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2012年5月24日 (木)

長崎から江戸へ旅した象-その3

 石坂 昌三『象の旅―長崎から江戸へ』、薄井ゆうじ『享保のロンリー・エレファント』に続いて、将軍吉宗に献上される象が長崎から江戸へ旅した本を読んだ。

   杉本苑子(著)『ああ三百七十里』 東京文芸社 (1986/09) 単行本 定価1,000円

 この本は、すでに古本になっていて、244円(税込)で購入。

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 この本には、8つの短編の時代小説がおさめられている。最初の30頁ほどの短篇は本題と同じで「ああ三百七十里」で、カニシカという名前の雄の象は、一人称で書かれている。異国から将軍吉宗への献上象が、長崎に入港してから江戸城で吉宗に対面するまでの珍道中記で、かなり脚色され、小説として楽しめる。
 残りの7つの短編は、享保の象と関係ない物語だった。

 ★ ★ ★

 短編「ああ三百七十里」の中に、面白いエピソードがいくつかある。

 ①岡山城下での夜、宿舎で火事があり象は驚いて逃げ出す。追手を振り切り、八重桜の咲く後楽園に駆け込むが、夜明け頃発見される。

 こんな話は、石坂昌三の本にはない。将軍に献上する象の周囲は、かなり厳しく管理されていたので、火事があったというのはたぶん創作だろう。もし、事実であってもこのような不祥事は、藩がもみ消したに違いない。

 ②天皇と対面する京都御所では、脱糞して護送役の役人たちをあわてさせた。役人はその上に羽織をかけ、事なきを得た。

 この話も、石坂昌三の本には出てこない。御所で脱糞する話は、何かの資料で見たような気がするが、思い出せない。しかし、このような御所での出来事は、事実だとしても記録には残りにくいと思うが。

 ③増水した大井川では、象の重みで船が傾き、激流に投げ出された。護送役三人は、象の長い鼻で、救い上げられ、背中に乗せられて、対岸に渡った。

 この時代、象がいくつもの川を渡って旅するのは、大変だった。石坂昌三の本では、大井川はあっけなく歩いて渡って、同行の者たちは拍子抜けしたとある。
 遭難しかけたのは、関門海峡を石船で渡った時、潮の流れで波が甲板を洗ったのに象が驚き、興奮した。船はシーソーのように揺れ、回転しながら潮に流され、岩礁にぶつかる危機一髪で対岸に着いたという。杉本苑子の大井川の話は、この関門海峡の出来事に似ている。
 揖斐川では、歩いて渡って深みにはまり、水没した。背中の象使いは、川に流されたが助けられ、象は鼻を高く上げて、深みを脱出したとある。
 また、長良川では、船に乗せるのに手こずるが、なんとか渡りきった。しかし、対岸にいた大勢の見物人の歓声に興奮して、群衆の中を暴走して怪我人が出たそうだ。

 ★ ★ ★

 象と護送役たちは将軍と対面し、ねぎらいの言葉を賜り、ハッピーエンドとなる。この後の、象の悲しい運命については、触れられていない。

2012年5月23日 (水)

長崎から江戸へ旅した象-その2

 将軍吉宗に献上される象が長崎に着き、陸路を歩いて江戸へ旅した。
 石坂 昌三(著)『象の旅―長崎から江戸へ』に続いて、次の書籍を読んだ。

   薄井ゆうじ(著)『享保のロンリー・エレファント』 岩波書店(2008/5/9) 単行本 1,900円(税抜き)

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 象にかかわる様々な人たちの人間模様を、7つの短篇小説にして、この本におさめられている。
   ・「わらしべの唄」・・・象の糞を売って、利を得ようと奔走する中野村の百姓の話。
   ・「獺祭(だっさい)の湊」・・・長崎で象を診る医師とその弟子の話。弟子は、江戸まで象に同行する。
 
   ・「千日手の解法」・・・将軍吉宗と暗愚で将棋好きなその子家重の物語。
   ・「象を引く」・・・本物の象を舞台に上げ、歌舞伎「象引き」を演じる若き日の三代目市川団十郎が登場する。
   ・その他3篇・・・・・・・・
 

 これらは、享保の象を題材にした時代小説で、史実ではない。この中の「千日手の解法」が、一番興味深い。 

 象が江戸城に着くと、吉宗は家重と、居並ぶ諸大名とともに、対面する。象の大きさ、鳴き声や、一挙一動に皆が驚くが、しかし家重は全く関心を示さず、途中で退席してしまう。
 この態度に、吉宗と家重の間は冷え切ってしまう。しかし、浜御殿での象とのかかわりで、吉宗と家重の父子の関係は修復し、やがて家重は9代将軍を立派に勤めあげる。

 確かに家重は、象と最初に対面した時、興味を示さなかったようだ。後の浜御殿の父子関係の話は、フィクションだろう。

 ★ ★ ★

 家重は、生来虚弱の上、脳性麻痺による言語障害があったそうだ。成人になっても失禁するので、侍女たちは下の世話のために、ついて回った。発する言葉は父親の吉宗でさえ理解できない。側近が傍に付いて通訳する。吉宗は、世継ぎである家重を溺愛、文武に励むように仕向けるが、大奥にこもりがちで、酒色にふけったといわれている。

