の「谷畑の権現さま」と古くから地域の人々に信仰されていて、自由が丘を鎮守する。毎秋、神楽殿で催される「目黒ばやし」は、百数十年の歴史を誇る。拝殿は、鮮やかな朱色の鉄筋コンクリート造り。
境内には、碑衾村(ひふすまむら)村長として耕地整理に尽力した栗山久次郎の銅像(1935年建立)がある。写真は、ウィキメディア・コモンズから転載。
久次郎は、1853年旧家栗山家の長男として誕生。篤農家、地主、東京府荏原郡(えばらぐん )碑衾村(ひぶすまむら)の村長。「自由が丘学園」の創立者・手塚岸衛の意見に共鳴して自分の土地を貸し、町名もそれまでの谷畑(やはた)から「自由が丘」に改名することを決断した。1934年没。自由が丘一帯の街づくり、地域発展に貢献した功績をたたえ、1935年(昭和10年)に銅像が建てられた。
14:50「ラ・ヴィータ」(La Vita)は、水の都・ベネチアの街並みを再現した空間にショップが集まった商業施設。ゴンドラを浮かべた運河が流れ、レンガ造りの洋館に石畳と、どこを見ても異国情緒あふれて「自由が丘のベネチア」。
15:00、自由が駅前の正面口に戻ると、まだ衆議院選挙の街頭演説が続いていた。

自由が駅15:03発の東急東横線で、池袋方面に向かう。15:34池袋着。
天気も良くて風もなく、比較的暖かいウォーキング日和だった。帰宅して歩数計を確認すると、この日は19,300歩だった。
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