 吉宗がどうして象を見たいと思ったのか、この短編でも触れられているが、石坂昌三の本に詳しい。質実剛健の吉宗は、馬より大きい象が戦(いくさ)に使えないかということを考えた。象を輸入し、浜御殿に象舎を建設した。これは、吉宗が浜御殿を、総合的な実験・研究施設に改造したことと無縁でない。
 

 浜御殿は、現在都立庭園の「浜離宮」である。甲府藩下屋敷時代に原型が築かれ、徳川家宣が6代将軍になると、将軍家の別邸として「浜御殿」と改称して大幅な改修が行われた。武芸や学問を重んじた第8代将軍吉宗は、浜御殿内に馬術訓練の為の馬場を築き、また大砲場や鍛冶小屋、製糖所、製塩所、薬草園などを設け、実学の実験場として利用したという。

 象を観察した結果、吉宗は象を利用価値なしと判断したようだ。繁殖させようと思った牝象は、長崎で死んでしまっている。享保の倹約令は、大食いの象を飼うこととは矛盾した。吉宗は、象を飼うことに、興味が薄れてしまうのだ。

 異国から連れて来られた孤独な、寂しい享保の象が、やがて栄養失調と冬の寒さで死んでしまう。このことは、この本に触れていないが、題名のロンリー・エレファントは、あわれなこの象の行く末をこの表わしているのだろうか。

 長崎から江戸へ旅した享保の象の全体像が、だいぶ明らかになって来た。

2012年5月16日 (水)

三ツ峠山

 2012/5/13(日) 富士山周辺の山、「三ツ峠山」に日帰り山行。天気は快晴。 
    
 開運山(1,785m)、御巣鷹山(1,775m)、木無山(1,732m)の三山を合わせて、「三ツ峠山」という。古くから富士山展望の山として親しまれ、山頂近くの岩場はロッククライミングのゲレンデとして有名。日本200名山。   

 自宅を6:15出発。中央高速の談合坂SAで休憩10分、8:05河口湖ICで高速を降り、国道137号へ。「御坂(みさか)みち」を北上する。御坂みちは、河口湖から御坂峠を越えて、御坂町に至る旧道。御坂町は、山梨県中部の東八代郡に属した町で、現在は合併して笛吹市となっている。 

 御坂トンネル手前のバス停「三ツ峠入口」で、三叉路を右折し「三ツ峠登口」へ。登山口の標高は、1,230m。更に徒歩だと15分先に、樹林の中にトイレと駐車場を備えた「登り口」があり、8:40に到着。

 好天の日曜日で、登山客は多い。駐車スペースも満車に近く、かろうじて止められた。樹林は新緑で、清々しい。

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 9:05登山開始。樹林の中の幅広の道を辿り、左に砂防ダムが見えると、右折して沢と分かれる。ジグザグの急登を過ぎると、やがて緩やかな登りとなる。

 「三ツ峠山荘」と「四季楽園」への分岐で戸惑う。結局、分岐はこの先で合流するが、 「三ツ峠山荘」への右の道を選ぶ。

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 尾根に「三ツ峠山荘」が見えてきた。

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 「三ツ峠山荘」の手前を、右へ進むと展望地がある。10:35着。

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 展望地から、雄大な富士山が眼前に。左の茶色の裾野は自衛隊演習場、さらにその左に山中湖が見える。

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 ここが「三ツ峠山荘」。

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 山荘の前から、ロッククライミングの屏風岩を望む。

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 「三ツ峠山荘」の裏に広い展望地があり、南アルプス、北アルプス、八ヶ岳連峰、奥秩父方面の山々が眺望できる。

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 展望地を11:10出発。徒歩5分で「四季楽園」。後ろに御巣鷹山の通信塔群が見える。

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 「四季楽園」の休憩所は有料で、一人100円。トイレは200円。

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 倒れかけた道標。ここから、山頂に向かう登りになる。

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 滑り易いザレ場の急斜面を登りきると、三ツ峠山頂の「開運山」1,785mだ。11:25に到着。

 山頂の石碑の写真を撮ったら、裏側だった。表には「三ツ峠」の文字と海抜が刻んである。

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 山頂は狭いが、360度の大展望は最高。南西方向​に、雄大な富士山を仰ぐ。 眼下中央に富士急ハイランド、その右手が富士河口湖町、左手が富士吉​田市の市街地。

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 山頂から西方向は、冠雪した​南アルプスが遠景に。中景は、黒岳などの御坂山塊。近景は山頂に​向かう尾根で、左から三ツ峠山荘、展望地、四季楽園。

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 雲もなく、南アルプスがはっきり眺望できる。左から白い峰は、聖岳、悪沢岳、赤石岳。

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 南アルプス北部(右手)には、更に左から農鳥岳、間ノ岳、北岳が続く。

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 北の方向に目を移すと、甲府盆地と遠くに北アルプスが霞んで見える。

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 更に右手に、八ヶ岳連峰。中央の一番高い峰が赤岳。

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 11:40下山開始、往路を引き返す。11:50~12:30、再び「三ツ峠山荘」裏の広場(展望地)で絶景を見ながら、昼食。13:40三ツ峠登り口に到着。

 13:55登り口を出発、帰路へ。途中、河口湖温泉の「野天風呂天水」に寄る。天水は、河口湖北東岸の久保田一竹美術館のすぐ上にある。14:30から約1時間ほど、入浴と休憩。入湯料1,000円。

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 帰りの中央高速道は、予想通りの渋滞。19:00ごろ自宅に帰着。

 三ツ峠登山口からの往復だったので、楽な登山だった。歩行時間は、2時間40分(登り1時間30分、下り1時間10分)。三ツ峠山は、過去2、3回登っている。最後は雪のない1990/12/22で、20年以上前だ。記録がはっきりしないが、清八林道というのがあるので今回と同じ「裏三ツ峠コース」と呼ばれるコースだったようだ。その前は、屏風岩を通った記憶があるので、三ツ峠駅からのきつい「表三ツ峠コース」だったようだ。

 好天の登山で、帰りは温泉で疲れを癒し、中央高速の渋滞も何とかクリアし、満足のいく山行だった。幹事のHさんに感謝。

2012年5月15日 (火)

再び潮風公園

 2012/5/12(土)13:30、ゆりかもめ「船の科学館」駅で下車。

 駅舎の左手から、船の形をした「船の科学館」が見える。リニューアルのため昨秋から本館の展示は休止中。現在は、船の科学館前に係留され、永久保存されている南極観測船「宗谷」を中心とした展示になっている。

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 駅舎の右手からは、樹木の上に実物大のガンダムの上半身がのぞく。茶色の建物「ダイバーシティ」南側のフェスティバル広場に、高さ18mのガンダム立像が設置されていた。
 4月19日、お台場に「ダイバーシティ東京プラザ」がオープンした。フジテレビ本社ビルに隣接し、154店舗が出店するお台場エリアでは最大級の商業施設だそうだ。

 ガンダムの立っている広場まで行って、近くで見たかったが、移動に時間がかかりそうでやめた。

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★ ★ ★

 「船の科学館」駅から歩いてすぐに、「潮風公園」がある。先々月の3/24(土)にもこの公園に来たが、雨が降っていてゆっくり見る間がなかった。

 「13号地公園」という名称で、1974年6月に開園。東京都立の公園である。1992年~1996年に全面改修され、「潮風公園」となった。臨海副都心内では最大の公園で、「お台場海浜公園」と「東八潮緑道公園」に隣接している。都心方面から羽田空港方面までの東京港全体を見渡すことができ、見晴らしは「お台場海浜公園」よりも良いという。

 南中央口と「噴水広場」を結ぶメインストリート「水と緑のプロムナード」は、ワシントンヤシが立ち並び、南国のような雰囲気。プロムナード(遊歩道)に沿ってサクラ並木もあり、春には大島桜と 染井吉野が咲き誇る。

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 プロムナードの真ん中には噴水があり、カスケード(人工の連滝)が海岸方向に流れる。

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 プロムナードを通りぬけた海岸近くにある「噴水広場」は、夏場は特に子供達の水遊びでにぎわう。写真左手は、フジテレビ本社ビル。ここからは、東京港を180°眺めることができる。

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 南駐車場西側にある「日だまり広場」の近くには、船の形をした遊具施設「しおかぜ丸」があり、子どもたちに人気だ。

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 公園中央には首都高速湾岸線が通り、公園内を南エリアと北のエリアに分けている。この道路は途中で海底へ潜って東京港トンネルへ抜ける。海底へ潜ったところに、台形の形をした巨大な換気塔(写真中央)がそびえ立つ。その換気塔の海側にアーチ型の「潮風橋」があり、ここで南エリアと北エリアをつないでいる。対岸のビル群は、天王洲アイル。

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 噴水広場から対岸の「大井コンテナふ頭」を望む。その先の遠景(写真左手)に、羽田空港がある。

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 羽田空港から離陸した飛行機(下のパノラマ写真)が見える。海上に浮かぶ建造物は、東京湾アクアラインのトンネル換気施設である「風の塔」。

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 潮風公園の北エリアは、「街と海のプロムナード」や日時計の「夕陽の塔」、園内最大の円形広場である「太陽の広場」、「バーベキュー広場」、「レストハウス」、「ソーラー発電施設」、「島の日曜の午後」と名づけられた彫刻などがある。
 潮風公園はあまりにも広すぎて、限られたこの日の時間で、北エリアまで巡るのは出来なかった。

 「潮風公園」は緑や海と対岸のビル群が見え、またフジテレビから近いこともあって、テレビ番組のロケや写真の撮影場所として使用されることが多いそうだ。

★ ★ ★

 今日は、晴れたり曇ったりで風もあり、気温も春にしてはやや低い。14:00から16:00まで、モデルの「新庄さくら」ちゃんを噴水広場で撮影。

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 このあと新橋駅に向かい、17:00~19:00教室の懇親会に参加した。

2012年4月30日 (月)

荒船山

 2012/4/28(土)、西上州の「荒船山」に登る。

 荒船山は、巨大な航空母艦を思わせる異様な山容をしている。展望の良い艫(とも)岩までは急な稜線、そこから山頂までは平坦な森に変化する。
 2009年9月、漫画「クレヨンしんちゃん」の作者・臼田儀人さんが、この艫岩から滑落して亡くなった。日本200名山の名峰である。 

◆ ◆ ◆

 6:15自宅を出発。上信越道の下仁田ICから、国道254号を佐久方面に向かって走る。途中コンビニで、弁当とお茶を購入。
 内山トンネルを過ぎたらすぐ、鋭角に左折し旧道を走ると、内山峠(標高1,070m)の駐車場に8:20着。

 駐車場奥に登山口があり、8:35登山開始。登山道に入れば、すぐアップダウンが続く。梯子、ロープあり、危険箇所にはロープや柵がある。荒船山の三角形の山頂?(写真下)が顔を出す。

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 9:25水が滴る巨大な岩壁の直下(写真下)に着き、休憩。ここが、「鋏(はさみ)岩修験道場跡」。

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 緩やかな下り坂に水場「一杯水」があり、小休止。急登の岩場に、梯子や手摺りを使ってとりつく。平坦部に上がると視界が開け、やがて休憩所(トイレあり)が見えてくる。

 休憩所近くの艫岩展望台に10:25到着。艫(とも)とは、船尾のこと。200mの断崖絶壁から妙義山、浅間山、佐久平、北アルプスなどが展望。

 国道254を眼下に見下ろす。

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 艫岩展望台から、真正面に見える浅間山。

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 浅間山のズームアップ。

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 浅間山の左側。左から蓼科山、北アルプス方面、佐久市街を遠望。

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 浅間山の右手。左から白根山、浅間隠山、谷川連峰、榛名山、妙義山を遠望。

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 展望台を離れ、平坦な木立と笹原の溶岩台地を進む。台地には、沢も流れる。経塚山入口で小休止。最後の急登10分で、主峰の「経塚山」(「行塚山」とも書く)1422.5mに、11:15到達。

 山頂は、船首に当たる。狭く、木立に囲まれて展望は良くない。三角点と石の祠がある。

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木々の間に、雪をかぶった八ヶ岳が見えた。

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 11:25下山開始、往路を戻る。

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 途中「皇朝最古修武之地」の細長い石碑(写真下)が、登山道の右側の笹原の中にあり、小休止。この碑は、昭和初期(9年5月)に地元の人達によって建てられた。文字の意味は、神話の時代の信州諏訪神社の神が、香取神宮と鹿島神宮の神たちと争い、荒船山の溶岩状台地が戦場になりそうだった。国が荒れると心配した天照大神は、孫であるニニギノミコトをこの地へ遣わし、三神に和議を結ばせたという言い伝えによる。

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 展望の良い「艫(とも)岩展望台」に、12:00に戻り、昼食。

 展望台を12:40に出る。「一杯水」上部の岩場は、濡れていて慎重に下る。途中小休止。
 13:20、鋏岩修験道場跡に着き、休憩。

 木々の間から、荒船山の絶壁、艫岩方面を望む。

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 この先のアップダウンの最後の登りは、疲れていて結構きつい。14:05、内山峠駐車場着。

 14:15、駐車場を出発。車窓から荒船山を振り返りながら、国道254号を下仁田へ向かう。。

 国道沿いに「荒船の湯」の看板あり。西下仁田温泉「荒船の湯」で汗を流し、1時間ほど滞在。この温泉は、町営の日帰り入浴施設で安い。町外の大人500円、町民は300円。

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 「荒船の湯」で1時間程過ごし、下仁田ICから上信越・関越道で帰路へ。自宅には、17:15着。

◆ ◆ ◆

 快晴で、初夏のような暑さだったが、山の木々の新緑はまだ早い。下仁田では、満開の桜が見られた。連休初日で高速は混まなかったが、登山客は結構いた。
 標高差は350mしかないが、アップダウンと岩場が厳しい山だった。浅間隠山、黒斑山からに続いて、今回も浅間山を仰ぐことができた。"

【データ】
 歩行タイム=4:05(登り2:15、下り1:50) 標高差=350m 歩数計=17,000歩、10Km

2012年4月26日 (木)

すばる望遠鏡

 『週刊朝日』の最新号(2012年5月4日-11日合併号)を読んでいたら、「すばるが迫る暗黒エネルギーと暗黒物質の正体」という大見出しで、「SFを越える現代宇宙論の世界-前編」というレポートがあった。

 「今夏から観測開始」、「ノーベル賞も夢じゃない」の小見出しが躍る。

★ ★ ★

 国立天文台ハワイ観測所に、「すばる望遠鏡」というのがある。ハワイ島のマウナ・ケア山の山頂(標高4,205m)にある日本の国立天文台の大型光学赤外線望遠鏡である。

 1999年1月に試験観測を、その後共同利用観測を開始している。有効直径8.2mという、当時世界最大の一枚鏡をもつ反射望遠鏡だ。システム設計・建設のほとんどは三菱電機が請け負った。建設総額は、400億円といわれている。
 すばる望遠鏡の解像力の高さは、世界の大型望遠鏡の中でも特に高く評価されているそうだ。富士山よりも高いマウナ・ケア山は、空に近くて、車で登れて、都会の明かりに邪魔されない天体観測の聖地だ。各国13の観測所が林立している。

【国立天文台「すばる望遠鏡」ホームページより】
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 10年以上前のこの望遠鏡に、新型カメラが設置されることになり、この夏からの本格的な観測が始まる。この最先端の技術によって、暗黒エネルギーと暗黒物質の正体に更に迫れるのではと、日本の研究に期待されている。

 暗黒エネルギーと暗黒物質については、今月に読んだ『ベテルギウスの超新星爆発 加速膨張する宇宙の発見』(幻冬舎新書、野本 陽代)に出てきたダークエネルギーとダークマスターというやつだ。

★ ★ ★

 宇宙の構成要素のなかで、銀河や星をつくる水素やヘリウム・・・など普通の物質は、4%に過ぎないという。大きな重力で普通の物質を引き寄せているダークマスター(暗黒物質)は、宇宙の23%を占める。残りの73%は、ダークマスター以上に訳の分からないダーク(暗黒)エネルギーが、宇宙を加速膨張させている。

 そんな訳の分からないものが宇宙にあるとは、つい最近『ベテルギウスの・・・・ 』を読むまで知らなかった。このような宇宙論は、この週刊誌のほうが素人には理解しやすい。要は宇宙はあまりにも広すぎて、銀河系の太陽系の地球にいる我々人類が分かっているのは、そのほんのわずかな塵みたいな範囲だ。大部分は、まだ謎だらけということだ。

2012年4月24日 (火)

ペテルギウスの超新星爆発

 昨年末に知人のMさんが話題を提供、それを自分と一緒に聞いた聞いた知人のIさんが紹介してくれた書籍を、やっと今月になって買って読んだ。

  『ベテルギウスの超新星爆発 加速膨張する宇宙の発見』 幻冬舎新書 野本 陽代(著)  819円(税込)

 Amazonの内容紹介には、「2012年、人類史上最大の天体ショーが始まる!? 最新ノーベル物理学賞受賞にいたる発見のドラマ!」とある。  

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 Iさんは、「本書の内容もさることながら、慶応法科出身の彼女が超新星爆発に関する本を書くことに感心した。」と言う。
 宇宙のロマンより、浮世の義理人情にも関心がある私は、著者がどんな方なのか興味があって、本書を読む前に少し調べてみた。

★ ★ ★

 著者・野本陽代(はるよ)さんの略歴は、1948年東京都生まれで、慶応法学部卒。「宇宙の膨脹が加速している」ことを発見して、2011年ノーベル物理学賞を受賞した欧米の3人の新進気鋭の学者と昔から親交がある。文科省宇宙開発委員会委員(2004年~11年)の実績を持つサイエンスライターだ。特に宇宙・天文関係の本を多数出している。

 野本陽代さんの夫の野本憲一氏は、1946年生まれ、東京都出身。東大大学院天文学博士課程終了、理学博士。専門は恒星進化論で、現在東大教授(天文学専攻)。後妻は、サイエンスライターの野本陽代である。
 

 野本憲一教授のインタビュー記事が、「東大理学部・大学院理学系研究科」のホームページにあるのを見つけた。ちょっと長いが、読んでみると面白い。
 http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/labo/02.html

 野本教授は高校時代に、「好きだった物理と歴史が、『進化』という観点で結びつく」ということに気付き、東大の天文学教室に進むことにしたそうだ。言われてみれば、天文学とはそういうことかと、気が付く。

 奥さんの野本陽代さんについて野本教授が、「彼女は慶応大法学部出身だったので、NASAに来たときに最初はロースクールに入って国際弁護士になってみようかなどと言っていた・・・」と言っています。
 またインタビュアーが、「(奥様が、)サイエンス関係の本を書くようになったのは、野本先生の研究を宣伝するためだとおっしゃられていて、夫婦二人三脚で素敵だな・・・」とあります。
 

 結婚してNASA研究員になった夫とアメリカに渡り、夫の手伝いをするうちに天文関係の翻訳(彼女は英語が得意らしい)やライターを始められたようだ。結婚後天文学を勉強し、一般の人にも分かり易い本を書いたり、講演したりという、学者の夫をサポートする別の役割を担っておられるすごい才女だということがわかる。

★ ★ ★

 ベテルギウスの超新星爆発に関する話題は、一昨年の2010年1月10日付の朝日新聞に『ベテルギウスに爆発の兆候 大きさ急減、表面でこぼこ』とのタイトルで、「オリオン座の1等星ベテルギウスで、超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されている。爆発は数万年後かもしれないが、明日でもおかしくない。」と、衝撃的な記事が掲載された。これが日本で、関心を呼ぶきっかけになったという。

本書19頁 オリオン座と冬の大三角形

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 オリオン座の中で明るく輝く赤い星「ベテルギウス」は、最近急激に大きさや質量が減っている。大量のガスを放出し、表面の盛り上がりとみられる二つの大きな白い模様(斑点)が観測され、晩年を迎えている。星の一生の最後には、自らを吹き飛ばす現象「超新星爆発」を起こし、ブラックホールになるとされる。

 「2012年に爆発か!」といった根拠のない情報も広がっているらしい。といっても、2012年には絶対ないとも言い切れない。明日かもしれなし、10万年後かもしれない。星の中をのぞいて確かめるわけにはいかないので、時期の予測は困難だ。
 朝日新聞のきっかけは、NASAのAPOD(今日の天体写真)の2010年1月6日版に、ベテルギウスの画像(パリ天文台提供、写真下)が載ったことらしい。

NASA天文写真 Astronomy Picture of the Day: 2010 January 6
The Spotty Surface of Betelgeuse  Credit: Xavier Haubois (Observatoire de Paris) et al.
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 ベテルギウスの質量は、太陽の20倍、直径は太陽の千倍ある。重いため一生は短く、まだ数百万歳(太陽は46億歳)だが、すでに寿命に近い。過去の超新星爆発は、数々の宇宙の解明に役立ってきた。地球から640光年という近くで起きる爆発は、史上初のことで、宇宙研究の膨大な情報をもたらすだろう。

 もしベテルギウスが超新星爆発したら、冬の大三角形の1つでインパクトがある赤い明るい星が無くなり、オリオン座付近の景色が一変する。超新星爆発の途中は、満月ほどの明るさになり、昼でも見える。我々は、明るさや色の変化など、いまだかつてな天体ショーを楽しむことができるという。

 爆発したら何らかの影響が地球に及ぶのではないか、大量のガンマ線を放出、地球を直撃して生命は絶滅の危機にさらされるのではないかいう心配がある。しかし、その可能性は、色々な理由で否定されており、心配ないそうだ。

★ ★ ★

 本書は6章まであるが、ペテルギウス爆発の話は、第1章のみだ。あとは、星の一生の話や宇宙論の話。

 そして最終章の第6章で、2011年ノーベル賞の「宇宙の加速膨張」の研究内容と、3人の受賞者たちの研究競争の実態が描かれている。

★ ★ ★

 宇宙のビッグバンは、「宇宙は大爆発によって誕生し、その勢いで膨張し続けて現在のようになった。膨張は現在も継続している。」というものだ。そこまでは、何となく自分自身もそう理解していた。

 しかし、膨張は加速しているのか、減速しているのか、それともどちらでもないのか。これまで研究者の間では、減速していると信じられていたそうだ。そうでなければ、宇宙に含まれる物質の量を考えた時、説明が付かないからだ。

 1998年に「宇宙の膨張は加速している!」という、とんでもない発表が飛び出した。遠方の超新星爆発を丹念に観測・解析していた成果だった。この功績で昨年2011年に、パールムッター、シュミット、リースの3氏に、ノーベル物理学賞が与えられた。

 膨張加速の説明は、以下のようだ。

 宇宙には、通常の物質とは違う性質を持つ「ダーク(暗黒)エネルギー」という、まだ誰も実証できてない、よくわからないエネルギーや、観測できない「ダークマター(暗黒物質)」と呼ばれる仮説上の物質が満ち満ちているという。
 このダークエネルギーは、物体に対して斥力の重力(反重力)を及ぼし、宇宙膨張を減速させる通常の物質による引力作用を打ち消してしまうエネルギーだ。
 こういう訳のまだ分からない宇宙のエネルギーのせいで、宇宙は加速膨張しているということらしい。

 このノーベル賞を受賞した発見は、地動説や相対性理論のように、今後の人類の宇宙観を変えるのではと、期待されているのだ。

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 本書がやさしく解説されているというが、内容を理解できるか、読み切れるか、ちょっと自信はなかった。しかしやはり第1章と6章が面白くて、わくわくしながら宇宙の神秘に引き込まれ、ボンヤリ程度理解して読み終わった。
 宇宙科学が、観測技術や解析技術などの向上で、ここ半世紀で格段に進歩したのはわかる。しかし、「宇宙とは何か」は、ますます分からなくなっている。

2012年4月19日 (木)

雨の新宿御苑

 2012/4/14(土)午前中 前回の「潮風公園」に続き、「新宿御苑」に撮影実習で行く。

 両日とも残念ながら雨。このところ、週末に雨になることが多い。

 「新宿御苑」は、江戸時代に信州・高遠藩主内藤家の屋敷があったところ。徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591)、家臣内藤清成は家康への功労・功績を認められ、現在の新宿に広大な屋敷地を拝領した。
 明治になってこの地は農業試験場となるが、後に皇室の庭園として造られたのが明治39年。戦後、国民公園として一般に開放され、厚生省その後環境庁、現環境省へと所管を移した。

 地下鉄副都心線の「新宿三丁目駅」より徒歩5分で到着。入園料は、大人200円。アルコール類や遊具の園内持ち込みを禁止しており、雨の中係員が入口で声をかけていた。

 新宿御苑では、約65種1300本の桜が楽しめる。ソメイヨシノはかなり散っているが、こんな雨の日でも入園者は結構いるものだ。4月中旬は、新宿御苑の代表的な八重桜「イチョウ」が、見ごろだそうだ。しかし、雨で寒いし、時折強い風も吹く。

雨の新宿御苑の桜

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傘をさした団体客が急ぎ足で歩いている

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エンパイアステートビルのようなNTTドコモビルが霞む

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中央休憩所で雨をしのぐ

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 午後から新宿御苑周辺のフォトギャラリーを巡るが、夕方食事会があるので、途中で退散する。

2012年4月12日 (木)

長崎から江戸へ旅した象

 享保年間に、ゾウが長崎街道を歩いて江戸の将軍に献上された。長崎街道の肥前大村に、郡川(こおりかわ)という川があり、当時は橋がなく「飛び石」が置かれていた。象は、その飛び石を大きな太い足で器用に渡った、という話を読んだことがある。

 日光東照宮に、上神庫(かみじんこ)という建物がある。ここに狩野探幽の2頭の象が彫られているが、この象は耳や尻尾などが実際の象と違っている(写真下)。想像で描いたので、「想像の象」と呼ばれる。平安時代に白象に乗る普賢菩薩の仏画が渡来したが、江戸初期の頃迄に実際の象を見た日本人は、まだ一部の人達で、正確な絵や記録がなかったのだろうか。

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 日本に最初にやって来たのは、室町時代1408年、若狭の国(福井県小浜市あたり)にインド象を乗せた南蛮船(スマトラ島からと推測される)が到着した。象は、京都の将軍足利義持に献上されたという。その後、大友宗麟や豊臣秀吉、徳川家康へと、各国から象が送られたそうだ。

 多くの日本人が見物して、象の大フィーバーを巻き起こしたのは、6代目の来日で長崎に到着した将軍吉宗に献上される象で、長崎街道から江戸へと長い旅をした。どういうルートを通ったのだろうか、海峡や川はどうやって渡ったのか、どのような旅だったのか、初めて見る沿道の庶民の反応はどうだったのか、飼育する上でどんな苦労があったのか、興味はつきない。

 しばらくこの話にはまってしまって、いろいろ資料を調べてみた。書籍もいくつか出ているようだが、すでに古本になっている次の本(写真下)を手に入れて読んでみた。

 石坂 昌三(著) 『象の旅―長崎から江戸へ』 新潮社 (発売1992/05) 単行本

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 8代将軍吉宗が注文した象は、中国商人によって発注から2年後の享保13年(1728年) 6月、唐船に乗って長崎にやってきた。ベトナム生まれのオス(7歳)とメス(5歳)の2頭の仔象は、長崎に着くとしばらく、唐人屋敷の中で飼育された。

 残念ながらメスの象は、まもなく死んでしまう。生き残ったオスの象は、春を待って、翌年3月13日に長崎を出発した。海路か陸路かという問題があったが、シケで遭難の恐れもあり、当時は長崎から江戸までの幹線はだいぶ整備されていたので、陸路を選ぶことになった。長崎奉行の役人、ベトナム人の象使いの総勢14名に守られ、長崎街道から、山陽道、東海道を通って、江戸城まで歩く。

 街道沿いの藩や宿場には幕府から通達が出て大騒ぎだった。道の清掃、象の飲み水と大量の飼料の準備、拍子木や寺の鐘は鳴らさないこと、牛・馬や犬・猫は近づけないこと、街道には縄を張り見物で騒がないこと、など全国の街道沿いで一斉に行われたという。

 浅い川は、そのまま象が歩いて渡り、橋は補強したりして、ゆっくり渡ったそうだ。自力で渡れない川は、イカダを組んだり、船を並べたりして渡河した。こういった費用は幕府が負担したわけでなく、街道の藩、町や村がほとんど負担したようだ。

 3月24日に小倉城下の宝町に到着、このうわさを聞いて集まった人々でお祭りのように賑わった。翌日は、藩主小笠原忠基が訪れ見物した。関門海峡は、石船(石材を運搬する船)に載せ、遭難しかけながらも なんとか渡った。

 4月20日に大阪に到着し4日滞在、26日には京都へ到着し3日滞在した。御所では、時の中御門(なかみかど)天皇や霊元法皇に前足を膝間づいて謁見。感激した天皇、法皇は、その和歌を残している。天皇と謁見するため、象はあらかじめ「広南従四位白象」という位を授かった。

 揖斐川は水没しながらも歩いて渡り、長良川と木曽川では馬を運ぶ馬船を2隻つなぎ、その上に象小屋を作って運んだ。浜名湖の北側にある姫街道に迂回した時には、あまりの急坂に象が悲鳴をあげたという難所があり、ここを村人は「象鳴き坂」と名付けた。天竜川と大井川は、歩いて越えた。

 長旅の疲れと箱根峠の急坂で、5月17日箱根宿に着くとダウンしてしまう。付き添ってきた役人たちは慌てふためき、江戸城へ早馬で知らせる一方、護摩を焚いて病気平癒を祈り、象の好きな竹の子なども取り寄せ、懸命に手当をした。こんな所で象を死なせたら、役人たちは切腹ものだ。幸い象は3日間で元気になった。

 川崎で六郷川(多摩川)を渡る時は、象のために舟橋を作った。30隻の船を集めてつなぎ、浅瀬に杭を打ってそれに船をつないで固定し、舟橋を完成させ。延べ作業員約800名、工事期間は7日間だったが、このあと舟橋は直ちに解体された。舟橋は、大名の参勤交代の折りにも各地で架けられたが、使用後にはやはり解体されていたそうだ。

 象の旅は350里(約1,400km)、およそ74日掛かって、5月25日に江戸に到着。27日江戸城に参上、将軍、諸大名の前で曲芸を披露した。そして、将軍の別邸である浜御殿(現在の浜離宮)で、飼われることになる。江戸城にも度々参内し、大名や江戸の町民たちが見物し、瓦版にも紹介された。

 民衆のあいだで、「象さまブーム」が巻き起こった。象の絵が描かれた瓦版は瞬く間に売り切れ、双六などのおもちゃ、象のキャラクターグッズ、『象志』や『訓象俗談』といった象に関する雑誌も出版された。歌舞伎の演目の一つに、『象引(ぞうひき)』というのがあるそうだが、これもこの頃に創られたのではないかといわれている。(写真下は、『[享保十四年渡来]象之図』)

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 10年以上浜御殿で飼われていたが、飼育係が象に殺されるという事件があり、中野村の百姓・源助という人物に払い下げられた。源助は、見世物にして木戸銭を取ったり、土産の象饅頭を売ったりした。そのうち大量の飼料調達に耐えられなかったのか、1年以上経って寛保2年(1742年)12月、象は21歳で死んでしまった。死因は、餓死と凍死によるものだった。源助は、頭骨と牙を「宝仙寺」に納めて、供養した。牙の一部が、宝仙寺に今でも残っている。
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 この本が出版されてもう20年も経つ。活字も小さく、難解な漢字も多く、ところどころに古文書が引用されていたりして、読解に苦しんだ。しかし、この享保の象の話は、我々の夢やロマンをかきたてる。長崎から江戸までの距離を、まだ成獣になっていない仔象を歩かせたことは、世界でも例のないことだったようだ。徳川中興の祖である吉宗は、何にでも興味を示す人でもあったが、二三度象を見たら興味を無くしまった。やがて象ブームが去り、幕府は倹約令の手前、象は厄介者になってしまう。異国から日本に連れてこられた将軍の象は、人間たちの勝手で哀れな最期であった。

 著者の石坂昌三は、日刊スポーツ新聞社で映画担当記者をつとめ、退社後映画評論家として活躍、「巨匠たちの伝説―映画記者現場日記」、「小津安二郎と茅ケ崎館」などの著書もある。あるきっかけで、安南人の象使いに曳かれて歩く象の絵を見て、この「象の旅」に興味を持ったという。著者とって少し畑違いと思われるこのドキュメンタリーは、書き下ろすまでに大変な労力や苦労があったのだろう。資料や古文書のコピーを集め、また実際に象が通った街道の一部を歩いてみたりしている。読むと結構、関連する歴史や地理にも詳しく、学ぶことも多かった。この象の話を司馬遼太郎だったら、どのような歴史的な観点で書いたのだろうか、人間模様をどう描いたのだろうか、もっとこの話が有名になっていただろうか、など想像してみたりする。石坂昌三は、2003年4月、70歳で亡くなっている。

 街道沿い各地には、まだまだ本書に書かれていない、象が通った時の記録や絵、言い伝えがたくさん残っているようだ。街道の菓子屋には由来の象まんじゅうが売られていたり、博物館や資料館には由来の象をかたどった装飾品や絵などあったりする。

 先日「戦火の馬」というスピルバーグ監督映画を見た。これは奇跡の馬と人間との絆の話であるが、この象の話も、もっと小説とか映画、テレビドラマになっても、おかしくない。

 長崎歴史文化博物館で、特別企画展「珍獣?霊獣?ゾウが来た!」が、20012年4月21日(土)~6月10日(日)で開催されるそうだ(写真下)。江戸時代、長崎には2度象がやって来たが、その当時の象をテーマにした史料が展示、講演もある。ぜひ観覧したいものだ。

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2012年4月11日 (水)

夢灯路と上沼・下沼公園の夜桜

 2012/04/08(日)18:00~、東松山夢灯路実行委員会主催による「第8回東松山夢灯路」へ行く。

 男沼(上沼)会場、中央会場(材木町)、女沼(下沼)会場に分かれて、和太鼓やハワイアンなどのライブ、東松山名物のやきとりの模擬店などが、7日(土)~8日(日)で開かれている。

 灯籠の明かりで照らす灯路は、桜の名所の上沼公園と下沼公園の小路を結び、松山神社や東松山駅を経て箭弓神社まで続いている。

下沼公園の夜桜

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上沼公園の夜桜

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 昨年は震災の影響で、中止だったそうだ。初めての見物で、もっと足の踏み場もないほどの混みあっていのではと想像していたが、それほどでもなく賑わっていた。

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